「自白」

May 23, 2019

1963(昭和38)年6月23日★

100万人署名を継続し一人でも多くの方に狭山事件を
「狭山事件再審オンライン署名」へ



薔薇庭人 さんのツイートより 2013(平成25)年4月28日
東京新聞 狭山事件石川さん:警察官から「お前じゃないなら犯人はお兄さんだ。お前が被ればお兄さんは逮捕しない。10年で出してやる」と言われ自白した。兄にアリバイがあったことは知らなかったのです。警察官から弁護士は嘘つきだと聞かされ、接見に来ても追い返しました。無知が自分を追いつめた



本田凡 さんのツイートより 2013(平成25)年6月5日
狭山事件で無実の殺人罪を被せられて逮捕された石川さんは、取調べでさんざん脅されたが否認。最後に野球を通じて知り合っていた巡査が出てきて一緒に泣くなどやさしい態度で接し、遂に嘘の自白へ導かれたという。渋谷でサッカー好きだとアナウンスをした警察をみて、そのことを思い出し、嫌だった。



殿岡 駿星‏ さんのツイートより 2012(平成24)年10月19日
♣PCの遠隔操作で犯罪予告、神奈川県警は少年(19)に自白させていた。無実なのに、自白させる警察の取り調べをしっかり検証するべきだ。わたしのテーマである、狭山事件でも石川さんは逮捕から1か月後に自白した。そして50年、冤罪に苦しんでいる
http://bit.ly/RFQmMP





1963(昭和38)年6月23日

* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、捜査本部、取調室前の警戒を厳しくする。
[[石川一雄さん]]、この日までに三人犯行の“[[自白]] ”をする。
 証拠:「[[単独犯]][[自白]]開始」


『自白崩壊 狭山裁判二〇年』(狭山事件弁護団編)より


* 石川は知人関巡査部長の泣きおとしと狭山署以来のテロルと脅しに負け、三人説を自供。
 関は石川にかばんを捨てた場所をゴム紐の発見された近くに書かせる。
 ハンストをないものにするため自白の日を三日だけくりあげ二〇日にする。
 『狭山事件 無罪の新事実』(亀井トム)より


* 厳しい取調べ(甘言と拷問)により、ついに犯行を自白
 (別件逮捕より一ヵ月ほど、石川さんはほとんど外部との接触のない状態におかれていた)。
 『狭山事件と再審』(輪島岩吉編)より



 荻原佑介氏宛書簡(一九六五年十一月二二日)より


 六月二三日(一九六三年)、調べ室に遠藤、青木、斉藤さん達が居る所で長谷部さんが、
 「石川君 何時まで強情張って居るのだい、殺したと言わないか、そうすれば一〇年で出してやるよ、石川君が言わなくても九件も悪い事をしてあるのだしどっちみち一〇年は出られないのだよ・・・
 とこの様に言われました。・・・知らない刑事さんが
 「課長(長谷部)さん 狭山の関部長が此方に来るそうです」・・・



 「そうか、それでは石川君 君に言ってくれ、男同士の約束だ
 と私の手を握りました。
 そして暫くしたらさんが、
 「石川君 元気かい、今署長さんに『この前一八日の裁判が終ったら三人での事を教えると約束して有るのだから聞いて来い』と言われて来たのだが吾に話してくれ」
 といきなり私の手を握って泣きつきましたが、私は三人でのこと(三人共犯)を話しませんでした。そしたらさんが



  「石川君 教えないなら帰るど」
 と立ち上がったら 長谷部さんが、
 「石川君 殺したと言って呉れ 吾は必ず一〇年で出してやるからな君 今話すそうだから待ってくれ、我々が居ては言いづらいだろうから外に出ましょうか 遠藤さん」
 と言って皆出てしまいました。そしたらまた泣きながら、石川君 殺したと言ってくれと手を握ったので、私もつられて泣いてしまい「入曾、入間川、と私と三人で殺した」と言ったのです。



『自白の信用性―被告人と犯行との結び付きが争われた事例を中心として―』(司法研修所編/平成3年7月刊行)


狭山事件(強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂等)
 機 ̄栽唾枠39.3.11 最刑集31-5-980(死刑)
 供‥豕高判49.10.31 高刑集27-5-474(破棄自判、無期懲役)
 掘狭山事件 最二決昭52・8・9刑集31-5-821(上告棄却)


