ワールドメイトと共に−強運の秘密

ワールドメイトの現会員が、ワールドメイトで感じた感動体験、楽しかったことを書いてみます。深見東州先生のこと、世界中に愛をワールドメイトのこと、救霊のこと、支部のこと、日々の幸せ等、書いています。

ワールドメイト・深見東州先生のお話し−「主催者ごあいさつ」から

2016年7月27日、「第5回東京国際コンサート」が開催されました。

その際、配布されたパンフレットに「主催者ごあいさつ」という形で、深見東州先生の私見が掲載されていました。大変素晴らしい内容ですので、以下にご紹介させていただきたいと思います。



以下、パンフレットより転載−−−−−−−−−−−−−−−−−−

主催者ごあいさつ(エッセー風)

NPO法人 世界芸術文化振興協会(IFAC)
会長 半田晴久(深見東州)


 第5回「東京国際コンサート」に、ようこそお越し下さいました。

 早速ながら、単刀直入な話を致しましょう。

 書道には、お習字と芸術としての書があります。お習字は楷書、行書、草書、隷書などがあり、基本筆法をいかに正しく、キッチリ、美しく書くかが問われます。しかし、芸術としての書は違います。基本筆法に基づき、いかにそれをくずし、とらわれず、美しく書くか。また、美醜を超えてドラマチックに、感動的に、個性的に書くかが問われます。それが芸術としての書です。

 同じ事が絵画にも言えます。セザンヌの静物画を、美大の先生がチェックすると27ヶ所以上の修正や添削が加えられます。セザンヌの絵では、美大入試の全てに落ちるのです。これも、学校で習う絵画と、芸術としての絵画が違う実例です。

 お習字の書が書道で、美大入試の絵が絵画だと思っている人は、芸術の何たるかを理解していない人です。という事は解っていても、いざクラシック音楽になると、お習字のような歌や演奏、美大入試のような歌や演奏が、クラシック音楽だと思っている人は、意外に多いのです。歌や演奏を聞いても、その観点からアラばかり探し、批判を言って喜ぶクラシックファンも多いのです。

 その人たちは、ピカソやミロの絵を見て、どう鑑賞するのでしょうか。また前衛の書を見て、どう鑑賞するのか。一度聞いてみたいです。世界的な名声を得る前の、ヨーヨーマやロストロボーヴィチのチェロを聴き、どれだけ評価できたのでしょうか。

 また、学歴もなく、セールスマンあがりで、声楽をやっていたパヴァロッティを見い出したのは、リチャード・ボニングです。ジョーン・サザーランドの夫であり、著名な指揮者として今も活動しています。この事は、リチャード・ボニングから直接聞いた事です。

 一般的に言って、世界的な評価が定まり、権威ができる前に、日本のクラシック関係者やファンは、その芸術的価値を見い出せたのでしょうか。大変疑問です。

 なぜなら、オーストラリアで最も権威ある声楽コンクールを、15年以上主催していますが、日本の権威あるコンクールとは、全く審査基準が違うのです。日本のコンクールは、細かい事の減点主義。欧米のコンクールは、素材を発見し、将来の可能性に賭ける加点主義です。だから、日本のコンクールで優勝しても、全く世界では通用しないのです。日本のコンクールは、お習字と美大入試の減点方式です。これに対し欧米のコンクールは芸術としての書や、絵画の芸術性の評価と同じです。また、例えばプラスマイナス1分も違わず、キッチリ電車が来る日本とは違い、何でもアバウトなイタリアでは、ハイノートが素晴らしい声で、ガツーンとでればそれで大ブラボーです。逆に、どんなに美しく正確に歌っても、聴衆に感動が伝わらず、ハイノートがガツーンと歌えないと、ブーイングなのです。

 こういう、社会的、音楽的背景から生まれたのが、イタリア歌曲です。無論、イタリアオペラは、もっとこの要素が極まります。

 ところが、ソルフェージュが発達したフランスに留学したり、TやSやHを発音しない、フランス語歌曲に慣れた人が、イタリア歌曲を歌うと何か変です。また、何でもキチキチ正確にやり、理屈っぽく、鼻音を入れた発声で歌うドイツに、長期留学した人が歌うイタリア歌曲はもっと変です。イタリア人が聴くと、みんなブーイングです。まじめ過ぎて、地味で、明るさや面白みがないからです。もちろん、感情のほとばしりもありません。だから、感動がないのです。そして、何よりも明るくクリアーに、頭や身体から母音が飛び出す、イタリアンベルカント唱法とは違う発声や、表現方法だからです。

「ドイツ系のヘルマン・プライやフィッシャー・ディスカウの、イタリア歌曲やイタリアオペラの、とこがいいのじゃ!」と思うのが、イタリア人の共通認識です。私も同感です。発声はイタリアンベルカントで、言葉はドイツ語というのが、世界的なワグナー歌いの共通点です。

