2020年06月05日 21:37
ジュリエットからの手紙
シェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」の名所から見つかった50年前の手紙。それを発見したのは、ソフィというライター志望の米国人女性であり、彼女はイタリアンシェフのビクターという婚約者と共に、イタリア旅行に来ていたのであった。ヴィクターは、いわば芸術家肌であり、天才と馬鹿の間という処で、ハネムーンの前日譚とも言えるイタリア旅行でも、料理の為のリサーチやトリュフやチーズなどの食材の工房への見学と探求に暇がなく、全くソフィの想いを汲み取らないエキセントリックな婚約者であった。そうした時に、オペラ劇の主人公である可憐なジュリエットの手紙を見つけたのであった。その宛先には、イギリス人女性クレアから、ロレンツォという男性への、50年越しの約束が書かれており、その返事をソフィは書き、イギリスへと送ったのであった。果たして、クレアから50年越しの返事は来るのであろうか。
手紙を見つけた事は、メディア畑に居るソフィにとっては、ビクターが食材を手にして歓喜するのに等しいか、それ以上の宝物である。それは、古びた手紙であるが、愛が色あせない事を確認するには、ソフィの返事に対して、クレアとその孫であるチャーリーがやって来るのを見届けねばならないのであった。それは、愛の証人にして、その蘇生を担ったのが、ソフィであるとしても、そのケミカルが成立するには、相手があっての事だから、クレアが愛には愛を持って応じねば、ストーリーは動かないのである。この意味で、クレアに宛てた手紙というのは、御用伺いというだけでなく、ソフィから50年後のクレアへの恋文であった、と言う事が出来よう。
だから、不審を抱かず、真直ぐな心でクレアが動いた理由とは、ソフィの手紙の素晴らしさにあるのではないか。瑞々しい文章や洒脱に溢れた誠の手紙であり、それが生まれ得たのも、ソフィが愛を知っているからに他なら無い。瞬発的に、自然な反応を見せたクレアは、今、尚、愛を知っているという事になる。つまり、クレアの愛に満ちた長き人生が証明されたという事である。
そんなクレアに付いて来た孫のチャーリーは愛を知らない。苦労人であり、幼くして父母を失っているから、祖母であるクレアの女手一つで育てられた同年代の男性であった。だから、彼は、現実を観て、50年越しの愛というドラマティックな出来事を信じず、愛は終わるものだと諦観している。ソフィには、情熱的で芸術家肌のビクターとは正反対の、クールな実務家肌という処であろう。だが、女性は女性であるのと同じほどに、男性も男性であり、魅力的な女性であるソフィに惹かれて行く事になる。
愛を知る人と、知らない人との争いとは、社会的なテーマでもある。だが、これは、そうした争いというレベルでは無く、家族間での愛情のもつれであり、そうした擦れ違いをすら後光の差す太陽のように、穏やかに肯定的に見守れるクレアにとっては、孫とその恋人になるやも知れぬソフィとの絆が強まって居く様は、祖母として微笑ましいと思う。だから、これは、クレアの50年越しのロレンツォを探す旅でありながら、それにドライバーとして随行するチャーリーに、クレアという、若いカップルの予期せぬ愛が芽生え、強く結びついて行く「始まりの物語」なのである。
対する、クレアがロレンツォを探す旅路というのは、50年経っており、互いに老齢者に為って居る事から、まだ、20代、30代の若かりし頃の、燃えるような鮮烈な愛には及ばない事が、観客としては予想出来る事から、意識内としては「終わりの物語」だと思われる。処が、そんな老齢者に対するイメージを払拭して、老いたるも心の情熱によって、常識と戦うという、愛ゆえに強者と為れる恋人たちの構図がある。
つまり、これは、高貴な淑女たるクレアにとっては、愛を取り戻す千載一遇のチャンスであり、そのドラマの筋立てには、運命のジュリエットという、理想なるも悲運の愛に生きたストーリーの登場人物に自らがただ列するのでは無く、その理想のアイコンを超え得るドラマを、現実化して行くという意味では、手紙によって、ソフィが描いた愛情から、クレアの現実に生きる強靭な意志とが繋がり、それはさながら、理想と現実とのハネムーンのようですらある。ロードムービーの色は濃く無いが、ロレンツォ・バルトリーニという名の男性はイタリアのとある地域にも山と居て、その一人一人を探して行き、出逢って行く事になる。そして、個々にそれぞれの語らう人生があり、その輝きは絨毯に珠玉を散りばめたようである。不実の婚約者ビクターは、ソフィが行きたがった伊ガルダ湖などは、50万年前からあるから、これから行かなくとも消えるものでは無い、と論駁したが、そうならば、50年経った愛はどうであるか、という愛への問いは永遠に消える事は無いのである。
つまり、50年越しの愛というのは、さながら、人生を踏みしめるカップルが、それぞれの異なる旅路を歩みながらも、その足下の地の中に埋まり、生命とドラマの重みによって、磨き上げられたダイアモンドのようなものであり、人間の愛し合う純愛的価値なるものが、常に変化して、物質の万物よりも早く流転して行く事を思えば、その灼熱の如く熱く、風の如く軽やかな人間にとって、永遠の愛、というのは、流行の恋愛歌やオペラの中では具現される事はあっても、それを目の当たりにして、その目映い玉光を身体に浴びる事の出来るのは、ほとんど無いと言える。その、甘く切なく、強靭な永遠の愛が、ソフィの眼前で演じられるのである。
