earth-magnetic2

  ソドムとゴモラの滅亡

 もともと現在のメソポタミアの辺りに住んでいたと考えられているアブラハム一族は、神が示すままにはるばる旅をしヨルダン川流域にたどりつき、アブラハムはそのサレムのあった土地を、約束の地として神から授けられました。

     2818d276

 しかし、一族の人数に比べて土地が狭く争いが起きたので、ロトは水が豊富なヨルダン川流域の低地に、アブラハムは荒れたカナンの地に別れて暮らすことにしました。
 
 そして紀元前1900年ごろ、アブラハムの甥に当たるロトはそののち、低地を離れてソドムに移住しました。
 ソドムとゴモラは、ロトが移住する以前から悪事がはびこる街として有名でした。
 神はソドムとゴモラを滅ぼそうとしますが、いったんはアブラハムのとりなしを受け正しい人が10人いれば滅ぼさないと約束します。
 そして、ソドムへ2人の主からの使いが町に来てソドムとゴモラは滅ぼされることが決まってしまいます。
 使いたちはロト一家を救うため、ロトと妻、2人の娘の手を引いて町外れに連れ出します。
 そこから近くの町までロトが逃げてから、神は天から硫黄の火を降らして、ソドムとゴモラを滅ぼしました。
 せっかくソドムから逃げ出したロト一家ですが、神が「逃げる途中、けっして後ろを振り返ってはならない」と告げたにもかかわらず、ロトの妻は後ろを振り返ったため塩の柱になってしまったといいます。

       hg0097lls

       ghckhg673

       kZFIW6ooS

  創世記 第18章

 主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。
 それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。
 彼はこれを見て、天幕の入口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、言った、「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。
 水をすこし取ってこさせますから、あなたがたは足を洗って、この木の下でお休みください。
 わたしは一口のパンを取ってきます。元気をつけて、それからお出かけください。せっかくしもべの所においでになったのですから」。彼らは言った、「お言葉どおりにしてください」。
 そこでアブラハムは急いで天幕に入り、サラの所に行って言った、「急いで細かい麦粉三セヤをとり、こねてパンを造りなさい」。
 アブラハムは牛の群れに走って行き、柔らかな良い子牛を取って若者に渡したので、急いで調理した。
 そしてアブラハムは凝乳と牛乳および子牛の調理したものを取って、彼らの前に供え、木の下で彼らのかたわらに立って給仕し、彼らは食事した。
 彼らはアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。
 彼は言った、「天幕の中です」。
 そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。
 さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。
 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。
 主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。
 主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。
 サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。
 主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。
 
 その人々はそこを立ってソドムの方に向かったので、アブラハムは彼らを見送って共に行った。
 時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。
 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。
 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。
 
 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、
 わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。
 その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。
 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
 たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。
 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。
 正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
 
 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
 
 アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。
 もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。
 主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。
 アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。
 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。
 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。


 主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。
 それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。
 彼はこれを見て、天幕の入口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、
 言った、「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。 (創世 18:1-3

 「マムレのテレビンの木」のマムレとは、14章13節によるとアモリ人のエシコルとアネルという人物の兄弟の1人であることが記されています。


 時に、ひとりの人がのがれてきて、ヘブルびとアブラムに告げた。
 この時アブラムはエシコルの兄弟、またアネルの兄弟であるアモリびとマムレのテレビンの木のかたわらに住んでいた。
 彼らはアブラムと同盟していた。 (創世 14:13

 この時代なのか習わしなのかは明らかではありませんが、木を個人の所有としていたと思われる箇所が、ここのほかにも創世記12章6節で「モレのテレビンの木」と記されています。
 おそらくこの「モレ」も個人名ではないかと推測されます。
 
 アブラハムに訪れた3人が、主と霊体の天使だという誤った解釈がありますが、ジョセフ・フィールディング・スミス長老はこう述べています。

 「天父がほかの天界の者とともに地上を訪れ、ちりにまみれ疲れて、アブラハムとともに食事をされたと教えるのは正しくない。
 創世記 第18章ではそのようなことを教えていない。
 『主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた』と書かれているだけで、これはそのとおりである。
 この節の後半は主がアブラハムに姿を現したこととは無関係であって、まったく新しい節、または文として読むべきである。
 すなわち、『それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。』
 この3人は地上の人であった。
 彼らには肉体があり、食べたり水浴びをしたりできたし、疲れを休めるために座って休憩を取った。
 この3人はどの人も主ではなかった。」 (『救いの教義』 1:16)

  創世記 第19章

 そのふたりのみ使は夕暮にソドムに着いた。
 そのときロトはソドムの門にすわっていた。
 ロトは彼らを見て、立って迎え、地に伏して、言った、「わが主よ、どうぞしもべの家に立寄って足を洗い、お泊まりください。そして朝早く起きてお立ちください」。
 彼らは言った、「いや、われわれは広場で夜を過ごします」。
 しかしロトがしいて勧めたので、彼らはついに彼の所に寄り、家にはいった。
 ロトは彼らのためにふるまいを設け、種入れぬパンを焼いて食べさせた。
 ところが彼らの寝ないうちに、ソドムの町の人々は、若い者も老人も、民がみな四方からきて、その家を囲み、ロトに叫んで言った、「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」。

 ロトは入口におる彼らの所に出て行き、うしろの戸を閉じて、言った、「兄弟たちよ、どうか悪い事はしないでください。
 わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。
 わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。
 ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください」。
 
 彼らは言った、「退け」。
 また言った、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」。彼らはロトの身に激しく迫り、進み寄って戸を破ろうとした。
 その時、かのふたりは手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた。
 そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、彼らは入口を捜すのに疲れた。
 ふたりはロトに言った、「ほかにあなたの身内の者がここにおりますか。あなたのむこ、むすこ、娘およびこの町におるあなたの身内の者を、皆ここから連れ出しなさい。
 われわれがこの所を滅ぼそうとしているからです。人々の叫びが主の前に大きくなり、主はこの所を滅ぼすために、われわれをつかわされたのです」。

 そこでロトは出て行って、その娘たちをめとるむこたちに告げて言った、「立ってこの所から出なさい。主がこの町を滅ぼされます」。しかしそれはむこたちには戯むれごとに思えた。
 夜が明けて、み使たちはロトを促して言った「立って、ここにいるあなたの妻とふたりの娘とを連れ出しなさい。そうしなければ、あなたもこの町の不義のために滅ぼされるでしょう」。
 彼はためらっていたが、主は彼にあわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた。
 彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。
 ロトは彼らに言った、「わが主よ、どうか、そうさせないでください。
 しもべはすでにあなたの前に恵みを得ました。あなたはわたしの命を救って、大いなるいつくしみを施されました。しかしわたしは山まではのがれる事ができません。災が身に追い迫ってわたしは死ぬでしょう。
 あの町をごらんなさい。逃げていくのに近く、また小さい町です。どうかわたしをそこにのがれさせてください。それは小さいではありませんか。そうすればわたしの命は助かるでしょう」。
 み使は彼に言った、「わたしはこの事でもあなたの願いをいれて、あなたの言うその町は滅ぼしません。
 急いでそこへのがれなさい。あなたがそこに着くまでは、わたしは何事もすることができません」。これによって、その町の名はゾアルと呼ばれた。
 ロトがゾアルに着いた時、日は地の上にのぼった。
 主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、
 これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。
 しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。
 アブラハムは朝早く起き、さきに主の前に立った所に行って、
 ソドムとゴモラの方、および低地の全面をながめると、その地の煙が、かまどの煙のように立ちのぼっていた。
 こうして神が低地の町々をこぼたれた時、すなわちロトの住んでいた町々を滅ぼされた時、神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された。

 ところが彼らの寝ないうちに、ソドムの町の人々は、若い者も老人も、民がみな四方からきて、その家を囲み、ロトに叫んで言った、「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」。
 ロトは入口におる彼らの所に出て行き、うくろの戸を閉じて、言った、「兄弟たちよ、どうか悪いことはしないでください。
 わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。
 わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。
 ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください。 (創世 19:4-8

 多くの学者が古代中東に客をもてなして保護する厳格な慣習が広く行われていたことを理由に、ロトが2人の男の人をかばって代わりに娘を差し出そうとした、ぞっとする申し出を正当であると解釈しています。 
 しかし、ジョセフ・スミスは、ロトがソドムの人たちの不義な退廃した欲望を満足させることを拒んだときにソドムの人々が怒り、男の人たちだけでなく娘たちも連れていくといったと記録しています。


 そして、彼らはその人に言った。
 「あの男たちを、おまえの娘たちをもらおう。そして、好きなようにさせてもらう。」
 さて、これがソドムの流儀であった。 (ジョセフ・スミス訳 創世 19章)


 彼らはロトに、「退け」と言った。彼らは彼に腹を立てていた。
 そして、彼らは互いに言った。「この男は渡って来たよそ者であるのに、裁き人になろうとする。今、我々は彼らに加えるよりも、この男に多くの害を加えよう。」
 そして、彼らはその人に言った。「あの男たちを、おまえの娘たちをもらおう。そして、好きなようにさせてもらう。」
 さて、これがソドムの流儀であった。
 そこでロトは言った。「御覧ください。わたしにはまだ男を知らない娘が二人います。どうか兄弟たちよ、娘たちを差し出さなくてもよいようにしてください。娘たちに好き勝手なことはしないでください。
 神の僕がそのようなことをするのを、神は義とはされないからです。
 ですから、兄弟たちよ、もう一度だけお願いします。この人たちに何もしないで、わたしの家に安らかにいられるようにしてください。わたしの屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」
 すると、彼らはロトに腹を立て、進み寄って戸を破ろうとした。
 しかし、聖なる人々である神の天使たちは、手を伸べてロトを家の中に引き入れ、戸を閉じた。

