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アメリカは世界のリーダー国であり続けられるか。資本主義を超える体制を見出す事が、次世代を生き延びる持続性のある社会を作ると言われている。だが、アメリカはリーマン・ショックを経た最大の被害国であり、今またリーマン・ブラザーズの悪だくみを上回る、コロナ・ショックに塗れている。これをどう乗り切るかという事は、2009年の映画で、少々古いが、リーマン・ショックが生まれたアメリカの社会的背景と無縁では無い、と思う。いわば、コロナ禍において、戦時中の大統領がトランプで、戦後の再生期を委ねられているのがバイデンだという事だと思う。これは、剛腕のルーズベルトと弱腰のトルーマンという過去との比較も成り立ち、また、日本への啓蒙としても意義があると思う。

まず、アメリカが今の欲望資本主義と競争原理による体制となったのは、この映画の中ではレーガン大統領の手腕とアイコンとしての存在のせいだという事に成って居る。レーガンは俳優出身であるから、広告塔ともなり、また、カリスマであった。アメリカが企業とメディアによって牽引されて、権力の一角をメディアの中のスターとして担って来た。それは、大統領になってからのパフォーマンスによると、思考と態度としては変わらなかったのだろう。いずれにしても、レーガンからの学びとはそのカリスマ性と自己演出力にあり、政策やアイデアの提唱にあるものでは無い。つまり、実務を委ねられたのは彼の優秀なブレーンや側近たちによる処が大きかったのだろう。

国家の父親としてのアイコンというのは、今のアメリカにおいては、少なからずトランプ大統領に象徴されるものであり、それは、個人的な資質や手腕も重要であるが、父親が義務の放棄を宣言するという事などはあっては成らないだろう。だが、本来のアメリカの父親とは西部劇におけるシェリフのような強く積極的な人物であり、そこには、レーガンや、もっとカリスマ性のある男としてはジョン・ウェインが挙げられるだろう。そして、本来のアメリカとは移動する人々、つまり移民社会であり、西部劇時代の豊かさを求めて住民が更なる西へと、移動する行動原理とは、アメリカ人のDNAにも染まって居るものだとは思う。

ムーア監督も熱弁するリーマン・ショックの元凶とは、サブプライム・ローンが挙げられるが、それは、中流層以下を対象にしたという悪徳商法もあるが、もっと禁忌であるのは土地や家屋への執着心を欲望によって具現化した事では無いか。つまり、資本主義の次のパラダイムとして提唱されている共同体主義において、アメリカ人の移動習慣と、独占と集中への楔となる金から人への求心力の移行においては、土地や家屋の所有権の永続性を担保にしたデリバティブというのは、詐欺師の魔法であるのでは無いだろうか。

物語中において、ローンの破綻によって自宅を差し押さえられ、強制収容を受けるアメリカ人の家族たち、それに怒る父親、涙を流す妻子といったリアリズムが描かれるが、ムーア監督の中には、アメリカをローマ帝国に擬えるロマンチシズムと、厳しい現実への怒りとしてリアリズムとが共存しているように思う。それは、ウォール街のアメリカ支配、一部の強大な権力は必ず腐敗する事を思えば、このリーマン・ショックによる欲望資本主義の暴走というのは、金融ファッショ、とも言える時代的現象だと言えるだろう。そして、ファッショとは社会への影響力を持った大物や責任者が居なくなり、小物ばかりになった事でそれぞれの権力や政治主体が決断力を持たないがゆえに、逆に権力を誇示する為の暴走をするという、博打経済と腐敗の罠という、失敗の原理が見えているのである。これは、ブロンとして戦前の日本にも観られた現象であった。

そして、そうした金融ゲームを悪と弾劾するムーア監督は、ウォール街をまるで泥棒のようだと痛烈に批判しつつ、現場に飛び込むという大変勇敢な監督冥利と現場主義、真実を曇りなき眼で確かめるという、技術者魂が一貫して居る。また、デリバティブに多く観られる手法はマフィアのようであるが、現実に禿鷹のようなマフィア的な人材がアメリカでは、時代の変化と共に、社会に溶けこんで、今や圧制によってアメリカを支配するのはウォール街と企業権力となり、それは、物語として金融マフィアが跋扈するSFの界隈をアメリカ社会の内部に表出させしめている。これは、主流派にして、本来ハイセンスでインテリの高い上流階級が担うべき仕事が、内なる腐敗を来しているという事でもある。

