松本治一郎

April 28, 2017

2011(平成23)年7月5日松本龍氏辞任

個人的には「全国水平社創立大会宣言」の精神に立ち返ってほしいですネ☆
http://tamutamu2011.kuronowish.com/suiheisyasengen.html


松本龍復興対策担当相(60)=衆院福岡1区=は5日午前、東日本大震災で被災した岩手、宮城両県を訪問した際に「知恵を出さないやつは助けない」などと発言した責任を取り、菅直人首相に辞表を提出、受理された。迅速な復興を最優先に掲げ新設した閣僚が、就任わずか9日目に辞任したことは首相に大きな打撃。政権運営が厳しさを増すのは必至だ。野党は首相の任命責任を追及する構えで、退陣時期に影響が及ぶ可能性もある。

復興相辞任:宮城知事「ドタバタの印象」

宮城県の村井嘉浩知事=石川貴教撮影 松本龍復興担当相が辞任したことについて、宮城県の村井嘉浩知事は5日午後、「一日も早く(復旧・復興に)取りかからなければならないこの時期に(民主党政権は)ドタバタしているという印象を与えた。被災者は、一体何をやってるんだという思いを持っているのは間違いないと思う」と語った。

 復興相に昇格した平野達男副復興相は農林水産省出身で、参院岩手選挙区選出。「後任として適任だと思う。真摯(しんし)に私どもの声に耳を傾けてくれるので、安心して頼りにできる。地元被災者も安心できる」と期待を込めた。



.@ueno_wan
上野千鶴子 松本龍(あっというまに元)復興相が辞任。たかが政治家がなぜここまで傲慢になれるのか。部落解放同盟の松本治一郎の孫だとか。お祖父さんの志を忘れたのだろうか。日本は三代めで滅びる?
1時間前 webから
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»
Miyabi_Mayu おかむらまゆみ
@ @ueno_wan 土地も三代目でなくなるといいますし。三代目といくキーワードに なにかあるのでしょうか?
54分前 お気に入り リツイート 返信 »
cr_ngc MASAAKINOGUCHI
@ @ueno_wan 政治家をたかがというあなたはどれだけ偉いのでしょうか。
1時間前 お気に入り リツイート 返信 »
minajmp MINAYOSHI Jumpei
@ @ueno_wan あの「暴言」の方が信じられない、というくらい心優しい人だそうです。震災直後から毎週被災地入りしていたとも聞きますが。
1時間前 お気に入り リツイート 返信 »
neko1203 じゅんきち
@ @ueno_wan えぇーーー( ̄□ ̄;)!!松本治一郎の孫なんですか!権力持ったと錯覚させられてグダグダになっちゃって謙虚さを忘れてしまったんですかねぇ。残念。この機を逃さず反省して良い政治家になるように自分改革をして欲しいですね。


@ueno_wan
上野千鶴子 松本龍前復興相のお祖父さんに言及して反省。家族主義じゃなかったはずなのに。祖父と孫は別人格だ。親子だって・・・。



higurashi at 20:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

January 21, 2014

1948(昭和23)年1月21日 <カニの横ばい事件>議員の行動に対する是非の判断は民主的な手続きよって十分に表すことが出切る

[[一九四七(昭和二二)年]]の、戦後[[第一国会]]で[[初代参議院副議長]]になった[[松本治一郎]]が、翌年の[[第二国会]]開会式で、[[天皇単独拝謁]](便殿と呼ばれる特別室で、ひとりずつ天皇に「[[カニの横ばい]]」のような挨拶をすること)を拒否し、内外([[自由党]]・[[民主党]]の議員、天皇を神と信じてきた人たち、[[右翼]]、[[暴力団]]など)に大反響を呼ぶ。




一九四五(昭和二十)年八月下旬、焼け野原となった日本は、
連合国軍総司令部のもとで、労働組合や農民組合が再び活動
できるようになり、政党が次々生まれた。
水平社に代わり、部落解放全国委員会も生まれた。
一九四六(昭和二十一)年十一月三日、日本国憲法が公布され、
この新憲法のもとで、一九四七(昭和二十二)年四月二十日、
選挙が行われ、松本治一郎は、社会党から参議院の全国区に
立候補し当選、その五日後には衆議院選挙が行われ、
社会党が第一政党となった。
社会党の片山哲を首相とする内閣が出来、松本治一郎は、
参議院の副議長に選ばれた。


 一九三六(昭一一)年五月二〇日
[[衆議院特別議会]]で広田内閣に対し、「[[華族制度]]改正に関する質問」 を行う。


「大正十三年の第三回全国水平社大会で、
徳川家一門に対する辞爵勧告の件が決議され、
そのことからついに、徳川暗殺陰謀事件
でっちあげられたのであるが、そのため、私が
下獄するに至った経過については『徳川一門への
辞爵勧告問題』として詳しく述べられている。
これはいうまでもなく、日本の封建制度のもっとも
端的な象徴である華族制度に対して水平社が
打ち上げた最初の抗議であったのである。・・・
この問題にこめられた部落民の憤激が、ついに
衆議院議政壇上で、私を通じて政府につめよらせた
わけである。昭和十一年というと、『日華事変』の
始まるその前年である。・・・新聞世論はこれを
積極的にとりあげようとはしなかった
。したがって、
私を通じてなされた水平社の議会闘争は、ほとんど
世に知られていないと思う。」

