1971(昭和46)年3月11日狭山事件二審公判<足跡鑑定>鑑識鑑定官養成と最高裁裁判長の裁判における真実追求はいかにあるべきか1980(昭和55)年2月7日

January 17, 2018

狭山事件「科警研三鑑定」の高村鑑定人には筆跡鑑定されたくない


狭山裁判 中 野間宏 頁一二九二より


(寺尾裁判長が判決で一言も触れなかった
戸谷鑑定人提出の筆跡鑑定については)
似ている、違っているなどという余りにも
主観的すぎる鑑定方法によって、すぐにも
犯人と決定されるような従来の筆跡鑑定
方法に代わる、精密にして誤ること少ない、
筆跡鑑定は如何なるものか考えつくそうとし、
その鑑定方法作成に全力を傾けている
戸谷鑑定人の苦闘の跡を 私は出来る限り、
解りやすく伝えることにより、日本の犯罪
捜査と裁判制度を、人権にふさわしい
ものにし、冤罪を一切なくすために生命を
削っている方々の努力によって日本の裁判は
必ずよくなるとの希望が多くの人々のもとに
生まれることを願いながら 書いたのである。


*1972(昭和47)年に提出された 上記の
2 綾村勝次(書道家),3 磨野久一(京都市教育委員会指導主事),4 大野晋(国語学者)の3鑑定はそれぞれ
「被告人の筆跡との同一性」を「否定」したもの

*「被告人の筆跡との同一性」を「認定」した「検察側三鑑定」に
ヾ愃政一・吉田一雄(埼玉県警察本部刑事部鑑識課の警察技師)作成の鑑定書、
長野勝弘(科学警察研究所警察庁技官)作成の鑑定書、
9眤軸(科学警察研究所文書鑑定課長)作成の鑑定書 がある

,1963(昭和38)年6月1日付鑑定書、△1963(昭和38)年6月10日付鑑定書は、
1963(昭和38)年7月9日に、石川一雄さんが起訴された当時の鑑定であり

は、1966(昭和41)年8月19日付鑑定書(いわゆる高村鑑定)であり
1964(昭和39)年3月11日に一審で死刑判決を受けた石川一雄さんが、
東京高裁に控訴中に出された鑑定。



*狭山差別裁判 第5集 
(部落解放同盟中央本部編/部落解放同盟中央出版局/1974発行 )より

 ☆戸谷鑑定人は、日本に於ける文書鑑定の歴史を張る中で、高村鑑定人の位置にも触れて次のように供述している。(控訴審第二十四回公判)




 日本における裁判での筆跡鑑定の系譜というのは・・・日本では豊臣秀吉の時代から祐筆とか古筆家とかいろいろのができてきて、徳川時代までずっとそういう家柄があっただけで、そういう家が代々文筆鑑定をしていたようであります。
 明治の初期も大体古筆家が必要な筆跡鑑定はしていたそうであります。
 その後、明治二十三年頃東大の坪井博士によって、古文書学が日本に導入されたのでありますが、これは日本歴史を研究する方法として、どうしても必要だということで子文書学が導入されたわけで、古文書学というのは一部的に筆跡鑑定的なものを含んでおります。






 明治初年頃は、専ら古筆家が鑑定していましたが、その後だんだん古筆家が鑑定することがなくなり、古文書学をやっておられる歴史の先生であったり、或いは法医学が日本の大学にできるようになって、何でも裁判のことは法医学者に依頼するという習慣ができ大正時代などは犯罪学雑誌に法医学者が筆跡鑑定をされたその論文が出ているのもあります。






 割合、組織的に筆跡鑑定をとりあげたのは、警視庁で、大正十年頃、警視庁刑事課内に置かれた鑑識係が機構改革により刑事部鑑識課に昇格し、その鑑識課に勤めていた金沢重威が大正の終わり頃ドイツに行ってこられてドイツの筆跡鑑定を輸入されたわけであります。
 この金沢重威は高村巌鑑定人の先生に当るわけですが、金沢重威がドイツからもって来られたものはどうも金沢重威だけで終っているように思われます。






