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2006年11月01日

ジェニー・ホルツァー JENNY HOLZER exhibition

ジェニー・ホルツァー JENNY HOLZER exhibition
2006/9/7-10/14 SCAI THE BATHHOUSE
http://www.scaithebathhouse.com/ja/

会期終了となってずいぶんと過ぎてしまったわけではあるが、ジェニー・ホルツァーの表現というのは21世紀の芸術のありかたを考えた場合、だまって通り過ぎることができない存在ともおもえ、甚だ怠慢な筆者であることを、寛厚な気持ちでご理解いただき記述するものである。


LEDと呼ばれるデジタル表示の文字が、連続してあらわれては宣伝広告やニュースを伝える。

繁華店の施設案内、あるいは商品の説明であったり、政治、経済や三面記事のたぐいの今日の出来事であったり、都市の雑駁にあって猥雑に氾濫する宣伝広告の坩堝の中で、街頭を往来する人々に一瞥させようとの企てであるらしい。

もっとも、ものごとの本質云々というよりも客観的な事実の情報の交換に懸命であって、多分に綺羅を飾る仕方であったり、誇張したイメージの強調であったりといえなくもなく、当たり前の様なマスメディアの情報流通の利便性に酔い痴れる。

ホルツァーは、言語的イメージを表現する。

壁一面につけられた順列するLEDの上を、単文が一斉に走っていく、薄明かりの閃光は「言語」を形成して、過去と未来が訣別することなく、永遠な反復を拵える。

表記されるのは、独白や警句、啓示ともとれる単文の形式であり、いわば、他者と共通認識である「言語」であることであって、日常生活における現象を認識する「感性」というような意識が、その現象の経験と「言語」との相互依存によって、常に反省されながら訂正されているように、「言語」というものと根深く作用し関係しているものである。

ホルツァーの単文の一部を記してみると。

「自明の理」
専門家には変人が多い
男には母親であることがどういうものかわからない
強い義務感は自分自身を束縛する
絶対的な服従は自由の一形態となりうる
権力の濫用は驚くに値しない
行動は思想よりも問題を引き起こす
疎外は奇人や革命児を生む

あるいは、ホルツァーのプロジェクトによる、各国の歴史的な意味を孕んだ場所においての「Xenon」シリーズの記録写真においても、何らかの事件の因果関係のある建造物に上記のようなあからさまな単文をプロジェクターで投影するのだが、過激とも奇矯ともとれる誇張の蹂躙にもみえなくもない。

「自明の理」を一瞥してみても、私たちの経験に合致しないわけではない、生活空間に絡みついたあからさまで現実主義的な外面的なものに、内面的なものが表象されている様を、観念的な体系を拒むようにして、煩悶とした大衆の軛のようなものを、取り外さんと目論んでいるようにもみえる。

またひとつ、ホルツァーの単文を記してみる。

「サバイバル」
大地に呪縛されているからひとは感情を爆発させる
セックスが救いとならないいま、いったいどんな衝動が救ってくれるというのだろう?
やさしさはじっくり味わいなさい、残酷さはつねにあとになってくるかもしれないから
自己制御を停止し、大量殺戮を望むときに崩壊が訪れる
尋問されたらすみやかにひっそりと死になさい、あるいは尋問者があなたをこれ以上傷つけるのを恥じるまで長生きしなさい
夢のなかで生き残る道をみて、喜びにみたされた
役立たずと思われたら、だれももう養ってくれないだろう

意識の働きには、前もって「言語」が介在している、様々な現象の主体的および客観的な認識は、「言語」が媒介されていて、その範囲内でのみ意味をもちうる。

「言語」によって個人の経験が他者に説明可能になるわけであり、例えば、自分と他者がお互いに離れた場所にいても、電話や手紙、あるいは今どきであるならばケイタイメールで会話をするのだが、各々の体験が「言語」によって語られることで共有する構造化したイメージを頭の中に描きだしながらそれぞれに考察し、より現実味をおびた仕方で経験されるのである。

その基盤が、日常的な生活空間である現代社会で流通した「言語」であるだけでなく、その社会の範囲内だけでのみ意味をもちうる。

このことは、あるいは敬虔であることが、合理的な物質中心主義的な生産社会にあってはもはや廃れてしまったように、時代的な社会システムの埋没した規範に左右されるように、流動的な社会性の中で常に変化し更新されていくものであって、普遍的に形式化するものではなく、人々の認識の範囲内で事実なのである。

ホルツァーは、マスメディアのシステムに便乗し利用することで、生活空間の習慣性を嘲罵し、事物の本質は人々の認識そのものによって作用することを示唆し、人々の認識も形づくられたもの、いわば、鋳型でつくられる工業製品のようなオートメーション・システムの産物と同じではないかと、観衆の意識をメッセージの中へと収斂させるのである。

観衆は、否応なくともみせられるのである、言語として無意識のうちに蓄積されることになるのだが、ただあいにく、わたしは英語に疎いわけで、英文としての言語がわたしのうちに蓄積されることは、まずないのではあるまいか、何が書かれているのかわからないわけなのである。

ともすると、そのことによって、ホルツァーの呈示する大切なものもわたしに伝わってこないのかも知れず、このような記述も雑駁な情報の流れのように闇に流されていくのであろうか。



