狭山事件

September 02, 2019

1963(昭和38)年9月30日・第一審第二回公判

第一審第二回公判

 脅迫状発見の経緯

<検察官尋問>




中田健治供述 
 一)帰って部屋に入って、
すぐ食事をしたとおっしゃいましたが、
食事を始めてからどうなりましたか。
    食事をしながら僕は
こういうふうに言ったわけです。
一度、善枝が、入間川に友達が
あるもんですからそこへそこへ
養老院を慰問した時に、
一晩だけ泊ったことがあるんです。
台風にあいまして、ですから、
そこへでもまた泊ったのかなと
いうことを口にしただけで、
すぐ食事についたわけです。
別に他に善枝について特別に
話したということもありません。
ただ、その言葉だけだったと
僕は記憶しております。







 
二)食事をして、それからどうなりましたか。
    食事をして、僕が何の気なしに、
ちょっと自分の入ってきた入口を見ると、
そこに脅迫状があったわけなんです。
白い封筒があったわけなんです。
 三)あなたが食事をする時には、
どの位置でされたんですか。
上にあがられたのですか。
あるいは、下か。
    下のままです。土間で、
木のいすがあるのですが、
そこへかけまして。








 四)土間に掛けて、
どちら側を向くわけですか。
    南西ですか。南西に向いて
左手の方を入口にして
食事についたわけです。
 五)脅迫状を発見した時には、
食事は終わってたんですか。
食事中なんですか。
    みなさんは食事中でした。
僕はちょうど終わった時でした。
 六)最初はそれを発見して、
どういうふうに見たんですか。
脅迫状とすぐ
わからなかったわけですね。








    ええ、それは
わからなかったんだけど、
武志は僕の一番小さい弟なんですが、
それが特に、僕たちがかまったり
するもんですから、
それがわるさでもしたわけなんかなと
思ってたわけです。
意地悪でもしたのかなと思って、
武志、またわるさでもしたのかなと、
ひょっとその時、何の気なしに思いまして、
武志、取ってみろというわけで、
武志に取らせて、見たら中に
大学ノートですか、それにはさまれて
身分証明書もあって、
脅迫状だったわけなんです。






 七)あなたが善枝さんを捜しに
行かれまして帰ってこられた時に、
あなたのお宅におられたのは
何人ですか。
    父に、それから登美恵に、
喜代治に、それから武志、
四人ですね。
八)みなさんご一緒にお食事を
なさったわけですか。
    そうです。
ほとんど一緒ぐらいだったと
記憶しております。
 いや、あのとき登美恵はまだ、
天ぷらをあげておりまして、
ちょっと遅れて
食事についたようです。








 九)みなさん、あなたと同じように
土間にあるいすに向って
おすわりになっていらっしゃったんですか。
    いえ、土間で食事についたのは
僕だけだったと記憶しております。
それから、父に武志に喜代治は
上に上がっておりました。
 十)そうすると、あなたとは
向かい合うような形ですか。
    そうです。
 十一)みなさん、
うどんをおあがりになったんですか。
     そうです。






higurashi at 16:04|PermalinkComments(0)

1963(昭和38)年11月21日狭山事件 第一審 石川一雄さん「 細引紐と荒縄について」供述。無実の人が「犯人を演じ」て語った任意の「自白」からも無実を証明されてきた心理学者浜田寿美男氏

 浜田寿美男さんは、狭山事件の自白鑑定書を提出した六年後に、袴田事件においても自白鑑定書を提出されています。

 その袴田事件の鑑定で得た結論をタイトルに冠した著書『自白が無実を証明する』(北大路書房、二〇〇六年)や、『自白の心理学』等でも、取調官の強要が無く、無実の人が「犯人を演じ」て語った「自白」とも「十二分に向き合って」無実を証明していっておられます。


*浜田寿美男『〔新版〕狭山事件 虚偽自白』、北大路書房より
一例をあげれば、農道に埋められていた被害者の遺体には、両足首に細引紐が巻きつけられ、その先に長い荒縄がつなげられていた。・・・
この点について、石川さんは自白の中で、被害者を殺した後、脅迫状を持っていく間、遺体を近くにあった畑の芋穴に隠していたのだと供述している。
芋穴と言うのは、収穫した芋を保存するために畑の隅に掘り抜いた深い穴である。
石川さんは遺体をこの穴に吊るし、足首につないだ荒縄を近くの桑の木に結び付けて、後で引き出せるようにしたのだという。・・・

この供述について石川さんは法廷で、取調官に言わされたのではなく、自分で考えて言ったのだと認めていて、確定判決はこの点を捉えて、自分から言い出した特異な供述で、だからこそ自白として信頼できると認定した。

ところがもし石川さんが言うように、遺体を芋穴に吊るしたのだとすれば、細引紐でくくった足首に五四キロもの遺体の重みがかかって、足首にそうとうの痕を残すことになるはずである。
ところが足首にはそのような痕は残っていない。
つまり遺体が芋穴に吊るされていたなどと現実にはありえない。・・・
自分が「犯人になって」考えて語った供述が、事件への無知を露呈させてしまったのである。自白の中のこの無知の暴露は、まさにその人の無実を証明している。

無実の人が「犯人を演じる」などということが、はたしてあるのかと思われるかもしれない。
しかし虚偽自白とはまさにそのようなものなのである。
狭山事件の石川さんの自白、袴田事件の袴田さんの自白に徹底して付き合い、そこから得たこの結論は、わが国の刑事冤罪事件における虚偽自白のもっとも基底的な事実である。・・・

無実の人の自白には、それ自体の中に無実の証拠が残っている。その無実の証拠を暴く仕事が、これからもなお求められている。・・・
そして、おそらくいまの石川さんには、この自白はくやしくてたまらない記録かもしれないのだが、しかしこれはまさに、石川さんの無実をはっきり示す貴重な証拠なのである。

このことをいかにして再審請求に置いて、裁判所に理解させていくのか、今一度、挑戦を試みなければならないと思っている。本書の再刊がそのきっかけになることを、まずは願いたい。

二〇〇九年七月 




*Yさんの遺体発見の様子は
昭和38年5月4日付大野喜平作成の実況見分調書には
「頸部は木綿の細引紐がひこつくし様に後で締められていた」
また「死体の上にあった、太い4本合せの荒縄」と記載されている

*その、犯行に使われた木綿の細引紐と荒縄の出所、使途について
<第一審第七回公判、質問、検察官尋問>で 以下のような答弁がされている
 麻細引紐か、木綿細引紐かについて 被告人石川一雄

(細びきと荒なわを示す)
 一)これは知っていますか。
    はい、知っています。
 二)これは何に使ったんですか。
    善枝ちゃんの足を縛る時使ったんです。
 三)足を縛るのはどれで縛ったですか。
    麻なわの方です。
 四)このなわはどこから手に入れたんですか。
    新しく建築している家の前にあった。
まわりに垣根にしてあったやつをはずしたです。






五)善枝ちゃんを埋めたところから・・・
    北です。
 六)北側になるところ。
    はい。
 七)どのくらい離れているところですか。
    百五十メートルぐらいです。
 八)麻なわも同じところ。
    ええ、そうです。
 九)本当は麻じゃないんですけど、木綿の細引です



*それに対し、裁判所は 細引紐と荒縄についての供述は、自分から言い出したものだから自白として信頼できると認定し、事実確認を行わずに、有罪判決を下している
「本件の木綿細引紐で被害者の首を絞めて死を確実にしたことが露見するのを情状面からおそれて出所を秘している。子供の誘拐を狙っていたという筋からして、犯行前から木綿細引紐を持ち歩いていた。」(要約)


*木綿細引紐及び荒縄の出所、使途に関する弁護団側の反論
しかし自供はそうなっていない。
自供では、死を確認してのちに死体処理のための用具を探しに民家の方へ行って麻縄を盗ってきたというのであるから、殺害犯行時に木綿細引紐はいまだ手にしていないことになっている。いかにも乱暴な認定というほかはないのである。本件の確定判決には、「鑑定結果」にあわせて自供を有罪方向へつくりかえるという、恐怖の悪癖がある。その一つが「木綿細引紐を持ち歩いていた」ということ、その二つ目が、秋谷鑑定結果と万年筆の奪取時期などに関して決行された自白の捏造である。


*木綿細引紐及び荒縄の出所、使途に関する 石川一雄さんの自供と弁護団による要約
   峪笋呂修海ら縄を探しに行ったが、Yさんを縄でしばって穴の中へ下げておくため、人の住んでいる家の方がよいと思って家のある方へ行った」(6月25日付員面調書青木・遠藤)
 ◆ 屬修譴らそこから50米位はなれた北側の新築中の家のまわりに張ってあった縄と梯子のそばに置いてあった麻縄のような縄を取ってきた」(6月29日付員面調書青木・遠藤)
  麻縄も一緒に盗みましたが、その麻縄は倒してある梯子の附近にありました」(6月27日付検面調書原)

 これらを要約するに、「本件犯行に使用の縄と麻縄(木綿細引紐)は民家から同時にとってきたもの」と一貫して自供したとされている。
 いまそこで女学生を強姦・殺害した犯人がその直後に、警戒心もなく「人のいる家の方へ行った」という事態が、そもそも経験則上理解しにくい。真相を述べたものであろうか。たしかに、「人のいる家の方へいった」旨の自供は捜査官による誘導の産物であった。
・・・
 すなわち「同一の場所から同時に盗ってきた」という2つの物について一方の「荒縄」については、誘導の産物というほかはなく、もうひとつの方の木綿細引紐については、盗ってきたという場所にはそもそも存在していなかったというのであり、常識からすれば、これら自供が非体験の架空の供述であることは直ちに気付くことができるのである

そうなると本件犯行の死体処理に使用されたことの確実な荒縄と木綿細引紐と被告人とは結びつくことはできず、ひいては請求人と本件犯行の核心である殺害行為との結びつきに強い合理的疑いを生ぜしめることになる。

 批判にかえて、肯綮に中る最高裁判所の判決例をかかげる。
 「思うに、本件事案の核心である実行行為そのものに関する自白に、裁判所としては、想像をまじえる以外では解決しようのない矛盾点があってもなお、捜査中の自白を信用しなければならないものだろうか。それは全く、被告人らが真犯人であると先ず決めてかからねばできないことであって自白の真実性を慎重に吟味する合理的な態度ではない。」(松川事件第2次上告審判決齋藤朔郎裁判官の補充意見。判例時報346号19頁3段目)
 本件の確定判決は想像をまじえ、あえて自白をつくりかえるところまでつきすすむのである。
 請求人が本件犯行の犯人でないことは、請求人と木綿細引紐及び荒縄との結びつきが完全に否定されていることからも明白である



* 浜田寿美男 さんでの ツイート





裁判所は事実調べを行い再審開始を!

