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果たすは、体ではなく心。

下級武士の三村新之丞(木村拓哉)は、妻の加世(檀れい)とともに幸せに暮らしていた。しかし、藩主の毒見役を務め、失明してしまったことから人生の歯車が狂い始める。妻が番頭の島田(坂東三津五郎)といい仲であることが判明し、絶望のなか離縁を決意。愛する妻を奪われた悲しみと怒りを胸に、新之丞は島田に“武士の一分”を賭けた果し合いを挑む。(シネマトゥデイ)

武士道とは、武力と精神のコントロールによって、果たし合いの先の死ではなく、生を重んじるものである。新之丞は、食の毒に倒れる、という、不遇の道ではなく、堂々と士分として、正道を往く方を選びたいと思っただろう。新之丞は優しい侍であり、その気質ゆえに処世が上手く行かくなる事が、人生の流転であり、不吉な予兆というものである。新之丞が怒りを持ち、果し合いを起こすというのは、余程の事であり、必然的にそれを害した相手が悪という事になろう。人生の運勢でいえば、毒によって失明した新之丞は不運であろう。だが、新之丞には、未来があり、それは、加世との二人の仲睦まじい暮らしにある。

そんなささやかな幸せが流転を来したのは、島田の策略によるものであり、その本質は、権力を背景とした、掠奪と圧制を欲しいままにする権力者のエゴである。権力とは、藩内では殿様を頂点とするが、その配下には、枝分かれした、島田のような悪しき上司の小さな権力がある。暴君とは、大権を手にした麒麟児が突如として手に入れる事によって起こる暴虐ではなく、その予兆とは、それとなく暗示され、真実は物語られるのだ。「武士の一分」を守ったからこそ、島田の悪事は露呈して、それが、新之丞の唯一の慰めとなる。武士道で沈黙は正当化されていない。むしろ、死を意識する事から、強く生が惜しまれる、というものである。

戦争のある時代であれば、新之丞のように不遇の戦傷から、忠勤の出来ぬ身になる、という事はよくあったはずだ。だが、時代は、泰平の江戸時代であり、その中で、危険度の高い毒見役とはいえ、死するのではなく、失明という、半端だが、「生の放棄」にすら至り兼ねない疵を抱える事は中々無い筈である。その疵の深刻さが、新之丞の心を捉えるが、そこにいつまでも甘んじていては、いつかの再起の芽は摘まれる事なく、朽ちてしまう。島田にも武士道はある。だが、同じ精神を持つ二者が戦えば、その一方の精神が破壊される事によってのみ、もう一方の正義は証明される。つまり、武士道が、キリスト教のように神が裁くのではなく、自身だけが、その正当性を知っている、という事は、名誉と毀損の双方に聡く、それを保つ為だけに侍は生きると言っても過言ではない。

彼の座頭市然り、盲目の剣客は描かれてはいるものの、そのリアリズムという意味で、座頭市は大きく失するところがある。肉体の不利を顧みず、命を捨てられるのは、「一度きり」だ。それは、不貞を強いられた妻加世の為の、死闘であり、新之丞はよく意地を見せた。

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親子の絆、家族の縁は、自由によって解体される。

日本映画を代表する傑作の1本。巨匠・小津安二郎監督が、戦後変わりつつある家族の関係をテーマに人間の生と死までをも見つめた深淵なドラマ。故郷の尾道から20年ぶりに東京へ出てきた老夫婦。成人した子どもたちの家を訪ねるが、みなそれぞれの生活に精一杯だった。唯一、戦死した次男の未亡人だけが皮肉にも優しい心遣いを示すのだった……。家でひとり侘しくたたずむ笠智衆を捉えたショットは映画史上に残る名ラスト・シーンのひとつ。(Yahoo!映画)

家族とは、個人にとって絆の拠り所であり、また、身を護るセーフティネットでもある。それが無ければ、窮した時に救われる事は無く、社会における多くの犯罪というのは、家族関係が機能しなくなったり、貧困による解体から起こるものと観て良い。だが、「親しき仲にも礼儀あり」というように、家族であっても、個人が関わっている課題とか、人格的な問題というのは、過剰な干渉であったり、父権主義による統制が無ければ、家族の誰もが知り得るものではなく、そこまでの干渉は紳士的とは言えない。その意味では、この家族は理想的である。広島から出て来た老夫婦は、家族や旧友との再会を心の底から喜び、その互いの遍歴を語らい、人生を謳歌する術を知っている。

つまり、東京に出て来るとは、遠征のようなもので、その行動は想定内である。それは、遠地広島において、彼ら夫婦が人並みに努力し、懸命に生活を組み立てて来た事を示すものなのだ。彼らは引退し、余生を生きている。それを他者から評価されるという事は無く、自由気ままに余生を愉しめる事は、家族を育てる義務における親としての束縛から解放されている。他者から見向きもされないが、評価もされない、つまり、義務や束縛から自由になる、という事が、「余生の意味」であろう。それが、老夫婦の自由の保障であり、望みでもある。どんな批判も受けないが、それが、無責任という事はなく、彼らの歩みには、今まで若き頃に生きて来た現役でのキャリアの跡があり、努力をした後の報奨として、自らの余生の為の財産がある。

