川口英俊のブログ

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2007年07月

仏教雑談・1

さて、ここ一ヶ月ほど、ダンマパダ・法句経についての学びを下記ブログにて進めて参りました。

晴耕雨読ブログ
http://hidetoshi.blog105.fc2.com/

そして、日本テーラワーダ仏教協会における月刊誌・パティパダー、スマナサーラ長老の著書、法話・ダンマパダ講義のDVDによる根本仏教の学びも一年あまりが過ぎました。

今現在、もっとも私が考察しているのは、「執着をいかにして完全に無くすか」ということであります。

諸行無常、諸法無我の理解が深まれば、この世においては何もしがみつけないことが分かります。己の身体自体もしかりであります。

一切皆苦の原因は、もちろん、諸行無常、諸法無我を理解できずに、(自ら歓んで・楽しんで次々と)煩悩・執着を抱えてしまっていることにあります。

《ダンマパダ・第11章・老いること・146》
何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?---世間は常に燃え立っているのに---。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

・・何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?・・

世俗の幸せごと、楽しみごと、歓びごととして、例えば「結婚をする」、「子どもをもうける」、「出世する」、「友達・仲間を作る」、「財産を殖やす」などがありますが、現実において、では本当にそれらによって「幸せになった」といえるものなのかどうかについてであります。

---世間は常に燃え立っているのに---

少しうがった見方かもしれませんが、上記のことで幸せになるということはほとんど無く、実は逆に「苦しみとなる・不幸になる」ことの方が多いように思えます。一瞬・一時の快楽・幸せはあったとしても、結局は迷い・苦しみが増える結果となってしまっているのではないかと考えます。つまり世間においては、執着・煩悩の種となる原因を自ら進んで作ってしまって苦しんでいるということであります。

別に、「結婚をする」、「子どもをもうける」、「出世する」、「友達・仲間を作る」、「財産を殖やす」など、これらのことが悪い、やってはいけないということではありません。

要は、これらのことも、所詮は諸行無常・諸法無我の中、本来無一物であり、何も自分のもの(所有)になるわけではなく、また、しがみつけないし、囚われてもいけないものであり、変わっていくものであり、何も頼りにもならず、思い通りにもならず、当然に期待もできないということであります。このことをしっかりと理解してさえいれば、無理に執着してしがみついて離さないように抵抗したりせずに済みます。

無理に執着して貪り・怒りを増幅させてしまっていけば、やがては、詐欺や強盗、殺人(または自殺)など罪を犯してしまうところまで行き着き、身を滅ぼす結果となってしまうことも世間においては多々見受けられます。

ですから、この世においては欲を出して何かをするにしても、してしまったとしても「執着」はしないということが第一で、貪らず、怒りも抱えず、「少欲知足」において過ごすことが大切になると考えます。

但し、勘違いしてはならないことに、執着を無くすことと、自分の責任・義務を放棄することは当然に違います。例えば、執着を無くすのだと、幼い子どもを捨てたり、ほったらかしにするのは当然に悪行為で罪となります。子どもに対して親としての保護責任・監督責任は果たす必要があります。この場合は、一人前の大人として立派な社会人にまで育ててから、子どもに対しての執着を無くすようにすれば良いのであります。

とにかく、諸行無常・諸法無我の理解を深め、執着・煩悩の種となるものをできる限りに抱えない、作らないようにして過ごしていくことが仏教的な賢い生き方というわけであります。そして、最終的には、執着・煩悩を滅し、苦から完全に解脱して涅槃へと至る道を歩むことが求められるということであります。再び迷いの生存に戻ってこないように。再び三界(欲界・色界・無色界)の苦しみの中に戻ってこないように。

・・諸行無常なるこの世において、何をのんびりと笑い、歓んでいるのか!こうしている間にも汝の身体は醜く衰え果て、脆くも滅び去ろうとしているのに!さあ、早く諸行無常・諸法無我の真理という燈明を悟り、無明を離れ、解脱・涅槃への道を求めよ!・・

