1949(昭和24)年

July 15, 2013

1949(昭和24)年7月15日  三鷹事件が発生

1949(昭和24)年7月15日  三鷹事件が発生する

竹内景助氏は収監後、脳腫瘍を放置され「再審請求」結果が出る直前に、45歳の若さで夫人に「悔しいよ!」と言い遺し「獄死」した(1967年1月18日)

2011(平23)年11月10日、ご遺族・弁護団が『三鷹事件』の死後再審を請求し、東京地裁刑事4部 で審理が始まった。

*「弁護士 布施辰治」芹沢昇雄氏)より

その最終章に布施が最後に関与した『三鷹事件』が記してある。
 この事件には正木ひろしなど著名な弁護士も参加し、布施も一審の弁護団長を努めながら、弁護方針の違いから弁護団から孤立し解任されている。その違いは布施だけが非共産党員の竹内景助被告の「単独犯行」の自白を信じず、最初から無実を確信していたからである。

 この事件は共産党員9人と非党員の竹内が起訴され竹内は20日後に自白し、自白、否認と6回も供述を変えたが一審で無期判決、控訴審ではろくな審議もされずわずか3ヶ月余りで死刑判決を下された。その後、竹内は一審途中での布施の解任を詫びなら、無罪を主張し再度の弁護依頼を布施は快く引き受けたが、再審請求審理の途中で竹内は脳腫瘍を放置され67年1月18日45歳で獄死してる。

*三鷹事件元死刑囚が自白経緯詳述/書簡を発見 2009/08/14 17:10 【共同通信】...より

1949年、東京の三鷹駅で6人が死亡した「三鷹事件」で死刑が確定し、再審に向けた予備審査開始の翌67年に45歳で病死した竹内景助元死刑囚が、弁護団長を務めた
布施辰治弁護士にあてた手紙8通や返信などが14日までに見つかった。「私まで否認したら(裁判所が)全被告を有罪にするだろう」などと、“自白”に至った心情や経緯が記されている。

10被告のうち竹内元死刑囚だけが無期懲役に。控訴審で51年3月に死刑判決を受けた後、元死刑囚は自白の経緯を布施弁護士に伝えた。

・・・捜査段階で別の弁護士に「認めて情状を酌んでもらった方がいいと思う」と促されたと、初めて告白

・・・取り調べ検事に悲惨な現場写真を20枚以上見せられ「被害者の霊は宙に迷っている。浮かばれんぞ」と言われたと書いてあるほか、「(具体的な供述は)新聞記事や検事の示唆、誘導の言葉中に出たのを暗記して述べた」などの記述もある






細田加代子 ‏さんのツイートより 2013(平成25)年4月29日
三鷹事件の冤罪被害者。45歳で獄中で脳腫瘍のため治療もうけれず亡くなられた竹内景助さんの息子さんが死後再審請求再審の門が一日も早く開く事を祈ります狭山事件の石川さんと竹内さんは死刑囚として服役中に交流あります。狭山事件も再審請求中です


細田加代子‏‏さんのツイートより 2013(平成25)年5月24日
石川さんは三鷹事件の獄中死された竹内景助さんと死刑囚で服役されていた時交流があったそうです。三鷹事件は死後再審を申し立てています。竹内さんの無念を一日も早く晴らしたいです。竹内さんもアリバイもあるのに、でっちあげられました。冤罪は国家犯罪







FB 狭山事件の再審を実現しようより

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2013(平成25)年7月16日 第6回狭山事件東京高裁前アピールがあります
朝の部  8時30分〜10時
昼の部 11時50分〜13時
場所 地下鉄 霞ヶ関駅 A1出口出てすぐ



「狭山事件再審オンライン署名」へ





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January 24, 2013

1949(昭和24)年1月24日

 [[吉田茂内閣]]の陰謀により、[[松本治一郎]]が「[[大和報告]]運動会役員」という名目で、[[公職追放]]される。



 昭和二四年一月一日付で、ホイットニー米民生局長にあてた吉田茂の手紙が、私の公職追放を懇請したのである。それによると、
 「一部では、日本政府に何らかの政治的な動きがあるのではないかと、政府を非難しそうな形勢にありますが、日本政府はすべての人を公正に、かつ法にはあくまでも忠実に行動しています。その結果、松本氏を追放者の中に入れることに決定しました。政府のこの措置は貴下が承認されるものと信じます--- ---」。
 事実、その手紙を吉田が出した次の日の一月二日殖田俊吉法務総裁GSによばれて私の追放を承認すると言われた。

雪ダルマ



1949(昭和24)年2月4日 [[松本治一郎]]が[[参議院副議長]]の辞表は提出せず登院する。


 私の信念と過去の経歴に対する、軍国主義者・超国家主義者としての烙印を捺されることは、死んでも死にきれない。
今回も事実の黒白が明白になる時が来ると確信する。


1949(昭和24)年2月9日 [[解放委緊急中央委員会]]が、[[松本治一郎]]不当追放反対を決議し、[[吉田茂首相]]に決議文を手交する。

1949(昭和24)年2月16日 [[松本治一郎]][[不当追放反対民主団体協議会]]が結成される。

1949(昭和24)年3月2日 臨時閣議の席上、[[樋貝国務省]]が「[[全水福岡支部]]が[[松本治一郎]]氏の追放に対する報復を企て--- ---」というデマの報告をする。


