ワールドメイトと共に−強運の秘密

ワールドメイトの現会員が、ワールドメイトで感じた感動体験、楽しかったことを書いてみます。深見東州先生のこと、世界中に愛をワールドメイトのこと、救霊のこと、支部のこと、日々の幸せ等、書いています。

ワールドメイト・深見東州先生のお話し54−天の道のために自分は生きている

(深見東州先生のお話し53からの続きです)

それは、天の道のために、自分は生きているんだ。これは陽明学にも、教養を磨きましたけどね、陽明学だけじゃない、信仰心があったんでしょう。天の道が知っている、天の道のために生きていくということで、逆賊にあえてなって死んでいくというのは、これはまさに我も捨てて命も捨てたんですね。西郷論垢蓮もっと別な道もあったと思いますけどね。あの時点においては、一番明治政府のもとに、天の道に適っていると思ったのでしょう。そして討たれ死んで死んでいったわけですから。逆賊となって死んでいく覚悟をしたというのは、命も捨て我も捨てて死んでいったというのは、西郷南洲。まあ、そのことを思えば、私なんかはまだましかなあと思うので、やっていけているわけですよ。それはやっぱり学問があるからです。

そうやって、執着心を持たずに、そこの原点に生きているから思いきった行動ができるんです。来年も、その心が試されて、思いきった普通の人間が心臓が飛び出るようなことをやり続けていく。まあ、80歳、90歳になってもね、肉体がある限り、生きている限り、世の中の人間、世界の人間の、心臓が飛び出るような驚くようなことを、死ぬまでやり続けて、初めて神人合一した人間だということが言えるので、それは、やっぱり命も捨てて我も捨てて、神様にお仕えするという道を貫くんですよ。

神様にお仕えするという心構えと、神様にお仕えするという道、すなわち神様の御取り次ぎのために生きていく、神様の御取り次ぎのために神と共に生き、神のために生き神のために死んでいく、そのためには命も捨てる我も捨てる、逆賊になったままでも死んでいける、楠木正成公のように、後醍醐天皇とか坊門清忠とか、おのれのことしか考えない皇族のために、というよりも大義名分のために、忠誠を貫いて、討ち死にして死んでいくという、これが神の思し召しだったわけですあの当時ね。

○○○○子も未来が全部見えた人ですけど、最終的には毒殺されて死んだんです。だけどそれを予感して死んでいくんだなあと思いながら、毒殺されるなあということを未来を予感して見える人ですから、自分が死んだらこうなんだということで、その息子の、二十四人の子供たちに言って聞かせて、○○○○王とともに、皆が首をくくって死んでいった。自分らが死んだら死ぬのは二十四人、戦を起こしたら死ぬのは何千人ということで、根性なしというかアホというか、勇気がないと言うかもしれないけれども、一緒にやれば勝っていたかもしれませんけれども、○○○子の御心を我が心としたんだね。

そしてできたのが○○寺だ。呪いを無くすなんて、もっと超越した心で生きていましたよ。○○○子さんもね。未来が何でも見えた人ですから、そんなことが見えないはずがないですよ。あえて、その道に殉じて死んでいくことにしたんですよ。それが神の思し召しだったからです。○○○○王たち二十四人が死んだのも、それがその時の神の思し召しだったわけですよ。だから人々はわかっているので、その心に響いて、○○○○新。歴史の中に常に○○○子信仰というのは、絶えないというのは、楠公さんの時と同じですね。○○○子の神試しでもあったわけです。神様にお仕えするという心を貫くために、命を捨てるだけではなく、不本意な腹が立つような死に方、即ち我を捨てるという、我も捨て命も捨てるという神試しですね。

(つづく)

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ワールドメイト・深見東州先生のお話し53−神の思し召しならば世間に何と言われてもいい

(深見東州先生のお話し52からの続きです)

