「追善供養・功徳回向の考え方について」5を追記致しました。

「追善供養・功徳回向の考え方について」 4をブログにて公開させて頂きましたところ、1〜3も公開してほしいとのご要望がございましたので、以下に併せて転載させて頂きました。ご参考の程を宜しくお願い申し上げます。

また、本シリーズの関連考察として、「勝義方便メモ」シリーズもご参考頂けましたら幸いでございます。
これまでの考察のまとめ集
No.1 http://t.co/0mRcfe6x
No.2 http://t.co/H0PxWmEg
No.3 http://t.co/BzhW4vHQ
No.4 http://t.co/GAVJk9rG
No.5 http://t.co/TQsiFLJG
No.6 http://t.co/fTguvqTr


「追善供養・功徳回向の考え方について」 1

 前号にてコラム・十三仏シリーズがようやくに終わりました。

 代表的に初七日から三十三回忌まで、各供養が行われるわけですが、追善供養・功徳回向の本来的意義とはどのようなものであるのかについて、これから少し述べさせて頂こうかと存じております。

 追善供養・功徳回向は、仏教の慈悲・利他心から発したる私たちの善なる行い・徳の行いの力によって、亡くなられた方が、無事に悟りの世界、仏国土・浄土へといざなわれるように、また、諸仏・諸菩薩から仏説をしっかりと授かって、修行の精進が進めれるようにと、その善徳行が亡くなられた方とも分かち合えて、その善徳行による善業の力が亡くなられた方にも及び、迷い苦しみの原因となる悪業(悪い行いの集まり・カルマ)、無明(根本的な無知)・煩悩が排撃されて、しっかりと悟りの境地へと向かうことができていけれるようにとして実践するものであります。

 このように善徳行による善業の力を分かち合うことができるようにというのは、親族など特定の亡き方、ご先祖様だけではなくて、迷い苦しみにある一切衆生に、その善業の力が、廻り向かって及びますようにということが、「回向、あるいは廻向」の意味となります。

 特に重要となるのは、仏教の慈悲・利他心による善徳行の対象は、「迷い苦しみにある一切衆生」ということであります。

 いわゆる「菩提心」というもので、迷い苦しみにある一切衆生を救わんがためにこそ、悟りを得たいのだとして、仏道修行を始める前提となる決意のことであり、この「菩提心」を発した上で、慈悲・利他行、善徳行を行うことが私たちには大切なこととなります。

 様々なお経を唱えた後によく読む回向文には、「願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを」と、普回向がある次第であります。


「追善供養・功徳回向の考え方について」 2

 さて、前回においては、「菩提心」に基づいての「慈悲・利他行、善徳行」による追善供養、功徳回向が大切であると述べさせて頂きました。

 ここから述べさせて頂きます内容は、今年のお盆施餓鬼法要の際に配布させて頂きました拙論「菩提心論」の内容と重複するところもありますが、私たちは、普通に善行や徳行と言えば、慈善事業や社会貢献事業、あるいは、ボランティアや奉仕活動と思い浮かべるかもしれません。

 しかし、普通一般社会・国際社会における慈善事業や社会貢献事業、非営利活動、あるいは、ボランティアや奉仕活動などは、仏教的な見地からは、所詮、狭い範囲の世界・関係性の中における(例えば、人類・人間・一定集団の)価値観による自己都合・自己満足・独善的な域を完全には抜け出るようなものではなく、もちろん、悪いことではなく、普通であれば奨励されるべきこととなりますが、その善徳行の対象を、好む好まない、敵味方関係なく、または人間だけでなく、あるいは、人間・動物だけでもなく、もっと広く、遍く一切、この地球にある一切衆生だけでもなく、宇宙にある一切衆生、いや無数にある宇宙の全ての一切衆生、更に、三界・三千大千世界の全ての一切衆生たち全てを分け隔てることなく、平等に救いたいとの菩提心、そして実際に救うために悟りを得ようと修行を進めていくことの中においての真なる善・徳行を積み重ねての善業が、一切衆生に廻り向かって及びますようにとして調えていかなければならないこととなります。

