July 30, 2019

1963(昭和38)年8月3日5

1963(昭和38)年8月3日
[[狭山事件]]で、[[荻原佑介]]が、[[上田]][[県警]][[部長]]の[[取調べ]]を[[憲法違反]]等で訴える。



*8月3日誕生花まつばぼたん国策捜査 狭山事件で再審請求を続けている石川一雄さん「半世紀前から変わらぬ刑事司法の根深き病巣」 青木理
(2010年10月18日 「週刊金曜日」)


冤罪・狭山事件と「虚偽自白」  【取り調べの全面可視化】、【全面証拠開示】、【代用監獄の廃止】が歯止めに



 荻原佑介氏宛書簡(一九六五年十一月二二日)より


 六月二三日(一九六三年)、調べ室に遠藤、青木、斉藤さん達が居る所で長谷部さんが、
 「石川君 何時まで強情張って居るのだい、殺したと言わないか、そうすれば一〇年で出してやるよ、石川君が言わなくても九件も悪い事をしてあるのだしどっちみち一〇年は出られないのだよ・・・
 とこの様に言われました。・・・知らない刑事さんが
 「課長(長谷部)さん 狭山の関部長が此方に来るそうです」・・・



 「そうか、それでは石川君 君に言ってくれ、男同士の約束だ
 と私の手を握りました。
 そして暫くしたらさんが、
 「石川君 元気かい、今署長さんに『この前一八日の裁判が終ったら三人での事を教えると約束して有るのだから聞いて来い』と言われて来たのだが吾に話してくれ」
 といきなり私の手を握って泣きつきましたが、私は三人でのこと(三人共犯)を話しませんでした。そしたらさんが



  「石川君 教えないなら帰るど」
 と立ち上がったら 長谷部さんが、
 「石川君 殺したと言って呉れ 吾は必ず一〇年で出してやるからな君 今話すそうだから待ってくれ、我々が居ては言いづらいだろうから外に出ましょうか 遠藤さん」
 と言って皆出てしまいました。そしたらまた泣きながら、石川君 殺したと言ってくれと手を握ったので、私もつられて泣いてしまい「入曾、入間川、と私と三人で殺した」と言ったのです。



 六月二四日月曜日、長谷部さんが
 「鞄の事を教えてくれよ」
 と言うので、狭山署に居る時、嘘発見器に掛かった際先生に本が出た所の地図を見せられたので、その山を書いてさんに渡したのです。そしてさんが探しに行ったら、長谷部さんが
 「今君に渡した地図の所で間違いないのかい、吾は本が出た所の様な川に有る様な気がするが恐らく見つからないと君がおこってるど、



もし無いと戻って来たらこの川の所を書いてみないか」
 と言うので書きました。そして暫く経ったら本当に見つからないとブツクサ言いながらさんが戻ってきましたので、二枚目の地図を渡したら午後六時頃だと思いますが、今度見つかったと何かで連絡がありました。で長谷部さんが
 「吾の勘は皆当たるのだから嘘をついても駄目だ」
 と言うので、私はあやまったのです。



 六月二五日火曜日、朝頃だと思いますが、長谷部さんが次の様に言いました。
 「石川君の家から万年筆が見つかったそうではないか、なぜ今まで教えなかったのだ」
 「本当に知らなかったのです」
 「---嘘をつけ、知らない物が見つかる訳がないだろう。・・・善枝さんを殺してから風呂場の方の入口から入ったと言ったがその時鴨居の上に置いたのではないか、何でもその当りから見つかったと言ってたよ・・・」



 六月二六日長谷部さんに
 「お寺の所で殺してから四本杉まで運んだのでは大分かかったろう 車で運んだのかい」
 と言うので
 「入曾、入間川から何も聞いていないから分からない」
 と答えたら
 「何時までもそんな事を言っておると、一〇年で出してやらないよ、吾が裁判官に死刑にしてくれと頼めばすぐに死刑にされるのだよ、嘘だと思うのなら遠藤さん達に聞いてみな、遠藤さん、石川君死刑にされても良いのか 嫌だろう」