 一九四七(昭二二)年五月二〇日
初代参院副議長(一二七票)に選出され、型破りの挨拶が反響をよぶ。


「私の記憶がまちがっていなければ今より十年前、
私が衆議院に『貴族院および華族制度廃止に
関する質問書
』を提出いたしたのであります。
十年後の今日は、貴族院および華族制度
追放せられたのであります。(拍手)すなわち
新憲法第十四条において、すべて国民は法の下に
平等である。人種・信条・性別・社会的身分または
門地により、政治的・経済的・社会的関係において
差別を受けない、華族制度その他貴族の制度は
これを認めないと謳っておるのであります。・・・」

『戦後日本(第5巻)占領と戦後改革 過去の清算 』より
著者:尹 健次 (ユン コォンチャ)
出版社:岩波書店
発行年月:2005年09月
四 日本敗戦と「国民」概念の再構成より
なお『草案要綱』の段階では、
『華族ノ地位ハ現存ノ者ノ生存中ニ限リ之ヲ認ムル』と
条件つきで華族制度の廃止が謳われていたが、これは
その全廃を求める部落解放運動等の要望もあり、
『改正草案』作成の段階で削除され、華族その他貴族の身分は
廃絶された
。・・・」



 一九四八(昭和二十二)年一月二十一日の
第二国会開会式で、衆議院と参議院の議長、
副議長は天皇に「単独拝謁」すべしという
戦前よりの慣習により、「貴族あれば賤族あり」
と訴えてきた松本治一郎と、身分制度の頂点に
いる天皇とが初めて顔を合わせた。
便殿の入口に立って拝謁を促す宮内省の役人に
対し、
「わたしは、やらんよ。人間が人間をおがむ
ようなことはできんよ」と言った松本治一郎は、
「こんにちは、ごくろうさまです」との挨拶だけで
済ませた。
 この行為は、議員たちの話題になり、
新聞記者たちが取材に訪れた。 




「殺してやる」
「貴様は、月の出ない闇のあることを知らないのか」
数えきれないほどの脅迫状が松本治一郎の事務所に
届き、外を歩いているとき投石を受けることもあった。
 警察が護衛を申し出たが、松本治一郎は、警察の
お世話にはならなかった。
 脅迫状の封筒の消印に岡山県倉敷市と読み取れる
ものがあった。松本治一郎は、倉敷市にのりこんでいき、
会場に集まった二千人の前で、「カニの横ばい」を
断ったことについて演説を始めた。





 闇の夜がどうだこうだという手紙をもらったが、
松本の過去(全国水平社の委員長になって)三十年、
いつ、月の夜があったというのか。
 常闇のなかで生命をかけてたたかってきた。
 わたしの意見に反対の人は、遠慮せずにここまで
上がってきなさい。
闇討ちなどと言わずに、正々堂々と話し合おうじゃないか。
 誰一人、演壇に上がっていく者はなく、しばらくして、
会場から割れるような拍手が起こった。
 松本治一郎のこの行動に拍手を送ったのは、
部落民だけでなく、部落外の、民主主義の世を願う
人々も多数いたと思われる。

 一九四八(昭和二十二)年一月三十日、総司令部政治局が、天皇拝謁拒否問題につき、以下のような見解を発表した。この非民主的・非人間的慣習は、第三国会より改められた。



(松本治一郎参議院議員が)
天皇に拝謁しなかったという
つまらぬ事件を
仰々しく騒ぎ立てるのは、
茶碗の中で騒ぐようなものだ。

彼の行動に対する是非の判断は、
選挙の機会に
(彼に投票するかどうかの)、
民主的な手続きによって
十分に表すことが出切る・・・



*2014年1月末 狭山事件で 
第16回三者協議(東京高裁裁判長、検察官、弁護士)が行われ 
検察が証拠開示要求にどう答えるのかが注目されます。

裁判所は事実調べを行い再審開始を!

検察は すみやかに全証拠開示を!

証拠開示の法制化を!


*IMADAの原由利子氏がアップされた1月15日の東京高裁前アピールの動画です。
「昨日1月14日に75歳の誕生日を迎えられた石川一雄さんのこと、狭山裁判再審に向けた思い。一言ひとこと胸にしみいります。是非おききください。6分です。」
https://www.facebook.com/photo.php?v=10203014739952367


*狭山事件・オンライン署名にご協力をお願いします


*ドキュメンタリー映画『SAYAMA みえない手錠をはずすまで』完成!!




