1963(昭和38)年11月13日狭山事件第一審第五回公判、日本語の文章としても疑わしいU証言を被告人にとって不利な意味解釈をした一審、二審の裁判長1963(昭和38)年6月8日

May 28, 2019

『〜見えない手錠をはずして!〜狭山事件42年ぶりの真実〜』の番組のおこし(2005年)



『〜見えない手錠をはずして!〜狭山事件42年ぶりの真実〜』の番組のおこし(2005年)
“ある日、突然犯人に…  〜検証!えん罪の構図〜” 
[[テレビ朝日]]系列の報道番組『[[ザ・スクープ]]』が[[狭山事件]]を特集
2005年2月13日(日)午後2時放送
T:鳥越俊太郎  N:長野智子  ナレーション:斉藤茂一




<概要>
四二年前の五月、一人の女子高校生が誘拐、殺害されるという事件が起きた。被害者はYさん、一六歳。『永遠にYさんに逢えないのですね。私たちは悲しい涙で胸が張り裂けそうです』。一九六三年に発生した狭山事件である。そしてここに四二年間、無実を訴え続けている人物がいる。石川一雄さん。Yさんを誘拐、殺害した人物として一九六四年一審で死刑、一九七七年に無期懲役刑が確定した元被告である。

石川さん:引っかかったんですね。引っかかってしまったんです。
キャスター(T):そう卯いう引っかかってしまった自分が情けないですか。
石川さん:情けないです。悔しくてしょうがないです。

 別件逮捕、そして自白。だが、その自白は警察によって誘導されたものだったと石川さんは訴える。新しい鑑定結果が突きつける無実の証拠。再審の門は開くのか。今年春にも最高裁の判断が下される。私は無実だ。狭山事件の謎とその真相に迫る。
 四二年前、事件は一通の謎めいた脅迫状から始まる。
 五月一日の夕食時、埼玉県狭山市のNさん方で身代金を要求する脅迫状が発見され、封は既に切られており、中にはその日の夕方から行方不明になっていたYさんの学生証も入っていた。翌五月二日の深夜、Yさんの姉が偽札の包みを持ってAの前で犯人を待った。まわりには四三名の警察官が配置されたが、Bの場所にひそんでいた犯人は「警察に話したんべ。そこに二人いるじゃねーか」という声を残して姿を消してしまったのだ。

T:身代金の引渡し場所を犯人が指定したのはこの茶畑のあたりです。あの事件からもう四二年たちました。あの時ここに捜査体制を引いていた警察官たちが班員を取り押さえていれば・・・。そう考えるととても残念に思います。
 犯人を取り逃がした埼玉県警は翌日から大規模な捜査を開始する。しかし事件発生から四日目の五月四日、Yさんは変わり果てた姿となって発見される。犯人取り逃がしが招いた最悪の結果だった。この警察の大失態は国会でも追及され政治問題にまで発展した。『今後かかる事件が起こらないよう万端の処置を取るように致しておるのであります』(池田勇人総理)。

T:実は狭山事件の起こる一ヶ月前、警察は東京で起きました吉展ちゃん誘拐事件で犯人を取り逃がすという大失態を演じていました。マスコミや世論の警察に対する不信感・非難は頂点に達していたのです。
 何としても犯人を挙げる必要に迫られていた埼玉県警は、Yさんの遺体が発見された場所等から、次第に捜査のまとを被差別部落周辺へとしぼっていく。そして事件発生から二二日目、一人の青年が逮捕される。それが石川一雄さんだった。当時二四歳。容疑は窃盗・暴行・恐喝未遂。Yさん殺害容疑を含まない、いわゆる別件逮捕だった。しかし

石川さん:被害者のYちゃん殺しの犯人として私を取り調べました。

<取調べの実態>

石川さん:嘘発見器は二回かかりました。クロだ、被害者のYさんを殺したことになっているということだったので私も腹が立って。

 検査結果は無実を示していたが取調官は嘘をついて自白を迫った。しかし石川さんは頑として犯行を認めなかった。そこで捜査当局はある強硬手段に打って出た。

『石川一雄が二〇日ぶりに保釈されることになり、石川の兄が狭山署に出迎えました。ところが石川は取調室を出た途端、再び逮捕され川越支部に護送されたのです。前とは別の容疑で今度こそ婦女暴行殺人の容疑というもの』(中日ニュースから)。

たらい回しと呼ばれる一旦保釈して直後の再逮捕だった。何度も逮捕を繰り返し強引に自白に追い込む人権無視の手口である。しかも捜査当局がとった強硬手段はこれだけではなかった。