 最高裁上告棄却決定 昭和四九年(あ)第二四七〇号より抜粋


被告人は、捜査段階では、(イ)川越警察署分室の留置場の壁板に、「じようぶでいたら一週かに一どツせんこをあげさせてください。六・二十日石川一夫入間川」と詫び文句を爪書していること、(ロ)同留置場でを裂いて、「中田よしエさんゆるして下さい」と書いていること、(ハ)昭和三八年六月二七日付で善枝の父中田栄作あてに、「このかみをぜひよんでくださいませ中田江さくさん私くしわ中田よしエさんごろしの石川一夫です」との書き出しで、自己の家族をうらまないで下さいと訴えた手紙を書いていること、更に、第一審において死刑の判決を受けた後、付同三九年四月二〇日付で原審裁判長にあてた移監の上申書の書き出しに、「私は狭山の女子高校生殺しの大罪を犯し三月一一日浦和の裁判所で死刑を言い渡された石川一雄でございます。」と書いていることなど、深い反省と悔悟の情を表わしている事実がみられる。これらは、真実に裏付けられなければ表現できないものであって、被告人の自白の真実性を知る重要な手がかりとなる事実である。





石川一雄獄中日記 より


中田善枝ちゃん宛詫び状
石川君の証言---第二審二七回公判より


中田弁護人 壁に何かで書いて、それから切紙したことは憶えていますか。
石川さん   はい、憶えています。
中田弁護人 どうして、そういうことを書いたのか、その事情をちょっと説明してほしいんですが。
石川さん   最初、三人から、一人と言ったのかな、とにかく殺したと言ってから、「それじゃ善枝ちゃんに詫び状のしるしがあるか」と言われたんです
中田弁護人 だれからそういうことを言われたのですか。
石川さん   長谷部さんから言われました。それから、「ある」とうっかり言ってしまいました。



裁判長    長谷部にどう聞かれたのか。
石川さん   「善枝ちゃんに詫び状が書いてあるか」と、で、「ある」と言ったんです。「どこだ」と言ったので、「狭山警察の留置場の便所の上へ書いてきた」と嘘をついてしまいました。そしたら、関さんがそばにいたので多分見に行ったんでしょう、それで夕方になって、私が帰された川越の留置場に入れられてしまったから、嘘をついてしまったから、あわてて、今度は、川越の自分のいたところへ書いたんです。



中田弁護人 長谷部さんから、善枝ちゃんに詫びる、いわばしるしのようなものを何か書いたかと聞かれたわけだね。
石川さん   はい。
中田弁護人 それまで、そんなもの書いてなかったんでしょう。
石川さん   はい、そうです。
中田弁護人 どうして書いたと言ったんですか。



石川さん   書いてあるかと言われて、うっかり書いてあると言ったらどこだと言われたから、狭山警察と言ったんです。そしたら関さんが見に行ったらしいです。で、なかったのを聞かれるといけないから、夕方になって帰されたから、川越の留置場の中へ書いたです。
中田弁護人 川越へ書いたのは、狭山へ書いたとうそを言って、本当に書いてなければ叱られるから書いたということになるんですか。



石川さん   そうです。で、紙を切ったのは、長谷部さんが、紙で書いたというか、切ったというかあれは長谷部さんに教わったんです
中田弁護人 教わったというのは
石川さん 中田という切り方です。紙を二枚合わせて、一所を切ると、中田と切れるんです。それは長谷部さんが教えたんです。それは、浦和の区長さんにも、こういうふうに切り方を教わったと書いたのを預けてあります。



中田弁護人 その切り紙というのかな いくつかに折って一所を切ると、中田というふうになる、その切り方を教わったんだね。
石川さん   はい、そうです。




中田栄作氏宛手紙
石川君の証言---第二審一五回公判より



石川さん   河本検事がその何日か前に来て俺に言うには、河本検事が俺の家に行ったら俺のおとっつあんが家の者が換って 中田の家へ謝罪に行くから 俺から前もって中田の家へ手紙を出しておけと言ったということでした。それで俺はそのことを原検事に言ったら同検事が幾日か待ってくれと言うので幾日か経ってから書いたわけです。



(注、石川君の父親が中田家へ謝りに行くと言った事実はない)


higurashi at 23:04|PermalinkComments(0)

1963(昭和38)年6月20日

100万人署名を継続し一人でも多くの方に狭山事件を
「狭山事件再審オンライン署名」へ

ポスターの画像はコチラhttp://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw//chiiki/sumida/sumida_Sayama1306.htmlから頂きました

「狭山事件50年! 見えない手錠をはずすぞ! 墨田集会」のお知らせ
6月21日(金)18:30〜 墨田区社会福祉会館3F(墨田区東墨田2-7-1)
ゲスト:石川一雄さん・早智子さん 講演:金 聖雄(キムソンウン)さん
主催:部落解放同盟墨田支部 解放共闘