平成19年新潟県中越沖地震の義援金受付状況・チャリティー活動状況・災害復興ボランティア情報について

平成19年新潟県中越沖地震の義援金受付・チャリティー活動の状況・災害復興ボランティア情報については、下記のYahoo!ボランティアのページが参考となります。

Yahoo!ボランティア・平成19年新潟県中越沖地震 義援金の受付・ボランティアについて
http://volunteer.yahoo.co.jp/disaster/list/0027.html

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誠に少なくて申し訳ない限りですが、いち早い復興を願い、ジャパンネット銀行が行っている平成19年(2007年)新潟県中越沖地震災害義援金に応じさせて頂きました。社会福祉法人中央共同募金会を通じて被災者救援のために寄附されることとなります。

ジャパンネット銀行・平成19年(2007年)新潟県中越沖地震災害義援金

また数回に分けて応じて参る所存でございます。

東大阪市(仮称)市民活動支援センター設立準備会・第9回世話人会

今日は午後から東大阪市立総合福祉センターへと行って参りました。

東大阪市(仮称)市民活動支援センター設立準備会・第9回世話人会の会議に出席。

一、検討委員会の報告、一、名称について、一、機能役割について、一、提言のあり方について、と議論致しました。準備会として出す正式名称案が、(仮称)と支援が取れて、「東大阪市市民活動センター」とスリムになりました。提言のあり方についてやや後退した感がありますが、検討委員会の経過を見ながら、今後、準備会・世話人会において議論を進めていくことになるものと思われます。

6/29に開催された市長諮問の第1回検討委員会については、東大阪市・市民生活部・まちづくり支援課のページにおいて議事録が公開されることになるようです。
http://www.city.higashiosaka.osaka.jp/070/070170/index2.html

とにかく一歩一歩であります。。

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東大阪市(仮称)市民活動支援センター構想イメージ図私案
http://www.hide.vc/imgs190617.html

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現在、東大阪市(仮称)市民活動支援センター設立準備会・世話人会における話し合いに参加しておりますが、とにかく議論における私の考えの要諦は、下記論説の中にもありますが、「市民活動・NPO活動の活発化により市の公益向上→住み良い町・働きやすい町・便利な町・安全な町・福祉の町・環境の町→住民増・各種地方税増収(固定資産税・住民税・法人税など)・地域消費拡大→ 市収入増・地域経済活性化→財政健全化→市民公共サービス向上(特に医療・福祉・高齢者介護など社会保障関連)にどのようにつなげていけるのかということ」であります。

そのためにも、〔唄嵌鷄塚セクターの包括的支援のための基幹組織、公益的社会活動・地域貢献活動・地域まちづくり市民活動の活性化・推進に係る社会資源間の協働確立のための基幹組織、8率的なまちづくりを目指すための基幹組織となること願っています。

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東大阪市・(仮称)市民活動支援センター設立準備について
平成19年3月3日〜3月13日
http://www.hide.vc/kousatu.html

「東大阪市(仮称)市民活動支援センターの設置運営のあり方について」
平成19年4月2日・CE東大阪・季刊誌・29号・寄稿・目線
http://www.hide.vc/kikou.html

