2018年08月19日

身近になり、社会で共用される自動運転技術

自動車の自動運転技術は、世界的なエコの潮流と一致している。技術革新が、社会のサービス環境に追いついて来た、というか、技術が社会のデザインを決定する、という、人間を技術が凌駕しつつ、その最大の受益者は人間である、という、新たな世界が、未来には待っているのである。

愛・地球博然り、来る東京五輪然り、メガイベントには、企業のプレゼンテーションの場として、技術公開の機会が与えられており、トヨタ自動車も、東京五輪を無人バス・リムジンの公開の場と考えている。リムジンというのは、大袈裟ではなく、実際に、自動運転車には、利用者が、乗客としてサービスを選び、移動レストランとなり美食に舌鼓を打ったり、ゲーム機能を備えたエンターテイメント空間となる、あるいは、設備の整った移動オフィスとなるなど、サービスは、利用客のニーズに応じて、無限大である。

自動運転技術じたいは、1950年代から、企業内では研究されており、突如として、浮上したものではなく、綿密な試行錯誤が重ねられている。無論、機械に全てを任せてよいのか、という懸念はあるが、全体的に、人間が運転しても、交通事故は起こるゆえ、自動運転によって、事故は減る事が想定されている。かつては、整備された都市やアスファルトの道路に限られ、路面下にマーカーが埋蔵され、それによって誘導される必要があって、環境にも左右される未熟な技術であったが、技術革新によって、地域の小さな道路や、標識の剥げたアスファルトの道路、田んぼの畦道であっても、運転出来るようになる、という。

カーシェアリングも、そうした自動運転の一策であり、コネクテッド化による、ITとの協同が進めば、現行のカーシェアリングのように、一つの車を共用するのではなく、用途に応じて、ショッピングに行くなら手軽な軽自動車、山地に行くのであれば4WDとか、デートでエスコートするならばリムジンとか、選ぶ事によって、車という「財産に対する考え」も大きく変わるであろう事が想定される。富の独占ではなく、分かち合う事によって、生活の選択肢は増え、豊かさは増すのである。無論、高級車をハイヤー出来るのは万人ではないし、同じ所得層との共有という事にはなるが、高い金を払って、一台の車を独占するか、利用料を支払い共用するかは、興味深い選択肢である。

近未来のインテリジェント化には、社会に対する考えが外向的になり、財産や権利が常に活動的になっている必要がある。自己表現の道具として、技術は民間人の隷下に属するようになり、誰もが技術の行使者となる。自動車という、受容的な科学技術で、更新に数年懸かる技術が、ITとの協同によって、瞬時に改善の材料を得られるようになり、技術は社会に開放されるのだ。技術の社会への拡散とは、専門家に管理・独占されて来た技術の民主化なのである。







highlander2017 at 17:11|PermalinkComments(0)メディア 

2018年08月17日

可愛い子には、一人での選択肢を増やせ

若い両親による子供に対する虐待があれば、行方不明になった二歳児を発見して喜び、涙を流す親も居る。そうした、家庭に恵まれているか、居ないか、という事は、子供が選ぶ事が出来ない先天的な要素だ。如何に両親がしっかりして居ても、屑のような子供は居るし、未熟期には、子は親には従わねば、生きて行く事は出来ない。そうした、親子関係をも、計算とパワーバランスで捉える事は、必ずしも悪い事ではない。どんなに、誠心のある親子関係であっても、対立する時はあるし、人生の転機において、親の為に良い選択か、子にとっての良い選択か、という事は並び立たないからである。だから、そうした子の人権というものは、親権とは矛盾して、双方を立てる事は出来ない。だからこそ、子は早く独立して、自分で判断出来るようにならねばならない。

成人を巡って、成人式を新たに18歳まで引き下げる事が決まっている。たとえ、18歳になったとしても、その個人が、独立しているか、大人と呼べるような成熟しているか、という事は別である。酒、たばこ、ギャンブルは現行の20歳以上からだが、それは当然の事であろう。高校3年生の若者が、成人となるという事は、まだ両親と同居して、その扶養下に直接ある個人が大人と認められる、という事には疑問もあるが、親子の絆とか関係の深さ薄さというものが、子供の人格に影響を与える事は間違いがない。むしろ、この動きは、親子にとって良い問題か、という議論ではなく、おそらくは、18歳以上への選挙権の付与から枝分かれして、浮上した懸案だと思われる。

だが、いずれにしても、今までの成人式とは、公教育の中にあった人間関係、小中学校の同級生との再会が目玉であり、その年月の経過による容姿や性格の変化を愉しみ、驚く事も多かったが、これが高校の同級生となれば、そうした新鮮味は欠ける事になろう。そして、高校のコミュニティか、小中学校かを、選ぶ、という、選択肢も増えるように思う。特に青春期の人間関係とは、繊細な年頃でもある事から、悩み、葛藤や喧嘩、そして、苛めの被害に遭う、という事もある。恋愛もまた自由だが、そうした異性と付き合う事こそが、個人の成熟度の指針となると思う。友人関係が良好である事に越した事はないが、猫のような心通わぬ人たちとの別離、その「捨ての決意」ですら、若者を成長させ、経験と変えて、新たに生まれ変わる決意へと成長させしめるのだ。

