1973(昭和48)年

September 20, 2013

1973(昭和48)年9月20日徳島ラジオ商殺し事件第四次再審請求審で 最高裁が特別抗告棄却、冨士茂子さんへの偏見や差別があったことも誤判原因の一つとして謝罪を

1973(昭和48)年9月20日
 [[徳島ラジオ商殺し事件]](第四次[[再審請求]])で、[[最高裁]]が[[特別抗告]]を[[棄却]]する。


1979(昭和54)年11月15日、高松高裁
  徳島ラジオ商殺し事件第六次再審開始決定(判例時報九九〇号)
1983(昭和58)年3月12日、高松高裁
  徳島ラジオ商殺し事件再審開始抗告審決定(判例時報一〇七三号)
1985(昭和60)年7月9日徳島地裁(山田真也裁判長)
  徳島ラジオ商殺し事件再審無罪判決(判例時報一一五七号)


眉山 名刺
*偏見が生んだ冤罪事件としての徳島ラジオ商殺し事件
 事件発生当時(昭和28年)は、離婚、カフェーを経営し、婚姻届にこだわらなかった冨士茂子さんは、地元の人のみならず、警察、検察、裁判官、マスコミ、同性からも、こういう女性は殺りかねないとの偏見の目でみられました

 そういった偏見、差別があったことを認めさせ、謝罪させることも、冤罪防止のためには大事なことですね

1959年の日本の女性史より
富士茂子と夫は2人とも過去に2度の結婚失敗の経験があり、結婚届けを出していない、現在でいう事実婚であった。茂子はこの結婚前まで酒場を経営しており、夫はその客だった。夫には先妻の子が高校生を頭として4人おり、茂子と夫との間に9歳の女子があった。5人の子の全員が茂子を母として慕っていたことは後に裁判所も否定できなかった。・・・

経理に精通した妻茂子は事業の才能もあり、事業面でも夫の片腕であった。夫の事業における茂子の功績については判決でも評価されている。逮捕後、このような茂子について、地元新聞は「狡智」「勝気」「男まさり」「鬼のような…」と書き、また、事実婚であったことをとらえて「入籍してもらえないことを恨み、奸計を…」と書き立てた。これにより茂子は地元の女性達から"許されざる女"の烙印が押された。公判の傍聴席には「鬼ババア!」「人殺し!」「死刑にしろ!」と叫ぶ大勢のヤクザの一団とともに、不思議なことに、大勢の中年女性達の姿があった。この後長年に亘って茂子を苦しめたものは不可解な司法の理不尽さだけでなく、同性から受ける"許されざる女"という容赦のない性差別だった。


 角田 由紀子弁護へのインタビュー記事 より
特にきっかけとなった事件はありますか。

弁護士になって3年目、日弁連の弁護団に加わって関わることになった再審事件の「徳島ラジオ商殺し事件」です。殺された男性の内縁の妻であった冨士茂子さんに対する検察官や裁判官の考えが、露骨に女性差別的なことに驚きました。彼女は事実婚を選び、法律婚を意識的に拒否していました。しかし、検察官はどういうふうに事件を仕立てたのか。そして、判決を読んで、「まっとうとされる法律婚」の仕組みの中に入らなかった女性を、法がどのように扱うのかが非常によくわかりました。社会的制裁そのものです。
彼女は離婚を経験しているのですが、判決は「二度まで結婚に失敗し」とか、「夫の女性関係への嫉妬心があり、内縁の妻という立場への不安から殺した」といった趣旨の文言で、動機を勝手に捏造していました。
今なら、そこまで露骨には書けないでしょうが、当時は判決文にそういうことが書かれていました。いずれにしても、法律婚という秩序に反抗した女性への非常にはっきりした敵意を感じました。
「女性はみんな結婚して正妻の地位に就きたがるもの」と判決は見ていましたが、彼女は自分からそれを拒否していました。離婚した経験から、結婚に、あるいは男性に依拠して生活することは、自分にとって生きやすいものではない。そうではないもっと自由な生き方を選んでいたのです。
しかし、裁判官や検察官の目から見ると、法律婚制度に入れてもらえなかったかわいそうな女がそれを恨んで夫を殺したという構成でしかなかった。
ある意味で目から鱗の思いを味わった事件でした。女性が法律婚を拒否し、自立・自律的に生きることはありえないし、信じられない。判決という名の下で行われていた徹底的な悪意の向け方を目の当たりにして、目が覚めましたね。
再審事件をきっかけに、法は女性を守らないことを実感し、どうしてだろうと考えるようになりました。よくよく考えれば当たり前で、明治に憲法ができてから敗戦までの50年間、女性には選挙権もなく、法律の世界から排除されてきました。



