美女と野獣

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野獣の姿は、王子の真実にあらず。

進歩的な考え方が原因で、閉鎖的な村人たちとなじめないことに悩む美女ベル(エマ・ワトソン)。ある日、彼女は野獣(ダン・スティーヴンス)と遭遇する。彼は魔女の呪いによって変身させられた王子で、魔女が置いていったバラの花びらが散ってしまう前に誰かを愛し、愛されなければ元の姿に戻ることができない身であった。その恐ろしい外見にたじろぎながらも、野獣に心惹(ひ)かれていくベル。一方の野獣は……。(シネマトゥデイ)

ディズニーの定番ともいえる、美女と野獣。野獣となったのは、かつて慈悲の心を持たなかった王子であり、それは、侮蔑されし魔女の呪いによって報復を受けるところとなる。神仙というのは、権力と対峙して、それを試し、あるいはからかい、緩やかな対立を作り出すものではある。魔女といえども、その実力を侮る事は、許されざる行為なのである。王家の末裔として、王子は自己の幸運と力量に心酔している。だから、魔女の恨みを買い、野獣の姿に身をやつして、長き償いの時を過ごした事は、無駄な時間ではないのだ。共同体としての国があり、その主席である王子が無慈悲である事は、全体の問題だからである。

つまり、神秘の魔法を駆使する魔女でさえ、独裁は許されず、むしろ、権力と対峙する魔女であるからこそ、独裁による指導者への呪いは許されないものなのだ。王子が、無慈悲であるからこそ、野獣へと化す呪いは許されたのであろう。そして、時代は繰り返すの例の如く、無慈悲な男というのは、世界のあらゆる局面に存在するのである。ガストンがそうであり、その悪徳の振舞いは、かつての王子の如くであり、野獣が村人に対する籠城の手段に対して、達観して、まるで裁きを待っているかのような、無抵抗の態度とは、呪いを受けて、自身はその救済に対して、身を捧げている事の裏返しではないか。

愛だけが、野獣を人間に戻す手段であるという事は、その術師である魔女が愛の偉大さを知り、それによって、自身を侮辱した権力者を許せるという、対比の構図が存在する。愛とは、婚姻に至る人生の一つの報酬であり、子孫を残すという事が、種としての人間らしさ、その務めである事は、愛を知らない男というのは、野獣の如くであり、生きる価値がない、という事ではあるまいか。呪いとは、暴力に対する抵抗の術を持たない弱者のとる手段であり、さながら、人を喰らわんとするような荒々しい豪傑のような野獣の存在とは、暴力への畏怖の現れそのものだ。

野獣と化しながら、王子は暴君とはならなかった。そこには、王子の慈悲が最後の一片で残っており、それを梃子にして、人間としての再生の一歩を踏み出す事が出来たのである。つまり、これは野獣の不幸ではなく、王子への試練の物語なのである。

TOO YOUNG TO DIE!若くして死ぬ

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非業の死とは、人としての物語を失わせる。

修学旅行で乗っていたバスが事故に遭ってしまった男子高校生・大助(神木隆之介)。ふと目を覚ますと、炎が渦を巻く中で人々が苦しめられている光景が目に飛び込んでくる。地獄に落ちたと理解するも、同級生のひろ美に思いを告げずに死んでしまったことに混乱する大助。そんな彼の前に、地獄農業高校軽音楽部顧問にしてロックバンドの地獄図(ヘルズ)のリーダーである赤鬼のキラーK(長瀬智也)が現れる。彼の指導と特訓のもと、地獄から現世に戻ろうと悪戦苦闘する大助だが……。(シネマトゥデイ)

地獄は、最終駅ではなく、輪廻の中では一つの通過点に過ぎない。それは、型破りな処世をする関大助により、輪廻を繰り返し、現世とを行き来する行動によって裏付けられる。裁きの場所としてある地獄が、権威を失い、それは、キラーKなどのお洒落なロッカーのような鬼達の存在によるものであり、さながら、高校生のような青春の日々を謳歌する鬼達の生活は、死を嘲笑うかのようである。厳法に対して、個人の夢とは些少なものではある。閻魔が最高権威者として裁きを下しながら、青春の日々という生きる人々のドラマというのは、相いれるものではない。つまり、個人の自由があり、それが地獄という陰惨な場所に対して、一縷の希望を見出すものとなる。