だから、成人式が、高校時代に行われる、という事は、その公教育の延長線上の人間関係のまま、大人になる事が認められる、という事でもある。それを善し、と観れる事は、学校社会の人間関係に失望していない証拠であろう。いずれしても、そうした、大人となる儀式にあって、高校生が式で着用する着物や袴のカッコよさ、クールジャパンに目覚める、という事は良い事かも知れない。成人式の前日譚として、女子がどんな着物を着るか、選びに行くか、当日記念写真を撮るか、という事が、記事や話題になる、というのも新鮮な驚きがある。


highlander2017 at 20:31|PermalinkComments(0)雑談 

2018年08月15日

やがて独立した地方が東京を包囲する

お盆の長期休暇も今日で終わりだが、限られた時間を過ごすのであれば、日本国内にもっと目を向けた方が良い。今の日本は、都市部は元気だが、地方が疲弊している。また、成熟度、という意味では、人口増だけが繁栄の指針では無い故に、都市部、大東京ですら住民の幸福度が達成されているとは限らない。日本の政治の常道である公共事業頼みの経済から抜け出す事は、スローライフの先駆であるヨーロッパの地域再生を観れば、火を観るよりも明らかである。つまり、日本は間違っているのである。それは、シティデザインにおける感覚、才能的な問題だけではなく、地域経済や文化的嗜好、それを実現する政治の在り方に対する理想の違いが、民度の差異となって、文化先進国との格差を生んでいるのだ。

公共事業は、それが、都市部であれば、画期的なデザインや、大規模な都市再編の為に必要であろうが、豊かな自然に恵まれた地方で、その環境を破壊するような形での公共事業が必要か、という疑問がある。手つかずの自然、というのは、森林保全や環境の統制、という意味では、人の手を介した方が、自然の為には良いのである。それは、自然を熟知したプロによって、より健康な森林地帯や山間部の保全である。だから、如何に、自然環境とはいえ、事業者の居ない農耕放棄地といった、荒れ地は豊かとは言わないし、人が手を懸けて再生されるのを待っている農耕地といえる。

かつて、疲弊した地域や、限界集落というものは、ネガティブなイメージで観られ、再生は困難とされていたが、地方である程度のまとまった住民のコミュニティがあれば、少数であれ、地域の再興は可能である。それは、農耕放棄地への新規介入や、外部の人間、主に、よそ者、若者、バカ者といわれる、向こう観ずなエネルギーを持った第三者であり、地域自体が、喪失していた、本来の土地が持つ価値を再発見する事だ。

安倍政権の農業政策は、輸出を増やす事によって、国際競争力を持った農業を鍛え上げ、その過程において、農家の再編、廃業と合併は止む無し、という考え方である。それは、間違ってはいないし、地域ブランド、夕張メロンとか、新潟コシヒカリ、松坂牛とか、売れる競争力のある商品に特化する事によって、他の食卓に並ぶ野菜や肉類が生産されなくなっても良く、農業の国際化というのは、実際には、ブランドへの依存と一極化による、食料自給率を犠牲にした、市場競争力に腐心する、という事なのだ。だから、ブランド外の野菜といった食料は、輸入でバランスを取り、主にTPP批准を進める、という行動には、政略センスが感じられる。つまり、間違ってはいない。

そして、本著の真髄とは、そうした、ブランドがあったり、有名な土地で観光資源がある地方だけでなく、さして資源のない地方が如何にして、再興するか、という事に注目している事である。農家の美味しい食材を使って、シェフが美食を振舞ったとしても、一食だけのサービスしか消費されないレストランでは、回転の速い観光地でなければ厳しいだろう。画期的なテーマは、「グリーンツーリズム」、つまりは、スローライフによる農家民宿であり、家族がまとまって滞在してくれれば、十分な利益が見込める。それは、地域の革命であり、農家民宿を起点として、レジャーとなる自然の森林、山地や美食、清流といった観光客が喜ぶ必要なものが、自己完結して、整備される事である。これを、「核地域」とでも呼べようか。

イギリスにおいて、スコットランドはスローライフの名所であるが、近年行われたその独立を問う住民投票は、イギリスへの残留が多数を占めて勝利したが、スコットランドの民族主義というのは、保守反動ではなく、多元主義であり、イギリスへの叛乱と挙兵を繰り返していたスコットランド人が、如何に、イギリスの活力となっていたかが分かる。対立とは、その政治的思想に正義があるからこそ、対立を生むのであって、悪とは、論外に排除されるものであり、戦争のテーブルの上にすら並ばないものなのだ。スコットランドは、中央から独立し、必ずしも豊かな国ではなかったが、それは、イギリスの文明社会の側から観た正義であり、どんな生き方をするかは、その土地の住民が決める事であるし、日本に欠けている事は、そうした、地方人が正義を保つ事によって、大東京を一笑に付する度量がない事にありはしないか。







highlander2017 at 17:40|PermalinkComments(0)地域再生