 ロトはゾアルを出て上り、ふたりの娘と共に山に住んだ。
 ゾアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘と共に、ほら穴の中に住んだ。
 時に姉が妹に言った、「わたしたちの父は老い、またこの地には世のならわしのように、わたしたちの所に来る男はいません。
 さあ、父に酒を飲ませ、共に寝て、父によって子を残しましょう」。
 彼女たちはその夜、父に酒を飲ませ、姉がはいって父と共に寝た。ロトは娘が寝たのも、起きたのも知らなかった。
 あくる日、姉は妹に言った、「わたしは昨夜、父と寝ました。わたしたちは今夜もまた父に酒を飲ませましょう。そしてあなたがはいって共に寝なさい。わたしたちは父によって子を残しましょう」。
 彼らはその夜もまた父に酒を飲ませ、妹が行って父と共に寝た。ロトは娘の寝たのも、起きたのも知らなかった。
 こうしてロトのふたりの娘たちは父によってはらんだ。
 姉娘は子を産み、その名をモアブと名づけた。これは今のモアブびとの先祖である。
 妹もまた子を産んで、その名をベニアンミと名づけた。これは今のアンモンびとの先祖である。 (創世 18:30-38

 ロトとその2人の娘たちとの近親相姦の記述には驚かされますが、これも『旧約聖書』が人々の善も悪も記録しているということを例証する1つの記述です。
 2人の娘のした邪悪な行いを正当化する余地はありませんが、しかしこの場面は2人の娘たちがソドムとゴモラを襲った大破壊のために全世界も滅んでしまい、2人が子供をもうける唯一のよりどころとしてはロトしかいないと思い込んだと考えたときによく理解できると思われます。

 モーセがこの部分を記録したのは、この出来事がモアブ人アンモン人の始まりについて述べたものであって、この2つの民族がイスラエルの民の歴史の中で重要な役割を果たすからであったと考えたからかもしれません。

 モアブ人とは死海東岸のモアブ地方に定住、建国したロトの子孫で、イスラエル人と闘争を繰り返した民族です。
 アンモン人はイスラエルとは敵対的関係にありました。
 ソドムとゴモラの悪はどのようなものであったかは創世記の記述を読むかぎり、この2つの都市の住民が極端に不道徳になって同性愛をはじめ、あらゆる悪弊にふけっていたことが分かります。

 エゼキエルは次のように述べています。 

 
 見よ、あなたの妹ソドムの罪はこれである。
 すなわち彼女と、その娘たちは高ぶり、食物に飽き、安泰に暮らしていたが、彼らは、乏しい者と貧しい者を助けなかった。
 彼らは高ぶり、わたしの前に憎むべき事をおこなったので、わたしはそれを見た時、彼らを除いた。 (エゼキエル 16:49‐50

 ヤコブは、汚れのない信仰とは、「困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まらずに、身を清く保つことにほかならない」(ヤコブの手紙 1:27)と述べています。

 ソドムとゴモラは、性的放縦の不道徳に耽っただけでなく、困っている同胞をも顧みなかったため滅ぼされました。


 主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。
 しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。
 アブラハムは朝早く起き、さきに主の前に立った所に行って、
 ソドムとゴモラの方、および低地の全面をながめると、その地の煙が、かまどの煙のように立ちのぼっていた。
 こうして神が低地の町々をこぼたれた時、すなわちロトの住んでいた町々を滅ぼされた時、神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された。 (創世 19:24-29) 

       o06l65250364

         ytdir4573

       om00140770

 神が降らせたという「硫黄と火」とは何でしょう。
 すぐに思いつくのは火山の噴火ですが、死海近辺に火山はありません。
 ただ、この一帯は石油や天然ガスなどが豊富な土地なので、これらに引火して大火事になった可能性もあります。
 死海周辺で見つかった遺跡には、火災の跡が残っている物もあるのです。


 1924年にアメリカの聖書考古学者W・F・オルブライトは探検隊を組織して死海付近を探索し、紀元前2000年ごろの住民が突然消え失せたことを示す証跡を発見しました。
 そこには多数の土器や火打石、そのほかさまざまな遺物が発見されましたが、それらはその地域がそのときまで人口が密で繁栄していたことを示していました。
 そしてそこの住民は、突然消失し以後その地方は、ひどく荒廃してしまったことを示していたのです。
 カイル博士は、こう述べています。
 「ウスドゥムの丘の地下には厚さ50mの岩塩の層があって、その上に遊離した硫黄の混じった泥灰層がある。
 もし神が、そのガスに点火されたなら大爆発が起こって塩と硫黄とが灼熱したまま天に放出され、文字どおり硫黄と火が天から降ったであろう。」

 実際、古くからの伝説によれば、ソドムとゴモラが壊滅したとき、死海の南端付近(ソドム・ゴモラのあった所)で、地勢の大変動、また大地震がおこったと伝えられています。
 この地勢の大変動によって地中の天然ガスが天高く噴出し、それに引火して空中で大爆発が起きたのでしょう。
 そして文字どおり硫黄と火が降ったのです。
 
 死海付近の遺跡を調査したところ、、破壊された5つの都市全部で硫黄の玉が発見されました。
 これら硫黄の玉は、高熱で焼かれた状態で、自然の状態で掘り出される状態とは違っていました。
 所々に焼かれた粘土と木炭の残骸も見つけることができます。

 ロトの妻が塩の柱になったという記述に、これまで数多くの注釈者がこれは文字どおりなのか象徴なのかで悩ませています。
 実際にロトの妻が塩の柱になり、また加えて象徴も含んでいると思います
 天から降る「火」とは、超高熱プラズマとも考えられ、「硫黄」は黄泉(霊の獄)を従えているという比喩的表現とも考えられます。


 さて見よ、わたしはあなたに言う。
 そのときに死がやって来る。第二の死、すなわち霊の死がやって来る。
 それは、肉体の死に関してのあるまま死ぬ者が霊の死をも受ける時である。
 まことにその人は、にかかわることについて死ぬのである。
 それは、彼らの受ける苦痛が、炎がとこしえに立ち上って消えることのない、火と硫黄の池のようになる時である。
 またそれは、彼らがサタンの力と束縛によって鎖をかけられて、永遠の滅びに至る時である。
 それは、サタンが意のままに彼らを従わせてしまったからである。
 またあなたに言う。
 そのとき、彼らはあたかも贖いがなかったかのようになるであろう。
 彼らは神の正義によれば、贖いを受けることができないからである。また彼らは、もはや朽ちることがないので、死ぬこともできない。」 (アルマ 12:16-18

 ソドムとゴモラが滅亡したのは、紀元前1900年ごろです。
 両方の街が主にプラズマで破壊され、後ろを振り向いたロトの妻が塩の柱になりました。

 プラズマは原子間のつながりを切り離すため、早稲田大学の大槻義彦研究室で行われたリンゴでの実験からも、ロトの妻の死に方が明らかにできました。
 その実験では、リンゴから瞬時に水分が蒸発し脱水現象が起こり、そののち急激な灰化現象が起きたのです。

 ロトの妻はソドムとゴモラの住人と同じくそうやって瞬時に水分が抜け塩と灰の柱となって死んだと考えらます。
 そして、「うしろを顧みた」の言葉が「引き返した」あるいは「ソドムに戻った」の意味の1つの表現法であったことを示す形跡が聖文に2か所あります。
 
 『新約聖書』の中にキリストが弟子たちに向かって、やがてエルサレムが滅びると警告していますが、それはそのときに遅れずに逃げ、自分の持ち物を取りに家に入るなと警告しました。


 その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。
 畑にいる者も同じように、あとへもどるな。
 ロトの妻のことを思い出しなさい。 (ルカ 17:31-32

 これらから、ロトの妻はソドムに向かって戻ったと解釈できることを暗示していると思われます。
 つまり「うしろを顧みた」とは、ただ体が後ろを見たのではなく正しい先へ前進するために捨てるべきだった、この世的な考え、財産、物欲などに引かれ、町に戻ったことを意味します。
 おそらくは何か財産を取りに戻ったものでしょうが、結局は滅びにあってしまいました。
 
 教義と聖約には、創世記 第19章26節と同じ言葉を使っている聖句があります。
 

 しかし、まことに、主はこのように言われる。
 「あなたがたはあわてて逃げることなく、むしろ、万事をあなたがたの前に備えるようにしなさい。
 そして、突如として滅びが襲うことのないために、去る者は振り返ってはならない。」』 (教義 133:15
 
 アブラハムのおいのロトは、ソドムとゴモラに住んでいました。
 そこは、この世の罪悪の象徴となったきわめて邪悪な町です。
 ロトは家族を連れて町から逃れるように告げられました。
 その途中、ロトの妻が後ろを振り返りソドムとゴモラに引き返そうとして、死んでしまいました。


 その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。
 畑にいる者も同じように、あとへもどるな。
 ロトの妻のことを思い出しなさい。 (ルカ 17:31-32

 1度この世を捨てた人は、振り返ると、バビロンを待ち受ける滅亡に巻き込まれてしまいます。
 ほとんどの学者の間で、ソドムの位置について、現在の死海の南部の湖底に沈んでいる点でほぼ一致しています。
 死海はかなり塩分濃度が高い湖でもしロトの妻がソドムに戻ったのなら、死んでしまったでしょう。
 ロトの妻が塩の柱になったというのは、この結果を象徴的に表わしたものと考えられます。