そして、地獄は人を害するものではありながら、厳法の執行者としての、閻魔や鬼達というのは、人に対して、寛容でなければならないのだ。それがあるからこそ、来世の一つの場所としての地獄は、人を包容し、抑え込み、刑罰を与える権威として認められるのではないか。そして、権威とは、権力の執行と信賞必罰によって明らかにされ、日々保守されるものなのだ。だから、青春を謳歌する人々というのは、権力に対する挑戦者であり、それは自由が、伝統的な権威に対して、疑義を提唱する事から、裏付けられるのだ。

地獄は混沌としている。それは、無秩序が人間が作り出した文明や文化を破壊し、現世の自由を束縛する事から、現世を否定して、裁きを下す地獄の住人達としては、相応しいものであり、本作の混沌とは、実に、理性があっての事なのだ。長き地獄の日々は、天国は良いものだと想像するしかない、苛酷な現実とは、まさに生きる人間の現世の苦悩とリンクして、一致するものではある。そして、現世の厳しさに対して、地獄の救いというのは、負け組として人生における罪を犯した、罪人達や鬼達の苦悩が、地獄の軽音部のロックを梃子にした青春劇のただなかにある事によって斟酌され、腑に落ちるものとなって行く。

苛酷な地獄の日々には、強大な権威を前にして、人間も鬼達も革命を望み、汲々とした生を送り、深刻な不和に陥っている。これは、地獄から天国への逆転を夢見た関の革命の物語なのである。

風と共に去りぬ

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貴族が夢見たアメリカの行く末は、自由を希求するものであった。

南北戦争勃発寸前のアメリカ。南部の大富豪の娘にして、絶世の美女スカーレット・オハラは、名家の御曹司アシュレー(レスリー・ハワード)に思いを寄せていた。しかし、彼が別の女性と結婚するといううわさを聞いてしまい、嫉妬からとんでもない行動を取ってしまう。(Yahoo!映画)


世界には、無数の出逢いと別れが散りばめられている。それは、珠玉の宝石の如く、煌びやな装飾が施されたもののみならず、凡庸なものもある。だが、国家という、巨大なドラマがその航路を決める時、その輝きは、煌びやかな装飾に恵まれるものに違いない。南北戦争は、国家の命運を左右して、その後の国策を決めたが、その戦勝は、白人にとって祝福に溢れた、歓迎すべきものであったろう。アメリカの歴史とは、自由と覇権の為に、自らの陣営の利益を得るものであり、 それが、黒人という、奴隷にして、新たな友人となる、人々に対する誤解と偏見、それを解くべく、アメリカの大義が作用した事は疑うべくもない。

つまり、黒人との関係というのは、奴隷制という、古の風習を打破する改革の一指であり、それが、万人の幸福につながる、という主観によって成されたものである。だが、奴隷制において、それを歓迎し、南部の階級社会を決定する、社会的な権力として、見なされた事もあろう。スカーレットは、絶世の美女であり、その門閥も実力のある名士社会の一員であるが、そうした、個人の意志と自由への希求が、奏功するとは限らない。むしろ、戦争という国家の「大きな物語 」が運命を決定する時代にあっては、自由意志による恋愛や他者への束縛というのは、敵として見なされる事さえあるのだ。国家が権力を併呑するとは、時勢によって左右され、「あの時代」だからこそ許される事もある。

 そして、如何なる封建的な時代であっても、恋愛におけるドラマというのは、殺伐とした環境に対して、一種の清涼剤となるものだ。個人の恋愛という、「小さな物語」は、取るに足らないものであるかも知れない。だが、国家権力が、大勢を牛耳り、その支配が強まった時代であるからこそ、個人の記憶というのは、輝きを発するのであろう。つまり、これは、古き良きアメリカであるのと同時に、大勢に対する抵抗の物語であり、それは、個人が如何にして生きたか、という個人主義を反映するものであるのだ。個人は、家庭に彩りを加え、それを幸福にするのと同時に、新たなカップルというのも、家庭を築き上げ、秩序の一角となって行く。そうした、戦争がもたらすヴァンダリズムに対する、偉大な再生がここにあるのだ。

 そして、小さな物語として侮るなかれ、そうした、末端の構成員でさえ、秩序と安定に対する抵抗に打って出るという、抵抗者の本懐がここにある。それは、生きる限り人が恋愛をし続け、そこに最終解答は無い、という、普遍的なフィナーレによって、彩られるのである。
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