「深見先生はなんであんなに思いきったことができるんですか?」、執着していないから、無くなったっていい、恥じをかいてもいい、失敗してもいい、こんなものが無くなったって全然平気だ、と思ってね。会社でも、思いきったことができるのは、ギリギリまで考えるけれども、いざとなったら思いきったことがバーンとできるのは、会社がつぶれてもいい、信用が無くなってもいい、世間に笑われてもいい、何と思われてもいいよ、神の思し召しならば、神様の御為なら火の中水の中、世間に何と言われてもいいよ、と思うから、思いきったことがバーンとできるんですよ。

金銭に執着し、名声に執着して、世間体に執着して、これをやったらどう思われるだろうかとか、どうされるだろうかとか、どうなんだろうかっていうね、そういうふうな心構えで生きておったらね、その執着心があって、世間の目とかいうのがあって、失敗したらどうしようかっておのれのことを考えていたらね、思いきった決断はできないんですよ。

思いきった決断をする極意は、捨てる覚悟だ。命も捨てる、我も捨てる。命を捨てることはできても、我を捨てられない人は多いですよ。こんなバカな人間のために死んでいくという楠木正成公。こんなバカな人間のためにお仕えしていくという諸葛孔明。こんな愚かな人間のために死んでいっていいんだろうか、こんな愚かな人間のために死んでいって何になるんだろうかって、特攻隊で死んでいった人もそうですけど、未来の国創りのために死んでいくんだ、そのための捨て石になっていくんだということは納得して死んでいくんですけれども、そりゃあ捨てるといっても、命を捨てる以上に我を捨てることは難しいんです。命を捨てることも難しいですけどね。命を捨てることもできないけれども普通、もっとできないのは、我を捨てることです。屈辱を味わいながら死んでいく。こんな者のために死んで何になるのかという者のために死んでいく。神の思し召しだから、悪人になったまま、死んでいく。神の思し召しだから、野垂れ死にしながら死んでいく。神の思し召しだから、不本意なまま、討たれ死んでいく。楠木正成はそうですよ。それが神の思し召し。だから多くの人が、その心を慕い、皆歴史に残っていく。その魂の輝き、大義名分論の、実行者として楠公さんが神上がりするわけですよ。神様の御為ならば命もそして我も捨てる。不本意なことのために死んでいける。納得できないことのために、死んでいく。屈辱を味わいながら、屈辱したまま死んでいく。あえて、悪人になって死んでいく。これは、西郷論垢そうですよ。

江戸幕府が崩壊して明治政府ができたけれども、明治政府の矛盾点が起きてきて、武士たちは不満だらけ。こんな不満だらけの武士がいたら、武士も可哀相だし明治政府も困るだろう。だから私が、その不満分子の中の頭領となって、西南戦争を起こして、逆賊となって、謀反を起こす人間となって、謀反人となって西南戦争を起こしましょう。そして、武士たちと共に、討たれ死んで死んでいきましょう。そうすると武士も武士らしく死ねて幸せだし、明治政府も不満分子が消えてやりやすくなるだろう、というので自分が逆賊という汚名を敢えて受ける覚悟をして、西南戦争を起こして死んでいったのが、西郷隆盛ですよ。

(つづく)

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ワールドメイト・深見東州先生のお話し52−日常生活での、普段の自分がどうなのか

(深見東州先生のお話し51からの続きです)

それができていないから、飾るお三方は○○○だらけ、飾った神籬は、祈りを捧げれば捧げるほど、ものすごい邪気というほどではないんだけれども、いやらしい気が、ピッピッピッピッとあるから、人間の気というのが宿っているから、全部とっ払うな。もう邪魔でしょうがない。それよりも、山に向かって空に向かって海に向かって直接御神霊と交流したほうがよっぽど清々しいよ。だから一応、こんな形という雰囲気作りのために、御神前とか三方を揃えるんだけど、雰囲気ができあがってしまったら全部払う。厳密に言えば常に微かな邪気がついているから、そんな微かな邪気がいつもついている人間が、ずーっとこの大仁でお祈りを捧げてきたら、この大仁総本部が邪気紊乱する社になるのは当然だろ?○○神社も、○○神社も、みな神様が帰ったのは、同じ理由です。宮司さんが、神にお仕えするという心構えを持ってお仕えしていないから、神様が、自分の心の中に神魂と神様の部分が無いわけだから、当然神様も帰りますよ。心の奥の部分がどうかですよ、神職は。○○神社も、○○神社も。それから熊野本宮は、前の宮司よりも若干曇って、まだ大丈夫ですけどね。○○神社も、○○神宮も、ちょっとずつ曇ってきて、もう、神様はいるけれども、○○○に覆われていますな。神にお仕えするよりも、本殿をどう建てるのか、建物をどう建てるのかという、形を整えることばっかりに、ちょっとぐらいはいいんだけれども、そのことばっかり考えてそのために神様に祈りを捧げているからね、神様のためのお社ではなく、お社のために神に祈りを捧げていますよ。そして○○さんにお祈りする。なんとか寄付が集まりますようにって。魂を○○さんに食われてしまっているので、その神主がお仕えするところの神社には、神様がいても邪気のほうが大きい。やがて神が帰るでしょう。

