1972(昭和47)年

January 17, 2018

狭山事件「科警研三鑑定」の高村鑑定人には筆跡鑑定されたくない


狭山裁判 中 野間宏 頁一二九二より


(寺尾裁判長が判決で一言も触れなかった
戸谷鑑定人提出の筆跡鑑定については)
似ている、違っているなどという余りにも
主観的すぎる鑑定方法によって、すぐにも
犯人と決定されるような従来の筆跡鑑定
方法に代わる、精密にして誤ること少ない、
筆跡鑑定は如何なるものか考えつくそうとし、
その鑑定方法作成に全力を傾けている
戸谷鑑定人の苦闘の跡を 私は出来る限り、
解りやすく伝えることにより、日本の犯罪
捜査と裁判制度を、人権にふさわしい
ものにし、冤罪を一切なくすために生命を
削っている方々の努力によって日本の裁判は
必ずよくなるとの希望が多くの人々のもとに
生まれることを願いながら 書いたのである。


*1972(昭和47)年に提出された 上記の
2 綾村勝次(書道家),3 磨野久一(京都市教育委員会指導主事),4 大野晋(国語学者)の3鑑定はそれぞれ
「被告人の筆跡との同一性」を「否定」したもの

*「被告人の筆跡との同一性」を「認定」した「検察側三鑑定」に
ヾ愃政一・吉田一雄(埼玉県警察本部刑事部鑑識課の警察技師)作成の鑑定書、
長野勝弘(科学警察研究所警察庁技官)作成の鑑定書、
9眤軸(科学警察研究所文書鑑定課長)作成の鑑定書 がある

,1963(昭和38)年6月1日付鑑定書、△1963(昭和38)年6月10日付鑑定書は、
1963(昭和38)年7月9日に、石川一雄さんが起訴された当時の鑑定であり

は、1966(昭和41)年8月19日付鑑定書(いわゆる高村鑑定)であり
1964(昭和39)年3月11日に一審で死刑判決を受けた石川一雄さんが、
東京高裁に控訴中に出された鑑定。



*狭山差別裁判 第5集 
(部落解放同盟中央本部編/部落解放同盟中央出版局/1974発行 )より

 ☆戸谷鑑定人は、日本に於ける文書鑑定の歴史を張る中で、高村鑑定人の位置にも触れて次のように供述している。(控訴審第二十四回公判)




 日本における裁判での筆跡鑑定の系譜というのは・・・日本では豊臣秀吉の時代から祐筆とか古筆家とかいろいろのができてきて、徳川時代までずっとそういう家柄があっただけで、そういう家が代々文筆鑑定をしていたようであります。
 明治の初期も大体古筆家が必要な筆跡鑑定はしていたそうであります。
 その後、明治二十三年頃東大の坪井博士によって、古文書学が日本に導入されたのでありますが、これは日本歴史を研究する方法として、どうしても必要だということで子文書学が導入されたわけで、古文書学というのは一部的に筆跡鑑定的なものを含んでおります。






 明治初年頃は、専ら古筆家が鑑定していましたが、その後だんだん古筆家が鑑定することがなくなり、古文書学をやっておられる歴史の先生であったり、或いは法医学が日本の大学にできるようになって、何でも裁判のことは法医学者に依頼するという習慣ができ大正時代などは犯罪学雑誌に法医学者が筆跡鑑定をされたその論文が出ているのもあります。






 割合、組織的に筆跡鑑定をとりあげたのは、警視庁で、大正十年頃、警視庁刑事課内に置かれた鑑識係が機構改革により刑事部鑑識課に昇格し、その鑑識課に勤めていた金沢重威が大正の終わり頃ドイツに行ってこられてドイツの筆跡鑑定を輸入されたわけであります。
 この金沢重威は高村巌鑑定人の先生に当るわけですが、金沢重威がドイツからもって来られたものはどうも金沢重威だけで終っているように思われます。