狭山事件発生・石川一雄さん不当逮捕から50年・・・
半世紀にわたる闘いを、今年こそ勝利へ!!
石川一雄さん・早智子さんの闘いと素顔をカメラで追ったドキュメンタリー映画「見えない手錠をはずすまで」(近日完成)監督の金聖雄さんを、墨田にお招きします! ふるってご参加下さい。

ぷにすけ【0勝4敗】さんのツイッターより転載させていただきました



1963(昭和38)年6月20日

 この頃から、石川一雄さんが(関巡査部長らの誘導により三人共犯の)「自白」を始めている。

* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、[[石川一雄さん]]、拘留質問(平山三喜夫[[判事]])に殺人を否認。
 証拠:「三人共犯自白開始」


供述調書(六月二〇日付)

     石川一夫 指印
右の通り録取し読み聞かせたところ誤りのないことを申立て署名指印した
前同日
  狭山警察署 司法警察員巡査部長 関 源三 ㊞
  立会人 狭山警察署助勤 熊谷警察署勤務 司法警察員巡査部長 清水 輝雄 ㊞


higurashi at 22:50|PermalinkComments(3)

June 25, 2008

1963(昭和38)年6月25日



* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、捜査本部二〇人に減員。
中捜査本部長、[[石川一雄]]の“自白”を公表。
部落解放同盟機関紙[[「解放新聞」]]、「人権侵害に抗議を、[[狭山事件]]に差別捜査の警察、部落民を犯罪人扱い」の記事。

*参考文献

『完本 狭山裁判』
(野間宏『狭山裁判』刊行委員会編/藤原書店 /1997-07)



『自白崩壊 狭山裁判20年
(狭山事件再審弁護団編/日本評論社/1984-9-30)


荻原佑介氏宛書簡(一九六五年十一月二二日)より



 六月二五日火曜日、朝頃だと思いますが、長谷部さんが次の様に言いました。
 「石川君の家から万年筆が見つかったそうではないか、なぜ今まで教えなかったのだ」
 「本当に知らなかったのです」
 「---嘘をつけ、知らない物が見つかる訳がないだろう。・・・善枝さんを殺してから風呂場の方の入口から入ったと言ったがその時鴨居の上に置いたのではないか、何でもその当りから見つかったと言ってたよ・・・」



higurashi at 05:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

June 23, 2008

1963(昭和38)年6月23日

* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、捜査本部、取調室前の警戒を厳しくする。
 [[石川一雄]]、この日までに三人犯行の“[[自白]] ”をする。
 検察側提出証拠:「[[単独犯]][[自白]]開始」

 『自白崩壊 狭山裁判二〇年』(狭山事件弁護団編)より


* 石川は知人関巡査部長の泣きおとしと狭山署以来のテロルと脅しに負け、三人説を自供。
 関は石川にかばんを捨てた場所をゴム紐の発見された近くに書かせる。
 ハンストをないものにするため自白の日を三日だけくりあげ二〇日にする。
 『狭山事件 無罪の新事実』(亀井トム)より


* 厳しい取調べ(甘言と拷問)により、ついに犯行を自白
 (別件逮捕より一ヵ月ほど、石川さんはほとんど外部との接触のない状態におかれていた)。
 『狭山事件と再審』(輪島岩吉編)より






石川一雄獄中日記 より



 六月二三日、調べ室に遠藤、青木、斉藤さん達が居る所で長谷部さんが、
 「石川君 何時まで強情張って居るのだい、殺したと言わないか、そうすれば一〇年で出してやるよ、石川君が言わなくても九件も悪い事をしてあるのだしどっちみち一〇年は出られないのだよ・・・」
 とこの様に言われました。・・・知らない刑事さんが
 「課長(長谷部)さん 狭山の関部長が此方に来るそうです」・・・



 「そうか、それでは石川君 君に言ってくれ、男同士の約束だ」
 と私の手を握りました。
 そして暫くしたらさんが、
 「石川君 元気かい、今署長さんに『この前一八日の裁判が終ったら三人での事を教えると約束して有るのだから聞いて来い』と言われて来たのだが吾に話してくれ」
 といきなり私の手を握って泣きつきましたが、私は三人でのこと(三人共犯)を話しませんでした。そしたらさんが



  「石川君 教えないなら帰るど」
 と立ち上がったら 長谷部さんが、
 「石川君 殺したと言って呉れ 吾は必ず一〇年で出してやるからな、君 今話すそうだから待ってくれ、我々が居ては言いづらいだろうから外に出ましょうか 遠藤さん」
 と言って皆出てしまいました。そしたらまた泣きながら、石川君 殺したと言ってくれと手を握ったので、私もつられて泣いてしまい「入曾、入間川、と私と三人で殺した」と言ったのです。