いずれにせよ、そうした社会における権力者や黒子たるフィクサーの役割と言うのが、高名な大物では無く、匿名で多数の小物に牛耳られる、と言う事態に向かいつつある。メディアの中のジョン・デリンジャーやヴィト・コルレオーネにおけるダークサイドのスターダムにおいても、大物の古き時代から多様化した事によって小物が乱立する体制とは、アメリカのブライトサイドであるトランプの敗北によっても、確約された一つの流れであり、そこには一抹の不安とカオスの予兆を感じさせないでもない。だが、少々古い本作ではオバマ政権発足前の熱烈において、ややフォーカスがぼやけているが、実際には、カリスマとしてこの両雄の存在意義と言うのは構造的には近いと思う。

剛腕で挑発的なトランプは白人の強いカリスマであり、オバマは柔よく剛を制す、白人の穏健で低姿勢な善き友人としての黒人のカリスマでは無いか。つまり、その問題提起と発信能力のレベルはそれぞれ優れて居るが、一見、器用に時代の奔流を泳ぎ切ったようなオバマの方が自己保存と万民の為の大統領像の確立に相当な心労を重ねたと思う。そして、多様性とは民族問題や血の絆、あるいは国家主義における国民の統合を図るのは伝統的、一国主義的な絆では無いという事だから、血の統合の否定というのは、人間社会の自由競争と権力闘争の本質からして、資本主義を超える次のパラダイムが見えて居ない、という事でもある。つまり、パラダイムシフトにおいて、アメリカも正念場を迎えているという事だと思う。

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トランスジェンダーでロックバンドを率いるヘドウィグ。彼女は、冷戦期の東ドイツで育ち、生まれつき女性の心を持って居た。バンドのパフォーマンスは派手であるが、観客はキワモノ扱いであり、半ば老年者などは引いて居る感もあり、また、経済事情も厳しかったが、東ドイツよりアメリカに移住して来た彼女とバンドのメンバーは概ね、楽観的であった。マイナーではあるが、その実力は経験豊富な百戦錬磨の状態と相まって、喩え、観客が一人であっても、手を抜かないプロフェッションを誇りとしている。彼女には、スターであるトミー・ノーシスとの絆もあって、LGBTとして、アメリカでの人脈が無と言うわけでは無かった。果たして、自由を手に入れた彼女は、栄光の成功をも掴む事が出来るのか。

肉体と心との関係に乖離にある、少数者としての少年ハンセル(後のヘドウィグ)は、自身のアイデンティティと東ドイツという共産国における、国家と国民との関係、少数者への尊厳や自由選択といった枷のある社会に閉塞感を感じていた。LGBTとは、パートナーシップを築く事、つまり、彼氏を得る事によって、カップルとなるが、本来、セクシャリティの目覚めというのは、一人きりでは成り立たない。他者とか、男らしい人との差異とギャップに気付く事から、第三の性が始まるのである。だから、自身が性的マイノリティであると気付いた時、特に、パートナーを見初めた時から、ヘドウィグの第二の人生が始まったという事でもある。

それまでの、アイデンティティ無き少年時代というのはハンセルらしからぬか、あるいは、自我不全でシュールなのはお似合いなのか、は断言しかねるが、少なからず、ヘドウィグの男性としての時間と生活というのは、自分の本物の人生からすれば、犠牲にされた20年近い膨大な無の時間であったと言えるだろう。

非常に興味深い事に、彼女が歌う歌というのは、オリジナルと独創性に溢れており、非常に知的魅力とインスピレーションに富んでいるのである。これは、彼女が生来抱いて来た神から授けられし二つの性と、それが相方にたどり着くまでの試練の時を、神の啓示と真意を、ちっぽけな彼女が説き明かして、思考を巡らせると同時に、ユニークにゴシップ調で歌い上げるのである。それは、神への問いにして、疑問を呈しているようにも見えるが、或いは、恐るべきタブーを犯しているのかも知れない。だが、絶対者に対する問いと言うのはちょっとばかり賢い人ならば誰もが抱く疑問であり、また、知的成長の道程であると言えるだろう。だから、彼女は、それに対して歌詞の中で饒舌に論じ尽くす行為と言うのは、神への侮辱でも何でも無く、リベラルの中でも勇敢な部類の者として取るべき当然の態度と思考を巡らせたという事に過ぎない、と僕は思う。