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2006年10月03日

イケムラレイコ 「パシフィック」

イケムラレイコ 「パシフィック」
2006/9/26-11/4 Shugoarts
http://www.shugoarts.com/jp/index.html


静謐な月の清浄さは、韜晦することをためらう、貪婪な嫌悪と卑しさの類を露わにし、無垢なる観照の機会を与える。

貪婪な嫌悪と卑しさの類の不浄が、浮き上がって曝されたのだから、その根底にある既存の清らかな性は、輝きを放ちはじめ、不浄も浄化されることとなり、円満な月と呼応し真実なる唯一へと向うのである。

月と一体となるというのは、例えば、真言密教に月輪観(がちりんかん)というものがあるが、瞑想法によって円満な月を意識し、自然世界を意識し、あるいは宇宙空間を意識し一体となり、宇宙そのものである大日如来とひとつになるというものだったとおもうが。

日本仏教の中核である真言密教にあっては、月も仏の姿であったにちがいない。

多くの先達の歌人も歌に嗜めたであろう中秋の名月は、崇高でさえある。


イケムラレイコの絵画には、月は現れてこない。

月が描かれていないのは、月が存在しないのではなくて、月が闇で覆われて隠れているのだとおもえてならない。

「パシフィック」と題されているように、海景をイメージとして構造化されてあるのだが、ほとんどの海景が闇に蔽われている。

深く濃い闇に水平線がたちあらわれて、空と海を分断しようとするのだが、侵骸しようと挑むばかりで、いっこうに裁断することはなく、漸次に闇に侵食されていく。

ともすると、水平線は境界線ではなく、空と海、私と他者といったような二元的な分断を対峙させて訣別させるのではなく、首尾一貫した闇の面紗(ヴェール)で蔽うことで、不鮮明ではあるのだが、他との一体性を示唆していると、いえないだろうか。

イケムラは渡欧した時、東洋と西洋の葛藤や自己のアイディンティティの問題を人知れず抱いていたというが、そのことによって自己の内面を問うあらたな構造化を伴いながらも、明瞭な表現形式として結実しがたく、揺曳する観念的な焦燥に駆られていたのではあるまいか。

闇の中で、少女のイメージや鳥が飛翔するイメージが交錯するのだが、突然に闇を擘く一条の閃光がはしるのである。

闇の面紗(ヴェール)は無明(むみょう)をあらわす、いわば闇に蔽われ方向性がつかめない真っ暗闇の状態であるのだが、そこに光明が閃くのである。

これが崇高をおもわせてならない。

哲学者カントは、崇高について論じている、それによると
「崇高は美と同じく快さと満足感を与える」また、「崇高の感情については、その快さは想像力の自由な遊びや戯れから直接には得られず、対象への反発を通し、不快を介してのみ得られる」

ともすると、イケムラが、観念的な焦燥に駆られるとはいかないまでも、構造化したイメージを闇という面紗(ヴェール)で蔽ってみせて、眼を見張る閃光を閃かせてみせて、そのような絵画空間に崇高さをつくってみせているのだろうか。

そうして、崇高さは清浄さも兼ね備えていて、イケムラが闇の面紗(ヴェール)を剥いでみせると、そこにちゃんと月があらわれるようになっているとおもえるのだが。

さきに揚げた、真言密教の祖は「空海」である、すべての川は海に流れつく、汚いものも当然に海に流れ込むのだが、そこで密教の力によって、汚いものも清浄になるのだと、「海」は常に「空」であるのだと、いわれる。

イケムラのみせた崇高な海景もまた清浄であるにちがいない。

カントは崇高について、このようにも論じている
「崇高とは無限なものの消極的な表出である。したがって、ユダヤ人の律法書が神を形像や似姿によって崇めることをきびしく退けているのは、その趣旨をよく体現している」

ユダヤ教と仏教といった、宗教的な見解の相違であるのか、カントの感性や理性や悟性と観念論全般の見解の相違なのか、私には究明するものではないのだが、後半のユダヤ人云々に関しては、狭小的な論であるとおもえてならない。

しかし、前半部分はすばらしい感性の閃きであるとおもえる。

崇高とは無限なものの消極的な表出である。




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2006年09月22日

さよなら ナム・ジュン・パイク 展

さよなら ナム・ジュン・パイク 展
2006/6/10-10/9 ワタリウム美術館
http://www.watarium.co.jp/museumcontents.html

「ボイス」と題された作品がある、時代がかった年季のはいったテレビが人型に積み上げられてあり、“ヨゼフ・ボイスのアクションのありさま”が映しだされ、てっぺんに“ヨゼフ・ボイスのトレードマークであった”帽子をかぶり、足元には“コヨーテの剥製”がまた、小さなテレビで彼の映像を見ている。

“ヨゼフ・ボイス”へのオマージュであるにちがいない作品である。

“ヨゼフ・ボイス”はドイツのアーティストである、「人間は誰でも芸術家であり、自分自身の自由さから、“未来の社会秩序”という“総合芸術作品”内における他者とのさまざまな位置を規定するのを学ぶのである」