 しかし、ロトの妻に何が起こったにせよ彼女が警告を無視してソドムに戻り滅んでしまったのは明らかです。
 旧約聖書ではソドムとゴモラの2つの町が滅んだとされていますが、旧約外典ソロモンの知恵には、以下のようにあります。
 
 
 知恵はまたソドムの不敬な者たちの滅びた時、五つの町に下った火から逃れた義人、ロトを救った。 (ソロモンの知恵 10:6)
 
 ソドムとゴモラ以外に、3つの町に火が降ったと記されています。
 ソドムとゴモラを炎で焼き尽くした事件は、誕生したばかりの金星の接近によって起きたものと思われ、そののちに金星は再度地球に接近しインド北部を焼き亡ぼし、モーセの紅海割れの奇跡を起こしたのです。
 シナイ半島には、その大きさゆえ宇宙からしか観測できない地表の「傷跡」が残されています。
 傷跡から北に向かって広大な平野が開けていますが、地平線上にそそり立つ山々と平野の黒い土壌がくっきりとしたコントラストをなしています。 

       plk398753861

 この傷跡では黒いガラス状の物質テクタイトが見られ、高温で溶けた岩石が急激に冷えてできた物質です。
 この地域のテクタイトは、火山や隕石による物だけではなく、金星の接近によるプラズマ発生の超高温で生成された物もあるのです。



  インド大陸の衝突
 
 現在のインドの民族には多数の種族があり、そして混血が行われています。
 タミル人は、現在は主に南インドのタミル・ナードゥ州スリランカの北部・東部に住み、タミル語を話す人々です。

 古代タミルの伝説の中にインド亜大陸には大昔に文明があって、「アスカ」とも「ナワラム」ともよばれていたと、古代インドの伝説に残されています。
 ナワラム文明は、インド洋に存在した幻の巨大大陸「レムリア大陸」と思われていますが、実際はナワラム文明のレムリア大陸とは、大陸移動中のインド亜大陸です。


 レムリア大陸とは、イギリスの動物学者フィリップ・スクレーターが1874年に提唱した、インド洋に存在したとされる仮想の大陸です。
 アフリカのマダガスカル島にはキツネザルが生息しており、この仲間は世界中でここからしか知られていません。
 しかし、化石種がインドから発見されており、また近縁の原猿類はこの島を挟んでアフリカ中部と東南アジアのマレー半島・インドネシアにのみ生息します。
 このようにインド洋を隔てた両地域には近縁な生物が見られます(隔離分布)。
 これを説明するために、スクレーターはインド洋にインドの南部、マダガスカル島、マレー半島が合さった大陸が存在したのではないかと考え、キツネザル(レムール)にちなみ「レムリア大陸」と名付けました。

 大陸移動中のインド亜大陸は、かつてインド洋沖に存在したとされ、首都の名を「南マドゥラ」とよびました。
 ところが、それほどのナワラム文明は、インド亜大陸ユーラシア大陸の大衝突のときに、ヒマラヤ山脈が形成される時の大地殻変動の中で滅亡したのです。

 この衝突は、大地が分かれ始めた紀元前2200年ごろから紀元前2000年ごろだと思われます。
 地球膨張の時代がしばらく続いたのち、やがて本格的な大陸移動が始まり、超大陸パンゲアは分割されました。

         fgj4378177

         nbcm70763

             15411995
 
 プレートテクトニクスでの海洋底拡大のデータを用いて、中生代初期ころの地球半径は現在値の約80%(約5100km)だったろうとしています。
 牛来正夫教授は、現在の半径の約87%だったろうとしています。
 ノアの時代の洪水以前の地球は、現在の半径より約15%は小さかったと考えられます。

 原始地球において丸い形をしていた大陸は、ノアの時代の洪水後の地球膨張で、真ん中から「く」の字に裂けました。
 そして、ノアの時代の洪水を起こした惑星と月が地球に接近し潮汐作用で地球の内部がかきまわされたため、内部圧力が急に弱まり地球内物質が相転移を起こし、現在の大きさまで膨張したのです。
 
 地球内部は超高温高圧下で、地上から2900km下までを固体のマントル層が占め、そこから5100kmまで流体の外核が占め、そこから中心までを金属の内核が占めているとされます。
 マントル層に異変の跡が残されています。
 マントルは、かんらん岩を主成分とする固体で、地表から670km付近を境に上部マントルと下部マントルに分かれています。
 同じマントルでも組成が変化していることが相転移が起きた証拠です。

  天地創造と地球のバプテスマ


 インド亜大陸はアフリカ大陸から分かれ、そのまま北上しユーラシア大陸に激突します。
 その結果、激突帯では行き場を失った物質が上へせり上がり、大きなヒマラヤ山脈を形成しました。
 ヒマラヤもアルプスも分かれた陸地同士の大衝突により、比較的短時間で形成されたものです。

      66edb077bb

           IndiaMoving-revised

       himalaya

     slide_89
 
 


 エベレスト山をはじめ、高山の頂上の岩石は水中に沈殿・堆積してできた堆積岩です。
 エベレスト山頂部の地層からは、アンモナイトなどの海の生物の化石が出てきます。
 かつてヒマラヤ山脈一帯は海底だったのです。
 それが急激な大地殻変動により隆起した結果、現在のような高さになったのです。

      779mk87

       7986hgj

 地球にはもともと大陸が膨張し大陸移動するの過程の中でインド亜大陸はアフリカと陸続きでした。
 それから分裂しインド洋を北上して、ユーラシア大陸と激突し、それによって造山運動が起こりヒマラヤ山脈ができました。
 インド亜大陸はユーラシア大陸に衝突し反時計廻りに回転しました。

         76203365
         エベレスト山頂のウミユリの破片 楕円形の破片が約1mm 

         1jko9136
        エベレスト山頂の三葉虫の断面(横幅約1mm)、黒い楕円体は海生生物の糞の化石

           Saligram
                ヒマラヤアンモナイト 

 インド亜大陸とユーラシア大陸との大衝突による大地殻変動は、ヒマラヤ山脈を形勢する程巨大でインドにあった文明が無事であったとは思えません。
 巨大な衝突エネルギーは、インド全体を破壊し断続する巨大地震によって地が裂け、山頂が低くなり谷が上昇し海に近い地には巨大津波が襲ったでしょう。
 それでも生き延びた人々もいたからこそ、インド洋上の伝説の大陸の伝承を後世に残したのです。
 
 インド大陸がユーラシア大陸と激突したのちは、アジア一帯に広がっていたセムの子孫やセムの子孫のアブラハムの一派がやって来ました。
 そして、セムの子孫(有色アジア人)とハム系(黒人)が混合しました。

       aborigini

 DNAの研究から、南インドのドラヴィダ人アボリジニは同系統といわれています。
 生き延びた人々の子孫が今のタミル人として生き残り、インドのタミル・ナードゥ州一帯からスリランカ北東部、そしてマレーシアに住んでいます。

         3pM3iYDv

       missindia

       Chenchu_women

       bngferty

 タミル人はインドの中でも特異な文化をもち、明らかに紀元前13世紀ごろインドに進入してきた現在のインドの大多数を占めるアーリア人とは違っています。

 ノアの時代の洪水以後、世界に広がった人種は大きく3つで、セムの子孫(有色アジア人)、ハム系(黒人種のネグロイド)、ヤペテ系(白人種のコーカソイドアーリア)です。
 主にセムの子孫はアジア一帯、ハム系はアフリカ大陸一帯、ヤペテ系は北西ユーラシア一帯に広がりました。

         fgj4378177

 インド大陸はアフリカ大陸と陸続きだったため、本格的に大陸移動が始まったバベルの塔崩壊後、インド大陸にはハム系の民族がいました。
 高速移動するインド大陸にやって来たハム系の民族は、インド大陸の広い範囲に広がりました。
 インド大陸がユーラシア大陸と激突したのちは、アジア一帯に広がっていたセムの子孫やのセムの子孫のアブラハムの一派がやって来ました。



  インダス文明
 
 古代インドでは、ドラヴィダ人のインダス川でインダス文明が栄えました。
 パキスタンモヘンジョダロ遺跡やハラッパー遺跡は、その代表的な遺跡です。

       795443

 そののち、ガンジス川流域にアーリア人の文明が成立しました。

           mlph11

 きわめて綿密な計算の上に都市をデザインしたインダス文明です。
 都市は城塞と市街地に分けられ、城塞には各種の公共施設があり、市街地の外には墓地が置かれていました。
 市街地は整然と碁盤目状に区画された大通りや小路に焼煉瓦でできた家々が建ち、井戸や炊事場、洗濯場がありました。

 大通りの地下には下水道が整備され、清掃用のマンホールもありました。
 しかし、権力を象徴するような王宮や王墓、神殿が発見されておらず、政治の様子は分かっていません。
 赤地に黒の彩文土器、石器、青銅製の武器や人像、石製の印章(そこに刻まれたインダス文字は未解読)を使用し、メソポタミアとも海上交易を行っていました。

           12ced

 インダス文明はドラヴィダ系の民族が担っていたと考えられ、ヒンドゥー教のシヴァ神に似た像も見つかっており、現在まで続く南アジア文化へ影響を与えたと推察されます。 (参照

 インダス文明はインドおよびパキスタンのインダス川周辺に栄えた文明で、現在南インドを中心に暮らしているドラヴィダ人により造られたと推定されています。
 考古学上はハラッパー文化とよばれ、パキスタン、パンジャブ州のハラッパーを標式遺跡とします。
 インダス文明発見のきっかけとなったハラッパー都市遺跡は、1986年以降アメリカ隊によって新たな発掘調査が進められ市街地の市門の発見など大きな成果をあげています。        
 
