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The East Hill Journal 東山雑誌

身近な出来事から世界の果ての出来事まで、などなど・・・

1 10月

ポーランドの高速鉄道でクラコフへ、2016年10月1日

Krakow, Poland by Train. ポーランドの高速鉄道でクラコフへ、2016年10月1日


クラコフです、最初に来た1980年代はワルシャワから夜行列車で早朝5時台に着き、8月初旬だったと思う、お腹の具合が悪く駅のトイレに駆け込んだ、水が流れなくて身振り手振りで説明したら大きなおばちゃんがバケツに水を持ってきて流してくれた。7時頃のバスでオシビエンチウムへ向かった。

時は流れ、今回乗ったのはポーランド国鉄最速の列車、160km/h程度、運行を開始して2年ほど(2014年12月運用開始)、ワルシャワから所要約2時間、150PLN。


FB、日本語ではクラコフ中央駅と表示されますがポーランド語のGłownyはmainという意味、ワルシャワだけが中央駅(Centralna)です。ショッピングセンターに降り立った様な印象、すごく良いお天気で汗ばみますが、このお天気は明日まで、月曜から雨の予報。


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Alstom Pendolinos



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Alstom Pendolinos、快適な車輌、ヨーロッパ仕様なので横3席、これで2等


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クラコフ駅と一体化したガレリアクラコフ、今風のショッピングモール、これが建ったことで旧駅舎がやや南へ移動させたのではないか。


16 9月

現在のリンゴの祖先木


現在食べられているリンゴの約90%は、DNA分析によりカザフスタン東部に広がる天山山脈の斜面の森林に自生するマルス・シエウェルシイ(Malus sieversii)という野生リンゴの木であったことがわかっている。
他方、リンゴの原産地はアジア西部といわれ、北部コーカサス地方が有力視されている。

約5000年から1万年前に栽培植物化され、そこから好ましい性質を持つリンゴが徐々にシルクロード沿いに西に運ばれることになったと言われている。

そのテンシャン山脈の麓(遠いが)のカザフスタンの前首都アルマトゥ(ソ連時代はロシア語のAlma-ata)はカザフ語の「リンゴの里」という意味である。
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イメージはfbより
9 6月

ウズベク料理になったキムチ

ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスのバザールの片隅でキムチを必ず見かける。特にウズベキスタンのタシケント、ミラバットバザール周辺には韓国食材店が多いし、バザールには当然ですがキムチやキンバップ(海苔巻き)が売っている。そしてタシケント郊外には高麗人コミュニティが存在する。

東アジアの高麗人がなぜ中央アジアに居住するようになったのか、それはスターリンによる第二次世界大戦前の強制移住よる。

1931年3月、満州国が建国されるとソ連邦の指導者スターリンは、沿海州に居住する高麗人(朝鮮人)住民が日本のためにスパイ活動を行なっていると考えるようになり、1937年末までに沿海州に居住していた36,442世帯171,781人(wiki)の高麗人が、対日協力の疑いでソ連邦の中央アジアに集団追放され、その多くがウズベキスタンとカザフスタンに強制移住させられ、灌漑農業の発展に寄与した。

つまり、ソ連邦沿海州の朝鮮族(高麗人)が強制移住させられ、その際にキムチをウズベキスタンに持ち込み、根付いたということ。


6 6月

映画「遠い夜明け」、35年ぶりか?

『遠い夜明け』(Cry Freedom)を観た。35年ぶりだろうか。映画は1987年に製作・公開されたイギリス映画、日本公開は1988年2月、監督はリチャード・アッテンボロー、出演はデンゼル・ワシントン、ケヴィン・クライン。

アパルトヘイト政権下の1976年、南アフリカ共和国の有力紙デイリー・ディスパッチ紙の白人記者ドナルド・ウッズは黒人解放活動家スティーヴ・ビコと親交を深めるが、1977年にビコが逮捕され、その後、獄中で拷問死、ウッズ自身も軟禁された。

ウッズは警察の監視下で密かにスティーヴ・ビコの死について調査し、同年末、妻子と共にレソト-ボツワナ経由で英国に原稿を持って亡命、翌1978年にビコとの交流を描いた著書「ビーコウ アパルトヘイトとの限りなき戦い」(Biko)を出版した。これともう1つの著書「トラブルを求めて」(Asking For Trouble)を原作に1987年に映画『遠い夜明け』が制作された。

