華族制度 松本治一郎 を含む記事

January 21, 2014

1948(昭和23)年1月21日 <カニの横ばい事件>議員の行動に対する是非の判断は民主的な手続きよって十分に表すことが出切る

[[一九四七(昭和二二)年]]の、戦後[[第一国会]]で[[初代参議院副議長]]になった[[松本治一郎]]が、翌年の[[第二国会]]開会式で、[[天皇単独拝謁]](便殿と呼ばれる特別室で、ひとりずつ天皇に「[[カニの横ばい]]」のような挨拶をすること)を拒否し、内外([[自由党]]・[[民主党]]の議員、天皇を神と信じてきた人たち、[[右翼]]、[[暴力団]]など)に大反響を呼ぶ。




一九四五(昭和二十)年八月下旬、焼け野原となった日本は、
連合国軍総司令部のもとで、労働組合や農民組合が再び活動
できるようになり、政党が次々生まれた。
水平社に代わり、部落解放全国委員会も生まれた。
一九四六(昭和二十一)年十一月三日、日本国憲法が公布され、
この新憲法のもとで、一九四七(昭和二十二)年四月二十日、
選挙が行われ、松本治一郎は、社会党から参議院の全国区に
立候補し当選、その五日後には衆議院選挙が行われ、
社会党が第一政党となった。
社会党の片山哲を首相とする内閣が出来、松本治一郎は、
参議院の副議長に選ばれた。


 一九三六(昭一一)年五月二〇日
[[衆議院特別議会]]で広田内閣に対し、「[[華族制度]]改正に関する質問」 を行う。


「大正十三年の第三回全国水平社大会で、
徳川家一門に対する辞爵勧告の件が決議され、
そのことからついに、徳川暗殺陰謀事件
でっちあげられたのであるが、そのため、私が
下獄するに至った経過については『徳川一門への
辞爵勧告問題』として詳しく述べられている。
これはいうまでもなく、日本の封建制度のもっとも
端的な象徴である華族制度に対して水平社が
打ち上げた最初の抗議であったのである。・・・
この問題にこめられた部落民の憤激が、ついに
衆議院議政壇上で、私を通じて政府につめよらせた
わけである。昭和十一年というと、『日華事変』の
始まるその前年である。・・・新聞世論はこれを
積極的にとりあげようとはしなかった
。したがって、
私を通じてなされた水平社の議会闘争は、ほとんど
世に知られていないと思う。」

 一九四七(昭二二)年五月二〇日
初代参院副議長(一二七票)に選出され、型破りの挨拶が反響をよぶ。


「私の記憶がまちがっていなければ今より十年前、
私が衆議院に『貴族院および華族制度廃止に
関する質問書
』を提出いたしたのであります。
十年後の今日は、貴族院および華族制度
追放せられたのであります。(拍手)すなわち
新憲法第十四条において、すべて国民は法の下に
平等である。人種・信条・性別・社会的身分または
門地により、政治的・経済的・社会的関係において
差別を受けない、華族制度その他貴族の制度は
これを認めないと謳っておるのであります。・・・」

『戦後日本(第5巻)占領と戦後改革 過去の清算 』より
著者:尹 健次 (ユン コォンチャ)
出版社:岩波書店
発行年月:2005年09月
四 日本敗戦と「国民」概念の再構成より
なお『草案要綱』の段階では、
『華族ノ地位ハ現存ノ者ノ生存中ニ限リ之ヲ認ムル』と
条件つきで華族制度の廃止が謳われていたが、これは
その全廃を求める部落解放運動等の要望もあり、
『改正草案』作成の段階で削除され、華族その他貴族の身分は
廃絶された
。・・・」



 一九四八(昭和二十二)年一月二十一日の
第二国会開会式で、衆議院と参議院の議長、
副議長は天皇に「単独拝謁」すべしという
戦前よりの慣習により、「貴族あれば賤族あり」
と訴えてきた松本治一郎と、身分制度の頂点に
いる天皇とが初めて顔を合わせた。
便殿の入口に立って拝謁を促す宮内省の役人に
対し、
「わたしは、やらんよ。人間が人間をおがむ
ようなことはできんよ」と言った松本治一郎は、
「こんにちは、ごくろうさまです」との挨拶だけで
済ませた。
 この行為は、議員たちの話題になり、
新聞記者たちが取材に訪れた。 




「殺してやる」
「貴様は、月の出ない闇のあることを知らないのか」
数えきれないほどの脅迫状が松本治一郎の事務所に
届き、外を歩いているとき投石を受けることもあった。
 警察が護衛を申し出たが、松本治一郎は、警察の
お世話にはならなかった。
 脅迫状の封筒の消印に岡山県倉敷市と読み取れる
ものがあった。松本治一郎は、倉敷市にのりこんでいき、
会場に集まった二千人の前で、「カニの横ばい」を
断ったことについて演説を始めた。