だから、そんな自由な老夫婦が、次男の嫁で未亡人の紀子の人生と、再婚の方策について考えられる事は、彼らの自身の人生とは関係がなくとも、人間の良心として、重要な課題という事なのだ。戦後社会は自由を基調としている。だが、紀子が再婚をしない事は、彼女が老夫婦を始めとして、親類から愛されている事を感じているからではないか。いわば、「親類の内のアイドル」であり、その紀子の特別さというのは、周囲から受けている愛情の量によって決まっているものなのだ。女性の幸福とは、それと添い遂げる男性の資質に拠る、とも言われるが、そんな女性としての幸せのリターンマッチをせずとも、今いる親類や周囲との関係で妥協し、幸福に浸れる事、そんな紀子の美しさは、作中でも別格のものがある。

他者に対する愛情とは、それが、自身が受け手として、愛される事は無くとも、愛する相手を得られれば、互いに感情を交わし合い、充足される。つまり、老夫婦の周吉は、愛すべき紀子という、愛情の注ぎ手を得る事によって、愛情という、人間の感情を交わし合う相手が居る、という事で、独り身となっても、彼は孤独ではない。

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ジャック・スパロウへの最大の報復。

ヘンリー(ブレントン・スウェイツ)は、過去に伝説の海賊ジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)と旅をした父のウィル・ターナー(オーランド・ブルーム)の呪われた運命を、何とかしたいと考えていた。そこで海にまつわる伝説を調査したところ、呪いを解くには伝説の秘宝“ポセイドンの槍”が必要なことがわかる。その後、英国軍の水兵になったヘンリーが船に乗っていたところ、“海の死神”サラザール(ハビエル・バルデム)の襲撃に遭い……。(シネマトゥデイ)

もはや、生ける伝説となったジャック・スパロウと、ブラック・パール号には多額の懸賞金が懸けられ、追われる身となっていた。されど、ジャックは船員達の欲望を満たすだけの大仕事はやっておらず、奇想天外な銀行強盗も失敗に終わる。一国一城を争う王としては、ジャックは無能そのものであり、ジャックの本領が発揮されるのは、大航海という、大風呂敷を広げるような冒険譚においてであった。長き航海と、英雄としての争いを経験しながら、それを同志として共有して来た筈の、船員達ですら、船を失うという、ジャックの最大の苦難においては、彼自身が何とかして、奮闘し切り抜ける他にないのだ。だから、ジャックと船員達の間には、絆はあっても、最大の苦難の時には、居なかったわけだから、ジャックは彼らに対して義理を抱く事はない。それは仕方のない事だ。

どんなに功名を果たそうとも、ジャックが強大な海賊王になる事はない。愛する船を持たず、田舎の港にてジリ貧の生活を送るなどは、とても、海賊の総帥としての威厳はない。だが、これは、自由人としての宿命でもあり、その意味で、ジャックはベンチャースピリットを体現しているものではないか。栄光を掴むのも、失敗に甘んじるのも、自分独りの能力と責任によるものだと、考えられる事。それが、失敗にもくじけず、どこまで強くなって来たジャックの思想であり、その原理は、仲間意識と利害を第一とする一般の船員達には持ち得ないものだ。かのベケット卿との大戦において、海賊の長達は一堂に会し、結束を誓い合った。だが、その統一は今やなく、眼下には自由な海が広がっている。海を股にかける海賊として、「一戦一戦の盟約」とは絶対のものではなく、自由が至上なのである。その海賊の自由さは大いに満喫されるところである。そして、一般船員としては物の役にも立たないが、スピリットの象徴としては、誰も及ばないカリスマ、それが、ジャックの本質である。

そんな生ける伝説のジャックと、海の死神サラザールの対決は、生と死との対立構造にあり、象徴的だ。対する、ライバルのバルボッサは、今回は大した存在感は無いが、これは、いずれの陣営に与す事が、正義や利害をもたらすか、という事態の不明に対して、傍観する一般の中立の人々を象徴するものであろう。つまり、決死の戦いを前にしても、人は判断が付きかねれば、その大義に殉じる、という無為の死は選ばないという事であり、それが、殉じる主人公と生き延びる脇役を分かつ最大の相違である、という事ではないか。上述したように、ジャックは海賊王にはなり得ないが、バルボッサは物語が深化するにつれて、相応の地位を築き上げて来ている。それは、無一文にすら陥るジャックとの確たる違いである。だが、ジャックは地位と財力は得られなくとも、伝説上のカリスマとして、歴史に名を刻んでいる。それは、必ずしも、ジャックが望んだ事ではないが、逆に言えば、「それだけが救い」なのである。

そして、海賊王とは、そんな面白い放蕩漢を求める求心力に拠って決せられる、という事である。それは、安全地帯を選んで着実な渡世をしているバルボッサを配下にして、自身が上に立つべし、という、権力闘争の力学を超える、カリスマの人心の掌握術が観える処でもある。サラザールは不死身であり、全ての海賊の壊滅を願っている。だから、この戦いは、ジャックがスタンドプレーをしていても、実際には、「海賊王」として取り組まねばならぬ決戦であり、それを、堂々と名乗りも上げず、誇大広告も無しに、必然の戦いとして、やってのけるジャックの偉大さ、それに拍車を懸ける形である。

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