そうした複雑な少年時代において、自己分裂とカオスの不安を経験して来たハンセル少年には、ベルリンの壁、並びに国家というのは非常に大きな重石であり、それを覆す事で、自由を手に入れられるのだろう。そして、ハンセル少年、から、ヘドウィグという大人の女性になる為には犠牲も付き物であり、それが、ハンセルとして肉体の一部である男根を切り落とす手術を受けるという事なのであるが、それは、身も心も女性になる為の試練が、肉体のハンディと国家の枷、と言うのが重なり合っているのは、共産主義が彼女の飛躍を阻んで居た大きな枷であり、それがために、彼女は自由人としての目覚めまでに膨大な時間を犠牲にして来たのである。

そして、男根を落とす行為というのは、母国からアメリカへの移住という行動とリンクしており、冷戦崩壊をも同時代に経験している事から、彼女の性転換というのは、それだけの歴史的事件と重なり合って居るから、それだけの重大事であった、という事を表現しているように思える。つまり、国家の大事というのは、個人主義の深化においては、個としての経験や、大きな物語よりも、個々の小さなサプライズやイベントが意味を持って来る、という事では無いか。それに、彼女のパワフルな歌には、神への問いすらあるから、尚更、個人主義が全体主義を切ろうとする気質というのは、若干は強まって行くと思う。

そして、タイトルにもある「アングリーインチ」というのは、共産ドイツの藪医者の手術の失敗によって、ヘドウィグの股間に男根の一部が残り、完全に女性に成り損ねた、という理由からである。これは、彼女が肉体においてそれまでの、男性としての記憶やコンプレックスが残って、中性的な奇形として生きて行くという事でもあるが、それは、肉体的特徴や男根の意味が強まり、そこに拘るほどに、1インチだけ残された「怒れる男根の存在」と呪縛は大きく成ってしまうだろう。だから、彼女は女性に成り切るために、フィジカルの不都合な真実を、メンタルの強靭さと、パフォーマンスで魅せるカッコ良さで克とうとしており、その戦いとは、LGBTに共通するセクシャリティとしての葛藤、それを超えて大人として大成する試練と、その過程を描いているのではあるまいか。

岐阜は関ケ原の「関ケ原古戦場記念館」に行って来ました。

尾張方面へは名鉄を学生時代から使って居ましたので、
JR東海道線はとても久しぶりの事。

戦国は興味はありますが、真田とか、
真田昌幸親子の足掻きは、奇しくも、秀忠の大軍を足止めして、
凡骨であれば、決死の処を凌いだものの、
家康の怒りはすさまじく、
昌幸は九度山に追放される事になります。

そうした弱者が足掻く処、
希望とは誰かに依存するのでは無く、
自分から見出す事。
我の為だけに、他者に固執する事は、決して許されない。

そんな、関ケ原の複線も気になる処ですが、
今日は主戦場に行きました、と言うお話ですね。
さてさて。

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記念館の正面です。低く観えますが、五階建ての展望台です。
何やら城の天守閣のような構えです。

時代が違ってる、季節外れかも知れません。

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カフェと土産物店のテラスです。こういうハイセンスな店で、
プレゼントを買えれば、髭もじゃのサンタさんも
少しはセンスが良くなるかな(笑)。

向かい側には大河のパネルがありました。

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徳川家康の最後陣との事です。開戦当初、桃配山に人を敷いていた家康が
西軍の善戦に苛立って、前線を動かした場所です。

