1976(昭和51)年

May 22, 2019

1976(昭和51)年5月23日

 [[石川一雄さん]]の[[不当逮捕]][[一三年]]に抗議して、各地で[[同盟休校]]をはじめとした闘いが行われる。

[[狭山事件]]で、全国一九都道府県千五百校、十万人の児童生徒が「狭山[[同盟休校]]」を行う。



『石川一雄獄中歌集』より



 荊冠旗なびく厳暑の空高く行進隊の勇ましき兄弟(きみ)

 園児らの「禿増し」手紙の絵に寂しわが世の獄に涙落ち来も

 差別沈む(のむ)怯濡(きょうだ)の親族へ鉄鎖の我は奮起促し檄を飛ばさん

 或る時は崩れがちなるわが心思い直してペンを走らすも



higurashi at 19:57|PermalinkComments(0)

September 18, 2013

1973(昭和47)年9月18日松山事件再審即時抗告審で仙台地裁に差し戻し決定、「自白」の変遷から冤罪くささを嗅ぎ取られた小島建彦裁判長

[[1973(昭和47)年9月18日]] 松山事件再審即時抗告審で仙台地裁に差し戻し決定 

 [[松山事件]]の[[即時抗告審]]で、「原棄却決定取消、仙台地裁へ差戻す」旨の決定が下る([[仙台高裁]])

 →[[1979(昭和54)年12月6日]]、[[再審開始]]、[[死刑]]執行停止決定が下る([[]]仙台地裁)→[[1983(昭和58)年1月31日]]、[[検察官]]の即時抗告棄却決定が下り、[[再審]]開始が確定する([[仙台高裁]])。

*「自白」の変遷から 冤罪くささを嗅ぎ取られた 第二次再審請求審の 小島建彦仙台地裁裁判長
時系列表を作り、表の上段に供述内容、下段に捜査の進展状況を書き込んで検証した。捜査官が新たな情報を入手するたびに供述が変遷していく様子が手に取るように分かった


*萩原金美左陪席裁判官の 検察側鑑定人尋問に対し 制止の圧力をかけた一審仙台地裁裁判長
 斎藤さんを取り調べた警察官への証人尋問で、聴取した時間や方法などを繰り返し尋ねると、隣に座る裁判長に法服の右袖を引っ張られ、制止された。
 閉廷後、「刑事裁判は一を聞いて十を察する余韻があるべきというもの。あんな尋問は裁判の品位を汚す」とたしなめられたが「死刑かどうかの事件で、品位も何もありますか」と食ってかかった。



* 松山事件 年表
1955(S30)
10.18 松山事件発生
12.12 斉藤幸夫別件逮捕
1960(S35)
11.01 松山事件上告棄却 斉藤幸夫死刑確定 萩原金美(かねよし)左陪席裁判官
1961(S36)
3.28 名張毒ぶどう酒事件発生
8.08 松川事件、仙台高裁差戻審で全員無罪判決
1962(S37)
4.11 松山事件、斉藤幸夫被告救援会結成
7.10 母、斉藤ヒデさんら、法務大臣に死刑執行停止要請
1964(S39)
5.07 仙台地裁古川支部、松山事件再審請求棄却
5.11 松山事件、仙台高裁に即時抗告
1966(S41)
5.13 仙台高裁、松山事件即時抗告棄却
1967(S42)
8.30 布川事件発生
1969(S44)
5.27 最高裁、松山事件再審特別抗告棄却
6.07 松山事件第2次再審請求申立
1971(S46)
10.26 松山事件第2次再審請求棄却
1973(S48)
9.18 松山事件再審即時抗告審で、仙台地裁に差し戻し決定
1975(S50)
5.20 白鳥事件再審請求、最高裁が特別抗告棄却決定(いわゆる「白鳥決定」)
11.27 仙台地検、松山事件裁判未提出記録開示
1978(S53)
11.13 松山事件再審請求で仙台地裁実地検証実施
1979(S54)
12.06 仙台地裁、松山事件再審開始決定
         検察、即時抗告
1983(S58)
1.31 仙台高裁、松山事件再審の検察即時抗告棄却
2.04 松山事件再審開始確定
7.12 松山事件再審初公判
(7.15 免田事件、再審裁判で無罪確定)
1984(S59)
(3.12 高松高裁で財田川事件再審無罪判決)
5.20 松山事件第49回現地調査(最後の現調)
7.11 仙台地裁 小島建彦裁判長、松山事件再審無罪判決 確定 