検察は すみやかに全証拠開示を!

証拠開示の法制化を!

sayama19



*狭山事件 第15回三者協議にむけて 東京高裁前連続アピール行動が開始されました
 2013年9月10日(火)、17日(火)、24日(火)、30日(月)、
  10月8日(火)、15日(火)、22日(火) 
    8:30〜10:00、11:50〜13:00

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1963(昭和38)年9月23日

 [[狭山事件]]で、[[荻原佑介]]が、[[警察]]の[[石川一雄]]さんに対する[[拷問]]を[[内田武文裁判長]]に具申する。




 荻原佑介氏宛書簡(一九六五年十一月二二日)より


 六月二三日(一九六三年)、調べ室に遠藤、青木、斉藤さん達が居る所で長谷部さんが、
 「石川君 何時まで強情張って居るのだい、殺したと言わないか、そうすれば一〇年で出してやるよ、石川君が言わなくても九件も悪い事をしてあるのだしどっちみち一〇年は出られないのだよ・・・
 とこの様に言われました。・・・知らない刑事さんが
 「課長(長谷部)さん 狭山の関部長が此方に来るそうです」・・・



 「そうか、それでは石川君 君に言ってくれ、男同士の約束だ
 と私の手を握りました。
 そして暫くしたらさんが、
 「石川君 元気かい、今署長さんに『この前一八日の裁判が終ったら三人での事を教えると約束して有るのだから聞いて来い』と言われて来たのだが吾に話してくれ」
 といきなり私の手を握って泣きつきましたが、私は三人でのこと(三人共犯)を話しませんでした。そしたらさんが



  「石川君 教えないなら帰るど」
 と立ち上がったら 長谷部さんが、
 「石川君 殺したと言って呉れ 吾は必ず一〇年で出してやるからな君 今話すそうだから待ってくれ、我々が居ては言いづらいだろうから外に出ましょうか 遠藤さん」
 と言って皆出てしまいました。そしたらまた泣きながら、石川君 殺したと言ってくれと手を握ったので、私もつられて泣いてしまい「入曾、入間川、と私と三人で殺した」と言ったのです。



 六月二四日月曜日、長谷部さんが
 「鞄の事を教えてくれよ」
 と言うので、狭山署に居る時、嘘発見器に掛かった際先生に本が出た所の地図を見せられたので、その山を書いてさんに渡したのです。そしてさんが探しに行ったら、長谷部さんが
 「今君に渡した地図の所で間違いないのかい、吾は本が出た所の様な川に有る様な気がするが恐らく見つからないと君がおこってるど、



もし無いと戻って来たらこの川の所を書いてみないか」
 と言うので書きました。そして暫く経ったら本当に見つからないとブツクサ言いながらさんが戻ってきましたので、二枚目の地図を渡したら午後六時頃だと思いますが、今度見つかったと何かで連絡がありました。で長谷部さんが
 「吾の勘は皆当たるのだから嘘をついても駄目だ」
 と言うので、私はあやまったのです。



 六月二五日火曜日、朝頃だと思いますが、長谷部さんが次の様に言いました。
 「石川君の家から万年筆が見つかったそうではないか、なぜ今まで教えなかったのだ」
 「本当に知らなかったのです」
 「---嘘をつけ、知らない物が見つかる訳がないだろう。・・・善枝さんを殺してから風呂場の方の入口から入ったと言ったがその時鴨居の上に置いたのではないか、何でもその当りから見つかったと言ってたよ・・・」



 六月二六日長谷部さんに
 「お寺の所で殺してから四本杉まで運んだのでは大分かかったろう 車で運んだのかい」
 と言うので
 「入曾、入間川から何も聞いていないから分からない」
 と答えたら
 「何時までもそんな事を言っておると、一〇年で出してやらないよ、吾が裁判官に死刑にしてくれと頼めばすぐに死刑にされるのだよ、嘘だと思うのなら遠藤さん達に聞いてみな、遠藤さん、石川君死刑にされても良いのか 嫌だろう」



 と言われたのですが、私は入曾、入間川の人も知らないし教える事も出来ないので
 「一人で殺した」
 と言ったのです。そしたら長谷部さんが
 「吾も石川君が一人でやったと思って居たよ、で善枝さんの死体にナワなどが付いてたがそのナワを何処のを盗んで来たのか覚えてるかい、吾は死体が見つかってすぐに自殺した源さんの近くのだと判ったよ、吾の鼻は犬より良いからな どうだい当ったろう」



 「俺ら殺したときおっかなくて忘れちゃったんです」
 「なに忘れた 自分で殺したくせに忘れるわけがないだろう、よく考えてみろ」
 とどなられたので泣いてしまいました。そしたら泣いて居たのでは解らないではないかと叱られてた所へ運よくさんが夕飯を運んで来たので、寄ったのだが家に何か伝言でも有るかと入って来たので助かりました。



 六月二七日、善枝さんの腕時計は何処へ捨てたと聞くので、質屋へ入れたと言っても信用されず田中へ捨てたと話したら地図を書けと言うので書きましたら、あろうことか翌日の夕方だと思いますが知らない刑事さんが、
 「課長(長谷部)さん 時計が見つかりました」
 と持って来たので、長谷部さんから借りて腕にはめて見たら私の腕にピッタリ合ったので



 「善枝さんも案外太かったのだな」
 とこの様に言いましたら、遠藤さんが「石川君が殺したのではないのか、殺した人がそのような事を言えば、わらわれるど」
 と言ったので皆で大笑いしました。
 以上が川越での出来事でしたが、言葉づかいが多少違います。・・・

 荻原様 私に代って地裁内田武文を綿密に御調べの上裁判をして私同様死刑にして下さい。・・・



  又私は川越署で口ではあらわせられない程のひどいめにあいました。荻原様はご存知と思いますが、国民の皆様にこの文面を見せてください。そして武文を絞首台に上げて下さい。又長谷部の両人も死刑にして貰います。この二人は私が出てやりますから・・・

 勝手な事ばかりで申し訳けございません。では右の事を是非御願い致します。
案山子蜻蛉


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July 30, 2019

1963(昭和38)年8月3日5

1963(昭和38)年8月3日
[[狭山事件]]で、[[荻原佑介]]が、[[上田]][[県警]][[部長]]の[[取調べ]]を[[憲法違反]]等で訴える。



*8月3日誕生花まつばぼたん国策捜査 狭山事件で再審請求を続けている石川一雄さん「半世紀前から変わらぬ刑事司法の根深き病巣」 青木理
(2010年10月18日 「週刊金曜日」)


冤罪・狭山事件と「虚偽自白」  【取り調べの全面可視化】、【全面証拠開示】、【代用監獄の廃止】が歯止めに



 荻原佑介氏宛書簡(一九六五年十一月二二日)より


 六月二三日(一九六三年)、調べ室に遠藤、青木、斉藤さん達が居る所で長谷部さんが、
 「石川君 何時まで強情張って居るのだい、殺したと言わないか、そうすれば一〇年で出してやるよ、石川君が言わなくても九件も悪い事をしてあるのだしどっちみち一〇年は出られないのだよ・・・
 とこの様に言われました。・・・知らない刑事さんが
 「課長(長谷部)さん 狭山の関部長が此方に来るそうです」・・・



 「そうか、それでは石川君 君に言ってくれ、男同士の約束だ
 と私の手を握りました。
 そして暫くしたらさんが、
 「石川君 元気かい、今署長さんに『この前一八日の裁判が終ったら三人での事を教えると約束して有るのだから聞いて来い』と言われて来たのだが吾に話してくれ」
 といきなり私の手を握って泣きつきましたが、私は三人でのこと(三人共犯)を話しませんでした。そしたらさんが



  「石川君 教えないなら帰るど」
 と立ち上がったら 長谷部さんが、
 「石川君 殺したと言って呉れ 吾は必ず一〇年で出してやるからな君 今話すそうだから待ってくれ、我々が居ては言いづらいだろうから外に出ましょうか 遠藤さん」
 と言って皆出てしまいました。そしたらまた泣きながら、石川君 殺したと言ってくれと手を握ったので、私もつられて泣いてしまい「入曾、入間川、と私と三人で殺した」と言ったのです。



 六月二四日月曜日、長谷部さんが
 「鞄の事を教えてくれよ」
 と言うので、狭山署に居る時、嘘発見器に掛かった際先生に本が出た所の地図を見せられたので、その山を書いてさんに渡したのです。そしてさんが探しに行ったら、長谷部さんが
 「今君に渡した地図の所で間違いないのかい、吾は本が出た所の様な川に有る様な気がするが恐らく見つからないと君がおこってるど、



もし無いと戻って来たらこの川の所を書いてみないか」
 と言うので書きました。そして暫く経ったら本当に見つからないとブツクサ言いながらさんが戻ってきましたので、二枚目の地図を渡したら午後六時頃だと思いますが、今度見つかったと何かで連絡がありました。で長谷部さんが
 「吾の勘は皆当たるのだから嘘をついても駄目だ」
 と言うので、私はあやまったのです。