この動きに秀秋は圧力を感じたとの事です。
石田三成らは後日でしたが、
幾らかの敵の首実検もここでやったそうです。

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紅葉が綺麗だったんで、一枚。

アーチのような木々の連なりが素敵ですね。

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特に大振りな木でも無いのですが、背丈を超えるもの。

記念館の裏手にありましたが、家康は何を想ってこの場所を選んだのか。

数の威容を観せて、一向に有効な動きを見せない島津や小早川への
圧力としたかったのか。歴戦の将は秀秋への圧力の可否を理解している。

石田三成は狼煙を上げただけでしたが、家康は鉄砲を撃ちかけている。
この圧力を巡る手法の違いもまた、経験の差では無いかと。

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展望台への階段。3階分抜いて居ますので、結構な距離でした。

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展望台からの景勝。実にダイナミックですが、
この記念館のコンセプト自体が見事でした。

まずは、戦場を俯瞰から観た映像を見せられて、舞台背景が分かります。
それから、体感型の映画で戦場を人の視点から見せてくれます。
座席が揺らぐ事もあり、実に臨場感がありました。

槍を持って突撃、そして、馬に吹っ飛ばされて戦死とか、
これは、格闘技やラグビー経験の生きた知恵があると、
もっと経験値になるのでは、と思いました。

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城の裏手。攻め手には難攻不落に観えます。

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レンタサイクルからの住宅地の風景。

人一人がやっと通られるぐらいの小径って、古さに独特の
町の深みのようで好きなんです。恐らく、ベッドタウンには観られない。

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その小径を抜けた処です。何と、家康の最後陣の裏手でした。
忍者が使った抜け道かも…。

僕も通りましたが(笑)。

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そこの裏手にある木々の隙間からは徳川の旗が翻って居ました。

抜け道から陣地の隙が観えたようで、これは家康の弱点だったかも…。

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細川忠興の陣です。今では公園になって居ました。

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ちょっと左手よりUFOが、では無く、指が入ってしまいました。

何気ない田園風景ですが、畑の中にも弓の弦のような道が出来ていて、
景観が良かったので撮りました。

長い時間と手間、心を懸けられた畑ならでは。

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丸山烽火場へと続く裏手の竹藪です。

竹の数と密度が半端なかったので、思わず撮ってしまいました。
木々の数は凄く、視野を覆って居ますが、太陽光は入って居ました。

竹の隙間と光と風とのバランスが心地よかったです。

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金毘羅さん。世界平和と、人に迷惑をかける悪い奴が捕まるように、

誠の心と曇りなき眼で祈って来ました。

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黒田長政と竹中重門の陣。

展望台からも旗が観えていましたが、これは、石田本陣にも
勝るとも劣らない景観が開けて居ました。

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丸山烽火場の正面からの景観。

結構際どい場所にあります。西軍からも近く、こんな見晴らしの良い
場所は、敵である石田も確保したかった筈。

烽火場だから、奇襲の為、掛けるにしても、掛けられるにしても、
こんな大会戦では敵から隠れる必要も無かったのでしょう。
つまり、家康としては必勝と速攻を期して居たと。

黒田らの精鋭に対する、家康の信頼が非常に厚かったのでしょうね。

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これも、古くからの農園ならではの、良く作り込まれた畑の一風景です。

大河の初回、明智領に来た賊と戦った風景に似ていたので一枚。

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その土手です。

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決戦地。石田陣に近いので、多分、島左近らが頑強に抵抗して、
東軍を押し返したハイライトの場では無いかと思います。

三成に過ぎたる者。俸禄の半分を与えた理由も分かる気がします。

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石田陣の正面から。鉄砲を撃ち放つ長篠のお祭りを観た事がありますが、
長篠の馬防柵でもこんなに木材が太く頑強だったっけ?と、大いに驚きました。

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石田陣の正面は不毛かつ、敵を拒むかのような威厳ある構えでしたが、
陣を内から観ると、そこには紅葉の木々も咲き乱れる落ち着きの景観に。

晩秋の今行って正解だったな、と強く思いました。

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笹尾山の石田陣からの景観。こう観ても、丸山烽火場の地の利が分かる。

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史跡では無いですが、何気ない日本風の住宅地が気に入りました。