 徳島ラジオ商事件でのツイートより
東海TVの名張事件の番組で、もう一カ所心打たれたのは、徳島ラジオ商事件の再審開始決定を出した秋山賢三裁判長(現弁護士)が、目に涙を浮かべつつ「何度も何度も裁判所に裏切られた人が、それでも裁判所を信頼しようとする。他には道がないから」と語られている場面。全国の裁判官に、見て欲しい。


「布川事件」の無罪判決を受けて、「徳島ラジオ商殺し事件」のルポ(斎藤茂男『われの言葉は火と狂い』)を再読。この事件で無罪判決を告げた新聞は「故 富士茂子さん 無罪」の見出し。「故」であった。「検察官にせよ、裁判官にせよ、だれひとりみずから責任をとろうとした人とはいなかった。」と

「徳島ラジオ商殺し事件」のルポで「ようやく手にした『無罪』は・・・人間だれもが抱いている願望(真実は必ず勝つこと)を実現したいという点から考えて、茂子さんの一生が果たした役割は、じつに大きな意味があったといわなくてはならない。」と。そのためには、いずれも数十年の月日を要するのか。


稲木哲郎氏の「裁判官の犯罪」を読了した。実証軽視の空論の積み重ね、仮説を強引に押し通そうとする科学と正反対な論理によって生まれる有罪判決。徳島ラジオ商殺し事件における「判決の論理」と「科学の論理」の乖離を、社会心理学者の著者が科学的に分析する。

冤罪であった徳島ラジオ商殺し事件の裁判も、「内縁にあった女性が嫉妬で被害者を殺した」という、”正義のストーリー”が捏造される過程として読むことができる。まさに裁判&司法手続きが”正義を実現する場”として機能したからこそ、冤罪が生まれたと言える。

「在特会」以上に「実話ナックルズ」で読み応えがあったのが「袴田事件」に関する記事。古くは免田、財田川、徳島ラジオ商、最近でも足利、鹿児島、富山と冤罪事件は絶えないのに、いつになったら逮捕者=犯罪者という態度を社会は改めるのか


東海地区のテレビで「名張毒ブドウ酒事件」のドキュメント。閉鎖された裁判所のタテ社会の中での再審の難しさが如実に。岩波新書「裁判官はなぜ誤るのか」の著者秋山賢三元裁判官が出演。裁判官時代に徳島ラジオ商殺人事件の再審を決定した後、冷遇されて裁判官をやめた方。


冤罪・徳島ラジオ商事件で再審開始決定を出した秋山裁判官は出世コースを外され地方裁判所を転々とした。名張事件で2005年幻の再審開始決定を出した小出裁判官は決定を出した後、退官。そしてこの再審開始を取り消した門野裁判官は東京高裁に栄転している。裁判所とはそういうところだ。


奥西死刑囚は村社会を守るための生贄にされた!?名張毒ぶどう酒事件の闇に迫る再現ドラマ『約束』 http://www.cyzo.com/2013/02/post_12571.html … 「司法の世界では再審に興味を示す裁判官はエリートコースから外れる。秋山元裁判官は徳島ラジオ商殺人事件の再審を認め、出世コースから外れた」


瀬戸内晴美・富士茂子両氏の「恐怖の裁判」を読了した。徳島ラジオ商殺し事件の被疑者として長期にわたって服役した故富士茂子氏による獄中書簡と手記。そして支援者のひとり、瀬戸内寂聴氏が週刊読売に発表した、事件の真実を世間に伝えるための文章を掲載したもの。






偏見、差別が引き起こす冤罪事件を 次世代にひきつがないようにしましょう

裁判所は事実調べを行い再審開始を!

検察は すみやかに全証拠開示を!

