2018年11月26日 00:00
七人の侍
戦国時代。一つの国境の村に、乱世の馬蹄の轟が迫っていた。近隣に盤踞する野武士共が、村の収穫を狙い、秋に実りの時を迎えれば、掠奪するとの宣告を受ける。絶望の淵に沈む百姓達は、長老の知恵によって、侍達を雇い、野武士と戦う決心を固める。街に出ると、そこには多士済々の侍達が居たが、財を持たない哀れな百姓達の為に、命を懸けて戦う侍が居るのだろうか。
野武士の一団は強大な敵である。そんな勢力のアンバランスに対して、集まった七人の侍達は、精鋭揃いであり、当代においても、数ではない質においては、最高水準のオールスターチームと言えよう。この固い契りの交わされたチームに死角はない。このような素晴らしい七人の侍が揃えば、さぞかし煌びやかな未来が約束されるだろうと思われるが、思い通りに行かないのが、戦の難しさであり、面白さでもある。対抗する野武士共も必死であり、当代最高のチームと、数で押す圧倒的な陣営を誇る野武士共との決戦が幕を開ける。多士済々であっても。大義が定まらねば、組織として弱い軍団になる事もある。敵の想定は、組織において不可欠である。
功名の為に戦うのではなく、百姓達の為の義の戦であり、この戦争に参戦する七人の侍達は、向上心の塊だ。覇道における戦国とは、虚々実々の駆け引きと騙し合いが常套であったが、この七人は、清らかな求道者であり、それゆえに、出世からは程遠い。だが、美しいドラマがある。侍達は門閥を作り、戦争を大事業としたが、それが、自衛の為、生きて行く為だけの戦いであったなら、強大な軍団は要らない。純然たる強さが、彼ら七人の関心であり、また、類は友を呼ぶのように、心と技に磨かれた精鋭で鳴るチームへと成ったのだ。主人公であり、しょせん、街では顔が利くとも、商人は脇役であり、この美談を彩るのは、一瞬の火花であり、力を要とする剣技である。
大義を守る侍達に対して、野武士共はやりたい放題に暴虐を尽くす。それは、侍達が正統に君臨の使命を帯びているのに対して、野武士共は、責任は一切無く、ただ暴力を持って悪しき支配者に成っているからである。規律も大義も守る必要が無いから、侍達に対する愛民たる百姓達を徹底的に搾取し、苛め抜く事が出来るのだ。奪われる事に成れている百姓達は卑屈で、貧弱だが、そんな彼らの意識を変え、戦意を持った兵隊に変える事は、村の為であり、また、その被支配者との距離を近づけ、同じ立ち位置に持っていく、それは、百姓達に対する統率だけでなく、侍達と間でのリーダーシップともなる。将たる士の業であり、勘兵衛の見事な器が光るものであった。
侍達は、見事な紳士であり、その清廉な精神は必ずや、キラリと光る御家の文化を花咲かすだろう。対する、野武士共は、その寄生する存在と掠奪によって成り立つ経済事情から、侍達に対抗するに武力を持って盤踞する他ない。つまり、武力を争点とする悲惨な戦争を望んだのは、侵略者である野武士の側なのである。侍達は、村にあって愉快に共生して行ける。つまり、生き方に多彩な選択肢がある。だが、野武士にはそれがない。よくよく思えば、哀れな悪役である。
戦争とは、敵の死は朗報だが、味方の死は重い。野武士が、村の奮闘によって、その多勢を減らしても、撤退しないのは、不退転の強軍である事を意味する。正規の侍達を率いる戦国大名、本作では勘兵衛は、将は言うまでもなく、兵の死を非常に嫌ったが、野武士にはそれが無い。死ぬまで戦い、限りない欲望を満たすまで掠奪する。殺戮を生業とする戦闘部族のようなもので、とても、日本人の集団とは言い難いのだ。同じ民族でありながら、奪い合い、殺し合った時代。果たされた野望や夢もあったろうが、同時代にどれほどの成功があり、その幸運が、衰運の失敗を覆ったかによって、戦国の評価は定まるだろう。そこに本作に秘められたメッセージがあるように思えてならない。
勝四郎と志乃との燃えるような若い恋愛は、この戦いそのものが、侍達の青春期と共にある事を示している。勝四郎は若く青いが、それは志乃を手に入れた事により、愛する人を守り切らねばならぬ負荷が掛かったという事だが、勝四郎には、久蔵を親しく惜しく思うように、成熟した男性としてではなく、あくまで、弟子分として先達の侍達に対して極めて謙虚かつ、誠実に接している事から、弱きを守る戦いではなく、強きを助ける犠牲的な戦いなのである。男女関係とは、凡人にとっては、人生を左右する問題であり、結婚の契りがゴールとなる事も多々ある。だが、勝四郎は、志乃と結ばれながら、決戦への決意を新たにしており、自分は死んでも青春に悔いなきものと見ている。彼の志は高く、若さゆえの向こう見ずな献身がある。それだけに、この戦争の重みが大きく、存亡を懸けた不可避な大戦という事でもあり、本物だという事だ。
