ハンニバル・ライジング

レクターが、猟奇殺人犯になった原因となった戦争と、飢餓、家族との別離という、異常を重ねた幼少期の真実を描く。戦争とは、普通の人でも、悪事に手を染めるもので、敵を多く殺した人が、英雄となる。また、生きる為には、殺さねば自分がやられるだけであり、精神の貧困を招く。ハンニバル・レクターは、残虐なナチより受けたトラウマから、食人という快楽殺人の悪癖を身に付けた。それは、家族を戦禍によって殺され、その妹はもっと残虐な方法でナチに殺害されたのである。その報復から、終戦によって今は平和に暮らしている妹の仇として、ナチを標的にするのである。

本来、報復としての仇討ちというのは、その殺害の犯人を殺せば、克服されるものである。だが、レクターは更なる犯罪へと手を伸ばして、その際限なき嗜虐心を止める事は、義理の叔母であり愛する日系人女性レディ・ムラサキであっても、為し得ないものなのだ。本来、周囲の善人が止め得ない悪人とは、悪いもの引力に惹かれるものだ。それは、戦争に愚かな憧憬を抱く若者が、ナチズムに心酔し、乱世の再来を望むように、悪徳とは、父性たるもっと大きな悪徳によって、惹かれ、また育てられるのである。だが、レクターの仇とはナチであるから、悪を狩る側にあり、必ずしも、彼が出鱈目な悪徳に染まって行くわけでは無い。つまり、規範無き殺戮という、レクターだけが開拓し得る思想であり、そこに、宗教性は無い、と言う事だ。

それによって、レクターとは、善悪定かならぬ灰色世界の住人になるのであって、その未知数にこそ、ムラサキは、レクターの更生に望みを見たのであって、レクターは、妹の仇という彼なりの正義、そして、ムラサキへの愛を糧にして生きているものであり、この殺人鬼の青春期の出来事というのは、非常に複雑であり、被害者としてのレクターは触れれば壊れそうなほどに、繊細なのである。もともと、リトアニアの貴族の子息であり、恵まれた境遇からの急激な転落は、戦争の禍ゆえであり、排他的なナチのSSという若き老害が関わっている事は明確な事である。

日系人のムラサキは、武士道をレクターに教えるが、彼が惹き付けられたのは、その粗暴な一面であるクビキリであり、日本刀にて人を鮮やかに殺傷する、残酷な一面であったが、武士道はレクターにとっての思想の中核となるものでは無い。あらゆる、知識というのは、レクターが貪欲に吸収するもので、食人の欲深い気質を映すものでしかない。つまり、武士道をレクターは踏み台にしたに過ぎず、レクターが最後にたどり着いたのは、弱肉強食による食物連鎖の頂点に犯罪者が立つ歪な世界観であり、彼にとっては知識も捕食の対象であり、禽獣のような本能がある。

レクターは、殺戮のプロとして成長を重ねるが、カリスマとして崇められたのは、その義賊的な一面にも根拠があるだろう。むしろ、ナチズムへの憎悪を連鎖させて、次々と殺して行く行動と、報復の達成による満足感というのは、彼を殺人鬼に堕落させた危険な個人主義であり、まだ、組織的なネオナチや、右翼に走る若者の方が、まだましと言える、のではないか。だから、レクターがどんなに知的で、理論の力を振るって、市民権を得ていても、それは、全く評価されるものではない。人によっては、インテリジェンスもウィルスのような悪質な因子になり得るのである。彼がどんな新世界を描いていたか、という期待感というのは、模倣犯や心酔する人々が抱いた幻想であり、ネオナチからも貴族的な騎士道からも逸脱した、トリックスターという事が出来よう。

2046

愛は異邦を超え、恋人達をひとつにする。

1967年の香港。新聞記者から物書きへ転向したチャウは、これまで何人もの女たちと刹那的な情愛を繰り返していた。ある日、彼はとあるホテルの2046号室に泊まることに。そして、宿泊先のオーナーの娘ジンウェンが日本人青年との叶わぬ恋に苦しんでいると知ったことがきっかけで、『2046』という近未来小説を書き始める。それは2046年が舞台。主人公の男は美しいアンドロイドたちが客室乗務員を務める謎の列車に乗り、そこへ辿り着けば“失われた愛”を取り戻せるという＜2046＞へ向かった――。そんな内容をしたためるうち、いつしかチャウは主人公に、心の底から愛した女性と結ばれなかった過去が甦ってくる自分自身を投影していた…。（allcinema）

