2018年10月18日

ヘイブン 堕ちた楽園

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混沌が楽園を支配する。

有能なビジネスマンのカール・リドリーは、脱税容疑で家宅捜査が入るとの情報を掴み、愛娘のピッパを連れて、ケイマン諸島へと逃亡を図る。そこはタックス・ヘイヴンを求めて世界中の金持ちが集まる島。状況も分からないまま、強引に連れてこられたピッパは父への反発を募らせる。一方、この島で観光客を乗せる船で働いている青年シャイは、美しい少女アンドレアと恋に落ちるが、それを快く思わない彼女の兄から執拗な反対にあっていた。やがて、そんな2人は、ある事件によって引き裂かれてしまうが…。(allcinema)

誰一人信じない、それはディストピアの始まりではあるが、本当に楽園が根深い不和と不信に支配されていたならば、一縷の望みさえ捨てねばならない。その内的な報復と対処によってのみ、苛酷なサバイバルの中を生き残る事に繋がる。楽園には愚者が多過ぎる。

ケイマン諸島は、かつては、漁師の街であったが、今では、ダイビングといった海洋を始めとする観光産業と、タックスヘイブン地区として、ビジネスの一大拠点となっている。そんな繁栄するで、とある事件が起き、それは、ギャングを交えて、様々な犯罪の渦となり、誰も、攻撃し合う男達を止められない。麻薬を好む白人のビッチや、家族愛が強い粗暴な黒人というステレオタイプや、彼らの引き起こす事件があり、そのストーリーは時間軸を巧みに移動しながら、行く処まで行く。

黒人ハンマーは、アンドレアの良き兄であり、妹を寝取った白人青年シャイへの怒りには同情の余地がある。家族を守る為には、彼のように多少野蛮でも、強く頑固な若者が必要である。自由を謳いアンドレアと交際するシャイは、相思相愛であり、将来の義弟となるべく青年であり、そんな未来ある若者に酷い行動を取る事になるが、報復の応酬はいずれが真の卑賊であるかを競うものであり、止まらないデスマッチであった。そして、アンドレアは、シャイと結ばれなかった事により、心とプライドの拠り所を失い、麻薬とフリーセックスに溺れ、身を穢して行く。だが、それは誰にも止められない自業でもあった。

リッチーは、今でこそストリートギャングのボスに収まっているが、生まれは貧しく、生きる為には奪わざるを得なかった。これは、道は分かつが、ハンマーと同じで守るべきものや、生きる為にせざるを得ない、という理由がある。

対する、フリッツは、親はホテルのオーナーで、生活に恵まれながらも、火遊びのように快楽的に犯罪に手を出し、夜な夜な悪い仲間達と悪事自慢をしている。生きる為の行動が昂じて、犯罪に手を染めざるを得ないリッチー、強すぎる家族愛とプライドゆえに粗暴なハンマーとは、明らかに違う。屑のお坊ちゃんと言う事が出来よう。屑メディアのネチズンの凶暴性と似たるものがある。

ストーリーには、生きる意志の強すぎるゆえに、犯罪に手を染める人々と、潤滑油のような弛緩した人間関係と甘えから、快楽的な罪を犯す人々が居るが、アレンもまた、生きる為、家族の為に犯罪者となった弱い人間である。娘ピッパの為だけに生きる事が、今やアレンの生き甲斐であり、大袈裟ながら大義でもある。愛ゆえに、反動として暴力に走る。それは、如何なる卑賊であっても、他者による不名誉を当て付ける被害者にいつなるかは分からないからであり、武力は発動されねば自衛の威を持たないのだ。そして、常人であれば、愚かな報復の連鎖に気付き、ブレーキが懸かるが、本物の卑賊は、そこで止まらないのだ。いずれかが倒れるまで、暴力を止めない。それは、生きる事とは違う、いずれかが死ぬまでのデスマッチであり、それが悲劇を招くのだ。