 このような訳で、世界の音楽史を見ても、声楽に関しては、フランス出身やドイツ出身、ましてや日本出身の世界的歌手は、本当に少ないのです。なぜそうなのかを考えると、今述べた背景が挙げられます。しかし、ドイツリートにはドイツリートの良さがあります。深い響きのシューマンやシューベルトの歌曲には、それなりの魅力があるのです。あまり、一般受けはしませんが…。だから、イタリアの歌唱を以て、歌唱芸術の全ては語り尽くせません。それは、また別な議論になるのです。

 ところで、お習字や美大入試の絵ではないクラシックとは、具体的に言うと、イタリア歌曲やイタリアンテノールのように、カデンツァやジャズのフェイク、演歌や民謡のような小節、アゴーギグ(音楽のゆれ)を自由に入れ、楽譜に基づいて楽譜を離れ、楽譜をくずしてドラマチックに歌う歌唱です。カルーソーやデル・モナコ、D・ステファノ、クラウスやコレッリなど、彼らの歌うイタリア歌曲は、自由自在で好きなようにくずし、日本の演歌や民謡と変わる所がありません。ただ、言葉がイタリア語で、発声がイタリアンベルカントなだけです。実は、オペラのアリアも、楽譜通りに歌わない事も多いのです。音程を上げたり下げたり、言葉を変えたりします。ただし、オケと合わせるため、歌曲ほど自由にはできませんが。

 それで、いつも思う事があります。イタリア歌曲の「カロ・ミオ・ベン」や「愛の喜びは」は、女にふられ、悲しんで絶望し、裏切った女をイタリア男性が呪う、未練タラタラの歌です。それを、なぜ日本のソプラノ歌手は、あんなに美しく、楽譜通りにキッチリ歌うのか。また、なぜ日本のテノール歌手は、あんなにまじめに、お習字の楷書や、石膏デッサンのように歌うのか。全く理解できません。

 音楽評論家の中にも、「歌曲は軽く静かに歌い、アリアはドラマチックに歌うものだ」と決めつける人もいます。しかし、有名な歌曲「オンブラ・マイ・フ」は、もともとオペラのアリアでした。そんな歌曲は、たくさんあるのです。アリアだった曲が、歌曲に編集されたら、急に軽く静かに歌うのでしょうか。そんなはずはありません。

 また、オペラ「ジャンニ・スキッキ」の、有名なアリア「私のお父さん」は、歌曲以上に、軽く静かに歌われます。それは、歌われるシーンや、歌詞がそうだからです。決して、歌曲だからとか、アリアだからという理由で、表現を変えるものではありません。歌曲の「陽はすでにガンジスから」や「ペーラ・グローリア」「ベルジン・トゥット・アモール(愛に満ちた処女よ)」などは、いつもドラマチックに歌われます。それは、そういうメロディや歌詞だからです。

 音楽評論家がこのように誤解するのは、オペラ歌手がリサイタルをする時、声の調子を調えたり、後半を盛り上げるため、前半に軽くて静かな歌曲をもって来るからでしょう。しかし、歌曲もいろいろ、アリアもいろいろなのです。「歌曲は軽く静かに歌い、アリアはドラマチックに歌う」という規則は、どこにもありません。そして、恩師栗林義信先生は「最終的に、歌曲をどう歌うかが、声楽で一番難しい所なんだ」と言います。シンプルな曲が多いので、一番表現力が試されるからです。これは、一流オペラ歌手の共通する意見です。そんな、「歌曲は静かに歌うもの」という、次元のものではないのです。

 だから、今までなかった歌曲の歌唱を工夫する事が、優れた芸術家としての、オペラ歌手のあり方です。ドラマのような謡いや表現を工夫し、独自な芸風を確立して、人間国宝になった宝生閑(ほうしょうかん)のように。

 能には、シテ方とワキ方があります。シテ方は主役、ワキ方は脇役です。ワキ方は目立たぬよう、地味な表現を心がけるのが慣わしでした。そこを、ワキ方宝生閑は打ち破ったのです。演劇性を重視し、まるで島田正吾のように、ドラマチックな演技でした。「道成寺(どうじょうじ)」や「隅田川」のワキをやらせたら、物語に引き込まれ、天下一品の味がありました。しかし、芸風として確立するまでは、多くの批判や反対意見があり、賛否両論の軋轢と戦いながらの舞台でした。それが、人間国宝になったら、たちまち世間の風当たりも変わったのです。

