2024年04月07日 14:21
そもそも、戦いに人間性などは全くの無意味ではあるが、そいつがどんな酷い事をして来たか、勝つためには弱い存在や女性にすら手を懸けて来たか、といった事は表面的には巧みに隠してやりおおせるのが、悪人であって、肉親に対する情の深さは、彼のガーシーの涙にすら物語られるものもあると思う。ガーシーは警察によってルールに沿った嫌疑を晴らすために捜索を受けたが、これを一般人とか、いわんや乞食風情の浪人がやれば立派な加害行為であり、やり過ぎだと思いますが、昨今の風潮では、行き過ぎた他者への干渉で被害を受ける人も増えているのでは無いでしょうか。
戦いがあって良いのか、と言えば、あって良いと思いますし、権力とか社会が誤った方向に行く事に対して、批判や怒りの声を上げるのは分かる事ではある。しかし、日本は国家単位で動いて居るので、リベラルの特徴というべきか、反戦平和とは国家とか群れる、といった事を嫌うのでしょうが、調和とか多様性といった複数の価値観の和こそが、日本の強みであって、人間関係や社会関係、会社で発揮されるチカラや才能の活用とは、人間を活かすことなのです。
窓際族と呼ばれる労働者も、本当は有能であって、それが、人間関係に忙殺されたり、社会関係から逃れたいが為に、やる気を失って居る、という事ですが、確かに、そういった人々の中には会社や仕事大好き、とは行かない人も居るから、発破をかけられる必要があるかも知れません。
自由主義がそういう総意とか、やる気が燃料となって、個のエンジンが懸かるとして、冷戦後の社会主義は権力の座から下野して居て、日本では野党が主たる政治活動ですから、今の日本での、いわゆるブサヨ、というのは、革命や破壊の先にある政体の仕方とか、対案における新たな政権運営プランが無いのだと思う。ただ、イデオロギーの揺りかごとは国だと思うので、外交感覚とか協力する意志とか政策の無い政治とは、何を遣り甲斐にして居るのか、なのです。僕は、そういう社会主義政党の機関紙の中の、面白おかしいエンタメ批評記事は、タチの悪い悪戯にしか見えないので、価値観の違いを感じては居るのですが。果実を享受するという利益競争行為とか、フレーズそのものが、筋金入りのリベラルには、禁断の果実、になってしまうのでしょうか。
日本の多様性の要には、武士道があるので、ビジネスや投資などを嫌う守旧的な人々は、商業とか宗教嫌いと言う事もあり、要するに、ルールやコンプラに基づいた変革とか、世直しを標榜する構造改革といった、旗の下に集うことが嫌いなのです。また、保守も現実主義者は資本主義で、三島由紀夫のような理想主義者は社会主義と言うべきか。つまり、現実にあるものは、戦前の美徳を否定して古学の理を捨て去った古い日本にサヨナラをして、戦後民主主義は利を取った、という事で、至って、世俗的な国柄になってしまったという事だと思います。
いつの時代を理想的で、生まれたかったか、という事が個人の価値観の根っこだと思いますから、”現代を否定”する理想主義者は、暴力的に振る舞うのでは無く、美徳を以て古き良き時代の良さを論じるべきだと思いますが。そういう教師役とは、本来は政治家が担うべきですが、今の体たらくでは、追及する野党も劣化して居るので、とても、モラルの舵取りは出来ないと思います。
そもそも、秩序とは政体の為にあるのでは無いので、国会における政党活動には、競争する場面があって然るべきだと思いますが、しかし、ラディカルな革命論に全てを委ねてしまって良いのか、次世代に対する不安は無いのか、という危惧を感じます。同胞意識が共有出来ないのです。
戦いがあって良いのか、と言えば、あって良いと思いますし、権力とか社会が誤った方向に行く事に対して、批判や怒りの声を上げるのは分かる事ではある。しかし、日本は国家単位で動いて居るので、リベラルの特徴というべきか、反戦平和とは国家とか群れる、といった事を嫌うのでしょうが、調和とか多様性といった複数の価値観の和こそが、日本の強みであって、人間関係や社会関係、会社で発揮されるチカラや才能の活用とは、人間を活かすことなのです。
窓際族と呼ばれる労働者も、本当は有能であって、それが、人間関係に忙殺されたり、社会関係から逃れたいが為に、やる気を失って居る、という事ですが、確かに、そういった人々の中には会社や仕事大好き、とは行かない人も居るから、発破をかけられる必要があるかも知れません。
