1956(昭和31)年

August 06, 2013

核兵器廃絶の旗手・湯川秀樹博士

進歩の極みに立ちいたった物理学は、(原爆という)一番残酷なものを、そこから生み出すもととなった。」(湯川秀樹 『旅人』から)



ラストメッセージ(全6集)第2集「核なき世界を 物理学者・湯川秀樹」より








イギリス、フランスも核保有国となり、
その後垂直の拡散も加速する。
潜水艦の核武装が行われ、戦術核とよばれる
小型で射程が短い核兵器が
大量生産されていく。
軍拡が止まらないなか、
自らの訴えが受け入れられないことに
湯川はもどかしさを感じていた。
「人間社会に対する絶望感があったと思う。
本当の正しい道、新しい道が孤独である
ということは一つの運命と思う」
(豊田氏)










「物理の世界と違い人間社会は複雑怪奇で
先生の純粋な思考だけでは
話が通じないというか、
普遍的なことを言っていたのだから
すぐ受け入れられると思われていたのが
そうでなかったものだから、
多少の苛立ちを覚えておられたと思う」
(伏見氏)

50歳を過ぎても湯川は
物理学の探求の思いを持ち続けていた。
いつか物理の研究だけに打ち込める日が
きてほしい。
そう思いながら核廃絶の運動を
続けていった。










1966年5月9日除幕式の日に中国に
よる水爆開発のための核実験のニュースで
水平拡散の現実を突きつけられる。
「中国にせよ、フランスにせよ、
さらにその競争に加わっていくということは、
人類を破滅の方向に推し進めていく
わけでありました、
日本は本当の世界平和に向かって、
非常に微力のようでありますけれど、
ひるむことなく、
辛抱強く日本人全体が進んでいくと」













1954年3月1日
太平洋ビキニ環礁で米の水爆実験。
広島の1000倍の破壊力を持つもの。
第5福竜丸が被爆し、一人が半年後死亡。
水爆の開発にはアインシュタインが
危惧したように
多くの科学者が関わっていた。
広島、長崎の原爆に続いて水爆が誕生。
研究一筋に生きてきた湯川を
大きく揺さぶる。









 「真理を探究するということは、
結局は人類のためのものであると、
そう単純素朴に考えてきておって
それで間違いないと思っていたら、
がらりとかわっちゃった。
私の人生観も非常に変わりましたね。
別の言葉で言えば、
わたしたちのような世間離れした
学問をしている者でも、
社会に対して責任があると。
責任から逃れることはできない」









「核兵器は人類と共存できない。科学者が
世界の現状を容認しているようでは、
パグウォッシュ会議は
その存在意義をうしなってしまうだろう」
「ここに集まった学者の多くは
モラルの問題には無関心で、
多くは才気ある合理的な思考にしか
興味がないようである。
そうなると、いきおい、
核抑止論の技術的考察だけが
議論になる。
考え込んでいたら頭痛が
ひどくなってきた。
はじめは我慢していたが、
だんだん気分が悪くなる一方で、
最後の2日間は
ホテルの部屋に引きこもって寝ていた」








「一日生きることは一歩進むことであれ」

「ラッセル・アインシュタイン宣言から
20年も経つのに我々はなにを
してきたのか。
核廃絶への道を妨げてきた
最も重要な因子の一つは
核抑止という考え方なのでは
ないでしょうか」
湯川が退席したあと、替わりに議長を
務めた朝永が、
湯川・朝永宣言「核抑止を超えて」への
署名を呼びかけた。









しかし、米ソを中心に
自国の立場を主張する
核抑止論の意見が多く、
賛成する科学者は増えなかった。
そこで、朝永は湯川と事前に相談して
決めていたあるフィルムを
上映することにした。
日本人の物理学者が広島と長崎を
調査したときに撮影されたフィルムだった。
編集されていない
5時間にわたる生々しい映像。
2日間にわたって会議後に上映。
科学者たちは大きな衝撃を受けた。
核兵器をなくさなくてはいけない
ということを初めて思い知った。
シンポジウムの空気がガラッと変わり、
宣言に殆どの科学者が署名した。






