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身を切る銭は、商人の誠意。

江戸時代中期の仙台藩。百姓や町人には重税が課され、破産や夜逃げが相次いでいた。貧しい宿場町・吉岡宿も例外ではなく、造り酒屋を営む穀田屋十三郎は、そんな町の行く末を深く案じていた。ある時彼は、知恵者の篤平治から、町を救うあるアイデアを打ち明けられる。それは、藩に大金を貸し付け、その利息で町を再建するという前代未聞の奇策だった。計画に必要な額は、なんと千両(約3億円)。簡単につくれる額ではないが、宿場の仲間たちを説得し、必死の節約を重ね、家財も投げ打ってひたすら銭集めに奔走する十三郎たちだったが…。(allcinema)

江戸時代、御家の存続は、次世代の繁栄を願う、共通の理であったはずだ。だが、現世や来世の繁栄よりも、今を生きる民衆の側に立ち、藩を相手に商売を始める気骨の百姓、町人たちが居た。武士とは、士農工商の上位者であり、指導層であった。吉岡宿では、仙台藩大名の伊達家の直轄地でないがゆえに、近隣の町村に荷駄を運ぶ伝馬の労役が課され、それは、寂れかけた宿への多大な負担となっていた。だが、大名もまた、大名貸などの豪商からの借金があったり、米価の低迷によって、油断ならない節制を強いられている。仙台藩は、幕府が敷いた石高制による重農主義に甘んじる事なく、清向けの海産物などの製造を行い、財政を保っている。

江戸時代の武士というのは、領土を中心とした発想を抜け出る事は出来ず、直轄地でないがゆえに、労役を課せられたのは、大名の経世観が藩を中心として遠心的に天下を眺めたがゆえではないか。つまり、領土に近い者は、親民であり、それ以外の他者とは、保護の対象とならず、互いに他国を牽制し合っていたという事だ。それでなくても、江戸時代の武士は植民地主義を否定しておらず、それは、薩摩の琉球への侵略や、松前のアイヌへの酷使に現れている。儒教から影響を受けた武士道は、君臣や親子の絆や上下関係は強調しながら、化外の民、異民族を放伐すべき敵対者とみなす側面がある。だから、己の統治の及ばない地方の民というのは、自領の愛民とは比べるべくもないのだ。

吉岡宿の肝煎、庄屋である遠藤幾右衛門は、知恵者であり、茶葉で生計を立てる富農である菅原屋篤平治のお上である大名に銭を貸す事を思いつき、それを実行に移して行くが、彼が篤実な農民であれば、そうした与太は舞い降りて来なかった。そのアイデアは、居酒屋である「しま屋」で飲食をしている最中に、酒飲みの大風呂敷として生まれたに過ぎない。だから、そうした下位にある農民や町人が、武士には敵わないという、常識を超えた処から、この奇譚は始まるのである。時代は下るが、幕臣から、お上への直言、あるいは、一揆を起こしたのは、大塩平八郎であったが、大塩が義賊ではあるが、倒幕という、禁忌に触れたのに対して、大名貸は、商人の王道であり、時の豪商たちの商業意識を出るものではない。

つまり、革命ではなく、武力による反抗でもなく、吉岡宿が、戦乱に巻き込まれず、民が力強く生きられたのは、そうした、有志の行動と努力があったからである。ともあれ、この時代に商人が力を持つ事は珍しい事ではなかった。莫大な富をもたらした朱印船貿易は、鎖国によって禁じられ、一部、西日本の大名、密貿易に勤しんだ権力者は居たものの、武力という決定力を持たない豪商たちは、外需ではなく、内需への転向を余儀なくされた。その流れで、江戸、京都、大阪などの三都の繁栄や、北海道への進出があったが、江戸時代とは、国は別にしながらも、一地方の繁栄は、大きな富を生み出し、国内に活気を呼び込むものであった。大阪が、天下の台所と呼ばれたゆえんは、その中央市場としての懐の深さにあり、関東圏などの大消費地を経由する以外の全国からの米が集められた。

豪商たちは、高いモラルと経営感覚を持ち、多彩な事業を手掛けている。そんな野心ある豪商たちのメンタリティに近い高尚な精神が、吉岡宿の穀田屋十三郎を中心とする、九人の町人、農民たちの中にはある。確かに、武士とは制度上の指導層ではあったが、それだけで国が成り立っているわけではない。協力者の一人である大肝煎の千坂仲内は、武士になりたがってはいるが、そうした、大庄屋として近い場所に居る者が、武士への出世を夢見たように、上位者への尊敬というのは、当時の吉岡宿では広く観られ、財を投げ打って、地方全体の繁栄を達成しようとした九人は、貧しい民の模範となったのであろう。だから、次世代を通して、現代に続く奇譚として、本作は位置付けられているのだ。