 その後は困難の時期で現在の筆跡鑑定人をみますと、古文書学をやっている主に東大の資料編纂所の方とか、国立美術家の技師の方とか、あるいは警察の鑑識の方、書道家、写真学校を出た方等で、例えば、科学警察研究所の文書課でも筆跡鑑定を取り扱っているわけですが、文書課の二十人近い職員の中その殆どの人が写真学校を出ており、大学の物理、化学、文学部心理学課を出た方が一人位であったと思います。






 筆跡鑑定について写真的技術は当然重要でありますが、より重要なものの比較はどうあるべきかということが、日本では本格的に研究されていない。それが現在の日本におけるう裁判の筆跡鑑定の一つの系譜になるのではないかと思います。




 ☆控訴審第二十四回公判で提出された書証、森長英三郎の「判例時報」第450号に投稿した「刑事裁判と筆跡鑑定」と題する論文中にみられるもの。
  現状の文書鑑定の良い加減さの例証として六つの事件を挙げているが、その内五つの事件に間違っているか、大いに問題がある鑑定例として高村巌のそれが指摘されている。




 一つは、昭和二十三年発生の小切手の窃盗事件で、亀川という郵便局員が疑われ、銀行で換金した際の裏書の筆跡と右亀川の筆跡が同一であるということで、第一審有罪。第二審で高村巌他一名の鑑定人が同筆との鑑定。第二審も有罪。上告中に真犯人川北某が現れて初めて無罪判決が下る---真犯人が現れない限り、筆跡鑑定がキメ手となって、亀川の有罪は動かなかった場合である。






 二つは、昭和二十三年発生の有名な帝銀事件、多数の行員が青酸カリで殺害され、現金と小切手とが盗まれたが、犯人とされた平沢通道の筆跡と小切手の換金の際の裏書の筆跡との同一性が有力なキメ手となった。その際、高村巌他一名の鑑定人が筆跡は同一であるとの黒の鑑定を出している。この事件は既に確定しているが、冤罪であるとの声が高く、今なお平沢が無実を主張していることは、一般周知のところであろう。・・・






 五つは、昭和二十七年発生した警官を射殺した白鳥事件の派生事件で、白鳥裁判の特別弁護人にもなった太田某が、事件直前に、殺された白鳥やその関係者に、はがきの脅迫状を送ったという事件である。
 第一審有罪。第二審で高村巌が鑑定し、例によって同筆との鑑定。戸谷富之鑑定人が登場して、右鑑定を批判したが、有事、上告審も有罪となった





 (ところでこの白鳥事件の無罪が最近確定したことは一般周知のところであろう)。
 もう一点、別件逮捕、誤認逮捕で有名な最近の三億円事件での草野某の時に高村鑑定がかかわっている節がうかがわれる。






 ところで右五つ目の事件で、・・・森長論文は、「・・・この戸谷鑑定書は、在来の鑑定人に大きな衝撃をあたえた。戸谷は筆跡鑑定については素人である。その素人の殴りこみを許すほどに、在来の筆跡鑑定には脆弱なものがあったといわねばならない」と評価している。






☆1966(昭和41)年2月21日 最高裁第二法廷判決




 「伝統的筆跡鑑定方法は、多分に鑑定人の経験と勘にたよるところがあり、ことの性質上、その証明力には自ら限界があるとしても、そのことから直ちに、この鑑定方法が非科学的で不合理であるということはできないのであって、筆跡鑑定におけるこれまでの経験の集積と、その経験によって裏付けられた判断は、鑑定人の単なる主観にすぎないものといえないことはもちろんのことである」




追悼 戸谷鑑定人



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August 29, 2013

1972(昭和47)年8月29日狭山事件第二審公判 に六千人が結集、検察は証拠開示による「無宰の救済」よりも捜査の支障やプライバシー侵害を優先

8月29日誕生花けいとう
1972(昭和47)年8月29日(狭山事件発生から9年)
 [[狭山事件]]、第[[二審]][[第六十六回]][[公判]]で、[[石川一雄]]さんの妹、美智子さんが証人に立つ。

