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The East Hill Journal 東山雑誌

身近な出来事から世界の果ての出来事まで、などなど・・・

12 9月

「人民公社カール・ツァイス・イェーナ」(VEB (Volkseigener Betrieb) Carl Zeiss Jena)


VEB (Volkseigener Betrieb) Carl Zeiss factory in Jena, East Germany.
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東ドイツのカメラ用レンズをはじめとした光学機器メーカー、第二次世界大戦後に東西分断とともに分割されたカール・ツァイス、イエナJenaが創業地、本社だった。

第二次世界大戦の直後、ドイツの東西分断により、ドイツ東部にあったJenaイェーナはソ連占領統治下に置かれた。しかし、アメリカ軍はカール・ツァイスの光学技術をソ連にそのまま渡すことを阻止するため、ソ連軍(赤軍)に先んじてイェーナに入り、1945年6月24日に125名の技術者とその家族を、8万枚の設計図とともにイェーナから西ドイツのオーバーコッヘンに移動させ、ツァイス・オプトン(Zeiss Opton)として光学機器の生産を引き継いだ。一方、ソ連軍はイェーナの工場群を接収、残った技術者もソ連に移送した。これによりカール・ツァイスは東西に分裂した。
東側はイェーナに半官半民の「人民公社カール・ツァイス・イェーナ」(VEB (Volkseigener Betrieb) Carl Zeiss Jena)を設立、このイェーナのカール・ツァイスは東ドイツの誇る光学機器メーカーとして存続した。写真はその建物。
20 4月

聖墳墓教会の奇跡の灯(聖火の奇跡)

Happy Pascha!
「奇跡の灯(聖火の奇跡)」は、エルサレムの聖墳墓教会で復活祭の前日に行われる儀式で、信徒らが聖堂「エディクラ」の周りに集まり、火がともされた蝋燭を受け渡す際に起こる奇跡です。この儀式は、イエス・キリストの墓に火がともされた蝋燭を置くことで、復活の光を象徴するとされている。
聖堂の周りにはキリスト教の東方教会、西方教会の各教会の席がある。
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20 4月

木曽三川と我が故郷

左の揖斐川と中の長良川、右の木曽川は愛知県、実家(右奥)。中央の背割堤が千本松原、薩摩藩による宝暦の治水事業。
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写真右端が木曽川で岐阜県と愛知県の県境となっている。木曽川左岸の愛知県側が我が故郷である。江戸時代は、この辺りは海路で宮(熱田)と桑名の七里の渡しであった。海が荒れている時は河川を縫って行く佐屋-桑名の三里の渡しがあった。信長時代には木曽川支流の佐屋川沿いの津島湊であったが、土砂が堆積し下流の佐屋湊にその機能を譲っていた。津島湊は天王川公園として残っており、子供の頃はよく遊びに行った。尾張毛織物業の始祖である片岡春吉と中之島にはイサム・ノグチの父であり英文学者の野口米次郎の銅像が建っている。


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写真:NHK
25 2月

ハッサク(八朔)


ハッサク(八朔) Citrus Hassaku Groupと言う柑橘類、妹の嫁ぎ先の空宅地に便宜的に植えられ、実を付けていたのでお裾分けをいただいた。

このハッサク、尾道に原木がある。万延年間(1860年)、村上水軍の城跡、青影山の南麓(広島県尾道市因島田熊町)に、浄土寺の第15世住職、小江恵徳上人の生家があり、その近くに生えた雑柑が「ハッサク」の原木であった。

因島には古くから多種類の雑柑があり、温暖な気候で柑橘類が育ちやすい自然条件が整っていたほかに、村上水軍が東南アジアまで勢力を広げ活躍した際に遠征先から苗木や果実を持ち帰ったことも尾道原産の背景にあるようです。柑橘類は実生して交配を繰り返すと雑柑となり、その中の一つがハッサク(八朔)、八朔と言う名は、八月朔日の略である八朔、旧暦の8月1日のことである。今は2月なのでかなりズレている。