1970年代は知る由もないが、映画が製作された1987年はザンビアのルサカにいた。カウンダ政権は反アパルトヘイトを掲げANC亡命本部をルサカに受け入れていたため、南アの戦闘機が爆撃したことがあった。また、南ア製品は流通せずショップには物が無かった、他方、南アと良好な関係であったジンバブエやマラウイに物が溢れていたことを覚えている。

映画の中でよく使われている、最後にも、「神よ、アフリカに祝福を」は懐かしい。南アフリカ共和国の国歌になっているが、南部アフリカの数カ国も、ザンビアもだが、国歌に採用している。

アパルトヘイト体制は、1989年9月に大統領に就任したフレデリック・ウィレム・デクラークがこれまでの政府(国民党)の方針を転換し、撤廃に向けての改革を進展させた。1990年2月、ANCやPAC、南ア共産党を合法化し、ネルソン・マンデラを釈放した。1991年2月には国会開会演説でアパルトヘイト政策の廃止を宣言し、6月には人種登録法、原住民土地法、集団地域法が廃止され、アパルトヘイト体制を支えてきた根幹法が廃止された。1991年から1994年は移行期に入り内政が混乱したが、1994年4月に全人種総選挙が実施され、ANCが62.6%を得票し第一党となった。翌月、マンデラが大統領に就任し、アパルトヘイト体制は廃止された。

注:史実はwikiなどを基に編集
1 3月

目黒区民センター再開発事業に係わる地区計画説明会

 都合が付いたので出席した。

主旨は既に原案が決まっている目黒区民センターを含む地区の再開発を実施するための都市計画法上の規制緩和のための地区計画設定、何処かで聞いたような、神宮外苑の再開発と同じ手法で目黒区は事業を進めている、財政負担軽減のために、と説明。


この目黒区民センターを含む目黒区美術館、下目黒小学校を一体的に70年の借地権を設定し、民間開発業者に権利を売り、新たな区民センターの中に現行施設を入れた雑居ビルを建設するというもの、小学校は?、敷地内に集合住宅を建設しそれを販売して事業費を賄う事業手法のようだ。


屋外に50mプールとテニスコート2面があるが、プールは年間3ヶ月のみの稼働、テニスコートはテニスをする人限定で有効利用が図られていないと区側が説明、そして新区民センターでは屋上にテニスコートだとの説明だった。


多くの意見が出たが目黒区側の説明は再開発事業ありき、今日は地区計画の説明会なので、とか言及していたが、再開発事業を都市計画上の規制を緩和することにより実施可能にするステップには違いない。


まちづくり協議会で意見を収集し反映させたものとも説明、そに対象者は目黒2丁目の区民センター近隣のみ、区民の意見の反映とは言いがたい。行政手続きと説明内容があまりにも乖離していた。


意見や質問は具体的でリーズナブルであったが、目黒区側の説明が一方的で都合の悪いことは語尾を濁らすし、個別対応と詭弁、また時間が来たからと言って終了を宣言、20分も説明ビデオじゃあ質疑応答の時間を押してしまう。これでは真摯な説明会とは言えぬ。


最後に議事録の公開有無のコメントがあったが司会者は説明会を終了する説明に終始していた。出席者名を書かせるのなら、議事録くらい共有してもらわないとね。


目黒区民センター周辺地区の地区計画(原案の案) 説明会

開催日時:

令和6年3月1日(金曜日)

18時30分から19時30分まで(予定)

https://www.city.meguro.tokyo.jp/chikuseibi/shigoto/machidukuri/genannoan.html

5 2月

プノンペン街歩き

2024/2/4

節分過ぎました。

週末は歩いてプノンペンの街を観察しつつ、買い物とともに運動不足の解消を視野に入れている。アパートはボンケンコン区(Khan:district)ボンケンコン1街(Sangkat:quarter)のSt.282/St.51に位置しており、そこから目標地点を決めて歩いている。

今週末は、これまで見ていなかったオリンピックマーケットとその近くのシティモール、それとショップを視野に入れた。

今日はクメールヌードルをと、食堂とロシアンマーケット近くのショップ、それと果物をいつも買うボンケンコン市場を目標地点にした。

しかし一筆書きにはならなかった。そもそもクメール麺屋が反対方向かつ営業時間前だったことから後から戻る複雑なルーティングとなった。

土日ともそれぞれ約10km、歩数で1.5万歩程度になる。もう少し歩けるが、途中、休息が必要。
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29 10月

ダマスカスのウマイヤドスクエア(ラウンドアバウト)