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こんな晩秋ならではの風景も。

落ち葉を片付けたり、投げ合ったりして、老人が遊ぶのも結構でしょう。

でも、こうした紅葉とのバランスによっては、
落ち葉はこの世に必要の無いゴミにはならない。

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島津義弘の陣。島津は凄いですね。本戦では特に有効な働きをしなかったのが、
島津君ですが、ここから始まる撤退戦において、家康の本軍は三万、
それ以上の東軍のひしめく中を突っ切るのを選んだのが義弘でした。

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陣跡の傍になって居た古木から生える新緑です。

竹藪も凄かったのですが、古い森の独特の自然の多様性と言うか、
クマ注意!の立て看板もありましたが、動物にとっても住み易かったのが、
こうした古い森に溢れていた中世だったのでは。

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これも古戦場跡地です。小西陣の鼻先。確か、最も激しい戦いが起きた現場の一つだったとか。

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その向かい側に広がる、一面すすきの大草原。

他の場所にもすすきは生えていましたが、
これだけ分厚い上に、良くと整った大草原は余り見当たりませんでした。

何か、すすきの群れとか花の一輪にも魂とか、
人の残りの念が込められているような気がしてなりませんでした。

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陣旗の写真が上手くダウンロード出来ませんでした。
藤堂高虎、京極高知の陣は学校の敷地内にありました。

多くの人が死んだ関ケ原合戦で、学びの舎、新緑の息吹く場所として
学校があるのは、何か、ただの土地柄とか個性で片づけて良い問題では
無いのだな、と思いました。

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青少年にとって、居場所となるのは学校であるが、そこで苛めが起きたなら、その当事者としての被害者も加害者も、同様に懲罰を受ける事になるだろう。高校三年生の石田将也は転校生で、聴覚障害のある西宮硝子を苛める事になる。だが、それは、思春期に入る前でまた、未熟ゆえに世界の見え方が不全であるという少年らの視野によるものであり、恋愛を知らないから好きな相手をほど苛めるという事ではあるまいか。筆談用の大切なノートをも学校の池に投げたり、補聴器を幾度も奪うなど結構酷い事をしている。だが、それを切っ掛けとして、やり過ぎた将也の方が、学校中から苛められる事になり、彼は心を閉ざしてしまう。その一方で、硝子は転校して行ってしまう。この2人には運命らしき片鱗も観えない、高校生になって再会を果たすも、どうなるのか。

小学校時代の苛めっ子とは、酷い目に遭って当然だと思う。そこには、懲罰と言う意味を込めて、学校側から介入が果たされるべきだが、硝子には聴覚障害の他にさして苛めを受けるような要素は見当たらない。彼女は誰にでも心を開き、まだ未熟な手話では無く、ノートを使ってコミュニケーションを取る。だから、彼女の流儀に従う事にも為るが、それに腹を立てるのは将也もまた未熟だからだろう。誰にでも心を開いた、そこに苛めっ子をも重なったがゆえに、体よく苛めの標的にされてしまった。つまり、濃厚なコミュニケーションを求めたがゆえに徒となったのだ。

だが、学校とは多彩な人材の卵たる学生達が思い思いに生きて、成長して居く場だ。ただ、その全員と公正にコミュニケーションを取るのは至難であり、また、オーヴァーワークでもある。そこには、要となる友人らとの和において、愛や感情表現、あるいは、多勢と交わる自己プレゼン力を付ける必要があると思う。だから、硝子の試みとは全員と交わりたいという事だから、それは、クラス単位、更には、学校という枠組みからさえ抜きん出てしまい、人類皆兄弟、という開明的な価値観に進んで行くかも知れない。だから、そういう人への苛めとは、その輝きの希望に対する嫉妬であったり、心の闇を抱える己を置いて行かないで欲しい、という光への一方的な対抗意識であるかも知れない。

つまり、聴覚障害を抱えて小柄であり、か細くとも可憐な硝子の人生の航路を阻害した、という罪を将也は償うべく、学校での試練の時を迎えて居たのでは無いだろうか。だから、高校生3年生になって、恋愛の意味や価値をも知り、愛する事に開花した2人が再会する事には、最大限のエールを送りたい処ではある。この2人の再会とは、本物の始まりであり苛めがあった小学校時代とは蛇足でもあったのだろう。だが、それでも将也は苛められる立場に逆転するという事で、苛酷なトラウマを背負って来たのであって、その償いの最重要人物にして、2人と居ない硝子との和解こそが、彼が人間として再起する最短の道なのだろう。

