1871(明治4)年

August 28, 2013

1871(明治4)年8月28日[解放令反対一揆]から5万日と5年。ヘイトスピーチ[差別発言・憎悪発言]は犯罪

[[1871(明治4)年8月28日]][[「解放令」]] 発布の日
*短いが全文 


 穢多非人ノ稱被廢候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事
辛未八月 太政官
 穢多非人ノ稱被廢候條 一般平民ニ編入シ身分職業共都テ同一ニ相成候様可取扱 尤地祖其外除■ノ仕来モ有之候ハ丶引直方見込取調大蔵省ヘ可伺出事
辛未八月 太政官
 
(本文中の■は「溢」の旧字の傍に「蜀」)


*自分の認識では[[1871年8月29日]]から数えて[[五万日]]は西暦[[2008年7月20日]]だった
 ネットで見たら 西暦2008年9月3日 となっていた
日数計算をわかりやすく解き明かしたページも既にある
ニュース記事でもそうなっている

8月28日誕生花ききょう
※参考 大賀正行著『第三期の部落解放運動 その理論と創造』
(人権ブックレット三〇、解放出版社91年7月31日発行)要旨
  
1871年8月28日「解放令」では
「あの解放令は延期になった。五万日の日延べになった」というデマが広がる
奈良県大和地方(御所市周辺)
お前たちを、もう五万日、差別してやるという意味
1871年8月29日から数えて五万日は
西暦2008年7月20日
五万日で部落解放をしなければ、六万日、七万日と延びることになる

「五万日」の出所自体には 根拠は無いが
*どういう状態をもって「部落解放」というのか
*「部落解放」とは 何か
を規定することに意味がある
今までは
まだ先のことだ、
そんな抽象的なことを議論しても 観念論になる
ということで、あまりされてこなかった
何をもって完全解放とするのか
物事に完璧ということはないから、解放されたといっても 時には差別は起こるだろうが
とりあえず「こういう状態になったら一応、解放と見做そう」というものをつくる
第三期は そういう議論が必要だということ。 
第二期「国民的融合論」は
「寝た子を起こすな論」や「部落民宣言不要論」と セットで結びついている
この理論は 間違っているが 論破は単純ではない
*部落民とは何か
*部落の定義
が、実は明確になっていない。

なぜ「部落」「部落民」というのか?
「部落民」というのは、法律的には 存在していない
一八七一年でケリがついている。
1868年 明治維新
1869年
「士農工商」廃止(「えた」「ひにん」はすえおかれた)

「華族(旧諸侯大名・上級公家)・士族(旧侍)・平民(旧農工商)・賎民(「えた」「ひにん」)」へ新編成
1871年 「解放令」

「華族・士族・平民・新平民(旧「えた」「ひにん」)」へ新編成
1884年 「華族令」

公爵/侯爵/伯爵/子爵/男爵(旧華族)・士族・平民・新平民」へ新編成
華族の上に 天皇・皇族
(天皇制官僚国家)
「部落民」というのは、法律的には 存在していない
しかし、社会的には
「新平民」(旧「えた」「ひにん」)

「特殊部落民」 
明治30年頃から。水平社宣言にも。

「特殊」の二文字をはずして「部落民」または「同和地区住民」「被差別部落民」
とかいうような言い方で残っている

「部落民」という民族や人種は存在しない
アイヌは アイヌ解放がなされてもアイヌ人が消えるわけではない
在日韓国・朝鮮人解放もしかり
女性解放もしかり
「障害」者解放もしかり
LGBT解放もしかり
部落民が 解放されたら どうなるのか
解放されても 部落民なのか
解放されたら 部落民ではなくなるのか。
五万日で部落差別がなくなっていないならば、六万日目にはなくそう、七万日めにはなくそうと、次世代が頑張っていくことになりましょう・・・
「そんな馬鹿な話があるか」  
「その五万日に プラスアルファーするようでは、先祖や先輩たちに叱られそうだ」
以上のことから、
第三期は
「西暦2008年7月20日までに部落解放を実現しなければならないという決意の下にやろう」
と大賀さんはその著書の中で言われた
五万日の計算に誤りがあったとしても 
差別を次代に引き継ぎたくないという思いが 今読んでも熱く伝わる


*ツイッター上では
解放令(明治4年8月28日太政官布告)でのツイートは日めくりカレンダー的なものだけだったけれども(ここも?)