 2020/10/28


懐かしい写真が表示されたのでお借りすることに、ダマスカスのウマイヤドスクエア、アサド図書館の前にあるラウンドアバウトを撮影した写真。国際連合兵力引き離し監視軍(UNDOF)から拝借したので事務所がここにあったのだろうか。UNDOFには自衛隊が1996年より派遣されていたが、2012年に内戦激化で撤退した。


さてこのスクエア(ラウンドアバウト)は私にとっては思い出深い、ここはアンダーパスになっている、写真ではわかりにくいが。1998年にダマスカス都市交通計画調査報告書を提出、プレFSプロジェクトの一つにこのアンダーパスが含まれていた。ダマスカス市当局の決断が早く、その直後に実施を決定、建設工事を始めた。実施能力があるから背中を押されるのを待っていたのかと。


2004年に出張した時は概ね完工、オープニング前日にアンダーパスを歩かせてもらった。その他、アルヤルムーク交差点のアンダーパスも当時工事中、やるべきことが見えてくると動きが早い印象だった。



29 10月

映画「不毛地帯」

 2017/10/29

数年前に録画したBSシネマの不毛地帯(昭和51年なので1976年)、思い出して昨晩から観始めた、3時間の長編ですが切れ味があり見応えのある大作です。山崎豊子原作を読んでいますが、映画は原作とはやや異なりシベリア抑留よりも当時の社会背景である安保や主力戦闘機選定を正面に据えている。仲代達也、八千草薫、秋吉久美子、丹波哲郎など名俳優名女優が出演。


この原作は、大本営参謀であり後に伊藤忠商事会長を務めた瀬島龍三のシベリア抑留とその後の人生をモデルにしたと言われているが、原作者の山崎豊子いわく、複数人を重ね合わせたと語っている。その映画化、制作時の社会背景が全面に出されている。もう一度、観てみたくなったが録画をDVDに落としたかどうか。

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28 10月

復元された東京駅舎

 2012/12/28

復元工事が完了した東京駅、大正3年1914年12月に開業、帝国議会で中央停車場の建設が決まり、皇居の正面に計画され東京駅と命名された。辰野金吾の設計、ロンドンの駅やアムステルダム中央駅を参考にしたと言われている。

太平洋戦争末期に東京空襲により焼夷弾が着弾、焼失して、戦後に仮以上のレベルで復元した。2000年に復元することが決まり、2012年10月1日復元工事が終了した。この写真はその直後のもの。

復元に際して、容積率が周辺のビルへ移転売却され、丸ビルなどへ容積率が移転され高層ビルとなっているが、皇居前なのにそれはないでしょう。更に、明治神宮外苑でも容積率を移転し、再開発で高層ビル3棟、それは更にないでしょう!

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9 5月

ソフィアのホテルの窓より

2011年5月9日、ソフィアに滞在していた。ホテルの窓から国会とアレクサンドル・ネフスキー大聖堂が眺望出来る部屋だった。このホテルRadisson Blu Sofia、元々はブルガリアホテルBulharia Hotelだった。1996年にソフィアに長期で滞在していたが、どん底だったその時と比較して今は街並みが綺麗になっている。
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アレクサンドル・ネフスキー大聖堂は1877年の露土戦争で戦死したロシア兵を讃えて1882年に建設が開始され礎石が置かれた、実際には1904年から1912年に建設された。

今、ブルガリアのソフィアに滞在している。

1997/97年にここで仕事をしていた時と比較するとかなり状況が良くなっている。2007年にEU加盟しているので当然だろう。

ソフィア空港ターミナル2がオープン、円借款が一部供与されているソフィア地下鉄も開業(一路線だけ)、新築・改装したビルが目立つ、ホテルが増え、米国系ファストフードが増えた、マクドナルド、当時は1店だけあった、カフェやレストランも増えた、かなり西ヨーロッパナイズされた印象。ヴィトーシャ通りは歩行者専用になっていた。そして、物価は安く安定している。

EUに加盟したことで日本国籍所有者はビザが要らなくなった。以前は空港でも取れたがUSD96支払う必要があったのだ。それから、通貨が新レフとなっている、ハイパーインフレの結果、カレンシーボードが導入されドイツマルクに固定され、デノミが実施された、これが1998年であろうか。

変わらないこともある、旧市街の古い建物はそのまま(朽ちたまま)、老人の物貰いの多さ。トラムやバスは当時の車輌を維持管理してなんとか使っているようだ。

今回の滞在は数日なのでソフィア以外へは足を延ばしていない、ブルガリアの魅力は地方だろう。また訪れたいと国だ。
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