* 松山事件 でのツイートより 2012年3月8日

大阪府警の警部、証拠の吸い殻紛失し捏造 http://t.asahi.com/5ttn    これは、酷すぎる。と言っても、松山事件(もちろんそれ以前もだけど)で発覚して以来、証拠の捏造、隠蔽は警察の常套手段だ。捏造、、隠蔽は当然あるという前提にたった報道、弁護活動をすべき。

*正義のかたち:重い選択・日米の現場から/1 死刑確定、24年経て無罪「松山事件」=毎日新聞より
 難しい「自白」の判断 
◇再審の裁判長、自白の不自然さ気付く
1984年7月。「松山事件」のやり直し裁判(再審)で、死刑囚の斎藤幸夫さんは冤罪(えんざい)を晴らし、29年ぶりに自由を手にした。仙台地裁の裁判長として無罪を言い渡した小島(おじま)建彦弁護士(75)はその数カ月後、仙台市内の居酒屋で偶然、斎藤さんと出会った。
 「元気ですか?」
 「はい」
 死のふちから生還した斎藤さんの元気そうな姿を見て、うれしさが込み上げた。短いやり取りだったが、その笑顔は小島さんの記憶の中に残る。
 だが、長年拘置されていた斎藤さんは国民年金に入れず、晩年は無年金で生活保護に頼った。望んだ結婚もかなわず06年7月、75歳で死去した。斎藤さんと「同い年」になった小島さんは、事件について初めて取材に答えた。

 裁判の焦点の一つは、斎藤さんの「自白」だった。小島さんは時系列表を作り、表の上段に供述内容、下段に捜査の進展状況を書き込んで検証した。捜査官が新たな情報を入手するたびに供述が変遷していく様子が手に取るように分かった。犯人しか知りえない「秘密の暴露」も全くない

 自白は信用できないと確信し、無罪を言い渡したものの、真犯人は分からないまま。「犯人をなぜ出すんだ」。投書が地裁に届いた。92年に退官した後、法曹関係者からも「実際はどうだったんだ」とよく聞かれた。そのたびに「彼は無罪、無実、冤罪だったと思う」と繰り返してきた。
 だが「もし自分が1審の裁判官だったら、無罪を言うのは難しかったかもしれない」とも語る。有力な物証とされた血痕の証拠価値を疑問視する新証拠は当時なかった。「裁判官だってミスジャッジすることはあるんです」


◇1審「誤判」裁判官、裁判員の「死刑」を懸念
 「人生を狂わせてしまった。誤判の責任をどう取るべきか」。左陪席裁判官だった萩原金美(かねよし)さん(78)=神奈川大名誉教授=は苦悩し続けてきた。死刑を言い渡した当時は26歳の駆け出し判事補だった。

 有罪なら死刑は免れない事件。真実の発見に躍起になった。斎藤さんが事件後に使ったとされる掛け布団の襟あての血痕を鑑定してもらうため、書記官と一緒に布団を抱えて上京し「権威」といわれた法医学者を訪ねた。

 斎藤さんを取り調べた警察官への証人尋問で、聴取した時間や方法などを繰り返し尋ねると、隣に座る裁判長に法服の右袖を引っ張られ、制止された

 閉廷後、「刑事裁判は一を聞いて十を察する余韻があるべきというもの。あんな尋問は裁判の品位を汚す」とたしなめられたが「死刑かどうかの事件で、品位も何もありますか」と食ってかかった。

 「権威」による鑑定の結果、襟あてに付着した血痕は被害者と同じA型。斎藤さんの家にA型の人はいない。萩原さんを含め裁判官3人は誰も、有罪に疑問をはさまなかった。萩原さんは約2週間、毎晩仏壇に火をともし、一滴も酒を飲まずに机に向かい、判決文を起案した。

 死刑を言い渡した後も眠れない夜は何度もあった。事件記録が頭の中を駆け巡ったが、最後は、法医学者の鑑定で<間違いないんだ>と自分に言い聞かせた。

だが、再審請求後に明らかにされた証拠や証言で、県警が掛け布団を押収した後に血痕が付着した疑いが出てきた。84年の再審無罪の判決文は「あまりにも不自然、不合理な付着状況が認められる」と捜査側の証拠捏造(ねつぞう)を示唆した

 萩原さんは、既に大学教授になっていた。誤判にかかわった自責の念から大学を辞めようか悩んだが、学生に止められ踏みとどまった。「裁判官だって死刑事件を担当したくないと思っている人はたくさんいる。こんな負担を、たまたま選ばれた裁判員に負わせるのは、どうかとも思う」


*松山事件:再審無罪の元死刑囚の母、斎藤ヒデさん死去(2008年12月24日)