「近江泥棒、伊勢乞食」という言葉があるが、それは、高い商才を持った豪商たちへの嫉妬から生まれたものだ。時の豪商たちは、店を墨守した優れた経営者であり、仏教徒であったり、世上に通用する高尚な哲学を体現する立派な人々が多かったという。近江商人の「三方良し」とは、売り手良し、買い手良し、世間良し、という意味であり、損得を抜きにした経済活動は、天下の為になるという、社会への強い連帯意識と、店との絆から生まれた言葉である。また、利益を上げる事は、指導者の善徳とされ、儒教における、経世観が商業と結託して、昇華した事は、躍進の明治時代に繋がるもので、儒教を堅持した中韓には観られなかった動きである。学問も知識も、現世の為にあり、曲学阿世という知識人間の誹り合いは、知識人が商業社会の後塵を拝しているがゆえの、自己弁護の為の言葉に過ぎない。

彼ら九人には、商売をする人にとっては命である、己の労働によって、流れる汗水と時間を膨大に費やされた人生の貴重な時間の代償として、金を集める行動を取っている。彼らの行動には、純粋な愛郷心があり、それは、次世代に懸けられる願いでもある。つまり、彼らの内に、一人一人が地方を背負って立たんとする英雄の気概があるのだ。そして、本作では、そうした讃えられる資格のある彼ら自身が、その特別視される事を、心底嫌い、忌避して、一民としての節度を保つ事を、共通の義としている。だから、これは、身分制度の中で起きた地殻変動でも、改革でもない、民の視点に立っているのだ。人が一生に出来る事は、たいてい決まっている。何事をも成さぬ、残そうともせぬ輩も居るが、そうした、次世代の価値をも問わず、英雄的行為に対する尊敬をも求めない九人は素晴らしいものがある。こう考えると、満たされるを知る彼ら九人とは、対称的な為政者の上昇志向とは、常人ならぬ遠大な野心とエネルギーに支えられている事が分かるものである。

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闘争を好む英雄の宿命。

山王会と花菱会の一大抗争が終結し、大友は日韓に強大な影響力を持つフィクサー張会長を頼り、韓国へと渡る。ある時、花菱会の幹部・花田が滞在中の韓国でトラブルを起こし、張会長の手下を殺して日本へと逃げ帰ってしまう。これが引き金となり、張会長率いる張グループと内紛を抱えた花菱会が一触即発状態に。そんな中、いくつもの怒りを抱えた大友は手下の市川を伴い、日本へと舞い戻ってくるのだったが…。(allcinema)

日本での大闘争を経て、大友は韓国の地にたどり着いた。韓国の闇社会のフィクサー張の庇護下に入るものの、その暴力を好む生来の本能からか、闘争の芽は絶えず、大友の身辺に火の粉は降り掛かる。英雄であるがゆえの宿命でもあり、韓国に落ち延びていても、大友はその心を休ませる安寧の地を知らない。むしろ、引退後の堅気としての人生よりも、あくまで、厳しい世界での渡世を望んでいるかのような凄味が、大友にはある。自身が望んでいるから、戦争は起こり、その解決に対する武力の行使を辞さない。堅気とは異世界、異郷の常識と人生観が、大友を支配している。

日本のやくざとは、時勢の変化に対応する事を要され、自身もまた、改革の瀬戸際に立たされている。グローバリズムと伝統の保守という、二大テーマは、やくざの世界にも観られ、つまり、世界とは、一つの大きな潮流に併呑されて動いて行き、一つのビジョンしか得られないという事だ。グローバリズムは、あらゆる異世界、異郷と現世の境界を無くし、ボーダーレスな新世界を表出させしめる。アメリカの保守政権の誕生によって、グローバリズムは停止される事は無く、その権力基盤としての、権力者の改革の志向は止まる事は無い。改革とは、保守的な組織に対する、権力者の力の行使である。

伝統とは、守旧派の牙城であり、それは、老人や保守的な勢力の権力の維持を守るものである。仁義とは、やくざにとって、伝統の墨守によって生まれる理想的な秩序、社会を作るものであり、グローバリズムによる移民の増加や外国勢力との合従というのは、国家を脅かす。日本は日本人の為の国家であるべき事は、不文律であるが、奇しくも、規制緩和によって、恩恵を得て来たのが、今の経済、金融時代に対応した、国際化したやくざの常態である。やくざの強さの秘密とは、その行動力にあり、金が集まる処であれば、世界中どこにでも出掛けて行き、利権を奪い合う逞しさにある。韓国に逃亡した大友が、決して陣営の利害とメンツを放棄せず、組を守っているのだ。闘争を続ける理由とは、そうしたやくざの並外れた生命力に根源がある。

