2018年01月13日 15:53
その男、凶暴につき
争うがゆえに、英雄たちは止まらない。
ウォーターフロントの倉庫裏、闇の中に浮かび上がる浮浪者の影。それを取り囲む数人の少年たち。少年たちが浮浪者を痛めつける現場を見つめる一人の男……。
その男、我妻諒介、39歳。職業、刑事。男は、主犯格の少年宅に押し入り、殴る蹴るの暴行を働いたのち、少年を無理矢理自首させる。 すべてにおいてそんな調子の我妻は署内でも異端視されている。ある日、一隻の釣り船で惨殺死体が発見された。男は麻薬売人の柄本。 捜査を進めるうち、我妻は青年実業家・仁藤と我妻の親友であり、防犯課係長でもある岩城にたどりつく。岩城は押収したヤクを横流ししていたのだ。 そして岩城は、口封じのため、自殺に見せかけられあっけなく死んでしまう。
友人岩城の死を事もなげに揉み消そうとする警察、そして麻薬犯罪組織の首領・仁藤とその傘下にある殺人鬼・清弘への狂気に対して、我妻は自らの凶暴さで戦う以外なかった……。(アマゾン)
暴力という悪を、自己表現の世界で描いた作品。剛腕刑事・我妻を止める事は誰にも出来ない。それは、街を牛耳る巨悪・仁藤の台頭によって、その暴力への依存は、加速度的に進んでいく。暴力とは、個人の自由であり、その意志は尊重されねばらないが、常識的には、暴力や自由というものは、どこかで妥協点を探し、各人が社会を運営していく上で、譲歩し合っているものだ。だが、それが、全くない、危険な野獣のような男たちが居たらどうか。確かに、彼らは止まらず、その畏怖がゆえに、周囲は委縮して、彼に道を譲るかも知れない。だが、そうした、暴力に心酔し合った男たち同士が、どこかで遭遇し、挑発し、戦い合ったなら、どんな悲劇が生まれるであろうか、というストーリー。
個人にとって、社会とは余りに巨大であり、その輪郭は、その中で生活していても、観えて来ない事が多い。だから、社会の輪郭を決めるものは、個人の動きであり、その中心点に居る事によって、社会を牽引していく傑出した個人、指導者の役割である。我妻は英雄であり、そうした、事件の中心に居るべき人ではある。また、殺し屋の清弘もまた、そうした、闇の英雄である、という事が出来る。この作品は、その二大巨頭の対決にある、と言って良い。だが、広大無辺な社会において、清弘の名は忘れ去られ、彼が死の嗅覚によって、事件を起こす事によって、再び、社会は凝縮し、事件の中心としての危険な男たちを焙り出して行く。英雄が居るから、社会は一定の方向に牽引され、ストーリーを作って行くのではなく、「英雄が事を起こす事によって、事件が起こり、それに立ち向かう事によって、誰が英雄であるか、が明らかになる」、という事である。
英雄になるべき男たちは、どんな場所にも居る。ただ、平和で安定した社会において、それが事を起こしたり、または、巻き込まれ、自身の才覚で乗り切り、力を見せる必要に迫られない事が、英雄を埋没させる停滞した、あるいは、安定した社会の条件だという事である。社会とは、余りに広大であり、その縮図として、しばしば、各人が役職や仕事に就き、一生を懸ける場所として、組織や会社といった、より小さな社会が描かれる。それは、組織において、権限と義務を使い分けるが、個人を抑制する者が義務であり、しばしば組織において優位となるのは、権限よりも義務への責任である事が多い。だから、我妻や清弘の暴力性を抑えているものは、組織であり、社会に属している、という連帯意識と義務責任感による。
つまり、余りに強大過ぎる自我を抱えている我妻と清弘というのは、組織において、飼い殺しにされているという事であり、凡人が、組織や会社から離れ、職務を失う事によって、生きる目的を失う事とは全く違うのが、この二人の英雄たちなのである。彼らは、むしろ、組織や会社のしがらみから解放される事によって、その暴力性を爆発させ、死闘を展開するのである。刑事でありながら、清弘のような危険な殺し屋や、仁藤のようなマフィアのドンを前にして怯まない我妻の個性は、際立ったものがあるが、丸暴の刑事というのは、事件を捜査し、やくざと対峙する事によって、自身もまた、豪傑となって行く。つまり、闇社会の一辺の覇者でもあるやくざとは、警察は、監視しながら、交渉を続け、その暴力性を社会の中で抑えて行かねばならない。表の社会が力を付ける事によって、必然的に、闇の力は抑えられ、全体の安定は保たれるのである。
だから、我妻がやくざ的である事は、丸暴の中では、何ら異端ではなく、それだけで、我妻が警察組織の中で、浮いた根拠ではない、という事だ。我妻の最大の問題は、暴力の応酬があれば、決して止まらず、自身がゲームの勝者であり続けたい、という欲望を持っている事である。そして、頼りない後輩刑事である青二才の菊池は、そうした、我妻と清弘との死闘を側で見知り、それから多大な影響を受けた事によって、自身の悪徳を開花させることになる。清弘が起こしたのは、刑事やその家族が巻き込まれ、街のフィクサーも関与するという大事件であり、その中で変わらない事は、冷徹に過ぎるもので、人生の達観というものが、成功のチャンスへの諦めや、老成の原因ではないか。署長の吉成も同僚たちも変わらなかった。だが、それは、「警察が停滞した官僚機構である事の裏返し」であり、大事件があれば、それから何らかの教訓が無ければ、個人が変わり、社会も変わる、という事は無い。それで良いのだろうか。
これは、秩序を破壊し、街をカオスに陥しかねない大事件の作品であり、個人と社会の在り方にメスを入れる問題提起が観られる。同時に英雄が戦い合う事によって、甚大な被害をもたらし、社会は混乱するという救いの無いストーリーでもある。英雄は安定した社会においては、地域秩序の担い手となるべきであり、戦争による対決は避けられ、それによって、社会は安寧の元にあるのだ。