特選論説・考察集
http://www.hide.vc/tokusen.html

「諸法無我について」・2

「諸法無我について」・2
往生院だよりコラム 平成19年8月お盆特別号より
http://oujyouin.com/tayori1908.html

 今回は前号に続きまして、「諸法無我」を補完し、「慈悲」との関係について述べて参りたいと存じます。
 「諸法無我」とは、前号においても述べさせて頂いておりますが、「私だ、私がいるのだ」というような己に対しての「我執」を無くし、諸行無常の中において、自己も既に刻々と自己で無くなっていく、変化する自己そのものが自己なのであるということをしっかりと見極めて、まずは「我」に対する執着を離し、そしてあらゆるこの世における全てのことについての執着を離すことによって、煩悩を完全に滅し、三界(欲界・色界・無色界)における輪廻転生の苦しみから解脱するために必要な教えの一つであります。
 この「諸法無我」の教えの目指すところは、自は他との関係が縁となって生起しているという「因縁生起」、つまり「縁起」によってこの世は成り立っている中において、己はあくまでも「縁起」の中を生きているということを知って、自他共に生かされて生きていることを自覚し、自然に他へも「慈悲」の働きかけを生じさせていくことにあります。
 つまり、「一切皆苦」の中にいるのは、己だけではなく、他も同じであり、己の苦しみも他の苦しみも同じであることを知って、「苦しみを抜き、楽を与える」という「慈悲」の働きについて、「諸法無我」が理解できずに、己がいるのだと「我執」してしまい、何ら執着を離すこともなく、己だけに「慈悲」の行為を向けるだけでは全く意味がないものであり、当然に己と同一に他にも「慈悲」の行為を及ぼすことによってこそ、自他共に三界における輪廻転生の苦しみからの解脱を目指すことができ、「涅槃寂静」へと至ることができるようになるということと考えております。
 さて、今回の文章の中で、仏教の四法印が全て出て参りました。「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」「一切皆苦」であります。次回、彼岸号では、「涅槃寂静」について述べさせて頂こうと考えております。

 裏面には、今回の関連と致しまして「慈悲の実践について」、NPO法人CE東大阪の季刊誌・第30号に寄稿致しました文章をそのまま載せさせて頂いております。

 川口 英俊 拝 平成19年7月11日

往生院だよりコラム・バックナンバー
http://oujyouin.com/tayori.htm

「地域の支え合い(愛)の中で」

寄稿・「地域の支え合い(愛)の中で」
社会福祉法人・青山会・東福六万寺 季刊誌・ラブ No.17・7月号
http://www.hide.vc/tokusen5.html

 「福祉」の「福」と「祉」は、「しあわせ」、「ゆたかさ」を表す漢字であります。
 日本における社会福祉の起源は、飛鳥時代に聖徳太子が建立した貧民救済施設「悲田院」にまで遡るとされ、その原点は、仏教における「慈悲・喜捨」の実践にあると考えられています。行基・空海・空也・行円・重源・叡尊・忍性・一遍・願阿弥・・挙げ出すとキリがないですが、多くの名僧たちも民衆の中において、慈善活動、慈悲・喜捨の実践として、貧民・病者救済施設の整備や橋梁・道路・港湾・灌漑・田畑の整備などに取り組んで参りました。
 現在日本社会における福祉は、憲法第二十五条第二項・生存権の保障の中で、「国は、全ての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と規定されており、もっぱら国家が政策として、福祉の向上と増進に努める責務を担っています。そして、青山会さんもそうですが、社会福祉法人など公益法人が福祉の現場における実践主体として活躍しています。もちろん、現在の寺院においてもまだまだ直接的に社会福祉について取り組まれているところは数多く存在しています。
 誠に生意気なことではありますが、私自身も地域社会における福祉活動に関わろうとした動機の一つは、僧侶として成すべき「慈悲・喜捨」の実践のためでありました。もう四年ほど前になりますが、この地元において精神障害者の無認可作業所を運営されていた家族会の方からの協力依頼を受けて、小規模通所授産施設を設置運営する社会福祉法人の設立に参画しました。その際におけるチャリティーイベントの開催では、青山会さんにも色々とご協力を頂きましたことを思い出します。その節では、青山会さんも含めて本当に地域の皆様方から様々なご支援とご協力を頂きまして、何とか法人を設立させることができました。この場をお借りして改めて感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
 その法人設立後、私は理事長として、若輩、浅学非才の身でありながらも、何とか施設を維持運営しなければならないと取り組みましたが、障害者自立支援法成立を機として早くも行き詰りを見せ始め、一期二年で脆くも挫折、現在は私よりも福祉に精通した経験豊かな方に運営をお任せしております。
 そのように自身、挫折した苦い経験もあって、障害者自立支援法によって福祉サービスの新体系システム移行へ向けた準備の慌ただしさが続く中、青山会さん、東福六万寺さんの現場で起こっているであろうと考えられる諸所の課題解決の大変さについては、私なりに推し量れるところが多くあります。そのため、これからのつらいこと、苦しいことを何としても乗り越えていく上でも、どれほどに地域の皆様方のご支援、ご協力を必要としているのかということについても十分に理解できるところでございます。
 青山会さんの理念は「一人はみんなのために、みんなは一人のために」とお聞き致しました。その理念の下で、障害を抱えてしまった方でも地域で自立した生活が送れるように、私たち地域住民もできることからお手伝いしていかなければならないと考えております。もちろん、私自身も一度の挫折だけでこのまま萎縮し続けることなく、少しずつでも地域福祉における活動を前に進めて参る所存でございます。
 「人間(じんかん)到る所に青山あり」。障害を抱えてしまった方、ご家族の方、役員さん、職員さん、地域の方々と、青山会さんに集まったみんなが、支え合い(愛)の中で幸せに暮らしつつも、やがてそれぞれが高い志を培って、いずれはよりもっと活躍できる場へと羽ばたいていくようになる、そんな地域社会の中核的役割を青山会さんが大いに担って頂けることを私は切に願ってやまないのであります。
  