第087回国会 法務委員会 第16号 昭和五十四年五月二十九日(火曜日)


○西宮委員 それでは次に、先刻申し上げた問題についてお尋ねをいたします。
 いわゆる狭山事件と言われる、現在再審請求中の問題があるわけでありますが、これは一九六四年の三月十一日に浦和の地方裁判所で第一審として死刑が判決をされまして、直ちに控訴をいたしまして、一九七四年の十月三十一日に、第一審を破棄をして第二審は無期になった、こういう事件であります。私は、これを見ておりまして、まず第一に気のつくことは、公訴を提起してから判決が行われるまで、ずいぶん長い時間がかかっているわけですね。これは一体どうしてこういうことになったのか、裁判所の方からお聞かせください。
○岡垣最高裁判所長官代理者 先ほど御指摘のありましたとおりに、第一審の浦和地裁川崎支部でございますが、起訴になりましたのが、第一次起訴が三十八年の六月、それから第二次起訴が三十八年七月ということでございまして、それから判決が三十九年の三月十一日、第一回公判期日は三十八年九月四日でございますから、第一回の公判期日から数えますと、半年くらいになっておると思います。控訴審は、三十九年の三月十二日に控訴の申し立てがございまして、第一回の公判期日が九月十日でございますが、判決は四十九年の十月三十一日でございまして、御指摘のとおりに十年という期間がかかっているわけでございます。それから上告審は、四十九年の十月三十一日に上告申し立てがございまして、上告審の決定が五十二年の八月九日というふうになっておるわけでございます。
 そこで、十年たったのが一番問題になるかと存じますが、裁判所でどういうふうに期日を入れて、どういうふうに進行させていくかということは、これは当事者の主張その他いろいろな事情を考えて、裁判所で最も適当と思われる訴訟指揮をされることだと思いますし、この事件についての裁判所の行き方について、私どもから、ああだこうだというふうな評価は差し控えさせていただきたいと存じますが、ただ、事実は御参考までに申し上げておきたいと思います。
 それは、控訴審で判決を言い渡しますときに裁判所で明らかにされたこととしまして、こういうふうに言っておるわけでありますが、被告人は、原審で訴因をすべて認めていたけれども、当審では一転して、中田善枝に関する強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄及び恐喝未遂の訴因は無実であるというふうに主張するに至ったし、捜査手続とそれから原審の審理不尽ということを含めて、訴訟手続の違法、違憲というふうな問題だとか、あるいは被告人が一体シロかクロかということ、これが一番の中心の問題として当事者間で争われたことなので、裁判所も、この点を中心に原判決の当否を詳細に検討したというふうなことを言っております。これは、そのときの高等裁判所が考えたことだと思います。
 それで第一審は、先ほど申しましたとおりに、第一回公判期日から判決言い渡しまでに約半年でございますが、この間に証人の取り調べた数は約五十名、延べ四十九名調べておりまして、公判回数は十二回でございます。したがいまして、一回に大体五人くらいの証人を終わっていく、そういうペースで進んだわけでありますが、控訴審の方になりますと、公判回数は八十一回でございまして、そして証人数は、延べでございますが八十名、それから鑑定人が八名、それから被告人質問は十二回、検証回数七回というふうなことでございまして、これは開廷日数でごく平均的に割ってみますと、一回に証人一人調べるかどうかという程度で来ておるわけであります。
 したがいまして、最初申し上げましたとおりに、高等裁判所としては、最初は自白で半年くらいで済んだ事件、それがさらに至って、当事者の主張その他いろいろ考えて慎重に審理を進めた、こういうことではなかろうかと存じます。
 以上でございます。
○西宮委員 まず第一に、第一審が非常に簡単に片づけられてしまった。そして第二審に行って――つまり第一審はわずか半年くらいで判決までこぎつけた。そこで、いまの裁判は第一審重点主義、これは当然な原則ですね。その第一審の際にもっと詳細に、あるいはまたもっと厳しく状況を調べたら、恐らく今日問題になっているようなこういう問題は起こっておらなかったと私は思うのです。要するに、本人が自白をしておったということはありました。ただしかし、私は、なぜ本人がそんなに簡単に自白をしたのかということが実は問題だと思うのであります。
 このことを後でもう一遍言いますけれども、まず私は指摘したいのは、最初の第一審がきわめて簡単に、安直に片づけられてしまったという点が問題だと思います。本人のいわゆる自白等ももっと厳しくその状況を、なぜそういう自白に至ったのかというようなことを考えるべきだと思う。いまの刑事訴訟法の大原則は、自白だけでは有罪を決定してはならぬということに、これは憲法でもあるいは刑事訴訟法でも決められております大原則でありますから、単に本人の自白があったからということで、非常に安易に扱ってしまったのではないかということを考えざるを得ないと思います。
 それから、控訴に入ってから大変に裁判官が頻繁に更迭をしているわけですね。私は、これでは本当に信頼するに足るような裁判等は行われなかつたのではないかということに、まず第一に疑問を感ずるのですけれども、その間に裁判長は何人くらいかわっていますか。
○岡垣最高裁判所長官代理者 裁判長は、最初昭和三十九年から四十一年までは久永裁判長でございます。それから四十一年九月から十二月まで、これは短かったわけですが、井波裁判長、その後四十一年十二月から四十三年十二月まで、これが久永裁判長です。それから四十四年三月から四十四年四月、これが津田裁判長、それから四十五年から四十八年までが井波裁判長、これはちょっと四十一年に関与された裁判長と同じでございますが、それから四十八年以降判決までが寺尾裁判長、こういうふうにかわっております。