証拠開示の法制化を!

sayama19



*狭山事件 第15回三者協議にむけて 東京高裁前連続アピール行動が開始されました
 2013年9月10日(火)、17日(火)、24日(火)、30日(月)、
  10月8日(火)、15日(火)、22日(火) 
    8:30〜10:00、11:50〜13:00

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September 18, 2013

1973(昭和47)年9月18日松山事件再審即時抗告審で仙台地裁に差し戻し決定、「自白」の変遷から冤罪くささを嗅ぎ取られた小島建彦裁判長

[[1973(昭和47)年9月18日]] 松山事件再審即時抗告審で仙台地裁に差し戻し決定 

 [[松山事件]]の[[即時抗告審]]で、「原棄却決定取消、仙台地裁へ差戻す」旨の決定が下る([[仙台高裁]])

 →[[1979(昭和54)年12月6日]]、[[再審開始]]、[[死刑]]執行停止決定が下る([[]]仙台地裁)→[[1983(昭和58)年1月31日]]、[[検察官]]の即時抗告棄却決定が下り、[[再審]]開始が確定する([[仙台高裁]])。

*「自白」の変遷から 冤罪くささを嗅ぎ取られた 第二次再審請求審の 小島建彦仙台地裁裁判長
時系列表を作り、表の上段に供述内容、下段に捜査の進展状況を書き込んで検証した。捜査官が新たな情報を入手するたびに供述が変遷していく様子が手に取るように分かった


*萩原金美左陪席裁判官の 検察側鑑定人尋問に対し 制止の圧力をかけた一審仙台地裁裁判長
 斎藤さんを取り調べた警察官への証人尋問で、聴取した時間や方法などを繰り返し尋ねると、隣に座る裁判長に法服の右袖を引っ張られ、制止された。
 閉廷後、「刑事裁判は一を聞いて十を察する余韻があるべきというもの。あんな尋問は裁判の品位を汚す」とたしなめられたが「死刑かどうかの事件で、品位も何もありますか」と食ってかかった。



* 松山事件 年表
1955(S30)
10.18 松山事件発生
12.12 斉藤幸夫別件逮捕
1960(S35)
11.01 松山事件上告棄却 斉藤幸夫死刑確定 萩原金美(かねよし)左陪席裁判官
1961(S36)
3.28 名張毒ぶどう酒事件発生
8.08 松川事件、仙台高裁差戻審で全員無罪判決
1962(S37)
4.11 松山事件、斉藤幸夫被告救援会結成
7.10 母、斉藤ヒデさんら、法務大臣に死刑執行停止要請
1964(S39)
5.07 仙台地裁古川支部、松山事件再審請求棄却
5.11 松山事件、仙台高裁に即時抗告
1966(S41)
5.13 仙台高裁、松山事件即時抗告棄却
1967(S42)
8.30 布川事件発生
1969(S44)
5.27 最高裁、松山事件再審特別抗告棄却
6.07 松山事件第2次再審請求申立
1971(S46)
10.26 松山事件第2次再審請求棄却
1973(S48)
9.18 松山事件再審即時抗告審で、仙台地裁に差し戻し決定
1975(S50)
5.20 白鳥事件再審請求、最高裁が特別抗告棄却決定(いわゆる「白鳥決定」)
11.27 仙台地検、松山事件裁判未提出記録開示
1978(S53)
11.13 松山事件再審請求で仙台地裁実地検証実施
1979(S54)
12.06 仙台地裁、松山事件再審開始決定
         検察、即時抗告
1983(S58)
1.31 仙台高裁、松山事件再審の検察即時抗告棄却
2.04 松山事件再審開始確定
7.12 松山事件再審初公判
(7.15 免田事件、再審裁判で無罪確定)
1984(S59)
(3.12 高松高裁で財田川事件再審無罪判決)
5.20 松山事件第49回現地調査(最後の現調)
7.11 仙台地裁 小島建彦裁判長、松山事件再審無罪判決 確定 


* 松山事件 でのツイートより 2012年3月8日

大阪府警の警部、証拠の吸い殻紛失し捏造 http://t.asahi.com/5ttn    これは、酷すぎる。と言っても、松山事件(もちろんそれ以前もだけど)で発覚して以来、証拠の捏造、隠蔽は警察の常套手段だ。捏造、、隠蔽は当然あるという前提にたった報道、弁護活動をすべき。

