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外国人技能者の受け入れについて、移民ではないかとの危惧があり、日本社会の安定を乱すのではないかという指摘があるが、これは杞憂である。

移民とは社会構造を変えてしまい、国内に外国人の共同体や異なる地域が発生してしまい、多民族国家への手招きをもたらすものだ。安倍政権が進める外国人技能者の政策とは、そうした、いわゆるチャイナタウンやコリアタウンの建設を許しているものではない。無論、異人街というのは、経済的志向や地域住民の需要に応じて、衰退している地方には、外国資本や観光客を呼び込む経済効果があるものだから、その社会的な地殻変動は、慎重に見極める必要があろう。いずれにしても、個性と競争力のあるプライドのある地域というのは、個としての独立と伝統を守って行くべきだと思う。

外国人技能者については、中韓の労働者が主なターゲットであるとの事である。外国で活躍する日本人は国際化しているが、それは、一流の人材だから当然と言えば当然ではある。社会的な必要性があり、やらねばいけない事というのは、凡庸な民間労働者のボトムアップであり、マイノリティとしての経験を重ねた苦労人にしか分からない事もある。日本への留学生は、日本側が奨学金制度を敷いている事、学費などがリーズナブルである事、日中双方で留学学歴の認定をしている事、医療保険制度が充実している事などだという。更には、日本の少子高齢化というのは大きな理由であり、それによって、大学の入学試験合格のハードルが下がり、入り易くなっている事もあるという。

つまり、日本人の人口減少への改善策として、中国人技能者というのは、産学双方からの時代的要請があるものではないか。留学生には日本側からの奨学金制度があり、少なからず、恩恵を受けているという。これは、日本人学生への奨学金制度を充実させた上でのセーフティネットであるべきであり、日本人よりも優遇するというのは言語道断である。だが、これには合理的な理由も発見出来る余地があると思う。奨学金を受給するというのは、日本の経済社会にとって有用で、将来が嘱望される若い人材への投資でもあるはずであり、そうした稼げる人材であれば、奨学金の返済が出来ず八方塞がりになると言いう事は少ないと思う。この意味で、外国人への無償奨学金は無い、という事であり、長期的に見れば日本への恩恵の還元はあるだろう。

そして、奨学金を受給する外国人留学生というのは、アルバイトを禁止すべきである。その理由とは、外国人が日本社会に馴染めず、違法行為や犯罪に関わるのは、学校や企業、地域における居場所の無さが原因でもあるからであり、学生として、学校におけるサークル、部活動に所属して、体育系も文化系も是非は問わないから、日本人のコミュニティに早期から馴染んでおく経験を、柔軟で希望のある学生時代から積んでおくべきではないか。これは、国の方針として、新たなチャイナタウンやコリアタウンといった異文化地域の建設を許さないという事から、外国人は日本社会での居場所を見つけづらくなっている。日本人の和の中に入れる事も、若き人材として活躍する為の一つの資質であり、その自助への支援として奨学金制度はあるべきではないか。

また、中国側においても、日本への留学ブームというのは、彼の国の発展途上の労働問題や教育制度、人材養成と言う意味では、非常に友好的なものと捉えられているのではないか。中国でも本格的な留学や就労を見越した日本語学校があると思うのだが、そうした、日本語教員について中国人ではなく、日本人教員が充てられるべきではないか。なぜなら、学生の得意科目だけでなく、個人的な気質、社会性、人との相性といった総合的な判断基準があるからで、日本人教員であれば、日本語授業、オーラルコミュニケーションなどを通して、個々の学生の適性が判断出来るからである。性格が悪いとか、そういった事ではなく、重要なのは日本との相性である。そこで、低評価を受けるようならば、当人は渡日に対して、再考する処があると思うし、高評価ならば自信を持つ事だろう。

管理者による「対話の拒絶」というのは、言論の自由に対する反論であって、円滑なコミュニケーションを妨げるだろう。そこに、中国人と日本人の違いは無いと思われる。特に、外国人の労働市場というのは、企業側の労働体系や意識から、非常に流動的だから、公正に評価される事が厳しいと思う。外国人参政権の是非はすぐに答えの出ない難題ではあるが、日本人と外国人との対話の窓を閉ざさない事、それによって、日本で働いている外国人が変わり社会に適応出来る事、人材の数を増やす事こそが、次世代の日本ファーストだと思われる。

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第二次大戦、ノルマンディー上陸作戦を経た米軍の部隊は、山中に配備されたナチスドイツの基地を探索して、作戦を立てる。だが、輸送機からの降下作戦は迎撃を受け、部隊の兵隊の多くは散り散りになり、残った10人にも満たない部隊は、ドイツ軍の占領下にあって、潜伏作戦を余儀なくされる。潜伏先の村では、山で採掘されるタールに秘密があり、多くの村人が捕えられていた。その基地では、人体実験を行われており、ドイツの勝利を画する為の不死の兵隊の開発、それによる歪な改造人間の実験であった。不死の兵隊、グールのような改造人間の研究は、生ける者にとってはテロであり、悪でしかない。ボイスらの米軍の部隊は、ナチスの野望を打ち砕く事が出来るのか。