 上映会スケジュール /  予告編







*特別抗告棄却決定が来た - 雪冤闘争宣言 - http://blogs.yahoo.co.jp/orisen0706/38208122.html …「第二次再審請求は海渡弁護士が担当してくれそうです。がっかりしている暇はないので、これからが本格的な闘いなのだと考えて、気持を奮い立たせようと思います。今後共、ご支援をお願いいたします。」へのリツイートをお願いします




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higurashi at 05:21|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

June 18, 2013

1887(明治20)年6月18日

松本治一郎 松本治一郎が、福岡県筑紫郡豊平村宇金平(現福岡市○○○町)に生誕する。
 父は農業のかたわら、桐材、竹皮の仲買いを商う。









 私は、いわゆる『新平民』といわれる部落に生まれた。物心ついてから、刻み込まれた疑問は、なぜ同じ人間に生まれていながら、生まれた場所によって、差別迫害をうけねばならにのかということであった。




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April 28, 2013

1953(昭和28)年4月28日

 [[ジョセフィン・ベーカー]]さんが、公演のため来日する。
 [[松本治一郎]]委員長と感激の握手を交わした。



 彼女の小麦色の皮膚に刻まれた被差別人種としての苦しみを見、またこのような不当と不正を世界から取り除くために、最後の血の一滴までも捧げようという決意を聞いて、強い共感を覚えた。






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April 23, 2013

1964(昭和39)年4月23日

 [[松本治一郎]]が、[[参議院内閣委員会]]において「[[皇室経済法施行法の一部を改正する法律案]]」について追求する。




人間のとうといということは、大きい土地に住まい、大層高楼に美衣美食をして生活するのがとうといというのではなくて、自分自身の生活を、自分自身の力で、働き立てていくところに人間のとうとさがあると思うが、だれの子だから、だれの孫だからといってぜいたくをしていいということは許されないと思う。私の洋服は五年目です。春夏秋冬背抜きの服なんですよ。何か醜いですか。どこへ行ってもそう軽蔑されませんがね。皇室の者だからといって洋服が幾らかかる、飾りが幾らかかるというようなことでは 質素とはいわれませんね。私の服は冬でもこれですよ。背抜きだから夏でもこれですむ。五ヵ年着ているのです。おかげでそのためにからだが健康である。健康でない皇族の人たちのからだはあまりに贅沢しすぎるからじゃないですか。私はそう思う」一九六四(七七歳)




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March 09, 2013

1965(昭和40)年3月9日

 [[松本治一郎]]が[[提訴]]した、[[福岡]][[板付基地土地明渡し訴訟]]で、[[福岡高裁]]が[[上告棄却]]を行う。

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January 30, 2013

1953(昭和28)年1月30日

 [[松本治一郎]]が、[[シェジマド・カースト]]解放の[[]アンベードガル]氏と会見する。

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1957(昭和32)年1月30日

 [[群馬県]][[相馬ヶ原演習場]]で、[[部落の女性]][[坂井なか]]さんが、射殺される([[ジラード事件]])。

 1957(昭和32)年2月9日
 [[松本治一郎]]が[[ジラード事件]]の現地を訪れ、[[知事]]に抗議する。



 坂井なかさんが、アメリカ兵のために、まるで野良犬か猫のように射殺されたことは、アメリカがいかに日本人を人間として扱っていないことを、はっきりしろしめしている。・・・





 われわれ三百万部落民に対する非人間的な人権蹂躪として、全国的な運動を起こそう。








『詩集十年』酒井真右(1957年刊行)より

射殺された農婦は
---米軍相馬ガ原演習場で--- 


 いわゆる、
 今の社会の表の言葉でいえば
 未解放部落のひとであった。
 アメリカ兵に射殺された
 坂井なかさんは--- --。






 いわゆる、
 今の社会の裏の呟き声でいえば
 あいつらはあれさ
 水平社、
 エタ、
 四ツ、
 チョーリンボ、
 非人--- ---であった。
 アメリカ兵に射殺された
 坂井なかさんは--- --。




 暗く哀しい祖国の疼きであり
 ああ
 民族の良心の痛みであるこの部落を
 もっと凝視し 熟考すべきだ
 日本のあらゆる党も
 政府も
 政治家も
 ひとりびとり
 日本の全民衆が、
 祖国の歪んだ黒幼いひびの間に
 圧しつめられて喘ぐ
 この部落のひとびとを--- ---。  




 部落のひとであった。
 部落のひとであった。
 未開放部落、
 部落のひとであった。
 アメリカ兵に射殺された
 坂井なかさんは--- ---。




 そして 僕は、
 沈着に、確信をもって
 もう一度告げよう。




 アメリカ兵に射殺された
 坂井なかさんは
 部落のひとであった、と--- ---。







チェンジ!日米関係「普天間基地はいらない 辺野古・新基地建設を許さない
   1・30全国集会」にご参加を!

