1962(昭和37)年

May 12, 2017

1962(昭和37)年5月12日

 [[解放同盟]][[第二回中央委員会]]が開かれ、
一、秋季全国闘争をめざす当面の課題
二、[[滝川政次郎教授]]事件[[糺弾]]方針などを決定する。


『差別の執念』 盛田 嘉徳より
 (『部落解放』七号、解放出版社、一九七0年四月 所載)


 國學院大學教授の[[瀧川政次郎]]氏が、かつて昭和三十四年一月に、[[自由民主党同和問題議員懇談会]]の依頼で、「歴史上より見たる同和問題」という講演をした。・・・



「鷹のねい猛性を保持していくために、絶えず鷹に生肉を食わさなければなりませんが、生肉は何がいいかというと、犬の肉が一番いいのであります。・・・ですから鷹飼即ち犬殺しは鷹の餌をとるというので、餌取と呼ばれました」



 と、従来、エトリの称が転訛してエタになったといわれてきた通説をふまえて、犬殺しが即ちエトリであるとこじつけるために、敢えてとりとめもない論証をこころみ、病気の鷹には犬の前足を食わせれば直るというデタラメなことまで述べてある。



 今日では、エタはエトリの転訛であるという説には、疑問が持たれていて、エタという語は、最初は清掃人夫に対する隠語として使われていたのが、



次第に日雇的雑業者を呼ぶ名称に拡げられてゆき、やがて、その日雇人夫を中核とした社会的身分を意味するものに転用されたと、考えられている。



 しかし、瀧川氏が古い通説に従ったからといってそれを責めるわけにはいかぬが、ただ、餌取りということばから、犬殺しへと飛躍していく思考に、瀧川氏の差別的な偏見が認められるのである。



 当時、鷹の餌として普通には小鳥が用いられていて、それが不足した場合に、にわとり、犬などの肉も使われることがあった。しかしそれは、あくまで補助的な飼料にすぎなかったのである。




餌とする小鳥を捕らえるのが餌取りで、後にこれが餌刺しと呼ばれるように変わった。
 こうした点を瀧川氏はよく調べないで、犬殺しとエタを結びつけるためにのみ急いでいる。



それは、以前には都市周辺における部落の貧困者の中に、生活のために犬取りを業とする者があり、その印象に基づく差別が根強く残っていて、瀧川氏の心にもそれがひそめられているからである。





『賤称語源考』盛田 嘉徳より
(『部落問題研究』十五、部落問題研究所、一九六三年十二月初出)


 エトリ語源説は・・・音韻的にも無理が無く、一応安定した完璧な意見のようであるが、しかし細部にわたって検討を加えてみる時、重要な点について二、三の疑問が残るのである。




 その第一は、古くから河原に住んで、死牛馬の解体処理をし、皮革を製造していた人びとと、餌取りとが、同一の者として考えられているらしい点である。




 養鷹の口電書類を調べてみると・・・鷹の餌について・・・と、やはり雀ばかりで養っている。これらによって考えうることは・・・小鳥や兎などを求めるために、餌採集者は河原よりもむしろ、野山に縁が深かったであろうこと、などである。念のために、



大阪市立動物園を訪れて、飼養係で承ったところによれば「・・・総体に、鷹は小食であって新鮮なものを好む。・・・昔は保存が悪いから、一頭の牛でも、どれほども飼料としては使えなかっただろうと思われる」ということであった。




 まず、餌取りと屠者との関係に疑問が生じてくる。だいたい、牛馬の屠殺が禁じられていた当時において、わが国に屠児といえる職種があったとは考えられない。「倭名類聚鈔」の「屠児、和名恵止利」という記し方をみても、




この屠児という語は、漢籍や仏典に出てくる言葉で、わが国のものではないことがうかがわれる。
 河原には古くから死牛馬を解体して皮革をとる皮はぎや革なめし、皮細工をする職人が住みついていた。




この人々の仕事は一見、屠者に最も類似するもののようだが、しかし「生を殺して肉をとる」ものではなく、たとえ彼等が肉食をしていたとしてもそれはあくまで副次的なことにすぎず、職分はむしろ皮革加工に属するものであった。




 したがって、屠児の訳語に当てるには適切を欠くうらみがあり、当時生肉を提供する職業といえば、一般的に肉食の風のすたれた時代でもあって、特に都の近くではわずかに鷹のために生き餌を補給するエトリより他になかった。





 こうして、屠児の和訓がエトリと決められていったところから、屠児、皮はぎ、皮細工、河原に住む人々、餌取り等々について、観念的な混乱が生ずることにもなったのであろう。



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January 31, 2013

1962(昭和37)年1月30〜;31日

 [[文部省]]が、[[全同教]]([[全国「同和」教育大会]])に対抗し、「[[全国同和教育研究会議]]」を開催する。

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October 22, 2012

1962(昭和37)年10月22日

 10月22〜24日

 [[9月11日]]開催の、[[部落解放同盟]][[全国代表者会議]]での決定([[日韓会談]]粉砕、[[失対打切り]]反対、[[新日本窒素水俣労組]]支援など)を受けて、[[部落解放同盟]][[秋闘]]「[[全国闘争中央行動]]」が展開される。



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January 17, 2012

1962(昭和37)年1月17日

 [[國學院大學]]の[[滝川政次郎教授]]の[[差別]]講演への抗議に対し、教授が[[討論会]]への出席要請を拒否したため、[[解放同盟]]が再び[[抗議]]を行う。

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November 27, 2011

1953(昭和28)年11月27日

 [[二俣事件]]で、[[最高裁]]が「[[自白の事実性]]に疑いがある」として[[原審破棄]]、[[東京高裁]]へ[[差戻し]]を行う([[刑集7-11]])。

 [[昭和37年10月26日]]、[[東京高裁]]で[[検察]]の[[控訴]]を[[棄却]]し、[[無罪]]が確定する。



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