2018年03月04日 19:02
シェイプ・オブ・ウォーター
それは、あり得ない愛だった。
1962年、アメリカ。口の利けない孤独な女性イライザは、政府の極秘研究所で掃除婦として働いていた。ある日彼女は、研究所の水槽に閉じ込められていた不思議な生きものと出会う。アマゾンの奥地で原住民に神と崇められていたという“彼”に心奪われ、人目を忍んで“彼”のもとへと通うようになる。やがて、ふたりが秘かに愛を育んでいく中、研究を主導する冷血で高圧的なエリート軍人ストリックランドは、ついに“彼”の生体解剖を実行に移そうとするのだったが…。(allcinema)
孤独ゆえに、惹かれ合う二人。イライザは、恋愛に積極的であり、それゆえに、研究所で出会った不思議な生きものに愛を抱いた。道徳的には、人外の生きものとの恋愛は、禁忌ではあるが、愛は盲目というように、何が起こるかは、誰にも分からない。生きものが恋愛対象になる、というのは、既存の恋愛のロマンチシズムに対する挑戦でもある。誰もが王子や貴族との熱烈な恋愛を望んでいるわけではなく、そこには様々な愛の形があっても良い、と思っている。人間が支配・運営する研究所は、生きものにとっては牢獄に等しく、ストリックランドは看守である。イライザは、掃除係という、端役である事から、先入観なく生きものに近づけたのである。
または、生命に対する純粋な優しさであり、半魚人の生きものを、同じ人間として観れる事は、得難い感情である。それを穢れた存在として見下した事が、ストリックランドに生きものが懐かなかった理由である。奇形であったり、生きものの異質性というものは、人間の価値を反面で問いかけるものだ。イライザが手を差し伸べねば生体解剖されて、死んでいくであろう命がある。それを守るという使命感は、個人的な愛を軸として、物語を旋回させる。対する、ストリックランドにあるものは、崇高な大義でも倫理感でもなく、ただ、自身の出世の為に、「失敗しない事」であり、禁欲的な風貌の翳にある真の姿は、ただの欲深いエゴイストなのだ。
ホフステトラー博士然り、奇形の生きものを美しい、と言える事は、人間を見ためではなく、性格や才能といった中身で観る事が出来るからである。肉体は屈強であり、ごつごつした硬質の殻に覆われている生きものの中身は、一人の優しい青年であり、生体解剖によって殺す、という選択肢は、イライザの中にはない。それは、奇形とはいえ生きものが、愛された分だけ貴重な価値は高まる。究極の愛の形であろう。生きものは研究所に輸送されて来た当初、事故を起こし、危険とみなされていた。そうした、人を害し、殺されるかも知れないリスクを、敢えて侵せるという事は、愛が深い証拠ではないか。
遠き、アマゾネスか、アマゾンの原住民かは知らないが、生きものは土人から尊敬され、自然の神と見なされていた。だが、その特殊な能力が発揮される事は、生きものが愛する人、それに足る人とイライザを見なした時によってのみ、起こる事である。現実社会とは違う、どこかの異世界で神と見なされていたものが、実験によって死の危機にさらされる。それは、後進的な世界を見下し、それらに住まう人々の総意を、禽獣のものとして見なして、無視する事にあり、それは悪であろう。博士は良識のあるインテリであったが、ストリックランドには、知性のかけらもない。むしろ、軍人としての知識やプライドが、人間としての性根を歪ませているのである。
公共の人である事は、大義や倫理とは何の関係もない。そして、軍人であったり、博士であったり、掃除係であったり、大人の就いている職業や地位といったものによって、人の価値が決まるものではない。むしろ、世界の物語の主人公達よりも、その主流を傍観するゼルダのような、掃除係という端役で、名もなき大人が、社会に対する良心を持ち、それに従って、向こう見ずになっているイライザを制止したり、あるいは、行動を共にできる事、それは、友情の為というよりは、個人の責任に従って行動を選択したからに他ならない。「その時」になって初めて、人間の真価は問われる。