 六月二五日火曜日、朝頃だと思いますが、長谷部さんが次の様に言いました。
 「石川君の家から万年筆が見つかったそうではないか、なぜ今まで教えなかったのだ」
 「本当に知らなかったのです」
 「---嘘をつけ、知らない物が見つかる訳がないだろう。・・・善枝さんを殺してから風呂場の方の入口から入ったと言ったがその時鴨居の上に置いたのではないか、何でもその当りから見つかったと言ってたよ・・・」



 六月二六日長谷部さんに
 「お寺の所で殺してから四本杉まで運んだのでは大分かかったろう 車で運んだのかい」
 と言うので
 「入曾、入間川から何も聞いていないから分からない」
 と答えたら
 「何時までもそんな事を言っておると、一〇年で出してやらないよ、吾が裁判官に死刑にしてくれと頼めばすぐに死刑にされるのだよ、嘘だと思うのなら遠藤さん達に聞いてみな、遠藤さん、石川君死刑にされても良いのか 嫌だろう」



 と言われたのですが、私は入曾、入間川の人も知らないし教える事も出来ないので
 「一人で殺した」
 と言ったのです。そしたら長谷部さんが
 「吾も石川君が一人でやったと思って居たよ、で善枝さんの死体にナワなどが付いてたがそのナワを何処のを盗んで来たのか覚えてるかい、吾は死体が見つかってすぐに自殺した源さんの近くのだと判ったよ、吾の鼻は犬より良いからな どうだい当ったろう」



 「俺ら殺したときおっかなくて忘れちゃったんです」
 「なに忘れた 自分で殺したくせに忘れるわけがないだろう、よく考えてみろ」
 とどなられたので泣いてしまいました。そしたら泣いて居たのでは解らないではないかと叱られてた所へ運よくさんが夕飯を運んで来たので、寄ったのだが家に何か伝言でも有るかと入って来たので助かりました。



 六月二七日、善枝さんの腕時計は何処へ捨てたと聞くので、質屋へ入れたと言っても信用されず田中へ捨てたと話したら地図を書けと言うので書きましたら、あろうことか翌日の夕方だと思いますが知らない刑事さんが、
 「課長(長谷部)さん 時計が見つかりました」
 と持って来たので、長谷部さんから借りて腕にはめて見たら私の腕にピッタリ合ったので



 「善枝さんも案外太かったのだな」
 とこの様に言いましたら、遠藤さんが「石川君が殺したのではないのか、殺した人がそのような事を言えば、わらわれるど」
 と言ったので皆で大笑いしました。
 以上が川越での出来事でしたが、言葉づかいが多少違います。・・・

 荻原様 私に代って地裁内田武文を綿密に御調べの上裁判をして私同様死刑にして下さい。・・・



  又私は川越署で口ではあらわせられない程のひどいめにあいました。荻原様はご存知と思いますが、国民の皆様にこの文面を見せてください。そして武文を絞首台に上げて下さい。又長谷部の両人も死刑にして貰います。この二人は私が出てやりますから・・・

 勝手な事ばかりで申し訳けございません。では右の事を是非御願い致します。












http://togetter.com/li/477523 より

「PC遠隔操作事件が明らかにした取調べの実態」
落合洋司弁護士(元検察官)と高木光太郎教授(法心理学)の対談

虚偽の自白という大きな弊害を取り除くためには、可視化しかない。取調官が自白を目的としている以上、その裁量に任せるのは反対だ(落合洋司氏)

虚偽の自白をするのは格別気が弱いとか迎合制が高いなど被疑者側に原因があると思われがち。虚偽自白は異常な環境に対する正常な反応と言うべき(高木光太郎氏)














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July 08, 2019

1963(昭和38)年7月10日

1963(昭和38)年7月10日
 [[狭山事件]]で、[[石川一雄]][[起訴]]を受け、[[捜査本部]]を[[解散]]する。


亀井トム著『狭山事件 無罪の新事実』(1977)より抜粋

  ここで正直にありのまま(犯人取り逃がしの)失態を失態として公表したら、事件は今日のような「差別に基づく複雑で悪質な権力犯罪の集大成」とはならずにちがった展開をとっており、真犯人はもっと早くシッポを出していたかもしれない。そして真犯人に弱点をつかまれ、部落の人々への疑惑を煽られて、部落青年のいけにえによる解決という非道極悪な差別犯罪、権力犯罪へと堕ちてゆくことも、さらに連続変死事件の発生と、それらすべて「自殺」で処理するという警察のつくった無警察状態の出現はくいとめられたかも知れない。
 

 しかし権力機構が威厳を保ち、官僚世界が面目と体面をよそおうとする傾向や不始末の責任の波及をくいとめようとする構造的体質をもっていることは否定しえないし、中央、地方の上層のエリート官僚にとっては出世栄達のため下僚や人民の弱い部分を犠牲にして、場合によっては欺瞞や作為や権力犯罪を敢えて行なっても権力の威信や機構の安定をはかり、個々の官僚の保身、栄達をはかることは、官僚社会にはいたるところにみられる現象であり傾向でさえある。
 
 しかもたまたま村越吉展事件で誘拐事件が社会の表面におどり出し、社会不安を煽るばかりでなく、これが流行し政治化すると上層官僚、政治家、財閥、皇族の子弟に及ぶことは必然で、上層、支配層にとって大きな政治的、心理的危機を育てるのである。そのため吉展ちゃん事件で犯人を包囲しながら母親のもって行った五十万円をまんまとせしめられた失敗を再びくり返すなという訓戒は警察界に行きわたっていたのであり、各県の警察首脳が誘拐事件に敏感でないことは微塵もなく、誘拐事件の知らせには首脳部はとびあがっておどろく心理状態であったのである。
 

 しかもその時、狭山での一日の張込みは、みじめな、わらうべき失態を演じたのである。善枝はその結果殺される可能性は多い。そのまま発表したら上司、マスコミ、世間の批難と嘲笑が殺到することは目にみえていた。ここから上でふれたような警察官僚の事件の偽装と嘘発表への作業が始まったのである。・・・こうしてまんまと上層部とマスコミと世間をだまし、裁判が始まってからは弁護人と傍聴者をだまし、事件の自然的展開を作為的展開にすりかえたのである(他方真犯人の方は逆に事件の作為的展開が自然的展開らしくなったのであるが、これは別の個所でふれる)。
 



*『狭山事件 無罪の新事実』(亀井トム/三一書房//1977-7-31)より



 石川起訴後は片方の弱点が明らかになれば両方が破滅となる運命共同体になるという羽目にいたった。そのため事件関係者のうち権力犯罪人と真犯人の真相を知る人たちの連続変死事件、連続行方不明事件、さらに最近判明した記憶喪失疾患者続出という稀代の副産物が起訴以前から一、二審の裁判中に生まれており、今日でもその後遺症は続いているのである。




 被害者家族中田家が世の常の普通の家庭であったなら、警察の一部幹部のああいう演出(二日の張込み)に協力しないで、きっぱり拒否しただろうし、警察の一部幹部も二回目の張込みを断念したろう。また中田家族は一日、二日にとられた供述調書を後になってつくり変えることなどに応じなかったであろう。




 さらに石川自身、起訴、公判になると善枝のものでないカバン、万年筆、腕時計を善枝のものだと偽証したり、自転車のゴム紐、ビニールふろしき、封筒のちぎれた紙片の偽証を重ねて、権力の部落青年の極悪ないけにえ工作の片棒かつぎをしなかったであろう




 今日、当時表向きに狭山事件捜査と取調べに関係した警察官は、二、三を残して殆ど退官しているが、司法上層と一部末端機構、そして、緊密に連絡をとっている一部退官者は、事件の「真相の真相」の発覚を懸命に防衛しようとしており、支援運動側の裏面調査に対して予防的デマと妨害、支援運動の情報集め、関係者の威嚇とデマあるいは情実による口封じにつとめており、




上記の三つの型の不祥事の連続発生による真相隠しのほころびをこまかくつくろっている実情で、いずれその真相の全面ばくろも多くの調査活動家、良心的マスコミによってなされるであろう。彼らのデマの中心は狭山裁判批判は一部の極左勢力の破壊活動とか、一部の革新勢力による司法警察の正当な捜査を裁判に対する政治的反対運動であるかの如く印象づけ、




それに部落問題に対する偏見を結び付け、うっかり話したり、証人になったりすると大変な迷惑やわずらわしさに見舞われるようなことをいい、裁判と人民、支援運動と市民をきりはなし、権力犯罪者と真犯人を守ろうとしているのである。






higurashi at 18:06|PermalinkComments(0)

1963(昭和38)年9月4日狭山事件一審開始。石川一雄さんが虚偽自白を維持し続けた第一審公判の記録

1963(昭和38)年9月4日

 [[狭山事件]]で、[[浦和地方裁判所]]にて、[[第一審]]が始まる。
 石川一雄さんは起訴事実を認める。
*(裁判は、[[石川一雄]]さんが、[[第一回公判]]において「事実はいずれもそのとおり間違いありません」と延べたあとも最後まで「[[自白]]」を維持し続けたのに対し、[[弁護士]]・家族が法廷で無実を主張し、[[捜査]]の[[違法性]]を鋭く争う、という異例の特徴をもっていた)。

*(内田裁判長は証人・証拠調べ請求をすべて却下。六ヶ月のスピード審理で「死刑判決を下した。判決内容も、生い立ち、生活環境などを犯行原因とする、部落差別に基づく差別判決であった。石川一雄さんは、一審中、「一〇年で出してやる」という警察の言葉を信じ続けていた。)

*(中田弁護人が、石川一雄さんが裁判所に来て、看守に囲まれて下を向いており、殆ど裁判の進行に関心を示さなかったと供述している点について、石川さんは控訴審第一四回公判で、浦和刑務所教育部長の安藤義祐などに、「数を数えておれば良い」と教えられたと供述している。)