 闇の夜がどうだこうだという手紙をもらったが、
松本の過去(全国水平社の委員長になって)三十年、
いつ、月の夜があったというのか。
 常闇のなかで生命をかけてたたかってきた。
 わたしの意見に反対の人は、遠慮せずにここまで
上がってきなさい。
闇討ちなどと言わずに、正々堂々と話し合おうじゃないか。
 誰一人、演壇に上がっていく者はなく、しばらくして、
会場から割れるような拍手が起こった。
 松本治一郎のこの行動に拍手を送ったのは、
部落民だけでなく、部落外の、民主主義の世を願う
人々も多数いたと思われる。

 一九四八(昭和二十二)年一月三十日、総司令部政治局が、天皇拝謁拒否問題につき、以下のような見解を発表した。この非民主的・非人間的慣習は、第三国会より改められた。



(松本治一郎参議院議員が)
天皇に拝謁しなかったという
つまらぬ事件を
仰々しく騒ぎ立てるのは、
茶碗の中で騒ぐようなものだ。

彼の行動に対する是非の判断は、
選挙の機会に
(彼に投票するかどうかの)、
民主的な手続きによって
十分に表すことが出切る・・・



*2014年1月末 狭山事件で 
第16回三者協議(東京高裁裁判長、検察官、弁護士)が行われ 
検察が証拠開示要求にどう答えるのかが注目されます。

裁判所は事実調べを行い再審開始を!

検察は すみやかに全証拠開示を!

証拠開示の法制化を!


*IMADAの原由利子氏がアップされた1月15日の東京高裁前アピールの動画です。
「昨日1月14日に75歳の誕生日を迎えられた石川一雄さんのこと、狭山裁判再審に向けた思い。一言ひとこと胸にしみいります。是非おききください。6分です。」
https://www.facebook.com/photo.php?v=10203014739952367


*狭山事件・オンライン署名にご協力をお願いします


*ドキュメンタリー映画『SAYAMA みえない手錠をはずすまで』完成!!




 上映会スケジュール /  予告編







*特別抗告棄却決定が来た - 雪冤闘争宣言 - http://blogs.yahoo.co.jp/orisen0706/38208122.html …「第二次再審請求は海渡弁護士が担当してくれそうです。がっかりしている暇はないので、これからが本格的な闘いなのだと考えて、気持を奮い立たせようと思います。今後共、ご支援をお願いいたします。」へのリツイートをお願いします




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higurashi at 05:21|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

July 16, 2012

1924(大正13)年7月17日

[[松本治一郎]]が、「[[徳川暗殺未遂]]」容疑で、警視庁、[[福岡署]]に[[逮捕]]され、ただちに[[東京]]へ[[護送]]される。



『不可侵不可被侵 松本治一郎対談集』(部落解放新書、一九七七年三月)より 一八六頁

「彼は看守を制して途中の青い芝生に勝手に寝ころび筆者に“そこを通るのは高津君だろう。すこし日向ぼっこして行きたまえ”と声をかける大胆さであった。





もし彼を役人が乱暴に扱っているとでも外部に伝わったら、たちまち何十人、何百人の水平社の動詞が所長に押しかけるかもしれないという空気だった。彼はそれだけの尊敬と思慕とを一身に受け、同時に支配階級からは怖れられ、狙われていたのである。」



『不可侵不可被侵 松本治一郎対談集』(部落解放新書、一九七七年三月)より 一九八頁


一九三一(昭六年)
・闘う獄中の松本治一郎
「昭和六年三月のことである。刑務所に到着すると早速私たちは懲役刑なみに嫌応なく、頭は丸刈り、赤い囚人服に着替えさせられて『東三舎』に収容された。ところが思いきや、その東三舎には、福岡連隊事件で投獄されている『われらのおやじ』が在監していたのである。




約二年ぶりに見るオヤジさんは、ひげも眼鏡もなく、丸刈りの童顔そのものの青い囚衣の大入道である。かねて、表具作業にまわされていると聞いていたが、私たちに気づいたらしいオヤジさんは、富士山を画いた出来上がりの額を両手で頭上にかざして、おどけ顔に振りながら“おれはここにいるぞ”とばかり合図される。 




あの丸々と太った童顔いっぱいに笑みをたたえた元気な温容が、私たちと十メートルもない近さにあるのだ。
刑務所の三月上旬はまだ寒さが強かった。
私らは、薄い囚人服にガタガタ震えながら三名ずつ二つの房に分けていれられた。表具台をかたいブラシでたたいているらしい音が、あるときは高く、あるいは低く聞こえてくる。表装の裏打ちの音ででもあろうか。