 日時:2010年1月30日(土)14:00~15:30(集会)、集会終了後にデモ行進。
 会場:日比谷公園・野外音楽堂(千代田区日比谷公園1-3 電03-3591-6388)
 交通:地下鉄「霞ヶ関駅」「日比谷駅」「内幸町駅」、JR「有楽町駅」
   (地図)http://hibiya-kokaido.com/access%20map0802.pdf
 内容:国会情勢報告(民主党、社民党代表)、沖縄からの報告(山城博治・沖縄平
    和運動センター事務局長、安次富浩・ヘリ基地反対協共同代表、東恩納琢磨
    ・名護市議会議員)、連帯のアピール(神田公司・合志市議会議員、井原勝
    介・前岩国市長)、集会アピール
 デモ:日比谷公園から銀座、東京駅前を通り、常盤橋公園で解散
 主催:1.30全国集会実行委員会(平和フォーラムと市民団体で構成)
 問合:平和フォーラム(電03-5289-8222)
■詳しくはこちら
  http://www.peace-forum.com/mnforce/2009/okinawaaction.htm
■チラシはこちら
  http://www.peace-forum.com/mnforce/2009/01senden/okinawa02-01.pdf
■普天間基地と辺野古についての解説はこちら
  http://www.peace-forum.com/mnforce/2009/03kaisetu/091224okinawa.htm
■普天間基地についての宜野湾市のホームページはこちら(騒音被害映像もあり)
  http://www.city.ginowan.okinawa.jp/2573/2653/2678/1004.html
■辺野古現地の運動を伝えている「辺野古浜通信」はこちら
  http://henoko.ti-da.net/

●「普天間飛行場の閉鎖・返還と海兵隊の米国への移転を求める自治体首長・議員
 の共同声明」への賛同を呼び掛けています。

 内容:「普天間飛行場の閉鎖・返還と海兵隊の米国への移転を求める自治体首長・
     議員の共同声明」はこちら
   http://www.peace-forum.com/mnforce/kyoudouseimei.htm
 期間:1月28日まで賛同者募集。29日に政府関係機関に提出予定。
 集約:平和フォーラム(八木 電03-5289-8222)

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January 28, 2013

1966(昭和47)年1月28日

 [[「同対審」答申]]完全[[実施要求]][[国民運動]]中央委員会が、[[対政府統一交渉]]を実施する。
  [[松本治一郎]]が挨拶する。



 今後も、こういう運動をしなければならない日本の社会が続く限り、最後の血の一滴まで闘い続けることをお誓いする




higurashi at 06:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

January 24, 2013

1949(昭和24)年1月24日

 [[吉田茂内閣]]の陰謀により、[[松本治一郎]]が「[[大和報告]]運動会役員」という名目で、[[公職追放]]される。



 昭和二四年一月一日付で、ホイットニー米民生局長にあてた吉田茂の手紙が、私の公職追放を懇請したのである。それによると、
 「一部では、日本政府に何らかの政治的な動きがあるのではないかと、政府を非難しそうな形勢にありますが、日本政府はすべての人を公正に、かつ法にはあくまでも忠実に行動しています。その結果、松本氏を追放者の中に入れることに決定しました。政府のこの措置は貴下が承認されるものと信じます--- ---」。
 事実、その手紙を吉田が出した次の日の一月二日殖田俊吉法務総裁GSによばれて私の追放を承認すると言われた。

雪ダルマ



1949(昭和24)年2月4日 [[松本治一郎]]が[[参議院副議長]]の辞表は提出せず登院する。


 私の信念と過去の経歴に対する、軍国主義者・超国家主義者としての烙印を捺されることは、死んでも死にきれない。
今回も事実の黒白が明白になる時が来ると確信する。


1949(昭和24)年2月9日 [[解放委緊急中央委員会]]が、[[松本治一郎]]不当追放反対を決議し、[[吉田茂首相]]に決議文を手交する。

1949(昭和24)年2月16日 [[松本治一郎]][[不当追放反対民主団体協議会]]が結成される。

1949(昭和24)年3月2日 臨時閣議の席上、[[樋貝国務省]]が「[[全水福岡支部]]が[[松本治一郎]]氏の追放に対する報復を企て--- ---」というデマの報告をする。


 二四年三月二日の臨時閣議の席上、樋貝国務省が「[[全水の福岡支部]]では、[[松本]]氏の追放に対する報復を企て、大臣一人につき三名の刺客を送ったという情報が入ったので、国家警察本部に警戒を命じた」と報告をしている。
悪事を企み、他人を故意に陥れようとする者は、得てしてこういう被害盲想にかかるものであろう。


1949(昭和24)年3月11日 [[ソ連]]代表が[[松本治一郎]]氏の追放解除を、[[マッカーサー]]に要請する。

1949(昭和24)年3月15日 [[東京]]で[[人民大会]]が[[松本治一郎]]追放取消しを要求する。

1949(昭和24)年3月27日 [[参議院]]で、[[内村清次議員]](社会党)が、[[松本治一郎]][[公職追放]]資格審査の問題につき、緊急質問を行う。
           ・[[第三国会]]で、「[[カニの横バイ]]が廃止される。

1950(昭和25)年3月30日 [[松本治一郎]][[不当逮捕取消し請願行進]][[全九州人民大会]](福岡)が開催され、五万余名がデモ行進を行い、二六名の[[請願隊員]]が東京に向けて出発する。