 [[検察]]側は、[[六通の鑑定]]の提出に同意する。
 [[裁判所]]の判断は次回に持ちこされる。
 
 公判闘争に六千人が結集し、大きな盛り上がりを見せる。
*その当時の様子がわかるやりとりを FB狭山事件の再審を実現しよう様でされていたのでご紹介までhttp://wwwd.pikara.ne.jp/masah/symjk14.htm

  1972(昭和47)年7月27日
  狭山事件の 第二審で弁護団 「六つの鑑定(大野晋・他)」提出。
  検察側 科警研「三鑑定」(高村鑑定など)を公判で批判


*検察側は、事件発生から大きく時間が経過しても、『むやみに開示すると加害者にうその弁解の機会を与えたり被害者のプライバシーを侵害したりするおそれがある』と主張してきた

2009年11月27日 中山弁護団長から明らかにされた検察官の意見書についてより

前回、裁判所が証拠開示について積極的な姿勢を示しているから、検察官の公益の代表者たる立場から裁判の審理に協力すべきであるとしても、再審請求審の構造からいうと、「いわゆる新証拠の新規性、明白性を判断するうえで、関連性.必要性があり、かつ、開示による弊害のないことなど相当性も満たされる場合」に限られるのだ、としている。

新規明白な証拠が出されているかどうか、関連性があるかどうかも検察官が判断して、必要性と関連性があったとしても、捜査の支障とかプライバシー侵害につながる場合は開示しないんだ。あるかないかを答える義務もないんだ、というような立場で展開している

ところが、狭山事件の場合は46年もたっていて、プライバシーとか捜査への支障とかは、具体的にはまったくない。かりにそれらがあったとしても、無宰の救済、1人のえん罪者も出さないほうが優先されるべきである。もし、弁護団が開示証拠を不当な目的に使えば、名誉毀損などの刑事罰とか民事罰があるわけで、検察官はまったく根拠にならないことを主張している。



2013年7月26日 証拠の全面開示を求める請願 より

最高検察庁  検事総長 小津博司殿
  日本国民救援会中央本部 会長 鈴木亜英再審・えん罪事件全国連絡会 代表委員 新倉 修

捜査機関が集めた証拠は、検察側が有罪を獲得するために独占するものであってはならず、実体的真実の発見のためにも利用するべき「公共の財産」と言うべきです。・・・

証拠を開示すれば証拠隠滅や訴訟関係人への威迫やプライバシー侵害等が生じるという意見がありますが、仮にそのような弊害のおそれがあるとしても、再審事件は事件発生から大きく時間が経過しているなどの特別の事情があり、そのような弊害の具体的な危険性はほとんど考えられません
・・・最高検察庁が、各裁判所が出した勧告に従って、とりわけ袴田事件、日野町事件、大崎事件に関して、所管の各検察庁に対して、直ちに証拠開示に応じるように指示するよう求めます。あわせて、検察が「公益の代表者」として公正な裁判の実現と実体的真実の発見、冤罪の防止のために、起訴前における証拠の全面開示及びすべての再審請求事件での証拠の全面開示を積極的に実行することを重ねて強く求めます。


 
*狭山事件 第二審 でのツイート







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*ドキュメンタリー映画 『みえない手錠をはずすまで』予告編 
近々完成



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June 15, 2013

1972(昭和47)年6月15日

100万人署名を継続し一人でも多くの方に狭山事件を
「狭山事件再審オンライン署名」へ



 1972(昭和47)年6月15日 狭山事件第二審第61回公判において
中田家の長男が、脅迫状を発見した直後の「不自然な」行動について、弁護士とのやりとりが行われる。


 狭山事件当日、19時30分に帰宅した長男は、帰宅時、玄関のガラス戸に脅迫状が挟まれていなかったのを確認しており、その10分後に脅迫状は発見された。
 が、その時長男は、犯人がまだ近くにいるのではないかと、外を確認するなどの行動をとらなかった。
 それは不自然ではないかと弁護士が詰問する場面も。