 このように、オペラ歌手も、本当の芸術家であろうとするなら、評論家や世間の批判と戦い、自分のスタイルや芸風を確立するまで、創意工夫とチャレンジを続けるべきです。いかなる舞台芸術も、世阿弥の言うように観客が喜び、感動すればよいのです。それを世阿弥は、「花」と呼んだのです。

 ところで、西洋音楽やイタリア歌曲を、まじめに固く考えて敬い、崇拝する日本人の姿勢に、いつも違和感を感じます。西洋音楽やオペラ、特にイタリアオペラや歌曲は、殺す殺される、裏切る裏切られる、浮気する浮気される、寝取る寝取られるという、エッチで下品な愛すべき人々の音楽です。だから、上品ぶらずに親しみ、イタリア人のように、もっと自由に歌うべきです。また聴衆も、歌舞伎や演歌、民謡を聞くように、もっとリラックスして楽しむべきです。

 イタリア歌曲とは、恋と食べ物と音楽が好きな、イタリア人の演歌や民謡、昔のポップスです。特に、モーツァルトのオペラは、エッチで下品なユーモアの物語に、素晴らしい音楽が付いたものです。だから、崇拝するより、親しむべきものでしょう。

 ジャズは、アメリカ黒人の演歌や民謡、イタリア歌曲です。なぜ、クラシックの人やファンは、プライドや誇りをもって、他のジャンルの音楽を見下すのでしょうか。500年も経てば、演歌や民謡やジャズやポップスも、イタリア歌曲のようになり、全てクラシック音楽になるのに……。そんな思いで、今宵は音楽や歌を差別せず、自由な気持ちでイタリア歌曲を歌い、日本歌曲を歌い、カンツォーネや英語の歌を歌います。

 もちろん、世界の歌姫アンジェラ・ゲオルギューは、そんな素敵なディーバです。何を歌っても、輝かしい美声で絵になります。また歌心があって、何を聴いても感動します。そして、そのアンジェラ・ゲオルギューが、今宵共に歌って下さる事に、心から感謝を捧げるものです。

 コンサートは、生の歌声を聴くのが一番です。どうぞリラックスして、世界最高峰のアンジェラ・ゲオルギューの歌声を、ゆっくりお楽しみ下さい。あっ、それから、中央線西荻窪駅周辺では、かなり有名な私の歌声も、ゆっくりお楽しみ下さい。

転載ここまで−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

いかがだったでしょうか。こうした考えに基づいて、深見東州先生は今後も音楽活動をなさっていくようです。今秋にも新たにコンサートが予定されているということですので、どうぞお楽しみに。

(つづく)

↓ブログランキングの応援、お願いします。1回クリックしてね。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ


ブログランキング
ブログランキング

ワールドメイト・深見東州先生のお話し23−自分なりの愛は、「偏愛」となることも

(深見東州先生のお話し22からの続きです)

こういう人が何人かいて、もうちょっと事前にわかっていたらな、と思うんですが、しかしそうなのかどうなのかというものを、会員を全員とか、御魂調べをすることはできないでしょう。100人、200人でもできないですよ。よっぽどの何かの時にはパチッとはっきり分かる時はありますけどね。しかし「あなたは一生、そうやって神にお仕えするという誓いを立ててきたから、そういう道に行かなくて、神にお仕えするという心構えがなくなったら、続けられなくなりますよ」、「嫁はん子供ができたら、続かなくなりますよ」、「仕事、仕事ならそうなりますよ」って、分かっていてもですよ、そういうことを言うということは、脅かしであり非人道的であり、社会通念上言われた本人も、「ええーっ」って言ってさ。脅かしになりますよ、そんなのは。脅迫・脅かし・強要になりますよ。社会通念上そのようなことは、決して許されるべきではないと思うんで、分かっていても、黙っておかざるを得ないですね。そうなって初めて、「やっぱりそうだったんだ」。予めそれとなく匂わせておいてですよ、やっぱりそうなったなあという時に、やっぱりそうなったね、ということを思い知る機会があって、思い知る時が「本当に先生の言う通りでしたね」ってなことは、時々ありますけどね。

しかし、たとえ相手がスタッフであったとしても、そうした脅かしとか恐いような話はできませんね。そういう場面に遭遇するまで人は分からないわけですから。でも現実にそういうことは、ちょくちょく起きるんです。たくさんは起きないけれども、ちょくちょく起きるんですよ。

そう言われてみればって言って、胸に手を当ててみれば、何人か該当する人が浮かぶはずですよ。これはやはり天地の道に基づいて、人それぞれですけれども、人それぞれの因縁を持ってね、人それぞれに、自然に裁かれている。自分の御魂に自分が裁かれている。これは、厳然として起きている事実なんで、現実なんでね、そこを甘く考えてはダメですよ。誰がどうとは言いませんけどね。