1950(昭和25)年4月8日 [[松本治一郎]][[不当追放反対]][[解放要求人民大会]]が東京で開催され、[[闘争宣言]]が発表される。


1950(昭和25)年4月28日 [[松本治一郎]][[不当追放取消し]]で、[[闘争本部]]が[[ハンスト]]を決議する。


1950(昭和25)年4月8日 [[松本治一郎]][[不当追放取消し]][[請願隊員]]六名が[[ハンスト]]を決行する。


1950(昭和25)年10月13日 [[吉田内閣]]により、「[[大和報国運動会役員]]」という名目で、唯一、一万九十一名の解除者から[[公職追放]](一九四九.一.二四)を除外された[[松本治一郎]]を、追放解除から除外せよとの[[抗議]]の[[声明書]]を、[[部落解放全国委員会]]が発表する。 

1950(昭和25)年11月25日 [[全国部落代表者会議]]([[東京]])において、[[松本治一郎公職追放]]解除除外につき、抗議方針を決定する。 一、[[吉田内閣]]への抗議の[[国会]]質問 二、各[[政党]]・[[民主団体]]への働きかけ 三、[[吉田首相]]への面接抗議

1950(昭和25)年11月27日  [[米「ライフ」誌]] が、[[松本治一郎追放問題]]を掲載する。 

1951(昭和26)年8月6日 [[吉田内閣]]により「[[大和報国運動]]会役員」という名目で[[公職追放]]された[[松本治一郎]]が、[[政界]]に復帰する。



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December 06, 2012

1954(昭和29)年12月6日

 [[松本治一郎]]が、[[衆議院内閣委員会]]で、[[自衛隊法]]の一部改正法律案について質問する。





韓国からやって来られると、応待のできない、交戦のできない、戦争はすることのできない憲法がある。
交戦しなさいとは言いません。








役に立たないものを何千億という金をかけるよりも、先ず、国民生活安定のために振り分けられることが先決問題ではないかと、こう思うのです。




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November 22, 2012

1966(昭和41)年11月22日

 [[一九六六(昭和四一)年十一月二十二日午前二時五八分]]、「[[解放の父]]」[[松本治一郎]]が、[[七十九年]]にわたる闘いの生涯を閉じる。

 第二の「[[解放令]]」といわれる[[「同和」対策審議会答申]]が出された翌年の、[[部落解放同盟第二十一回大会]](一九六六年三月三〜四日)への出席が、最後の大会となる。

 [[福岡]]での[[告別式]]、[[国立京都国際会館]]での[[部落解放同盟葬]](十二月四日)と午後二時全部落での[[黙祷]]、[[東京青山斎場]]での[[日中友好協会]]・[[社会党]]・[[部落解放同盟]]での[[合同葬]](十二月十日)がとり行われる。

 [[刑務所]]に入れられた経験を持つ[[松本治一郎]]は、死ぬまで正月になると、[[福岡]]の[[刑務所]]に入っているすべての人に、「[[オヤジの弁当]]」とよばれる[[赤飯]]と[[博多名物]]の料理が詰まったさしいれを行っていた
 (悪い事をしようと思って この世に生れてきた人間なんて 一人もおらん)。





 松山高校(今の愛媛大学)生の柴田啓蔵は、故郷の筑豊に戻り、一九二三(大一二)年五月一日の全九州水平社創立大会にむけて、連日徹夜で水平社のための歌を作っていた。一句、一句歌詞を練り上げていくたびに、子どものころの思い出がよみがえり涙が流れた。わしが中学校やめるて言うたびに、お父やじいさまが「わしらの身代わりじゃ思うて石にかじりついでも学校はでてくれ」て言いよった。そんなお父が、ただ一度学校にのりこんで「部落の者は勉強することもならんのか」て、校長に文句を言うてくれたことがあった。