*正義のかたち:重い選択・日米の現場から/1 死刑確定、24年経て無罪「松山事件」=毎日新聞より
 難しい「自白」の判断 
◇再審の裁判長、自白の不自然さ気付く
1984年7月。「松山事件」のやり直し裁判(再審)で、死刑囚の斎藤幸夫さんは冤罪(えんざい)を晴らし、29年ぶりに自由を手にした。仙台地裁の裁判長として無罪を言い渡した小島(おじま)建彦弁護士(75)はその数カ月後、仙台市内の居酒屋で偶然、斎藤さんと出会った。
 「元気ですか?」
 「はい」
 死のふちから生還した斎藤さんの元気そうな姿を見て、うれしさが込み上げた。短いやり取りだったが、その笑顔は小島さんの記憶の中に残る。
 だが、長年拘置されていた斎藤さんは国民年金に入れず、晩年は無年金で生活保護に頼った。望んだ結婚もかなわず06年7月、75歳で死去した。斎藤さんと「同い年」になった小島さんは、事件について初めて取材に答えた。

 裁判の焦点の一つは、斎藤さんの「自白」だった。小島さんは時系列表を作り、表の上段に供述内容、下段に捜査の進展状況を書き込んで検証した。捜査官が新たな情報を入手するたびに供述が変遷していく様子が手に取るように分かった。犯人しか知りえない「秘密の暴露」も全くない

 自白は信用できないと確信し、無罪を言い渡したものの、真犯人は分からないまま。「犯人をなぜ出すんだ」。投書が地裁に届いた。92年に退官した後、法曹関係者からも「実際はどうだったんだ」とよく聞かれた。そのたびに「彼は無罪、無実、冤罪だったと思う」と繰り返してきた。
 だが「もし自分が1審の裁判官だったら、無罪を言うのは難しかったかもしれない」とも語る。有力な物証とされた血痕の証拠価値を疑問視する新証拠は当時なかった。「裁判官だってミスジャッジすることはあるんです」


◇1審「誤判」裁判官、裁判員の「死刑」を懸念
 「人生を狂わせてしまった。誤判の責任をどう取るべきか」。左陪席裁判官だった萩原金美(かねよし)さん(78)=神奈川大名誉教授=は苦悩し続けてきた。死刑を言い渡した当時は26歳の駆け出し判事補だった。

 有罪なら死刑は免れない事件。真実の発見に躍起になった。斎藤さんが事件後に使ったとされる掛け布団の襟あての血痕を鑑定してもらうため、書記官と一緒に布団を抱えて上京し「権威」といわれた法医学者を訪ねた。

 斎藤さんを取り調べた警察官への証人尋問で、聴取した時間や方法などを繰り返し尋ねると、隣に座る裁判長に法服の右袖を引っ張られ、制止された

 閉廷後、「刑事裁判は一を聞いて十を察する余韻があるべきというもの。あんな尋問は裁判の品位を汚す」とたしなめられたが「死刑かどうかの事件で、品位も何もありますか」と食ってかかった。

 「権威」による鑑定の結果、襟あてに付着した血痕は被害者と同じA型。斎藤さんの家にA型の人はいない。萩原さんを含め裁判官3人は誰も、有罪に疑問をはさまなかった。萩原さんは約2週間、毎晩仏壇に火をともし、一滴も酒を飲まずに机に向かい、判決文を起案した。

 死刑を言い渡した後も眠れない夜は何度もあった。事件記録が頭の中を駆け巡ったが、最後は、法医学者の鑑定で<間違いないんだ>と自分に言い聞かせた。

だが、再審請求後に明らかにされた証拠や証言で、県警が掛け布団を押収した後に血痕が付着した疑いが出てきた。84年の再審無罪の判決文は「あまりにも不自然、不合理な付着状況が認められる」と捜査側の証拠捏造(ねつぞう)を示唆した

 萩原さんは、既に大学教授になっていた。誤判にかかわった自責の念から大学を辞めようか悩んだが、学生に止められ踏みとどまった。「裁判官だって死刑事件を担当したくないと思っている人はたくさんいる。こんな負担を、たまたま選ばれた裁判員に負わせるのは、どうかとも思う」


*松山事件:再審無罪の元死刑囚の母、斎藤ヒデさん死去(2008年12月24日)