自由主義がそういう総意とか、やる気が燃料となって、個のエンジンが懸かるとして、冷戦後の社会主義は権力の座から下野して居て、日本では野党が主たる政治活動ですから、今の日本での、いわゆるブサヨ、というのは、革命や破壊の先にある政体の仕方とか、対案における新たな政権運営プランが無いのだと思う。ただ、イデオロギーの揺りかごとは国だと思うので、外交感覚とか協力する意志とか政策の無い政治とは、何を遣り甲斐にして居るのか、なのです。僕は、そういう社会主義政党の機関紙の中の、面白おかしいエンタメ批評記事は、タチの悪い悪戯にしか見えないので、価値観の違いを感じては居るのですが。果実を享受するという利益競争行為とか、フレーズそのものが、筋金入りのリベラルには、禁断の果実、になってしまうのでしょうか。
日本の多様性の要には、武士道があるので、ビジネスや投資などを嫌う守旧的な人々は、商業とか宗教嫌いと言う事もあり、要するに、ルールやコンプラに基づいた変革とか、世直しを標榜する構造改革といった、旗の下に集うことが嫌いなのです。また、保守も現実主義者は資本主義で、三島由紀夫のような理想主義者は社会主義と言うべきか。つまり、現実にあるものは、戦前の美徳を否定して古学の理を捨て去った古い日本にサヨナラをして、戦後民主主義は利を取った、という事で、至って、世俗的な国柄になってしまったという事だと思います。
いつの時代を理想的で、生まれたかったか、という事が個人の価値観の根っこだと思いますから、”現代を否定”する理想主義者は、暴力的に振る舞うのでは無く、美徳を以て古き良き時代の良さを論じるべきだと思いますが。そういう教師役とは、本来は政治家が担うべきですが、今の体たらくでは、追及する野党も劣化して居るので、とても、モラルの舵取りは出来ないと思います。
そもそも、秩序とは政体の為にあるのでは無いので、国会における政党活動には、競争する場面があって然るべきだと思いますが、しかし、ラディカルな革命論に全てを委ねてしまって良いのか、次世代に対する不安は無いのか、という危惧を感じます。同胞意識が共有出来ないのです。
勝った人にはご褒美をあげたいですが、何を悦ぶのでしょうか。
なるべく温かいものをあげたいし、ぬいぐるみは持ってるだろう。
アイロンに懸けたら怒られますね、エプロンも着たことないのに!
っと、これは、男子の逆切れですね。料理をする時エプロンはしないです。
料理はアーティスティックにやると、激辛なだけになるとか、
甘いものは辛口をどこまで抑えられるでしょうか。
料理の経験豊富な人、は言って居ることですね。
何が正しいレシピでしょう。美味いものは美味いし。
レシピって色褪せないウチが一番うまいと思います。
斬新な料理、皿もチャイニーズだとステーキは回る牛になるかも知れません。
だから、お好みは肉厚の回鍋肉かな。
食欲より、睡眠欲の方が強いリアル深夜のぼやきw明日は早朝なのに。
目覚ましにも叩かれた事無いのに!ケンちゃんKOね♪俺OKね♡
なるべく温かいものをあげたいし、ぬいぐるみは持ってるだろう。
アイロンに懸けたら怒られますね、エプロンも着たことないのに!
っと、これは、男子の逆切れですね。料理をする時エプロンはしないです。
料理はアーティスティックにやると、激辛なだけになるとか、
甘いものは辛口をどこまで抑えられるでしょうか。
料理の経験豊富な人、は言って居ることですね。
何が正しいレシピでしょう。美味いものは美味いし。
レシピって色褪せないウチが一番うまいと思います。
斬新な料理、皿もチャイニーズだとステーキは回る牛になるかも知れません。
だから、お好みは肉厚の回鍋肉かな。
食欲より、睡眠欲の方が強いリアル深夜のぼやきw明日は早朝なのに。
目覚ましにも叩かれた事無いのに!ケンちゃんKOね♪俺OKね♡
2024年04月06日 22:00
ナチスものの映画は飽きられないそうだが、仮想敵としてはヒトラーには悪いが、欠席裁判で破壊と再生の父となり、そして、百歩譲って再評価に至る、かも知れないにしても、やはり、寓話や伝説の中の人でしかなく、映画でもよく重要なキャラクターになって居るが、彼のスケールを超えるヒール、罪の多い人は居ないと思う一方で、何が、どういう時代背景が、対独制裁と外交上の取り扱いの失敗かが、大いなる存在を生み出したのか、という”社会的要因”の方に、僕は関心がある。
戦前には、ナチスが中央集権的な政府と、経済において集積主義を取って、国家権力が首都ベルリンなどに集積した富、資材、労働力などを使って、大々的な公共事業をして、戦時滑走路となるアウトバーン高速道路や、工業地帯も作って居るだろうか。ヒトラーが、列強のデザインを模倣しようとしたのは、外交感覚ではなく、イージーゲーム程度の平凡な感性で、それは、アジテーションの悪魔的天才ながら、彼の建築家としての才能の限界を露にするものでもある。戦前日本でも、集積による独裁はともかく、中央集権政府は維新以降の日本政府が取って居るので、そうした力業での国家的事業は後発国に広く観られた傾向だそうだから、それだけで悪では無い。
