2018年08月15日

やがて独立した地方が東京を包囲する

お盆の長期休暇も今日で終わりだが、限られた時間を過ごすのであれば、日本国内にもっと目を向けた方が良い。今の日本は、都市部は元気だが、地方が疲弊している。また、成熟度、という意味では、人口増だけが繁栄の指針では無い故に、都市部、大東京ですら住民の幸福度が達成されているとは限らない。日本の政治の常道である公共事業頼みの経済から抜け出す事は、スローライフの先駆であるヨーロッパの地域再生を観れば、火を観るよりも明らかである。つまり、日本は間違っているのである。それは、シティデザインにおける感覚、才能的な問題だけではなく、地域経済や文化的嗜好、それを実現する政治の在り方に対する理想の違いが、民度の差異となって、文化先進国との格差を生んでいるのだ。

公共事業は、それが、都市部であれば、画期的なデザインや、大規模な都市再編の為に必要であろうが、豊かな自然に恵まれた地方で、その環境を破壊するような形での公共事業が必要か、という疑問がある。手つかずの自然、というのは、森林保全や環境の統制、という意味では、人の手を介した方が、自然の為には良いのである。それは、自然を熟知したプロによって、より健康な森林地帯や山間部の保全である。だから、如何に、自然環境とはいえ、事業者の居ない農耕放棄地といった、荒れ地は豊かとは言わないし、人が手を懸けて再生されるのを待っている農耕地といえる。

かつて、疲弊した地域や、限界集落というものは、ネガティブなイメージで観られ、再生は困難とされていたが、地方である程度のまとまった住民のコミュニティがあれば、少数であれ、地域の再興は可能である。それは、農耕放棄地への新規介入や、外部の人間、主に、よそ者、若者、バカ者といわれる、向こう観ずなエネルギーを持った第三者であり、地域自体が、喪失していた、本来の土地が持つ価値を再発見する事だ。

安倍政権の農業政策は、輸出を増やす事によって、国際競争力を持った農業を鍛え上げ、その過程において、農家の再編、廃業と合併は止む無し、という考え方である。それは、間違ってはいないし、地域ブランド、夕張メロンとか、新潟コシヒカリ、松坂牛とか、売れる競争力のある商品に特化する事によって、他の食卓に並ぶ野菜や肉類が生産されなくなっても良く、農業の国際化というのは、実際には、ブランドへの依存と一極化による、食料自給率を犠牲にした、市場競争力に腐心する、という事なのだ。だから、ブランド外の野菜といった食料は、輸入でバランスを取り、主にTPP批准を進める、という行動には、政略センスが感じられる。つまり、間違ってはいない。

そして、本著の真髄とは、そうした、ブランドがあったり、有名な土地で観光資源がある地方だけでなく、さして資源のない地方が如何にして、再興するか、という事に注目している事である。農家の美味しい食材を使って、シェフが美食を振舞ったとしても、一食だけのサービスしか消費されないレストランでは、回転の速い観光地でなければ厳しいだろう。画期的なテーマは、「グリーンツーリズム」、つまりは、スローライフによる農家民宿であり、家族がまとまって滞在してくれれば、十分な利益が見込める。それは、地域の革命であり、農家民宿を起点として、レジャーとなる自然の森林、山地や美食、清流といった観光客が喜ぶ必要なものが、自己完結して、整備される事である。これを、「核地域」とでも呼べようか。

イギリスにおいて、スコットランドはスローライフの名所であるが、近年行われたその独立を問う住民投票は、イギリスへの残留が多数を占めて勝利したが、スコットランドの民族主義というのは、保守反動ではなく、多元主義であり、イギリスへの叛乱と挙兵を繰り返していたスコットランド人が、如何に、イギリスの活力となっていたかが分かる。対立とは、その政治的思想に正義があるからこそ、対立を生むのであって、悪とは、論外に排除されるものであり、戦争のテーブルの上にすら並ばないものなのだ。スコットランドは、中央から独立し、必ずしも豊かな国ではなかったが、それは、イギリスの文明社会の側から観た正義であり、どんな生き方をするかは、その土地の住民が決める事であるし、日本に欠けている事は、そうした、地方人が正義を保つ事によって、大東京を一笑に付する度量がない事にありはしないか。







highlander2017 at 17:40|PermalinkComments(0)地域再生 

2018年08月13日

農業の六次産業化は地方から始まる

都会から、地方に移り住み、それまでのサラリーマン稼業といった仕事を引退し、農業生活を始める人々が増えている。ロハスとは、本来、そうした都会からの移住者であり、主に、生活資金に余裕のあるセレブ層の人々の事ではなく、地方に定住して、農業を営み、また、その生活の質を高めるだけの努力をし、地域を紡いでいる人々の事である。都会での暮らしに浸り切った、学歴による競争社会のエリートが、農業者という、「共生社会」の人々と出逢う、というのは、人生の選択において、奇妙だが、そうした共生社会の中では、競争の勝者である事は、大した意味を成さない。