非常にリアルで臨場感のあるアクション映画であり、戦争の現実や原理といったものとは距離を置いているゆえ、乱世への称賛がつきものの戦争映画ではない。また、そのせいか、戦争を指導して、その勝利を導こうとしているチャーチルやルーズベルトといった英雄も登場せず、それは奇しくも、それに拮抗し得る敵方のヒトラーも登場しないという事である。だから、本作で描かれる戦いには、戦争を終わらす為に倒すべき大敵も、責任を持った権力者も無いという事であり、概念としてナチスが悪であり、米英が善であるが、そこには、勧善懲悪の定番である善玉が登場し、一兵卒ながら善戦する事になる。そして、国家の戦いという大義から始まるも、その部隊が直面する戦闘とは、初動で迎撃されて人数を著しく減らしたせいか、小さな物語に集約され、戦争のダイナミズムは無い。

潜伏先の村では、両親をナチスにさらわれたクロエという若い女性が弟と住まう一軒家に潜伏する事になる。だが、外ではナチス兵が絶えず巡回しており、危険な敵地にある事に変わりはない。だから、ナチスから国家を守るという大義処ではなくなり、一個の善良なるクロエの家と家族を守るという、物語的には矮小なスケールダウンが起こる。だから、ボイスら部隊の戦いも、国家ではなく、自分達の一個の生命を守る為、自衛の為の戦いにまで縮んでしまうのである。これは、英雄の不在もそうだし、全体の戦局からすれば連合軍の優勢なるも、ボイスらの局地では劣勢であり、危機が近い事から、戦争への勝利を確信する事こそが、こうした残虐なナチスを相手にした戦争の試練を克服する方法ではないか。

乱世が長引けば、こうした戦争によって如何に多くの敵を殺す事が、日常となり、その罪の感覚は麻痺して行く。また、誰もが英雄になりたいと望むわけでも無いが、乱世の英雄とは、戦闘や殺戮の恐ろしさを知り抜きながら、人としての愛や感情を失わず、分水嶺で決断出来る人物ではないか。ナチスの過激思想の全てが忘れるべからず歴史の汚点とは言い切らないが、ホロコーストと人体実験というのは、悪逆非道の国家として、忌むべき悪の原理である事は間違いが無く、その過激思想というのは、敵の全てに共通して繋がっている、ファシズムの真実だと思われる。これは、国家を尊いとする国家主義が元凶かも知れない。国家の大義という強大な存在の前では、個々の人間の存在は小さくなってしまうからである。

ともあれ、村の一軒家から始まった米兵達のレジスタンスというのは、占領下にある各国の国民の誰もが抱く、救いへの小さな声ではあるまいか。悪逆非道のナチスの占領下、長き乱世とは、人の心を混乱させ、正常なる魂をかき乱すものである。そして、人体実験とは、そうした極限状態の最果ての地であり、また、魂のみならず、肉体の改造による、人としての根本的な誤りと危険からの混乱をもたらし、肉体のカオスを生むのである。つまり、これは、第二のホロコーストであって、虐げられる人の気持ちを理解しようとしないナチスの無名の将校にあるように、悪とは倒すべき大敵が居らず、誰もが悪に荷担している最前線の方面軍においては、全てを破壊せねば勝利も平和も無いという事ではないか。

エンターテイメントで終わってしまうアクション映画に、戦争映画としての爆薬が用意され、それに引火する火種としてのカオスが物語の中に溢れている。ナチスを倒すという大義から始まった、部隊の戦闘が、個々の生命の自衛と本能による抗争にダウンサイズされるも、そのクライマックスには、ワフナーの英断によって、再び大義の為の戦いへと揺り戻され、蘇生する。人体実験によって蘇生したのは、歪な怪物であったが、映画上の蘇生とは、人が人たらしめる精神を取り戻すという事であり、本物の英雄とは現場に出向して、活躍しているものである。クライマックスまでは、英雄不在におけるカオスだったが、英雄誕生によって、プロット上の盛り上がりの場だったという重なりもあるものの 本物の安定を手に入れるという、アンバランスから見事に生還する。

安定をもたらす覇者の居ない事から来る、決定的な勝因や、先の見えない戦いは苦しい。だが、これは、英雄の生まれる土が枯渇している、という事ではなく、名も無き彼らが生まれる前段階にある過程に過ぎない、闇の時代という事なのだ。個にとっての希望とは生き延びる事、国にとっての光とは敵に勝利する事であり、個と集団とがどんなレベルであれば、手を携えられるか、戦争を終わらせる事が出来るか、という普く乱世への問いがある。