 考標式遺跡とは、古学上の、遺構、遺物又はその一連となる関連性の集合として定義される特定の型式、形式、様式、あるいは、年代、文化期、文化層の命名、簡単に言えば時期区分名命名のきっかけを与えた遺跡、あるいはその基準となる遺構、遺物が検出された遺跡自身のことです。


 

 

 
 堅固な城塞、整然とした碁盤目状の街路、完備された排水設備、穀物倉、広大な沐浴場などがあります。

       95992361
                  「市街地復元図」

      670jh9

       48mb110


         tifact8
               モヘンジョダロ遺跡発掘品  こぶ牛

    7754

        b6979

 ネックレス、金、瑪瑙、碧玉、ステアタイトと緑の石リザーダイトまたはグロシュラーざくろから作られます。 
 金ビーズは中空であり、ペンダント瑪瑙、碧玉ビーズが太い金線で接続されています。 

        9758

        i_dice

 たくさんの量の動物の形のオモチャやゲームが発掘されています。
 鳥笛、チェス、サイコロも発掘されています。

   53ml22

 6784653

        22mn60

 モヘンジョダロの人々は生活を楽しむ余裕があったことが分かります。

          85de18

       06ncx21

 モヘンジョダロは緻密な都市計画のもとに建設された周囲5kmにもおよぶ巨大都市でした。
 当時のモヘンジョダロの地は、インダス川の中洲にある島だったことが判明しています。
 この遺跡はインダス川の上流に位置し600kmも離れていたすでに発見されていたハラッパーの遺跡とあらゆる面で類似するものでした。

        10mcv2

 モヘンジョダロの遺跡は排水システムが発達していました。
 よく整備された下水道網が建物の間に張り巡らされ、また一定区間で排水溝が設置されていたため、ごみで溝が塞がらない構造になっていました。

       224p561

            r654we
             「神官像」レプリカ 17,5cm 

             12248112662
           踊り子とよばれる先住民をあらわしているとされる青銅製の像



  メソポタミアとインダス文明の海上貿易
 
 インダス文明を築いたドラヴィダ人は、メソポタミアと交流をもち、貿易もありました。
 インダス文明の遺跡からは、メソポタミアのシュメール文明の楔形文字なども発見されています。
 アッカド王朝がメソポタミアを統一した前2200年ごろからディルムン(現在のバーレーン)、マガン(現在のオマーン)、メルッハ(インダス文明地域)の国の名前がさまざまな文書に登場するようになります。

      cvfer8

 アッカド初代サルゴン王の碑文には「メルッハの船、マガンの船、ディルムンの船をアッカドの波止場に停泊させた」とあります。
 さらに、次の記述もあります。

 ディルムンの地は澄み、ディルムンの地は聖なり、ディルムンでは大鴉は叫び声をあげることなし。
 野生の雌鳥は野生の雌鳥の声を上げることなし、ライオンは殺すことなし、狼は子羊を連れ去ることなし、肝臓を喰う野生の犬は知られず、穀物を喰う猪は知られず。
 寡婦が屋根に麦を広げれば、その麦芽を天の鳥は食べることなし鳩は頭を傾けることなし、目を病むものものが「私は目を病むもの」ということなし、頭を病むものがが「私は頭を病むもの」ということなし。
 年取った女が「わたしは年取った女」ということなし、年取った男が「わたしは年取った男」ということなし。

 これはディルムンの地がシュメールから見ると、一種の聖地であったことを考えられます。
 とくに最後の2行は、ディルムンが不老不死の島であったことを示唆しています。
 ディルムンがシュメールにとって聖なる場所であったことは紀元前20世紀ごろの洪水神話からも分かります。

 ジウスドラは壁のかたわらにあって聞いた。
 「壁のかたらのわたくしの左側に立ちなさい。……
 壁のかたわらで私はあなたに語るでありましょう。
 耳を私の命令に傾けなさい。
 私たちの……によって、大洪水が礼拝の中心部を襲うでありましょう。
 人類の種を滅ぼすために。……
 これは神々の会合の決定であり、意志であります。
 アヌとエンリルの命令によって……彼らの王、彼らの領土は滅ぼされるでしょう。……
 大旋風がすさまじい勢いで襲来した。
 それと同時に大洪水が起こって礼拝の中心部を沈めてしまった。
 ついで7日7晩のあいだ大洪水は地に流れ込み、大きな船が大海にあって大風に揺られていた。
 ウトゥが現れてかれは天地に光をそそいだ。
 ジウスドラは巨大な船の内部に光を投入した。
 王ジウスドラはウトゥの前にひれ伏した。
 王は牛を屠り、羊を殺した。……
 「あなたは天の息、地の息を発しました。
 まことにかれはあなたの……によって身体を伸ばしました。
 アヌとエンリルは天の息、地の息を発し、彼らの……にって、身体を伸ばしました。
 植物は地から伸びました。
 王ジウスドラはアヌとエンリルのまえにひれ伏した。
 アヌとエンリルはジウスドラを愛した。
 彼らはかれに、かれらと同じ生命を与え、神と同じ永遠の息を、かれらは高き神と同じ永遠の息を彼のところにもってきた。
 そのとき王ジウスドラを植物の名と人間の保存者たるジウスドラを、彼らは通過の地ディルムンの国、太陽の昇る土地に住まわせた。……
 
 「ディルムンの舟をその土地まで動かした、マガンの舟に天高く荷を積んだ」「メルッハから金、銀、銅、紅玉髄、黒檀などがもたらされた」などと記した文献もあります。
 3つの国のうちディルムンはメソポタミア文明において交易相手、原料の産地、メソポタミア文明とインダス文明の物資の集散地などとして記録されている土地の名前で、ディルムンの位置は「下の海」とよばれたペルシア湾のバーレーン島が有力視されています。

 ディルムンの中心になるのは現在のバーレーンですが、クウェートサウジアラビア東部、カタールアラブ首長国連邦(UAE)など広い範囲に分布していたと考えられます。
 ディルムンは、当時は真珠の産地として知られていました。

 1953年、英国人考古学者ジョフレー・ビビーがバーレーンで直径約1cmの丸い凍石(ステアタイト)製印章を発見したことで、この文明に始めて研究の光があてられることになりました。
 ビビーはこの発見について ジョフレー・ビビー『未知の古代文明ディルムン-アラビア湾にエデンの園を求めて』(矢島文夫、二見史郎訳 平凡社 1975年)で書いています。

 重要なのは、ビビーの発見した印章と同じタイプのものがメソポタミアのウルおよびモヘンジョダロで発見されていたことです。
 これはつまり、メソポタミアとインダス文明の間にペルシア湾経由で交易が行われていたことを示しています。
 貿易品目としては金銀銅、ラピスラズリカーネリアンのビーズ、象牙、珊瑚などが記録に残っていますが、「魚の目」という記述があることが注目されます。
 バーレーンがこののち天然真珠の一大産地として知られていくことを考慮すると、この「魚の目」は「真珠」のことと考えられます。
 マガンはさらに東、現在のアラブ首長国連邦やオマーンにあった諸都市です。
 ここでは銅を産出していました。
 当時の船や航海術で、これほどの遠距離航行が行えたのでしょうか。
 
 1977年、ノルウェーの人類学者トール・ヘイエルダールが、円筒図像をもとに当時の船を再現しメソポタミアの湿地帯に生えている葦(あし)で造った全長18mの帆船で航海に出ました。
 この船はティグリス・ユーフラテス川の合流点からペルシャ湾をへてインダス河口に到達、そののちアラビア海を横断して紅海の入り口までたどりつきました。
 全行程6800km、所要日数は143日でした。

 アッカド時代の文書に登場するディルムン、マガンはペルシア湾岸にあった諸都市とされます。
 メルッハは、当時通交があったことが証明されているインダス流域の都市とする説が有力ですが、エチオピアであるとの説もあります。
 古代メソポタミアとインダス文明(メルッハ)の間で交易が行われていたことについては、考古学上・文献学上双方の証拠があります。
 ハラッパー遺跡で出土した商品を束ねるものの封印(封じ目に押す印)に用いられていた粘土製の印章が、ウルや他のメソポタミア遺跡では多く発見されています。

 古代メソポタミアで重宝された石にラピスラズリがあります。 

            4628691

 ラピスラズリを原産地のアフガニスタン北東部から、メソポタミアに運ぶ道が「ラピスラズリの道」とよばれています。
 その道はラピスラズリだけではなく、金・銀といった貴金属が運ばれたようです。
 インダス文明は独立文明ではなく、またメソポタミア文明に従属していたわけでもありません。
 インダス文明は後発ゆえにエラム・メソポタミアの都市建設・都市問題の知識を学んで、理想的な計画都市を造ることができたのでしょう。

 シュメールとインダスの両文明から少し似ている母子像が発見されています。

        00g34
            シュメールの遺跡       インダスの遺跡

 古代の人々は、この母子像を礼拝し聖水を注ぎ宗教儀式を受けることによって罪が清められると信じました。       

        harappa
           インダス文明の出土品の中の凍石製の印章の卍と卐

 インダス文明に卍の文様がありました。 (参照

 インダス文明の遺跡に共通しているのは、戦いの設備がないということです。
 平和的な祭政一致で、その中心には預言者がいました。

 だからこそ預言書『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』『リグ・ヴェーダ』が存在するのです。
 預言者らは神の代理人であり、一般の人々とは区別され最高位のヴァルナに位置付けました。

