2021年06月26日 11:15
ファインディング・ドリー
健忘症で、すぐに忘れてしまう。ナンヨウハギの雌ドリーは、海の中、激流に呑み込まれ、友人マーリンに激流には近付くな、と諭される。その経験から、昔、幼少期にも似たような事があったと思い出す。それは、両親と過ごした日々の記憶であり、色とりどり、鮮やかな光の差す豊かな海での愛に溢れた幸せな時であった。ドリーは離れて暮らす両親との再会を夢に、友人マーリン、ニモ父子と共に広大な海の旅に出るのであった。
陸地の細切れにされた、領土や権力のある、有限にして、壁の多い、文明社会、人が作りし人工物に対して、海の広さは無限に近い。海の中には太陽の光、反射するサンゴ礁、揺蕩う海水に包み込まれ、魚達は常に漂い、翔んでいるが如くだ。
ドリーがかつて両親と住んでいた貝殻の家は、あたかもローテク振りを観せるものの、いわば、自然社会であり、魚君達がロハスを実践している、とは如何にも奇妙だが、ドリーの家族関係の濃密さや、仲睦まじく暮らしていた過去を証明するものは、ドリーという今を生きる個でしか無い。
つまり、友人マーリン父子の旅先での協力や、感情的な絆こそが、ドリーの優れた性格を証明するもので、この渡世にドリームキラーは無く、様々な海洋の魚達が生きている。海洋は太陽光が当たる限り明るく豊かであり、太陽は個として一つ限りの星なるも、無数の生命を活かしているから、人間らしさが太陽の運行に従い、一日が始まる。恵みとして、エネルギーが海面にも等しく降り注ぎ、生命の価値の基であるのと同時に、ドリー一行には、動く事、自らを鍛える事が、太陽の恩恵に対する、生きる証にして、抵抗でもあるように思える。
ともあれ、この海は古戦場のように、とても広大であるから、生態系における捕食されるリスクもあり、ダイオウイカのようなモンスターが、ドリーらを追い、ヤドカリや貝らの暗い海の住民が怯えて暮らしているのも、海の真実の一面ではある。
ドリーが、誰かを頼る性格が出ている悪い部分は、自我を薄め誰かの為に生きて、自分をおざなりにして尽くしてしまう事だが、良い部分は、依存が愛に発展すれば、共に必要としながら生きて行ける事で、ハンディのあるドリーを愛と自由の日々、旅に急かしたのも、両親を頼る性格ゆえなのだ。また、捕食されるリスクのある両親は生きている保証は無いから、この旅路とは、ドリーの他者依存の表れながら、博打のようで勇敢かつ、愛に溢れた尽くせぬ泉のような行動だと言えよう。
また、マーリン父子からは、アドヴァイスも受けながら、様々な出逢いがあり、精悍なエイであったり、海の生活にはフィジカルや、泳いで行く意志と体力が要される。しかし、ノロマな亀でさえ、海流に乗れば遠くの海にまで到達出来るのであって、この流れに乗って楽をする行為とは、アオハルのドリーらが、周囲の環境に適応、多数の流れに乗って生きることの正しさ、摂理を語らうかのようなのだ。
ドリーらは途中下車したが、つまり、海流とは社会的な流れに沿う事であり、エスカレーターに乗るかの如く、知恵はある渡世ではある。だが、同時に、ハンディを抱えているし、みなしごだし、旅人でもあるドリーらが本当に必要にして居るのは自由であり、海流の法則に従いながら、途中下車したのは、自由な自我ゆえに、頭の固い世界観へのささやかな抵抗ゆえかも知れない。何より重要なのは、両親の居場所にたどり着く事で哲学は二の次だとしても。。
オーストラリア、グレートバリアリーフからアメリカへの長大な旅路となり、まだ、その冒険は終わらない。海洋生物研究所では、赤いミズダコのハンクと出逢い、サメのデスティニーなど、協力者を得るが、いわば、お洒落で大型の水族館テーマパークであり、その地下面を探るドリーや、獅子奮迅の活躍、ハンクの存在感が抜きん出て居るのである。
水族館には、各魚達により、水槽があり隔離されて居るから、そのガラスに隔てられた壁が、キャラクターの思想や人間関係によっては、プリズンのように感じられるかも知れない。
だから、ドリーの自由と旅路のメッセージとは、彼らガラスの壁があり、当り前のように人生の折角の時間を消耗する痛みを、ハンクやデスティニーら、眠れるサメやミズダコという潜在力、生命の価値に旅路、動いて、鍛えて生きる大事を目覚めさせたのかも知れない。安定と自由、どちらも素晴らしいとしても。。