恋人達は欲望の翼広げ、思い思いの恋を愉しみ、生きているが、その中にもキラリと光る本物の恋愛があり、それを、作家が小説に描く事によって、愛は記憶に残って行く。誰のもの、誰が為とも分からない恋であっても、それが魅力的であれば、文学のテーマとなり得る。恋多き作家の華やかな遍歴が垣間見える。

雑多な近代都市での暮らしと、欲望濃き恋人達の交わりは、中世的な禁欲を嘲笑い、世俗的な物質主義を謳歌するものである。物質主義とは、人間の特別さ、信仰による生命や運命の美徳を損なうが、あらゆる呪縛や道徳から人間を解放するものだ。コンクリートジャングルには、多彩な動物が居り。小動物から、ライオンのような猛獣まで居る。人は世界の支配者ではあるが、文明外の厳しい自然の中では、生き延びる事は難しく、個ではハイエナにすら勝てない身体能力であろう。人は連携し武装し、共生する事によって、その強みを発揮するのだ。これは、恋愛も同じであり、相手と寄り添う事によって、1の力が、3にも4にもなるのだ。

日本人タクも、作家のチャウも、恋愛を生き甲斐として、その幸せを享受する生きものの一人なのだ。野生は、恋愛において、形式論や理想を覆す蛮勇となり得、互いに肉体を求めるように、長きに渡る恋とは、野生を発揮して、貪り合っても、互いに満足して生きて行ける恋人達であるか、否かによろう。小説「2046」を執筆するチャウは、そのストーリーの華やかさに引けを取らない派手なプレイボーイであり、大都市の歓楽街の性の放逸や混沌というのは、この尻軽な作家には好ましい環境であり、一途に彼を愛する恋人バイを結婚相手とは認めないし、正妻ともし得ない。だが、何かと刺激が必要な彼が、混沌に身を浸し切って、流されて行きたい、というのも、彼の自由なのだ。清潔さはないが。

チャウは作家として、失敗への予兆を感じている。それは、多分に内向的なものだが、ストーリーの創造主にとって、ものを書けなくなる事は、死に等しいからである。だが、誰にでもスランプはあるもので、そこから抜け出す事は、そう難しくはないが、苦境を支え心に残った良き人の教えや好意に対しては、感謝しなければならない。チャウは、欲望渦巻く歓楽街に紛れ込み、姿を消す。まるで、自身のルーツがそこにあるように。チャウは快楽と欲望無くして、生きて行けないし、刺激を必要とするのは、無から有を生み出す、遊びが必要な作家の宿命でもある。つまり、チャウは、闇と交わりながらも、恋人バイに対しても、何ら、作家として不義を犯していないし、むしろ、彼の移り気は、作家本来の属性なのである。

対する、混沌の闇に対して、タクは太陽の下を歩いている。それは、「2046」の小説の世界とリンクしながら、その未来都市の住人であるアンドロイドへの恋にある。純愛であり、その潔癖さは、全てが計算され、高度にデザイン化された、未来都市の景観と同じくしている。チャウが欲望の掃きだめに居たのであれば、タクは、たった一人の正統の恋人の対等に向き合っているし、恋愛とは、本来、奪い合いや欺き事の応酬ではなく、どんな身分の相手であっても、愛を得たならば、対等に付き合い、求め合えるものであり、それが、人生の救いとなる。それは、小説「2046」の描いた幻想であっても、現実のワンとアンドロイドはリンクして、古き父親から痛烈に交際を反対されても、彼女の本心と愛は、爽やかなタクと共にある、という事であり、タクであれば、必ず、ワンは幸せになったであろう。その真髄を描き切り、現実の労を貫くチャウの文才は、二人の恋人の、美しき真実に迫っている。

チャウは、小説「2046」で描いたものは、彼の身近に実際に居た人間であり、そんな若く未熟ゆえに恋愛に勤しむ彼らの、夢や希望を、総意として、彼なりに裁断し、白黒付けて、ストーリーとして再生産したものである。このストーリーは恋愛興亡劇に託された、チャウの夢、であり、本心なのだ。つまり、彼は混沌の中に放逸な生活を送りながら、純愛の華を信じている、という事であり、良心の煌びやかなピースが、ストーリーの随所に散りばめられている。

始皇帝暗殺

荊軻の冷静と、始皇帝の情熱は、相いれない。

紀元前３世紀の戦国時代。秦の始皇帝は、先祖代々の宿願であった中国統一に執念を燃やし、他国との戦争を繰り返していた。始皇帝を愛する趙姫は、彼の野望を遂げさせようと、孤高の暗殺者・荊軻に会いにゆくが...。（allcinema）