そういうことでですね、話を元に戻しますと、なぜ、これ4,000体も浮遊霊が来て、うち2,000体が合体しちゃっているのかっていうのは、たとえ三人の神職であったとしてみてもね、神々にお仕えするという心構えが、希薄になっていたり、忘れていたり、歪んでいたり、しているからです。だから、御魂が本当にパーッと輝いていないので、天地の道から外れているからね、天地の道の中心部分から外れているから、御魂が輝いていない。だから、守護霊もちゃんとまともに守護していない。だから、薄暗あーい魂の状態に薄暗あーい霊空間を自分が作っているから、薄暗あーいところに住んでいる皆さんが、「あ、薄暗くて心地良さそう!」という形で、いっぱい浮遊霊が飛んできて、「薄暗くて程良く暖かくて気持ちいい!」と言って、ずーっと浮遊霊の巣窟になっているわけですよ。これはもちろん全国に居るスタッフもそうですし、全国に居る支部の代表者も、支部のコミッティーも、支部の皆さんも、エンゼル会の全ても、救霊師・九頭龍師も、そして一般会員も、全部そうなんです。神人合一の道の神法の一つ、神様とは「神は広大無辺にして清涼なり」、「全て愛を以て帰一することを真心と為す」と。「真心と為す」というのは、その時に真心になるんだよと。愛で始まり愛で締めくくる、というふうに、常にやっていることがそれが真心になるんだよ、と。自分なりの気持ちの真心があっても、それは自分なりの気持ちですから、偏った愛、愛している人・好きな人には特に愛を傾けるのは、これは偏愛という。偏った愛だ。それは、その愛は広大無辺にして清涼なのかというんですよ。

自分が愛している恋人、自分が可愛がっている友達、自分の子供とか自分の母親とか自分の身内とか自分の兄弟、自分の可愛い娘や息子、子供は、可愛い可愛いと言って愛情を持っているんだけれども、その、身内に対する愛というものは、それは広大無辺なのか、清涼なのか、清らかで涼しいのか。恋人に対する愛情が、「広大無辺して清らかで涼し」くはないからこそ、思い通りに行かなかったら、あんなに愛し合っていたはずのものが、喧嘩別れして、離婚するんでしょ。あんなに親子が仲良くしたのが行き違って骨肉相食む親子喧嘩、財産争い、相続争い、兄弟喧嘩があってね、肉親の争いというのは骨肉の争いと言って、普通の兄弟とか親子の愛憎劇よりもいっそうこれは醜いですね。強烈ですね。特に男同士の愛情なんてのは、最近も顔の皮を剥がれたりしていましたからね。あれは男が女、女が男になっているという、偏愛の偏愛の偏愛ですから、仕返しするの、顔の皮剥ぐなんてインディアンみたいなことをしているのね。それは偏っているんですよ。愛という愛欲、自分の親とか、子供とかっていうものは、皆それぞれ親子間なんで、肉親ですからね。動物同士でも肉親同士とか、仲良くしていますよ。小さい時、でも大人になったら一匹の成人として、野生に帰っていかなといけないんですけど、ちっちゃい時は皆身内、仲いいですよ。鳥なんかはね、特に本当に雉というのは、健気なぐらいにね、子供の面倒見いいです。丹頂鶴というのは本当に夫婦、仲いいんですよね。

ま、そういうんで、動物界でもそうなんですね。だからその、お父さんやお母さんや嫁はんや子供や、というのは愛情かもしれないけれども、清らかで涼しい愛なのか、広大無辺の愛なのかと訊いたら、クエスチョンです。やっぱり偏っています。身贔屓が入っています。男女においては、愛欲という執念が入っていますよ。だからなぜわざわざ神様が「愛」という言葉ではなく、「広大無辺」という言葉を使っておられるのか、清らかで涼しいという「清涼」という字を使っているのかというのは、人間の、自分なりの愛情とか、自分なりの愛でやっていてもね、それは自分なりの愛なんでね、「広大無辺で清涼」ではないものというのは、やっぱり偏った愛なんです。我の入った愛なんです。

それと神様の愛とは違うよ、ということを言うために、「神は広大無辺にして清涼なり」と。清らかで涼しいものでね、そして、愛で始まり愛で締めくくる。全て愛を以て帰一するを、それを真心って言うと。だからこれが神人合一の神法の一つですので、いつも私も心がけていますよ。身内とか肉親とかっていうよりも、やっぱり広く、広大無辺な愛を持ち、清らかで涼しい愛を持っていかなければならないと思って、平等・公平になるように、心がけていますね。100パーセントできているかどうかは分からないけれどもね、心がけていることは間違いない。それは神人合一の神法っていうのは、その方向に心がけていけば、神人合一していきますよ、ということなんですね。

(つづく)