<接見交通権の制限>

 被疑者には自らの権利を守るため捜査当局の立会無しで弁護人と自由に接見できる権利がある。ところが石川さんはその権利を著しく制限されたのだ。再逮捕当日(6.17)は接見禁止、その後もわずかな時間しか認められず(6/18:20分、19:5分、20:5分)21〜25日に至っては全面的に接見が禁止された。そしてこの時期こそが石川さんが自白を始める時期なのである。

中山武敏氏(狭山事件再審弁護団主任弁護士):孤立無援の状態におかれて、警察の力は絶対なんだ、弁護士と会わせないこともできるのだと。一方で、弁護士は金儲けのための嘘つきだと弁護人不信を煽るんですね。本当に石川さんの心まで支配されていたと。

石川さん:今後は弁護士と話をするなと言われたので、それを境にして弁護士が例えば面会に来ても二、三分で帰ってもらったんですよ。ほとんど話をしなかった。

 では、外部とは一切接触が閉ざされていた取調室ではいったい何が行われていたのか。
 ここに取調べ中の石川さんを捕らえた写真がある。腰紐をつけ手錠を掛けられた状態。まさに拷問ともいえる追究が行われていたのがわかる。

石川さん:ほとんど片手錠ないしは両手錠と。尚且つ捕縄、縄ですね。Eさんが持っている係でした

 そして逮捕から二九日目、心身ともに追いつめられた石川さんはついにYさん殺しへの関与を認めてしまう。『手紙を書いたのは俺で持って行ったのも俺なんだ』(石川さん供述調書/1963.6.20付)。石川さんが警察の手に落ちた瞬間だった。

T:自分でやっていないのに自白をした最大の理由は何ですか
石川さん:兄が犯人だと思わされた、いや思ったことでしょうね。
 警察は犯行現場にあった地下足袋跡が兄六造さんのものと一致したと嘘を言って石川さんを信じこませた。
石川さん:それが私にとっては一番ショックだったですね。兄ちゃんが犯人だと思うきっかけになったです。そこをつかれたんですね。
 更に警察は、変わり果てたYさんの写真まで使い、石川さんを言葉巧みに誘導していった。
石川さん:この写真を見ろということで、被害者の裸の写真を見せて、遺体の擦り傷は砂利運搬車によってできたと言われました。砂利運搬車はしょっちゅう借りておりました。だからこれは兄ちゃんが砂利運搬車でたぶん遺体を運んだんだろうと。
 兄六造さんは当時一家の大黒柱だった。もし逮捕されてしまうと一家が路頭に迷う。
石川さん:だからそれは待ってくれと、兄ちゃんを本当に逮捕するんだったら私にしてくださいと言いました。



<利益誘導>
 同時に石川さんは取り調べの過程で、キャベツを盗るなどの別件逮捕を合計すると刑期が二〇年にもなると思い込まされていた。

石川さん:お前がYちゃんを殺したと言えば、兄を逮捕しないし、一〇年で出してやるということを言われたので、私は嬉しくなっちゃったんです。本当に兄ちゃんを逮捕しないですかと聞いたら、しないと言うので私は、じゃ、私にしてくださいと言ったんです。
 以後、石川さんは取調官に言われるがまま犯人に扮することに徹するようになる。第一審の裁判でも石川さんは自白を維持。審議はたった六ヶ月で終了する。判決記録は死刑(1964.3.11)。その理由を裁判長は『死刑になるかもしれない重大犯罪だと認識しながら自白している』とした。 

T:石川さんが兄六造さんに事件当日アリバイがあったと知るのは浦和地裁の第一審で死刑判決が下された後、拘置所で面会した時でした

六造さん:兄貴が犯人だと言われたからそれじゃ困るから俺がやったと言ったんだと、俺の事が出たんですよ。コノヤローと思いましたね。何でそんなにバカなんだ、コノヤローと。
 石川さんはその事実を知った時の悔しさを獄中日記にこう記している。『これほどまで見事に警察でのワナに陥ってしまった自分の無知を恨みました』
T:無知につけこんだわけですよね。警察がね。


<そして闘う決意>
 第二審の冒頭、突然石川さんはそれまでの供述をひるがえす。裁判長の制止を振り切り声を上げた。
『また世間に迷惑をかけるようだが、私はYさんを殺してはいない』
(二審、公判記録から)。
 長い闘争の始まりだった。


 司法当局が石川さんを犯人とした根拠の一つに、自白によって発見されたとする多くの物的証拠がある。
T:中でも最も重要視する証拠とされたものが、犯人が被害者から奪い、石川さんの自宅から発見されたといわれている これと同じ形の万年筆です。しかしこの万年筆が石川さん宅から発見される過程には多くの疑問が残されています。