野武士の一団は強大な敵である。そんな勢力のアンバランスに対して、集まった七人の侍達は、精鋭揃いであり、当代においても、数ではない質においては、最高水準のオールスターチームと言えよう。この固い契りの交わされたチームに死角はない。このような素晴らしい七人の侍が揃えば、さぞかし煌びやかな未来が約束されるだろうと思われるが、思い通りに行かないのが、戦の難しさであり、面白さでもある。対抗する野武士共も必死であり、当代最高のチームと、数で押す圧倒的な陣営を誇る野武士共との決戦が幕を開ける。多士済々であっても。大義が定まらねば、組織として弱い軍団になる事もある。敵の想定は、組織において不可欠である。
功名の為に戦うのではなく、百姓達の為の義の戦であり、この戦争に参戦する七人の侍達は、向上心の塊だ。覇道における戦国とは、虚々実々の駆け引きと騙し合いが常套であったが、この七人は、清らかな求道者であり、それゆえに、出世からは程遠い。だが、美しいドラマがある。侍達は門閥を作り、戦争を大事業としたが、それが、自衛の為、生きて行く為だけの戦いであったなら、強大な軍団は要らない。純然たる強さが、彼ら七人の関心であり、また、類は友を呼ぶのように、心と技に磨かれた精鋭で鳴るチームへと成ったのだ。主人公であり、しょせん、街では顔が利くとも、商人は脇役であり、この美談を彩るのは、一瞬の火花であり、力を要とする剣技である。
大義を守る侍達に対して、野武士共はやりたい放題に暴虐を尽くす。それは、侍達が正統に君臨の使命を帯びているのに対して、野武士共は、責任は一切無く、ただ暴力を持って悪しき支配者に成っているからである。規律も大義も守る必要が無いから、侍達に対する愛民たる百姓達を徹底的に搾取し、苛め抜く事が出来るのだ。奪われる事に成れている百姓達は卑屈で、貧弱だが、そんな彼らの意識を変え、戦意を持った兵隊に変える事は、村の為であり、また、その被支配者との距離を近づけ、同じ立ち位置に持っていく、それは、百姓達に対する統率だけでなく、侍達と間でのリーダーシップともなる。将たる士の業であり、勘兵衛の見事な器が光るものであった。
侍達は、見事な紳士であり、その清廉な精神は必ずや、キラリと光る御家の文化を花咲かすだろう。対する、野武士共は、その寄生する存在と掠奪によって成り立つ経済事情から、侍達に対抗するに武力を持って盤踞する他ない。つまり、武力を争点とする悲惨な戦争を望んだのは、侵略者である野武士の側なのである。侍達は、村にあって愉快に共生して行ける。つまり、生き方に多彩な選択肢がある。だが、野武士にはそれがない。よくよく思えば、哀れな悪役である。
戦争とは、敵の死は朗報だが、味方の死は重い。野武士が、村の奮闘によって、その多勢を減らしても、撤退しないのは、不退転の強軍である事を意味する。正規の侍達を率いる戦国大名、本作では勘兵衛は、将は言うまでもなく、兵の死を非常に嫌ったが、野武士にはそれが無い。死ぬまで戦い、限りない欲望を満たすまで掠奪する。殺戮を生業とする戦闘部族のようなもので、とても、日本人の集団とは言い難いのだ。同じ民族でありながら、奪い合い、殺し合った時代。果たされた野望や夢もあったろうが、同時代にどれほどの成功があり、その幸運が、衰運の失敗を覆ったかによって、戦国の評価は定まるだろう。そこに本作に秘められたメッセージがあるように思えてならない。
勝四郎と志乃との燃えるような若い恋愛は、この戦いそのものが、侍達の青春期と共にある事を示している。勝四郎は若く青いが、それは志乃を手に入れた事により、愛する人を守り切らねばならぬ負荷が掛かったという事だが、勝四郎には、久蔵を親しく惜しく思うように、成熟した男性としてではなく、あくまで、弟子分として先達の侍達に対して極めて謙虚かつ、誠実に接している事から、弱きを守る戦いではなく、強きを助ける犠牲的な戦いなのである。男女関係とは、凡人にとっては、人生を左右する問題であり、結婚の契りがゴールとなる事も多々ある。だが、勝四郎は、志乃と結ばれながら、決戦への決意を新たにしており、自分は死んでも青春に悔いなきものと見ている。彼の志は高く、若さゆえの向こう見ずな献身がある。それだけに、この戦争の重みが大きく、存亡を懸けた不可避な大戦という事でもあり、本物だという事だ。