↓ブログランキングの応援、お願いします。1回クリックしてね。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ


ブログランキング
ブログランキング

ワールドメイト・深見東州先生のお話し22−神様にお仕えする心構えを見失うと

(深見東州先生のお話し21からの続きです)

それが家族の愛とか恋人の愛とか、会社の愛とか社会の愛というふうに歪んでくると、だんだんだんだん、だんだんだんだん、違う世界に行ってですね、魂が「もうこんなんじゃあ居てもしょうがないから」と言ってね、肉体は元気なんだけどピャッと魂が帰っちゃうんですよ。このまま魂が肉体に居ても、永遠に本当の信仰というのが得られないし、永遠に本当の歓喜と愛が得られない。そして魂を進歩向上させるために生まれてきたのにね、全然魂が進歩向上しないと思ったら、御魂がサーッと帰るんですよ。そしたらどうなるかというと、御神業を続けられなくなってしまうわけですね。急に免疫力が弱って変な感染症にかかってしまったり。免疫力の一番の根源は御魂の力ですからね。御魂の力が最高の免疫力ですからね。御魂の力、霊力、意志の力、肉体の力、筋力の力、意志の力、こうなっていって、それが免疫細胞と免疫力を造るわけです。ガンになった人というのは、「ああガンだもうダメだ、死ぬ」と思ったら、がっくりしてしまったらたちまち免疫力がダメになるんで、あっという間に死んでしまいますよ。ガンに打ち勝つものは、意志の力だとか気持ちだと言うんですけど、本当は意志の力と気持ちを支える御魂の力が本当なんです。御魂の力の御魂が、パーッと帰っちゃったら、もぬけの殻みたいになっちゃってね。免疫力がガターっと落ちますよ。だから常在菌が悪さしたり、ウイルスに感染したり、バイ菌にやられてね、たちまちのうちに変な感染病なったりしてしまう。御魂が帰っちゃってそうなっている場合もあるわけです。寿命がもうちょっとあるのになる場合は、やっぱり神に仕え奉るという心で生きていない、嫁はんができたら嫁はん嫁はん、子供ができたら嫁はんと子供、仕事が忙しくなったら仕事仕事仕事、で家族と一緒に家族、家族、家族、家族、家族、になってきたら、神に仕え奉るという心構えじゃなくなって、家庭サービス、家庭、会社に仕え奉るという会社第一になってきたら、特に今世で、御魂を進歩向上させようという優れた御魂がね、人間界に肉体を持って生まれてきて、より高い勉強をしよう、より高い高度な御神業の、神学びをしようと思ってきたのに、要するに現実界の、嫁はん子供旦那さん、実家のお父さん、お母さんにね、あまりにも仲が良くて、神に仕え奉る心よりもお父さんお母さんに仕え奉る心、家族に仕え奉る心、親戚縁者に仕え奉る心になって、ちょっとぐらいはいいですよ、しかしお腹の奥から神様に仕え奉る、神様にお仕えするという心構えが希薄になった時は、「ああもうこれ以上この肉体に居てもしょうがない」と思ったら、パッと御魂が帰っちゃうんですよ。

神に仕え奉る心構えで、神様にお仕えする心構えでスタッフになったのにね。あるいは支部長だとか議長だとかエンゼル会で、そういう濃い使命を持った人達ですよ。普通の人はそうはならないですよ。普通の人はそうはならないんだけれども、濃い使命を持って生まれてきた人が、スタッフになったりエンゼル会の議長になったり、あるいは支部長になったり、あるいは青山塾の責任者になったりという形で、それだけの濃い大きな使命と志を持って生まれてきた人なのに、ちょっとばかりカワイイかったり、ちょっとばかりイケメンだったり、ちょっとばかりね、仕事ができたり、ちょっとばかり嫁はん子供ができたんで忙しくなったりしてね、神様に仕える、神様にお仕えするという心構えがもうなくなっちゃった場合はね、もうこれは居てもしょうがないと思ってサッと帰る。特別な使命を持って、御魂を進歩向上させようと思って生まれてきて、スタッフにもなり、エンゼル会の議長にもなり、支部長にもなりしていたのに、嫁はん、子供、家庭、実家、仕事、そちらのほうに心がずーっと行って、神様にお仕えするという心構えがもう希薄になったら、そういう特別な御魂は、御魂が帰っちゃうんですよ。これが若くしてなんということもないような理由で、鬱病になったり精神病になって病院から抜け出せなくなったり、突然難病奇病になったりね。全ての人がそうなるわけじゃあないですよ。一般は、それなりに嫁はん子供とか仕事とかに生きて、それなりに幸せだったらいいんじゃないのと言って、御魂も、こんなもんかなあと思って、長寿を全うして生きていくのは、それはそれで良かったんだよ。だけどそうではない、強い志と強い発願を持って生まれてきている優れた御魂の場合はね、そういう神縁の濃い御魂はね、常に神試しがあるわけですよ。高いレベルの御魂には、高いレベルの神試しがあってね、それを超えられなかったっていうのは、すなわち、神にお仕えするという心構えを忘れて、希薄になり、もう戻らないなあと思った時に、御魂が帰っちゃうんです。もう一回やり直しと思って生まれ変わってくるんですよ。