 川口 英俊 合掌

特選論説・考察集
http://www.hide.vc/tokusen.html

「慈悲の実践へ向けて」

CE東大阪・季刊誌・30号・寄稿・四回連続シリーズ最終
目線・「慈悲の実践へ向けて」
http://www.hide.vc/tokusen6.html

 日本における慈善(奉仕・ボランティア)活動の具体的な起源について、記録として残されている中においては、飛鳥時代に聖徳太子が建立した貧民救済施設「悲田院」にまで遡るとされ、その原点は、仏教における「慈悲・喜捨」の実践にあると考えられています。
 行基・空海・空也・行円・重源・叡尊・忍性・一遍・願阿弥・・挙げ出すとキリがないですが、多くの名僧たちも民衆の中において、慈善活動、慈悲・喜捨の実践として、貧民・病者救済施設の整備や橋梁・道路・港湾・灌漑・田畑の整備などに取り組んで参りました。
 慈悲・喜捨の実践は、仏教が目指す涅槃(輪廻転生における苦しみからの解脱)のためにも重要な役割を担っており、諸行無常(この世の一切の全ては変化して移ろいゆく)の自他同一性、諸法無我(自我・あらゆるものへの執着を無くし、無我を自覚する)による自他同一性の理解により、生かされて生きているということを悟って、あまねく一切における苦を取り除いていくために必要な働きとなります。
 しかしながら、現代の世間一般における慈善(奉仕・ボランティア)活動においては、自分たち(人間)だけが幸せに豊かに暮らしていくために、自分たち(人間)だけの社会をより良くするために、というところへと陥りがちとなってしまう側面もあり、それは単なる人間の自己都合・自己満足、恣意的・独善的なエゴイズムに終始してしまう可能性が高く、逆に多くの弊害を結果的に生み出してしまうことになりかねないことを私は危惧し続けています。
 例えば、自分だけが、自分の家族だけが、自分の会社だけが、自分の参加しているコミュニティーだけが、東大阪市だけが、大阪府だけが、日本だけが、人類だけがというところから離れて、好き嫌いなどという感情も超えて、自分も含めてあまねく一切が苦の中にいるけれども、そのあまねく一切における苦を少しずつでも取り除いていけるような慈悲・喜捨の実践をしていくことにこそ、実は慈善(奉仕・ボランティア)活動の最たる本質があるのではないだろうかと考えております。自身におけるこれからの様々な活動においても、このことをできる限り自覚して進めて参りたいと存じます。
 誰もが皆、全く見ず知らずの人にも、野に咲く名も無き花にも、地面を這う蟻一匹にさえも、あらゆる全てのものに対して慈悲・喜捨の心で接していくことができるようになれば、様々な争い事、戦争、資源の貪(むさぼ)り、自然破壊などによる苦しみも、しかるべくに無くなっていくだろうと考えております。

川口 英俊 合掌

特選論説・考察集
http://www.hide.vc/tokusen.html

参照:CE東大阪・ホームページ
http://www.hct.zaq.ne.jp/fureai/
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