 “あれは、オヤジの音だ”
 “おれたちはオヤジと同じ所にいる”
 と私らは思う。願っても会うことのできない、獄中のオヤジといっしょの獄舎にいるというだけで、すすってもすすっても流れる鼻汁をすすりながら、私たちはうれしく楽しかった。」




松本治一郎 年表より

一八八七(明二〇年)六・一八 生誕

一九二四(大一三年)三・三
全国水平社大会第三回大会で、「徳川家一門に対する辞爵勧告」を提案し、実行委員長となる。





「実をいえば、われわれは徳川一家のみを対象にしたのではなかった。天皇、華族等のいわゆる貴族搾取階級全体に対して抗議したのである。・・・身分の低い卑しいものがあるから、崇められるべき、身分の高いものがわかるのであり、天皇その他をあがめさせるためには、ぜひ賎しいものをつくっておかねばならないということである。」




一九二四(大一三年)七・一七「徳川暗殺未遂」容疑で、警視庁、福岡署に逮捕され、ただちに東京へ護送される。

「当時の支配階級は、うな燎原の火の如く全国に燃え拡がった水平社運動に怖れを抱き、・・・スパイ政策をまずとりあげたわけである。」




「彼は看守を制して途中の青い芝生に勝手に寝ころび筆者に“そこを通るのは高津君だろう。すこし日向ぼっこして行きたまえ”と声をかける大胆さであった。もし彼を役人が乱暴に扱っているとでも外部に伝わったら、たちまち何十人、何百人の水平社の動詞が所長に押しかけるかもしれないという空気だった。彼はそれだけの尊敬と思慕とを一身に受け、同時に支配階級からは怖れられ、狙われていたのである。」




一九三六(昭一一年)五・二〇
衆議院特別議会で広田内閣に対し、「華族制度改正に関する質問」 を行う。・・・




「大正十三年の第三回全国水平社大会で、徳川家一門に対する辞爵勧告の件が決議され、そのことからついに、徳川暗殺陰謀事件がでっちあげられたのであるが、そのため、私が下獄するに至った経過については『徳川一門への辞爵勧告問題』として詳しく述べられている。




これはいうまでもなく、日本の封建制度のもっとも端的な象徴である華族制度に対して、水平社が打ち上げた最初の抗議であったのである。・・・
この問題にこめられた部落民の憤激が、ついに衆議院議政壇上で、私を通じて政府につめよらせたわけである。



昭和十一年というと、『日華事変』の始まるその前年である。・・・新聞世論はこれを積極的にとりあげようとはしなかった。したがって、私を通じてなされた水平社の議会闘争は、ほとんど世に知られていないと思う。」




一九四七(昭二二年)五・二〇
初代参院副議長(一二七票)に選出され、型破りの挨拶が反響をよぶ。



「・・・私の記憶がまちがっていなければ今より十年前、私が衆議院に『貴族院および華族制度廃止に関する質問書』を提出いたしたのであります。
十年後の今日は、貴族院および華族制度は追放せられたのであります。(拍手)



すなわち新憲法第十四条において、すべて国民は法の下に平等である。人種・信条・性別・社会的身分または門地により、政治的・経済的・社会的関係において差別を受けない、華族制度その他貴族の制度はこれを認めないと謳っておるのであります。・・・」



『戦後日本(第5巻)占領と戦後改革 過去の清算 』より
著者:尹 健次 (ユン コォンチャ)
出版社:岩波書店
発行年月:2005年09月
四 日本敗戦と「国民」概念の再構成より
なお『草案要綱』の段階では、『華族ノ地位ハ現存ノ者ノ生存中ニ限リ之ヲ認ムル』と条件つきで華族制度の廃止が謳われていたが、これはその全廃を求める部落解放運動等の要望もあり、『改正草案』作成の段階で削除され、華族その他貴族の身分は廃絶された。・・・」






「全国水平社創立宣言」って何?
            ↓
全国水平社大会宣言

higurashi at 06:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

May 26, 2012

1936(昭和11)年5月26日

 「[[華族制度]]改正に関する質問」に対し、[[広田内閣]]総理大臣、[[内務大臣]]が不誠意な答弁を出す。
 [[松本治一郎]]がさらに、[[衆議院本会議]]で追求する。



 衆議院議員松本治一郎君提出「[[華族制度]]改正に関する質問」に対する答弁

一、華族に対しては宮内省の管掌する所なるを以て、政府は答弁を差し控えたし


higurashi at 06:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)