池上 彰『この社会で戦う君に「知の世界地図」をあげよう』原爆を開発していた日本 より


国の機関として1956年に原子力委員会が設置されます。ノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹氏も委員に選ばれます。湯川氏は、「原子力発電は慎重に。基礎研究から始めるべきだ」と主張しますが、委員長は、国会議員になった正力氏。彼は、「外国から開発済みの原発を買えば済むことだ」と主張します。科学者の発言より政治家の発言が優先され、日本は性急ともいうべき速度で原子力発電に邁進することになります。湯川氏は1年で委員を辞任しました。

原子力の開発を巡る日本と世界の動き

1940年 日本陸軍、原爆製造の可否に関する研究を開始
1941 陸軍、理化学研究所に原爆製造に関する研究を依頼。海軍、京都帝国大学へ原爆製造に関する研究を依頼
1942 米国が原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」を発足
1943 理化学研究所、陸軍に「原爆製造は可能」と報告、製造開始
1945 米国が原爆完成、広島と長崎に投下。日本がポツダム宣言を受諾、連合国に降伏。降伏文書に調印
1949 ソ連が原爆実験
1950 朝鮮戦争勃発
1951 日本がサンフランシスコ講和条約に調印(52年発効)
1952 米国が水爆実験
1953 米アイゼンハワー大統領、国連総会演説で「Atoms for peace」(平和のための原子力)政策を表明。ソ連が水爆実験
1954 米国の水爆実験による第五福竜丸被爆事件
1955 日本の55年度予算に初めて原子力研究予算2億3500万円。第1回原水爆禁止世界大会
1956 日本政府が原子力委員会を設置(委員長に正力松太郎氏、委員に湯川秀樹博士ら)
1962 「キューバ危機」、米ソが対立し世界が核戦争の脅威にさらされる
1964 中国が原爆実験
1967 中国が水爆実験
1968 核拡散防止条約(NPT)が調印される(70年発効)
1969 日本の外務省「わが国の外交政策大綱」
1970 日本が核拡散防止条約(NPT)に調印





昨夜は
原爆記念日に届いた
池上彰氏の予約本の中の一文が、

記憶の底にあった
湯川秀樹博士の
病床からの核抑止論への
命懸けの抵抗をテレビで観た時の感動を
手繰り寄せ

おかげで気分よい宵を過ごせた
(個人完した)

ノーベル物理学者としての湯川秀樹氏に 
もう一つの違った顔があったことが
次世代にはあまり知られていないじゃないですか

このまま忘れ去られては 
氏の功績が浮かばれないので
ひとりでも多くの次世代の人たちに 
知らせていかなければと思う









8月6日誕生花ジニア1950(昭和25)年8月6日
 [[吉田内閣]]により「[[大和報国運動]]会役員」という名目で[[公職追放]]された[[松本治一郎]]が、[[政界]]に復帰する。

higurashi at 22:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

November 20, 2012

1956(昭和31)年11月20日

 [[松本治一郎]]が、[[朝鮮民主主義人民共和国]]を訪問する。

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October 03, 2012

1956(昭和31)年10月3日

 [[部落解放同盟第一一回全国大会]]が開かれる([[大阪]])。

 民主政党団体との[[共同闘争]]方針・青年婦人対策方針・[[平和運動]]方針等を決定する。

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June 01, 2012

1956(昭和31)年6月1日

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April 22, 2012

1956(昭和31)年4月22日

 [[京都]][[田原支部]]が、[[多治神社]]に[[宮山]]解放を申し入れる。

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February 13, 2012

1956(昭和31)年2月13日

[[松本治一郎]]が中心となって起こした[[米軍板付基地]]返還訴訟で勝利する([[福岡地裁]])。



 この言い渡しが確定すれば、国は土地所有者との間に、土地使用の再契約を結ばねばならず、--- ---土地所有者が拒絶すれば、





米駐留軍は、日本国の法律により、この地域から立ち退かなければならないことになり、





終戦以来の基地問題にはじめての重大な問題となった。




 →[[1956(昭和31)年2月25日]]
   [[米軍板付基地]]内の土地[[占有]]を解くよう、[[仮処分]]を申請する。
 →[[1956(昭和31)年3月16日]] 
   [[仮処分]]申請が[[却下]]される。



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November 25, 2011

1956(昭和31)年11月25日

 [[松本治一郎]]が、[[訪朝]]先で、[[金日成首相]]と会見する。

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