○西宮委員 その裁判長の更迭の経過を見ると、短い人は三カ月にも足りないというので転任をしてしまっている。たとえば、いま挙げられた津田裁判長のごときは三カ月未満ですよ。そういうことでかわってしまうというので、転々としてかわっていく。
 無論、新しい人が後任として赴任をしてきても、直ちに審理にかかるわけではないでしょうから、この問題に取り組むということになってからの時間がまことに短い、そして非常に頻繁にかわっていくということで、私は、その間の審理もどうしてもずさんにならざるを得ないというふうに考えるわけです。
あるいは、最後に判決を下した寺尾裁判長、この人などは、新しい証人とか証拠の申請は大部分を却下してしまって、この裁判長になってからは、たった一人の証人調べもやっていないわけですよ。全然やっていない。だから、いずれも前の人の記録を見て判断をしたのでしょう。しかし、その前の人は、いま申し上げたように、みんなきわめて短期間に更迭をしていっているわけです。だから、そういう人のつくった記録を見て判断を下す。自分自身としては、一人の証人調べもやっておらぬというのでありますから、私は、そういう点できわめて不十分な審理に終わってしまったということを痛感せざるを得ない。
 こういうやり方は、これは明らかに、裁判の中身の問題よりも、いわばその司法行政、こういうふうに簡単に、せっかく裁判長になったと思ったら三カ月足らずで転任をさせてしまう、あるいはまた定年間近いという人を充てるとか、こういうことは、これはまさに司法行政の重大な欠陥だというふうに言わざるを得ないと思う。その点についての反省はありませんか。○岡垣最高裁判所長官代理者 裁判官が事件を担当しました場合には、できるだけその事件が終結するまでかわらないようにいくというのが、これが理想でございます。その点については西宮委員御指摘のとおりだと存じます。ただ、いろんな事情があって、必ずしもその理想どおりにいかないという点も御理解願いたいと存じます。
○西宮委員 いろんな事情があって、そのとおりにいかない、答弁としてはそれだけだと思うのだけれども、それで裁かれる側は実はたまったものじゃないわけですね。
 いろんな事情というのは、要するに、裁判所の事情ということで急に転任をさしたり、あるいは定年間近い人を充当したりというようなことになるのだろうけれども、そういう御都合でそうなるのだというのだけれども、裁かれる人、一生の運命を左右される人、そういう立場からいったら、そういうやり方で片づけられたのでは実に助からないと思う
 さっき、本人が自白をした云々という話がありましたので、その点について私、一言申し上げたい。
 これは、見ようによってはまことに不思議なケースなんですね。本人は、私がやりましたということを言っている。弁護士は、そのときから終始一貫してやっておらないという弁論をする。まことに不思議なんでありますけれども、私は、その当時の記録を若干、拾い読みでありますけれども、読んでみますると、そのいわゆる自白なるものが、なぜそういう自白をしたかということに当然疑問を持たるべきだと思う。裁判官が、少なくともそういう書類を眼光紙背に徹する、そういう心組みで読んだとすれば、恐らくああいう結果は出てこない。ことに、さっき申し上げたように、控訴をされてからは、本人も自白を否定しているわけです。そして、しかも長い時間かけている。その間に、無期刑を宣告をした最後の裁判長は、さっき申し上げたように、書類だけを見て判断をした。こういうことなんだけれども、この寺尾裁判長なども、もし関係の書類を眼光紙背に徹する、そういう気持ちでこれを検討したならば、私は、結論は完全に変わっておったと思います。
 特に私が指摘したい、なぜ自白を簡単にしてしまったのかという点でありますけれども、これは捜査の段階で、自白をすれば十年で出してやる、十年で出られるのだ、こういうことを強く印象づけてしまったわけですね。それで、どっちみち十年しんぼうすれば出られるのだ、そういう気持ちだった。しかも本人はごく軽微な、鶏をかっぱらったとかなんとか、いろんなことがあったようです。ですから、そういうのが全部ばれたわけです。それで、そういうのがばれたのなら仕方がない、十年ぐらいしんぼうしよう、そういう気持ちになった。
 その心境の移り変わりも、記録を見れば明瞭であります。それで要するに、十年いれば出られるんだ、出してもらえるんだ、こういうことが捜査の段階で非常に強く印象づけられた。しかし普通の常識では、普通の世間の人ならば、今度の事件のようなのはまさに強盗殺人事件、極悪な犯人として挙げられているわけですから、それが有罪に確定した場合に、十年で出られるなんというようなことは考えられないんだけれども、その点が私は、この狭山事件という、いわゆる被差別部落の人に起こった特異な現象だと思う