公判証人
人定質問
被告人
訴訟状に対する陳述
第一回公判
1963(昭和38)年9月4日
  「事実はいずれもその通り間違いありません」
「現場検証には立ち会いたくありません」
第二回公判中田健治、塚本昌三、佐野良二、増田秀雄、山下了一裁判長、被告人に反対尋問を促すが、被告人“別にない”と答弁。
健治、山下に対して、反対尋問行なわず。
第三回公判関口邦明、飯野源治、橋本喜一郎、鈴木要之助、新井千吉、大野喜平被告人反対尋問行なわれず。
新井の時、裁判長、被告人にそれを促すが“別にない”と答弁。
第四回公判野本定雄、福島英次、星野正彦、阿部孟朗、五十嵐勝爾、高橋乙彦、長野勝弘、岸田政司、関根政一、吉田一雄被告人反対尋問行なわれず。
五十嵐、高橋、長野の時、裁判長、被告人にそれを促すが“別にない”と答弁。
第五回公判 小島朝政、佐藤祐一、須田ギン、石田一義、宮岡貞男、内田幸吉、伊藤操、清水利一、関源三被告人反対尋問行なわれず。
石田、宮岡、内田、伊藤の際、裁判長、被告人にそれを促すが“別にない”と答弁。
第六回公判 今泉久之助、三沢弘、大沢徳太郎、吉沢栄、山下宣子、中根敏子、宇賀神敏枝、西川正雄、水村成子、村松定夫、渡辺俘 水村を除いて被告人反対尋問行なわず。
山下、中根、宇賀神、西川、村松、渡辺の際、裁判長、被告人に促すが“別にない”旨答弁。
第七回公判 中田健治、中田登美恵裁判長、反対尋問を促すが“別にない”旨答弁
第八回公判中田栄作被告人、反対尋問を行なわず。
第九回公判石川リイ、石川富蔵被告人、反対尋問を行なわず。
第一〇回公判石川茂、関源三 被告人、反対尋問を行なわず。
第一一回公判
1964(昭和39)年2月10日
原正検事、死刑を求刑。最終陳述
被告人「言いたいことは別にありません」
 1964(昭和39)年3月11日
第一審浦和地裁の内田武文裁判長、求刑通り死刑判決を言い渡す。
1964(昭和39)年3月12日
石川一雄、控訴する。


東京高等裁判所第4刑事部. 河合健司裁判長は、
東京高検公判部長・園部典生検事に対し
証拠隠しを許さず 開示するよう勧告を行ってください。
証拠リストを開示するよう勧告してください。
全証拠を保全し 弁護団へ開示するよう勧告してください







*東京高裁前連続アピール行動
 2013年9月10日(火)、17日(火)、24日(火)、30日(月)、
10月8日(火)、15日(火)、22日(火) 
8:30〜10:00、11:50〜13:00
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1963(昭和38)年8月3日

PL花火大会



1963(昭和38)年8月3日

[[狭山事件]]で、[[荻原佑介]]が、[[上田]][[県警]][[部長]]の[[取調べ]]を[[憲法違反]]等で訴える。





 荻原佑介氏宛書簡(一九六五年十一月二二日)より


 六月二三日(一九六三年)、調べ室に遠藤、青木、斉藤さん達が居る所で長谷部さんが、
 「石川君 何時まで強情張って居るのだい、殺したと言わないか、そうすれば一〇年で出してやるよ、石川君が言わなくても九件も悪い事をしてあるのだしどっちみち一〇年は出られないのだよ・・・
 とこの様に言われました。・・・知らない刑事さんが
 「課長(長谷部)さん 狭山の関部長が此方に来るそうです」・・・



 「そうか、それでは石川君 君に言ってくれ、男同士の約束だ
 と私の手を握りました。
 そして暫くしたらさんが、
 「石川君 元気かい、今署長さんに『この前一八日の裁判が終ったら三人での事を教えると約束して有るのだから聞いて来い』と言われて来たのだが吾に話してくれ」
 といきなり私の手を握って泣きつきましたが、私は三人でのこと(三人共犯)を話しませんでした。そしたらさんが



  「石川君 教えないなら帰るど」
 と立ち上がったら 長谷部さんが、
 「石川君 殺したと言って呉れ 吾は必ず一〇年で出してやるからな君 今話すそうだから待ってくれ、我々が居ては言いづらいだろうから外に出ましょうか 遠藤さん」
 と言って皆出てしまいました。そしたらまた泣きながら、石川君 殺したと言ってくれと手を握ったので、私もつられて泣いてしまい「入曾、入間川、と私と三人で殺した」と言ったのです。



 六月二四日月曜日、長谷部さんが
 「鞄の事を教えてくれよ」
 と言うので、狭山署に居る時、嘘発見器に掛かった際先生に本が出た所の地図を見せられたので、その山を書いてさんに渡したのです。そしてさんが探しに行ったら、長谷部さんが
 「今君に渡した地図の所で間違いないのかい、吾は本が出た所の様な川に有る様な気がするが恐らく見つからないと君がおこってるど、



もし無いと戻って来たらこの川の所を書いてみないか」
 と言うので書きました。そして暫く経ったら本当に見つからないとブツクサ言いながらさんが戻ってきましたので、二枚目の地図を渡したら午後六時頃だと思いますが、今度見つかったと何かで連絡がありました。で長谷部さんが
 「吾の勘は皆当たるのだから嘘をついても駄目だ」
 と言うので、私はあやまったのです。



 六月二五日火曜日、朝頃だと思いますが、長谷部さんが次の様に言いました。
 「石川君の家から万年筆が見つかったそうではないか、なぜ今まで教えなかったのだ」
 「本当に知らなかったのです」
 「---嘘をつけ、知らない物が見つかる訳がないだろう。・・・善枝さんを殺してから風呂場の方の入口から入ったと言ったがその時鴨居の上に置いたのではないか、何でもその当りから見つかったと言ってたよ・・・」



 六月二六日長谷部さんに
 「お寺の所で殺してから四本杉まで運んだのでは大分かかったろう 車で運んだのかい」
 と言うので
 「入曾、入間川から何も聞いていないから分からない」
 と答えたら
 「何時までもそんな事を言っておると、一〇年で出してやらないよ、吾が裁判官に死刑にしてくれと頼めばすぐに死刑にされるのだよ、嘘だと思うのなら遠藤さん達に聞いてみな、遠藤さん、石川君死刑にされても良いのか 嫌だろう」



 と言われたのですが、私は入曾、入間川の人も知らないし教える事も出来ないので
 「一人で殺した」
 と言ったのです。そしたら長谷部さんが
 「吾も石川君が一人でやったと思って居たよ、で善枝さんの死体にナワなどが付いてたがそのナワを何処のを盗んで来たのか覚えてるかい、吾は死体が見つかってすぐに自殺した源さんの近くのだと判ったよ、吾の鼻は犬より良いからな どうだい当ったろう」



 「俺ら殺したときおっかなくて忘れちゃったんです」
 「なに忘れた 自分で殺したくせに忘れるわけがないだろう、よく考えてみろ」
 とどなられたので泣いてしまいました。そしたら泣いて居たのでは解らないではないかと叱られてた所へ運よくさんが夕飯を運んで来たので、寄ったのだが家に何か伝言でも有るかと入って来たので助かりました。



 六月二七日、善枝さんの腕時計は何処へ捨てたと聞くので、質屋へ入れたと言っても信用されず田中へ捨てたと話したら地図を書けと言うので書きましたら、あろうことか翌日の夕方だと思いますが知らない刑事さんが、
 「課長(長谷部)さん 時計が見つかりました」
 と持って来たので、長谷部さんから借りて腕にはめて見たら私の腕にピッタリ合ったので



 「善枝さんも案外太かったのだな」
 とこの様に言いましたら、遠藤さんが「石川君が殺したのではないのか、殺した人がそのような事を言えば、わらわれるど」
 と言ったので皆で大笑いしました。
 以上が川越での出来事でしたが、言葉づかいが多少違います。・・・

 荻原様 私に代って地裁内田武文を綿密に御調べの上裁判をして私同様死刑にして下さい。・・・



  又私は川越署で口ではあらわせられない程のひどいめにあいました。荻原様はご存知と思いますが、国民の皆様にこの文面を見せてください。そして武文を絞首台に上げて下さい。又長谷部の両人も死刑にして貰います。この二人は私が出てやりますから・・・

 勝手な事ばかりで申し訳けございません。では右の事を是非御願い致します。



higurashi at 17:48|PermalinkComments(0)

June 30, 2019

2006(平成18)年7月12日 故戸谷鑑定人 狭山事件 石川一雄さんの「脅迫状を書写させられた」を重要証言として指摘

2006(平成18)年7月12日

*訃報 戸谷富之氏(とや・とみゆき=北海道大名誉教授、理論物理学) 、 享年89歳


sayamasabetsusaibandai5shujihakunosinpyosei


狭山差別裁判 第5集 
(部落解放同盟中央本部編/部落解放同盟中央出版局/1974発行 )より


(第二四回公判の補記)




 戸谷鑑定人「被告人は本件で逮捕されてから後、字が非常に上手になっているが、それは逮捕されてから字を練習したのか」

  別に練習したことはありませんが、原検事に、セルロイドのケースに入っていたこの事件の脅迫状かどうかわかりませんが、それを見せられ、それを見ながら、書けといわれて書いたことは何回かあります。



(第六六回公判の補記)


 検察官「何で脅迫状を一生懸命にだね・・・ ・・・・。」
   脅迫状だか何だかわからなかったですよ。

 検察官「見ればわかるでしょう。」
   見てもわからないですよ。これ見て書けというから。

 検察官「読めばわかるでしょう。字は読めるでしょう。」
   字なんかわかんないですよ。 




 検察官「字は読めなかったの。」
   そうですよ。・・・

 検察官「脅迫状のひらがなの部分も何かいてあったのかわからなかったというのか。」
  ええ、ただ夢中だったからね当時は、そういうのを書くのに。まして河本検事なんかすごかったからね。おっかなくて当番でも清水警部も述べてるけどね。毎日わら半紙に書かされたからね。殆ど。