  14 インド古代核戦争説と核戦争予言



  インダス文明の滅亡

 モヘンジョダロ遺跡には、科学者たちが説明のつかない謎があります。
 謎の1つに遺跡のあちこちに見られる人骨の山があります。

       fgdjtyyt

 人骨の山は路上や井戸端などさまざまな所にうつ伏せになったり、仰向けになったりして不自然な状態で横たわっていました。
 発見された数十体の人骨から、この古代都市はモヘンジョダロ(死の丘)といわれています。
 モヘンジョダロの遺跡から発見されたのは46体のみで、当時3万人はいたと思われるこの巨大都市の人々はまだ発見されていません。

 この文明に致命傷を与えたと考えられるのは、気候の変化による環境の激変です。
 現在のモヘンジョダロの遺跡は熱風が吹き乾燥しています。
 モヘンジョダロの遺跡からは多くの印章が出土していて、それらには虎、水牛、象など、湿地帯や水辺に住む動物がたくさん描かれていて、当時は雨の量ももっと多く水量の豊かな草木が生い茂る恵まれた自然環境だったのです。
 雨をもたらしてきた低気圧がゆっくりと北に移動してしまい、そのためにインド西北部は乾燥し荒涼とした風土になってしまったとも考えられます。

 また人為的な環境破壊が原因だとする説もあります。
 都市建設に必要な窯焼きレンガを焼くために木を伐採しすぎたために大地の乾燥化が起こり、気温の方も一気に上昇してしまったというのです。
 燃料用の木の伐採を続けてきたことは大地から森や草地を奪うことなり、蒸発しやすくなった大地は地中の奥にある塩分を地表にどんどん吸い上げていきます。

 これが長年続けられると、やがては地表は塩分で堅くおおわれてしまい作物は育たなくなってしまいます。
 こうした塩害と環境の悪化で人々は都市に見切りをつけ別な土地目指して次第に移動していったのではないかというのです。

 そして、モヘンジョダロの遺跡にも過去に大規模な洪水に見舞われた痕跡が少なくとも3度以上あります。
 遺跡に残る70cmにおよぶ厚い堆積土は洪水後もなかなか水が引かず、長いことそこに留まっていたことを意味しています。
 大洪水がこの文明に致命傷を与えたというのです。

 インダス川の河道が変わってしまい、モヘンジョダロから遠のいたからという説もあります。
 そもそもこの広大な川はたびたび氾濫を起こしては、次にどのようなコースで流れるかわからぬほど不安定な川です。
 現在モヘンジョダロは一番近いインダス川の支流から5kmは離れてしまっていますが、上流のハラッパーでは当時の古い河床の跡が残されており、それによると川の流路が10kmも北に移動してしまったのです。

 突発的な天変地異が原因で文明が滅亡したのです。
 一般的な学説では、洪水や自然環境の変化により衰退していったということになっています。

 1921年にモヘンジョダロの遺跡から発掘された遺体は全部で46体で、ある所では14体がかたまり、ある所には20体、9体というように複数の場所から小グループに分かれて発見されました。
 そのうち12体は何らかの理由により急激な死をとげており、不自然に身をよじっていました。

 ある遺体の頭骨には長さ15cmにもおよぶ斬り傷があり、象牙職人の一家らしい9体の遺体は5体までもが子供であり、この中には首を切り落とされたような格好でうずくまっていた子供もありました。
 これがきっかけとなり好戦的なアーリア人の侵入によって、インダス文明は滅亡したという説が生まれました。

 モヘンジョダロで発見された46体の遺体のうち9体には高温で加熱されたことを示す痕跡が残っていました。
 また人骨群には時間をかけて腐ったような形跡や野生動物に肉を食べられたような痕もないため、発掘にあたったハーグリーブズ博士も「一瞬にして集団が異常な死を迎えたとしか思えない」とその印象を語っています。
 元考古学局長のモーティマー・ウィーラーの著書『突然で猛烈な死』に、次のように記されています。
 「ある者はうつぶせに、ある者は仰向けに横たわり手足もあちこちに伸ばして、ほかの遺体に折り重なっていた。
 両腕を曲げ、自分を守るために絶望的な様子で顔をおおっている遺体もあった。
 苦悶の表情で死んだことを思わせる不自然に身をよじった遺体もあった。
 井戸のある部屋で見つかった4体のうち2体はその場から這い出すようにして階段の上に折り重なっていた。
 すぐ近くの家では9体が確認されたが、うち5体までは子供で大人たちはそれを保護するような姿で倒れていた。
 発見者ハーグリーブスの報告によれば、これらの人々がおそらくは一時に急激で異常な死を遂げたことは明らかなのである。」

 紀元前1300年ごろのモーセの時代、巨大彗星の金星が地球に接近しすさまじい電磁嵐はまた世界中にプラズマの炎を降らせました。
 電磁波が天体間で無数交差した結果、数千度を越える灼熱の大気プラズマが発生したのです。

     2280991027

 リビア砂漠の花崗岩の多環状構造で、プラズマ、放電現象で形成されたと考えられます。

         281002066

 1932年、北アフリカのリビア砂漠で重さが約7,2Kgの融けた黄緑色のガラスの塊が出土しました。
 さらにくわしく調べると、この地には北に13km東西に53kmにわたって溶けたガラス質の層が存在していました。
 これは現在、リビアングラス(リビア珪土ガラス)とよばれています。
 このガラス層の起源について科学者たちは隕石の衝突によって砂が溶けて生まれたものだと主張してきましたが、クレーターは発見されません。
 このような溶けたガラス層が存在するのはリビア砂漠だけではありません。 イギリススコットランドには、ガラス化した先史時代の砦の遺跡が数多く残されています。

       247ty891

 1880年にその地を調査した研究家によると、ガラス化した砦は60以上にものぼるといいます。
 とくに有名なのはライニー付近に所在するタップ・オノスの丘上に立っている遺跡です。
 この遺跡は砦を囲む城壁がガラス化してしまっています。
 近くで城壁を見ると明らかに熱によって変形し溶解してガラス化していることが分かります。

 そして、ガンジス川流域のラージマハル地方には高熱で焼け焦げた多くの遺跡が発掘されており、また高熱で溶解したことを表す中空の岩塊も発見されています。
 さらにずっと南のデカン高原にも調度品がガラス状になる程の高熱破壊の跡が見られ、のちに調査したロシアの科学者が人骨群の一部から通常の50倍に上る放射能を検出した人骨がいくつか発見されています。

          280947099

 1978年にジャーナリストがモヘンジョダロ遺跡を調査したところ、レンガなどが高熱で溶けてガラス化した石が一面に散乱している異様な区域が発見され、その区域からは放射能が通常の数十倍という放射能測定結果が出たといいます。
 そのガラス化した石を分析したところ、非常な短時間で、融点1400℃~1500℃以上の高熱で溶かされ加熱後に急速に冷却した物と分かりました。

           81128227

 この土器は1500℃以上の高温と冷却が短期間に起こり、火ぶくれがそのまま固まってしまって気泡となっています。
 モヘンジョダロは高温の蔵焼きレンガを使って建物を建設していましたが、精巧な窯の中で多くの空気を送りこんで焼けば1500℃ぐらいまでは熱することができます。
 しかし長く熱さねばその温度にはたっせず、この土器の急激な温度変化は説明がつきません。
 しかもこれは再加熱によるものです。
 つまり土器が作られて使われてから、この急激な加熱がもたらされたのです。

            2281128226
 
 画像Bは土器が高温によりガラス質化しています。
 穴が開いているのは高温で気化してしまったようです。

           12281128228

 画像Cは壺の内部です。
 右が黒っぽくて左が白いのは影が出来ているわけではなく熱による変化のためです。
 そこに見られるねじれは渦巻き状の運動でねじれたものと見られます。

     hgj433
 
 2つの天体間で超高熱プラズマが嵐のように飛び交いました。
 プラズマは光を四方に照射し、超高熱を発する火球となって生き物のように移動します。
 モヘンジョダロ遺跡で遺骸がほとんど発見できないのは、摂氏4000℃を超える超高熱で灰と化したためと考えられます。
 インド全域で発見されたガラス化した町はほぼ北緯25度前後に帯状に広がっていて、その帯を西へずっと延ばしていくとモーセたちのエジプト脱出時海割れの奇跡が起こった紅海辺りを通過します。

 紀元前2000年ごろ、金星は木星の大赤斑の下の火山から誕生しました。 (参照
 紀元前1900年ごろ、金星は巨大な彗星として地球に接近して、インダス文明やソドムとゴモラを滅ぼしました。

 紀元前1300年ごろ、地球に接近して紅海割れの奇跡が起こしました。
 モヘンジョダロ遺跡のインダス文明は、紀元前1300年ごろには完全に消滅しています。
 紀元前1300年ころ、金星は地球に接近し引き起こされた天変地異は、紅海割れが起こった中近東だけではなく、エジプトを撃ち滅ぼし、サントリーニ島を沈め、ギリシャを大洪水で破壊し、北インドを灼熱の大火で焼き尽くしたのです。

 超高熱プラズマで溶解しガラス状に化した地帯のガンジス川北部からインダス川北部、インド周辺が、最も金星の接近した地点です。
 その証拠がガンジス川北部からインダス川北部一帯に広がる超高熱の溶解地帯です。
 
 世界的な規模で未曾有の激変が襲い、ポールシフトの発生や大陸移動が加速されたのはこの時期です。 とくにインドの場合はプレートゴンドワナ大陸から分離し、そのまま北上しユーラシア大陸と激突して巨大なヒマラヤ山脈を形成していました。
 