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2018年10月17日

2046

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愛は異邦を超え、恋人達をひとつにする。

1967年の香港。新聞記者から物書きへ転向したチャウは、これまで何人もの女たちと刹那的な情愛を繰り返していた。ある日、彼はとあるホテルの2046号室に泊まることに。そして、宿泊先のオーナーの娘ジンウェンが日本人青年との叶わぬ恋に苦しんでいると知ったことがきっかけで、『2046』という近未来小説を書き始める。それは2046年が舞台。主人公の男は美しいアンドロイドたちが客室乗務員を務める謎の列車に乗り、そこへ辿り着けば“失われた愛”を取り戻せるという<2046>へ向かった――。そんな内容をしたためるうち、いつしかチャウは主人公に、心の底から愛した女性と結ばれなかった過去が甦ってくる自分自身を投影していた…。(allcinema)

恋人達は欲望の翼広げ、思い思いの恋を愉しみ、生きているが、その中にもキラリと光る本物の恋愛があり、それを、作家が小説に描く事によって、愛は記憶に残って行く。誰のもの、誰が為とも分からない恋であっても、それが魅力的であれば、文学のテーマとなり得る。恋多き作家の華やかな遍歴が垣間見える。

雑多な近代都市での暮らしと、欲望濃き恋人達の交わりは、中世的な禁欲を嘲笑い、世俗的な物質主義を謳歌するものである。物質主義とは、人間の特別さ、信仰による生命や運命の美徳を損なうが、あらゆる呪縛や道徳から人間を解放するものだ。コンクリートジャングルには、多彩な動物が居り。小動物から、ライオンのような猛獣まで居る。人は世界の支配者ではあるが、文明外の厳しい自然の中では、生き延びる事は難しく、個ではハイエナにすら勝てない身体能力であろう。人は連携し武装し、共生する事によって、その強みを発揮するのだ。これは、恋愛も同じであり、相手と寄り添う事によって、1の力が、3にも4にもなるのだ。

日本人タクも、作家のチャウも、恋愛を生き甲斐として、その幸せを享受する生きものの一人なのだ。野生は、恋愛において、形式論や理想を覆す蛮勇となり得、互いに肉体を求めるように、長きに渡る恋とは、野生を発揮して、貪り合っても、互いに満足して生きて行ける恋人達であるか、否かによろう。小説「2046」を執筆するチャウは、そのストーリーの華やかさに引けを取らない派手なプレイボーイであり、大都市の歓楽街の性の放逸や混沌というのは、この尻軽な作家には好ましい環境であり、一途に彼を愛する恋人バイを結婚相手とは認めないし、正妻ともし得ない。だが、何かと刺激が必要な彼が、混沌に身を浸し切って、流されて行きたい、というのも、彼の自由なのだ。清潔さはないが。

チャウは作家として、失敗への予兆を感じている。それは、多分に内向的なものだが、ストーリーの創造主にとって、ものを書けなくなる事は、死に等しいからである。だが、誰にでもスランプはあるもので、そこから抜け出す事は、そう難しくはないが、苦境を支え心に残った良き人の教えや好意に対しては、感謝しなければならない。チャウは、欲望渦巻く歓楽街に紛れ込み、姿を消す。まるで、自身のルーツがそこにあるように。チャウは快楽と欲望無くして、生きて行けないし、刺激を必要とするのは、無から有を生み出す、遊びが必要な作家の宿命でもある。つまり、チャウは、闇と交わりながらも、恋人バイに対しても、何ら、作家として不義を犯していないし、むしろ、彼の移り気は、作家本来の属性なのである。

対する、混沌の闇に対して、タクは太陽の下を歩いている。それは、「2046」の小説の世界とリンクしながら、その未来都市の住人であるアンドロイドへの恋にある。純愛であり、その潔癖さは、全てが計算され、高度にデザイン化された、未来都市の景観と同じくしている。チャウが欲望の掃きだめに居たのであれば、タクは、たった一人の正統の恋人の対等に向き合っているし、恋愛とは、本来、奪い合いや欺き事の応酬ではなく、どんな身分の相手であっても、愛を得たならば、対等に付き合い、求め合えるものであり、それが、人生の救いとなる。それは、小説「2046」の描いた幻想であっても、現実のワンとアンドロイドはリンクして、古き父親から痛烈に交際を反対されても、彼女の本心と愛は、爽やかなタクと共にある、という事であり、タクであれば、必ず、ワンは幸せになったであろう。その真髄を描き切り、現実の労を貫くチャウの文才は、二人の恋人の、美しき真実に迫っている。