<証拠捏造疑惑>
 逮捕後、石川さん宅では多くの家宅捜索が行われた。しかしその時には鴨居の上から万年筆は見つかっていない。ところが、事件発生から二ヶ月後、三度目の捜索が行われると突然、鴨居から発見されたのだ。果たしてそんなに見つけにくい場所だったのか。またこの万年筆の発見者は何故か兄の六造さんになっている

六造さん:私に取れと言うんですよ。素手でいいですかと聞いたら、素手でいい、もうあったんだからいいと言うんですよ。

 これがその時撮影された写真である。これには警察官だけで発見したのではなく、家族が発見したという事実がどうしても必要だったふしがある。なぜか。事件から二八年たった一九九二年、一回目の家宅捜索に当たった元警察官が発見された万年筆について重大な証言をした。

『ずっとあとになって鴨居の所から万年筆が発見されたと言われ、まったくびっくりしました。発見されたところは私が間違いなく捜して何も無かったところなのに本当に不思議に思いました』

 万年筆の謎はまだある。鴨居から見つかった万年筆には黒いインクが入っていた。ところが被害者のYさんは事件当日のペン習字の授業まで一貫して淡い青いインクを使っていることが明らかになったのだ。

 石川さんの無実を示す客観的な証拠は他にもある。その最たる例が、犯人が残した唯一の物的証拠、脅迫状に関するものである。

T:石川さんが小学校に通っていたのは五年生頃までですが、教科書やノートすら買えなかったという石川さんには字を書いた記憶はないといいます。そんな当時の石川さんの国語能力であの脅迫状は果たして書けたんでしょうか。
 かつての石川さんを知る人物はこう証言する。
「学校はあまり行ってなかったからね。漢字なんかは無理でしょう。ひらがなだったらねえ」


N:結局、裁判のほうはこれだけ多くの疑問があるにも関わらず、一審の死刑判決(1964)に続き、二審も無期懲役(1974)という有罪判決でした。そして1977年、最高裁上告棄却によって無期懲役判決が確定します。石川さんは77年と86年の二回に渡ってもう一度裁判をやりなおしてほしいと再審請求を申し立てるんですが、いずれも棄却されています。これらの経緯をつぶさに見てみると、裁判所も警察や検察の言いなりになって石川さんの無実を証明する新証拠に蓋をしているとしか思えないのです。例えば裁判所の判断です。

「筆跡の違いは環境や心理的立場の違いによって生じたもので、筆跡に違いがあっても書き手が違うとは限らない」

T:これはあきれて物が言えないですね。つまりこんなことを言ったらね、筆跡鑑定そのものをやる意味がないじゃないですか。いつもこういうふうに言ってしまったら・・・。これを書いた裁判官はね、アホです、はっきり言って。

N:(万年筆はなかった証言)「確かな記憶に基づくものか疑問がある」
T:なぜ疑問があるのかということを示さないとダメですよね。
N:(万年筆のインクの違い)「黒いインクを補充したと推測する余地がないとは言えない」
T:おかしいですよね。実はですね、この刑事裁判では”疑わしきは被告人の利益に”もしくは”疑わしきは罰せず”という言葉があって、これは司法制度の根幹をなすものといわれているわけです。この意味は、ちょっと矛盾したように聞こえるかもしれませんが、事実認定の点で合理的な疑いが生じているものについては有罪とはできない、無罪とすべきだということであるわけです。これを完全に無視している。これだけ合理的な疑いがあるのに、被告人は本当は無罪にしなければならないのに、有罪にしているというところが、裁判がずーーーっとおかしですね。
N:その結果として今も石川さんの闘いが続いているわけなんですが、最新技術を駆使した鑑定により、石川さんの無実を証明する新たな証拠が続々と出てきました。

 一〇年前(1994.12.21)石川さんは罪を認めないまま仮出獄を果たした。

石川さん「私は無実にも関わらず、今日まで三一年七ヶ月、不当に自由を奪われてきました」(その時の記者会見の模様)

しかし、石川さんの冤罪が晴れたわけではなかった。二度の再審請求を棄却された石川さんは三年前(2002.1.29)最高裁に最新の鑑定技術をもって浮上した新証拠を元に特別抗告を申し立てた。

<新証拠の指紋の謎>

犯人が残した脅迫状の封筒には、発見者である被害者の兄と届出を受けた警察官の指紋が検出された。ところが犯人だとされる石川さんの指紋は一つも検出されていない。この点に疑問を抱いたのが栃木県警の元鑑識課員斉藤保氏である。斉藤氏は二四年間指紋鑑定に取り組んできたベテラン鑑定士である。