地球の生態系は広く、どこまでの深部に迫り、人間だけがその頂点にある、というのは、傲慢かも知れない。そこには、眠っていた太古のロマンと共に、時代を映すような、本物の愛や、至高の生命があると考えられる事は希望である。また、この物語には、異彩となる隠喩が隠されている。ストリックランドは、どこまでもイライザに追いすがり、体を求める。即物的であり、「権力者の夢」は薄汚い。物語には、三角関係があり、そのバランスを取っているのが、現実世界の情理であったり、感情というもので、それが破壊される事が、物語を流転させた、変事を起こした原因なのである。平和は危ういバランスの中で生きている。
1962年、アメリカ。口の利けない孤独な女性イライザは、政府の極秘研究所で掃除婦として働いていた。ある日彼女は、研究所の水槽に閉じ込められていた不思議な生きものと出会う。アマゾンの奥地で原住民に神と崇められていたという“彼”に心奪われ、人目を忍んで“彼”のもとへと通うようになる。やがて、ふたりが秘かに愛を育んでいく中、研究を主導する冷血で高圧的なエリート軍人ストリックランドは、ついに“彼”の生体解剖を実行に移そうとするのだったが…。(allcinema)
孤独ゆえに、惹かれ合う二人。イライザは、恋愛に積極的であり、それゆえに、研究所で出会った不思議な生きものに愛を抱いた。道徳的には、人外の生きものとの恋愛は、禁忌ではあるが、愛は盲目というように、何が起こるかは、誰にも分からない。生きものが恋愛対象になる、というのは、既存の恋愛のロマンチシズムに対する挑戦でもある。誰もが王子や貴族との熱烈な恋愛を望んでいるわけではなく、そこには様々な愛の形があっても良い、と思っている。人間が支配・運営する研究所は、生きものにとっては牢獄に等しく、ストリックランドは看守である。イライザは、掃除係という、端役である事から、先入観なく生きものに近づけたのである。
または、生命に対する純粋な優しさであり、半魚人の生きものを、同じ人間として観れる事は、得難い感情である。それを穢れた存在として見下した事が、ストリックランドに生きものが懐かなかった理由である。奇形であったり、生きものの異質性というものは、人間の価値を反面で問いかけるものだ。イライザが手を差し伸べねば生体解剖されて、死んでいくであろう命がある。それを守るという使命感は、個人的な愛を軸として、物語を旋回させる。対する、ストリックランドにあるものは、崇高な大義でも倫理感でもなく、ただ、自身の出世の為に、「失敗しない事」であり、禁欲的な風貌の翳にある真の姿は、ただの欲深いエゴイストなのだ。
ホフステトラー博士然り、奇形の生きものを美しい、と言える事は、人間を見ためではなく、性格や才能といった中身で観る事が出来るからである。肉体は屈強であり、ごつごつした硬質の殻に覆われている生きものの中身は、一人の優しい青年であり、生体解剖によって殺す、という選択肢は、イライザの中にはない。それは、奇形とはいえ生きものが、愛された分だけ貴重な価値は高まる。究極の愛の形であろう。生きものは研究所に輸送されて来た当初、事故を起こし、危険とみなされていた。そうした、人を害し、殺されるかも知れないリスクを、敢えて侵せるという事は、愛が深い証拠ではないか。
遠き、アマゾネスか、アマゾンの原住民かは知らないが、生きものは土人から尊敬され、自然の神と見なされていた。だが、その特殊な能力が発揮される事は、生きものが愛する人、それに足る人とイライザを見なした時によってのみ、起こる事である。現実社会とは違う、どこかの異世界で神と見なされていたものが、実験によって死の危機にさらされる。それは、後進的な世界を見下し、それらに住まう人々の総意を、禽獣のものとして見なして、無視する事にあり、それは悪であろう。博士は良識のあるインテリであったが、ストリックランドには、知性のかけらもない。むしろ、軍人としての知識やプライドが、人間としての性根を歪ませているのである。
公共の人である事は、大義や倫理とは何の関係もない。そして、軍人であったり、博士であったり、掃除係であったり、大人の就いている職業や地位といったものによって、人の価値が決まるものではない。むしろ、世界の物語の主人公達よりも、その主流を傍観するゼルダのような、掃除係という端役で、名もなき大人が、社会に対する良心を持ち、それに従って、向こう見ずになっているイライザを制止したり、あるいは、行動を共にできる事、それは、友情の為というよりは、個人の責任に従って行動を選択したからに他ならない。「その時」になって初めて、人間の真価は問われる。
