2019年07月07日 11:30
機動戦士ΖガンダムIII A New Translation -星の鼓動は愛ー
三つの鼎となる、エウーゴ、ティターンズ、アクシズという軍団が対決する。ハマーン・カーンは、シャアとの浅からぬ関係があり、ザビ家のプリンセスを担ぎ上げて、帝政を支える摂政となっている。シャアこと、クワトロは、アクシズの連中は時間が止まっている、と評するが、シロッコ然り、その権力体制というのは、ニュータイプとして、独自のグループを作っているが、彼らこそが、軍団内で最も強力なエースなのである。だから、無知なプリンセスを担いだハマーンも、自身が支配者になろうとしているのではなく、現場指揮官であり、戦死のリスクさえあるのだから、その根底には古い体制に対する忠誠心があるのだ。
だから、善悪というのは、エウーゴにあるのは間違いは無いが、組織として、上司が優秀で、部下が誠実かつ忠良である事は、組織として一流かどうかの争点であり、その原理と方向性が、一流ゆえに正義と共にある、とは限らない。だから、そうした組織的にしっかりした盤石な体制を攻撃し、崩す事は、非常に難儀なのである。それは、ハマーン自身であったり、シロッコのハーレムのニュータイプの才能を秘めた女性達も、上司の為には、必死で身を挺して、犠牲になろうとするからである。奇しくも、その悲劇性とは、敵は非人であり、倒すだけの対象と考えるオールドタイプには理解し得ない人間の心や誇りであって、ニュータイプとは、そうした敵方の正義や犠牲を理解出来るのである。だが、戦争である以上は、戦わざるを得ない、と言う事で、体制に善が宿る以上、その中枢にある本物の悪党を見抜き、その核だけを倒す事であり、カミーユは、それを、ハマーンとシロッコに重ね合わせる。
ところが、その二人もニュータイプであり、人類の革新とか、進化といった理想を支え、体現する貴重な人材である。つまり、ニュータイプである事は、平和主義とか、非戦を意味しない。対する、カミーユ然り、ファーストガンダムのアムロ・レイ然り、敵方のニュータイプにぶつけられ、決戦の宿命を課せられるのは、やはり、同類たるニュータイプなのだが、彼らはいずれもまだ少年であり、人格や思想が固まっていない年頃であり、それゆえに、大人達に従順に従い、戦いに疑念をはさまないのかも知れない。また、これは、行き過ぎかと思うが、思想を固めたニュータイプというのが、ガンダムシリーズの敵役である事、赤い彗星時代のシャアも、ハマーンもシロッコも、成熟し、善悪観が傾いているがゆえに、新機軸の見えない地球の平和に対する、革命者にして、敵役となって来たのではないか。
そして、そんな悪の華に惹かれる人間も居るのであって、エウーゴのレコアは、捕虜となる事によってシロッコと出逢い、その魅力の虜となる。これは、確かに裏切りであるが、本物のサイコ、裏切り者というのは、宇宙を暴れ回り、背信を繰り返した上に、ただ己だけが尊い、と考えるエゴイストである。レコアは、シロッコの居るティターンズに、希望を見い出し、約束の地として、そこでなけなしの生命を全うする決意に至ったのであって、シロッコがその誠意に応えるか否かは別にして、大人の純愛に身を焦がした、殉教者である、という事が出来る。
対する、ハマーンは、愛を知らない。シャアとは、恋仲とまでは行かないまでも、愛を語り合った間柄にあり、それが成就しなかった事に対して、恨みを抱いている。機械のように、ザビ家の再興を目指すアクシズを、冷徹に率い、その国家の大義に殉じる構えを有しながら、人は、機械ではないから、心の問題を独力で克服する事は出来ない、のかも知れない。鉄の女でさえそうなのだから、純朴に愛を信じて、戦い続けるカミーユが、最終的な勝者になるには、愛を貫く他に無く、その世界観の狭さ、真新しさの無い、擦れている周囲に対して、若いなりに純粋さを保つ事なのだろう。苛酷な宇宙空間に、万能型のMSでの戦闘は地球の想像を超えているが、最終的にニュータイプ同士での異次元の戦いは、シロッコの乗る、烏帽子を被り、力士のように太ったフォルムのMSジオと、ゼータとの決戦に帰せられる。それは、MSと言うハードの決戦ではなく、個のニュータイプに託されたカリスマの強さによって、決せられるのである。