組の戦力となるのは、武闘派の活躍によるものだけでなく、豊富な資金力があり、十分な組織体制や武器、兵力、士気を保てる事にある。強いやくざとは、その武力に対する信頼性によって、金を集め、より大きな戦いによって、勢力を拡張して行く。また、やくざのフロント企業は、その市場原理への深い理解と、欲望に応じて、世界に打って出て行く。グローバリズムによって、そうした、組織再編は進み、やくざの勝ち組とは、本来の地盤としてのシノギである、クスリ、売春、賭博だけではなく、金融などの自由化と規制緩和による世界の市場化に対応して行く、新たな組織が想定される。中でもクスリはドル箱であるが、その高い犯罪性に対しては、やくざも自重し、覚醒剤は一つのタブーとなっている。

つまり、やくざの日常業務というのは、危険な渡世ばかりではなく、縄張りの墨守による、金の収集にあり、そうした甘い世界を体現しない大友というのは、武闘派の巨魁であるという事だ。その暴力の背景には、人並み外れた行動力と大義がある。やくざも、暴力を発動し、銃撃事件や突入などの、襲撃作戦を計画するのには、非常時の警戒心が要される。計画的な襲撃は、主に、下っ端の若い衆ではなく、組長や幹部など重鎮が狙われる事が多く、その理由は、大勢力に対する抵抗の根源、士気の源になっているものは、指導部の根強い独立心や利権への執心にあるからである。そして、如何なる組であれ、組長とは御家の父親であり、それが討たれた場合に、その落とし前を付けるのは、手を下した敵対勢力の父親の首に他ならない。

だから、本作の闘争というのは、果ての無い戦いであり、大将首が次々と討ち取られ、その報復が続き、暴力の連鎖が止まらない、というのは、乱世のやくざの様相であり、最早、国家間の戦争に等しい激しい混乱期が起こる。大友が逃亡の地である韓国から、再度日本に帰還する事は、彼が決して諦めない強い心を持っている事を表しており、死を覚悟しているものと観える。思えば、大友の組とは、多士済々の人材によって支えられて来た。そして、その強力な組織を率いて、起こして来た戦争の相手もさる者であり、時代の中心地に、本作のシリーズ作の奇譚は存在して来た。

英雄とは、時代を争覇する主人公の事であり、その群像とは、戦争の趨勢によって変わるものだ。大友がかつて覇を競った巨魁達は、すでに敗れて死んでいるか、老いて力を喪失している。その中で、今なお現役の猛者として、渡世を闊歩する大友の、生命力と意志の強さ、というのは並外れた凄まじさがある。最早、大友に対抗し得るライバルは無く、そのワンマンショーのようですらある。決して、敗れる事は無い、と安心してその闘争を傍観する事が出来る。複雑な思想から、純粋な闘争にテーマが移り、その体現のみに、注力している本作では、エンターテイメントとして観るに耐えるものとなっている。

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それは、偉大なる闘争だった。

汚職事件に絡み自殺した男の息子による父親を死に追いやった政官財の有力者たちへの復讐劇を通して、日本社会に根深くはびこる腐敗の構造の中でのうのうと甘い汁を吸い続ける巨悪に挑んだ社会派サスペンス・ドラマの力作。 日本未利用土地開発公団の副総裁、岩淵の娘佳子と、秘書の西幸一の披露宴が執り行なわれようとしていた。しかし、この西という男、実は5年前、新庁舎の建設に絡む不正入札疑惑で自ら命を絶ち事件の幕引きを図った課長補佐・古谷の一人息子だった……。(allcinema)

組織によって殺された父親の復讐劇は、公団を追い詰めて、その中枢に打撃を与えていた。建設業界の悪とは、違法たる行動を許す社会の慣例や常識にも一端の責任があり、それを知って復讐に出る事と、父親の個人的な敵討ちとは別次元の問題であろう。だが、曲りなりに、西幸一はそうした公団に敵対し潜伏する正義の闘士として、その悪のあらゆる不正行為を明るみに出そうとする。それは、父親の復讐の動機そのものが、巨大な利権を守る為に、サラリーマンを犠牲にして、その防衛が成り立つ組織の悪の根源にある。つまり、破壊的な謀略戦を挑む事によって、組織改革を促し、サラリーマンを犠牲にしない、当たり前の企業倫理を公団に強いる事こそが、敵討ちの根源にあるのではないか、という事である。