解放令反対一揆でのツイートは意外と多く見られ


*某掲示板の議論では
2011年1月22日の在特会による「水平社博物館差別街宣」や二〇〇九年一二月四日の「京都朝鮮学校襲撃事件」をとりあげて
ヘイトクライム(憎悪犯罪)と解放令反対一揆をリンクさせた論議が見られ

解放令反対一揆についての参考文献を もう一度あたってみる

※参考 解放令反対一揆の背景と民衆運動の持つ二面性について幕末明治民衆運動史研究会公開講座(2001年2月5日)“新政反対一揆における部落襲撃の位置づけ” [[上杉 聰]]さんより
(2001年2月5日)

「解放令」に反対する一揆 
 「新政反対一揆」と言われる明治初年の一揆の中に被差別部落を襲撃したものがいくつもでてくる。本日は、それをどのように位置づけたらよいのかというテーマをいただいた。
 「解放令反対一揆」というのがポピュラーな呼び名だが、明治六年の岡山県の一揆は「血税一揆」と呼ばれ、同じ年、福岡県で約十万人が立ち上がった一揆は「筑前竹槍一揆」と呼ばれてる。合計二一にわたる当時の騒擾事件年表を作って検討した。明治四年八月、いわゆる穢多・非人などの身分制度を廃止する布告がだされた。この二一の騒擾は一揆と呼ばれる大きなものから、小さな事件としかいいようのないものまで拾い集めたものだ。
 これらの一揆が関連したところは、一部を除き京都の北部から西日本一帯だ。 例えば明治四年に兵庫県で発生した一揆の概要は、「賎民廃止令(解放令)に反対して神東郡辻川村に発した一揆は、市川筋を南北二手に別れて進み、南は姫路県庁手前で阻止され、北は生野県庁まで侵入し、要求をのませる。その後、山崎県下に波及し、同県も賎民廃止令を撤回する」というもの。この要求の中には冒頭に「穢多これまでどおりのこと」、すなわちこれまでどおりに部落の人びとを差別する制度を残すべきだという要求だ。参加人員は五〜六千人の規模。
 同じ年の広島での事件で、「一般の店に酒を飲みにきた二人の元革多(広島地方の呼び方)の若者を町人が殺害した」という件。当時、一杯飲み屋に部落の人が一緒に入って飲むのを禁じていた。「天朝様からこの度、われわれを平民同様に扱えというお触れがでたのに反対するのか」といわれ、しぶしぶ飲ませた。客の町人らは逃げ、のちに闇に乗じて殺してしまった。
 道後温泉では「穢多」が入浴したということでうち払いがあった。被差別部落民は馬などを入れる湯にしか入ることができなかった。
 一揆の結果、県段階で解放令が一時撤回されたのは、生野、山崎、津山、真島、北条、福岡におよび、直接的な被差別部落の被害は統計によると焼き討ち・打ち壊し二〇六八戸以上、死傷五二人以上になる。

 これまでは何かの間違いだろう、ウソであろうと書かれていた。私も最初は信じられなかった。
 「福岡県党民秘録」という有名な竹槍一揆の解説に「党民強訴の大意」というのがある。三一書房の「庶民生活史料集」にある。これには部落解放反対の要求は見えない。
しかし現物の「公文録」を見ると、その史料から五行ばかり削られている。現物には「穢多平民区別の事」とある。民衆史の研究や部落問題の研究者で史料をたんねんにまとめている人が、膨大な史料集からこういうところを全部削っているわけだ。

「新政反対一揆」の背景
 解放令反対一揆には四つの要素がある。

ひとつは解放令後の差別撤廃の要求と行動に見られる被差別部落民の「傲慢」の抑止。兵庫県などでは一般の農民と道で会うと、部落の人たちは道をよけて土下座をしなくてはならなかった。これを全部やめた。農民は「血が逆流する思いがした」という史料がある。
 
もうひとつの理由は 「交わり」の拒否。一緒に食事をしたり、同席しない建前だった。被差別部落の人たちは解放令がでたので、一緒に飲食をしたい、入浴したい。縁組の話も、直接結婚するという話より、道後や岡山の意識では「今度の解放令はわれわれと結婚させようということだ」と理解していく。
 
三番めの意識は「屠牛馬への嫌悪感」の問題。牛馬の肉食が公然と許可され、屠殺をするから、牛や馬の数が減る。物価が高騰している時に、牛馬まで高騰すると反対する。日照りで塩害が起きたが、それは近くに屠牛場ができたためだと言われる。
 これらの現象的な反応が高じて一種の被害者意識ができてくる。別に被差別部落の人が「道で立って礼をした」としても軽蔑したわけではない。それが「不敬」と感知される。目下と思っていた者が対等な態度をとるとバカにしていると思う。身分関係の急激な変化がこうした意識を生んだ。
 