そういう上り調子のイケイケドンドンでやって居る時代には、軍備が増強されて軍拡競争が起きるが、核を巡る競争もまた、戦争に進みかねない危険な道だろう。ただ、権力者だけが楽しいとか、いびつな党の機関紙にしても、エンタメ要素を入れながらも、そういうイデオロギーの独壇場を好んで、他党とか市場の自由な言論や表現は互いに認めるべきだろう。ただ、そこにある達人へのリスペクトは忘れないようにしたい。
何が、彼の第二次世界大戦を起こしたか、と言えば、最大の要因は核を中心とした大軍拡競争であろう。それは、ファシズムであっても、その対立軸であっても、つまり、同盟国であっても連合国であっても、大国が圧迫する、プレゼンスを発揮して地域を抑え込もうとする限りは、起こり得る未来。
国とは大きな集団、組織のことだが、同時に、社会と国民の群れであり、コミュニティのことだから、格差があることでその緩和と再分配の役割が必要だ。市場主義が育たない国だと、底冷えして、グラスルーツの公共事業が出来ないので、プライマリーバランスとか国際銀行などによる締め付けに敗ける国は長く貧困に晒されるだろう。そして、その貧困から大逆転を果たそうとして、努力したのがドイツであると。そうしたナチズムのDNAは、過激な思想家とか活動家、テロリストだけが継いだのでは無いだろう。
それに対する、アメリカのアイデンティティとは、ファーマー、カウボーイ、ガンマン、シェリフ、警察、軍人などが古き良き時代のアメリカであろうか。それは、映画のストーリーでこそ、強調されてキラキラ輝くのかも知れない。
『博士の異常な愛情』(スタンリー・キューブリック監督)では、米ソのキューバ危機に端を発した、仮想の歴史であって、戦争を止めようとするアメリカ側の記録であるが、そのエネルギーは核軍拡というダークエネルギーを抑え込んでいる。博士とは、ストレンジラブ博士のことであり、異様である。これは、最も好きなシークエンスと被るが、ソ連に対する”R奇襲作戦”を越権で遂行しようとする、軍司令官「切り裂きジャック」(あだ名)が主導して、アメリカ政府会議が紛糾する、大統領はどう出るのか。これは、”一歩間違えばクーデター”だからです。
議論は踊る、されど進まず、であって、議論が紛糾して煮詰まった頃に、霧の中から現れたようにフィクサーがふらりと来て、対ソ戦、つまり、核戦争の勝算を述べるが、大量破壊と殺傷、犠牲が生まれることを嬉々として語るのである。彼が何者であるのか、は、当然、核に精通して居るからだが、マッドサイエンティストは、正義を好むアメリカ人のアイデンティティにはならないだろう、という事が、ありありと観えるのだ。つまり、そういう異端者の愛とは、愛国心だとしても、その基盤には家族とかパートナーへの愛が基礎として、強固であるべきだ。だから、フィクサーの誰かさんが核以外の何を愛して居るのか、という事であって。
ブラックジョークとして、更に悪い事には、会議での名立たる高官や大統領、科学者たちの誰もが「責任逃れ」をして居り、逃げを打って居ないのは、狂気の”切り裂きジャック”将軍、マッドサイエンティストのみと言う始末で、つまりは、政治という法廷に立って居る人々は正気だからこそ、玉砕とか死を避けるのは、人間として情としてはナチュラルな振る舞いなのだ。むしろ、政治にはっきりしろ、再生案は無い、とだけ要求するのは、玉砕を肯定するおつもりですか、と言われても仕方ない事だと、僕は思います。
『オッペンハイマー』 (クリストファー・ノーラン監督)では、核戦争が無い時代、いわば、自然環境、地球にとって、或いは、プロメテウスに炎を奪われることのない、万能神の晩年期、の物語では無いだろうか。これは、オッペンハイマー博士が核開発の為に、大きな活躍をして、理論と研究において多大なる貢献をしたアメリカの英雄となった、それから、戦後にどうなったか、ソ連との核軍拡競争の時代には、マッカーシーによる赤狩りの嵐が吹き荒れたが、その時、どうして居たのか。一度、英雄になった彼が、今度は何になって行くのか。これを、鋭い批判精神と、「国家の罠」という視点で捉えた、快進撃の物語です。つまり、国家権力にもフェアなものと、そうでないものがあって、多分、説明責任、公正なルールに基づかないと、レヴィアタンとして世の中から嘲笑されていると思う。