地方の人々は、田舎暮らしに憧れて、一時のブームに乗って移住して来る都会者には、一面冷ややかである。それは、安易なブームに乗り、ただ、地方の土地や畑を買い漁り、秩序を荒らしに来た新参者を嫌うからである。地方の人々は、地域の秩序や文化の維持に対しては、非常に敏感である。だから、移住者がどれだけ本気で、生活を変えて、田舎暮らしに馴染もうと考えている事が、非常に気になるのだ。田舎の人々に認められるには、時間がかかるが、一旦、同胞と認められれば、それほど快適な生活圏もない。

そして、本著で語られるのは、農業の六次産業化が、農業の自立と事業化において、重要だという事である。農家経営の食品工場、開放された厨房、ホテル、カフェ・レストラン、といった、食材の加工から生まれる利益は、農家だけのものではなく、都会から、移住して来た、経営者や元シェフといった、外来の資本においても、形成される。むしろ、地方の人々は、移住者や若者の新たな経営センスに対しては、非常に寛容であり、理解がある。経営能力や商品のアイデアがある事が分かれば、人々は、若年層に対して、心を開き、そのアイデアやビジネスに参画するべく、互いに助け合い、団結する。

地域主体の経済圏は、地産地消であり、グローバリズムに対して、地方の個性や美食を強調する事は、グローバリズムとローカリズムが対立を克服して、「グローカリズム」へと融和を進めている事にあろう。ブランド化や有機栽培による農業の改革と、六次産業化は、情報を武器にして、その拡散と新たな流通経路の開拓を進める事から、双方のイズムが融和したグローカリズムは、人を機軸として、体制側にある市場や販売店といった既存のシステムに対抗する事である。地産地消が、ローカルな経済圏のみならず、地域の繁栄に対する大義を持ち合う事から、正しい事だと観られる事は、「生態系」たる地域コミュニティの維持が、住民感情から根強く支持されている事を示すものである。

地産地消は、食材や商品の消費のみを指すのではなく、人の誕生と教育による地域の再生産において、人を重んじる、好ましい地域の生活環境全般を指すものなのである。



アグリコミュニティビジネス
大和田順子
学芸出版社
2011-02-10

 

highlander2017 at 15:00|PermalinkComments(0)地域再生 

2018年08月12日

祭が紡ぐ、繋げる物語

祭の楽しみ方は、人それぞれだ。地域が主役の祭祀とは異なるが、夏祭りのメインである花火も、その演出は計算され、如何に綺麗に見栄えするか、という事にあるが、花火は夏の主役であって、脇役でもある。それは、その場に来た観光客が、それぞれの感想を抱き、また来年来たいかとか、また同じメンバーで、家族で、恋人で、と考え、その生活に彩りを加えるからである。一瞬で消えてしまう花火に対して、それを楽しむ人というのは、何処までも続いて行く。そこには、背信や腐敗の芽は観えても、概ね、人というのは、光を仰ぎ、その篝火に当たりながら、次なる計画を抱くものであろう。

SNSで見栄えのする花火大会は、その参加者において、個々の物語がある。一瞬の花火は、その場限り、あるいは、良くてもその一日の話題にしかならない。無論、勢いがあり、多くの人を感動させ、その反響が大きければ、それに越した事はないが、花火を仰ぐひと夏の思い出は、季節の風物詩であり、夏を代表する代わりに、それが語られる時間も季節も限られる、という事である。そして、花火の本懐とは、その視覚的な美しさを喧伝して、その大会の場に来て、ひと夏の恋や友情物語を楽しむ人々の為、に行われるのである。

ひと夏、一夜の思い出は、日常に疲れた人を癒し、次に向かわせる充電の役割を果たす。社会において、その行動は、生産性のある真っ当な生き方を示す。つまり、夏祭りだけではなく、クリスマスやヴァレンタイン、桜咲く季節といった、一年の華やかなイベント、記念日は、人を楽しませるが、それを享受する為には、社会参加が成されねばならない。不参加は勿体ない事であり、参加する事によって、人々は社会の一員たる自覚を持ち、次のイベントまで楽しみに、日常を頑張る事が出来る。これは、人の生活サイクルの機軸であり、どんなに価値観が多様化しても、暦に記されるような主要なイベント、祭が廃れる、という事は無かろう。

むしろ、祭人は、その担い手が減って来たからこそ、特別視される。地域の守護者でもあり、同時に、日本的な文化を紡ぎ、繋げる、日本人らしさとは、伝統や祭祀にある、といえよう。こうなると、地方における祭祀の女性の参加や、多国籍化、というのは、時代に対応しているし、自分の地域が一番だ、と考えられる事は、当該地域を日本の都と僭称するような、中心主義的でもあるが、移住人口が増える東京の一強に対する、日本らしさ、保守的な地域社会の維持の為でもあり、頑迷なイデオロギーではないのだ。だが、地域の絆が強く、また、個性的であれば、少数を持って、大東京に勝てる地域が出て来るかも知れない。「シティデザイン」はおおむねそうした、第三極的な価値観に立っている。


highlander2017 at 17:40|PermalinkComments(0)雑談