公教育は無償化して、家庭における子供の教育負担を減らすと共に、大学においては返済必要の無い奨学金の配布によって、事実上の、大学における学費無償化が模索されている。

大学とは、カリキュラムの改革や国際化が進められているが、英語などの多言語環境や留学生の増加による国際人の育成が図れるべきである。だが、一方で、大学側にとっては、学術研究の教育による人材の育成や、研究の後継者の育成といった、重要な仕事が果たされるべきである。日本は、学術のレベルが高く、欧米での研究者やスタッフの活躍、ノーベル賞などの国際的な賞与の対象となるなど、大学教育を始まりとする学生や教授の専攻分野の研究は上手く機能して来た、と言って良いと思う。

大学教育で何が変わるのか、変わらないかと言う事は、学部での教育課程や単位の取得においては、国際化を基本としつつ、大学の教育思想や専攻分野は、大学にしか出来ない教育内容、講義のレベルを保たれて行く必要があると思う。また、大学における教育を実務的な内容にする、あるいは、その研究の恩恵をアカデミズムな知見の学習だけでなく、テクニカルな技能の習得に発展させるには、学習内容を資格とリンクさせる必要があり、学生課における事務所のスタッフなどが、将来のキャリアにおいて、学生が受けておくべき授業単位、そして、それと関連性の深い資格の選択肢、プランとして提示して、義務からの解放によって、学習目標を見失いがちな学生が、高い学歴に油断せずに、更なる研鑽を積む動機付けをすべきではないか。

資格とは、大学の普通カリキュラムのみならず、特別授業やオープンカレッジなどで、地域の知識人や専門家からの授業を受けたり、専門学校に通う事によって、習得可能となるものだ。独学でも良いと思うが、夏季休暇、冬季休暇などにおいて、専門学校と連携して、限定的な授業を受けられるようにしてはどうか。また、専門学校の側も、大学の独特の知識や思想に対して、専門分野を持たず、また、学閥に属さない専門学校の学生が、大学の知識に触れられる機会も生めると思う。つまり、大学と専門学校とでウィンウィンの知的関係を築き、若者同士でも出逢いの機会が広がれば、学生生活はより自由で多様なものに為ると思う。生活費を稼ぐ為にコンビニで切々とバイトをする、というばかりが、実のある学生時代の経験ではあるまい。

資格とは、人材を計る一つの指標であり、勉強すれば多くの人が取得出来るだろう。だが、企業や集団で輝く才能や資質といったものは、現場に入らないと分からない。企業には、思想やアイデアによって、一個の才能が、ビジネスモデルやサービス・商品の改革をもたらし、多くの人材を活かす事に繋がる事がある。資格は、個別的な才能であり、思想やアイデアというのは、集団的な才能であり、企業の精神や環境に影響を及ぼすものである。そして、現在の企業による求人や人材観というのは、思想よりも資格を重視する事が多いと思う。それは、資格というのが分かり易い個人の能力と努力の証明であるからである。

だから、大学改革には、大学の良い処やオリジナルを維持しながら、伝統で守るべきものは守り、根本的な改革を必要とするのは、企業側の人材観ではないだろうか。思想やアイデアといった、非形式的な能力といったものは、流動化した雇用体系や企業よりも、年功序列が残った日本的体質の企業において、発揮され易いと思う。なぜなら、思想というのは、企業に対して好影響を与えつつ、その功績というのは、数字や業績で表現できるものでは無く、個々の個性や生き方からの、総合的な評価であるからである。

つまり、そうした人材というのは、創造性や持続性の無い企業では、資格取得の労働者の方が必要であるが、企業が市場シェアを拡大したり、安定した組織統治を維持して行く必要のある企業には、思想的な人材が長い目で見れば重宝される事に為ると思う。だから、学生においては、就職活動で評価されづらい思想、アイデアといった能力を自覚しつつ、企業へのアピールにする為には、現役時代からインターンシップを重ねて、自分に合った技能や天職を探せる機会を作って行くべきではないか。

学生時代には、部活動やサークルといった自己鍛錬の場も重視される処ではあるが、人間に忠良な動物のように一個の競技や集団に属し、その中だけで個の成長や人生観を固めるという事は難しいのではないか。もっと、インターンの持続など、多様な経験を積んで、人生観を持つからこそ、古きパートナーや集団に懸ける情熱やパフォーマンスの向上が期待出来るのではないか。

地域社会は駅前商店街、つまり、鉄道インフラを中心として、人の流れやその行き先、通行の奔流を読むが如く、デザインされる事が望ましい。

だが、鉄道インフラとはダイヤが時間制で組まれているから、夜間には休止状態になる。つまり、昼間と夜間とでは、駅を利用する人も通行する人の流れや量も全く異なるという事である。