解 放 歌
    作詞=柴田啓蔵
荊冠旗



一、      

ああ解放の旗高く  水平線にひるがえり
光と使命を荷い立つ  三百万の兄弟よ
今や奴隷の鉄鎖断ち  自由のためにたたかわん





二、                   

われらはかつて炎天下  地に足やきしはだしの子
惨虐の鞭ふるうとき  鮮血かざる荊棘の
断頭台下露しげく  鬼哭啾々地は暗し





三、

鬼神もおののく迫害や  天地も震う圧制に
魂 砕き 胸 破り  恨みをこめて永えの
墳墓にさらす屍の  上に築きし奴隷国





四、

櫛風沐雨千余年  九天めぐる太陽も
蒼穹さゆる月さえも  われらのために照らざりき
狂宴乱舞に散る花も  われらのために咲かぎりき





五、      

ああ虐たげに苦しめる 三百万の兄第よ
踏みにじられしわが正義 奪い返すは今なるぞ
涙は憂いのためならず 決然立って武装せよ





六、
 
一致団結死を契い 堂々正義のみちゆかん
行くてを遮ぎるものあらば 断々乎として破砕せよ
われらを阻むものあらば 一刀 両 断あらんのみ





七、      

ああ友愛の熱き血を 結ぶわれらが団結の
カはやがて憂いなき 全人類の祝福と
飾る未来の建設に 殉義の星と輝やかん




“2009.10.31寺尾不当判決35ヵ年きゅうだん”集会に参加された学生、勤労青年、元青年のみなさん、お疲れ様でした。
 自分の初参加は1983(昭和58)年でした(サンダル履きでの参加でした)。
皆で歌を歌いながらのデモ行進でした。
 自分にメガホンが回ってきたときは『かえせ!石川くん』を歌ったと思います。
シュプレヒコールは、だいたい各部落研のキャップに順番が回ってきたときあげられました。
差別裁判うち砕こう
インターナショナル
解 放 歌
ワルシャワ労働歌
ベンセレモス(われらは勝利する)
We shall overcome(勝利を我等に)
国際学生連盟の歌
原爆を許すまじ
竹田の子守唄
チューリップのアップリケ
山の子の歌
リムジンガン(臨津江)

その他、『母は闘かわん』、『抵抗のうた』、『解放の夕焼け』など。


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November 20, 2012

1956(昭和31)年11月20日

 [[松本治一郎]]が、[[朝鮮民主主義人民共和国]]を訪問する。

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November 16, 2012

1957(昭和32)年11月16日

 [[松本治一郎]]が、[[オーストラリア]]の[[アデレード市]]の[[平和大会]]に出席し、[[ニュージーランド]]を経て帰国する。

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November 12, 2012

1926(大正15)年11月12日

いわゆる[[福岡連隊事件]]([[福岡連帯爆破陰謀事件]])で、[[松本治一郎]]以下十数名が[[逮捕]]される。






 松本治一郎が全国水平社の議長になった一九二五(大正十四)年までに、水平社が取り上げた差別事件は三千三百件以上であった。実際には、水平社の目の届かない軍隊の中で、部落出身兵士が自殺するなど、厳しい差別がこの他にも行われていた。










 一九二六(大正十五)年一月、兵卒同盟(軍隊の中の水平社)を作った井元麟之の属する福岡連隊で、厳しい差別事件がおこり、全九州水平社および全国水平社が抗議に訪れた。
 福岡連隊は、糾弾会には一切応じず、一九二六(大正十五)年十一月十二日、










福岡警察は、“闘いに行きづまった水平社が福岡連隊の爆破をくわだて、松本治一郎宅から爆発物が押収された”とする「福岡連帯爆破陰謀事件」をでっち上げた。松本治一郎は十二人の同志とともに起訴され、三年六か月間投獄された。









 一九二七(大正十六)年五月、裁判が始まり、徳川家達事件で服役中の松本治一郎は、刑務所から裁判に出ていた。
「わたしの家から出てきたという火薬を見せてくれ」と、松本治一郎は裁判長に求めたが、押収した火薬は殺人など不可能な花火のような代物であり、裁判には出されなかった。










 また、爆破をくわだてた日は消防団の演習が行われており、松本治一郎もそれに参加していたため、アリバイもはっきりしていた。
 その他、裁判では、十一人の被告のうち四人までが、警察の拷問に耐えられずウソの自白をさせられたことを証言した。拷問は、一八七九(明治十二)年の法律で禁止されていた。





 事件は「爆弾のない爆弾事件」として今日でも有名である。





 一九二七(昭和二)年一月十三日の第一審で、久保裁判長が有罪判決を言い渡すやいなや、「君は正気か!」、「正気で言うのですか」と、松本治一郎は裁判長を連呼して繰り返したが、裁判長は相手にせずサッサと引き上げた。










 一九二八(昭和二)年十月八日の第二審判決も、一審と同じ有罪であった。
 「それでも天皇の名のもとでやった裁判か。政友会のカイライではないか」
 「見におぼえのない判決には屈服できない」
 と、松本治一郎は刑の執行延期を主張し続けた。




 そして一九二九(昭和三)年。





 「全国の兄弟諸君!私は今、福岡県の青年諸君と共に『福岡連隊爆破襲撃事件』の首謀者として断罪され、入獄せねばならない。・・・この糾弾闘争は、水平社同人の兵卒を奮い起こしたのみでなく、すべての自由を束縛され殆ど人間扱いされていない兵卒をも自覚せしめた警鐘であった・・・








 全国の兄弟諸君!私は諸君のたゆまぬ闘争の決意に送られ、勝利の微笑をたたえつつ獄に下る。只管なる諸君の健闘を祈りつつ。
 全国に散在するわが特殊部落民よ、団結せよ!」



 一九三一(昭和六)年十二月二六日、いわゆる[[福岡連隊事件]]([[福岡連帯爆破陰謀事件]])で、[[松本治一郎]]以下十数名が[[出獄]]する。





 「階級闘争の激しい危機の切迫せる今日の情勢の下では、実に惜しい時間ではありましたが、幸いにして入獄以前に優る健康と倍する意気を失わずに、再び同志諸君に相見えることが出来ました。









しかし、そのことは入獄中の私が同志諸君の差し伸べてくれた温かい手と、美しい同志愛によって絶えず慰められ元気づけられそして励まされて来たからに他なりません。(後略)」