ハッサクはナツミカン(夏蜜柑、夏代々)よりも、甘夏ミカン(川野夏代々、1935年に大分県の果樹園、川野により夏ミカンから選抜)よりも甘い。

ナツミカンは江戸時代中期、黒潮に乗って南方から、山口県長門市仙崎大日比(青海島)に漂着した文旦系の柑橘の種を地元民(西本於長)が播き育てたのが起源であり、今でも山口県はナツミカンの産地である。浜松は三ヶ日みかんで有名ですが、湖西市の道の駅潮見坂で地場産の甘夏ミカンをたくさん販売していた。

柑橘類には目がないのです、というわけであっという間にいただきました、若干、昨日のビジネスランチの手土産に持っていきました。
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13 2月

ポンチキと脂の木曜日


この穴の開いていないドーナツをポンチキPączki(ポーランドの揚げ菓子)といい、「脂の木曜日」に食べる。

脂の木曜日は復活祭(イースター)の前に迎える「四旬節」と呼ばれる期間の直前の木曜日のこと。2025年の「脂の木曜日」は2月27日。四旬節とは40日の期間を意味し、イエス・キリストが40日間断食をしたことに由来する。そこから主にならい信者も同じ日数の断食(節食)をするという習慣が生まれた。

復活祭までの四旬節である節食期間には、脂や肉・砂糖を控えた食事を続ける。その前にお腹いっぱい食べておく行為から「脂の木曜日」が始まった。

脂の木曜日を迎えると、多くのキリスト教圏では肉類を食べるが、ポーランドではおもにこの「ポンチキ」をたくさん食べる。
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13 2月

カラバフとメグリ交換密合意

 米国国務省の機密文書が開示され、1990年代後半にロバート・コチャリャン Robert Kocharyan・アルメニア大統領とヘイダル・アリエフHeydar Aliyev・アゼルバイジャン大統領(先代)が、メグリとカラバフの交換という領土交換でナゴルノ・カラバフ紛争the Nagorno-Karabakh conflictを解決しようと1999年9月に最終合意していたことがわかった。実現に至らなかったのは、その直後の1999年10月にアルメニア国会での銃乱射事件で、Prime Minister Vazgen Sargsyan, National Assembly Speaker Karen Demirchyan, and six other officials らの主要閣僚が暗殺され、政権バランスが崩れこの合意は履行されなかった。

https://massispost.com/2025/01/declassified-u-s-documents-reveal-secret-agreement-between-kocharyan-and-aliyev-on-nagorno-karabakh-meghri-exchamge-azatutyun/

1 10月

ポーランドの高速鉄道でクラコフへ、2016年10月1日

Krakow, Poland by Train. ポーランドの高速鉄道でクラコフへ、2016年10月1日


クラコフです、最初に来た1980年代はワルシャワから夜行列車で早朝5時台に着き、8月初旬だったと思う、お腹の具合が悪く駅のトイレに駆け込んだ、水が流れなくて身振り手振りで説明したら大きなおばちゃんがバケツに水を持ってきて流してくれた。7時頃のバスでオシビエンチウムへ向かった。

時は流れ、今回乗ったのはポーランド国鉄最速の列車、160km/h程度、運行を開始して2年ほど(2014年12月運用開始)、ワルシャワから所要約2時間、150PLN。


FB、日本語ではクラコフ中央駅と表示されますがポーランド語のGłownyはmainという意味、ワルシャワだけが中央駅(Centralna)です。ショッピングセンターに降り立った様な印象、すごく良いお天気で汗ばみますが、このお天気は明日まで、月曜から雨の予報。


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Alstom Pendolinos



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Alstom Pendolinos、快適な車輌、ヨーロッパ仕様なので横3席、これで2等


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クラコフ駅と一体化したガレリアクラコフ、今風のショッピングモール、これが建ったことで旧駅舎がやや南へ移動させたのではないか。


16 9月

現在のリンゴの祖先木


現在食べられているリンゴの約90%は、DNA分析によりカザフスタン東部に広がる天山山脈の斜面の森林に自生するマルス・シエウェルシイ(Malus sieversii)という野生リンゴの木であったことがわかっている。
他方、リンゴの原産地はアジア西部といわれ、北部コーカサス地方が有力視されている。