 紀元前1300年ごろにはかなり隆起していましたが、巨大彗星の金星接近によってそれが加速しプレートの境界面や断層付近で強烈な電磁波が放射されたと考えられます。
 現在では巨大地震のときに地中から強烈な電磁波が放射されることが知られていますが、その強力なものが一気に噴き出したのでしょう。 

 地球に接近したとき、金星からの電磁波とインドの巨大地震を起こすプレート移動にともなう電磁波が反応し合った結果、モヘンジョダロやインド各地で巨大なプラズマが発生し地上を超高熱で焼き石やレンガをガラス化させたのです。

 そして、インドを破壊したのちに地球の自転方向と金星の公転軌道の関係で金星はインド地方から離れながら紅海上空へたっし、モーセの紅海割れの奇跡を起こしたのです。
 それは地図上でも明確に確認でき、ガラス状の超高熱地帯のある北部インドー帯とモーセたちがわたった紅海とは同緯度の北緯28度付近になり、金星が地球に大接近し通過していった証拠となるのです。

      tdykj7771

       4737043

       b3f32cd
            インド西岸沖の海底にあるシバ・クレーターの立体図

 直径40kmにおよぶ隕石の衝突によってインド洋の海底に直径500kmの窪みができ隕石の衝突の衝撃があまりに強力だったため衝突した場所の地殻が蒸発し、それによってさらに高温のマントルが噴き上がり、このクレーターの高く盛り上がったのこぎり状の縁が形成されたとしています。
 北部インドー帯にも預言者は存在しました。
 つまり北部インドでもソドムやゴモラから逃げ出したロトの家族のように、天からくだる大惨事から逃れた人々がいたはずなのです。
 預言者は救いのために存在するのです。
 しかし、ほとんどの人々が預言者の言葉と警告を無視したと思われます。
 その結果、大勢の人たちは瞬時に高熱プラズマで瞬間的に灰と化したのです。

 そして、中には酸欠で窒息死した者もいたと思われますが、条件下で影響も変わるため詳細は区分けできません。

 インダス文明が栄えたのは紀元前2200年?~紀元前1800年の間です。
 滅亡については諸説あり、現在では地殻変動によってインダス川河口付近の土地が隆起し、そのために洪水が頻発して耕地に塩害をもたらし、さらにインダス川の河道が移動したことによって、水上交通を前提とした貿易によって機能していた都市の機能を麻痺させたためという説と砂漠化にともなって都市が放棄され住民が移住したという説があります。
 
 1920年にインドの学者が仏教遺跡を発掘中にハラッパーの遺跡を発見し、1922年にはこれに触発されたイギリス人の考古学者マーシャルがモヘンジョダロを発掘し遺跡を発見しました。 
 インダス川流域に栄えたこれら古代都市の文明であるインダス文明には、文字が解読されていないこともあって謎が多いです。
 旧ソ連とフィンランドの研究グループが、それぞれ独自にインダス文字をコンピューターで解析した結果、ドラヴィダ語系統ではないという同じような結論を出しています。

 現在はインド南部からスリランカ北部にかけて存在するドラヴィダ人が、イラン高原東部からにインド北西部に移住してインダス文明を造ったというのが最も有力な説となっています。
 ドラヴィダ語は南インドを中心した地域の言語です。
 タミル語、マラヤーラム語などがこれら南方語群に属します。
 一方、インド大陸北西、パキスタンにブラーフーイー語というのが飛び地のようにあります。

 近接言語の影響を受けてかなり変化してしまっていますが、古形を保存しているとみられる要素があって、ドラヴィダ祖語の担い手は西から移住してきたのだろうと推定されてます。
 アーリア人の侵入以前の紀元前13世紀以前には、ドラヴィダ語がインダス文明の遺跡があるインダス河流域にも分布していた可能性が高く、インダス文明の担い手の言語(インダス語)がインドに現存している言語のどれかと同じと仮定すればドラヴィダ語が有力候補です。

 ドラヴィダ語とシュメール語の関係はかなり以前から指摘されています。
 シュメール文明が隆盛した時代、「ウル(Ur)」という都市国家は中心的な存在で、その言葉「Uru」もしくは「Ooru」(村、行政区)というのは、トゥル語(Tulu)を含めたドラヴィダ語系(とくにインド西岸)のほとんどの言葉に受け入れられています。
 残っているテキストの文字数が少なすぎて、解読が進んでいないインダス文字ですが、パターン分析ソフトウェアを利用し、ほかの自然言語や人工言語と規則性を比較することで、インダス文字が「話し言葉」であることを示す研究があります。
 「含まれている文法構造は、多くの言語で見られるものと共通しているようだ」と、ワシントン大学のコンピューター科学者、Rajesh Rao博士は語っています。

  ヤレド人 シュメール文明

      Nimrod2

 モヘンジョダロはインダス文明最大級の都市遺跡で、最大で4万人近くが暮らしていたと推測されていますが忽然と滅亡しました。
 1921年、パキスタンのインダス川の下流に大きな仏塔の一部が大地からのぞいているのが発見されました。
 それは2世紀ごろの大僧院の一部であろうとの予測のもとに発掘が開始されましたが、掘り進むにつれて、その遺跡は僧院などではなく巨大な古代都市の遺跡が明らかとなったのです。
 発掘は十数年間続けられ、この古代都市の姿は少しずつ姿を現してきました。

 インダス文明はアーリア人の移住以前の紀元前1800年ごろから、環境破壊による砂漢化や洪水、河川流路の変更などさまざまな理由によって衰退へと向かっていきました。
 イラン高原で遊牧をしていたアーリア人がインダス川上流のパンジャーブ地方に入ってきたのは、紀元前1400年ごろからです。
 アーリア人はインド・ヨーロッパ語系の民族で、都市を造らず牧畜と農耕を営みながら先住民を支配していきました。
 さらに紀元前1000年ごろ、アーリア人は肥沃なガンジス川流域へ進出し稲作を開始、定住生活を始めるとともに階層社会を形成しました。

         5577880132

  アーリア人の侵入

 紀元前18~16世紀ごろ、インド・ヨーロッパ語族の移動がありました。
 彼らは中央アジアから南ロシアの辺りにいたのですが大移動を開始し、ユーラシア大陸全域に大きな変動を起こしたのです。


       2jk4977

 南東に向かったアーリア人とよばれる一派はインド北部を征服し定住しました。
 南にむかった一派はペルシャ人やソグド人となり、イラン高原に定着しました。
 また、西方に移動した人々はケルト系ラテン系ゲルマン系スラブ系などのヨーロッパ人となりました。

 紀元前13世紀ごろにアーリア人がやって来る前のインドの先住民はドラヴィダ人です。
 現在の大多数のインド人は、インド・アーリア人です。
 紀元前13世紀ごろに起きたアーリア人の侵入によって、原住民のドラヴィダ人は被支配民族となり一部が南インドに移住し時代とともに同化しました。

       889362
 
 アメリカのユタ大学とインド南部のアンドラプラデシュ大学による共同研究では、インドのカースト別のDNA分析から侵攻したのは「コーカソイドの男性」であり、先住民の下層階級の女子と混血してきたと証明されました。

 つまり、コーカソイドのアーリア人がインドに侵入して、原住民と混血して行ったのです。 
 現在の白人種を人類学では「コーカソイド」とよびます。
 「コーカソイド」を直訳すればコーカサス人種で、現在のトルコ一帯のコーカサス地方に住んでいた人々を意味します。
 白人の故郷はコーカサスなのです。
 これは『聖書』の記述と一致します。
 創世記10章には、諸民族の起源が記されています。
 それによると世界のすべての民族は、ノアの三人の息子セム、ハム、ヤペテから分かれ出ました。
 大洪水のとき、ノアの箱船に乗ったのはノアとその妻、および彼らの息子セム、ハム、ヤペテとその妻たち、計8人でした。
 現在の人類はノアの子孫であり、またすべての民族はセム、ハム、ヤペテの3人を先祖として分かれ出たことになります。

 ノアの時代の洪水が収まったとき、箱船が漂着したのはアララト山脈でした。
 アララト山脈は独立峰ですが、コーカサス山脈に連なっています。
 箱船からノアの一家8人が出てきたとき、彼らはしばらくアララト山脈付近コーカサスで生活していました。

         7334522

 ハムは、預言者の父ノアの神聖な秘密(エンダウメントで授かる事柄)を自分はまだふさわしくないのに盗み見ました。
 この罪によって追い出されました。
 ハムの子孫は、南のアフリカ大陸方面へと移動します。
 セムの子孫は、アジア全域に広がります。

 ヤペテの子孫は、最後までセムとともに世界に広がり、主にコーカサス地方にとどまっていました。
 ヤペテの子は、「ゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラス」です。 (創世 10:2
 ヤペテの子「ゴメル」は小アジア地方(トルコ)や、ヨーロッパ地方に移り住んだ民族です。
 「ゴメル」の子孫は、「アシケナズ、リパテ、トガルマ」です。 (創世 10:3
 「リパテ」はパフレゴニヤ人、「トガルマ」はフルギヤ人のことで、今のアルメニア人の先祖です。
 彼らはいずれも、小アジア(トルコ)に移り住みました。

 次に「アシケナズ(アシュケナズ)」も主に小アジアに移り住みましたが、さらに進んでヨーロッパに渡り、ドイツにも移り住んだようです。
 ユダヤ人はドイツ人を(またドイツ系ユダヤ人も)「アシュケナジム」の名でよんできました。
 ヤペテの子「マゴグ」はスキタイ人で、南ロシアの騎馬民族となりました。 (フラウィウス・ヨセフス 『ユダヤ古代史』 1巻 6:6)