*自白の変遷 でのツイート より

2011年12月12日
西嶋勝彦弁護団長は「袴田死刑囚の自白の変遷をたどれば、無実と分かるという弁護側の鑑定を強固にする材料になる」と今回開示された証拠に期待 :袴田事件,新証拠176点を開示…第2次再審請求 - 毎日新聞 http://mainichi.jp/select/today/news/20111212k0000e040074000c.html?inb=tw … via

*三浦和義対談集『敗れざる者たち』(ぶんか社 2008年)
Part7 田園調布資産家殺人事件 折山敏夫(元受刑者) より抜粋

 
河村)上申書を読むと、折山さんは本当に警察に協力しているんですよ。協力することで自分の無実を警察に晴らしてもらおうとしている。多分、そうなったら、大多数の人がそうするかもしれません。警察は味方だと思っているから。・・・

折山)黙秘しなくても、事実を話さずに、警察から言われるままの自白調書を書いておけば、それが逆の証拠になって、無罪になったんだろうと思います。そのことは、後から別の弁護士さんに言われました。矛盾が出てきますからね。ところが私は全部しゃべったから、全部、こちらの証拠を潰されてしまった。・・・



*「自白」の変遷についての弁護団の主張をしりぞけ、裁判所が再審開始決定を行っていない事件


 狭山事件では、狭山事件第2次再審請求において東京高裁に提出した意見書、「自白供述の心理学的分析―とりわけその供述変遷に着目して―」(浜田意見書)にて、石川一雄さんの捜査段階での供述は 否認→三人犯行自白→単独犯行自白と変遷していることを指摘
 浜田 寿美男著 『狭山事件虚偽自白』(日本評論社)
 

 袴田事件では、1991年に日弁連から袴田氏の自白について鑑定依頼を受けた浜田 寿美男氏が心理学的供述分析を行なった。犯行当時の着衣の変遷、他 
自白が無実を証明する―袴田事件、その自白の心理学的供述分析』 (法と心理学会叢書)


 仙台・北陵クリニック筋弛緩剤点滴事件では、点滴ボトルにマスキュラックスを混入したという「自白」→以後一貫して無罪を主張→三方活弁からチューブの上の方に向かって注射したと検察が主張を変えた等の変遷があった
作られたウソの「自白」として、仙台弁護士会に人権救済申し立てを行い、弁護士会が「警告・勧告および要望書」(2002年9月24日)を提出。
 
 
田園調布資産家殺人事件では 供述内容の著しい変遷とその理由を、上告趣意書(平成四年二月一九日提出)の中で主張。

 
 名張毒ぶどう酒事件では、一審では無罪であり、自白の変遷は、有罪と認めるには「合理的な疑い」と、小川潤裁判長に認定されていた。無罪判決に対する検察官の上訴は制限すべき。
 詳細)【書】名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の半世紀より

 小川潤裁判長が最初に最も疑問に思ったのは、奥西勝の犯行についての準備の自供だった。

 "ぶどう酒搬入時刻についても慎重に検討した結果、起訴状にある5時10分ではなく、4時以前と思料した。そこには明らかに時刻の手直しが行われていると断定した 

 "官舎に住んでいた小川裁判長は、休日も返上して事実関係を調べた。帰宅して風呂に入るのも惜しみ、メモ用紙を持参して官舎風呂場の腰板に張り付け、湯船の中で考えた。アルキメデスの心境を思い立ったという
 
 まず被告人奥西勝の自白の任意性は認めるものの、その信憑性については措信しがたい。また、問題のぶどう酒が公民館に運ばれる時間の設定、犯行の動機、準備、実行、あるいは毒物混入のできる機会などついて、検察側の立証を次々と崩していった

 当時の長井源弁護士「この種の裁判で死刑の求刑に対し無罪の判決は、裁判所として勇気と自信のいることである・・・まかり間違えば、被告人は法と裁判のもとに、絞首台の露と消えるところだった。裁判所側としては本当によく調べ尽くして余すところがない。無罪の判決は、まさにご明断で敬服する・・・」

 逆転死刑 控訴審の第一回公判は、1965年11月20日、名古屋高裁刑事一部上田孝造裁判長斉藤寿、藤本忠雄裁判官のもとで行われた。

 
1972年6月15日、上告審判決公判は、最高裁判所第一法廷で開かれ、岩田誠裁判長は二審の死刑判決を支持し、上告棄却の判決を言い渡した




*[[1976(昭和51)年9月18日]]は
 [[加藤老事件]]で、[[再審]]開始決定が下った日でもあります([[広島高裁]])
 →[[1977(昭和52)年7月7日]]、[[無罪]]の[[確定判決]]([[広島高裁]])。