と語ったように、社会彫刻という概念によって芸術の社会的な関わりを問いたひとりである。

コヨーテもまた、彼を象徴するアイテムであり、1974年のアメリカでのアクションに「コヨーテ 私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」がある、アメリカ先住民の聖なる動物であるコヨーテと、三日間、画廊でともに過ごすというものである。


そういえば、ニホンオオカミの最後の一匹は、吉野、熊野あたりの大杉谷で絶滅したというが、霊山であるそこいら一帯は、役行者(えんのぎょうじゃ)が修行する霊験あらたかな地であって、そのような行者の祖である“役小角(えんのおづぬ)”は人智を超えた神通力を持ち、前鬼、後鬼、八大童子、狼を従えていた。

“月に吠えろ”と、満月の夜に遠吠えする狼の習性といってしまえば、まるで内容の詰まっていない曖昧な猥雑なだけのオブジェのようであるのだが、大峰山の峰で法螺貝を吹く修験行者のように神秘的な霊気に呼応する顕れであるにちがいないのだ。

「月に吠えろ」と題された作品もまた、“ボイス”へのオマージュと“ナム・ジュン・パイク”と“ボイス”が四次元の部分で呼応し合って一体化し、混ざり合ったものの投影された影であるかのようである。

“パイク”と“ボイス”を結びつけたのは、“フルクサス”であった。

―それはポスト・マルキストであるジョージ・マチュナスが「問題は生産にあるのではなく、配給にあるのである」と直感し、支配的なギャラリー、ミュージアム体系に独力ではむかって、アーティスト自身による配給体系をつくり、アーティストの主体性をアーティストの生産手段のhousingに迄拡大して、80Wooster Streetに、アメリカ最初のフルクサス・コーポを法的に作って、ソーホーの口火をきったからである。
パイク1986年―

上の“パイク”の言葉にあるように、フルクサスのアクションは、社会でのアートのあり方や関わりを問い直すものであった、閾というものがあって、閾を越え出ることで個の実在性を立証しようと試みたのだった。

しばしば“パイク”もまたアクションの最中にピアノをハンマーで打ち壊したり、バイオリンを叩き割ったり、物を破壊する音を音楽の演奏としたり、観覧にきた敬愛するジョン・ケージのネクタイをハサミでチョン切ったうえシャンプーで泡だらけにしたり、実にダダ的で過激なハプニングで観衆を煙に巻いた。

テレビにいたっては数え切れないほど破壊したが、数え切れないほど作品となった。

“ボイス”共演のアクションなどでは、テレビは煩雑なオブジェと変容し磁石や電圧によってねじまげられた映像は、より過激なハプニングを増長させたであろう。

“パイク”は、テレビという社会や文化における媒体性をアーティストの媒体である作品というものに合致させた、アーティスト個人を取り巻く社会の共有するメッセージ性を、記号的なイメージ的表象へと変換させる。

時として、卑俗で猥雑なイメージは、人間の影の内証を明かすものであるといえなくもない。

「ユーラシアン・ウェイ」と題された作品にそえてあるが、
―結局、人間の活動は
「いかにエネルギーを最小にしつつ膨張あるいは流れていくか」ということにあるんだろうね。
遊牧民族は、それをひとつの典型として知っていた。
別の言葉で言えば「遊び」ですね。
これが次の世代の最大の問題ね。
パイク1981年―

過激なアクションであろうと、不思議な映像を映すテレビのオブジェであろうと、“パイク”には諧謔の精神がしみついていて、大勢の友人にジョークをとばすようなもので、屈託のない法螺吹きのように快活であったであろう。

“月に吠える”とはそのようなものではないだろうか、自分自身の一切をさらけだし、繋縛しているものを解き放ち開放する。

ともすると露骨に狡猾な表現にみえるだろうが、荒々しく杜撰な仕方であるだろうが、かまわないのだ、なにせ閾を突き破るのだから、膨大なエネルギーを費やすのだから。

そうして、はたして閾は突き破られたのだろうか。いや、そのまえに閾というものは、ほんとうにそこにあったのだろうか。

静謐な月に照らされて、少しだけ闇がおしやられてみると、そのようなものは、はじめからなくて、吠えることがいわば生の表現であって、そうすることによって限定化された“私の範疇”があっただけと、いえなくもない。

2006年1月29日、急遽した“ナム・ジュン・パイク”に追悼・・・・・




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2006年09月06日

アフリカ・リミックス 多様化するアフリカの現代美術

アフリカ・リミックス 多様化するアフリカの現代美術
2006/5/27-8/31 森美術館 六本木ヒルズ森タワー53F
http://www.mori.art.museum/html/jp/index.html

20世紀初頭においてのアヴァンギャルドの巨人パブロ・ピカソは、その諧謔した線の構築に実在世界における事物の多様なものの見方のフィギュラブルなイリュージョンを見せた。

無二の親友であるブラックよりはっきりとした力強い線で、嵌入する事を躊躇するようなパッサージュ、いわゆる空間が線で構成されているのだが、線と線がしっかりつながっておらず隙間があってそこから空間の質量的な色彩がもれだす様であって、同時代にあった動向が、体制や権威、あるいは傲慢なブルジョア的なアカディミズムに風穴をあけるべく揮ったのがダダであったように、閾を突き破リ超え出る事をしきりに表象化しようとした。