ともあれ、『博士の異常な愛情』が狂気であるのに対して、こちらは正気である。硬骨の意志を持った状態で、開発者の正義があって、その対岸の彼方には、ナチスの核開発という最大リスクがあって、その為にオッペンハイマーは物理学者の大家として、マンハッタン計画に参画し、そのリーダーとなるのである。そもそも、ロジックがしっかりして居ない、精神論とかヘンテコリンな持論であると、”ストレンジラブ博士”のように、ロジックそのものがイカれて、これは、明らかに失敗が見えている、つまり、覇権国をすら敗北させる狂った提言で、ブラックジョークで、味方への愚かなレクイエムだが、それは彼個人の自殺行為でもある。
『オッペンハイマー』では、「責任の所在」が明確である。それは、史実に基づく徹底したリアリズムのゆえんであろうが、博士も、軍人も、大統領ですら核の投下による、無慈悲かつ残虐な核爆撃の責任を負って居る。一度はアメリカの英雄となった博士の行動は何なのか、「君子豹変」といっても、それは、核抑止の理解がまだ無い未成熟な核の平和の時代であって、唯一のスーパーパワーであった時代には、まだ、核保有をして居ないソ連に強気に成る、主戦派の軍人が居ても当然だろうから、”時代を先取り過ぎていた”のだろう。要は、MADによる核抑止は現在に繋がる風景であって、ソ連が核を戦術投入出来ない理由も、アメリカや欧州などの「核の傘」が動くからで、核の平和とは、それ以上でもそれ以下でも無いと思う。
戦前には、ナチスが中央集権的な政府と、経済において集積主義を取って、国家権力が首都ベルリンなどに集積した富、資材、労働力などを使って、大々的な公共事業をして、戦時滑走路となるアウトバーン高速道路や、工業地帯も作って居るだろうか。ヒトラーが、列強のデザインを模倣しようとしたのは、外交感覚ではなく、イージーゲーム程度の平凡な感性で、それは、アジテーションの悪魔的天才ながら、彼の建築家としての才能の限界を露にするものでもある。戦前日本でも、集積による独裁はともかく、中央集権政府は維新以降の日本政府が取って居るので、そうした力業での国家的事業は後発国に広く観られた傾向だそうだから、それだけで悪では無い。
そういう上り調子のイケイケドンドンでやって居る時代には、軍備が増強されて軍拡競争が起きるが、核を巡る競争もまた、戦争に進みかねない危険な道だろう。ただ、権力者だけが楽しいとか、いびつな党の機関紙にしても、エンタメ要素を入れながらも、そういうイデオロギーの独壇場を好んで、他党とか市場の自由な言論や表現は互いに認めるべきだろう。ただ、そこにある達人へのリスペクトは忘れないようにしたい。
何が、彼の第二次世界大戦を起こしたか、と言えば、最大の要因は核を中心とした大軍拡競争であろう。それは、ファシズムであっても、その対立軸であっても、つまり、同盟国であっても連合国であっても、大国が圧迫する、プレゼンスを発揮して地域を抑え込もうとする限りは、起こり得る未来。
国とは大きな集団、組織のことだが、同時に、社会と国民の群れであり、コミュニティのことだから、格差があることでその緩和と再分配の役割が必要だ。市場主義が育たない国だと、底冷えして、グラスルーツの公共事業が出来ないので、プライマリーバランスとか国際銀行などによる締め付けに敗ける国は長く貧困に晒されるだろう。そして、その貧困から大逆転を果たそうとして、努力したのがドイツであると。そうしたナチズムのDNAは、過激な思想家とか活動家、テロリストだけが継いだのでは無いだろう。
それに対する、アメリカのアイデンティティとは、ファーマー、カウボーイ、ガンマン、シェリフ、警察、軍人などが古き良き時代のアメリカであろうか。それは、映画のストーリーでこそ、強調されてキラキラ輝くのかも知れない。
『博士の異常な愛情』(スタンリー・キューブリック監督)では、米ソのキューバ危機に端を発した、仮想の歴史であって、戦争を止めようとするアメリカ側の記録であるが、そのエネルギーは核軍拡というダークエネルギーを抑え込んでいる。博士とは、ストレンジラブ博士のことであり、異様である。これは、最も好きなシークエンスと被るが、ソ連に対する”R奇襲作戦”を越権で遂行しようとする、軍司令官「切り裂きジャック」(あだ名)が主導して、アメリカ政府会議が紛糾する、大統領はどう出るのか。これは、”一歩間違えばクーデター”だからです。
議論は踊る、されど進まず、であって、議論が紛糾して煮詰まった頃に、霧の中から現れたようにフィクサーがふらりと来て、対ソ戦、つまり、核戦争の勝算を述べるが、大量破壊と殺傷、犠牲が生まれることを嬉々として語るのである。彼が何者であるのか、は、当然、核に精通して居るからだが、マッドサイエンティストは、正義を好むアメリカ人のアイデンティティにはならないだろう、という事が、ありありと観えるのだ。つまり、そういう異端者の愛とは、愛国心だとしても、その基盤には家族とかパートナーへの愛が基礎として、強固であるべきだ。だから、フィクサーの誰かさんが核以外の何を愛して居るのか、という事であって。