  ただひとつね証拠として出てないのが不思議だと思うけれども、自分が漢字を習わされたような気がするんですよ。原検事は、自分が逮捕されて五、六日たってから、殆ど漢字ばかりだったようですね。それを書けといって、そうですねえ、それ二日間ばかり書かされたんですねえ。それがでてるわけなんですけれども、拇印押せというので押したんですけど、それも出ていないのが不思議なんです。




狭山事件第2次再審棄却決定 (一) 神戸鑑定 より
確定判決審の第二四回公判

戸谷富之鑑定人から、
 「同年五月二三日の逮捕以降に字の練習をしたか」
 と問われて、
 「別に練習したことはないが、留置されて直ぐ、原検事に、この事件の脅迫状かなにか知らないが、セルロイドのケースに入ったものを見せられて、それを見ながら書けといわれて書いたことは、何回かある。調べに来る都度書かされたが、書かされた日数はわからない。」
 旨答え、

同第二七回公判

弁護人の問いに対し、
 「警察にいるとき、原検事から、脅迫状か何かわからないがセルロイドの中に入ったものを手本にして、六月六日ころまで何回も書かされた。その後同月二六日ころに、原検事らに言われて、手本を見ないで書かされた。」
 旨述べ、

同第六六回公判

検察官から確かめられて、
 「取調べの原検事から言われて、セルロイドのケースに入った、今思うと本件脅迫状を、内容もよくわからないまま書かされた。」
 と述べ

同第七五回公判

 識字、書字に関する弁護人の質問に、
 「字を習うようになつたのは、控訴審(確定判決審)になってからで、(昭和)四二年頃から猛勉強した。外部の人に無罪を訴えるためには自分の手に頼るよりないから勉強した。外部から来た手紙は、ほとんど担当(職員)に読んでもらった。鬼沢部長、荒木部長がとても親切であつた。少年手紙宝典というのを母から差し入れてもらった。今ではほとんどなんでも書けるが、逮捕直後は、ほとんど書けなかった。平仮名しか書けなかった。字を覚える方は、拘置所に、仮名を振ってあって、ものすごく書きやすい本があったが、それを自分専用に貸してくれた。」
 などと述べている。


 なお、これらの文書の書字と脅迫状の書字の間に認められる類似点に関して、前記戸谷富之鑑定人は、その鑑定書(同記録二二五二丁)において、
 「書くことに慣れていない被告(人)が、(脅迫状を書写させられたという)このような練習をさせられると、脅迫状の筆跡が容易に身につくものであることは充分考えられる
N・E(被害者の父)氏宛て手紙(N宛手紙)及び内田裁判長宛て所信(内田裁判長宛書簡)は脅迫状や上申書(警察署長宛上申書)と似てくることは当然であつて、鑑定結果を左右させるものであり、鑑定に際してこの点を注意することなしには正しい判断を下せない恐れがある。」
 と指摘する。





薫風 さんのツイートより2012(平成24)年_1月4日
新治師匠のホームページに狭山事件の石川一雄さんの新年メッセージが。「逮捕当日から否認し続けた間に「脅迫状」を見ながら書き写した練習用紙」「日本政府による検察側の証拠不開示」…???だらけ。なんで全部開示しないんだろう?? http://www.geocities.jp/tsuyunoshinji/





wpauliさんのまとめ「狭山事件の脅迫状は本当に石川一雄の筆跡とは違うのか?」
最終更新日: 2013年06月23日 では

・・・冤罪論の立場からは「石川さんは正真正銘の文盲だったが、逮捕されてから脅迫状を手本にして字が書けるようになった。だから逮捕されてしばらくすると脅迫状の字と似てきたのだ」と説明されることもあります。ところが石川は逮捕直後に警察から「お前の字は脅迫状にそっくりじゃないか」と言われて「同じ日本語だから似ているのが当たり前だ」と開き直った、と報じられています(『毎日新聞』1963年5月24日夕刊)。・・・

とあるが
冤罪論の立場」は、正当な「故戸谷富之鑑定人の鑑定書」を根拠とされている
(念のためコメント投稿まで済み)

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higurashi at 17:35|PermalinkComments(0)

1963(昭和38)年7月12日 狭山事件担当決定の内田武文裁判長 年内結審の談話

1963(昭和38)年7月12日

* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、[[浦和地裁]]、担当裁判官として[[内田武文]][[裁判長]]ほかを決定。

 内田裁判長、年内[[結審]]の[[談話]]を出す。



1999(平成11)年7月12日

* [[1999年]] - [[狭山事件]]で、[[東京高裁]][[第四刑事部]]の[[高木俊夫裁判長]]に対し、[[異議申立]]を行う。






IKEZOE_Noriakiさんのツイートより 2012(平成25)年8月21日
今日もまた痴漢冤罪事件で無実の訴えが棄却された。判決を言い渡したのは東京高裁の小川正持裁判長。弁護人は秋山賢三弁護士。被告人は即刻上告の手続きを取った。東京地裁高裁の正門前では猛暑の中、狭山事件の石川一雄さんが無実を主張し、再審実現を訴えていた。この国の司法に正義はあるのか。




鉄馬‏さんのツイートより 2010(平成22)年5月17日
"これ以降石川さんは、取調官に誘導されるまま、証言を重ねていった。第一審でも石川さんは自白を維持し、審理はわずか六カ月間で終了する。判決は死刑

同   2010(平成22)年5月17日
"…石川さんが、兄の六造さんは事件とは無関係だったと知るのは、死刑判決が下された後のことだった。" 【ドキュメンタリ宣言 冤罪訴え47年。狭山事件】 #dsengen






*2011(平成23)年7月12日市民集会で決意表明をする石川さん夫妻
http://www.geocities.jp/syunsei777/110715a.JPG
 (写真は大西さんが撮影・@Dan_T_ONISHI)



2013(平成25)年7月6日
東京高裁の河合健司裁判長に要請ハガキを送るキャンペーンが開催されました
三者協議に間に合うよう、7月23日必着です。ご協力お願いします


100万人署名を継続し一人でも多くの方に狭山事件を
狭山事件の再審を求めるオンライン署名にご協力を!

送付先
〒100-8933
東京都千代田区霞ヶ関1−1−4
東京高等裁判所 第4刑事部
河合健司裁判長

詳細は FB 狭山事件の再審を実現しよう にて

higurashi at 16:19|PermalinkComments(0)

June 28, 2019

1963(昭和38)年7月9日 石川一雄さん Nさん殺害容疑で起訴される

1963(昭和38)年7月9日
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
* [[1963年]] - [[狭山事件]]の[[石川一雄さん]]が、Nさん殺害[[容疑]]で[[浦和]][[地方検察庁]]に[[起訴]]され、[[浦和]][[拘置所]]へ移送。

 池田満枝([[首相夫人]])、中田善枝の家族を慰問。



1963(昭和38)年7月10日
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 捜査本部解散。

(以上、9・4一審裁判にいたる迄)
*******************************************************



 参考)亀井トム氏 「狭山事件 無罪の新事実」“更新・狭山事件誌”



2013(平成25)年7月9日  
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第5回狭山事件東京高裁前アピール行う

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朝の部  8時30分〜10時

昼の部 11時50分〜13時

場所 地下鉄 霞ヶ関駅 A1出口出てすぐ

足利事件の菅家さんも駆けつけられました。

FB 狭山事件の再審を実現しようより

当日の模様: 沙羅双樹の花‏さんのツイートより 2013(平成25)年7月9日
狭山事件の再審を求めて(冤罪被害者・石川一雄氏) 2013.07.09@youtube




「狭山事件再審オンライン署名」へ


higurashi at 22:18|PermalinkComments(0)

1963(昭和38)年7月9日

 [[1963年]] - [[狭山事件]]の[[石川一雄]]が、中田善枝さん殺害[[容疑]]で[[浦和]][[地方検察庁]]に[[起訴]]され、[[浦和]][[拘置所]]へ移送。
 池田満枝([[首相夫人]])、中田善枝の家族を慰問。

 [[石川一雄]][[起訴]]で、以来、[[真犯人]]は完全に[[県警]]幹部の弱点をにぎる。


*参考文献

『完本 狭山裁判』
(野間宏『狭山裁判』刊行委員会編/藤原書店 /1997-07)
『自白崩壊 狭山裁判20年
(狭山事件再審弁護団編/日本評論社/1984-9-30)
『狭山事件 無罪の新事実』(亀井トム/三一書房//1977-7-31)


(`□´)コラッ!