 「狭山事件 50年目の心理分析」(殿岡駿星著/2012年5月23日発行)によると

しかし、外に出た話は数馬さんに変わり、最後には猫に化けてしまった。「猫が東のすみに」「どこの東」「家の」「屋敷の」「建物の」とまるで、アニメ映画に出てくる「巨大な猫」のように、それがアチコチに動き回るような問答が展開された
(第12章/頁336)


 のであり、

 約25ページにわたる第61回公判記録の解説を読むと

 脅迫状発見から届け出までの、15分間における長男の行動については、他にも、不可解な点が数多いことがわかる。


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April 17, 2013

1972(昭和47)年4月17日

 [[免田事件]]で、[[第六次再審請求]]が行われる([[熊本地裁]][[八代支部]])

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December 14, 2012

1972(昭和47)年12月14日

[[仁保事件]]で、[[差戻]][[無罪]][[判決]]が下る([[広島高裁]])。

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November 28, 2012

1972(昭和47)年11月28日

 [[狭山事件]]で、[[井波七郎裁判長]]が定年[[退官]]し、[[寺尾正二裁判長]]に交替する。

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November 21, 2012

1972(昭和47)年11月21日

「[[メーデー事件]]」の[[第二審]]で、[[無罪]][[判決]]が下る([[東京高裁]])。

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October 23, 2012

1972(昭和47)年10月23日

 [[徳本事件]]で、[[最高裁]]が、[[特別抗告]]を[[棄却]]する。




徳本事件
参考人(元日本弁護士連合会会長)和島 岩吉
より


私が関与した幾つかの納得のできない再審事件について申し上げます。
 昭和三十二年、神戸の有馬街道上で起こった徳本事件は、神戸弁護士会、日本弁護士連合会で再審事件として取り上げ、私は、終始日弁連の人権委員の立場から弁護人としてこの事件に関与いたしました。
 この事件は、徳本吹喜雄という青年が、ほか二人とともに自動車運転手を襲い、強盗殺人事件として起訴され、終始否認のまま、ほか二人というのも判明しないまま裁判に付され、各審で有罪とされ、上告審で確定しました。



徳本は、この事件で未決勾留中に、同じころ同じ有馬街道上で同じ年ごろの三人組が、同じ手口で自動車強盗事件数件で起訴され、有罪判決を受けたが、なおほかに隠している同種事件のあることを同房の者に漏らしていたのを聞きました。
 しかも、その一人が徳本と年齢、容貌、体格が酷似していることを聞き、この三人が真犯人と信ずるに至り、保釈中、刑の執行間近になった三十六年十月に右の真犯人と目された三人を次々神戸に招致し、私立探偵の大塚義一氏の協力のもとに詰問しましたところ、徳本の前記事件は三人の犯行と自白し、大塚氏の手で自白調書がつくられ、その状況が録音されました。三人は、徳本にわびるとともに、自首するということになったのでありますが、このことが新聞に大々的に報道されました直後に、三人は態度を変えて、右の自白は、徳本とその協力者の監禁強要による虚偽の自白であるものと言い、警察は徳本及び協力者八名を逮捕し、起訴されるに至りました。



この公判で、はしなくも徳本の前記事件は神戸地裁で徳本が真犯人なりやの審理となりました。前後百三十回の公判が開かれまして、実に注目すべき判決となったのであります。前記三名から自白調書をとった大塚氏は無罪、徳本を初め他の協力者は、一年半から二年の求刑をされていましたが、一応有罪とはされましたが、各四十五日の懲役という名目だけの裁判になり、一年の執行猶予、徳本本人は四十五日のうち三十九日通算、六日という刑になりました。
 こういう名目の裁判で、何よりもこの判決で注目されましたのは、詳細な証拠を検討の上、裁判は、徳本の冤罪の主張はこれを首肯するに足る、おまえは無実だというのはもっともだという事実認定の判断が示されたのであります。