 その後は困難の時期で現在の筆跡鑑定人をみますと、古文書学をやっている主に東大の資料編纂所の方とか、国立美術家の技師の方とか、あるいは警察の鑑識の方、書道家、写真学校を出た方等で、例えば、科学警察研究所の文書課でも筆跡鑑定を取り扱っているわけですが、文書課の二十人近い職員の中その殆どの人が写真学校を出ており、大学の物理、化学、文学部心理学課を出た方が一人位であったと思います。






 筆跡鑑定について写真的技術は当然重要でありますが、より重要なものの比較はどうあるべきかということが、日本では本格的に研究されていない。それが現在の日本におけるう裁判の筆跡鑑定の一つの系譜になるのではないかと思います。




 ☆控訴審第二十四回公判で提出された書証、森長英三郎の「判例時報」第450号に投稿した「刑事裁判と筆跡鑑定」と題する論文中にみられるもの。
  現状の文書鑑定の良い加減さの例証として六つの事件を挙げているが、その内五つの事件に間違っているか、大いに問題がある鑑定例として高村巌のそれが指摘されている。




 一つは、昭和二十三年発生の小切手の窃盗事件で、亀川という郵便局員が疑われ、銀行で換金した際の裏書の筆跡と右亀川の筆跡が同一であるということで、第一審有罪。第二審で高村巌他一名の鑑定人が同筆との鑑定。第二審も有罪。上告中に真犯人川北某が現れて初めて無罪判決が下る---真犯人が現れない限り、筆跡鑑定がキメ手となって、亀川の有罪は動かなかった場合である。






 二つは、昭和二十三年発生の有名な帝銀事件、多数の行員が青酸カリで殺害され、現金と小切手とが盗まれたが、犯人とされた平沢通道の筆跡と小切手の換金の際の裏書の筆跡との同一性が有力なキメ手となった。その際、高村巌他一名の鑑定人が筆跡は同一であるとの黒の鑑定を出している。この事件は既に確定しているが、冤罪であるとの声が高く、今なお平沢が無実を主張していることは、一般周知のところであろう。・・・






 五つは、昭和二十七年発生した警官を射殺した白鳥事件の派生事件で、白鳥裁判の特別弁護人にもなった太田某が、事件直前に、殺された白鳥やその関係者に、はがきの脅迫状を送ったという事件である。
 第一審有罪。第二審で高村巌が鑑定し、例によって同筆との鑑定。戸谷富之鑑定人が登場して、右鑑定を批判したが、有事、上告審も有罪となった





 (ところでこの白鳥事件の無罪が最近確定したことは一般周知のところであろう)。
 もう一点、別件逮捕、誤認逮捕で有名な最近の三億円事件での草野某の時に高村鑑定がかかわっている節がうかがわれる。






 ところで右五つ目の事件で、・・・森長論文は、「・・・この戸谷鑑定書は、在来の鑑定人に大きな衝撃をあたえた。戸谷は筆跡鑑定については素人である。その素人の殴りこみを許すほどに、在来の筆跡鑑定には脆弱なものがあったといわねばならない」と評価している。






☆1966(昭和41)年2月21日 最高裁第二法廷判決




 「伝統的筆跡鑑定方法は、多分に鑑定人の経験と勘にたよるところがあり、ことの性質上、その証明力には自ら限界があるとしても、そのことから直ちに、この鑑定方法が非科学的で不合理であるということはできないのであって、筆跡鑑定におけるこれまでの経験の集積と、その経験によって裏付けられた判断は、鑑定人の単なる主観にすぎないものといえないことはもちろんのことである」




追悼 戸谷鑑定人



higurashi at 15:19│Comments(0) 1972(昭和47)年 

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