 と言われたのですが、私は入曾、入間川の人も知らないし教える事も出来ないので
 「一人で殺した」
 と言ったのです。そしたら長谷部さんが
 「吾も石川君が一人でやったと思って居たよ、で善枝さんの死体にナワなどが付いてたがそのナワを何処のを盗んで来たのか覚えてるかい、吾は死体が見つかってすぐに自殺した源さんの近くのだと判ったよ、吾の鼻は犬より良いからな どうだい当ったろう」



 「俺ら殺したときおっかなくて忘れちゃったんです」
 「なに忘れた 自分で殺したくせに忘れるわけがないだろう、よく考えてみろ」
 とどなられたので泣いてしまいました。そしたら泣いて居たのでは解らないではないかと叱られてた所へ運よくさんが夕飯を運んで来たので、寄ったのだが家に何か伝言でも有るかと入って来たので助かりました。



 六月二七日、善枝さんの腕時計は何処へ捨てたと聞くので、質屋へ入れたと言っても信用されず田中へ捨てたと話したら地図を書けと言うので書きましたら、あろうことか翌日の夕方だと思いますが知らない刑事さんが、
 「課長(長谷部)さん 時計が見つかりました」
 と持って来たので、長谷部さんから借りて腕にはめて見たら私の腕にピッタリ合ったので



 「善枝さんも案外太かったのだな」
 とこの様に言いましたら、遠藤さんが「石川君が殺したのではないのか、殺した人がそのような事を言えば、わらわれるど」
 と言ったので皆で大笑いしました。
 以上が川越での出来事でしたが、言葉づかいが多少違います。・・・

 荻原様 私に代って地裁内田武文を綿密に御調べの上裁判をして私同様死刑にして下さい。・・・



  又私は川越署で口ではあらわせられない程のひどいめにあいました。荻原様はご存知と思いますが、国民の皆様にこの文面を見せてください。そして武文を絞首台に上げて下さい。又長谷部の両人も死刑にして貰います。この二人は私が出てやりますから・・・

 勝手な事ばかりで申し訳けございません。では右の事を是非御願い致します。












http://togetter.com/li/477523 より

「PC遠隔操作事件が明らかにした取調べの実態」
落合洋司弁護士(元検察官)と高木光太郎教授(法心理学)の対談

虚偽の自白という大きな弊害を取り除くためには、可視化しかない。取調官が自白を目的としている以上、その裁量に任せるのは反対だ(落合洋司氏)

虚偽の自白をするのは格別気が弱いとか迎合制が高いなど被疑者側に原因があると思われがち。虚偽自白は異常な環境に対する正常な反応と言うべき(高木光太郎氏)














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higurashi at 16:22|PermalinkComments(0) 1963(昭和38)年 

July 08, 2019

1963(昭和38)年7月10日

1963(昭和38)年7月10日
 [[狭山事件]]で、[[石川一雄]][[起訴]]を受け、[[捜査本部]]を[[解散]]する。


亀井トム著『狭山事件 無罪の新事実』(1977)より抜粋

  ここで正直にありのまま(犯人取り逃がしの)失態を失態として公表したら、事件は今日のような「差別に基づく複雑で悪質な権力犯罪の集大成」とはならずにちがった展開をとっており、真犯人はもっと早くシッポを出していたかもしれない。そして真犯人に弱点をつかまれ、部落の人々への疑惑を煽られて、部落青年のいけにえによる解決という非道極悪な差別犯罪、権力犯罪へと堕ちてゆくことも、さらに連続変死事件の発生と、それらすべて「自殺」で処理するという警察のつくった無警察状態の出現はくいとめられたかも知れない。
 