書籍名
酒井真右の十八行小説

著者名
酒井真右/著
出版社名
労働教育センター
発行年月
一九八九年二月







 岩吉---諺岩さん---

 「人間誰でも歩きてぇ、行当たりてぇって性質(もの)持ってらいな。俺ぁからっきし学なし者だが、二人も孫が居る俺ぁが倅と同級の砂利篩(ふるき)悟なんざ二十で逮捕って、無実なのに、はぁ二十五年も牢屋にブチ込まれたまんま--- ---。悟をひッ張り出さなけりゃ この町この県この国の働く皆の生命に関わってんだから昔っから
 皿なめた猫が科(とが)を負う
 笊(ざる)なめた犬が科かぶる
 網にかかるな雑魚ばかり








 本当に皿の魚や笊の肉たらふく喰らっちまった猫や犬は逮捕まらねぇで、罪科受けるなぁ無実のしがねえ人間達ばかり--- ---。触らぬ神に祟なし、でまいほーむだ、世界旅行だって、そっちの方は何百万、何千万--- ---。悟始め、無実の者を一生牢屋で嬲(なぶ)り殺しにして、その裏で悠々とたらふく喰らって、国家だ日本だぁってますます地獄穴深く掘って!--- ---差別こそが戦争に真直ぐ繋がってるんだ!昔っから只の一遍もなかった真実の革命にもってがなけりぁ!!さ、悟のカンパだ、頼む」
(八八年九月)










 ニッポンの慟哭痛苦

 昔は今。一九六三年五月二三日、埼玉県狭山の石川一雄青年が別件で逮捕(つか)まっちまったまんま、「死刑」「無期」と差別裁判が続いて、二十二年もずっと叩き込まれちまっている!この酷(むご)い事実を、この国一億二千数百万の働く仲間は知ってるだんべか。知ってる者も知らね者も、まとまって、この鎖を踏ん切らなけりゃなんね。この事件をそっちのけじァ、日米、日韓、日ソ、日中はじめ、すべての地上の国々と、この国の関係が根なし草になっちまう--- ---。








 この冤罪差別事件に勝つために、凡ての書き物を断絶し、狭山差別問題だけにペン一本で鋭く切り込んでいる偉大な文学者野間宏が居る。
 石川一雄は、一億二千数百万の君らや僕たちの五体と心の一部分、切っても切り離せねえンだ!
 組織も俺も全人民が、地球丸ごと一つの平和な共和国を希い、裏漉(うらごし)して、ニッポンの慟哭痛苦のこの差別事件に勝利しなければ・・・。
(八五年三月)


 同『酒井真右の十八行小説』 酒井真右/著より



higurashi at 22:16|PermalinkComments(0)

1963(昭和38)年7月6日

*

1963(昭和38)年7月6日



供述調書(七月六日付)



     石川一夫 指印
右の通り録取し読み聞かせたところ誤りのないことを申立て署名指印した
前同日
  狭山警察署助勤 埼玉警察本部防犯課
    司法警察員 警部 青木 一夫 ㊞
  立会人 司法警察員警視 長谷部 梅吉 ㊞






 狭山差別裁判 -批判と闘い- (三一新書) 野間宏・編 より


再審闘争の貫徹へ---石田郁夫

 石川君を「十年で出してやる」と言ってだました、長谷部梅吉(当時埼玉県警捜査一課)は、上告棄却後の感想のなかで、自転車の一件が気がかりだとみえて、「脅迫状を中田家に投げこんだとき、自転車を置いてきたことについても、『また自分が乗っていってしまえば、姉さんが使えなくなる』からだというなど、犯罪者の心理としては考えられないものの(石川君が)相手の立場を考えている点がよくわかる」(読売新聞)と奇怪至極なことを言っている。






 また、「善枝さんの時計を道端に置いたのも『投げると、こわれて拾った人が使えない』からだといい」(同)ともいっている。
 不自然なデッチ上げの気がかりな点を、いまにいたるもとりつくろい、補強しようとするこの発言は「犯罪者の心理」から出ているとみれば、うなずけないことはない。・・・それが差別審理だということがここで問われているのであって、最高裁はそれを容認した。だから、徹底的に糾弾しぬかなければならない












『教本・ありばい崩し 埼玉県警刑事三〇年の告白』巻末に記された
長谷部梅吉(はせべ・うめきち)氏の経歴(業績)より

 

 明治三六年四月、埼玉県比企郡松山町(現松山市)生まれ。
 高小卒、昭和二年四月埼玉県巡査となり、同七年埼玉県警本部刑事課に入り、以来刑事一筋に歩く。三五年警視、刑事調査官、三八年十月警視正で退官、現在埼玉県警察学校講師。
 昭和二三年連続婦女子強殺事件で国家警察長官賞 、三二年三月警察功績章など受賞多く、四一年勲五等双光旭日章を受く
 現住所、浦和市○○ △△△。




旭日章(きょくじつしょう)
旭日章(きょくじつしょう)


金鵄勲章(きんしくんしょう)
金鵄勲章(きんしくんしょう)







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アナベベ ‏さんのツイートより 2013(平成25)年6月16日
取り調べの可視化よりも、取り調べ始める段階で出来上がった調書持ってくるの止めさせろよ。あれの方が問題大きくないか?ところで、これって警視庁管内だけなのかね?公文書偽造だからな。



元ヴァンテ(ゆるふわ系)さんのツイートより 2010(平成22)年9月10日
今回の村木氏の無罪判決はすごく大きな意味を持つと思う。それは検察調書の証拠性の否定。これは実は取り調べの可視化よりも大きな意味を持つと思う。裁判で被告人が否定する、疑わしい調書は証拠とならない。これがスタンダードになれば、日本の裁判はかなり変わるはず。



木野龍逸  さんのツイートより 2012(平成24)年10月18日
偽名の由来、動機など詳細に書かれた供述調書がなぜできたのか、警察・検察は検証中というけど、取り調べを可視化してれば検証するまでもなく明白になる。NHKニュースもなぜそこに触れないのか。→“真犯人でない可能性高い”4人に謝罪へ http://ow.ly/ezEio


higurashi at 22:15|PermalinkComments(0)

1963(昭和38)年7月2日



1963(昭和38)年7月2日 狭山事件で、腕時計を既捜査地点で通行人が発見。




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画像はFB「狭山事件の再審を実現しよう」よりお借りしました


殿岡 駿星‏さんのツイートより 2013(平成25)年7月2日
今日は妻と高裁前での狭山事件再審開始アピールへ。奈良から清原ふみ子さんが来てくれると聞いていましたので、どうしても会いたくて。着物姿の清原さんは、ノジマミカさんと石川さんの隣で、道行く人に「石川さんのえん罪、再審開始」を訴えました。 http://p.twipple.jp/48url



細田加代子さんのツイートより 2013(平成25)年7月2日 
今日の昼、東京地裁前で狭山事件のアピール行動。石川さんの演説。私は毎日傍聴しているので裁判官の顔は分かります。女性の裁判官ビラすら受け取ってくれない、私服でどこかへ出かけたが。オジサンの裁判官は受け取ってくれた。人間性が分かりますね

同 2013(平成25)年6月15日
昨日も裁判傍聴に行ったら裁判所前で、狭山事件の署名とアピール行動。仲間に入ってチラシ配り。石川夫妻の演説。心に響きます。事件発生50年。石川さんも74歳。一日も早い再審を。冤罪による名誉回復を望む

木村雅英さんのツイートより 2013(平成25)年6月25日
火曜日、昼に経産省テントひろばの東京地裁前要請行動。経産省が起こした訴訟と経産省や国がやってきた原子力政策を批判し、経産省前テントひろばの役割を説明して、次の口頭弁論を大法廷で実施するように訴えた。すぐ隣で「狭山事件発生から50年」石川一雄さんが無実を訴えていた、心より再審を願う





* 2013(平成25)年7月2日 
 東京高裁前第四回アピールが行われる



1963(昭和38)年7月2日
[[狭山事件]]で、小川松五郎、[[狭山市]]田中で腕時計発見、
 捜査本部、善枝のものと発表。
  証拠:[[腕時計]](発見者・小川松五郎)

* 刑事四名が二日間さがしてもみつからなかった腕時計を七八歳の老人が五百円もらって道端で発見。
 この時計、品触書の番号とちがい、捨てられて五〇日以上もたっているのにバンドは新品というニセもの。



『狭山事件 石川一雄四十一年目の真実』 鎌田慧/著より、引用


 二ヵ月たって路上にあらわれた腕時計
 
 事件発生のあと、県警と狭山署は、被害者が所持していた、「女持腕時計シチズンコニー六型」(側番号C六八〇三 二〇五〇六七八)と「牛革製ダレス」を「特別重要品触」として、写真入りポスターにして、各所に張り出した。
 ところが、小川松五郎が発見した腕時計は、おなじシチズンの女性用でも、両側の耳の部分がやや大きくひろがった「シチズンペット」型で、側番号は六六〇六 一〇八五四八一、型も番号もちがう、まったくの別物だった。これは中田弁護士の自宅に配達された匿名の手紙によって知らされた事実だった。・・・たった一行の「内部告発」である。



『狭山事件 無罪の新事実』亀井トム・栗崎ゆたか/共著より、引用


 連絡先・狭山署の電話番号も違うデタラメ「特別重要品触」五万枚

 時計の側番号の問題は、狭山事件を知る人びとの間では・・・石川一雄の無実を主張する、大切な根拠の一つとされてきた。それなのに、それが警察の信じられないようなミスの結果であったことが、上告趣意書が提出された後で明らかにされたのである。(昭和五一年秋、新しく開示された証拠資料から)



 このことは、上告趣意書を検討している最高裁調査官の、上告趣意書に対する心証を害する結果を招くだけではない。弁護側や、石川一雄の無実を信じて支援活動を続けている人びとにもショックを与え、さらには一般の狭山事件の見方にも大きな影響を及ぼしていくことが考えられるのである。
 逆に言えば、検察・警察にとって有利な状況をつくり出すことができるのだ。
 検察・警察に不動の自信があり、また裁判を公正に進めようとの自覚があるならば、このような悪質な手練手管は無用のはずである






 発見されたにも不自然さが
 ダレスとは米国のCIA長官だったアレン・ダレスのことで、いつも彼が小脇に抱えていたことから、この名がついた。・・・被害者のダレスについて、・・・被害者の父親である中田栄作が、刑事にたいして、 「は薄茶色の一見皮製に見えるチャック付きと申しましたが、これは学生用のものでなく、家にあった旅行鞄」と証言していることである。・・・ところが発見されたは皮製だった。


『狭山事件 無罪の新事実』亀井トム・栗崎ゆたか/共著より、引用


 “役に立たない情報”を満載した「特別重要品触」が五万枚も、配付されているのである。たとえばカバン。・・・「特別重要品触」によれば、「ダレス、牛皮製、暗い黄茶色」である。父親は皮製に見えるがそうではないと言い、さらに薄い茶色と言っている。それなのに品触れにはまったく逆のことが書かれてある。・・・
 このミスは、実は仕組まれたミスであるように思えて仕方がないのである



 なぜならば、品触れのミスはこれだけにとどまらない。・・・品触れに載せられている狭山署の電話番号は二本、「狭山二〇九七」と「武蔵四〇四〇」である。しかし、狭山局の電話番号は正しくは「二〇七九」、そして武蔵局のほうは、「六-四〇四〇」が正確な表現である。・・・
 カバンにはじまって時計、電話番号、それに新聞その他で奉じられた万年筆。どれをとってもみんな間違っている。



 もし、これが正真正銘のミスで、何の作為もなかったとすれば、それだけで警察は、石川一雄が真犯人だと主張するのをやめるべきだ。こんな捜査で犯人にされてしまったのでは、たまったものではない
 だが、警察は、捜査がミスだらけであったことを認めながら、一方では石川一雄が真犯人だと主張する。だから私たちとしては、品触れについても、実は役に立たなくてもよい事情があったのではないかと考えざるをえないのである。





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1963(昭和38)年7月1日

* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、捜査本部、殺害現場と称するところを検証
([[石川一雄]]さんを同行せず)。



100万人署名を継続し一人でも多くの方に狭山事件を
狭山事件の再審を求めるオンライン署名にご協力を!