 内心は これまでいじめてきたから、今度はやられるのではないかという疑心暗鬼もある。
 一揆の直前には部落の人たちは不穏を察知して戦々競々としている。被差別部落の人びとは経済封鎖にあう。困って、自分たちを理解してくれそうな店に行って「物を売ってくれ」とお願いする。店主は村の規制で売れないので「まわりと相談してから」という。「では数日後にまた来るから」と言って帰る。すると「数日後に襲ってくるに違いない」と竹槍で武装が始まる。最初は被差別部落民にたいする竹槍だったが、そういう新政をやっている県は許せないということで県に竹槍をむける。この過程に猜疑心がある。

民衆運動の持つ二面性をどうみるのか

 関西などのすべての一揆に共通してでてくるのは、部落解放令がだされた直後に部落の人たちが新しく「平民としてふるまって」いることだ。関東など多くのところでは、それまで通りの振る舞いをやらされている。関東は被差別部落は人数的にも少ないし、経済的にも疲弊していた。
 農民・町民の側がそういう部落の人たちの新しい行動を受け入れたところもある。例えば奈良や大阪などでは、被差別部落の人たちが解放令を喜んでいることを暖かく見守っている側面がある。被差別部落の人たちは死んだ牛馬の処理をやらされていたが、幕末には「穢れ意識」は消えていて、死んだ牛馬をオレたちにも処理させてほしいと一般の馬喰が進出して被差別部落民の職域を侵すほどだった。身分と職業の結びつきがかなり切れてくる。「解放令」がでても新しいことではなく、後追いをしている状況もあった。そういうところでは起こっていない。
 したがって、一揆は関東では起こらない。被差別部落の側に新しい行動を起しようがないほど力が弱い。あるいは農民の側の許容量というか、「当たり前」となっている。反対一揆が起こったところは解放令をきっかけに急激に解放運動が起こったところだ

 初期の研究では「何かの間違いではないか」という意見も多かった。しかし「部落襲撃」が行われていないとされた明治四年の兵庫の一揆にも未遂事件があったことがわかった。兵庫の一揆には県庁に向けたのがあるが、岡山の一揆では「穢多狩り」というような、被差別部落を探して襲撃している。リンチの場合もある。政治的な意識が高いところは権力に向けて闘った。恐ろしいことだが、部落解放に反対する要求をかかげて県庁を占拠した。そこでは「部落襲撃」をしないで、解放令を以前に戻させた。
そういう力を持たないところでは、目の前にいる被差別部落の人たちを個別に襲撃することで、狭い範囲で自分たちの要求を実現しようとしたにすぎない。

 地租改正だとか、断髪令、新しい行政区画を作る、学校をつくる、徴兵をする、そういうさまざまな新しい政策に反対する。被差別部落の人たちが平民としての行動を起した解放令も新政だ。新政反対だ、と

 被差別部落の人たちが行動を起せないところでは、こういうものをかかげる必要はない。したがって新政反対一揆の中に解放令反対の要求が入ってこないだけだ。新政反対の要求の中に部落解放反対が組み込まれた時に相乗作用がでる。大きな一揆ほどそうした要求が組み込まれる。

 かつては士族や富農が指導したからとも言われた。しかし、統計を見ると指導層には貧農が圧倒的に多い。多くが下層のイニシャチブで行われている。
 本日の民衆史の研究会には水をかけるような話になっているかもしれないが、部落差別というのは民衆の中にけっこうあるということを認めざるをえないのではないか。
同時に、私は民衆はそれを克服する可能性をもっているとも思っている


 当時も民衆の中の自覚的な人びとは、人権的な意味においては権力よりもはるかに進んでいた。解放令反対一揆で殺戮が行われた岡山北部では、その八年前には「改政一揆」が起こり、被差別部落の人びとが多人数一緒に参加している。同じ農民が、あるときはこのように振る舞い、あるときは部落差別をしている。民衆は単純な一枚岩ではない。
 おそらく民衆の中の差別的な層が明治六年にはイニシャチブをにぎり、「改政一揆」のときにはそうでない人たちがイニシャチブを握ったのではないか。

 こういう問題を意識的に考えていく人たちは本当は一握りなのかも知れない。ここに非常な危うさがある。ナチスを生み出したドイツだが、いま克服それをしようとしているのもドイツだ。いまの日本の社会の中に自由主義史観のような人たちがでてくるのもある意味では当然だろう。

 歴史はこのようにジグザグを繰り返しながら、全体としてゆっくりと前に進んでいくのではないかという希望を持っている。


解放令反対一揆は、解放令発布の日と同年に起こったのだとあらためて歴史を確認する

 