 しかし権力機構が威厳を保ち、官僚世界が面目と体面をよそおうとする傾向や不始末の責任の波及をくいとめようとする構造的体質をもっていることは否定しえないし、中央、地方の上層のエリート官僚にとっては出世栄達のため下僚や人民の弱い部分を犠牲にして、場合によっては欺瞞や作為や権力犯罪を敢えて行なっても権力の威信や機構の安定をはかり、個々の官僚の保身、栄達をはかることは、官僚社会にはいたるところにみられる現象であり傾向でさえある。
 
 しかもたまたま村越吉展事件で誘拐事件が社会の表面におどり出し、社会不安を煽るばかりでなく、これが流行し政治化すると上層官僚、政治家、財閥、皇族の子弟に及ぶことは必然で、上層、支配層にとって大きな政治的、心理的危機を育てるのである。そのため吉展ちゃん事件で犯人を包囲しながら母親のもって行った五十万円をまんまとせしめられた失敗を再びくり返すなという訓戒は警察界に行きわたっていたのであり、各県の警察首脳が誘拐事件に敏感でないことは微塵もなく、誘拐事件の知らせには首脳部はとびあがっておどろく心理状態であったのである。
 

 しかもその時、狭山での一日の張込みは、みじめな、わらうべき失態を演じたのである。善枝はその結果殺される可能性は多い。そのまま発表したら上司、マスコミ、世間の批難と嘲笑が殺到することは目にみえていた。ここから上でふれたような警察官僚の事件の偽装と嘘発表への作業が始まったのである。・・・こうしてまんまと上層部とマスコミと世間をだまし、裁判が始まってからは弁護人と傍聴者をだまし、事件の自然的展開を作為的展開にすりかえたのである(他方真犯人の方は逆に事件の作為的展開が自然的展開らしくなったのであるが、これは別の個所でふれる)。
 



*『狭山事件 無罪の新事実』(亀井トム/三一書房//1977-7-31)より



 石川起訴後は片方の弱点が明らかになれば両方が破滅となる運命共同体になるという羽目にいたった。そのため事件関係者のうち権力犯罪人と真犯人の真相を知る人たちの連続変死事件、連続行方不明事件、さらに最近判明した記憶喪失疾患者続出という稀代の副産物が起訴以前から一、二審の裁判中に生まれており、今日でもその後遺症は続いているのである。




 被害者家族中田家が世の常の普通の家庭であったなら、警察の一部幹部のああいう演出(二日の張込み)に協力しないで、きっぱり拒否しただろうし、警察の一部幹部も二回目の張込みを断念したろう。また中田家族は一日、二日にとられた供述調書を後になってつくり変えることなどに応じなかったであろう。




 さらに石川自身、起訴、公判になると善枝のものでないカバン、万年筆、腕時計を善枝のものだと偽証したり、自転車のゴム紐、ビニールふろしき、封筒のちぎれた紙片の偽証を重ねて、権力の部落青年の極悪ないけにえ工作の片棒かつぎをしなかったであろう




 今日、当時表向きに狭山事件捜査と取調べに関係した警察官は、二、三を残して殆ど退官しているが、司法上層と一部末端機構、そして、緊密に連絡をとっている一部退官者は、事件の「真相の真相」の発覚を懸命に防衛しようとしており、支援運動側の裏面調査に対して予防的デマと妨害、支援運動の情報集め、関係者の威嚇とデマあるいは情実による口封じにつとめており、




上記の三つの型の不祥事の連続発生による真相隠しのほころびをこまかくつくろっている実情で、いずれその真相の全面ばくろも多くの調査活動家、良心的マスコミによってなされるであろう。彼らのデマの中心は狭山裁判批判は一部の極左勢力の破壊活動とか、一部の革新勢力による司法警察の正当な捜査を裁判に対する政治的反対運動であるかの如く印象づけ、




それに部落問題に対する偏見を結び付け、うっかり話したり、証人になったりすると大変な迷惑やわずらわしさに見舞われるようなことをいい、裁判と人民、支援運動と市民をきりはなし、権力犯罪者と真犯人を守ろうとしているのである。






higurashi at 18:06|PermalinkComments(0) 1963(昭和38)年