 慈善事業や社会貢献事業、非営利活動、あるいは、ボランティアや奉仕活動などは、慈悲・利他行・善徳行として確かに大切ではありますが、その志の深いところでは、やがて遍く一切の衆生たちを平等に救いたいがために、私はこの慈悲・利他行の修行を進めているのだとして行うこととなれば、実にすばらしいことになるではないだろうかと考えております。

 そして、それらの「慈悲・利他行、善徳行」によっての「善業」を、煩悩を断滅させる力として、更には「悪業」、「悪業の潜在力(習気・じっけ)」、そして、「無明」(根本的無知)をも退治させる力として、その力による効果が自らだけでなく、また、亡くなられたご先祖様だけにでもなくて、三千大千世界の全ての一切衆生たちに平等に及びますようにと追善供養・功徳回向を行うことが重要なこととなるのであります。


「追善供養・功徳回向の考え方について」 3

 前号までにおきまして、「菩提心」に基づいての「慈悲・利他行・善徳行」が、追善供養・功徳回向において重要であるということを述べさせて頂きました。

 その「菩提心」には、「世俗菩提心」と「勝義(しょうぎ)菩提心」との二種があります。

 このことに関しましては、本年の秋彼岸の際にお配りさせて頂きました『空と縁起』〜勝義菩提心と勝義方便〜の内容に詳しく述べさせて頂いておりますので、以下にその箇所を少し抜粋致しておきたいと思います。

【慈悲については、三つの段階に分けて説明されることがあります。第一が「衆生を所縁とする慈悲」、第二が「法を所縁とする慈悲」、第三が「無所縁の慈悲」であり、このうちで最も優れた第三の「無所縁の慈悲」が、真なる慈悲・利他行としての方便による働きとなるわけであります。

 第一の「衆生を所縁とする慈悲」とは、この輪廻世界で迷い苦しんでいる衆生に対して、世間一般的に生じる、憐れみや思いやり、優しさ、厚意、親切さといったことに基づく慈悲であると言えます。これは仏法を学んでいない者であっても普通に生じうる慈悲心と言えるでしょう。

 第二の「法を所縁とする慈悲」は、仏教の基本的な理法、例えば、四法印(諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静)、四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)を学び修する中において、それらの法に基づいて生じる慈悲の心と言えます。世俗菩提心による慈悲心と解することができます。

 そして、第三の「無所縁の慈悲」とは、空と縁起の理法の理解において、特に「空性の現量了解」を目指して生じる勝義菩提心によっての慈悲心であり、この「無所縁の慈悲」による働きが、勝義方便と言えるもので、智慧と慈悲を円満に究竟していけるように調えていくことが重要となります。】

 私たちが普通世間一般的に「慈悲・利他行・善徳行」と考えているのは、ほとんどの場合、「衆生を所縁とする慈悲」のレベルであります。しかし、それでは真なる「追善・功徳」とは言えないものであり、確かに大切なことではありますが、どんなに一生懸命に努めたとしても無益なこととなってしまいかねません。

 私たちが「追善・功徳」ということにおいて真に努めなければならない「慈悲・利他行・善徳行」は、法を所縁とする慈悲・世俗菩提心による世俗方便行として、更には無所縁の慈悲・勝義菩提心による勝義方便行として調えていくことが重要なこととなります。


「追善供養・功徳回向の考え方について」 4

 前号にて、「追善・功徳」ということにおいて本来勤めるべき「慈悲・利他行・善徳行」の実践は、法を所縁とする慈悲・世俗菩提心による世俗方便行として、更には無所縁の慈悲・勝義菩提心による勝義方便行として調えていくことが重要であると説明させて頂きました。

 しかし、実際に、各回忌供養や追善供養において、上記のことを意識した上で「慈悲・利他行・善徳行」を行うことにまで至っていないのが現実であり、ただ、お寺や会館にて僧侶に読経・回向してもらって済ませてしまうことがほとんどでありますでしょう。

 確かに、故人の冥福を祈って、どうか故人の仏道修行が無事に進みますように、やがて安らかなる悟り・涅槃・御仏の世界へと到れますようにと、祈り念じることは大切なことですが、しかし、「祈る」だけで「行動・実践」を伴わせなければ、結局何事かを成して結果を出すことができないのは、皆さんも良くお知りのことであるかと存じます。