全部原則は同じなんですよ。人間の神なる部分の、神魂の部分は、神にお仕えするという心構え、そしてそれを実行する、日常生活、二十四時間、三百六十五日の、普段の自分がどうなのかなんです。

神職というのは、一見、見たところ、御神前にご奉仕する、それは御神前、形だ。神主衣装を脱いだ時に何をしているのかなんです。神主衣装を脱いだ時は、キリスト教と仏教と、儒教と、老荘思想と、そして老祖様にお仕えする、神仙の道に生きていこうということで、毎日という、自分というものを、能力と才能を磨くために生きているんじゃないんです。神様にお仕えする心構えで、神様をお取り次ぎするために必要だから芸術を磨き能力を磨き学問をし、すべてのものをやるんですよ。でも原点には常に帰っているから、だから歌なんか歌わなくったって、絵なんか描かなくったって、文章なんかなくったって、サミットなんかなくても、会社なんかなくても、全然困らないし全然平気だ。神様がそうしなさいということでやっているし、社会的責任でやっているだけのことなんで、無かったら無かったで原点に立ち戻って、生きていく限り、また神様にお仕えして、神のお取り次ぎをしていくというだけのことなんで、執着していないから、思いきったことができるんです。私はね。

(つづく)

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ワールドメイト・深見東州先生のお話し51−生活の中に神が宿っていないことが原因

(深見東州先生のお話し50からの続きです)

二十四時間三百六十五日、心の中身を全部、神様にお仕えする心で生きておったら、そんなしかめつらしたような顔で毎日を送っていないし、そんな顔をしていないし、君たちがお供えしたものに邪気紊乱していないですよ。君たち神主がお供えしたものが、その心が全くできていないから、そうなる。神前にご奉仕することと、神にお仕えすることは、全然違うんだからね。その本質的なところができていないのに、神前の飾り付けするのにいつも邪気紊乱しているから、神事のお取り次ぎをする時に全部祓っているだろう。そこに神様が宿っていないからだよ。

なぜ神様が宿っていないかというと、三人の神主の、準備をする、御神前にご奉仕する人の心の中に、毎日の中に、生活の中に神が宿っていないからですよ。二十四時間一年三百六十五日、本当に神にお仕えする心構えで生きているなら、そんな気難しい顔をしているだろうか。喜びと歓喜に満ちて、生きて、守護神守護霊に守られているから、予知力も、準備段取り後始末も、未来の予知も人の心の痛みも分かるよ。能力も才能も寸暇を惜しんで磨くよ。そうじゃなければ神様のお取り次ぎができないからだよ、社会で。御神前にご奉仕することと、神にお仕えすることとは全く違うんだよ。中途半端に神道を勉強したがために、普遍的な神の原則というものの道を踏み間違えているしわかっていないし、勉強していないんだよ。聞いてもまた抜ける。キリスト教の愛を、隣人への愛を実行する。仏教の深い慈悲と知恵、おのれの心とか魂とか言葉を、洗練させて悟りを磨いていく。まず仏教的要素とキリスト教の要素はほとんど無いなあ。次に儒教である人倫の道、ちょっと有ってもこれまた全然できていないんで、言葉が洗練されていませんよ。