 これに対し検察官は、再審でもないのに徳本に対する前記認定は重大な事実誤認と控訴しましたが、控訴審も一審の前記認定を支持しまして、検事の控訴は棄却されました。この判決は結局確定したのであります。
 われわれは、この証拠を理由に神戸地裁に再審の請求をしましたが、意外にも他の部で棄却となり、大阪高裁に即時抗告をしました。高裁では、前記監禁強要事件の控訴と再審の抗告を同じ部で審理することとなりましたが、昭和四十三年十二月二十一日、前記の控訴も再審の抗告も、いずれも棄却となったのであります。
 これは奇妙なことであります。徳本の無実を肯定した一審の判断を支持した同じ裁判官が、再審を認めずに棄却しているのであります。こうしたことが国民の正義感情を納得させるでありましょうか。こうしたことがまかり通っているのが再審の現状であります。


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September 30, 2012

1972(昭和47)年9月30日

 財田川事件で、高松地裁丸亀市部が、請求棄却する→即時抗告を行う。

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July 27, 2012

1972(昭和47)年7月27日5



 [[狭山事件]]で、[[第二審]]第六四回[[公判]]が開かれる。
[[石川一雄]]さんの[[無実]]を裏づける「[[六つの鑑定書]]」が、弁護団より提出される


参考)http://plaza.rakuten.co.jp/himetuti/diary/200807270000/

Sakamoto Kyu - 見上げてごらん夜の星を

Sakamoto Kyu -上を向いて歩こう


狭山差別裁判 第4集六通の鑑定書と証拠申請弁論









あがた森魚『赤色エレジー』

奥村チヨ『終着駅』

桑田佳祐- 見上げてごらん夜の星を

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September 19, 1972

1972(昭和47)年9月19日 狭山事件 第二審(寺尾裁判長)第六十八回公判

 狭山事件/第二審(寺尾裁判長)第六十八回公判/1972(昭和47)年9月19日

*「自白」調書に説明されていない現場の物証(玉石)について


<証人>新井千吉(死体発見現場の農道の当時の所有者)

<弁護人尋問>




一、石というのはどんな石です。
   石といいましても、畑にまじっているような石があるわけです。麦をまくのに土をふるいますから、鋤簾(じょれん)に石がかかるんですから。
二、それは河原なんかにあるような石ですか。
 










   畑にある石は、河原にある石と違って畑っぽいんです。それはまあいろいろありますけど、形が丸いのはないですね。非常に角ばった感じで畑っぽいんですよ。
三、大体の大きさは。
   これ位ですね(約四センチ位の指で輪を作った)。あと小さいのもありますよ、いろいろですから。






*「自白」調書に説明されていない現場の物証(茶の葉、ビニールの紙片)について

<証人>新井千吉(死体発見現場の農道の当時の所有者)

<弁護人尋問>




一、手入というとどういうことをするんですか。
   草なんか生えますから、畑と同じように下の方の草をとります。
二、私は素人でわからないんですが、茶の木も剪くなどをするんですか。










   今は、はさみでお茶を刈りますから、春摘む前にお彼岸頃に頭をちょん切って平らにするんです。手で摘むならばそういう必要はないんですが。
三、今はそうですか。はさみで刈る。
   そうです。
四、当時はどうでした。









   事件当時もはさみ刈りでしたね。春刈ったと思いましたね。
五、農道には、いろいろなごみなどがよく落っこちてくると思いますけれども、例えばビニールの袋だとか、新聞紙だとか、あるいは板切れとか、そういうことがあると思いますが。









   家の場合には、家の専用の農道でしたから、紙一つ草一本、五月の事件当時には、おそらくなかったと思います。撫でるようにきれいにしておくものですから、個人の農道ですからねえ、きれいなはずだったんです。