ブラックジョークとして、更に悪い事には、会議での名立たる高官や大統領、科学者たちの誰もが「責任逃れ」をして居り、逃げを打って居ないのは、狂気の”切り裂きジャック”将軍、マッドサイエンティストのみと言う始末で、つまりは、政治という法廷に立って居る人々は正気だからこそ、玉砕とか死を避けるのは、人間として情としてはナチュラルな振る舞いなのだ。むしろ、政治にはっきりしろ、再生案は無い、とだけ要求するのは、玉砕を肯定するおつもりですか、と言われても仕方ない事だと、僕は思います。
『オッペンハイマー』 (クリストファー・ノーラン監督)では、核戦争が無い時代、いわば、自然環境、地球にとって、或いは、プロメテウスに炎を奪われることのない、万能神の晩年期、の物語では無いだろうか。これは、オッペンハイマー博士が核開発の為に、大きな活躍をして、理論と研究において多大なる貢献をしたアメリカの英雄となった、それから、戦後にどうなったか、ソ連との核軍拡競争の時代には、マッカーシーによる赤狩りの嵐が吹き荒れたが、その時、どうして居たのか。一度、英雄になった彼が、今度は何になって行くのか。これを、鋭い批判精神と、「国家の罠」という視点で捉えた、快進撃の物語です。つまり、国家権力にもフェアなものと、そうでないものがあって、多分、説明責任、公正なルールに基づかないと、レヴィアタンとして世の中から嘲笑されていると思う。
ともあれ、『博士の異常な愛情』が狂気であるのに対して、こちらは正気である。硬骨の意志を持った状態で、開発者の正義があって、その対岸の彼方には、ナチスの核開発という最大リスクがあって、その為にオッペンハイマーは物理学者の大家として、マンハッタン計画に参画し、そのリーダーとなるのである。そもそも、ロジックがしっかりして居ない、精神論とかヘンテコリンな持論であると、”ストレンジラブ博士”のように、ロジックそのものがイカれて、これは、明らかに失敗が見えている、つまり、覇権国をすら敗北させる狂った提言で、ブラックジョークで、味方への愚かなレクイエムだが、それは彼個人の自殺行為でもある。
『オッペンハイマー』では、「責任の所在」が明確である。それは、史実に基づく徹底したリアリズムのゆえんであろうが、博士も、軍人も、大統領ですら核の投下による、無慈悲かつ残虐な核爆撃の責任を負って居る。一度はアメリカの英雄となった博士の行動は何なのか、「君子豹変」といっても、それは、核抑止の理解がまだ無い未成熟な核の平和の時代であって、唯一のスーパーパワーであった時代には、まだ、核保有をして居ないソ連に強気に成る、主戦派の軍人が居ても当然だろうから、”時代を先取り過ぎていた”のだろう。要は、MADによる核抑止は現在に繋がる風景であって、ソ連が核を戦術投入出来ない理由も、アメリカや欧州などの「核の傘」が動くからで、核の平和とは、それ以上でもそれ以下でも無いと思う。
酒の席は、付き合いもありますが、自分が気持ち良くなることで精一杯で良いのでは。
宴会では酒は燃料だ、とも冗談しますが、確かに酒が切れるとイライラする事もあるのでは。
気持ちよく酔う、のが良い酒だから、酒は呑むとは、場の雰囲気が気持ち良い事で、美味しいお酒になる。
酒をひたすらグビグビ呑むよりも、ほろ酔い、の境地になるには、何か他のことをしながら吞んでいる方が良い気がします。花が咲いたように、気軽な話しながらも、酒でたまった気を発散して居る気がします。
春の季節は、別れと出逢いの季節ですから、酒のチカラを借りて、言えなかったことを言うで。お礼はしっかりしたいし、これからもよろしくお願いします、と明言した方が、付き合いは良くなる。
花見とか言いますけど、花のいくつかは日本のアイコンなので、酒の肴は日本人である事だと、オラが国自慢で勝手に気持ちよく成れるけど、そこが変だよ、と言われないようにしたいですね。
宴会では酒は燃料だ、とも冗談しますが、確かに酒が切れるとイライラする事もあるのでは。
気持ちよく酔う、のが良い酒だから、酒は呑むとは、場の雰囲気が気持ち良い事で、美味しいお酒になる。
酒をひたすらグビグビ呑むよりも、ほろ酔い、の境地になるには、何か他のことをしながら吞んでいる方が良い気がします。花が咲いたように、気軽な話しながらも、酒でたまった気を発散して居る気がします。
春の季節は、別れと出逢いの季節ですから、酒のチカラを借りて、言えなかったことを言うで。お礼はしっかりしたいし、これからもよろしくお願いします、と明言した方が、付き合いは良くなる。