夜間には、駅前に資本や店舗などを集約する必要はない。駅前と住宅地との中間地帯や郊外への比重にも傾くだろうが、駅前にも歓楽街として、相当程度の資本や店舗がある。つまり、昼間に比べて、消費者人口が多角的な地区に拡散するという事で、駅前の交通量は昼間ほどではないが、夜間にもそれなりのものがあるという事だ。

昼間と夜間とでは、街に息づく人種が違うとまでは言わないが、歓楽街にもたかりなどの闇ばかりではなく、深夜食堂のような人情街があって欲しいものだ。ともあれ、昼間と夜間との済み分けは、街の容貌を全く違うものにする。

カーシェアリングやレンタサイクルは、夜間の足において理にかなっている。昼間のオーナーと夜間に働き活動するオーナーであれば、明確なシェアが成り立つだろう。また、歓楽街での酒食を交えた派手な遊びの帰路には、タクシーや代行ばかりではなく、レンタサイクルを使う人も居る事だろう。カーシェアリングやレンタサイクルは、こうした需要に対して、24時間営業であるべきではないか。

また、夜間というのは、移動目的地が地域内の経済圏とか、近場のエリアとなりがちで、通勤ラッシュという事も、遠方の会社勤めという事も少ないから、自動車への移動距離の少ない軽負担という理由から、シェア料金を割安にしても良いかも知れない。

電車やバスが使えない事に対して、自動車や自転車が主たる移動手段になるにおいては、中間地区の経済圏を育成して行く必要がある。いずれにしても、泥酔して自転車に乗るのは危険極まり無いし、日本のサラリーマンのプライドとして、帰路次いでの遊びの帰りにはタクシーでの帰宅の慣習、あるいは、新たな自動運転の利用というのは無くならない事だと思う。

これはおそらく、既に黙認されている事だと思うが、駅前歓楽街や中間地区においては、昼間ほどの交通規制も駐禁の警察の巡回も緩められているのだろう。経済効果からすれば、一般車両の交通量が減り、迷惑効果は減少する事から、路上駐車を立地条件からやむを得ないとすべきで、むしろ、心理効果から、経済地区での夜間の路上駐車には寛容に構えるという事は語られて良いと思う。

いずれにしても、昼間と夜間とでは、人の流れや需要、消費活動は全く異なり、夜に対応した街のデザインが、特に都市部においては計られるべきだと思う。郊外型モデルが有利なのも、夜間に移動手段が自動車になるからであり、対する、コンビニの夜間の閉店の動きは、夜間の街、経済圏には、水商売を含めて魅力的な酒食やサービスを提供する店舗が多く、また、コンビニが夜の貴族達のクールなQOLにはそぐわない、ダサいものだという事でもあると思う。

いずれにしても、人情酒場、深夜食堂のように、夜間にただ開店している事、利便性だけで消費活動に利用され為されるわけでは無い。それは、コンビニの夜間営業の見直しに現れているように、更なる合理化を待つ処である。商品やサービスが消費者の希望にかなう事、高いレベルに達している事や、後継者が居る事も重要ではないか。おそらくは、夜間の人の世界というのは、ドロドロしたものから、男女間をも含めて絆が濃厚だから、割りと人材は枯渇していないものだと思われる。孤独さもあろうが濃厚な夜間の世界、闇の企業活動も昼間の社会に対する拾われたセーフティネットではないか。

山岳部については、山登りやハイキング、牧場などの観光地として、夏場での景勝となっているが、冬場にはスキー場となり、ウィンタースポーツを愉しめる。一方で、遭難や雪崩、野生動物との遭遇などの危険に遭遇する可能性もあり、安全で奥の深い観光地として、ソフトパワーを延ばして行く潜在力を探すべきである。

雪のあるなしで、夏場と冬場では、山岳部での愉しみ方は全く異なるものに為って来るが、スキー場などの夏場というのも草の絨毯の広がる高原を散策する事が出来、なかなか魅力的な観光地と言える。登山の定番となっているような峻厳な山岳部では如何に山のプロと言えども、全ての危険を察知する事は不可能であり、また、多数の観光客を連れてトレッキングする事は出来ない。

だが、夏場のスキー場やなだらかな高地であれば、開発が行き届いているゆえに、危険に遭遇するリスクは低い。だが、そうした確たるランドマークや登頂において目指すべき山頂の無い山と言うのは、観光客が目標を設定しづらい。それに対するガイドとして、レンジャーなどの山の環境に熟達したプロが居れば、夏場のトレッキングにおいて十分に満喫する事が出来、また、経験型のツーリズムとして、周辺にある農場や牧場、ロッジなどの訪問であったり、地域の酒食などを体験する事が出来るのではないか。