次に、老荘思想の、神仙の神の神気に満ちて、神とともに生きているという、心の中に神にお仕えするという心が、心の奥の中心部分と、日常の普段着を着ている時の自分というのに、神にお仕えする心に生きていない人間が、神主衣装を着て、御神前に供えたって、神が宿るはずがないだろう?自分の心にも神は宿っていないし。なくはないよ。隠れてひっくり返ってヘソを曲げてますよ。後ろに、神々がいつもご守護しているような、守護霊団、背後霊団、神様、龍神さん天狗さん、白蛇さん、他神々たちが仏さんもエンゼルもいつも、その三人の神主がいつも、慈しんで愛していたらいつも喜び歓喜に生きていて、ものすごい気がいいはずですよ。

それなんかぽっと並べても金色に輝いて、これ誰が供えたんですか、○○神主です、ああそうか、よく神にお仕えしている、神宿る、本当に素晴らしい神主だね、って言うよ。これは誰がお鏡を置いたんだ?○○神主です、そうか、これは本当に神様が受け取って、天の香りがするよ、ってね。ああ、よく日頃から、神主衣装を着ていない普段、本当に神にお仕えするという心で生きているねって言って、素晴らしい神主だねって言いますよ。

(つづく)

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ワールドメイト・深見東州先生のお話し50−自分の想念をどう乗り越えて祈るのか

(深見東州先生のお話し49からの続きです)

その心の中身というものを、仏教のように、心の中身を見つめて開拓し、想念と想いを工夫し、キリスト教の信者のように、愛念に生きて愛を実行するというところが全く希薄なのが神主というものですよ。神道の欠陥、神主の欠陥はここなんです。

何回も注意しているけれども、ついまた忘れて、神にお仕えするというのは御神前にご奉仕することだと思っている。神にお仕えする心というのは御神前でご奉仕することじゃないんですよ。御神前にご奉仕するのが神にお仕えすることじゃないんですよ。一日二十四時間、神主衣装を着ていても脱いでいても、心の中がいつも、その神とは、キリスト教的に言う、広大無辺にして清涼にして、全て愛を以て帰一するを真心となすというスの大神様で、その行為と日々の行い、隣人と友人と仲間に対して、パンを分かち合っていくという行動、仕事の準備段取り後始末をきっちりするという、みんなのために組織のためにという想い、仏教で言う、自分の想念とか想いというものをどう乗り越えて祈っていったらいいんだろうかという、心の悟りというものを常に開拓して学んでいく。儒教の、仁義礼智信の、人倫の道、社会の常識と礼儀と、コミュニティの中においてどういう言葉とどういう行動と、どういう言葉を発すればみんなに喜ばれみんなに信頼され、みんなを幸せにできるような自分なんだろうかという、幅広い人間としての学問と教養と常識と礼儀と、人間性の教養の厚みを作っていくということが、一日も怠ることなく、これが神にお仕えする心構えですよ。神にお仕えする心構えと御神前でご奉仕することは、全く違うんだ。

だから本当に心の中の、幅広い教養と学問に基づいた、私のように神にね、神主衣装を着ようと着ようまいと、一日二十四時間三百六十五日、神にお仕えする心構えで生きて、神のお取り次ぎをする心構えで、仕事もするしやりくりもするし、人も叱るし、芸術もスポーツも経営も全部その心で始まりその心で終わって、その祈りを捧げていつも神に感謝し、生きて、いつもハッピーで元気で生きていますよ。神様から愛をいただいているから、叡智をいただいているから、運をいただいているから、勇気とやる気と元気も神様に、あらゆる神々が与えて下さっているから。神主は、神様に、やる気と元気と叡智と、愛をいただいていたら、何もしなくても喜びとハッピーなのに、そんな眉毛を曇らしたり困ったような顔をしながら、そんなもそもそもそもそくさい顔して、お掃除したりモタモタしているかというんだよ。神に愛されている者は喜びと歓喜で生きているんです。やる気と元気と生き甲斐を持って、誰よりも仕事ができて、誰よりも素晴らしい人で、誰もが尊敬して、誰よりも素敵なことが次々能力を磨いているんですよ。それは神様のお取り次ぎをするのに必要だからだよ。

(つづく)

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