 一九三五(昭和十)年十二月、部落改善費増額要求闘争の犠牲者となった山本凡児の特別弁護の場で。





「検事は、合法的に運動を進めよと言われたが、今の世の中でもっとも合法的でない事を平気でやっているのは一体誰であろうか。大正十五年の秋に、かくいう私等に対してなされた大弾圧即ち、“爆弾”と“陰謀”の事実なき『福岡連隊爆破襲撃事件』はどうであったろうか」





 再び、一九三一(昭和六)年十二月二六日、「福岡連隊事件」出獄に戻り。




 数知れぬ同志の犠牲と、尊い屍の上に築かれた陣営を、真に働く階級のものたらしめるために、私は、百の言葉よりも一つの行動をとりたいと思います。



 歴史が必然的に約束せる“佳き日”の社会へ!しかも、それは我々が自らの手によって建設しなければならぬ社会であります。
 ために私は、最期の血の一滴まで闘い抜くことを誓うものであります。


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November 05, 2012

1954(昭和29)年11月5日

 [[松本治一郎]]が、[[ソ連]]第三七回[[革命記念日]]に参加するため、[[訪ソ]]する。

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October 31, 2012

1955(昭和30)年10月31日

 [[松本治一郎]]が、[[日本アジア連帯委員会]][[]創立総会]の[[発起人]]となる。





このアジア連帯の思想の根本は、第一は領土主権の尊重ということ。第二は『侵さず、侵されず』ということ。第三は、内政干渉をやってはいけない。また国と国との関係は平等互恵でなければならない。国の上に国があってはならない。国の下に国があってはならない。



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October 26, 2012

1933(昭和8)年10月26日

 [[松本治一郎]]が、[[埼玉県花園村]]の[[高松地裁差別事件]]真相発表会に出席し、花園村村長[[差別事件]]を[[糾弾]]する。

 [[松本治一郎]]が、[[浅草出合堀会館]]において、[[高松差別裁判取消要求]]の[[全国部落代表者請願隊]]主催の在京の[[労働者農民無産者]]の代表を向え、[[答礼会]]を行う。


金木犀

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October 25, 2012

1966(昭和41)年10月25日

 [[松本治一郎]]が、[[日中友好協会]]第十三回常任理事会に対し、[[日中両国友好協会共同声明]]を守りぬくことを指示する。

 同年[[一一月二二日]]死去する。

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October 20, 2012

1958(昭和33)年10月20日

 [[日中友好協会]]の[[中国国慶節]][[祝賀代表団]]長として訪中していた[[松本治一郎]]が、帰国する。




 出発するとき、中国に捕われた日本漁民の家族から釈放の斡旋方を頼まれてきたが、私たちが[[北京]]滞在中話がまとまり、十一日夜[[上海]]に[[抑留]]されている日本漁民に釈放が通告された。

金木犀


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1960(昭和35)年10月20日

 故[[浅沼稲次郎]]氏の[[社会党]]葬に、[[部落解放同盟]]を代表して、[[松本治一郎]]が[[弔辞]]を述べる。

 [[安保闘争]]に、[[松本治一郎]]が百万円をカンパする。
 


 党会計の松原喜之次代議士が
 「デモ隊に交通費も弁当代も持たない諸君が案外いるし、党の財政は火の車です」
 と顧問委員会で話したとき、松本は



 「その話は私も聞いていたので用意してきました」
 と言って即座に百万円カンパしたのだった。
 カネは持っていても、容易に出せないものだが、彼の場合は安保のごときイザという際もこういう態度だった」




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October 19, 2012

1933(昭和8)年10月19日

 [[高松結婚差別裁判]]取消要求の[[全国部落代表者請願隊]](10.1[[福岡]]発)が[[東京]]に到着し、連日、[[司法省]][[大審院]]等に抗議する。


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October 17, 2012

1955(昭和30)年10月17日

 [[松本治一郎]]が、機械的な左右[[社会党]]の統一を批判する。





 「[[統一のための統一]]」を焦った矛盾は、まもなく暴露されるであろう。特に旧左社の[[府県連]]や[[労組]]の動きから鈴木委員長らの「政権欲しさ」の[[右翼]]偏向は、来る一月の党大会を待つまでもなく、下部からの指弾を受けることになろう」




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October 13, 2012

1950(昭和25)年10月13日

 [[吉田内閣]]により、「[[大和報国運動会役員]]」という名目で、唯一、一万九十一名の解除者から[[公職追放]](一九四九.一.二四)を除外された[[松本治一郎]]を、追放解除から除外せよとの[[抗議]]の[[声明書]]を、[[部落解放全国委員会]]が発表する。







 追放された二十四年一月二十四日、外相官邸で、吉田、幣原、松平の三人が非日委員会の具体化、反共国民運動の展開、特高警察の復活などの問題で会合した時、










松平議長が、吉田首相に、「松本を追放してくれてありがとう」と礼を述べているのを見ても、それがはっきりわかるではないか。










 請願審査委員会が決定した解除者は、私を含めて一万九十一名であったが、吉田首相の手を経て、総司令部に名簿が出されたときは、私一人だけが除かれて、一万九十名になっていた。