山の保全というのは、本来、公共の仕事である。それは、林業が廃れ、山に立ち入る環境調整の職業が減ってしまった事から、山と人との距離が広がり、疎遠になってしまった事から、自然環境の荒廃や、豚コレラ、口蹄疫などの自然界からの病状の拡大を察知できず、荒れるままに野放しにしているのではないか。近年、宮崎ではO型の口蹄疫が確認されている。今年、岐阜では豚コレラの感染の中心地となり殺処分が相次いでいる。観光との公共とのミックスによる新たな雇用の創出は、六次産業化と歩調を合わせるものであるし、観光による資本と需要が高まれば、レンジャーを育成する事にも繋がる。

病状が流行る時期に合わせた、環境のモニタリング、定期的な野生動物の捕獲や調査によって、山が荒れているとか、感染病が流行る兆しにあると言った事は、レンジャーなどの地域のプロの育成によって、対応して先手を打つ事が出来るのではないか。また、山岳部の食料の減少に対応して、山岳部に動物の食料となる植物や木の実を育てる事によって、クマなどの野生動物が人里に近付いたり、または、登山コースまで降りて来るという人が危険に遭遇するリスクを緩和する事が出来るのではないだろうか。

また、冬場の雪山においては、雪崩や嵐によって、環境悪化の兆しを察知出来て、登山者への警告や、雪崩の人工的な崩落といった、自然の変化を機微に捉えられる事によって、人の安全のための方策を取る事が出来ると思う。

ラグビーW杯が始まった。日本での開催はアジア初であり、まだまだ、潜在的な人気が期待される競技として、日本代表選手には頑張ってもらいたい。南アフリカに対する大金星がきっかけとなって、人気が高まったラグビーというのは、代表の強さという、純粋な実力の指標が、人気を左右するという勝負の原理に正直であったのに加えて、もともと、ラグビーという競技が、ルールは複雑であれど、観覧において面白く魅力的な競技であったからだと思う。

強さだけなら、WBCでライバルを破って幾度もの覇権を達成している野球こそが、最大限の人気を得るはずである。国民競技となっている事からも、野球というのは絶頂にある競技であるかも知れない。対する、ラグビーはまず知られる事、思い出される事であり、ルールの些細な規制やゴールに繋がるペナルティよりも、選手らが一生懸命になって戦っている事、極めて自由度が高く、どんな格闘技王者のリングも及ばない広大なフィールドで展開される、異形の格闘技として、純粋に観覧を愉しむ事だと思う。

日本において、ラグビーのチームというのは、企業資本によって成り立っており、社会人リーグである。国内プロ化が遅れている事が、近年までのラグビー人気の低迷の理由の一つだと言われている。だが、もともと、ラグビーはアマチュアの大舞台であり、学生人気も凄いものがあった。昭和から平成にかけては、早明戦、早慶戦などの大学リーグの伝統の一戦が有名である。転機となったのは、代表の不覚であり、95年W杯におけるNZ代表への大惨敗によって、人気が低迷したと言われている。

今のラグビー人気の復活というのは、熱狂的なファン層に対して、かつてのライトなファン層の復帰という事もあるかも知れない。強さは重要な人気の要因であり、資格ですらあるが、地域における有名企業の地域との関係や、SNSによるファン層のまとまりが強くなっている事も理由ではあるまいか。競技としての荒々しさに対して、これほどジェントルマンなステイクホルダーが多いスポーツは稀有だと思う。フーリガンも居ないし、チーム間、ファン同士のコミュニティにライバル意識が少ないのも、チーム、つまり、心の壁という境界を超えた繋がりを生むと思う。

NZ代表の試合前の鼓舞のパフォーマンスであるハカにおいて、先住民族の文化をルーツとするという舞踏において、選手らは自分達が戦士である事を思い起こす。それは、フィールド上での戦いの宣告であるが、同時に、ハカを舞う事によって、敵方の選手らも、ここが特別な戦いの場なのだ、と認識し、意識を切り替える事を促す。つまり、ハカとは、競技の基本的精神であるノーサイドにおける、選手らの同輩としての意識と、同じ戦士であるという考えを、敵という事を超えて、双方に、そして、観客に対して、大きな一つにするものではあるまいか。