裁判所は事実調べを行い再審開始を!
検察は すみやかに全証拠開示を!
証拠開示の法制化を!

sayama19



*狭山事件 第15回三者協議にむけて 東京高裁前連続アピール行動が開始されました
 2013年9月10日(火)、17日(火)、24日(火)、30日(月)、
  10月8日(火)、15日(火)、22日(火) 
    8:30〜10:00、11:50〜13:00

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*ドキュメンタリー映画『SAYAMA みえない手錠をはずすまで』完成!!
 東京、兵庫、大阪での上映会のお知らせ / 予告編



*「冤罪・田園調布資産家殺人事件の1審判決文は「判例タイムズ」に掲載されました。読みこなすには大変なエネルギーの要る分量です。研究者の方はどうぞ。」へのリツイートをよろしければお願いします



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higurashi at 06:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

July 13, 2013

1976(昭和51)年7月13日 弘前事件 再審開始 仙台高裁


弘前大学教授夫人殺し事件で、再審開始決定が下される(仙台高裁)→ 再審開始確定。


弘前大学教授夫人殺し事件
 一九四九(昭和二四).八 青森県弘前市
 殺人、那須 隆
 懲役一五年(仮釈放後終了)
 青森地裁弘前支部で、無罪判決後
 仙台高裁で、有罪判決
 一九七六.七 再審開始
 一九七七.二 無罪判決



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April 30, 2013

1976(昭和51)年4月30日

[[免田事件]]で、[[第六次再審請求]]の[[棄却]]決定が下される([[熊本地裁]][[八代支部]])
 →[[即時抗告]]を行う。

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April 05, 2013

1976(昭和51)年4月5日

 [[名張毒ぶどう酒事件]]の[[第三次再審請求]]([[1976/2/17]])が[[棄却]]される([[名古屋高裁]])

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February 17, 2013

1976(昭和51)年2月17日

[[名張毒ぶどう酒事件]]で、[[第三次再審請求]]を行う([[名古屋高裁]])。

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October 30, 2012

1976(昭和51)年10月30日

[[米谷事件]]で、[[仙台高裁]]が[[再審開始.。゚+.(・∀・)゚+.゚]]決定を下す。



●米谷四郎さん死去 青森の暴行致死再審請求で無罪 二〇〇六年七月三日月曜日 河北新報コルネットから

1952年に青森県高田村(現青森市)で起きた女性暴行致死事件の犯人とされ、78年に再審無罪となった「米谷事件」の米谷四郎(よねや・しろう)さんが6月29日、青森市内で死去した。84歳。葬儀は既に済ませた。
52年2月25日夜、57歳の女性が自宅で首を絞められて死亡。住民らの目撃証言から米谷さんが逮捕、起訴された。







米谷さんは無罪を主張したが、青森地裁判決は懲役10年、仙台高裁も控訴を棄却。米谷さんは服役した。その後、別の事件で拘置中の男が犯行を自供、起訴されたが自殺。米谷さんは再審を請求、78年7月、青森地裁で無罪判決を受けた。
弁護団の一員だった仙台市の檜山公夫弁護士は「米谷さんは典型的な東北人で寡黙な人だった。再審請求は開かずの門の時代が長かった。弘前大教授夫人殺人事件や広島県の加藤老事件など、冤罪(えんざい)事件の門が開き始めた中で、米谷事件も大きな転機となった事件だった」と振り返った。




http://plaza.rakuten.co.jp/himetuti/diary/200806300000/

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October 27, 2012

1976(昭和51)年10月27日

 [[狭山事件]]の[[第二審]][[東京高裁]][[寺尾裁判長]]の[[無期懲役判決]](1974-10-31)、[[石川一雄]]さんの[[最高裁]]への即日[[上告]]を受け、[[最高裁]]前をはじめ、全国で二千人が「[[狭山ハンスト]]」を行う。



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October 12, 2012

1976(昭和51)年10月12日

(*'-'*)(いわゆる[[財田川決定]])

 [[財田川事件]]で、[[最高裁第一小法廷]]が、原決定及び原原決定の取消、[[高松地裁]]への[[差し戻し]]決定を下す。

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September 27, 2012

1976(昭和51)年9月27日

 [[名張毒ぶどう酒事件]]で、[[第四次再審請求]]を[[名古屋高裁]]に申し入れる。

葡萄

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February 14, 2012

1976(昭和51)年2月14日

 [[江津事件]]で、[[第一次再審請求]]を行う([[広島高裁]][[松江支部]])







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