 ヤペテの子「マダイ」は、メディア人といわれています。
 彼らはメソポタミヤにメディア王国を造り、のちに兄弟民族のペルシャ人と結託して、メディア・ペルシャ国を築き上げました。
 アーリア人は、この「マダイ」の子孫と思われます。
 アーリアの名は、メデア・ペルシャ(現イラン)の人々が「アーリア人」とよばれたことからきているのです。
 アーリアという言葉は西アジアでは「イラン(イラーン)」と発音します。
 イラン人自身は古くから国の名を「アーリア人の国」を意味する「イラン」とよんできました。

 インド語とペルシャ語の間には、一定の法則があります。
 インド語の「S」音がペルシア語の「H」音に対応します。
 たとえばペルシア神話の神「アフラ」がインドでは「アスラ」になります。
 同様にインド亜大陸の原郷「シンド」もまた、ペルシャ人がいうには「ヒンド」~「ヒンドゥー」の発音になります。

 コーカソイドのうち、最も大きな勢力をもったのがアーリア人です。
 ヨーロッパ人を指すために使われてきたため白色人種、白人とも訳されますが、中東やインド亜大陸に居住しているコーカソイドは肌が浅黒いです。
 日照量の多い地域に居住したコーカソイドは肌が浅黒くなる者が多いのに加えて、コーカソイドのアーリア人がインドに侵入して、原住民と混血したのです。

 紀元前2000年~紀元前1500年ごろ、コーカサス地方にいたアーリア人は大移動を開始します。
 アーリア人は馬車を使いました。
 シュメールよりも改良された軽い車輪を使用し馬への負担を減らせました。
 アーリア人は馬車の戦車(チャリオット)の高い戦力で勝ち、土地を奪い原住民を支配しました。

 アーリア人の移動は、各部族がさまざまな新しい土地へ向かいました。 
 やがて西に住みついた人々がヨーロッパ人になり、東のイラン高原に移住した人々が紀元前500年ごろにペルシャ帝国を築きペルシャ(現イラン)人です。
 そして、ペルシャよりさらに東のインド方面には大勢が移り住みインドの主要民族となり、インドの主要民族はヤペテ系になったのです。

 紀元前4世紀にアレクサンドロス3世がやって来ると、アーリア人に代わってギリシャ人が大量に流入します。
 アーリア人の侵入は、インド亜大陸の民族勢力図を一変させました。
 いつの時代も征服者と被征服者の関係は、そのまま支配階級と被支配階級の関係を生みます。

 アーリア人が征服者として君臨し、必然的に社会的な階級が誕生しました。
 これが4つの階級制度「ヴァルナ」です。
 ヴァルナとは、インド・ヨーロッパ語で「色」を意味します。
 これは征服者であるアーリア人が被征服者であるドラヴィダ系民族を指して使ったことに由来するようです。

 アーリア人はコーカソイドであり、その多くは肌の白い人々でした。
 これに対して、ドラヴィダ系民族はハム系で、黒い肌をもっていました。
 つまり、肌の白いアーリア人が肌の黒いドラヴイダ系民族を支配した構図が、そのままアーリア人内部での階級制度を意味する言葉になったのです。
 具体的に、4つのヴァルナは上位から、それぞれ「バラモン」「クシャトリヤ」「ヴァイシャ」「シュードラ」とよばれます。

 最高位の「バラモン」の名は、宇宙の根本原理「ブラフマン」に由来します。
 バラモンが宗教者だったのに対して、世俗的な世界を支配するのが「クシャトリヤ」です。
 古代社会のおける王族(ラージャンヤ)や貴族、それに戦士たちがクシャトリヤ階級です。
 仏教の祖ガウタマ・シッダールタは釈迦族の王子であったことからわかるように、クシャトリヤ階級の人間でした。 

 続く「ヴァイシャ」は一般市民です。
 農業や商業、工業、そのほかのさまざまな自由な職業をもった人々が含まれます。
 これに対して、自由を奪われた人々が「シュードラ」です。
 彼らは奴隷階級であり、自由に職業を選べません。
 土地や財産もクシャトリヤが取り上げたら、それに反対の意を示すことは許されません。
 それゆえ、シュードラの多くは小作人になることが多かったといいます。

 とかく階級制度は同じ階級であっても、そこに新たな階級を生みます。
 4つのヴァルナから階級は細かく分化し、2000近い階級となりました。
 紀元15世紀、インドへやって来たポルトガル人は、この状況を見て人種や血統を意味する「カスタ」とよびました。
 これが英語化して「カースト」とよばれるようになります。

 基本的にカースト制度は4つのヴァルナ、およびそれが細分化した制度です。
 実際はアウト・カーストをも含みます。
 アウト・カーストとは、文字どおりカーストの外にいる者を意味します。
 チャンダーラやパリアは、そうした階級で不可触民として不当な差別を受けているのが実態です。

     the-solar-system

  ミノア文明の滅亡   

 激変期の紀元前13世紀ごろ、インドにアーリア人が侵入して来ました。
 紀元前1250年ごろのモーセたちのエジプト脱出時に、地球に金星が接近しました。 (参照


 

  knossos_palace

       Knossos-Crete

          567bcxs0
                
 古代アメリカにはフェニキア人を含むミュレクの民がいたので、ミノア文明が伝わりました。 (参照

 地中海のサントリーニ島における大噴火によるクレタ島ミノア文明は被害を受けました。 
 サントリーニ島における大噴火でサントリーニ島はバラバラになり、その影響で起こった大津波はクレタ島をも襲いました。
 さらに軽石や火山灰の雨が降り、二酸化硫黄が大量に大気中へ流れ出たことにより気候が大きく変化し、植物の成長は止まり、作物は実らなくなりました。
 この影響は、クレタ島や地球全体におよびました。
 このサントリーニ島の火山大爆発に続く一連の自然災害により、ミノア文明は大きな打撃を受けました。
 そして、ミノア文明はギリシャ軍に侵略され完全に崩壊するまでは、そののちさらに数十年を要することとなります。

 ミノア文明の滅亡は、のちにアトランティス伝説になりました。
 ギリシャ神話では、アルテミスには7人の侍女がいます。
 7人の侍女は7つの星であり、プレアデスです。
 父親は大地を支える神アトラースであり、彼女たちは皆、海の大神ポセイドーンの愛人でもあります。

 ギリシャの哲学者プラトンが従兄弟のクリティアスから聞き、そのクリティアスが曾祖父から、そして曾祖父は賢人ソロン、ソロンは古代エジプトの神官から聞いた話として語り継がれる古代文明のアトランティス語源はせばアトラースです。
 アトランティス文明の王は歴代アトラースと名乗り、しかも首都はポセイドンにちなんでポセイドニアと名づけられたといいます。
 さらに、プラトンが書き残した『対話篇』によると、首都ポセイドニアは幾重にも運河に囲まれ、同心円状の構造をしていたといいます。 

       AtlantisDraw

       atlada

 アトランティスは、プラトンが著書『ティマイオス』と『クリティアス』の中で記述した、大きな島とそこに繁栄した王国のことです。
 強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたのですが、ギリシャ神話の主神たるゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされています。

 一般にいわれているアトランティス大陸が沈んだのが、紀元前9590年ごろというのは誤訳です。
 エジプトの年代の数え方に、年ではなく月を中心とする方法があり、この方法で計算するとアトランティス大陸が沈んだのは紀元前1340年となり、地中海のサントリーニ島における大噴火からミノア文明の滅亡時期なのです。

 
   e5343

 アトランティス大陸はサントリー二島のことで、ミノア文明の滅亡は、のちにアトランティス伝説アトランティス伝説になりました。
 プラトンが言及したことから分かるように、アトランティス大陸伝説はギリシャ哲学として西洋に伝わり、これが今日まで多くの伝説を生み出してきました。
 1882年、アメリカの政治家イグネイシャス・L・ドネリーが著書『アトランティス―大洪水前の世界』(Atlantis, the Antediluvian World)を発表したことにより「謎の大陸伝説」として一大ブームとなり、さらに神秘主義と結びつくことで多くの派生の仮説を生みました。

 プラトンの著作『ティマイオス』と『クリティアス』に記されたアトランティス物語は、ギリシャ七賢人の1人ソロンが紀元前590年ごろにエジプトを訪れたときに、エジプトのナイル川河口付近の町サイスの神官から聞いた話として展開されています。
 アトランティス伝説ではなく、サイスの神官がソロンに語ったもう1つの大破壊、洪水で滅びたギリシャの古代文明があります。
 
 『ティマイオスの物語の一部には、こうあります。
 「高貴で偉大なことや、いずれにしてもまともなことが起こった場合には……私たちの国(エジプト)ではそれらの古いものがすべて記録され、寺院の中に保存された。
 しかし、あなたたちや他の国々では、文字その他の文明国が必要とするものをいつも新しく用意しなければならなかった。
 このために疫病のように間を置いては天から洪水がやって来ると、それは人々の上へ襲いかかり、文字をもたずまた教養をもたない人だけをそのあとに残した。
 したがって、あなたたちはいつまでたっても子供のようで、この国あるいはあなたたちの国で古い時代に何が起こったかについての知識をまるでもっていない。……
 まず第一に、あなたたちはただ1つの洪水だけしか覚えていない。
 しかし実際には数多くの洪水があった。
 次にあなたたちはあなたたちが現在住んでいる土地に、人間の中で最も高貴で、また最も完全な人々が住んでいたことを忘れている。
 たまたまとり残された小さな芽から、あなたたちおよびあなたたちの町が生まれ出たのである。……
 ソロンよ、水による大破壊がくる前の時代には、アテネの国は戦いのときには最も勇敢であり、その他の点でも優れた組織をもっていた。」
 