始皇帝政は、天下統一の為に情熱を注ぎ、人生を懸ける。戦国時代、中国には秦を含めた七国が割拠しており、合従連衡と、同盟、離反、戦争の混沌の中で、互いに均衡し合い、力のバランスを保っていた。その中で、傑出したのが秦であり、中原の儒教に対して、辺境の法治国家は、法によって人民を支配し、徴税徴兵して、国力を増大させた。中国においては、秦は異端であり、力の支配によって、周辺の国を威圧し、支配力を増そうとしていた。だが、そんな苛酷な国策は、人民を同時に疲弊させしめ、その限界に達する事によって、秦の余命は消えんとする。政は、野望成就の為に、愛を捨て去り、それは、趙姫の離反によって、決定的になる。

天下統一とは帝国主義による、覇道だけではなく、秩序と外交による王道による方法もあった。秦が覇道を選んだのは、より多大な戦災を及ぼす事を覚悟した上の事であり、秦の存在そのものが、体制、思想において、異質な法治国家となり、それらと割拠による王道楽土を目指す六国とは、対立の宿命にあったといえる。確かに、秦は先進国であり、その国力は時代が下るに従って、王道に固執する六国とは圧倒的に開いて行った。六国が、侵略者である対秦戦争で盟約を結び、あるいは、六国の全軍を動員する合従軍を起こしたように、王道というのは、王族間での絆や信頼関係によって、結び付き、互いの領土と人民を侵さない、という、安定期も望めたものだ。

確かに、聡明な王に恵まれた時代には、割拠は良い時代だったかも知れない。だが、割拠状態にある中国が破綻して、戦争を好み、その度に、抜きん出た国家が、敵視され、集中攻撃を受ける、という事を繰り返し、戦国時代はいつ果てるとも知れない、混迷期に陥ったのも確かだ。そして、中国とは、割拠状態にあったとはいえ、言語や文化において、非常に類似性があり、それは、中原を中心として、その周縁にある、国家群が中華を戴く、という、民族思想にあった、と言える。漢民族は限られた人口であり、黄河と長江を地の利とした、中原に住まうものであり、純血は少なくなって行くが、それでも、周縁の地方国家より、尊重され、求心力があり、それゆえに、西方の辺境である関中の秦が中原を抑えれば、中華の大義を得て、文化と文明の統一が可能となったのである。

秦が統一し損ねたものは、人心であり、ソフトパワーにおける人民の生活の統制であろう。覇業において、秦には屈さないと決意を固めて、徹底抗戦したのは、そうした、一元的な統制や粛清を肯定し、強者の理論を振りかざす帝国に対する叛逆であった。そして、政時代の秦が、いよいよ強勢を増す事によって、六国の中で滅びる国が出て来始めると、王の間で、指導者の暗殺を回避する、という紳士協定が破られる事になる。個の武勇や暴力で、大勢を覆そうとするのはテロであるが、燕から送られた荊軻は、極めて紳士的な男であり、立派な義侠であった。義侠とは、蛮勇を振るい、民草を苛めるものではなく、市井の英雄であった。

そんな見事な義侠をして、テロとして仕向ける事は、小国の燕丹の苦肉の策であろう。流浪を重ね、諸国を物乞いのように彷徨っていた荊軻を再び、覚醒させしめたのは、趙姫であった。誰かを守る為に、生きる事を要されれば、動かざるを得ず、政人や文化人、工人としての資質はあったとしても、荊軻に要されていたものは、剣客としての武勇であった。だから、生きる為とは、生活の為にどんな仕事でもやり続け、凡百に人生を終える事ではなく、天命を守る事、その為に、人から望まれ、当の個人が出来る最も困難で立派な仕事をする事ではないか。

政は、自身の家族をすら統制出来ていない。そんな人物が、中国を統一し、強大な国家を作ろうとする執念は、他の諸王らとは比肩し難いものがあり、醜悪ですらある。嫪毐の叛乱は、その政の最も弱いソフトな部分を突き、その出生の秘密を知らしめた、という意味では、政略的に政が敗れ、その心をひどく痛めつけた事件であったといえる。皇太后は王族でさえなければ、嫪毐と幸福な家庭を築き上げたが、その家族の理想の中に、政の居場所は無いのだ。六国の王族、勇士らを嬲り、天下に覇を唱えようとしても、その野望の根源にある、皇帝の御家騒動が何より醜悪であり、秦の法治の正義は、そんな政府の中枢は君子ばかりで固められている、という、空想上の世界観に過ぎない。人民に厳法を強いるのであれば、自身がまず聡明な君子となれ、と言うべきであろう。