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誰が彼女を孤独にしたか。

夫がいる身でありながら妻のいる北野裕一郎(斎藤工)と惹(ひ)かれ合い、不倫関係に陥った笹本紗和(上戸彩)。その関係が公然のものとなり、彼女は北野と離れ夫とも別れることになった。それから3年後、彼女は海辺の町で杉崎尚人(平山浩行)が営むレストランで見習いとして働きながら暮らしていた。ある日、蛍に関する講演で紗和と北野は偶然の再会を果たす。まだ冷めていなかったお互いの気持ちを確かめ合う二人だったが、その前に北野の妻・乃里子(伊藤歩)が現れる。(シネマトゥデイ)

大人である、とはどういう事か。世の酸いも甘いも知り、苦難を重ねて来たからこそ、果たされるべきルサンチマンがある、という事ではないか。紗和と裕一郎の不倫とは、許されるべきものであるが、それを決めるのは周囲に居る人間であり、とりわけ、裕一郎の妻を巡って、大きな騒動が起こる。最も愛する人と一緒に居たい、と考えるのは、自由な社会では当然であるが、夫婦関係という、法律に基づいた「絆」がある、という事は、この二人の場合は著しく不利益をもたらす。だが、秩序を越えられない、つまり、常識として夫婦関係という、最優先して守られるべき絆がある事は、如何に深い愛であっても、超えられない社会常識があるという事で、社会から冷たい目で観られ、不倫をなじられる二人は、秩序を超えた蛮勇を果たしてはいない。

愛されない乃里子は、惨めとして言いようがないが、制度が最優先され、前提として妻という保護されるバリアのような地位があり、平等という人権思想がある事は、このストーリーが民主主義に基づいている事でもある。どんな忌み嫌われた乃里子でさえ、擁護される権利がある事は、愛という「最終的な解決策」を持ってすら、超えられない壁がある事を紗和に知らしめる事になる。不倫ではあるが、二人は純愛を貫いている。だが、裕一郎の決意は甘く、かつての妻であった乃里子が、離婚によって他人となれば、如何なる害悪をもたらすか、という危機意識がない。今は愛しておらずとも、かつては二人で生きようと誓い合った乃里子との絆は、切っても切れないものがあるのだ。その人生のクロスロードを、語り合わずとも分かり合える紗和と、万言を尽くしても贖い切れない乃里子との、二人に注がれるべき愛情の質において、裕一郎からの寵愛を巡っては、全く勝負にならない。だからこそ、このストーリーの決着は不毛でやり切れないものがある。

警察も全くあてにはならず、事故の真相を知る乃里子は、当然ながら罪を自白する事は無い。ここにおいて、不倫の暗さが最大限にクローズアップされる。二人の恋路が秘密主義において包まれている事が、不利に働くのである。二人が本当に夫婦となる決意はあるのか、どこまで本気の恋愛なのか、という事であり、それは、真実のコアから、日常の「恋するルーティン」にまで多岐に渡る。これが周知された祝福されるべき恋であれば、また、乃里子という誤った相手との姻戚関係が無ければ、二人はもっと確実な幸せにたどり着けた筈である。事故の闇が光に照らし出されるならば、このストーリーの敗者はもっと明白であり、誰が最も悪人であるかが周知される事となった。だが、制度によって守られた妻の地位は揺るぎなく強固であり、紗和の前に立ち塞がる壁となる。これは、不毛としか言いようがなく、「人間社会の常識に挑む問題提起」が観られるのだ。

人生という長いストーリーの中では、必然と不要なものがある。出逢うべくして出逢える幸運と、不運とがある。その万丈のクロスロードを、語らずとも、必然の絆として観えざるものさえ信じられる二人は、やはり、結ばれるべきなのだ。そして、一度目の不倫の露呈によって、夫と別れ友人も失い、十分な報いを受けた紗和と、大学教授として順風満帆な人生を揺るがせなかった裕一郎は、ハナから同じ地平に立っていない。その因果におけるルサンチマンのストーリーであった。