この旅路によって、ソフィは老いたるも至高の絆で互いを愛し合うカップルの運命に深く関わり、その大恩人に為ったという事だから、若く、欲望や揺らぎのある彼女に対して、賢者の愛と人生観に対する何らかの好ましい変化をもたらした、とは言えるだろう。
手紙を見つけた事は、メディア畑に居るソフィにとっては、ビクターが食材を手にして歓喜するのに等しいか、それ以上の宝物である。それは、古びた手紙であるが、愛が色あせない事を確認するには、ソフィの返事に対して、クレアとその孫であるチャーリーがやって来るのを見届けねばならないのであった。それは、愛の証人にして、その蘇生を担ったのが、ソフィであるとしても、そのケミカルが成立するには、相手があっての事だから、クレアが愛には愛を持って応じねば、ストーリーは動かないのである。この意味で、クレアに宛てた手紙というのは、御用伺いというだけでなく、ソフィから50年後のクレアへの恋文であった、と言う事が出来よう。
だから、不審を抱かず、真直ぐな心でクレアが動いた理由とは、ソフィの手紙の素晴らしさにあるのではないか。瑞々しい文章や洒脱に溢れた誠の手紙であり、それが生まれ得たのも、ソフィが愛を知っているからに他なら無い。瞬発的に、自然な反応を見せたクレアは、今、尚、愛を知っているという事になる。つまり、クレアの愛に満ちた長き人生が証明されたという事である。
そんなクレアに付いて来た孫のチャーリーは愛を知らない。苦労人であり、幼くして父母を失っているから、祖母であるクレアの女手一つで育てられた同年代の男性であった。だから、彼は、現実を観て、50年越しの愛というドラマティックな出来事を信じず、愛は終わるものだと諦観している。ソフィには、情熱的で芸術家肌のビクターとは正反対の、クールな実務家肌という処であろう。だが、女性は女性であるのと同じほどに、男性も男性であり、魅力的な女性であるソフィに惹かれて行く事になる。
愛を知る人と、知らない人との争いとは、社会的なテーマでもある。だが、これは、そうした争いというレベルでは無く、家族間での愛情のもつれであり、そうした擦れ違いをすら後光の差す太陽のように、穏やかに肯定的に見守れるクレアにとっては、孫とその恋人になるやも知れぬソフィとの絆が強まって居く様は、祖母として微笑ましいと思う。だから、これは、クレアの50年越しのロレンツォを探す旅でありながら、それにドライバーとして随行するチャーリーに、クレアという、若いカップルの予期せぬ愛が芽生え、強く結びついて行く「始まりの物語」なのである。
対する、クレアがロレンツォを探す旅路というのは、50年経っており、互いに老齢者に為って居る事から、まだ、20代、30代の若かりし頃の、燃えるような鮮烈な愛には及ばない事が、観客としては予想出来る事から、意識内としては「終わりの物語」だと思われる。処が、そんな老齢者に対するイメージを払拭して、老いたるも心の情熱によって、常識と戦うという、愛ゆえに強者と為れる恋人たちの構図がある。
つまり、これは、高貴な淑女たるクレアにとっては、愛を取り戻す千載一遇のチャンスであり、そのドラマの筋立てには、運命のジュリエットという、理想なるも悲運の愛に生きたストーリーの登場人物に自らがただ列するのでは無く、その理想のアイコンを超え得るドラマを、現実化して行くという意味では、手紙によって、ソフィが描いた愛情から、クレアの現実に生きる強靭な意志とが繋がり、それはさながら、理想と現実とのハネムーンのようですらある。ロードムービーの色は濃く無いが、ロレンツォ・バルトリーニという名の男性はイタリアのとある地域にも山と居て、その一人一人を探して行き、出逢って行く事になる。そして、個々にそれぞれの語らう人生があり、その輝きは絨毯に珠玉を散りばめたようである。不実の婚約者ビクターは、ソフィが行きたがった伊ガルダ湖などは、50万年前からあるから、これから行かなくとも消えるものでは無い、と論駁したが、そうならば、50年経った愛はどうであるか、という愛への問いは永遠に消える事は無いのである。
つまり、50年越しの愛というのは、さながら、人生を踏みしめるカップルが、それぞれの異なる旅路を歩みながらも、その足下の地の中に埋まり、生命とドラマの重みによって、磨き上げられたダイアモンドのようなものであり、人間の愛し合う純愛的価値なるものが、常に変化して、物質の万物よりも早く流転して行く事を思えば、その灼熱の如く熱く、風の如く軽やかな人間にとって、永遠の愛、というのは、流行の恋愛歌やオペラの中では具現される事はあっても、それを目の当たりにして、その目映い玉光を身体に浴びる事の出来るのは、ほとんど無いと言える。その、甘く切なく、強靭な永遠の愛が、ソフィの眼前で演じられるのである。
この旅路によって、ソフィは老いたるも至高の絆で互いを愛し合うカップルの運命に深く関わり、その大恩人に為ったという事だから、若く、欲望や揺らぎのある彼女に対して、賢者の愛と人生観に対する何らかの好ましい変化をもたらした、とは言えるだろう。