鉄馬‏ さんの【ドキュメンタリ宣言 冤罪訴え47年。狭山事件】 #dsengen
についてのツイートより 2010(平成22)年5月18日

"殺害現場とされる現場近くにいたOさん。

"裁判所が開示勧告した証拠は、犯行現場に関する証拠資料や、石川さんの取調べメモなどの8項目。中でも弁護団が重視したのが、当時は雑木林だった殺害現場に関するもの。(上空写真の映像) これは事件当時の写真。

"確定判決は、×で示した雑木林の中が殺害現場だとしている。しかしこの場所で、善枝さんが殺害されたとする物的証拠は何一つない。





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June 03, 2019

1963(昭和38)年6月3日



1963(昭和38)年6月3日 狭山事件で、石川一雄氏を十日間の勾留延長。共犯として目を付けていたIとTを別件逮捕。


野間宏著『狭山裁判・下』裁判年譜より

6・3 石川一雄氏を十日間の勾留延長。共犯として目を付けていたIとTを別件逮捕。
6・5 内田幸吉供述調書(被告者宅を聞きに来た若い男目撃) 












亀井トム氏 「狭山事件 無罪の新事実」より

一九六三・六・三
 石田一義・義男、東島明逮捕。石川への押しつけ、或いは石川・東島二人犯に切りかえるための布石とみられる(無実の東島は石川が単独犯で起訴された後、警察がアリバイを「発見」したため五七日目で釈放され、四一年証人出廷以後行方をくらます)。 






 * [[一九六三年六月三日]] - [[狭山事件]]の[[捜査本部]]が、[[拘留]]延長手続(一〇日間)を取る。



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May 28, 2019

1963(昭和38)年9月30日狭山事件第一審第二回公判



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第一審第二回公判

 封筒の切れ端

<検察官尋問>


中田健治供述 
 一)記憶ありますか。
    これよりかもっと小さいもの
だったと記憶しています。
 二)それよりも・・・
    はい、・・・この場合も
インクがにじんでおりますけれども・・・
 三)これではないということを
はっきり言えるのですか。
    はい。
 四)紙切れはいくつあったのですか。
    一つです。









 <弁護人尋問>


 一)それで、その日にすぐ警察に知らせた。
   そうです。翌日二日に来られた時に、
お話しました。
二)何という人にそのことを話したんですか、
ご存知ですか。
   ぼく、名前は・・・。
三)名前は記憶ない。
    はい。









 四)その時には、大事にしておいてくれ
という趣旨のあれで、それを持っていくと
いうことはなかったわけですね。
    はい。
 五)それで翌日が翌々日、
あなたの方から持っていかれたわけですか、
それとも警察の方から
持ってきてくれということだったのですか。









    あの時に、来た人に一応他に
変わったことはなかったかと
聞かれるもんですから、
そのことをお話したけれども、
こういうものが取ってあると言ったら、
じゃ、いただいていきますというわけで、
ちり紙ですか、あの間にはさんで
持っていかれたように
記憶しています。









 六)そこへ来ておられた警察で、
自分のちり紙を出して、
その中へはさんで持っていかれた。
    はい。
 七)そのちり紙の中へ、
たたんで持って行かれた人の
名前はわかりませんか、
ちょっとくどいようですが。
    えーとね、記憶はないんです。









 八)堀兼の駐在の人ですか、
それとも狭山の警察の方ですか。
    いえ、違います。
県の捜査課の方だったと
記憶しています。








<検察官尋問>




増田秀雄供述 
 一)その声を聞いて、
佐野屋の呼びかけた声とは、
どう思いました?
    二時間ばっかし聞きましたが、
その声にあまりその、
問答もございませんで
よくわかりませんでしたですが、
まあ声が「おらあ」というような
ところは似てたと思います。
そう思います。
 二)その音声、音の音色・・・
それはどうですか、声の。
    まあ似ているじゃなかろうかと、
決定的なものじゃなくて、なかろうかと
いうようなぐらいの感じでした。





<1963(昭和38)年9月30日狭山事件 第一審 第二回公判>
*犯人とり逃しの原因についての<検察官尋問>より



登美恵供述 
 一)それからどうなりました?
取れないから帰るぞといわれた後に。
    一番最後に私が、道路標識の
ちょっと東側まで進んで行って、
ちょっと立っていると、
白っぽく人影が動いたのを
覚えています。








 二)それは一番最後ですね。
    はい、最後です。
 三)白っぽいものが動いたというのは、
どちらからどちらへ動いたのですか。
    北側から南側へ。
 四)動いたのはどのくらいの間隔か、
見ていますか。
    二米ぐらいだったと思います。



*ニセの二十万円札
<検察官尋問>




登美恵供述 
 一)二十万円現金ですか、それとも
・・・ ・・・
    家でつくったものですけれど。
 二)二十万円じゃなくて、家で作った
ものを入れてあったわけですね。
    はい。




*犯人の声と被告人のそれとの同一性
<弁護人尋問>




登美恵供述 
 一)あなたはその声の特徴について、
検事さんに、その声はたいへん素直な
感じを受けたという趣旨のことを
お話になった記憶がありますか。
   はい、あります。
 二)素直な感じというのは
どういう感じだったでしょうか。








   そうですね、声もそんなに力の
こもった声でなくて、ドスのきいたとか、
そういう声じゃなかったです。
4)どちらかといえば、あまり特徴のない、
ごく普通の声だったと、
こういう感じだったわけですか。
   はい。




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1963(昭和38)年6月8日

1963(昭和38)年6月8日
狭山事件で、上田県警本部長が、石川一雄氏(十文半)は押収した地下足袋(十文三分と鑑定)をはけるから犯人と発表。



66fab40c.jpg 上田県警本部長、押収した地下足袋を石川一雄ははくことが可能と発表。

 上田県警本部は石川(十文半)は兄六造の九文七分の地下タビをはけるから、佐野屋にきた犯人と発表(上告書ではこの地下タビは十文三分と鑑定されている)。







『〜見えない手錠をはずして!〜狭山事件42年ぶりの真実〜』の番組の書きおこし(2005年)
“ある日、突然犯人に…  〜検証!えん罪の構図〜” 
テレビ朝日]]系列の報道番組『ザ・スクープ』が狭山事件を特集
2005年2月13日(日)午後2時放送
T:鳥越俊太郎  N:長野智子  ナレーション:斉藤茂一




<概要>
四二年前の五月、一人の女子高校生が誘拐、殺害されるという事件が起きた。被害者はYさん、一六歳。『永遠にYさんに逢えないのですね。私たちは悲しい涙で胸が張り裂けそうです』。一九六三年に発生した狭山事件である。そしてここに四二年間、無実を訴え続けている人物がいる。石川一雄さん。Yさんを誘拐、殺害した人物として一九六四年一審で死刑、一九七七年に無期懲役刑が確定した元被告である。

石川さん:引っかかったんですね。引っかかってしまったんです。
キャスター(T):そう卯いう引っかかってしまった自分が情けないですか。
石川さん:情けないです。悔しくてしょうがないです。

 別件逮捕、そして自白。だが、その自白は警察によって誘導されたものだったと石川さんは訴える。新しい鑑定結果が突きつける無実の証拠。再審の門は開くのか。今年春にも最高裁の判断が下される。私は無実だ。狭山事件の謎とその真相に迫る。
 四二年前、事件は一通の謎めいた脅迫状から始まる。
 五月一日の夕食時、埼玉県狭山市のNさん方で身代金を要求する脅迫状が発見され、封は既に切られており、中にはその日の夕方から行方不明になっていたYさんの学生証も入っていた。翌五月二日の深夜、Yさんの姉が偽札の包みを持ってAの前で犯人を待った。まわりには四三名の警察官が配置されたが、Bの場所にひそんでいた犯人は「警察に話したんべ。そこに二人いるじゃねーか」という声を残して姿を消してしまったのだ。

T:身代金の引渡し場所を犯人が指定したのはこの茶畑のあたりです。あの事件からもう四二年たちました。あの時ここに捜査体制を引いていた警察官たちが班員を取り押さえていれば・・・。そう考えるととても残念に思います。
 犯人を取り逃がした埼玉県警は翌日から大規模な捜査を開始する。しかし事件発生から四日目の五月四日、Yさんは変わり果てた姿となって発見される。犯人取り逃がしが招いた最悪の結果だった。この警察の大失態は国会でも追及され政治問題にまで発展した。『今後かかる事件が起こらないよう万端の処置を取るように致しておるのであります』(池田勇人総理)。

T:実は狭山事件の起こる一ヶ月前、警察は東京で起きました吉展ちゃん誘拐事件で犯人を取り逃がすという大失態を演じていました。マスコミや世論の警察に対する不信感・非難は頂点に達していたのです。
 何としても犯人を挙げる必要に迫られていた埼玉県警は、Yさんの遺体が発見された場所等から、次第に捜査のまとを被差別部落周辺へとしぼっていく。そして事件発生から二二日目、一人の青年が逮捕される。それが石川一雄さんだった。当時二四歳。容疑は窃盗・暴行・恐喝未遂。Yさん殺害容疑を含まない、いわゆる別件逮捕だった。しかし