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July 27, 1972

1972(昭和47)年7月27日 狭山事件 第二審第六十四回公判

 狭山事件/第二審(寺尾裁判長)第六十四回公判/1972(昭和47)年7月27日

*中田登美恵さん(善枝さんの姉)の自殺の不可解さの解明のために
<証人>鈴木医師(中田登美恵さんの検屍に当った堀兼診療所医師)
<弁護人尋問>





一、私共がいろいろお伺いした時、先生のお話しなられた中に、どうも死因がわからんといいますか、非常に奇妙な感じを受けたんだということを言っておられましたが・・・。
   一般に何で亡くなられたにしても、苦悶の形をしているね。老衰というのは一番安楽な死に方だね。だけど、普通の毒で死んだとか、何とかいう人は、非常に苦悶の体で死んでるな。ところが、この人はすっかり整って、奇麗になって亡くなったね。だからすごく奇異な感じを持ったよね。












二、すっかり整って奇麗というのは、仏さんとして奇麗というんですか。身づくろいが。
   身づくろいは普通のものだったけど、吐きものがないとか、例えば、失禁とかが無かったという事ですね。そういうものが伴うものだね。大概ね。












三、先生は、農薬を用いたんじゃないかということで、家族の方に農薬のびんはないかというようなことを尋ねられたようですね。
   うん。











四、その際、どうだったでしょうか。
   なかったね。そして、みんなきれいに洗っておったね。
五、とにかく、硬直がきておったように思うと。
   ええ、そうですね。












六、それで、先生が非常に奇妙だということで、何かたんすやいろんな所を、先生ご自身が、遺書はないかというようなことでお探しになったというようなことはあるんでしょう。
   見る限りは、医者として見るものだね。だけれども、その辺には無かったね。













七、ええ、調べていないんですかね。
   私も、ちょっとカルテが廃棄になっているんですけども、多分自殺か何かだと思いますね。












八、で、自殺の原因といいますのは、窒息死とか。
    窒息死じゃないね。
九、農薬という点についてはどうでしょうね。
    疑いがありますね。











 狭山事件/第二審(寺尾裁判長)第六十四回公判/1972(昭和47)年7月27日

*中田登美恵さん(善枝さんの姉)の自殺の不可解さの解明のために
<証人>鈴木医師(中田登美恵さんの検屍に当った堀兼診療所医師)
<弁護人尋問>

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狭山事件/第二審(寺尾裁判長)第六十四回公判/1972(昭和47)年7月27日

 狭山事件/第二審(寺尾裁判長)第六十四回公判/1972(昭和47)年7月27日

*「腕時計」発見の経緯に捜査機関の作為が介在したかどうかについて
<証人>小川とら(小川松五郎<時計届出人、七八歳>の兄嫁)
<弁護人尋問>





一、どの位世話をしに行ってたの。
   おじさんのうちへは時計を拾った頃には行っていないから、絶対私は知りませんけど、亡くなる前は、あの頃から一年も生きておられて、いよいよ終いには病院に入って、病院で六十日位、田中病院へ行ったり来たりして、それから帰ってきて一年寝たきりで、それから亡くなったんです。











二、時計を拾ったという日は、おばあちゃんは田中に行ってたの。
   いないです。ずっとあそこね。まだそんなに弱くはなかったですからね、絶対知らないです。
三、松五郎さんが時計を拾ったということで、警察の方からお礼をもらった。










   いや、何だか私は絶対知りませんね。
四、お礼をもらって、それが少ないものだから、何か言ってた。で、おばあちゃんが、そんなことを言うなら拾わないほうがいいのに、なんて言ったことない?