 神官が語ったギリシャ以前の文明、洪水以前のアテネとは、『ティマイオス』と『クリティアス』に登場するアトランティスの敵国で、アトランティスとたびたび戦い、ついには屈服させた伝説の都市国家アテネです。
 実際にその国がアテネとよばれていたかは別にして、確かに紀元前1200年ごろ、ギリシャにはすでに高度な文明が発達しており、伝説として吟遊詩人たちが語り継いだトロイア戦争も起こっています。

      168843

 神々の時代における勇猛なギリシア軍の存在は最古期の古代ギリシア詩『イーリアス』や『オデュッセイア』にも記録されており、アトランティスの正体であるミノア文明の繁栄期とも一致する以上、神官の話しは誤りではありません。
 サントリーニ島の大噴火によりミノア文明の滅亡と同時期に、古代ギリシャのミケーネ文明などが洪水によって被害を受けたのです。


  


 サイスの神官は、次のように述べています。
 「人類を滅亡させるものは、今まで数多く、かつ種類も多かった。……
 実際に、あなたの国にも私の国にもこんな話が語られている。
 昔、ヘリオスの子フェイトン(パエトーン)が父親の馬車を運転したが、父親のいつも行く道にそって運転していくことができなかったので、地にある物すべてを焼き尽くし、彼自身、雷によって死んだという。
 この物語は伝説の形をとっているが、実は地をめぐっている天体がずれ、ものすごい火事によって地上のものが滅亡したのである。」

 「地をめぐっている天体」とはここではギリシャ神話のテューポーンを指し、そのテューポーン天体が通常の経路から外れ、天空を疾走しで世界中を焼き尽くしたとされます。
 ここでのフェイトンの正体はテューポーン彗星である「金星」です。 (参照

 金星が地球に大接近したとき、すさまじい電磁嵐が全地を襲い、発生したプラズマは地上を焼いたのです。

 テューポーン彗星(金星)の大火は、オギュゴス王の洪水と同時期に起こりました。
 古代キリスト教の神学者アウグスティヌスの著書『神の国』には、古代の著書からの引用として次のような記述があります。
 「プラウトゥスによってウェスペルゴとよばれ、ホメロスによって最も美しいといわれて、ヘスペロスとよばれたところのよく知られたウェヌスの星(金星)に驚くべき前兆が現れた、とカストルは記している。
 その星は、色や大きさや形や進路を変えるのである。
 これはこれまでにけっしてなく、これからもけっしてないであろう。
 このことはキュジクスの有名な数学者アドラストスとネアポリスのディオンによれば、オギュゴス王の治世に起こったといわれている。」
 
 古代ギリシャの伝説の中には2つの大洪水に関する記述があり、プロメテウスの時代の大洪水を「デュカリオン洪水」、それよりのちの時代の大洪水を「オギュゴス洪水」とよんでいます。
 古代ギリシャの学者たちは、その中の一方が起こったのはフェイトンの大火、巨大彗星の金星接近のときと同時代であったと書き記しています。
 
 デュカリオン洪水の物語は、デュカリオンが妻とともに箱船に入り、大洪水を切り抜けてパルナッソス山に漂着したという逸話で、ノアの時代の洪水と酷似しているので、デュカリオン洪水はノアの時代の洪水のことで、紀元前約2300年前の出来事です。
 ノアの時代の洪水よりのちのオギュゴス洪水とは、紀元3世紀ごろに古代ローマ帝国領で活動した著述家ユリウス・アフリカヌスは「多くの人々が死んでいるときに救われたオギュゴスは、人々がモーセとともにエジプトを出たときに生きていたと、われわれは確信する」と書き残しています。

 実際、サイスの神官はアトランティス(ミノア文明)の滅亡と前後してギリシャのミケーネ文明なども大水で破壊されたと語っているので、オギュゴス洪水の正体は金星の大接近によって引き起こされたサントリーニ島の沈没と同時に起こった大津波です。
 サントリーニ島の沈没がエジプトではアトランティス伝説として、サントリーニ島の沈没と同時に起こった巨大な大津波がギリシャではオギュゴス洪水として伝えられたのです。

       1b2cc729

  ヨシュアのころのヒッタイト文明、ミケーネ文明破壊

 モーセに続くヨシュアの時代の紀元前1200年ごろ、長楕円軌道を描いていた金星が再び地球に大接近します。
 紀元前1200年ごろの金星の大接近により、ヒッタイトは崩壊し、ギリシャのミケーネ文明海の民に襲撃され崩壊し、大規模な気候の変動の原因になります。

  紀元前1200年のカタストロフ

 


 紀元前1250年ごろ、またしても大地震とポールシフトが発生します。 (参照

       Hittites

       Hititler56

 ヒッタイト帝国は紀元前1200年ごろに滅び、ヒッタイトの栄えたアナトリアの広い地域では、以後400~500年間にわたって人々が生活した形跡が見られません。
 この破壊の原因は、金星接近によるプラズマによる破壊なのです。
 この全面的破壊はあまりにも徹底していたため、800年後にこの地を訪れたヘロドトスはヒッタイト人について何も語れませんでした。

 そして、ギリシャ語で「ゼウスの雷が落ちた地」という意味の地名をもつカッパドキアにおいてとくにプラズマによる破壊が際立っていました。
 カッパドキアとはトルコの首都アンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地で、ヒッタイト軍の本拠地となりました。
 カッパドキアは、ヒッタイトの滅亡後2700年以上もの間、建物が建てられないほど荒廃してしまったのです。
 最近の発掘の結果、ヒッタイト帝国がどんな形で滅亡していったのかは分かってきました。
 彼らは業火に焼かれてしまったのです。
 アナトリアの数多い遺跡のこの時代の地層には、すべて大火災の跡が一面に残っています。

      hattusa

 首都ハットゥシャの発掘報告書によれば、この要塞都市は「原因不明の非常な高温」によって滅び去りました。
 考古学者ビッテルが「この町に可燃性物質がどれほど貯蔵されていたにしても、通常の火事ではこのような高温を出すことは絶対に不可能である」と述べるほどすさまじいものでした。
 日干しレンガの城壁や建物が融解して赤色の塊になり、石は焼結してひびができていました。
 ハットゥシャには、高熱破壊の跡が残っているのです。
 中央アナトリアのカマン・カレホユックなどの遺跡が、厚い焦土層を残しています。
 マシャト・ヒョユク遺跡は、壁という壁が強烈な熱を受けたために赤色にただれ硬くになっています。
 出土した粘土版文書の中には、強い火を受けたため2枚が完全にくっついているものがありました。
 焦土層の厚さは50㎝以上にもたっしています。
 紀元前1200年代、アナトリア高原全域が炎と化して燃え尽きたのです。

 粘土版文書の解読で明らかになったヒッタイト神話は、古代オリエント神話の中でもかなり特異な性格をもっています。
 「消えた神テリピヌシュ」の物語があります。
 テリピヌシュは暴風神(鉄の技術を司る鍛冶の神)の息子で実りをもたらす神ですが、人間たちの邪悪なふるまいに怒り姿を消してしまうのです。
 そのテリピヌシュの怒りが人々に災厄を下します。
 「そのとき、小さな黒い雲のようなものが地平線にまきあがり、雷鳴が起こり、稲妻が光り、怒り狂った叫びが大気をつんざいて響きわたった。
 刻一刻、雷鳴は激しく、稲妻はまばゆく、ついには天地がすさまじい戦いの中に閉ざされたかと思われた。」
 その結果、この世のすべてが釣り合いを失ってしいます。

 「霧のような灰が窓々をおおい、煙が家々を包んだ。
 炉では薪が消え、祭壇では神々が、羊舎では羊たちが、牛舎では牛たちが、それぞれ息を止められてしまった。」
 外界の様子はさらにひどいです。
 「戸外では、川や湖が凍りつき、雲はとける気配もない。
 木々はすっかり裸になり、ひとひらの草も野には見えない。
 寒さはあまりにもひどく、もう春や秋が訪れることはないかと思われた。」
 こうした影響はさらに続きます。
 「大麦と小麦はもう成長しない。牛、羊、人間はもう交わらない。
 そしてはらんだものはもう生めない。木は枯れ、新芽は出さなかった。
 牧場も枯れ、井戸も涸れた。 国中に飢饉が起こり、人も神も死んだ」

 ヒッタイトの衰退は、内紛、戦争などの悪のためです。
 ヒッタイトは内紛により弱体化した所へ外敵の侵略を受けて滅亡寸前に陥ったことがいくどとなくあります。
 近年の研究では、3代におよぶ王位争奪の内紛が原因で、国家を維持する力が失われていたことが明らかとなりました。
 シュッピルリウマ2世の治世の文章をでは、この時期国内が不安定になり、従属国が反抗的になっていたようです。
 紀元前1274年、エジプトとヒッタイトのカデシュの戦いなどをしていました。

         mklop99

          Sea Peoples

 そして他民族、とくに海の民とよばれるエーゲ海から人々やアッシリア人の侵出にもあったといわれています。
 ヒッタイトは、紀元前1200年ごろに、金星が地球に接近した影響によるプラズマの業火によって大打撃を受けました。
 その危機に地中海諸地域の諸種族混成集団の「海の民」によって攻め込まれ滅ぼされました。

     ngty76

 エジプトもミケーネ文明も「海の民」の侵略を受けています。
 海の民は北から現れ最初にミケーネ文明を滅ぼし、次にヒッタイトを滅ぼし、シリアを南下してでエジプトに撃ち破られて停止したのでしょう。