そのピカソが魅せられたのは、“アヴィニョンの娘たち”と“セザンヌ”の他に、名もない黒人彫刻であった。

奔放で呪術的なプリミティブな造形に、近代の西洋哲学に乖離する、未知なる力に介在する調和の象徴と捉えた神秘性を感じとったにちがいない。


アフリカは、暗いヨーロッパの植民地時代より独立を果たして、近代化は約40年を経た。

いまだ数々の内戦や紛争、環境汚染、エイズやマラリア、貧困や飢餓と、どっさりと問題をかかえている人類の起源である大地。

カラカラに乾燥した荒涼とした砂漠に、濛々と舞いあがった砂煙のために太陽は薄れてしまったのだろうか。

人類の起源の碑は、悠々と砂の上に寝そべるスフィンクスやピラミッドを尻目に浮き砂のなかにすでに埋もれてしまったのだろう。


つぎに日本の昭和のアヴァンギャルド“はなはだ清輝”の一節を記しておきたい。

―南大西洋の西南風は、海の湿気を含んでまっしぐらにアフリカにむかって吹きつけるが、瞬く間にその湿気の大部分をコンゴー山脈に吸いとられ、照りつける太陽のために、膨張し、赤熱して、ながれる大きな一条の焔と化し、触れるものすべてを焼きつくしながら、一気にサハラ砂漠を横断、紅海をわたって、アラビアの空に荒れ狂い、大地から緑の衣を剥ぎとって、ペルシアに突入、埃の渦まくなかを北上して、古代バクトリア文明を殲滅し、さらに進んでタリム盆地に砂塵の舞踏を演じ、東に折れ、南に曲がり、電光のような速さでゴビ砂漠を通過、中国の本土に黄塵の雨を降らせて後、一躍、黄海を越え、西北の季節風として、日本列島へおそいかかる。・・・・・・


ソリ・シセ、マルレーネ・デュマス、ズィネブ・セディラにみられるのは、内戦や紛争の犠牲になった辛辣な記憶が構造化されたものである。

絶望と悲哀の淵に沈澱するはずの傷あとを、再び浮びあがらせて、表現としてのイメージの構造化によって、過去を乗り越え、あらたなアイディンティティの確立に帰結する。

アイディンティティとは、個の存在するべき全体への「同一性」である。

アフリカにとっては植民地主義支配の解放が、皮肉にも、圧しつけられた白人文化の屈従と原初への回帰的な黒人性(ネグリチュード)との狭間で揺曳するアイディンティティをもたらし、濛々たる砂煙を舞いあがらせ視界を遮っているのだ。

ジェーン・アレクサンダー、フェルナンド・アルビィン、インカ・ショニバレは、嘲笑的にアイロニカルな仕方で、象徴される文化とその解釈を捏造する。

ジャクソン・シュルングワニは、自身は彫刻作家ではなく神の手中にある道具であると主張する。いわば聖なる神業に突き動かされる、アニミズム的な前近代な後退した非自己的であるように映る。

ヴィム・ボタは、宙吊りになった家具や窓などの素材を静謐に空間化し、ヨーロッパ系白人邸の象徴とアパルトヘイトを対峙させたアイディンティティの恢復を表象化する。

ジュリー・メーレトゥの絵画は、パースペクティブな空間に精密な建築図面の晦渋となった線の塊が煩雑なイメージでせめぎあっている。


世界規模で砂漠化が進んでいるというが、すさまじい砂塵の嵐はすべてを呑み込む驚異的な破壊力を持ち、白人だろうと黒人だろうと、はたまた黄色人であろうと一緒くたにしてしまうだろう、ただの一握の砂であるのに、アイディンティティなるものも虚空のなかに消えていくのだろう。

すべては虚無であるということではない、多様で多人種である人類の表現は、統一的で超越的なある進化の方向にむいているにちがいないのだ。

はなはだ驕ってしまったが、最後はまた“花田清輝”の一節で終わりにしたい。

―もはや眼をつぶってみても、一粒の砂のすがたはみえず、ただ無数の砂粒の揺れうごくのがみえるだけだ。しかし、これはたしかに砂漠の運動ではない。たぶん、砂男(ザントマン)のせいにちがいない。あんまり夜ふかしをすると、砂男というやつがやってきて、いきなり一握りの砂を眼のなかにいれ、遮二無二、眠らせてしまうとドイツではいうのだが・・・・・・・・・。




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2006年08月24日

福島矢上 展 WIND OF LOVE

福島矢上 展 WIND OF LOVE
2006/8/14-8/20 板橋区立成増アートギャラリー

http://geocities.yahoo.co.jp/gl/shiurasalon

金色の滴りはすべらかな自由曲線を描いて見せ、地塗りされた一面の白色に乱舞している。

始点から終点まで輻輳したひとつの線の連動で、手の動きにゆだねる身体運動の残像が偶然にもそこかしこに閉じられた空間をつくるのだが、その空間に立ち表れる彩はすべての「もの」の多様な関係を表象させ結合する。