 と申しますのは、最初の自白を引き出すときに大変な役割りを果たした人に、関源三という巡査部長があるわけです。この人は、大丈夫十年で出られるんだ、おれが保証するんだということで言った。だから弁護士などが来ても相手にしない。弁護士の言うことなど――第一、本人は、弁護士なんというのはどういうものだかさっぱりわからない。敵だか味方だか、全然見当がつかない、そういう人だったようですね。そこへもってきて弁護士が、いや、それはそういうことを言ったら大変なんだ、君はやっていないと思うんだけれども、それをうっかりやったなんていうことを言ったら、それはもう大変な重罪を受けるんだというようなことを言っても、にやにや笑っていて、いやいいんですというようなことで笑っているというんですね。その辺の状況が、いわゆる被差別部落の人の置かれてきた境遇ないしはそこから培われた心理、そういうことに十分な理解を持たないと、理解ができない問題ではないかと思います。
 つまり、先ほど申し上げた関源三という巡査部長は、駐在所のお巡りさんだったけれども、その部落の青年団と接触して野球の指導員になった。それで、この被告人として挙げられておった石川一雄君なども、野球の指導員として非常に親しくして、非常に信頼をしておったんですね
 そして、これは私は特に指摘をしなければならない、そういう境遇に育ってきて、そういうところで培われた一つの心理という点で、ぜひ明確にしておかねばならぬと思いますのは、あの差別を受ける人、これは差別を受ける人全部に共通する、いまのいわゆる部落の問題だけではなしに、他の理由でも結構でありますが、差別を受ける人の心理は、自分は全く世間一般の人から相手にしてもらえないんだ、そういう非常に強い孤立感みたいなものを持っているわけです。そこへ、たまたまその部落以外の人が、被差別者でない人が乗り込んできて、一緒に裸になって野球をやるとかそういうことをすると、本当にその人に対する信頼あるいは敬愛の念というか、そういうのは人一倍強くなるわけですね。ちょうど前のそういう人に対する反感のいわば裏返しだと思うのです。いままで反感を持っていた人の中から、たまたまそういう人があらわれたということになると、これこそおれの味方なんだ、こういう気持ちが非常に強くなってしまう。これは私が長い経験を通して、このことは骨身にこたえて知っておるわけです。そういう環境になかった人には想像できない。そういう特殊な心理状態があるわけです。
 だから、関源三という駐在所のお巡りさんが飛び込んできて、もう一緒になって野球をやるのだというようなことになると、矢も盾もたまらない。一も二もなくその人にほれ込んでしまう。何もかも一切合財その人におすがりをする、任してしまう。そういう心理になってしまうのは、長い間差別を受けるというような不幸な環境にあった人の心理です。だから、特にこの人を呼んで、全くこの人は石川一雄君の救い主だということで、彼が警察に来て実に親切に差し入れをしたり、いろいろ話をしたりしてくれるわけです。石川一雄君の書いたものによると、まさに地獄で仏に会った気持ちだ、こういうことを言っておりますから、私はまさに、地獄で仏という彼の感想は、その気持ちを端的に語っていると思う。その人から自白をしろ、お父さんやお母さんも心配しておるのだから、早く君が自白をして後は楽になった方がいいぞ、こういうことを言われて、それを信じ切ってしまったというところに、そもそもの悲劇の発端があったと私は思います。
 ですから、そういう点について、恐らく第一審の裁判官は簡単に片づけてしまった。第二審はくるくると裁判官がかわっていく。最後の裁判官は書類審理をしながら判断をする、こういうことで、こういう結果になってしまったのではないかということを私は痛切に考えるわけですが、いま最高裁の刑事局長にそのことを申し上げても、私どもが期待するような答弁はもらえないと思います。
 要するにそれは裁判所の問題だ、こういう答弁しか返ってこないと思うので、別の問題に移りたいと思いますが、しかし狭山事件の根底に横たわる最も重大な問題、いわゆる人間が人間を差別をする慣習あるいはそういう社会環境、その中で育った人、そういう人に対する正しい認識がないと、これは裁判ばかりじゃありませんけれども、間違ってしまう、こういうことが痛感をされるので、裁判の場合に、そういう点についてどういう見解を持っておるか、その点だけ一言聞かしてください。
○岡垣最高裁判所長官代理者 法の前の平等と申しますけれども、裁判所の目の前には差別すべき人というものはございませんので、それは裁判する上でも根本的な原則の一つでございます。
○西宮委員 法の前に差別はない、原則としてそういうお気持ちであることはもちろんわかるし、私もそうだと思います。