W杯が全てというわけではなく、今までの功績や軌跡において、日本代表には頑張ってもらいたいと思う。

これは、乗物だけではなく、人にも通じると思うが、速さというのは、時間と距離を縮めて、どんな処にも、どんな時も、行きたい処に行く事が出来る。

緩やかな旅路は、物凄い速さの乗物の動きがある一方で、その内なる乗り人は思い思いに時間を過ごせる。

旅先にて訪れる処、初めての地だけでなく、幾度も訪れて逢っており、浅からぬ縁のある土地も、前と変わっているとちょっと嬉しい気持ちになる。

変化、変革の一大地点というと、都会であり、東京を超える変革の街を僕は知らない。都会の変化は、技術革新であり、何か画期的なものが生まれる時に立ち会える。

都会であっても、想いのままに為らないもの、自然というのは、人に等しく関わるものだ。

雪であれば、都会では厄介者だが、地方の山間部などでは恵みとなる。俵雪を放り投げたら、坂を転げ、白いクリームで満ちた玉になる。

雪とは、自然環境が生んだ、天の恵みではないか。それとの共存は大変だが、北国などの厳冬を迎える現地であっても、お花畑かも知れないが、観光客の屈託のない笑声や言葉は、経済効果をも含めて、励みになると思う。

大雪で、それを豊作であるとは言わないし、米などの農作物と比べると、その扱いというのは難しいかも知れない。だが、一面の銀世界は、人の心を清らかにして、多くの観光客を、北国の旅に魅惑するものである。

軽装で雪原を走った事は無いが、雪の冷たさというのは、身体から発する人間の熱を奪い、著しく疲れさせるだろう。雪の寒さに敗けない事を考えるよりも、寒い季節を愉しむ事は、対称的な北風と太陽ではないか。つまり、北風の立ち向かう戦意よりも、太陽の睦まじい雪との私生活である。

静かな雪には、寒さという体感を通した、何か人間への言葉があるように思える。

台風15号の被害を受けて、千葉県では、家屋の損壊が多数見られ、瓦などの屋根が吹き飛ばされ、天井が剥がれて外界に露出しているという家屋まである。これには、応急措置としてブルーシートの補修などが行われているが、文化財や日本建築は無事であろうか。家屋の損壊に対する修理措置は優先度の高い課題であって、全国で活動している、伝統建築や旧式建築の修理、修繕活動などをやっている業者や技能者の、千葉への招聘が図られるべきではないか。

文化財や日本建築の保全に加えて、一般的な家屋建築を提供している建築業者の人員の千葉入りによって、正規業者によって応急措置や、本格的な修理措置を促進してはどうか。それによって、市場価格や相場も安定するし、法外な費用を求める悪質業者の居場所は無くなるだろう。修理やサービスが行き届いていないのは、建設業者の数が足りていないからであり、防災、自衛隊などのレスキューが招集を懸けられ、防災復興、支援活動をしているのに対して、民間業者もまたその流れに乗るべきではないか。

むしろ、住宅修理の需要は高止まりで上がっているのに対して、市場を読む業者がこれに対応出来ない方が、不思議な三すくみ状態だと思われる。これには、行政が柔軟かつ、具体性のある政策を持って、各地方からの雄を呼び寄せる大義のあり処を明らかにすべく、空地などに簡易住宅や駐車場、機材倉庫などを臨時に建設、準備して、有力な援軍の到来を期するべきではないか。

また、被害があった住宅の修理費用として、政府からの支援が必要なのは言うまでもない。また、地域にとどまりたいというこだわりの無い家庭については、各地方で都市部移住の風を受けて、空き家となっている事が多い家屋などへの移転の紹介や斡旋をしてはどうか。無論、今住んでいる地域が一番という住民が多いと思うが、そこには、個人の資産力や考え方の調整に応じて、柔軟な選択肢が取られるべきだと思う。防災見本市や説明会として、そうした基盤整備をした上で、多数の業者、太陽光などのエネルギー、建築、リフォーム、住居、賃貸などがブースを設けて、住民と話し合い、また、自社のサービスを紹介する機会を設ければ、胡散臭い悪徳業者などの出る幕は無く、政治が指導力を発揮出来るのではないか。

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不二子は、ランディ父子と行動を共にするが、ランディは5億ドルを横領しており、大企業コドフリー・マイニングに追われる身であった。不二子は、父子の隠したる金を動機として、付き合っているに過ぎないが、それは、父子の愛、子の為に自爆して亡くなる父親、亡き父親の仇の為であれば、自分の心臓手術費用を放出する事も厭わない子ジーンという、素晴らしい頑固な父子と行動を共にして、その心根に触れるに従って、心を打たれ、孤児となったジーンの親代わりになるとすら申し出る。果たして、大企業と殺し屋達に狙われた父子とその金の行方はどうなるのか。

コドフリー・マイニングは、民間企業の仮面を被っているが、その実情は、強化人間の開発によって、危険な殺し屋達を世に送り出し、混迷の度を極める事である。だから、ランディが子であるジーンの為に汚い金を横領した事は、犯罪ではあるが、そこに法の正義が介入すれば、企業側こそが裁かれる事に為るのだ。だから、GAFAでもメジャーでも、どんなに強大な企業となっても、暴力を掌握する私兵団やボディガード部隊などを創設せず、一民間人としてCEOや重役が振舞っている限り、その組織に法を超えようという悪意や野心はないという事では無いか。だが、CEOコドフリーはそれを進めており、それゆえに、危険なビーカムを子飼いとして、それをランディや不二子らに差し向ける。