(つづく)

↓ブログランキングの応援、お願いします。1回クリックしてね。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ


ブログランキング
ブログランキング

ワールドメイト・深見東州先生のお話し21−神様からいただく愛は永遠のもの

(深見東州先生のお話し20からの続きです)

夜逃げ同然にしてメジナからメッカへと逃げていく時に、軍隊が追いかけてきたんですね。その時に、戦おうとする時に、馬上に戦う兵士達にエンゼルが降りてきて、味方してくれて勝った。そしてメッカというイスラム教国はできたんだと、こういう歴史に基づいて、「聖戦だ」と言うんですけれども、何も、信仰の真実に基づいているわけでもないし、追いかけてくる追っ手が来ているわけでもなく、自分のほうからしかけていっているのであって、(実際の歴史的事実とは)矛盾しているし歪んでいるわけです。言葉だけを取り繕ってやる、これをファンダメンタリストって言う。ファンダメンタルな、文字だけを信じてやるという、これはサウジアラビアにはそういう宗派があります。キリスト教にもあります。ユダヤ教にもあります。文字、言葉だけを信じて、それ以外の解釈は信じないという。これ、ファンダメンタリストとか、ユダヤ教ではオーソドックス派といって、戒律を言葉通り全部守っていくっていう。これをオーソドックス派っていうんです。ユダヤ教でもね。そんな人は日曜日に、テレビのスイッチも入れないんです。労働だから、人にスイッチを入れてもらってテレビを見ている。テレビを見るのは労働ではない。エレベーターを乗るのは乗るんで労働ではない。エレベーターのボタンを押すのは労働だから、人にボタンを押してもらって、エレベーターに乗って、またボタンを押して開けてもらって、テレビのスイッチを入れてもらって、そして見るのは労働ではない、スイッチを押すのは労働だというんで、こんなことをずっとやっているんですよ。オーソドックス派というのは、バカみたいでしょ。でも実際にやっているんです。言葉だけを信じて、拡大解釈を信じないという。これがファンダメンタリズムという。それが、その言葉だけを信じて、ジハード、ジハードなんて、聖戦、聖なる戦いだって言ってね、エンゼルが味方するという、要するに政治の、政治のために、イスラム教を使っているだけなんです。政治目的のためにイスラム教の文言が利用されているだけで、テロが起こり、自爆テロなんかもそれを信じて、いくわけですよね。でも本当はそうではない。イスラム教以外にも、キリスト教も他も学んでみたら、神の本当の愛というのはその文言の奥にある普遍性というのがあるわけなんで、今言ったことと同じなんです。

だから、イスラム教もキリスト教も、ヤーヴェの神あるいはまたアッラーの神にお仕えするという心構えで生きているんです。皆ね。神にお仕えするという心構えで生きる。これが神業奉仕。これが社会奉仕。「奉仕」は、仕え奉ると書きますからね。社会奉仕っていうのは、社会に仕え奉るというのが社会奉仕ですね。これは基準が社会だからね、いわゆる信仰ではないんで、仕え奉っている、ボランティア活動をしている、社会のために仕え奉っている。公共の心でボランティアをやったのに、人間関係がぎくしゃくしたり、誰も応援してくれなかったり、やってあげたことに文句を言われたら、「こんなんやってられるかあ」って言ってさ、社会のために、みんなのためにと思って、滅私奉公というのは、滅私、おのれを滅して奉公する。これ滅私奉公。自分という私のものを全部滅ぼして、滅して、そして仕え奉る。これ滅私奉公ですね。仕え奉るのは一緒ですよ。滅私奉公。丁稚奉公というのは丁稚になって奉公する。丁稚になって仕え奉る、ね。社会奉仕ってのは、これはボランティア活動だけど、社会が認めてくれなかったり、評価してくれなかったり、あまりにも無慈悲な結果だったら腹立てて、社会に腹立てて、こんなんやってられるかあって言って長続きしないんです。やっぱり社会奉仕というのは、神業奉仕でないと続きにくい。だからクリスチャンというのは信仰心を持ってやっているから、神に仕え奉る心でやっている社会奉仕、神が社会を愛し、人々を愛するがために、社会に仕え奉る、そういう神に仕え奉る心で生きているから、その心で社会にも仕え奉っている。まさに神業奉仕、キリスト教の、信仰に基づく神に仕え奉る心で社会奉仕もしているから、クリスチャンのやるボランティア活動は長続きするんです。この社会において、人間関係において報われなくても、報われることを当てにしてやっているんじゃない。神様に仕え奉る心でやっているからね。社会で報われなくても、神様が報いて下さる。神様が報いて下さるのは、どういうふうに報いて下さるのかというと、愛と歓喜によって報いて下さるんです。神様が、神に仕え奉る心で生きている人間を、「おお、わが心を心として生きてくれているから、いとおしいなあ」って言って、その人を神様が愛して下さる。その人をね。その神様が愛して下さるという気とエネルギーと波動がね、喜びと歓喜になるんです。恋愛で、男女が愛し合っても喜びと歓喜になりますよ。人間の愛情は交歓しても、喜びと歓喜になりますよ。しかし人間同士ですからいつか醒めて消えていきます。だから、恋は一時的なもの、ときめく男女の愛は一時のものです。お互いが出す愛の波動がスパークして、ときめいて幸せなんですけど。