 ただ私が指摘をしたのは、そういう環境に置かれた人が、そうでない人、差別をする側というか、そういう人の心理とは違った心理を持っている。したがって、常識では考えられないような、おれがやったんだということを平気で言って、幾ら弁護士が説得しても、それに応じないとか、そういう全くわれわれ常識で考えられないようなことが起こるわけですよ。それは要するに、容疑者ないしは被告人の立場をそこまで真剣に、深刻に考えて裁判に当たらないと間違いを来す、こういうことを言ったわけですから、その点ぜひ強く記憶しておってもらい、したがって、これから同じような事件を扱うこともありましょうから、ぜひそれを教訓として生かしてもらいたいということを申し上げておきます。
・・・
○岡垣最高裁判所長官代理者 最初に、先ほどの狭山事件についてお尋ねがあった際に、私は、浦和地裁の川越支部というつもりで言いましたが、川崎と言ったというふうに注意を受けましたので、ここで謹んで訂正させていただきます。川越でございます。
 それから、ただいまの御指摘の裁判につきましては、私、準備不十分のため承知しておりません。後で調査いたしたいと思っております。
○西宮委員 御承知ないというのは、大変残念なことなんですけれども、これは昭和三十年六月一日、大法廷の判決です。
 その大法廷の判決で、いまのように連合軍の裁判で服罪した二年十カ月というのを算入するといって、その際に、その判決文の中にはこういうふうに書いてあります。
 その受刑期間のうち、相当の期間を本刑に算入して、右期間は、刑法二八条仮出獄に関する規定の適用については、既に「経過シタル」期間として通算されるものとすることも、また同条但書にいわゆる刑の執行の減軽にあたるものと解するを相当とする。されば、右のごとき期間の算入は、何ら無期懲役刑の性質に反するものではなく、こう最高裁の大法廷で判決をしておるわけです。だから、その期間を算入するということは無期懲役刑の性質に反するものではない、こういうふうに昭和三十年に言っておる。
 昭和三十年にそういう判決が出ておるし、さらに刑事局長が言われたように、今度の改正刑法の草案がそのまま成立をすれば、私が指摘をしたとおりになるというのであれば、これはますますもって、人権の問題がやかましくなった今日としては、改正刑法草案の精神をいまから採用すべきだ、これは裁判所も同時にまた法務省も、その精神に賛成をすべきだということを特に強調したいのです。
 第一、それをやったからといって法律違反ではないでしょう。いまの最高裁の判例が「何ら無期懲役刑の性質に反するものではなく、」こういうことを言っておる。法律違反になるわけではないでしょう。
○伊藤(榮)政府委員 私どもは、現在のような扱いから改正刑法草案が立法化されました場合と同じような扱いをすることは、現行刑法に違反するというふうに考えております。
 ただいま御指摘の判例は、刑法第五条に「外国ニ於テ確定裁判ヲ受ケタル者ト雖モ同一行為ニ付キ更ニ処罰スルコトヲ妨ケス但犯人既ニ外国ニ於テ言渡サレタル刑ノ全部又ハ一部ノ執行ヲ受ケタルトキハ刑ノ執行ヲ減軽又ハ免除ス」こういう規定がございます。たまたま日本で言い渡しましたのが無期でございましたので、無期というのは無限大でございますから、二年何ぼを引くということを主文でうたわなかった例でございますが、ただいま続み上げました刑法第五条の精神を勘案いたしますと、そのような扱いも妥当であるという判例でございまして、外国判決の存在を前提としない現行刑法の立場としては、まことにお気持ちに沿わなくて申しわけございませんが、そういう措置はとり得ないと思っております。
○西宮委員 これは占領下において、つまり外国において起こった事件でありますから、未決勾留という場合と全く同じものではないわけですけれども、少なくともその精神は全然変わってないということで、われわれもこの判例を非常に貴重なものだと考えているわけです。
 これは第一、決定する機関は更生保護委員会ですか、そこの決定でありましょうから、そことも折衝しなければならぬ問題ではあろうけれども、私は、いまや人権が特に尊重されねばならぬ、そういう時期に際会して、まことに不合理な、特にこの石川君の場合のごとき未決勾留の期間が非常に長かった、しかもそれが裁判所の都合で長くなってしまった、長くさせられてしまったというような場合には、何らかの便法を講じなければ、その人権擁護というような立場で大変な不均衡を来すということを強調しておきたいと思います。
 実はいろいろお尋ねをしたいことを考えておったのでありますけれども、この仮出獄の問題などは、簡単に同意をしてもらえるのではないかというふうに考えておったので、時間を費やし過ぎてしまいました。したがって、いわゆるこの狭山事件の裁判については、捜査において、あるいは裁判において、きわめて異常な、またわれわれとしては納得できない、そういう状態が数多くありますので、この点はまた機会を改めて、ぜひそういう点を指摘をし、そうしてしかも一日も早くこの再審が開始をされるようにわれわれは念願を込めて、この質問を終わりたいと思います。