   私は何だか、時計のことについては、始終行ってないから、絶対わからないからね。それから、時計の話は、おじさん、私はちっとも聞きたかないよと二度ばかり言ったことがあります。それであの頃は、落ち着いて行っていないから、あの時計の関係の方は、絶対私はわからないです。













五、松五郎はあなたにいろいろ言ってても、あなたは時計のことはあんまり聞きたくないよと、そう言ってたということ?
   ええ、そう言ったこともあります。












六、それからね。まあ、あなたが洗濯とか何か身の回りの世話に行ってあげた時に、田中の松五郎さんのうちに、警察の人が来てて、で、あなたがお茶を入れてあげたり何かしてあげたことがありますか。
   何だか、警察の人って別に覚えてもいないから、そう落ち着いてその頃はいなかった。












七、それは、時計を拾う前ですか。
   その、お茶を入れて出したのは、時計を拾う前でしたろうか。何だか私は、関係ないからついね。
八、それじゃね、あなたがさっきのお客さんが来てて、お茶を出したという時、











まあその人たちが、北海道の出身だとかいろいろな話をしたことはありませんか。
   そうね、それは、その時におじさんと自分たちは北海道からどうとかこうとか言ってたのは聞いたかもしれないけれども、それだけね。詳しいことは絶対知らないからね。











九、長い時間はいなかったけれども、足はしょっちゅう運んで行ってあげたんですか。
   あの頃のことは、私は絶対もうわからないですよ。












十、それから、松五郎さんが拾った時計を峰の交番に届けたという話もしましたね、私どもに。
   ああ、そいつは私、おじさんに聞いたから、おれはそんな話じゃ家で待ってるから帰ると言ってね、帰ったんです。











十一、前に話を聞いた時には、まあ時々、身の回りの世話に行ってあげたけれど覚えているのは、雷がえらく鳴って土砂降りで、そういうことがあったあとで、その北海道というような人が来て、そのあとで時計を拾ったということがあって、その後はそのお客さんも何もなかった、というような説明じゃなかったでしょうか。
    うん。











十二、それでいいわけですね。
    うん。
十三、それからね、前に伺った時には、そのお客さんというのは、まあお客さんという言葉は使わなかったけれどもね、みえてた人は警察の人だという説明はなさいませんでしたか。
    それは、おじさんが、あれでも警察の人だよと言いましたから、そうかよと言ったきりでね。











 狭山事件/第二審(寺尾裁判長)第六十四回公判/1972(昭和47)年7月27日

*「腕時計」発見の経緯に捜査機関の作為が介在したかどうかについて
<証人>小川とら(小川松五郎---時計届出人、七八歳---の兄嫁)
<弁護人尋問>

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June 15, 1972

1972(昭和47)年6月15日 狭山事件 第二審(寺尾裁判長)第六十一回公判



1972(昭和47)年6月15日 狭山事件 第二審(寺尾裁判長)第六十一回公判

*「自白」調書に説明されていない現場の物証(丸京青果の荷札)について
<証人>中田健治(中田家の長兄、善枝さんの兄)
<弁護人尋問>





一、それから、前回裁判所の冒頭の問いに、何か荷札のことで警察に調べられたことがあるということがあったと思うんですが。
   はい。
二、これはいつ頃のことなんですか。
   いつって、記憶ないんですが、寒い時です。









三、寒い時と言いますと、その年の冬と聞いていいんですか。
   もっとうんとあとです。二、三年過ぎてからと思っております。
四、それは、警察から尋ねられた内容はどういうことについてですか。
   青果へ出荷する荷札が、何か善枝の事件の時にメモに使ったらしいんです。









   そのメモに使った荷札が、お宅にあっただろうかというわけで聞かれました。それと同じものが、ですから、その時には警察の方にお話したのは、赤坂部落が大体同じような協同出荷をしていた時に、どこへも配布されて自由に持って来られた荷札だからということで、お話申し上げてあります。









四、そうすると、証人のお宅でも丸京青果の荷札を使う場合はあるわけですね。
   ええ、○果とか○京とか。








 
 狭山事件/第二審(寺尾裁判長)第六十一回公判/1972(昭和47)年6月15日

*「自白」調書に説明されていない現場の物証(丸京青果の荷札)について
<証人>中田健治(中田家の長兄、善枝さんの兄)
<弁護人尋問>

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