チャウは、小説「2046」で描いたものは、彼の身近に実際に居た人間であり、そんな若く未熟ゆえに恋愛に勤しむ彼らの、夢や希望を、総意として、彼なりに裁断し、白黒付けて、ストーリーとして再生産したものである。このストーリーは恋愛興亡劇に託された、チャウの夢、であり、本心なのだ。つまり、彼は混沌の中に放逸な生活を送りながら、純愛の華を信じている、という事であり、良心の煌びやかなピースが、ストーリーの随所に散りばめられている。


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2018年10月16日

マスク

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愉快なロキが、世界を救う。

小心者のスタンリーはひょんなことから不思議なマスクを拾う。家に帰り何気なくそのマスクを着けたとたん!猛烈な竜巻と共に彼の中のもうー人の自分《マスク》が現れた。そして彼は《マスク》の力を借りて、ー目惚れしたクラブ歌手、ティナにアタックするのだが……。(allcinema)

アメリカのアニメやコミックから抜け出したような、陽気なマスクは、街を引っ掻き回し、悪戯の限りを尽くすが、その正体は欧州の異端の神ロキであった。秩序の守護者からすれば、こんな酷い悪童は居ないが、トリックスターの死ぬ社会というのは、活力を失い、閉塞した管理社会、という事が出来よう。昼間は、銀行マンのスタンリーであり、夜は凄まじいエネルギーとエゴイズムで、街を暴れ回り、そこらに享楽の種を撒いて行く。アニメのキャラクターは、子供の愉しみの相手であるが、それが具現化すれば、たちまち、超人となり、世界を席巻するであろう。マスクは英雄であり、それは、必ずしも大志を秘めた志士だけの事ではなく、あらゆる欲望を開放し、それを、司る快楽の神にも言える事であろう。

スタンリーにとって英雄の条件というのは、快楽を全開にして隠さず、浮き名を流し、美女とダンスを踊りまくるスターであった。マスクは、彼の欲望や夢の理想像であり、アニメの世界とは、本来、幼稚なギャングによって表現されるものではなく、クールなキャラクターによってこそ、成り立つものであり、だからこそ、同じようなストーリーであっても、その人気は持つのである。つまり、ストーリーを構築する創造主は必要ではあるが、そのストーリーを現場にて運営し、生きた血を通わせて行くのは、人物や英雄の仕事だという事なのだ。

マスクは、そんな観客の要望を満たし、ハイセンスなジョークと遊びで、ストーリーを支配する。異端の神ロキは、悪神ではあるが、さる者であり、彼の現れる処、常識が引っくり返り、たちまち、無秩序の世界を具現するが、さすがは神であり、その混沌に曲がりなりにも、蛮勇の秩序を植え付けるのである。これは、ジム・キャリーの演技力の高さゆえであり、彼でなくてはこの型破りなストーリーは成り立たなかったであろう。

欲望とは、禁欲や誠意とは逆の感情のようにも思えるが、アメリカの資本主義の優れた処は、欲望という、悪にも類され兼ねない深い情念を、資本社会の中で行動する個人や組織の信頼に変えて、それを司るキーマンこそが、社会に必要な人間だと昇華させる処であろう。欲望が悪という世界観は、共産主義であり、それが敗れた事は冷戦崩壊に象徴されている。そして、今は、世界の片隅に巣食う禁欲と、自由との競争が繰り広げられているのである。だが、欲望を司る事が、旧儒者による処の濁流ではなく、主流とされている情勢を決定づけた時点で、アメリカングローバリズムの功績であり、勝因があるように思えてならない。

かつて、世界は不寛容であり、一つのビジョン、一つの信仰、一つの正義が支配したが、ロキはその中で異端として抹殺された復讐の神という事が出来よう。だから、ロキの力の籠ったマスクは、その使い手次第で、白くも黒くもなる。本心では、この国の独裁者に成りたいという悪漢ドリアンに対して、スタンリーの被るマスクが社会に必要な麗しきトリックスターとして、愛される事は、世界は変わる、というたった一つの真実を表しているし、世界だけではなく、古の神の功も、罪も、善悪も、時代に応じて評価を変えるもの、と思えてならない。


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