*自白の変遷 でのツイート より

2011年12月12日
西嶋勝彦弁護団長は「袴田死刑囚の自白の変遷をたどれば、無実と分かるという弁護側の鑑定を強固にする材料になる」と今回開示された証拠に期待 :袴田事件,新証拠176点を開示…第2次再審請求 - 毎日新聞 http://mainichi.jp/select/today/news/20111212k0000e040074000c.html?inb=tw … via

*三浦和義対談集『敗れざる者たち』(ぶんか社 2008年)
Part7 田園調布資産家殺人事件 折山敏夫(元受刑者) より抜粋

 
河村)上申書を読むと、折山さんは本当に警察に協力しているんですよ。協力することで自分の無実を警察に晴らしてもらおうとしている。多分、そうなったら、大多数の人がそうするかもしれません。警察は味方だと思っているから。・・・

折山)黙秘しなくても、事実を話さずに、警察から言われるままの自白調書を書いておけば、それが逆の証拠になって、無罪になったんだろうと思います。そのことは、後から別の弁護士さんに言われました。矛盾が出てきますからね。ところが私は全部しゃべったから、全部、こちらの証拠を潰されてしまった。・・・



*「自白」の変遷についての弁護団の主張をしりぞけ、裁判所が再審開始決定を行っていない事件


 狭山事件では、狭山事件第2次再審請求において東京高裁に提出した意見書、「自白供述の心理学的分析―とりわけその供述変遷に着目して―」(浜田意見書)にて、石川一雄さんの捜査段階での供述は 否認→三人犯行自白→単独犯行自白と変遷していることを指摘
 浜田 寿美男著 『狭山事件虚偽自白』(日本評論社)
 

 袴田事件では、1991年に日弁連から袴田氏の自白について鑑定依頼を受けた浜田 寿美男氏が心理学的供述分析を行なった。犯行当時の着衣の変遷、他 
自白が無実を証明する―袴田事件、その自白の心理学的供述分析』 (法と心理学会叢書)


 仙台・北陵クリニック筋弛緩剤点滴事件では、点滴ボトルにマスキュラックスを混入したという「自白」→以後一貫して無罪を主張→三方活弁からチューブの上の方に向かって注射したと検察が主張を変えた等の変遷があった
作られたウソの「自白」として、仙台弁護士会に人権救済申し立てを行い、弁護士会が「警告・勧告および要望書」(2002年9月24日)を提出。
 
 
田園調布資産家殺人事件では 供述内容の著しい変遷とその理由を、上告趣意書(平成四年二月一九日提出)の中で主張。

 
 名張毒ぶどう酒事件では、一審では無罪であり、自白の変遷は、有罪と認めるには「合理的な疑い」と、小川潤裁判長に認定されていた。無罪判決に対する検察官の上訴は制限すべき。
 詳細)【書】名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の半世紀より

 小川潤裁判長が最初に最も疑問に思ったのは、奥西勝の犯行についての準備の自供だった。

 "ぶどう酒搬入時刻についても慎重に検討した結果、起訴状にある5時10分ではなく、4時以前と思料した。そこには明らかに時刻の手直しが行われていると断定した 

 "官舎に住んでいた小川裁判長は、休日も返上して事実関係を調べた。帰宅して風呂に入るのも惜しみ、メモ用紙を持参して官舎風呂場の腰板に張り付け、湯船の中で考えた。アルキメデスの心境を思い立ったという
 
 まず被告人奥西勝の自白の任意性は認めるものの、その信憑性については措信しがたい。また、問題のぶどう酒が公民館に運ばれる時間の設定、犯行の動機、準備、実行、あるいは毒物混入のできる機会などついて、検察側の立証を次々と崩していった

 当時の長井源弁護士「この種の裁判で死刑の求刑に対し無罪の判決は、裁判所として勇気と自信のいることである・・・まかり間違えば、被告人は法と裁判のもとに、絞首台の露と消えるところだった。裁判所側としては本当によく調べ尽くして余すところがない。無罪の判決は、まさにご明断で敬服する・・・」

 逆転死刑 控訴審の第一回公判は、1965年11月20日、名古屋高裁刑事一部上田孝造裁判長斉藤寿、藤本忠雄裁判官のもとで行われた。

 
1972年6月15日、上告審判決公判は、最高裁判所第一法廷で開かれ、岩田誠裁判長は二審の死刑判決を支持し、上告棄却の判決を言い渡した




*[[1976(昭和51)年9月18日]]は
 [[加藤老事件]]で、[[再審]]開始決定が下った日でもあります([[広島高裁]])
 →[[1977(昭和52)年7月7日]]、[[無罪]]の[[確定判決]]([[広島高裁]])。




裁判所は事実調べを行い再審開始を!
検察は すみやかに全証拠開示を!
証拠開示の法制化を!