埼玉県川越市






元社会党衆院議員 西宮弘氏死去

 西宮 弘氏(にしみや・ひろし=元社会党衆院議員、元宮城県副知事)22日午前11時33分、肺炎のため仙台市青葉区の福祉施設で死去、97歳。水戸市出身。自宅は仙台市青葉区上杉6の2の58。葬儀・告別式は25日午前11時から、同市宮城野区鶴ケ谷5の17の2、日本福音ルーテル鶴ケ谷教会で。喪主は長男進(すすむ)氏。

2003/11/23 01:09 【共同通信】

   故西宮弘元社会党衆院議員の第087回国会発言
http://sky.ap.teacup.com/ryosyanokyusai/243.html
「最後に判決を下した裁判長の更迭の経過を見ると、短い人は三カ月にも足りないというので転任をしてしまっている。・・・非常に頻繁にかわっていくということで、私は、その間の審理もどうしてもずさんにならざるを得ないというふうに考えるわけです。あるいは、最後に判決を下した寺尾裁判長、この人などは、新しい証人とか証拠の申請は大部分を却下してしまって、この裁判長になってからは、たった一人の証人調べもやっていないわけですよ。全然やっていない。だから、いずれも前の人の記録を見て判断をしたのでしょう。]
を確認する意味でも、ぜひ裁判所のウェブ・ページ
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0010?action_id=first&hanreiSrchKbn=01
 は二審判決
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=20579&hanreiKbn=03
 だけでなく一審判決
http://www.asahi-net.or.jp/%7Emg5s-hsgw/siryou/sayama_jiken/terao_hanketu/index.html(元になったという二審判決のリンクです)
 の全文もオープンにしていただきたいと思いませんか〜♡

higurashi at 05:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

June 20, 2008

1963(昭和)年6月20日

* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、[[石川一雄]]、拘留質問(平山三喜夫[[判事]])に殺人を否認。

 検察側提供証拠:「三人共犯の“自白”開始」



石川一雄獄中日記 より
一九六三(昭和三八)年六月十七日


  川越分室に移されて同日頃、長谷部さんに
 「石川君を殺して何処かの木の根にでも埋めて、お父さんにはうっかりしてたら逃げられたと言えば我々は警察官だから逃げられたと言っても嘘はつかないと思うだろうから殺して埋めちゃいましょう 遠藤さん
 とこの様に言われました。で、この日の夕方からだと思いますが約六日間位、飯を食べませんでした。又同日頃
 「裁判所からわざわざ来たのだから会え」
 と知らない刑事さんが言うので行きましたら、裁判所の人が



 「石川一雄君だね、中田善枝さんを殺していますか」と言うので「殺していません」と答えたら、「狭山の署長さんと一八日の裁判が済んだら三人の事を教えると約束したと聞いたのだが、その三人というのは何かね、吾は裁判所の○○だが三人の事を話してくれないかね」と、この様に言われました。ですので「裁判所へ連れてってくれるなら話す」と言いましたら書類を出して、「名前と拇印を押してくれ」と言うので押してやりましたら帰って行きました。







2005年3月18日会見

higurashi at 02:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0)