ひとつの「もの」の生成は、このようにして生まれては関係し、発達しては運動を推進させ、連続の果てには停止するものなのかと、その現象の記憶となってとどめてある。

ひとつの「もの」もたくさんの「もの」も、つまりはひとつの現象であって、関係性の複合体であって、つまるところは普遍的で絶対的な意味で成り立っているに違いない。


ドリッピング(滴り)によって形成されるゴールデンライン(金色の線)は、福島の自身の身体からほとばしるエネルギー体であって、すべての「もの」と共有する普遍的な価値と響き“愛”。

無償の愛、優しさ、思いやり・・・・・という「かたち」の定まることのない極めて複雑でいて、誰にでもそなえてあるのだが、近くにあってともすると遠くに置いてしまっている、そのような普遍的な価値をイメージとして構造化する。

イメージの構造化とは、感性的なイメージと、この場合は視覚的イメージと言語的イメージであるのだが、理性と分別(悟性)と構想力を総動員させて、経験的イメージと構造化の現象に伴って現れるイメージの連関の相互依存によって、より吟味されて形成される「かたち」である。

「かたち」は、福島の表現の形式として様式として確立され、作品そのものに福島の「ものの見方」が埋没する仕方で絵画空間を形成する。

この場合、作品は“福島の実在”という表象されたものが空間化されるのではなくて、福島の「ものの見方」として構造化されたものが空間化されるといえる。


福島は述べる。
「すべては“愛”である。やさしさ、思いやり、寛容さ、感謝、祈り、エゴ・・・ゴールデンライン(金色の線)は、神の愛、神の光、無償の愛である。」

「色や形は、いろいろな考え方やものの見方、個性、すべての事物を表現していて、ゴールデンラインはあらゆるものに存在し、神の愛によって包み込む。」


我々の生活空間で認識される現象が実像であるならば、イメージの構造化による「対象」は虚像である。

それは偽りや幻の範疇に追いやることではなしに、作品はつくられたものであるという事。

現象によって知覚された感性的イメージの集積を「脱構築化」した、メッセージ性を孕んだ造形空間であるという事である。

「脱構築化」とは、従来の「かたち」を壊して再構築することであって、常に新しい「かたち」を更新していくことである。

新しい「かたち」を更新させることは、新しい「わたし」を更新させていくことでもある。

このような一連の性質こそ、同時代性の表現として響き合う潮流ではないだろうか。

福島の造形空間であっても、多層的で多面的な奥行きを見せるのだが、その構造が現代社会の複雑さや生活空間の多様的な関係性と重なり合うひとつの流れとしてあるだろう。

作品は、作者の手をはなれ独立した造形空間としてメッセージを発信する。

見る人は、作品にこめられた「ものの見方」での造形空間に挑み、メッセージを受信するのだが、見る人もまた感性的な「ものの見方」で吟味し認識のイメージを膨らませる。

つまりは「作品」を中心とした「作者」と「見る人」の関係性がそこに付随され、作品をメディアとしたコミュニケーティブな現象がおこってくるのだ。

同時代の多様化した今日の社会において、“神の愛”や“無償の愛”といったテーマで「人類」というものを見つめ直すコミュニケーティブなネットワークがあって当然であるし。

実のところは、「かたち」に表れない次元を超えた霊的な存在で、万物に共有されているものであるのかもしれない。

福島は、来年の夏にはニューヨークのチェルシーで個展を予定している。

他に響き“愛”。個を拡大させ、様式はより変容していくことであろう。

なぜなら、作品を成長させるのは、「見る人」でもあるのだから。




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2006年08月21日

構想中です!

こんにちは!暑いですね!

閲覧にこられる方々には、大変ご無沙汰いたしております。

お詫び申し上げます。

一応〜美術評論ものということで、ナンだかわけのわからないことを、こねくりまわすようにして、ほざいておりますが。

いろいろ想うところがあって・・・というより夏バテだったりするわけですが、おなかに力が入らないっていいますか・・・目がパッチリしないっていいますか・・・

まー兎に角、今つくってまーす。まだ構想中でーす。

ネタはありますよー。ほんと!


そのようなわけで、また見にいらしてくださいなー!



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2006年08月08日

日本にほん×ガテン!画展 しょく発する6人

日本にほん×ガテン!画展 しょく発する6人
2006/7/15-9/20 横浜美術館
http://www.yaf.or.jp/yma/


言語化されたイメージが埋没された現在的世界が“中村ケンゴ”の作品にもまた空間化されている。

「:Re」の連続する作品がある、日常の生活空間における人の行動のパターン化された、繰り返される運動の連続、あるいは認識するイメージに伴って想起される言語的イメージの連続に符合する。

我々の知覚する直感的な感性は、絶えずとめどもなく繰り返される現象に対応し認識している、近代ドイツの哲学者カントは、私たちの認識(経験)が関わるのは、物(対象)そのものではなく、物(対象)の「現象」だけであり、「物自体」は認識できないとみなしている。