※参考 小林健治の「連載 差別表現」
  
*ヘイトスピーチ[差別発言・憎悪発言](2)[2013/1/26]
 日本ではヘイトスピーチの事例としてよく取り上げられている在特会(在日特権を許さない市民の会)による、京都朝鮮第一初級学校への襲撃事件(2009年12月)と奈良の水平社博物館差別街宣事件(2011年1月)がある。
 前者は、威力業務妨害と侮辱罪で執行猶予四年の有罪判決、後者は名誉毀損として、原告の在特会メンバーに水平社博物館に対し慰謝料150万円の支払いを命ずる判決が、おのおの下されている。
 日本には欧州やカナダ、オーストラリアなどと違い、ヘイトスピーチを犯罪として取り締まる法律がないが故に、侮辱罪とか、名誉毀損で訴えるしか、法的手段がない。逆にヘイトスピーチ(差別発言)に激怒して、発言者を殴れば暴行罪・傷害罪に問われかねない。
 前回でも書いたが人種差別撤廃条約の第4条(a)を留保している外務省の言い分は、憲法21条のいわゆる“表現の自由”に抵触するからということであり、また日本の法律学会の大勢も、それを支持している現状は、まったく学者の不見識というほかない。


*被害当事者不在の「表現の自由」――ヘイトスピーチをめぐって[2013/7/13] より

差別は道徳の問題ではない。現実に日々行なわれているヘイトスピーチは、道徳や倫理を説くことによっては、決してなくならないし、解決する問題ではない。
社会的差別は、忌避感情や制度、慣習として、日本の社会構造に深く根をおろし、はりめぐらされているのであって、差別は社会的犯罪であるという視点から、社会的に規制すべき事柄なのである


日本ではヘイトスピーチ事件は 差別のお茶の間への垂れ流しになるからと マスコミがあまり取り上げないらしく、正直、マスコミ終わったなどと。
(有能な記者の現れにまだ期待していたがそれが甘かったという認識を持つに到った) 


*報道より
 (片岡伸行編集部・週刊金曜日7月12日号) 
ヘイトデモ抗議のAさん――長期勾留の末、釈放
東京地検の伊丹俊彦検事正と同公安部・鈴木敏宏検事が勾留延長を請求し、東京地裁の内藤恵美子裁判官がこれを即日認める決定をした
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130723-00010001-kinyobi-soci





松本治一郎
 [[1959(昭和34)年]]12月8日
 部落解放同盟第十四回全国大会に、松本治一郎が病をおして出席し、以下の演説を行なう。





 「実は私は、皆様ともうあえないものと考えておりました。と申しますのは、昨年の暮から老年期に入ったらしい(笑)医者が申しますのに、血圧が高いためにしばらく入院しろ・・・それでなければ生命の保障ができないというのであります。
 生きたくないと思うけれども、やっぱり生きのびたい。と申しますのは、やはり完全解放の日を見てから死にたいからです。」



[[1923(大正12)年]]8月28日

 [[内務大臣]]が、[[地方改善に関する訓令]]を出す


[[1925(大正14)年]]8月28日

 [[全国水平社解放連盟]]が結成される
 この頃、[[アナ・ボル論争]]が激化する。


[[1933(昭和8)年]]8月28日

[[全国部落代表者会議]]([[大阪天王寺公会堂]])が開かれ、[[高松差別裁判]][[銃弾闘争]]方針・[[差別裁判取消要求]][[請願行進]]の組織・各[[部落]]に[[差別裁判]][[糾弾闘争委員会]]の設置等を決定した。


[[1934(昭和9)年]]8月28日

 全水本部が「解放令記念日」に当って、融和主義との対決を訴える。

[[1937(昭和12)年]]8月28日

 松本治一郎が、東京中央放送局差別糾弾事件をひとまず解決したのに当って、「解放令記念」ラジオ放送「社会主義と融和主義」を組ませる。


[[1940(昭和15)年]]8月28日

 全国水平社第一六回大会が開かれ(東京)、部落問題完全解決体制樹立・挙国総動員の大和運動へ等が議論される。


[[1949(昭和24)年]]8月28日

 部落解放委拡大中央委員会(京都崇仁小学校)で、ファッショ反対声明が発表される。


[[1955(昭和30)年]]8月28日

 部落解放委員会第一〇回全国大会(大阪中之島公会堂)が開かれ、「部落解放同盟」への改称、綱領・規約の改正が決議される。


 部落解放委員会結成一〇周年記念文化祭が開かれる。



[[1960(昭和35)年]]8月27〜28日

 部落解放第四回全国青年集会が開かれる(岡山)。
8月24日誕生花おいらんそう




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*ドキュメンタリー映画 『みえない手錠をはずすまで』予告編 
近々完成



「冤罪・田園調布資産家殺人事件の1審判決文は「判例タイムズ」に掲載されました。読みこなすには大変なエネルギーの要る分量です。研究者の方はどうぞ。」へのリツイートをよろしければお願いします

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higurashi at 06:08|PermalinkComments(0)TrackBack(1)