神様からいただく愛というものは、無限絶対のものから愛されているわけだから、これは消えることがない。ずーっと永遠に幸せなんですよ。なぜ幸せかというと、神様が、慈しんで下さるからです。神に仕え奉る心で生きていたならば、その神様が同じき心で生きておられるので、「いとおしいなあ」とその人を思う、その想いの波動が喜びと歓喜となって、もう幸せの究極になりますね。喜びと歓喜の、幸せの恍惚となる。これがご褒美なんです。愛と歓喜がご褒美なんです。これは永遠に続く。なぜかというと、仕え奉る相手が恋人という人間ではないし、社会というものではない、無限の愛と無限の心を持つ神様だからね。無限の愛と永遠の愛を持つ神様から、愛され続けているわけだから、ずーっと喜びと歓喜が永遠に続いていくんです。これが信仰に生きる人間の喜びでないといけないわけですね。

(つづく)

↓ブログランキングの応援、お願いします。1回クリックしてね。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ


ブログランキング
ブログランキング

深見東州先生のお話し20−神の御心を実践する時にあなたは神に出会う

(深見東州先生のお話し19からの続きです)

神がモーゼに戒律を与えたのは、戒律のための戒律ではない。人々を愛する愛のために、戒律を設けられたんだと。戒律は戒律のための戒律ではない。人々を想う神の愛によって戒律は下ろされたのだと。それが戒律だから、安息日には仕事をしてはいけないというのは、人々に休む時を与えて、仕事仕事仕事仕事ではなくて、安息日を設けて仕事をせずに、リラックスして、休憩をして、安らいで、それからまた仕事をしなさいということなのであってね。安息日には仕事をしてはいかんから、目の前で死にそうな子供を見殺しにしてでも、医者は仕事をするな、というような戒律は、どこにも無いんですね。だから、安息日であっても、戒律は戒律のための戒律ではない。全て愛のための戒律だから、お医者さんは安息日であっても、目の前に死にそうな病人が来た時にはちゃんと治療して助けなくてはならない。それが本当に神様の御心にかなうやり方です。今ならこれは当たり前のことなんだけれども、当時はね、戒律のための戒律で、お医者さんは安息日には一切仕事をせずに、人が死にかかってもほったらかしで、いっぱい人が死んでいったわけですよ。

イエス・キリストは「そんなのでいいのか?」と、本当の神の心を知らない人達なんだということで、ユダヤ人のために、ユダヤ教の人達のために、本当の神の御心、本当のユダヤ教ってどうあるべきなのかを説いたのが、イエス・キリストが愛を説き始めた理由なんですね。ペテロもそのようにやっていたんですけど、パウロはイエス・キリストと直接会ったことがない。馬に乗っている時に、イエス・キリストの霊が来て、突然感動して馬から落ちて、その霊的体験に感動して、何なんだこれはっていうことで、それから、イエス・キリストの弟子を訪ねていって、イエスの教えを学んで、それから、十大使徒のひとりになったんですよ。パウロは学問がある人だったからね。ペテロっていうのは最初から居る、漁師さんですからね。学問が無いんです。だけど実直にイエス・キリストの言う通りに、どんなことがあってもイエス・キリストと一緒に生きておった漁師さんです。魚取りです。しかしそれじゃあ神の道が広がらないので、学問と教養のあるパウロに、磔台になったあとイエス・キリストの神霊がおかかりになって、その霊的体験によって驚いてね。それからパウロは、信者になったんです。生きていた時のイエスとは、一回も会っていないんですよ。「ユダヤ教は歪んで、形骸化されてしまって神の御心の本質を見忘れている。だから本当の心を知らせて、戒律のための戒律じゃない、愛のための戒律なんだ、正しい神の御心、正しいユダヤ教の原点に帰らなければいけない」ということを言って、死んでいったのが、イエス・キリストだったんですよ。それをパウロが、「いや、このイエス様の教えはユダヤ人のためだけではなく、ユダヤ教以外の、世界の人が知るべき内容だ。世界の人、ユダヤ人以外の人も、この教えを学び、この教えに書いてある真実なるところを理解すべきだ」と言って、ユダヤ人以外にも広め始めたのが、これがパウロなんです。