花見とか言いますけど、花のいくつかは日本のアイコンなので、酒の肴は日本人である事だと、オラが国自慢で勝手に気持ちよく成れるけど、そこが変だよ、と言われないようにしたいですね。
2024年04月05日 14:44
ここがヘンだよ世界、みたいな、ユニークなこだわりとか、独自の世界観があっても良いと思う。技術とか知識が大事であって、それが新しい見識やアイデアに繋がる、目的、を大事にすべきだろう。反抗期の子供が金髪に染めることがあっても、まさか、核はヤンキーの独占物となって覇に結び付くことが無い事を願いたい。
ともあれ、何が世界平和に行き着くかというと、かつての老大国のような罠に、今の覇権国も陥って居ないだろうか。それは、旧新覇権国のことであるが、古き良き時代を否定するものでは無い。むしろ、「新時代」の方が未知数であり、リスクを秘めて居ることから、恐いものだと言えるだろう。
ダイナソーの時代のように、太古の大型生物はチカラや覇権ばかりを求めて、生態系の頂点に居る、地球において権力を握って居る支配者であって、チカラでは太刀打ちできない存在ではあったが、モラルが無かった。生態系の輪とかサイクルの回転する仕組みよりも、弱肉強食を標榜したからだろう。それは、太古が不毛で不法な世界であったことから、やはり、地球には人間という存在が必要なのだろう。核兵器とはそういう人間のブレーキング、というよりも、狂気によるハイスピードなドライビングであって、万物、機械とか強力な仕掛けを持った「おもちゃ」も、また、例えば、自動車の暴走運転によって凶器となるだろうし、テーマパークにはおもちゃが一杯で、だからこそ、家族ぐるみではぐれることの無い”紋切型の冒険”が刺激物だと思い込んでいる。
これは、彼のWinnyにおいても同じことで、ネット上には様々なデジタルのおもちゃがあり、狂気があるから、その支配者である情なき「皇帝」とは、常にリスクに追われて、苦しみ続ける宿命は時代が下るに連れて、野心家の独裁、我田引水は困難になるのでは無いか。つまり、Winnyは極めて社会性、公共性の色合いの強さながら、デジタル資本主義の曙を告げるもの、”鶏鳴狗盗”では無かったか。
『TAKESHIS'』(北野武監督)では、まさに、映画と言うソフトの無限大の可能性を示したものであった。印象的なシークエンスが沢山あり過ぎて、何を批評すれば良いか迷うが、これは、果たして、業界の平凡ならざる日常を脚色した物語なのか、天才の脳内だけにある非日常のストーリーテラーなのか、との違いであって、前者ならば目的は成功、になるが、後者では大失敗とか作品世界の崩壊があっても、アーティストとしての成功はモラルを崩しながら、新たな挑戦だから、これは、「崩壊序曲の成功作」と言えるかも知れない。僕は、北野監督作品の中ではこれが一番好きです。
言うなれば、この物語には何人ものたけしが居ることで、「誰でもたけし」という事かも知れない。しかし、正直言って、これはケイオスで崩壊進行のプロセスの美にあるから、何だか分からないものを、そうと知りながら、演じ切る意味では、役者たちに負担が掛かっただろうし、そういう弛緩にあっても、手を抜いて居るような役者は一人も居ないから、これは、三池流には無い監督の統率力が見えるし。
たけしが、成功者と這い上がる人、との二人居て、どちらがたけしかと言えば、それは常識的には成功者がリアルだ。だが、非常識を主流派が唱えるという事は、モラルに挑戦する事であって、それは保守的な考え方を持った監督にとっては、リアルを攻撃する事で、厳しい戦いを強いられる。だが、どちらに成りたいのか?もしかしたら、本音として、監督はやり直しても良いと思って居て、違う方のたけしに新しい事を託して居る部分がかなりある。そして、映像に残って居るメインの部分からは、初陣の心地、すら感じられる。
『地獄の黙示録』 (フランシス・フォード・コッポラ監督)では、彼のアメリカであるが、覇権国が常勝とは限らない訳で、これは、手痛い敗戦とトラウマを米兵に刷り込んだ「ベトナム戦争」の物語である。これは、『武』と違って、内なる狂気であって、本当に死ぬ事がある戦場からリアリティを削ぐ、という異端的な試験作です。誰でも死ぬのは怖いですが、戦場への恐怖とは、直接的には「戦死」ですが、「常勝」将軍であっても、いつか一戦で高転びにこけることがあるかも知れません。そんな失敗でもリバウンドによって”キャリア的に”やり直しが出来ますが、これは、常勝に対する恐怖感が、実は良心とか博愛にあって、一方的に敵(ベトコン、村人)を弑する戦争兵器のオンパレード、徹底的な破壊の傲慢、に嫌気が指したのが、マーロン・ブロンド(カーツ大佐)を狂わせたのでは無いでしょうか。そして、『GF』のドン役の時よりも太らせた?