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*狭山事件 第15回三者協議にむけて 東京高裁前連続アピール行動が開始されました
 2013年9月10日(火)、17日(火)、24日(火)、30日(月)、
  10月8日(火)、15日(火)、22日(火) 
    8:30〜10:00、11:50〜13:00

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*ドキュメンタリー映画『SAYAMA みえない手錠をはずすまで』完成!!
 東京、兵庫、大阪での上映会のお知らせ / 予告編



*「冤罪・田園調布資産家殺人事件の1審判決文は「判例タイムズ」に掲載されました。読みこなすには大変なエネルギーの要る分量です。研究者の方はどうぞ。」へのリツイートをよろしければお願いします



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May 11, 2013

1973(昭和48)年5月11日

[[徳島ラジオ商殺し事件]]の[[第四次再審請求審]]で、[[高松高裁]]が、[[即時抗告]][[棄却]]決定を下す →、[[最高裁]]へ[[特別抗告]]を行う。

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April 30, 2013

1973(昭和48)年4月30日

 [[帝銀事件]]で、[[第十五次再審請求]]を行う([[東京高裁]])。

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March 30, 2013

1973(昭和48)年3月30日

 [[米谷事件]]で、[[再審請求]]が[[棄却]]される([[青森地裁]]弘前支部)。
 →[[仙台高裁]]へ[[即時抗告]]を行う。
 

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November 27, 2012

1973(昭和48)年11月27日

 [[狭山事件]]で、[[第二審]][[公判]]が再開される([[寺尾裁判長]])。 
 [[一万人集会]]に、一万五千人が結集する。

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September 25, 2008

1973(昭和48)年9月25日

彼岸花[[江津事件]]で、[[最高裁]][[第三小法廷]]が[[上告棄却]]を行う。

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October 26, 1973

1973(昭和48)年10月26日

 三六年前の、同性愛者差別に基づく冤罪事件『都立富士高校事件』について、以下、『狭山事件と再審』(和島岩吉編)より引用します。


都立富士高校放火事件

 ・・・警察は全日制の生徒より家庭環境の悪い定時制生徒のなかに犯人がいると予断し、夜間徘徊し窃盗事件を犯したKをこの窃盗事件で別件逮捕し、勾留は代用監獄(中野警察署)で行われました。





 Kは、逮捕直後から本件について否認してきましたが、朝八時半から午後九時、一〇時頃までの連日の取調べ、人間国宝に指定されている人との同性愛関係をマス・コミに発表するとの脅迫、痔病の苦痛を利用した取調べ(「自白」後、勾留執行停止となり手術を受けさせてもらう)、





  ポリグラフ検査を利用した誘導にとる取調べ等を受け、本件は、同性愛の相手には迷惑をかけられないと考えて「自白」するにいたりました。





 本件起訴は、一九七三(昭和四八)年一二月二八日であり、別件起訴後の三四日目でした(同起訴同年一一月二四日)。この間には痔の手術による一五日間を除いて、前記警察署に勾留されて取調べを受けているのです。





 なお弁護人は国選で、第一回公判(一九七四・二・二八)の直前の二月九日に選任されています。Kの「自白」の最も重要な時期に、弁護人の活動が一切行われなかったのです。




 
 判決は一、二審とも無罪。
 一審は自白調書の任意性について、警察官調書には疑問ありとしながら、検察官調書については肯定しました。別件逮捕、勾留については、別件逮捕による本件取調べの受忍義務を否定しながら、痔の手術後は健康回復を理由として違法性は遮断されると判断し、かつその後の調書の証拠能力を肯定しました。





 二審判決は、「自白」調書につき任意性、信頼性を否定し、別件逮捕・勾留については違法でなく、取調べ受忍義務を肯定しました。




 その他ご参考まで。
民族差別が再審を阻む上で大きな影響を与えた丸正事件

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