 よく調べてみると、委員会の方には、私の解除を当然のこととして、勿論名簿にも氏名を入れているし、政府からの再諮問に対しても、断固はねつけていることが分かった。







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1958(昭和33)年10月13日

[[防衛庁]]長官を除く全[[閣僚]]による「[[同和対策関係閣僚懇談会]]」設置が決定し、十七日発足にいたる。

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October 12, 2012

1954(昭和29)年10月12日

 [[松本治一郎]]が、新『[[解放歌]]』募集の審査委員長になる。

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October 08, 2012

1964(昭和38)年10月8日

 [[松本治一郎]]が、[[日中友好協会]]の[[国慶節]]祝賀訪中代表団長として、[[周恩来]]総理と会見する。


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October 04, 2012

1965(昭和40)年10月4日

1965(昭和40)年10月4〜5日

 部落解放同盟第二十回大会が東京で開かれる。

 「答申」具体化と、国民運動の方針を決定、一部の偏向を整理。
 部落解放要求貫徹全国闘争・同対審答申具体化・自衛隊差別糾弾・憲法改悪小選挙区制の阻止・アメリカのベトナム侵略戦争反対・鉱業被害の完全復旧・部落関連産業労働者の組織促進など決議する。


 松本治一郎が、部落解放同盟第二十回大会で、特に団結を訴える。





 「戦争前夜であるアジアの危機、それに手をかしている日本の反動勢力が、憲法の改悪をたくらみ、天皇崇拝を再び押しつけようとして、これの対極である部落の差別を助長している。









 差別のあるところに、平和は確立されない。完全解放のために、いまこそ全部落が一つになって団結してたたかうこと、それが平和への道である」






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October 02, 2012

1954(昭和29)年10月1日

 
[[松本治一郎]]が、[[中国国慶節]]・[[世界平和評議会]]に出席の為、[[羽田]]を出発する。





 「ご承知のように吉田茂は、国民の反対を押し切って、莫大な国費を使ってアメリカへ逃げた。しかもその出発にあたって、一千名近い警官に護衛されねばならなかった。それにひきかえ私は、だれに警戒してもらう必要も無く、日中友好と平和を願うあらゆる階層の人々に送られて出発できる。」 








 「新しい中国ができて、その中で差別問題がどうなったか、少数民族がどうなっているのであろうか、それが第一の疑問であり、関心事であったと思います。なお合わせて、中国に対する日本軍国主義の侵略のお詫びも言いたい。そのほか、日本で残っている人々の帰国を促進するというのも、参議院副議長をしておられた政治家松本治一郎の一つの願いだったろうと思われます。」






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October 01, 2012

1933(昭和8)年10月1日

 [[高松差別裁判]]取消要求の[[全国部落代表者請願隊]]が、[[福岡]]を出発する。
 東京までの歩行行進の代表となった[[松本治一郎]]が、全国各地で[[差別裁判]]反対を訴える。


 *[[1933(昭和8)年6月3日]]
 [[高松地裁]]が、[[結婚誘拐容疑]]で、[[部落]]の青年、[[久本]]1ヵ年・[[山本]]一〇ヵ月の[[有罪判決]]を下す。





 『列車から首を出すな』『万歳をいうな』『代表の腕章を外せ』『途中下車はいけない』『一度中止をうけた者は東京着まで演説はさせぬ』『在郷軍人の肩章ははげ』








 等々の命令にも屈せず、途中枢部落のある各駅に下車して演説会を開き、あるいは各駅に送迎する部落大衆の歓呼に応え、憲兵、警察官のものものしい警戒の中に、検束、送還等の活劇を演じながら、十月三日関門海峡の第一警戒を突破し、下関で山陽、山陰の二隊に分れ、








四国の代表と大阪で合流し、近畿各府県を遊説し、中部の代表を加え、十月十九日関東代表および都下無産者諸団体代表の感激的歓迎裡に東京駅着、わが国空前の壮挙ともいわれた高松地方裁判所『差別裁判取消』全国請願行進を完遂したのであった。






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September 28, 2012

1952(昭和27)年9月28日

 [[松本治一郎]]が、[[北京]]([[アジア太平洋地域]])[[平和会議]]に対し、メッセージを送る。






 「今度行こうとするのは特に、中華人民共和国が成立した後、ここではタンミンだとか、あるいはハッカだとかこういう差別されていた人民が全然なくなり、これが全く平等になった。つまり社会主義の下では完全に人の上に人をおかない、人の下に人をおかない、こういう社会が作られたんだということを聞いて、ぜひその実態を見たいので、また同時に、隣にある五億の民とはっきり手を握らなければアジアの解放はありえないと・・・」



 




 「選挙を放棄しても、北京へゆくことが平和を守ることだと思い立候補を断念した。世界の平和はアジアの団結がなければ保てない」
 「アジア民族の親善を促進し、世界の平和を守るために私がビルマへ飛立とうとする矢先、この不当起訴が行われた・・・憤るよりもむしろ滑稽さを感じている」




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