とにかく、兵隊も敵ですらも人間だという、日常的な感覚が通用しない戦争に耐えられるのは、将軍であっても稀有な存在でしょう。ブロンドは、アメリカでも、ベトナム側ですら無い、中和的な存在で、戦争を止めるには、戦場を麻痺させることで、その為には、リスクとしてミッション、を持った兵隊を何とかする、非情にコントロールよりも、国家とは無関係の群れ、存在となる事では無いだろうか。つまり、これにおいては、反戦が本心としてあるものの、正常で平凡な意見書では、人を殺そうとする侵略者を説得する事は難しいという事で、正義が無いのでしょうね。
そして、戦争をするにおいて、兵器だけを運用して、大きな破壊を起こすような軍団は旧式であって、戦ののちにある覇にも、今の情報戦争にも対応が出来ない、という事だと思います。
戦いのアイコンとして、武があり、兵はその駒に過ぎないのですが、この二つの作品間には、「誰でもヒーロー」と、「兵隊は兵隊」という、大きな違いがあると思います。世界の警察とは、高尚な理想ですが、それを根底に抱えている方が、実際には兵隊をミッションに束縛している。一方で、平和で自由主義的に統治されている日本の監督のレガシーに、ヒーローを大切にする、という価値観にあるギャップが”世にも奇妙”でなりません。何が、誰が、世界を統治すべきなのでしょうか。
ともあれ、何が世界平和に行き着くかというと、かつての老大国のような罠に、今の覇権国も陥って居ないだろうか。それは、旧新覇権国のことであるが、古き良き時代を否定するものでは無い。むしろ、「新時代」の方が未知数であり、リスクを秘めて居ることから、恐いものだと言えるだろう。
ダイナソーの時代のように、太古の大型生物はチカラや覇権ばかりを求めて、生態系の頂点に居る、地球において権力を握って居る支配者であって、チカラでは太刀打ちできない存在ではあったが、モラルが無かった。生態系の輪とかサイクルの回転する仕組みよりも、弱肉強食を標榜したからだろう。それは、太古が不毛で不法な世界であったことから、やはり、地球には人間という存在が必要なのだろう。核兵器とはそういう人間のブレーキング、というよりも、狂気によるハイスピードなドライビングであって、万物、機械とか強力な仕掛けを持った「おもちゃ」も、また、例えば、自動車の暴走運転によって凶器となるだろうし、テーマパークにはおもちゃが一杯で、だからこそ、家族ぐるみではぐれることの無い”紋切型の冒険”が刺激物だと思い込んでいる。
これは、彼のWinnyにおいても同じことで、ネット上には様々なデジタルのおもちゃがあり、狂気があるから、その支配者である情なき「皇帝」とは、常にリスクに追われて、苦しみ続ける宿命は時代が下るに連れて、野心家の独裁、我田引水は困難になるのでは無いか。つまり、Winnyは極めて社会性、公共性の色合いの強さながら、デジタル資本主義の曙を告げるもの、”鶏鳴狗盗”では無かったか。
『TAKESHIS'』(北野武監督)では、まさに、映画と言うソフトの無限大の可能性を示したものであった。印象的なシークエンスが沢山あり過ぎて、何を批評すれば良いか迷うが、これは、果たして、業界の平凡ならざる日常を脚色した物語なのか、天才の脳内だけにある非日常のストーリーテラーなのか、との違いであって、前者ならば目的は成功、になるが、後者では大失敗とか作品世界の崩壊があっても、アーティストとしての成功はモラルを崩しながら、新たな挑戦だから、これは、「崩壊序曲の成功作」と言えるかも知れない。僕は、北野監督作品の中ではこれが一番好きです。
言うなれば、この物語には何人ものたけしが居ることで、「誰でもたけし」という事かも知れない。しかし、正直言って、これはケイオスで崩壊進行のプロセスの美にあるから、何だか分からないものを、そうと知りながら、演じ切る意味では、役者たちに負担が掛かっただろうし、そういう弛緩にあっても、手を抜いて居るような役者は一人も居ないから、これは、三池流には無い監督の統率力が見えるし。