ともあれ、将也のトラウマは結構深刻であり、ディスコミュニケーションを抱えて居り、クラスの誰もが赤の他人に見えるのであり、全く会話に成らないのである。これは、いわくつきの小学校時代からの同級生であり、彼らの苛め苛められる関係性における人生の変遷を傍観して来た女生徒とも共有されている経験であり、価値観であり、性にも放逸と観える彼女の存在は将也にとっては、過去の自分と変わらざる苛めをする存在に重ね合ったかも知れない。いずれにしても、今や硝子の弟の結弦にすら好きな人との再会を妨げられたり、辛辣な事を言われても、平常心を保っている将也の変化とは見事であり、その因果応報の経験とは彼を強く優しく変化させたもので、苛めという青春期のダークサイドの両方の経験者としてはリバウンドに成功した好青年となったと言えるだろう。

そんな感じだから、将也は過去について硝子に非常に申し訳ない気持ちを抱いており、その贖罪の感情は非常に堅固なのである。対する、硝子は硝子で、未来に漠たる不安を抱いており、苛めの件に関してさほど怨恨の情は抱いて無さそうであり、その理由は彼女の信じるものは光だから、だと言うほかに無い。また、そういう方や過去への贖罪を、片や未来への不安という、時間軸としてはこの2人は正反対の方向を向いている。だが、それは現在というタイムラインの軌道上に共に居る事に成って居て、視線を直視する事は無かれど、背中をくっ付け合って、今を生きて、フィジカルにおいて時間と空間、そして動の基盤となる肉体を共生させているのである。そして、そんなプラトニックな愛だからこそ、メンタルが何より重要となり、つまりその想いの強靭さがあるからこそ、時間軸という決して人知では帰還させる事は出来ない大きな枷を感じさせないのである。

そうした恋愛物語を貫徹しながら、将也というのは、トラウマゆえに心の監獄に囚われているのも同然であるが、その枷というのは徐々に氷解されて行く。そして、彼自身も懲罰として苛められる経験を積んだし、変わる事も出来たのである。だが、社会の深淵には思わぬ処に人をハメる人も居るのだが、それが友情を認めた関係であれば、そこから受ける瑕疵の深さと痛さは言うまでも無く深刻だと言えるだろう。そして、恐らくは、この高校時代と言うのは、2人がそうした経緯を背負っている事から、比較すれば愛を知った現在とは、人並みの正統たる青春期の黄金時代かも知れない。そして、人生の春うららを知っている人と言うのは、現在を何の非も悪も無い最高の時だと自覚する、評価する間もなく、最高に愉しい時間は去って行くのではあるまいか。

或いは、この物語には、重厚かつ興味深い人生の苦悩があり、実際に苦悩の重力に耐え兼ねた硝子のとんでもない行動などが起こるのだが、その重たいテーマも流動たる青春期が消化して行くのである。そして、ヒーローとヒロインとの等価値関係かつプラトニックでありながら、これは誰か一人の為の物語なのである。それが愛と献身への報奨として捧げられる。

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1984年のベルリンで、東ドイツ側の共産主義、西側の要人などを盗聴する仕事を帯びたシュタージ。そのエージェントであったヴィースラー大尉は、反体制の疑いのある劇作家ドライマンと、その妻クリスタを監視する。国家に対する忠誠を誓い、心を鬼にしてスパイや自由主義者などを挙げて来た大尉は、彼らの愛と絆のある暮らしを知る事によって、その瑞々しさんい感銘を受け、自由と義務に対する考え方を大いに揺るがす事に成る。厳格なエージェントであった彼を感化させたものとは、果たして何であったのだろうか。