つまり、民間企業という偽りの看板を持ったコドフリーは危険であるが、それが、空手家や戦闘集団などのスポンサーであり、彼らの自主性や発言を認めている程度であれば、それは、男性、プロフェッショナルの誇りとしての武の涵養という事に過ぎないだろう。だが、子飼いと言うのは、完全に武闘家や戦闘員を企業権力の配下にする行為である。ともあれ、金を奪われた方が悪徳企業であり、ルパン三世が義賊たる立場として、世に蔓延る権力の正体、その本心としての世界戦略などの本質を暴くのであるが、この物語世界は、敵味方共に、法の支配という正義を超越している処に凄みがある。

本作では出て来ないが、銭形こそが、ドリームチームであるルパン一味の四人に対する、一人の雄であり、犯罪を本流とする事から、正義であるが執拗に追いかけて来るも何の功績も残していない銭形こそが、このチームにとってのトリックスターであり、安定を乱す不届き者であるという事だ。ともあれ、銭形もどちらかと言えば、五人目であり、決まり切った王道の物語に欠かせないメンバーとして、実質的にチームの中に入っている。実際の敵味方は別にして、アイコンとしてカリスマ溢れる頑固者の銭形こその重厚な男性の役割があるという事だ。

チームの中で紅一点の不二子は、愛と色仕掛けによって、多くの男性を手玉に取って行くが、これは、悪女というよりは、その才能と行動、カリスマによって、その悪女たるイメージは払拭され、せいぜい美魔女という処で落ち着く。5億ドルの秘密口座を持ち逃亡生活を送るジーンにとっては、不二子との絆は、保護者にしてライバルという異形であり、油断ならないがそれは誰に対しても同じである。また、そういう強かな女性としての不二子の行動原理や派手さこそが魅力であって、まだ小学生ほどであろうジーンには色仕掛けは通じないかも知れないが、非情な強化人間ビンカムという絶対敵と、カリスマによって渡り合う。

ルパン、次元や、おそらくは五ェ門が居ても手を焼くであろう、難敵ビンカムとどう戦うのか。それを彼女にしか出来ない方法でやってのける不二子の器量というのは、やはり並大抵のものでは無い。敵に対しても愛情は芽生えるのか。世の男性に対する虚々実々の駆け引き、あるいは冷酷さなどの、その美魔女ぶりを観ると、むしろ、いつものお約束のルパンに対する裏切りというのは、許される範囲内での可愛い悪戯に過ぎず、やはり、ルパンは特別なのだと感じられる。そして、世の多くの男性を魅了するからこそ、不二子には、その愛の力とカリスマの湧き出る源である、本当に愛する人や居場所が必要であり、それがルパン一味だという事ではあるまいか。

ネガティブな代名詞として、社畜という言葉がある。企業に埋没して、個性を薄め、個人の生きる目標や自由よりも、組織内で如何に出世し、滅私奉公による没個性な生き方である。

こういう人には人格的な魅力を感じないが、異性としては、弱く儚い人物として、助けてあげたくなる。思想的には、中立的である人が多いと思うのだが、ノンポリを無思想な根無し草のような人物だと見るのは間違いで、経済的、個人主義的な成功や生き方を選ぶ人々であり、出来損ないではなく、むしろ、貪欲でリベラルな人々が多いと思う。

ともあれ、会社の上司の言う事に忠誠を誓うのにも慎重になる必要があり、人格的な素養を見極め、人惚れしたなら、真っ直ぐな心で歩みを共にする事では無いか。レッドラインを超える事は、むしろ下である無冠の一労働者にこそ、社会的には許される事が多い。そうした失敗を重ねて得られる経験、達する境地も得難いと思うのだ。

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オランダ、ロッテルダムで自動車修理工場を営むギーアら、中年の愉快な仲間達。彼らは、中小企業らしい仕事への厳しさよりも、日々の生活が愉しく、明るく暮らす事を大切にしている。大企業であればこうは行かないが、頑張るだけが人生の全てでは無いかも知れない。ルーズで人格に難あり、とは言え、こうしたゆるキャラのような大人達が居て、また、頑張る人々が居て、社会は成り立っている。むしろ、頑張っているのは、義務を終えた大人達ではなく、公教育という厳しいレールの上で戦っている若き子供達である。ギーアの息子は、学校での競争に疲れたのか、頑張らないギーアを責め立てる。むしろ、自由とは若者の特権ではあるものの、大人達でも人生の弛緩の中に自由を拾う人々も居るということだろう。