たけしが、成功者と這い上がる人、との二人居て、どちらがたけしかと言えば、それは常識的には成功者がリアルだ。だが、非常識を主流派が唱えるという事は、モラルに挑戦する事であって、それは保守的な考え方を持った監督にとっては、リアルを攻撃する事で、厳しい戦いを強いられる。だが、どちらに成りたいのか?もしかしたら、本音として、監督はやり直しても良いと思って居て、違う方のたけしに新しい事を託して居る部分がかなりある。そして、映像に残って居るメインの部分からは、初陣の心地、すら感じられる。
『地獄の黙示録』 (フランシス・フォード・コッポラ監督)では、彼のアメリカであるが、覇権国が常勝とは限らない訳で、これは、手痛い敗戦とトラウマを米兵に刷り込んだ「ベトナム戦争」の物語である。これは、『武』と違って、内なる狂気であって、本当に死ぬ事がある戦場からリアリティを削ぐ、という異端的な試験作です。誰でも死ぬのは怖いですが、戦場への恐怖とは、直接的には「戦死」ですが、「常勝」将軍であっても、いつか一戦で高転びにこけることがあるかも知れません。そんな失敗でもリバウンドによって”キャリア的に”やり直しが出来ますが、これは、常勝に対する恐怖感が、実は良心とか博愛にあって、一方的に敵(ベトコン、村人)を弑する戦争兵器のオンパレード、徹底的な破壊の傲慢、に嫌気が指したのが、マーロン・ブロンド(カーツ大佐)を狂わせたのでは無いでしょうか。そして、『GF』のドン役の時よりも太らせた?
とにかく、兵隊も敵ですらも人間だという、日常的な感覚が通用しない戦争に耐えられるのは、将軍であっても稀有な存在でしょう。ブロンドは、アメリカでも、ベトナム側ですら無い、中和的な存在で、戦争を止めるには、戦場を麻痺させることで、その為には、リスクとしてミッション、を持った兵隊を何とかする、非情にコントロールよりも、国家とは無関係の群れ、存在となる事では無いだろうか。つまり、これにおいては、反戦が本心としてあるものの、正常で平凡な意見書では、人を殺そうとする侵略者を説得する事は難しいという事で、正義が無いのでしょうね。
そして、戦争をするにおいて、兵器だけを運用して、大きな破壊を起こすような軍団は旧式であって、戦ののちにある覇にも、今の情報戦争にも対応が出来ない、という事だと思います。
戦いのアイコンとして、武があり、兵はその駒に過ぎないのですが、この二つの作品間には、「誰でもヒーロー」と、「兵隊は兵隊」という、大きな違いがあると思います。世界の警察とは、高尚な理想ですが、それを根底に抱えている方が、実際には兵隊をミッションに束縛している。一方で、平和で自由主義的に統治されている日本の監督のレガシーに、ヒーローを大切にする、という価値観にあるギャップが”世にも奇妙”でなりません。何が、誰が、世界を統治すべきなのでしょうか。
2024年04月04日 20:04
ありがとう、とか、ごめんなさい、とか、挨拶は色々ありますが、自分と他人を繋げる和じゃないかな。
名前にも礼を込める、という事があると思います。
どうあって欲しいのか、願わくば、あだ名だけは読み易くありますように。
アオハルも、ろくなあだ名を付けられませんでしたが、というか、むしろ、普通すぎて接点が見つからない。
頭を下げる、とか、平然と出来る人も居ますが、あうんの呼吸は酸素と酸素とが濃いのです。
相手の呼吸を吸い込んで、生きていることが出来るから。
独り占めをする酸素の無駄遣いとは、踊る、進まない会議じゃないかなと。
司会者はビッグワンですけど。おちは酒か!酔いどれ、ですかと。
名前にも礼を込める、という事があると思います。
どうあって欲しいのか、願わくば、あだ名だけは読み易くありますように。
アオハルも、ろくなあだ名を付けられませんでしたが、というか、むしろ、普通すぎて接点が見つからない。
頭を下げる、とか、平然と出来る人も居ますが、あうんの呼吸は酸素と酸素とが濃いのです。
相手の呼吸を吸い込んで、生きていることが出来るから。
独り占めをする酸素の無駄遣いとは、踊る、進まない会議じゃないかなと。
司会者はビッグワンですけど。おちは酒か!酔いどれ、ですかと。