 二四年三月二日の臨時閣議の席上、樋貝国務省が「[[全水の福岡支部]]では、[[松本]]氏の追放に対する報復を企て、大臣一人につき三名の刺客を送ったという情報が入ったので、国家警察本部に警戒を命じた」と報告をしている。
悪事を企み、他人を故意に陥れようとする者は、得てしてこういう被害盲想にかかるものであろう。


1949(昭和24)年3月11日 [[ソ連]]代表が[[松本治一郎]]氏の追放解除を、[[マッカーサー]]に要請する。

1949(昭和24)年3月15日 [[東京]]で[[人民大会]]が[[松本治一郎]]追放取消しを要求する。

1949(昭和24)年3月27日 [[参議院]]で、[[内村清次議員]](社会党)が、[[松本治一郎]][[公職追放]]資格審査の問題につき、緊急質問を行う。
           ・[[第三国会]]で、「[[カニの横バイ]]が廃止される。

1950(昭和25)年3月30日 [[松本治一郎]][[不当逮捕取消し請願行進]][[全九州人民大会]](福岡)が開催され、五万余名がデモ行進を行い、二六名の[[請願隊員]]が東京に向けて出発する。

1950(昭和25)年4月8日 [[松本治一郎]][[不当追放反対]][[解放要求人民大会]]が東京で開催され、[[闘争宣言]]が発表される。


1950(昭和25)年4月28日 [[松本治一郎]][[不当追放取消し]]で、[[闘争本部]]が[[ハンスト]]を決議する。


1950(昭和25)年4月8日 [[松本治一郎]][[不当追放取消し]][[請願隊員]]六名が[[ハンスト]]を決行する。


1950(昭和25)年10月13日 [[吉田内閣]]により、「[[大和報国運動会役員]]」という名目で、唯一、一万九十一名の解除者から[[公職追放]](一九四九.一.二四)を除外された[[松本治一郎]]を、追放解除から除外せよとの[[抗議]]の[[声明書]]を、[[部落解放全国委員会]]が発表する。 

1950(昭和25)年11月25日 [[全国部落代表者会議]]([[東京]])において、[[松本治一郎公職追放]]解除除外につき、抗議方針を決定する。 一、[[吉田内閣]]への抗議の[[国会]]質問 二、各[[政党]]・[[民主団体]]への働きかけ 三、[[吉田首相]]への面接抗議

1950(昭和25)年11月27日  [[米「ライフ」誌]] が、[[松本治一郎追放問題]]を掲載する。 

1951(昭和26)年8月6日 [[吉田内閣]]により「[[大和報国運動]]会役員」という名目で[[公職追放]]された[[松本治一郎]]が、[[政界]]に復帰する。



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December 13, 2012

1949(昭和24)年12月13日

 「[[部落問題]]に関する[[国策樹立]]に関する請願」を[[国会]]に提出する。
 [[部落解放]]のための[[予算]]を、[[国会]]の場で初めて主張する。

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November 17, 2012

1949(昭和24)年11月17日

 三重県で、「部落問題についての特別委員会」が設置される。

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November 15, 2012

1949(昭和24)年11月15日

 [[兵庫県]][[但馬]][[織布工場]]で、[[部落出身]]との理由で、[[女子労働者]]三名が[[解雇]]される。

[[森田益子さん]]ご自身の体験として、[[高知県]][[議会]][[議事録]]の[[答弁]]にも触れられている

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November 07, 2012

1949(昭和24)年11月7日

 [[宇和島事件]]第二回[[控訴]][[公判]]が開かれる。

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March 11, 2012

1949(昭和24)年3月11日

[[ソ連]]代表が、[[吉田茂首相]]による[[松本治一郎]]氏の[[「公職追放」]]解除を、[[マッカーサー]]に要請する。 

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February 16, 2012

1949(昭和24)年2月16日

 [[松本治一郎]][[不当追放反対 民主団体協議会]]が結成される。

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February 09, 2012

1949(昭和24)年2月9日

  [[部落解放委緊急中央委員会]]が、[[松本治一郎]]不当追放反対を決議し、[[吉田茂首相]]に決議文を手交する。

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January 02, 2012

1949(昭和22)年1月2日

 [[米民生局]]が[[殖田俊吉]][[法務総裁]]を呼び、[[松本治一郎]]の[[公職追放]]を承認する。



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January 01, 2012

1949(昭和22)年1月1日

 [[吉田茂首相]]が、[[ホイットニー民生局長]]に、[[松本治一郎]][[公職追放]]を懇請する。



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