T:石川さんの当時の自白によりますと、脅迫状をこの自宅で書き、それを封筒に入れて四つに折りたたみ、ズボンのポケットに入れて数日間持ち歩き、しかも殺害現場でそれに訂正を加え被害者宅に届けたということになっています。
 それらはすべて素手で行ったことになっており、この点は検察側も認めている。

斉藤氏:実際に折ってみますと折り目をつけるにはかなり力が必要ですから指紋が出てくる可能性は極めて高いです。石川さんの指紋が全く検出されないのはおかしいです

<検証実験>
斉藤氏:つまり自白どおりだとすれば脅迫状から石川さんの指紋が出なければおかしことになります。では真犯人はどのようにして指紋を残さず脅迫状を作成したのか

<新証拠・・・軍手の指紋>
 素手で脅迫状に触れたという石川さんの自供と全く矛盾する。他にも自白では説明できない新事実が次々と見つかった。ブツブツのあるドライバー用手袋痕、セロテープが長い間貼られていたと思われる痕、そして斉藤氏は石川さんの無実を示す決定的な証拠を発見した。

<新証拠・・・消された文字>

 脅迫状の宛名は変更されている。確定判決では『少時様』という宛名は犯行三日前に石川さんがボールペンで書き、事件当日、被害者から奪った万年筆で父親『中田江さく』宛てに訂正したとなっている。しかし斉藤氏は『少時』の背景に何かで文字を書いた痕が多数存在することを明らかにした。中でも重要なものは『時』の周辺にある九本の線。

斉藤氏:先が二本の線のように分かれて見えるところがあるのです。
 つまり万年筆で文字を書いた痕だったのだ。
斉藤氏:すなわち 『時』はインク消しで消した文字の上に書いた文字であるということです。この封筒の宛先を書いたという人は、身近に万年筆とインク消しを持って繰り返し使い『時』という文字を最後に書いていました。
 では、犯人は『時』という文字を書く前にどんな文字を書いてそれを消したのか。

筆跡鑑定士柳田律夫氏は脅迫状の写真をコンピューターで処理し、その筆圧痕から文字を判読した。

柳田氏:かき消し文字の上にまたかき消し文字が二回も三回も乗っています。『林』の第一画のアタリがある。これは間違いなく文字の書き始めです。

 この鑑定結果は、犯人は犯行前に万年筆とインク消しを所持していたことを示している。ところが裁判での事実認定ですら、石川さんが万年筆を手にするのは犯行後Yさんのものを奪ったあとだから、犯行前に石川さんが脅迫状を作れるはずがない

N:実は驚いたことに、この消された文字の存在について、四二年まえに埼玉県警が行った鑑識結果の中でも指摘されているんですね。当初から警察は判読できなかったものの、潜在文字が存在することを知っていたということなんでしょうか。
T:ということは、判読できなくとも万年筆で書かれた文字がインク消しで消されたことはわかるわけですから、もちろん万年筆を持っていなかった石川さんが犯人ではないわけですよね。証拠を黙殺したことになりますよね。
   

N:再審を行うかどうか、最高裁の審議の結果は今年の春に出る予定なんですが、石川さんにとってこれは事実上、冤罪を勝ち取るための最後のチャンスとなります。さてこの最高裁、これらの新証拠をどう見るのでしょうか

T:まあこれだけ新証拠がありますから最高裁は事実認定をきちっとして、事実調べをして差し戻すということをやらなければいけないと思うんですね。もう一つだけ付け加えますと、石川さんが被差別部落出身であるということで、裁判そのものが差別反対闘争の色彩をもっていることは事実なんですね。それで私たちマスコミが及び腰になってあまり取り上げてこなかったと。そのために裁判にもちゃんとした光が当てられなかったと。そういう側面は指摘しておかなければいけないと思います。

N:ハイ。マスコミにも責任がありますね。さてこちらをご覧下さい。司法研修所の調査なんですが、戦後の冤罪事件五〇件のうち、なんと42件で被告人がやてもいない犯行を自白させられていたことがわかっているのです。取調室という密室で繰り返される自白強要と違法捜査、こうした冤罪の構図は二一世紀の今日でもまったく変わっていないようです。


T:世界的な流れからいいますと、残念ながら日本の司法制度は人権後進国と言わざるをえないですよね。特に法務省の人権感覚が遅れている。この点を指摘してこれから改めてもらわないとということが望まれると思います










100万人署名を継続し一人でも多くの方に狭山事件を
「狭山事件再審オンライン署名」へ
(ポスターの画像はコチラから頂きました)



higurashi at 17:27│Comments(0) 2005(平成17)年 

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