 それは、例えば「お経をただ読むだけ」ということとも同じであり、内容も理解せずに、また、仮に内容を理解していたとしても、その内容通りの実践をしていなければ、やはり意味のないこととなってしまいかねません。

 「追善供養・功徳回向」の本来的意義は、確かなる「慈悲・利他行・善徳行」の実践へと繋げることであり、仏法の基本的な教えの内容を理解した上で取り組むことが大切となります。

 その実践は、お寺や会館にて僧侶に読経・回向してもらうよりか、遥かに重要なことであり、その実践によっての善業(善い行いの行為の集まり)が、悪業(悪い行いの行為の集まり)や無明(根本的な無知・煩悩の根源)を排撃する力となって、自他共、輪廻の迷苦にある一切衆生へと廻り向かわせて(廻向)及ぼせしめ、皆が悟り・涅槃へ向かうためのほんの僅かな力にでもなれるようにとして調えていくことが望まれることとなります。

 そして、最終的には、空性を完全に理解した状態(空性現量了解)において「慈悲・利他行・善徳行」の実践ができる段階(勝義方便行)にまでなれば、悟りへと到るための最後の障害となっている「所知障(しょちしょう)」を断滅できるようになって、いよいよ、「一切智者」・「如来」といわれる存在へと近づくことができるようになる次第であります。

 上記のように、智慧(空性の理解)と方便(実践行)によって確かなる福徳を積んでいくことが、無事円満なる悟りへと到るために必要なこととなるわけであります。

・・次号へと続く・・(副住職・川口英俊合掌)

「追善供養・功徳回向の考え方について」 5

 さて、これまで追善供養・功徳回向の本来的意義に関しまして、拙生なりに述べさせて頂いて参りました。

 仏教は、とにかく最終的には実践が何よりも大切なこととなります。追善供養・功徳回向の場合においては、確かなる菩提心と智慧の修習に基づいた善徳の行いが求められるのであります。

 では、なぜに善徳行(慈悲・利他行)の実践が必要となるのかについては、これまでも述べさせて頂いて参りましたように、無明(根本的無知。簡単には、真理を知らない状態。空性・縁起という理法を了解していない状態)・煩悩を対治するだけでは、悟りを得るためにはまだまだ不十分、中途半端な状態であり、真なる悟りを得るためには、これまでの過去世において積み上げてきてしまっている悪業(悪い行いの集まり)の習気(じっけ)(悪い結果をもたらす潜在力・潜勢力)をも対治しなければなりません。

 無明・煩悩を対治すれば、確かに、注意している中において、これから悪業を積み上げてしまうことはなくなるはずですが、問題はこれまでに積み上げてきてしまっている悪業の習気をもしっかりと取り除かない限りは、過去世の悪業の結果が、今世では一応出なくはなっているとしても、来世、来来世で出てくる可能性は残されている上に、更には無明・煩悩が再発してしまう可能性さえもあります。このことに関しては、拙論『空と縁起』〜勝義菩提心と勝義方便〜(2012.9)〔http://t.co/xXe6DBOf〕の中にて、「癌の再発の喩え」にて述べさせて頂きましたのでご参照頂けましたらと存じます。

 そのため、無明・煩悩を智慧により対治すると共に、慈悲・利他という善徳行による善業を積むことによって、悪業の習気をもしっかりと対治していくことが望まれるのであります。

 やがて全ての悪業の習気の対治が終わると、いよいよ悟りを開くことができ、一切智者・正覚者・仏陀・如来と言われる存在になることができるのであります。

 仏教の目的は、迷い苦しみの輪廻から解脱し、悟りを開いて、一切智者・正覚者・仏陀・如来となることであります。そのためには、真摯に仏法と向き合い、仏法を学び、修していくことによって、悪業を対治していき、善業の集積に努めて、少しでも仏道を前へと歩めるように調えて参りたいものでございます。(了)

(副住職・川口英俊合掌)

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最近の仏教思想関係の主な考察についてのまとめ集
http://t.co/RZJudE4f

他、これまでの考察シリーズは下記をご参照下さいませ。
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51997575.html