地球の生態系は広く、どこまでの深部に迫り、人間だけがその頂点にある、というのは、傲慢かも知れない。そこには、眠っていた太古のロマンと共に、時代を映すような、本物の愛や、至高の生命があると考えられる事は希望である。また、この物語には、異彩となる隠喩が隠されている。ストリックランドは、どこまでもイライザに追いすがり、体を求める。即物的であり、「権力者の夢」は薄汚い。物語には、三角関係があり、そのバランスを取っているのが、現実世界の情理であったり、感情というもので、それが破壊される事が、物語を流転させた、変事を起こした原因なのである。平和は危ういバランスの中で生きている。
コメント一覧
1. Posted by maki 2018年06月27日 19:09
コメントありがとうございました。
イライザの存在といい半魚人の設定といい、
監督は「普通とは違う」…それは障害を持っていたり、そもそも人間ではなかったり、ゲイだったり…といったものを、普通のように描いていると思いました。
性欲、性交、愛
不変で普遍なるもの、その前には人種だったり障害だったりなどの差別は、霞んでしまう、とのことなのでしょう。
ある意味で当たり前のことを描いているのかもしれない。
単なる孤独と孤独の共鳴以上のものがあると考えます。
それはイライザがいうところの「ありのままの自分を見てくれる」ところでしょうし、人外からすれば、この人間は攻撃をしてこない→この人間は「良い」という感情だけなのかもしれないけれど、
しかしそれを払拭したのは終盤の手話「一緒」のシーンでしたね。
あそこで、それまでイライザが主体で動いていたように感じられたことが、彼に通じていて、心を交わしていた事がわかるシーンでした。
人はそれを愛と呼ぶのでしょう。
彼はどう捉えていたのか、謎ではありますが。
イライザの存在といい半魚人の設定といい、
監督は「普通とは違う」…それは障害を持っていたり、そもそも人間ではなかったり、ゲイだったり…といったものを、普通のように描いていると思いました。
性欲、性交、愛
不変で普遍なるもの、その前には人種だったり障害だったりなどの差別は、霞んでしまう、とのことなのでしょう。
ある意味で当たり前のことを描いているのかもしれない。
単なる孤独と孤独の共鳴以上のものがあると考えます。
それはイライザがいうところの「ありのままの自分を見てくれる」ところでしょうし、人外からすれば、この人間は攻撃をしてこない→この人間は「良い」という感情だけなのかもしれないけれど、
しかしそれを払拭したのは終盤の手話「一緒」のシーンでしたね。
あそこで、それまでイライザが主体で動いていたように感じられたことが、彼に通じていて、心を交わしていた事がわかるシーンでした。
人はそれを愛と呼ぶのでしょう。
彼はどう捉えていたのか、謎ではありますが。
2. Posted by 隆 2018年06月27日 19:49
こんばんは。
人間の側の視点だけに立つ事では、分からない愛の物語だと思います。クリーチャーからすれば、人間こそが異形であり、恐ろしいものでしょう。ですが、科学解剖をしようとするストリックランド達のような人間だけなく、イライザが居た事は、互いに取っての幸運でしょうね。
名作ゆえに普遍的なものが感じられたという事でしょうかね。むしろ、個別的な愛であり、極めて限定的な条件の恋愛だと思います。クリーチャーだから、惚れたのではなく、イライザが人を観る目があるのは、クリーチャーが素晴らしい個性を持っていた事から証されるもので、異形の愛ゆえに、それだけ内面に重心が向いた、理想的な恋愛だったのではないでしょうか。
人間の側の視点だけに立つ事では、分からない愛の物語だと思います。クリーチャーからすれば、人間こそが異形であり、恐ろしいものでしょう。ですが、科学解剖をしようとするストリックランド達のような人間だけなく、イライザが居た事は、互いに取っての幸運でしょうね。
名作ゆえに普遍的なものが感じられたという事でしょうかね。むしろ、個別的な愛であり、極めて限定的な条件の恋愛だと思います。クリーチャーだから、惚れたのではなく、イライザが人を観る目があるのは、クリーチャーが素晴らしい個性を持っていた事から証されるもので、異形の愛ゆえに、それだけ内面に重心が向いた、理想的な恋愛だったのではないでしょうか。