西にとっては、公団の副総裁であり、建設業界のフィクサーともいえる岩淵の懐に、その娘である佳子の夫として、入る事は勇気の要る事であったろう。それは、結婚という事が、佳子の人生を決めると共に、常識であれば、岩淵自身の余生を決めて、その後継者たる子孫の安泰に繋がるからである。だから、西は、佳子の結婚相手となるにおいて、厳しい個人情報のリサーチに遭ったはずである。そこで、西の正体がばれていれば、結婚を破棄する事で終わっており、西は公団社員としての地位を奪われ、放り出されるだけであったろうが、謀略とは、それが深化して、組織の止めを刺す処まで行けば、その実行者たるスパイにも相応の損害をもたらす。つまり、スパイとは、最前線にあって、絶えず殉死の危険にさらされているものだ。敵が大きければ大きいほど、その急所に至る処に近付けば近づくほど、復讐としてのスパイ自身へ跳ね返って来る傷も大きくなる。場合によっては死さえもあり得る。

敵とは岩淵であり、西は、その実の父親である古谷を殺された事に対する復讐とは、子としての情義だけではなく、今や自身のプライドの問題になりつつある。だが、敵は強大であり、政官財のトライアングルにおける、本物の敵とは、財のフィクサーである岩淵だけの事ではない。改革者としての、カルテルへメスを入れる事は、西に続く政治家や官僚の自己改革の正義心が無ければどうにもならない。そして、西に惚れた佳子を利用する事によって、西自身も罪を背負っているが、悪とは、そうした、小さな悪の事ではなく、より尊い大義の為、社会変革と公共の利益の為であれば許されるものなのだ。巨悪に対峙する冷徹な西は、そうしたスタンスに徹せれる事、それは、基本的な葛藤をすでに終えている事を意味するのだ。

そして、謀略戦の応酬に出られる事は、西もすでに、修羅のように一塊の戦闘員と化している事を意味する。岩淵は、権力を背景にして、多くのものに犠牲を強いて来た。だが、そうした巨悪と対決するのに、西が細菌のように組織内部に潜伏して、その崩壊につながる様々な攻撃を仕掛けている事と、組織防衛として岩淵が、リサーチを開始して、敵の正体を突き止めようとする事とは、同一の線上にあるように思われる。つまり、西も岩淵も、非戦の状態にある一般人とは別次元に身を置き、攻撃し合うという意味で、同じ土俵に立っているのだ。だから、本作の虚々実々の謀略戦において、卑怯者は存在しない。それは、同類同士の熱き闘争であるからだ。

フィクサーとして、今や組織防衛に追われる岩淵は、その権力の絶対性を武器にして、冷徹な防衛戦を開始する。かつては、岩淵も、建設業界の雄として、現場に入ったり、営業や談合に立ち会ったりして、その業界の裏表を観て、その中から、生き残っていく術を学んだ筈である。だが、それが失われ、老碌した岩淵には、保身だけが残されている。それは、種として生き残っていく事を考える、人間の本能として当然の事である。本能とは、種として、子を残す事、つまり、辰夫や佳子を養い育てていき、血を繋ぐ事で、その結婚は、岩淵も望むべき事であろう。だから、親子の絆よりも深い鉄の絆たる権力の結びつきと保身に対する、異常さとは、本能を凌駕している。力か、愛か、という選択肢で、岩淵は力を取ったのだ。

フィクサーとは、決して表に出ないが、闇の中でこそ、果たされる仕事もあり、それは、手を汚す事を厭わない老害によって成される巨悪である。だが、そうした現実を抱え、憎しみと監視の目で観られるからこそ、人間を遠視眼的に捉える事が出来る事であり、それは、家庭を犠牲にする事に繋がって行く。家庭とは、どんな強者であってもいつかは還るべき場所であり、それを失って平常心で居られる事は、もはや異常である。かつては現場で汗を流し、苦楽を共にして来た同志達は、今や視界の外に放り出されてしまった。政官財のトライアングルが生むものとは、社会主義的な組織主義である。だが、社会主義とは、政府に忠誠を誓う事を要され、利害関係者以外の外に居る民は置いて行かれる事になる。ここまで強大となった建設業界は、もはや「政府」といっても差し支えは無く、自由に反するのではないか。

復讐の修羅と化しながら、西にはまだ人間としての心が残っている。それは、佳子に心底惚れながら、その真意を行動に移せない西のじれったさに象徴される。父親の復讐という個人的な怨恨があって、この西には巨悪の征伐という大義は無い。だから、板倉に佳子と夫婦として向かい合う事を諭されて、その気になれるのだ。だが、実際には、建設業界のフィクサーに宣戦布告する事は、その強大な閨閥たる、政府との有力なルートを巻き込んだカルテルに挑むという事が、構図化されるのだ。彼らは攻撃されるという事に過剰な警戒感を抱き、組織防衛においては、如何なる犠牲をもいとわない。その中に西の父親は居て、犠牲になったのだ。それを、恋愛によって障害をも生む事を恐れない西は、如何に勇敢であろうともまだ青いのだ。フィクサーは法廷の場において、一騎討ちを承諾する事はない。ただ、勇敢な若者が勇み足を踏むのだ。

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