東ドイツにおいて、劇とかオペラ、クラシックといったハイカルチャーとは、国家権力に近く、また、権威主義を好む党員の琴線に触れるものがあったのだろう。また、観客の「民度」が彼ら体制側にとって高いもの、であった節が窺える事からも、ハイカルチャーの脚本を書くドライマンは言いようのない自由へのフラストレーションを蓄積して居たのだろう。それは、舞台での劇に続いて、トランペットやドラムのセッションによるポップな音楽が流れるクラブのような場所で劇の窮屈さとは打って変わって、羽を伸ばすドライマン夫妻、それに党員で上司などのお目付け役でさえゆったりとしている。

つまり、共産国といっても、全てが杓子定規に管理され切っているのでは無く、表現の世界や渇望、意志の全てを「雪の女王」のように凍結させる事は出来ないのである。それは、ポップカルチャーとしてハイソな世界やカルチャーを下支えしているという、構図もまた如何にも共産国としてのリアルがある処であり、この共産国の描き方、人の必須にしての基盤性と社会の窮屈さと言う善悪の対比も実に見事であり、この矛盾と言うのは資本主義国であっても抱えている制度上の欠陥に過ぎないのだろう。

そして、そうした自由を謳歌しているのは、他ならぬドライマンであり、彼は何も悪いことはして居ないし、仲間を呼んで西側流のパーティーをすら開く堂々たる態度であるから、これは本当に東ドイツか、との疑いをすら感じるのである。何故なら、そういった遊び心と放逸の描写と言うのは、映画「グッバイ・レーニン!」では自由主義社会の特権にして、東側には遠い世界との描写もあったからである。自由とはそれが制約されればされるほどに、価値を高めて、禁忌を侵そうという愚か者を生むのであろう。だから、こうした要人やスパイ容疑者の監視とは、本来観る側観られる側の双方に生産性が無いのものである筈である。

だが、逆に、監視する側である大尉には、自分自身に何の生産性も無い無能である事が分かって居るから、その対象となるドライマン並びにクリスタの2人が、無から有を生み出す、愛を語らい具現する営みの全てに劇作家としての生産性が籠められているのである。だから、大尉の仕事というのは如何にも詰まらないのだが、彼はそのループを繰り返す事によって、人間らしい暮らしとは人生観とは、愛とは何かを学び取って行くのである。だから、弱者の監視というのは、その対象が生産している、ちゃんと生きて居る、発信している存在であればあるほどに寄生による生産性を増殖させるものなのだ。だが、ここには監視という生産性無き、受け身を常習する人間の大いなる病理が観えない事も無い。

普通の感覚で言えば、監視される事も生活を荒らされる事も、気持ち悪く、底暗い寒気のする行為であり、その被害者である経験には何ら有意義な価値は無いのだ。こうしてみると、現在も尻尾を引いているスノーデン事件と言うのも、権威に対する疑義と言う意味では、十分な教育と訓練が為されて居ない若者の行動として、被害者の心情を思えば理解出来ない事も無いのだが、いずれにしても、国家に忠誠を尽くす事は、外の世界であったり、生きる事を知らない頑なな老人を量産する事に繋がるやも知れず、そこには、国家と軍団という権力構造を支える組織の本懐も観える処である。

監視下にあって、「善き人のためのソナタ」とはドライマンがピアノで弾いた名曲であり、そこには、静かなる雄弁があり、また、彼の人となりを良く表す清らかさも共存している。大尉が何処まで感化されてどんな行動に出るかは観てのお楽しみであるが、この行動とは敵だと思って居たものが移ろうドラマティックな活劇でもあるが、そこには逆もまた然りという罠も仕掛けられている。だが、この善悪という人間の主観に陥りがちな考えに対する、移ろいとは安定の敵という事で、原則的に考えると信頼を損ねそうだが、逆であって、弱者の豹変は裏切りでしか無いが、強者の変化とは権力の後退と言う意味では譲歩となる。だから、運命共同体の明暗が分かれた冷戦崩壊であったり、ドイツの革命と進歩と言う意味では、人間という個体に対する保護と管理の崩壊に続いて、矢継ぎ早に次なる自由主義や資本主義という新たなパラダイムが、無限列車のように連なって時代の歯車を動かして行くのだろう。