ペテロとパウロというのが、パウロがポールですから、ポール・マッカートニーのポールですよね。それから、ペテロはピーターです。ピーターという名前はペテロから来ているんですね。英語読みして。ペテロとパウロ、ピーターとポールですよ。そのパウロは、初めてユダヤ人以外にもイエスの教えを説いていったんです。その教えの中心は、「神は愛なり、愛は神なり」です。神の、ユダヤ教の戒律は、愛のためにあったんだと。また、我々の贖罪主としてイエス・キリストが代わりに身代わりになってくれるんだ。我々はこのように罪多い者なんだと。イエス・キリストを信じれば、罪を肩代わりして天国では幸せに暮らせるんだよ、ということを、パウロが説き始めたね。

これが、キリスト教が始まりキリスト教が広まっていった歴史です。キリスト教の中身のエッセンスは、「神は愛なり、愛は神なり」、「神は我らを機関として、私達の肉体を機関として」、要するに機関はマシーンですよ。「中にお宿りになるんです」と。イエス・キリストの神霊がね、それは、神人一体のことを説いているわけです。ですからそれは、一体どこに、どうすれば我々が神と共に、神を見出し、神と共に在りなのかっていうのは、その愛のために、隣人愛を説いたんです。あなたがパンを貧しい人に分かち与えて、隣にいる隣人に対する愛、この隣人愛を実践することが、内在する本当のイエス様の御心、内在する本当のエホバの神様の、神様の御心を実践することですよ、その時にあなたは神を、神に出会い、神と一つになり、神の御心にかなう生き方をしているんですよ。こういうふうに、戒律に対して愛を、そして愛を実践するために隣人愛を説いた。パンを分かち合うことによって隣人を愛す。だからキリスト教社会では、寄付をして献金をして、貧しい人のためにとか隣の人が困っている人を助け合っていこうという公共精神というものが、自然に目覚めてくるわけですね。キリスト教社会においては、これが、チャリティだとか社会貢献だとか公共の心、パブリックサービス、マスタリーフォーサービス、社会奉仕のための精神という。これはイエス・キリスト、イエス・キリストを通して知ったエホバの神様の御心に、すなわちそれは愛だと。愛の御心に仕え奉る心構えで生きていくっていうのが、やっぱりキリスト教信者としての一番の中心的な考えなんで、あいつは悪魔だとかあれはおかしいとかっていうのは、そんなのは派生的なことですね。マホメットの教えも、清真(せいしん)、清らかで真実なんだけれども、これは神様に、アッラーの神に仕え奉る御心で、真実なる清らかな真実の道を行く。だから「神は広大無辺にして清涼なり」なんで、この「清涼」ということを説いているのは、イスラム教だけですね。「清らかで真実」、「清らかで真実が本当の神様なんだ」、清真の教えっていうのは、神は広大無辺にして清涼なりというところの部分を、やっぱりマホメットは正確に正しく説いている。全て愛を以て帰一するを真心と為すっていうのを、やっぱり、家族愛、隣人愛、非常に大事にします。だからマホメットの教えは本当に素晴らしいですよ。

それをファンダメンタリスト、622年、無事に超えたよヘジラ遷都、でね、メジナからメッカへと行った時に、言ってみれば夜逃げ同然に弟子と行ったんですよ。その時に追いかけてきた人達と戦いをした。その戦いをした時に、馬上にエンゼルがワーッと降りてきて味方してくれて、そして、その戦いに勝ってですね、メジナに、マホメットを中心とするイスラム教国ができた。その、エンゼルと神のおかげによって戦いが勝ち、イスラム教国という、神様の御心にかなう真実の生き方をする国ができた歴史に基づいてですね、ジハード、ジハードと言っているわけですよ。痔がきついという意味じゃなくて、ジハード、聖戦、聖なる戦いという。

(つづく)

↓ブログランキングの応援、お願いします。1回クリックしてね。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ


ブログランキング
ブログランキング
ブログランキング
ブログランキング 人気ブログランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
最新記事
世界中に愛をワールドメイトと共に QRコード 
QRコード
LINC TOP NEWS
訪問者数
  • 今日:
  • 累計:

ようこそお越しくださいました。

  • ライブドアブログ