約5000年から1万年前に栽培植物化され、そこから好ましい性質を持つリンゴが徐々にシルクロード沿いに西に運ばれることになったと言われている。

そのテンシャン山脈の麓(遠いが)のカザフスタンの前首都アルマトゥ(ソ連時代はロシア語のAlma-ata)はカザフ語の「リンゴの里」という意味である。
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イメージはfbより
9 6月

ウズベク料理になったキムチ

ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスのバザールの片隅でキムチを必ず見かける。特にウズベキスタンのタシケント、ミラバットバザール周辺には韓国食材店が多いし、バザールには当然ですがキムチやキンバップ(海苔巻き)が売っている。そしてタシケント郊外には高麗人コミュニティが存在する。

東アジアの高麗人がなぜ中央アジアに居住するようになったのか、それはスターリンによる第二次世界大戦前の強制移住よる。

1931年3月、満州国が建国されるとソ連邦の指導者スターリンは、沿海州に居住する高麗人(朝鮮人)住民が日本のためにスパイ活動を行なっていると考えるようになり、1937年末までに沿海州に居住していた36,442世帯171,781人(wiki)の高麗人が、対日協力の疑いでソ連邦の中央アジアに集団追放され、その多くがウズベキスタンとカザフスタンに強制移住させられ、灌漑農業の発展に寄与した。

つまり、ソ連邦沿海州の朝鮮族(高麗人)が強制移住させられ、その際にキムチをウズベキスタンに持ち込み、根付いたということ。


6 6月

映画「遠い夜明け」、35年ぶりか?

『遠い夜明け』(Cry Freedom)を観た。35年ぶりだろうか。映画は1987年に製作・公開されたイギリス映画、日本公開は1988年2月、監督はリチャード・アッテンボロー、出演はデンゼル・ワシントン、ケヴィン・クライン。

アパルトヘイト政権下の1976年、南アフリカ共和国の有力紙デイリー・ディスパッチ紙の白人記者ドナルド・ウッズは黒人解放活動家スティーヴ・ビコと親交を深めるが、1977年にビコが逮捕され、その後、獄中で拷問死、ウッズ自身も軟禁された。

ウッズは警察の監視下で密かにスティーヴ・ビコの死について調査し、同年末、妻子と共にレソト-ボツワナ経由で英国に原稿を持って亡命、翌1978年にビコとの交流を描いた著書「ビーコウ アパルトヘイトとの限りなき戦い」(Biko)を出版した。これともう1つの著書「トラブルを求めて」(Asking For Trouble)を原作に1987年に映画『遠い夜明け』が制作された。

1970年代は知る由もないが、映画が製作された1987年はザンビアのルサカにいた。カウンダ政権は反アパルトヘイトを掲げANC亡命本部をルサカに受け入れていたため、南アの戦闘機が爆撃したことがあった。また、南ア製品は流通せずショップには物が無かった、他方、南アと良好な関係であったジンバブエやマラウイに物が溢れていたことを覚えている。

映画の中でよく使われている、最後にも、「神よ、アフリカに祝福を」は懐かしい。南アフリカ共和国の国歌になっているが、南部アフリカの数カ国も、ザンビアもだが、国歌に採用している。

アパルトヘイト体制は、1989年9月に大統領に就任したフレデリック・ウィレム・デクラークがこれまでの政府(国民党)の方針を転換し、撤廃に向けての改革を進展させた。1990年2月、ANCやPAC、南ア共産党を合法化し、ネルソン・マンデラを釈放した。1991年2月には国会開会演説でアパルトヘイト政策の廃止を宣言し、6月には人種登録法、原住民土地法、集団地域法が廃止され、アパルトヘイト体制を支えてきた根幹法が廃止された。1991年から1994年は移行期に入り内政が混乱したが、1994年4月に全人種総選挙が実施され、ANCが62.6%を得票し第一党となった。翌月、マンデラが大統領に就任し、アパルトヘイト体制は廃止された。

注:史実はwikiなどを基に編集
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