自動車工場は経営不振であり、それによる借金を解消して、やり直す為にギーアらは、マラソン大会に出て完走したら借金をゼロにするという懸けを、債権者との間で取り交わす。つまり、後が無いという事であるが、座して何もしなければ借金が残るだけである。そんな厳しい現実の中で、気楽にジョギング程度のトレーニングでだましだましにして、パブに飛び込み大酒を酌み交わす彼らの神経が分からない。最早、人生の弛緩の中で、危機意識とか頑張る事を完全に忘れているという事であり、彼らは仲睦まじいが、この濃厚な人間関係だけで、借金から来る人生の貧困を乗り切れるとでも思っているかのように見える。

だが、そんな遊び人の如き彼らのパーティにして、経営者のギーアは心に重たい荷物と秘密を持っており、それを決して明かさないが、その秘密が大人としての責任や節度に満ちており、後々になってから、彼は実は立派な人間だったという事が知れるのである。だから、潤滑油のような葛藤の無い人間関係とは、天国からの贈り物であり、その享楽の人生を送っているように見えたギーアの重荷とは、彼が多くの守るものを抱えており、それが、家族か会社か、という二極の選択肢では収まらず、全てを抱えていたという、過大なる負担を抱えた忍耐の人であったという、遊び人から、正統なる物語の主人公へと昇華する、資質を秘めていたのである。

それは、マラソン大会当日にも表れており、ギーアに、労働者のニコ、レオ、キースらが、ひとまとめのグループになってマラソンを走っている事は、彼らの日常や勤労に対する平等意識、人間の横並びと言い、この物語の根底にあるものは、共産主義である。これのせいで、彼らは競争や技術革新よりも、非競争と平等という思考の病理にはまり、工場の経営不振を脱却する人材もアイデアも生まれない。だから、マラソンでもグループから傑出しないという事は、彼らが平等である生活と勤労の時間に浸り切ったが為に、体力に象徴される総合的な能力においてすら、横並びになり、皆が凡庸になったと言える。

良い事は、団結力が強い事であるが、良い年をして青少年のように友情に全てを捧げるのではなく、家族を持つ事、その生命に対する責任意識から、もっと仕事に熱意が振れるべきであり、彼らなりの友情ゆえに頑張る、という大人ゆえの雄姿があっても良いと思うが、それは、マラソンの中で語られるし、重荷を抱えたギーアの懸命の独り走りには刮目させられるものがある。頑張らなかった彼が生命を張っているのだ。勤労というものが、確たる勝敗を付ける事は、やはり、その会社が黒字で儲かっているか、持続性のある経営が為されているかによって判断する他に無かろう。だが、それを黙殺して来たギーアが、マラソンというフェアで明確な勝敗の順番を付ける競技に参加する事は、試練であり、また、清算行為でもある。

人生がこれからも続くなら、これは更なる飛躍を目指した試練であるが、終わりを迎えるならば、最後の意地とプライドの為の総決算と言えるだろう。これが、協奏曲のハーモニーのようになって、そのレースの勝敗は、キャリアで功を誇れなかったギーアが自分の影に勝つか、自ら亡霊となって敗れるか、に懸かっている。

冬というと、北国は銀世界であって、雪も降るが、森や山の中の雪ほど、悦ばれるものはない。

雪が降るのは氷点下、とても人は寒がり、身を寄せ合う気温である。

身の引き締まる寒さというのは、眠くなるどころか、気を強く厳しく持つと、僕は思う。

真冬のサンタクロースは、赤い衣服をまとい、赤い鼻のトナカイにそりを引かせる。

雪も降る中で、北国ではサンタクロースは、白い雪よりも、情熱の赤を好み、

届ける笑顔の為、そして、自身は向かい風に厳しい顔でそりを走らせる。

人やサンタは、厳寒の中、動く事が生きる事、

冬眠するシマリスは、眠る事が、命を繋ぐこと。

サンタの偽物はさしづめ、子供たちが悪戯で作ったスノーマンか。

雪は太陽が当たり、常温で溶けて行くが、サンタクロースは太陽そのもの。

プレゼントが欲しいという子供の夢を、見られるのはその夜から翌朝までの短い時間だけ。

だから、サンタのプレゼントがその返事であって、想いが届いたと知ればその悦びはひとしお。

イブの朝は明けて、スノーマンは溶けるも、夢の続きは、おもちゃの遊び方次第。

どんな道具も技も、使う人次第で、何が自分の本物の夢かを考える。

そういう子供の人格の発達というのは、愛を感じられる事が、その栄養源となると思う。

生きたい、知りたい、伝えたい事はあるのに、自分が居て良いのか、という生来の哲学の探求である。

その心の旅は、電子世界の光の路を通じて、どこまでも届いて行く。そして、ずっと探していた君に届く。

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