こうした冷戦と、時代の宿命というパラダイム、この大きな物語に対して、小さな個は何を信じて、どう生きて行けば良いのか、それに対する答えは一つでは無いが、全ては変わってしまった世界の描写。この物語には如何なる報酬が待って居るのか、あるいは仇があるのか。それが生まれた理由はこの奇妙な絆によるものであったのである。

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一年戦争末期。地球連邦とジオンとの戦いは佳境に入るも、相対する両軍のイオとダリルというニュータイプ向きの名機を任されたパイロットとの戦いは、新たな仲間を加えて地球へと舞台を移しつつあった。地球には南洋同盟という新たな敵が居り、同盟はどちらの大国にも与さない自立を保って居た。そもそも、ジオン公国におけるカルトこそが、戦争の発端であるもそれは明確な悪であった。それは、宇宙を舞台とするアクシズにも通じる処があるが、地球においても軍と結び付いた異端の猛威は、地球連邦を悩ませるのであった。

ジオンには滅びの美学があるように思う。それは、0079一年戦争より数年後に起きたデラーズフリートの暗躍にも通じるものがあり、精神を重んじる事で老いたる故郷、地球を離れて若返りを図り、また、その斬新さに覚醒した新天地の方が、恐らくは素晴らしいのだろう。ジオン公国のコロニー群での暮らしもまた、孤高の宇宙空間とは言え、貧困とまでは行かないだろう。だが、盤石の地球と比すれば、いずれが心の余裕を持って暮らして行けているかという比較から導かれる方程式の答えは誰にでも分かる事だと思う。つまり、スペースノイドの精神や正義とは、地球側からの如何なる尺度を持っても図り難いものがあり、それはニュータイプの存在性に帰結されるものでしか無いのだろう。

だが、ジオンにも英雄や正義の人は居るのであって、だが、軍団全体の体質や思想で言えば、歪んでいるものでしか無かった、という事なのだろう。それは、如何にエースであっても戦傷軍人であるダリルに負担を懸けてでも逆転勝利を画す事であったり、ジオンとは人材の物質性に依存しているのが、あくまでリビングデッド師団の組織の一面には見える事でしか無い。だが一方で、地球連邦はイオに象徴されるジャズへの傾倒であったり、また、戦闘をお洒落に彩るカルチャーが芽生え、また、彼は軍内にバンドを持っており、音楽という自己表現の場を持って居る。

これは、ニュータイプだけでも無いが、兵隊に負担が懸る事は確かだとして、ジオンのようにダリルらに物質性な負のベクトルを持つのでは無く、イオがそうしたように音楽というフィジカルやマインドに無縁では無いけれども、その手段がマジックのような余裕が地球連邦にはあり、さながら戦闘のドラムのような華麗な戦闘シーンでのジャズとアクションの競演は、本作でも健在ではある。対する、南洋同盟のBGMは読経であり、それは宇宙世紀より以前から地球に根付いた古き伝統の自己主張のようではある。

だが、同じ地球に居ながらにして、南洋同盟が叛旗を翻した理由は皆目見当が付かないのである。むしろ、地球の敵と言う意味では、宇宙対地球という明確な対立軸を持った戦争の方が分かり易いものではあると思う。だから、南洋同盟との戦いとはレクイエムが合唱されるという異常な雰囲気において断行され、それは、さながら博愛の教えに叛く戦争こそが異端という事になるのでは無いか。

そして、イオもダリルも彼らは気丈であり、戦場でも生き抜く意志を持っている。だが、一兵隊ではあるものの、人型汎用兵器であるMSによる戦闘と言うのは、フィジカルに近いものがあるのでは無いか。つまり、未来戦、或いは宇宙戦という人が生存するのに本来適さず、また、無力に成る宇宙空間においてマンパワーを発揮出来るのは、ジオンらの生まれが宇宙であるからでは無いか。次世代を理解出来る事、あるいは上述したように、地球に対する怒りの根源も理由も分からないが、構造的には地球対宇宙、あるいは世代間抗争であり、異民族とも言えるかも知れないジオンの一年戦争とは異なる。弱者のルサンチマンとして、地球連邦とは背負うものが全く違う事から挑戦も理解出来るサラブレッドに対して、南洋同盟とは本質は保守でありながら、季節外れの叛乱でありダークホースと言えるだろう。

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