このことからも、物(対象)は、そのものとして実在するのではなく、現象の中に立ち現れるものとして構成されるものである。

現象は、イメージとして、表象として、絶えず生まれ追っては消えていく、曖昧で流動的な混沌とした生成と消滅を繰り返す。

我々は、この混沌の中から言語的なイメージや記号的なイメージといったものに生成する「ものの見方」、あるいは、概念を規定している。

そして、闇と混沌とが存在していたところに、明瞭性や秩序や連関というものが生み出されるのだ。

言語は、対象の認識において他者と共有することができる、高度な開かれた体系である。

言語は、視覚表現と同様に明瞭性や秩序という「ものの見方」を表現する。

それは基底された、言わば人間の元型にすりこめられた仕方で無意識の領域に内在されているかのようである。

この曖昧模糊なものから生成される言語化という作業は、人間が無意識の内におこなっているイメージの経験という記憶の中に、根強くすりこめられており、連関と関係性と統合性の性質によって、言語が言語を関連づけるという形で複雑に混ざり合って、複合的な視覚化イメージと絡み合っている。

複合的な視覚化イメージは、“小瀬村真美”の映像インスタレーションに、ゆっくりと揺れ動く草花の変化する四季の情景として映り行く。

連続する現象の揺れ動きという、曖昧で捉えどころのない流動的な混沌としたものを、日本画の題材に頻繁に表れる日本の草花や池の鯉などのイメージを描写した、絵画空間という視点で像を投げている。

一つ一つの絵画空間である静止画像を均一に堵列させることによって、不鮮明な仕方で、決して自然的ではない動的な変化をもたらし、嵌入された関係性が立ち現れる。

物(対象)そのものは存在するものではなく、現象の関係性の中で構成されたイメージとしての草花の像を見るのである。

知覚は見えるものをとらえようとするための機能であり、見えるものの錯覚も錯覚として捉える。

不鮮明な見え方やズレといった形で表れる嵌入された関係は、混沌の状態にあった生成と消滅の性質を方含してあり、有機物を連想させる生と死の現実を露にする。

“松井冬子”の図画は、伝統的な日本画の技法に則しながら、有機物的な生成と消滅に嵌入された関係を映し出すように、牧歌的な生に抑圧された人間の暗い側面や鬱屈した性動を露にする。

緻密に描き込まれたその絵画空間は、不穏な視覚的イメージで均一化させながら静謐としてあり、醜さと美しさを曝す。

「短時間の強力な蘇生術を行うについてとくに必要とされるもの」や「この疾患を治癒させるために破壊する」は、つけられたタイトルである、「ものの見方」として規定された絵画空間の視点に、言語化に関連して想起し続ける流動的な風潮がすり込まれていく、多層化した奥行きを生み出している。

多層化した奥行きは、崇高さを想起させる。

崇高とは、感性の認識を超え出る圧倒的な大きさや力をもった対象に直面した時に覚える屈折した「快」である。

それは、「不快」をともなった「快」であり、恐怖を介しての「快」である。言わば、人間の感覚を圧倒するような、構想力を打ち壊すような「恐怖」を体験した時におこる、「恐怖」に陥れる「快」であり、わたしたちの感情や感覚が圧迫される「不快」である。

垂直落下する一条の光りを呑み込む“中上清”の図画もまた、多層化した奥行きのある崇高さを想起させる。

幾重にも重なる輻輳した流動的な潮流が混ざり合い、黒く澱んだ闇の混沌に突き刺さる、明瞭性と秩序の杭である。

杭が突き刺さることによって、そこに渦ができ、変化した流れを生むのである。

この杭を突き刺す連続、渦の連鎖こそが、視覚的、言語的イメージへと秩序たって変換され表現を形成していく。

その表現の形成においても、常に吟味され検証され、浮き沈みを繰り返し更新されていく。表現もまた、固定してはいない、頻繁に更新される変化するものであるのだ。

その生成にあって、自分の原則に従おうとする心情、崇高であるものは、狂信に墜落することのなく熱狂に固執することのない、真に冷静で清浄さに「我」を受け渡すものである。

一条の光は、暗を破り辺りを照らす、あたかも静寂に圧倒的な生成が浮かび上がってくるのだ。




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2006年08月02日

日本にほん×ガテン!画展 しょく発する6人

日本にほん×ガテン!画展 しょく発する6人
2006/7/15-9/20 横浜美術館
http://www.yaf.or.jp/yma/


日本画とは、日本独自の図画のことである。

しかしながら日本画と呼ばれるのは明治になってからで、以前は別な名で呼ばれていた。

古来、奈良時代や平安時代に中国や朝鮮半島から渡来された図画が「唐絵」である。

その「唐絵」の技法や様式に日本的な主題を持ち込んだのが元来「やまと絵」である。

それ以来「漢画」に対して「和画」、「唐画」に対して「和画」というように、さまざまな時代での捉え方や呼び名は異なるが、本来、伝統的な日本の精神を伝承した「図画」であることは間違いない。

近代化の波が押し寄せた時代に、「美術」も伝来された、「美術」とは「像ヲ作ル術」、主に西洋的な概念と技法による舶来「洋画」として、技術と様式が招来され、日本人画家に取り込まれていく。

その「洋画」に対して、従来の日本の伝統的な技法や様式を継承する仕方で、明治以降、「日本画」が確立されていく。

岡倉天心は横浜に生まれ、日本美術院に深く関わり、多くの日本画家を輩出する。

そのような経緯から、横浜美術館の収集する、下村観山、今村紫紅などの「日本画」にあわせ、この展覧会のタイトルにもある、触発する仕掛けを呈示する。

にほん×ガテン!は、「日本画」の新しい表現の可能性に視点を定めた、従来の「日本画」と「洋画」というジャンルの隔たりを超えた、本来的な造形表現に開けたものといえる。