だから、善悪というのは、エウーゴにあるのは間違いは無いが、組織として、上司が優秀で、部下が誠実かつ忠良である事は、組織として一流かどうかの争点であり、その原理と方向性が、一流ゆえに正義と共にある、とは限らない。だから、そうした組織的にしっかりした盤石な体制を攻撃し、崩す事は、非常に難儀なのである。それは、ハマーン自身であったり、シロッコのハーレムのニュータイプの才能を秘めた女性達も、上司の為には、必死で身を挺して、犠牲になろうとするからである。奇しくも、その悲劇性とは、敵は非人であり、倒すだけの対象と考えるオールドタイプには理解し得ない人間の心や誇りであって、ニュータイプとは、そうした敵方の正義や犠牲を理解出来るのである。だが、戦争である以上は、戦わざるを得ない、と言う事で、体制に善が宿る以上、その中枢にある本物の悪党を見抜き、その核だけを倒す事であり、カミーユは、それを、ハマーンとシロッコに重ね合わせる。
ところが、その二人もニュータイプであり、人類の革新とか、進化といった理想を支え、体現する貴重な人材である。つまり、ニュータイプである事は、平和主義とか、非戦を意味しない。対する、カミーユ然り、ファーストガンダムのアムロ・レイ然り、敵方のニュータイプにぶつけられ、決戦の宿命を課せられるのは、やはり、同類たるニュータイプなのだが、彼らはいずれもまだ少年であり、人格や思想が固まっていない年頃であり、それゆえに、大人達に従順に従い、戦いに疑念をはさまないのかも知れない。また、これは、行き過ぎかと思うが、思想を固めたニュータイプというのが、ガンダムシリーズの敵役である事、赤い彗星時代のシャアも、ハマーンもシロッコも、成熟し、善悪観が傾いているがゆえに、新機軸の見えない地球の平和に対する、革命者にして、敵役となって来たのではないか。
そして、そんな悪の華に惹かれる人間も居るのであって、エウーゴのレコアは、捕虜となる事によってシロッコと出逢い、その魅力の虜となる。これは、確かに裏切りであるが、本物のサイコ、裏切り者というのは、宇宙を暴れ回り、背信を繰り返した上に、ただ己だけが尊い、と考えるエゴイストである。レコアは、シロッコの居るティターンズに、希望を見い出し、約束の地として、そこでなけなしの生命を全うする決意に至ったのであって、シロッコがその誠意に応えるか否かは別にして、大人の純愛に身を焦がした、殉教者である、という事が出来る。
対する、ハマーンは、愛を知らない。シャアとは、恋仲とまでは行かないまでも、愛を語り合った間柄にあり、それが成就しなかった事に対して、恨みを抱いている。機械のように、ザビ家の再興を目指すアクシズを、冷徹に率い、その国家の大義に殉じる構えを有しながら、人は、機械ではないから、心の問題を独力で克服する事は出来ない、のかも知れない。鉄の女でさえそうなのだから、純朴に愛を信じて、戦い続けるカミーユが、最終的な勝者になるには、愛を貫く他に無く、その世界観の狭さ、真新しさの無い、擦れている周囲に対して、若いなりに純粋さを保つ事なのだろう。苛酷な宇宙空間に、万能型のMSでの戦闘は地球の想像を超えているが、最終的にニュータイプ同士での異次元の戦いは、シロッコの乗る、烏帽子を被り、力士のように太ったフォルムのMSジオと、ゼータとの決戦に帰せられる。それは、MSと言うハードの決戦ではなく、個のニュータイプに託されたカリスマの強さによって、決せられるのである。