1952(昭和27)年

April 26, 2013

1952(昭和27)年4月26日

 [[西川県議差別事件]]で、[[和歌山県]]下の[[同盟休校]]は五五校に達する。
 [[海草郡]]で緊急町村長会が開かれる。
 [[4月28日]]から、郡下小中高校無期限[[同盟休校]]、[[知事]]への[[議会解散要求]]を決議する。
 [[西牟礼郡]]が全校[[同盟休校]]を決定する。
 和歌山市内[[朝鮮人学童]]が[[同盟休校]]に参加する。
 [[西川事件共闘委員会]]が[[団交]]により、[[部落解放]]請願審議のための県会の会期の一日延長決定を勝ちとる。

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April 17, 2013

1952(昭和27)年4月17〜18日

 [[西川県議差別事件]]に対し、[[和歌山県教委]]が、[[4月19〜21日]]、県下小中高校一斉[[臨時休校]]すると決定し、[[通達]]を行う。 

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February 27, 2013

1953(昭和27)年2月27日

[[和歌山]](御坊町)で、[[西川県議差別事件]]が起こる。

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September 28, 2012

1952(昭和27)年9月28日

 [[松本治一郎]]が、[[北京]]([[アジア太平洋地域]])[[平和会議]]に対し、メッセージを送る。






 「今度行こうとするのは特に、中華人民共和国が成立した後、ここではタンミンだとか、あるいはハッカだとかこういう差別されていた人民が全然なくなり、これが全く平等になった。つまり社会主義の下では完全に人の上に人をおかない、人の下に人をおかない、こういう社会が作られたんだということを聞いて、ぜひその実態を見たいので、また同時に、隣にある五億の民とはっきり手を握らなければアジアの解放はありえないと・・・」



 




 「選挙を放棄しても、北京へゆくことが平和を守ることだと思い立候補を断念した。世界の平和はアジアの団結がなければ保てない」
 「アジア民族の親善を促進し、世界の平和を守るために私がビルマへ飛立とうとする矢先、この不当起訴が行われた・・・憤るよりもむしろ滑稽さを感じている」




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May 29, 2012

1952(昭和27)年5月29日

 1952(昭和27)年5月28〜29日
 [[アジア太平洋地域平和会議]]([[北京]])日本代表の[[松本治一郎]]他六十名の[[旅券申請]]を、政府が拒否する。

 アジア太平洋地域平和会議





 第二次世界大戦後、アメリカを中心とする資本主義国と、ソ連を中心とする社会主義国との対立が厳しくなった。
 一九五〇(昭和二十五)年、朝鮮戦争が勃発し、マッカーサーの指令で警察予備隊(のちの自衛隊)が作られた。
 新憲法で、戦争放棄を誓った日本は、敗戦後五年で再び軍隊を持つことになる。









 一九五一(昭和二六)年九月に開かれたサンフランシスコ講和会議に、インド・ミャンマーは参加せず、社会主義国となった中国は招かれなかった。また、ソ連など三カ国は条約に反対し、









結局五二ヵ国の参加のうち四八ヵ国と講和条約を結んで、日本は独立した。
 このとき日本は、独立後も日本にアメリカの軍事基地が置かれることを決めた日米安全保障条約を結んだ。
 









 アメリカとの結びつきを強めた日本が、再びアジアの平和を脅かすことになりはしないだろうか・・・、日本に来ているアジアの人びとが「アジア民族親善協会」の看板を掲げ活動を始めた。そして、中国の北京で「アジア太平洋平和会議」が開かれるという知らせが










日本国内にも伝わり、松本治一郎を団長に、部落解放全国委員会の六十人が、会議に出席する日本代表に選ばれた。しかし、時の外務省の「そんなに北京へ行きたければ、自由党を倒してから行け」との妨害にあい、この会議に出席できなかった。










 一九五三(昭和二八)年一月一日、ミャンマーのラングーンで、「アジア社会党会議」が開かれることとなった。この時も、旅券は松本治一郎に渡されなかった。しかし、社会党のほかの議員たちは既にミャンマーに渡っていることもあり、外務省はある条件つきで旅券発行を認めた。 










 「アジア社会党会議」には、日本、インドネシア、ミャンマー、マレーシア、インド、パキスタンをはじめ、各国から二〇〇人が集まった。独立してまもない、強国に痛めつけられてきた国々が、いま団結して大きな力になろうとしていた。
 「強い国が弱い国を力づくで支配する時代はもう終わりにしなければ」










 ミャンマーでの会議を終えた松本治一郎は、インドへ向かい、ニューデリーにあるアンベードカルの自宅を訪ねた。一九五三(昭和二八)年一月三〇日のことである。これは外務省との約束を破る行為であった。










 松本治一郎はこのあと、パキスタン、イスラエル、イタリア、スイス、チェコスロバキア、モスクワ、中国を訪れ、三月三十一日、日本へ帰ってきた。
「雲泥の差という言葉があるが、中国の変わりようは、その言葉とおりだった。日本の新聞は中国の悪口ばかり書いているが、百聞は・・・」










 その後も、松本治一郎は「日中友好協会」の会長に選ばれ、お互いの国の平和のために尽力を続けた。が、日本が正式に中国と国交を回復する一九七二(昭和四七)年まで、一九年の歳月を待たねばならなかった。





 [[松本治一郎]]は、[[部落解放運動]]ばかりでなく、日本の民主化、世界の平和と差別の撤廃のために、様々な活動をする。
 国民使節として、アジア諸国を訪ね、[[インド]]で、[[ネール首相]]や、[[「不可触民」(アンタッチャブル)]] の父といわれた[[アンベードカル]]博士と会談する。
 また、当時の政府が新中国を敵視して国交の無かった時に、中国との友好を深め、[[日中友好協会]]の初代会長となる。
 [[ストックホルム世界評議会]]では、「世界の共存共栄」について演説をする。
 アジアやソ連やヨーロッパ、北アフリカ、近東諸国も訪問し、[[朝鮮民主主義人民共和国]]の[[金日成首相]]や、[[中国]]の[[毛沢東首席]]、[[周恩来総理]]とも会見する。

 [[松本治一郎]]はまた、「[[ノーネクタイ]]」「[[禁酒]]」「[[禁煙]]」など多くの禁を自らに課している。


 警察に捕まっても、こちらがしっかりしとれば、何もこわいことはなか。むこうが強く出てきても、こちらが強くはねかえせば負けたりはせん。ばってん、こわいのは、弱い自分たい。酒が飲みたい、煙草が吸いたいという欲たい。これほどやっかいなものはなか。そやけん、はじめから、この敵を退治しようというわけたい。


 これから先もどんな弾圧に合うかわからない。そんな[[松本治一郎]]の覚悟の表れだったろう。


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