つまり過去の経験に基づきながら、常に新しい自分を更新し認識していく、流動的でとめどもない現象の連続である現実空間に、ひとつの表現様式を打ち立てようとするものである。

表現様式も映り行く現実に即した仕方で、形成されていくものである。

ともすると「日本画」の現在も、過去の伝統的な技法を継ぎながらも、まったく新しい様式に変容するにも至極、当たり前であるのだ。


“しりあがり寿”は、漫画家である。表層的な線画によるデフォルメされた、記号化されたユーモラスで変なキャラクターがひしめき合い、溢れるばかりのイメージの連続は、壁や天井いっぱいに「オレの大国」を脱構築する。

これまでの蓄積された経験のイメージや言語として形成されたものが、壊され、分化され、新たに再構築される。

自然のもののイメージを壊してはまた構築する、そのイメージはズレやデフォルメといった描写で形成され、流れる時間に漂うように目と手にゆだねるのだ。

流れる時間に漂うように、“藤井雷”の絵手紙もまた、生と死という崩壊と生成とを永続的に繰り返す、輪廻転生の円循環としてまた輻輳した多層的なイメージとして生成されていく。

親族に自分の消息を伝えるためにはじまった絵手紙で、その時のイメージを描きつづった絵巻物を形成し、様々な描写技法でくりひろげるイメージ群は、書というものは見当たらないのだが、確かにその中に言語化されたイメージが埋没された現在的世界が空間化されている。

言語化されたイメージが埋没された現在的世界が“中村ケンゴ”の作品にもまた空間化されている・・・・・・

つづく・・・・




hidekio67 at 21:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)芸術 | アート

2006年07月25日

ロビン・ロード 展

ロビン・ロード 展
2006/6/6-7/30 SHISEIDO GALLERY
http://www.shiseido.co.jp/gallery/html/


白い壁面に映し出される像、ポップでユーモラスで、社会の中の自己の有様を風刺する、時にアイロニカルな映像を投げかける。

映像は、ドローイングと人物がパフォーマンスを繰り広げる、人物の行為が「もの」に関わっていくわけだが、「もの」は壁面や地面にチョークで描かれたドローイングなのである。

ドローイングは運動をはじめる、アニメーションの要領でそのつど瞬間は静止画像として連続的に展開する。


自転車に乗ったふたりの少年、自転車はふたりの少年を振り落さんばかりに爽快に加速していく。

あるいは、地に種をまき水を与え、芽が吹きすくすくと植物は伸びていくが、人は根こそぎ刈り取ってしまう。

あるいは、車のタイヤを交換する人物。など・・・・


見せるための造形表現として、作品は行為される。つまり、作家は、見せるために作品の中にメッセージ性を埋没して、イメージを投影する。

見るものとして観衆は、作品を解釈しメッセージ性を読み取る。この場合、作家の見方に沿った仕方で見られるわけである。

作家の見方とは、作家の表現した形式である、絵画的平面空間であるのか、彫刻的立体空間であるのか、または、絵画空間であっても、自然的写実なのか、幾何学的抽象なのか、幻想的具象なのか、大衆的イメージなのか、アイロニカル的イメージなのか、退廃的イメージなのかと、作家の見方に沿って、観衆は視点を向けていく事になる。

作家自身もまた、一人の観衆であり得る。作品を客観的に捉えて、自分の中にあるおぼろげなイメージと作品空間に表れたイメージと相互依存して、常に新しいイメージとして新しい自分を更新させ再構築をしている。

行為にしても、日常的で合目的な行為であるのか、社会的で体制に対立する行為であるのか、意図する表現によって形式化されるのである。

行為する個人の知覚する認識によって、意図する表現は異なる。

ロビン・ロードは、ストリート・パフォーマーである。路上や公共の場で、チョーク一本でライブをおこない観衆を魅了する。

観衆に見せるためのパフォーマンスは、我々の日常的空間にある行為や動作に連動していてパフォーマンス空間においてそれを錯覚させる。

我々は日常空間での経験があるから、実際におこなったであろう行為の記憶と実際におこなわれるであろう行為の想定とを、今おこなわれているパフォーマンスに投影することができ、経験と虚構のそのズレによって、ロビン・ロードの演技とドローイングによる造形的パフォーマンス空間を生成させることができる。

ストリート・ライブが限定された空間へと生成されるのは、観衆の存在と、パフォーマーと観衆の共通した人間的な知覚認識によって成立する。

もちろん、映像表現や写真表現というメディアに変換されたとしても、同様な効果で表現空間が生成される。

このように「もの」との関わりがズレた表現で描写されるのだが、そのズレが見る人の見え方によって、言わば人間の無意識的な認識能力によるのだが、それによって造形空間が確立されるのだ。

ズレた関係を見る、見る人の見え方は、見せる人の見せ方によるものでもある。

見せ方とは、見る人と見せる人との共存する混沌とした世界が投影されたものでもある。

混沌からの跳躍、形式化した秩序として生成されたものであり、飛び散った一点が図式化した像として影を投げる。



hidekio67 at 19:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)芸術 | アート

2006年07月16日

神谷 徹 展

神谷 徹 展
2006/6/30-7/29 SCAI THE BATHHOUSE
http://www.scaithebathhouse.com/


物とは、一つのものとして他から区別される統一的な、同時に様々な多くの性質をあわせ持つ、まとまった「形式(かたち)」をもったものとして見られる。

まとまった「形式(かたち)」で見られる物質は、その存在を持続させる「質量」を伴う。

物質の知覚は、空間と時間を先験的に知覚させる、つまり、物質の知覚によってそこではじめて空間と時間が知覚可能であり、物質が存在しなければ空間と時間は存在せず、空間と時間が存在しない所には物質が存在し得ないわけで、経験的に概念的に単独で空間と時間が存在するのではなく、人間が物質を知覚する認識能力によって立ちあらわれるものである。

近代ドイツの哲学者カントは、私たちの認識(経験)が関わるのは、物(対象)そのものではなく、物(対象)の「現象」だけであり、「物自体」は認識できないとみなしている。

物質の「形式(かたち)」は「悟性(分別)」が、「質量」は「感性」が対応し、それを補うように「図式」には「構想力」が対応して、人間の認識をかたちづくる能力としている。

「感性」は、物質の形式の内部のさまざまな「質量」を受け入れる受動的なものとして働き、「悟性(分別)」は、物質の「形式(かたち)」を与え、規則づける能動的なものとして働く。

人間の経験的な認識は、否応なしに現象を受容し、他方で否応なしにそれを統一してしまう機能に支えられて成り立っている。

「理性」は、「感性」、「悟性(分別)」と複雑に絡み合い、渾然一体となって働き、現象を、かたちを持ったもの(限定された客体)として、現象に出会うごとに分節する機能(カテゴリー)を内在させて認識している。

カテゴリー機能によって「反省」し、意識的に「統一」をする。また、現象を他の現象から分けて認識(分別)するだけでなく、この分別の規則だけ取り出し、結びつけ、規則のシステムをつくり、このシステムから現象の原因やこれから起こるであろう結果を思考(推理)する。

こうした高次の原理やシステムにまとめていこうとする「推理」能力が「理性」である。

このようにして人間の経験は、「感性」、「悟性(分別)」、「理性」が絡み合うかたちで成り立っている。

この絡み合ったなかで「構想力」が「かたちをもったもの」もしくは「かたちをもった現象」として「イメージ」を意識にもたらしてくる働きをする。

私たちが眼を開いた瞬間に、いつも、すでに、ものごとが一定の「かたち」をとってあらわれる。つまりそれは、無意識の次元でイメージ(かたち)を取りまとめる能力が働いている。

このことから「構想力」は、私たちの経験において、自由に使用するのではなく、逆に、私たちの経験がそれによって成り立っている。

そしてこの「構想力」の内で働く「図式」に従ってしか、ものごとを経験できないわけである。

「図式」とは、私たちの身体の奥にすでに備わっている「ものの見方」「身体の構え」である。


淡いグリーンから深いグリーンまでのグラデーション、この滑らかな中に薄っすらと漂う輪郭線の結ぶ表象は、牧歌的な山間の景観を描写している。

イエローからレッドのグラデーションは、木々の黄昏時のたたずむ情景を描いている。

同様の形式によるグラデーション作品はどれも、充満し溢れる「色」による「質量」の拡大に、輪郭線は溶け込み、あたかも煩雑として混沌としたものが、まとまった形式へと秩序たてられていく様が、流体的で風の通りぬけるような風(ふう)をみせる。


20世紀初頭、ピカソとブラックは、絵画の実験「キュビスム」を展開する。

モチーフの形象の単純化と幾何学的な形象から出発し、多面的な視点が複雑に同時的に視覚化され、形象をゆがめる仕方での形象の形式をみせた。

キュビスムでは「パサージュ」が多用された。「パサージュ」とは、輪郭線が連結せず線が途中で途切れていて、そのことによって、すき間から隣接する面が、言わば「色」「質量」が隣接する面に流れ込む、にじみ込むことである。


もう一方の形式にみられる絵画は、ぼやけ、にじみ、がかっており、デフェーズさせた、言わば光の強さをやわらげるための、物質の「質量」を曖昧にさせる効果をもたらしている。

画面に描写される、木漏れ日、室内の光りが映り込んだシャンデリア、夜の街のネオンの光り、はグラデーションの絵画同様に、「色」による明度や彩度や明度の変化といった「質量」の拡大に、輪郭線は溶け込むのだが、逆に秩序から混沌へと煩雑とした風(ふう)をみせる。

このように「〜風(〜ふう)」という「ものの見方」は、輪郭線や境界線を曖昧にする、輪郭線はただの認識するための「かたちをもった仮象」にすぎないはずで、実は最初からそのようなものはなかったことを気づかせる。

現象に垣間見る秩序と混沌とが混在する自然世界は、「図式」というかたちで「ものの見方」を想起させる認識能力を人間に課し、真実を認識する術を託したはずであるのだ。




hidekio67 at 21:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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