石川さん:被害者のYちゃん殺しの犯人として私を取り調べました。

<取調べの実態>

石川さん:嘘発見器は二回かかりました。クロだ、被害者のYさんを殺したことになっているということだったので私も腹が立って。

 検査結果は無実を示していたが取調官は嘘をついて自白を迫った。しかし石川さんは頑として犯行を認めなかった。そこで捜査当局はある強硬手段に打って出た。

『石川一雄が二〇日ぶりに保釈されることになり、石川の兄が狭山署に出迎えました。ところが石川は取調室を出た途端、再び逮捕され川越支部に護送されたのです。前とは別の容疑で今度こそ婦女暴行殺人の容疑というもの』(中日ニュースから)。

たらい回しと呼ばれる一旦保釈して直後の再逮捕だった。何度も逮捕を繰り返し強引に自白に追い込む人権無視の手口である。しかも捜査当局がとった強硬手段はこれだけではなかった。

<接見交通権の制限>

 被疑者には自らの権利を守るため捜査当局の立会無しで弁護人と自由に接見できる権利がある。ところが石川さんはその権利を著しく制限されたのだ。再逮捕当日(6.17)は接見禁止、その後もわずかな時間しか認められず(6/18:20分、19:5分、20:5分)21〜25日に至っては全面的に接見が禁止された。そしてこの時期こそが石川さんが自白を始める時期なのである。

中山武敏氏(狭山事件再審弁護団主任弁護士):孤立無援の状態におかれて、警察の力は絶対なんだ、弁護士と会わせないこともできるのだと。一方で、弁護士は金儲けのための嘘つきだと弁護人不信を煽るんですね。本当に石川さんの心まで支配されていたと。

石川さん:今後は弁護士と話をするなと言われたので、それを境にして弁護士が例えば面会に来ても二、三分で帰ってもらったんですよ。ほとんど話をしなかった。

 では、外部とは一切接触が閉ざされていた取調室ではいったい何が行われていたのか。
 ここに取調べ中の石川さんを捕らえた写真がある。腰紐をつけ手錠を掛けられた状態。まさに拷問ともいえる追究が行われていたのがわかる。

石川さん:ほとんど片手錠ないしは両手錠と。尚且つ捕縄、縄ですね。Eさんが持っている係でした

 そして逮捕から二九日目、心身ともに追いつめられた石川さんはついにYさん殺しへの関与を認めてしまう。『手紙を書いたのは俺で持って行ったのも俺なんだ』(石川さん供述調書/1963.6.20付)。石川さんが警察の手に落ちた瞬間だった。

T:自分でやっていないのに自白をした最大の理由は何ですか

石川さん:兄が犯人だと思わされた、いや思ったことでしょうね。

 警察は犯行現場にあった地下足袋跡が兄六造さんのものと一致したと嘘を言って石川さんを信じこませた。

石川さん:それが私にとっては一番ショックだったですね。兄ちゃんが犯人だと思うきっかけになったです。そこをつかれたんですね。

 更に警察は、変わり果てたYさんの写真まで使い、石川さんを言葉巧みに誘導していった。

石川さん:この写真を見ろということで、被害者の裸の写真を見せて、遺体の擦り傷は砂利運搬車によってできたと言われました。砂利運搬車はしょっちゅう借りておりました。だからこれは兄ちゃんが砂利運搬車でたぶん遺体を運んだんだろうと。

 兄六造さんは当時一家の大黒柱だった。もし逮捕されてしまうと一家が路頭に迷う。
石川さん:だからそれは待ってくれと、兄ちゃんを本当に逮捕するんだったら私にしてくださいと言いました。


<利益誘導>
 同時に石川さんは取り調べの過程で、キャベツを盗るなどの別件逮捕を合計すると刑期が二〇年にもなると思い込まされていた。

石川さん:お前がYちゃんを殺したと言えば、兄を逮捕しないし、一〇年で出してやるということを言われたので、私は嬉しくなっちゃったんです。本当に兄ちゃんを逮捕しないですかと聞いたら、しないと言うので私は、じゃ、私にしてくださいと言ったんです。

 以後、石川さんは取調官に言われるがまま犯人に扮することに徹するようになる。第一審の裁判でも石川さんは自白を維持。審議はたった六ヶ月で終了する。判決記録は死刑(1964.3.11)。その理由を裁判長は『死刑になるかもしれない重大犯罪だと認識しながら自白している』とした。 

T:石川さんが兄六造さんに事件当日アリバイがあったと知るのは浦和地裁の第一審で死刑判決が下された後、拘置所で面会した時でした

六造さん:兄貴が犯人だと言われたからそれじゃ困るから俺がやったと言ったんだと、俺の事が出たんですよ。コノヤローと思いましたね。何でそんなにバカなんだ、コノヤローと。

 石川さんはその事実を知った時の悔しさを獄中日記にこう記している。『これほどまで見事に警察でのワナに陥ってしまった自分の無知を恨みました』
T:無知につけこんだわけですよね。警察がね。



<そして闘う決意>
 第二審の冒頭、突然石川さんはそれまでの供述をひるがえす。裁判長の制止を振り切り声を上げた。

『また世間に迷惑をかけるようだが、私はYさんを殺してはいない』
(二審、公判記録から)。
 長い闘争の始まりだった。


 司法当局が石川さんを犯人とした根拠の一つに、自白によって発見されたとする多くの物的証拠がある。
T:中でも最も重要視する証拠とされたものが、犯人が被害者から奪い、石川さんの自宅から発見されたといわれている これと同じ形の万年筆です。しかしこの万年筆が石川さん宅から発見される過程には多くの疑問が残されています。

<証拠捏造疑惑>

 逮捕後、石川さん宅では多くの家宅捜索が行われた。しかしその時には鴨居の上から万年筆は見つかっていない。ところが、事件発生から二ヶ月後、三度目の捜索が行われると突然、鴨居から発見されたのだ。果たしてそんなに見つけにくい場所だったのか。またこの万年筆の発見者は何故か兄の六造さんになっている

六造さん:私に取れと言うんですよ。素手でいいですかと聞いたら、素手でいい、もうあったんだからいいと言うんですよ。

 これがその時撮影された写真である。これには警察官だけで発見したのではなく、家族が発見したという事実がどうしても必要だったふしがある。なぜか。事件から二八年たった一九九二年、一回目の家宅捜索に当たった元警察官が発見された万年筆について重大な証言をした。

『ずっとあとになって鴨居の所から万年筆が発見されたと言われ、まったくびっくりしました。発見されたところは私が間違いなく捜して何も無かったところなのに本当に不思議に思いました』

 万年筆の謎はまだある。鴨居から見つかった万年筆には黒いインクが入っていた。ところが被害者のYさんは事件当日のペン習字の授業まで一貫して淡い青いインクを使っていることが明らかになったのだ。

 石川さんの無実を示す客観的な証拠は他にもある。その最たる例が、犯人が残した唯一の物的証拠、脅迫状に関するものである。

T:石川さんが小学校に通っていたのは五年生頃までですが、教科書やノートすら買えなかったという石川さんには字を書いた記憶はないといいます。そんな当時の石川さんの国語能力であの脅迫状は果たして書けたんでしょうか。

 かつての石川さんを知る人物はこう証言する。

「学校はあまり行ってなかったからね。漢字なんかは無理でしょう。ひらがなだったらねえ」


N:結局、裁判のほうはこれだけ多くの疑問があるにも関わらず、一審の死刑判決(1964)に続き、二審も無期懲役(1974)という有罪判決でした。そして1977年、最高裁上告棄却によって無期懲役判決が確定します。石川さんは77年と86年の二回に渡ってもう一度裁判をやりなおしてほしいと再審請求を申し立てるんですが、いずれも棄却されています。これらの経緯をつぶさに見てみると、裁判所も警察や検察の言いなりになって石川さんの無実を証明する新証拠に蓋をしているとしか思えないのです。例えば裁判所の判断です。


「筆跡の違いは環境や心理的立場の違いによって生じたもので、筆跡に違いがあっても書き手が違うとは限らない」

T:これはあきれて物が言えないですね。つまりこんなことを言ったらね、筆跡鑑定そのものをやる意味がないじゃないですか。いつもこういうふうに言ってしまったら・・・。これを書いた裁判官はね、アホです、はっきり言って。


N:(万年筆はなかった証言)「確かな記憶に基づくものか疑問がある」

T:なぜ疑問があるのかということを示さないとダメですよね。

N:(万年筆のインクの違い)「黒いインクを補充したと推測する余地がないとは言えない」

T:おかしいですよね。実はですね、この刑事裁判では”疑わしきは被告人の利益に”もしくは”疑わしきは罰せず”という言葉があって、これは司法制度の根幹をなすものといわれているわけです。この意味は、ちょっと矛盾したように聞こえるかもしれませんが、事実認定の点で合理的な疑いが生じているものについては有罪とはできない、無罪とすべきだということであるわけです。これを完全に無視している。これだけ合理的な疑いがあるのに、被告人は本当は無罪にしなければならないのに、有罪にしているというところが、裁判がずーーーっとおかしですね。

N:その結果として今も石川さんの闘いが続いているわけなんですが、最新技術を駆使した鑑定により、石川さんの無実を証明する新たな証拠が続々と出てきました。


 一〇年前(1994.12.21)石川さんは罪を認めないまま仮出獄を果たした。

石川さん「私は無実にも関わらず、今日まで三一年七ヶ月、不当に自由を奪われてきました」(その時の記者会見の模様)


しかし、石川さんの冤罪が晴れたわけではなかった。二度の再審請求を棄却された石川さんは三年前(2002.1.29)最高裁に最新の鑑定技術をもって浮上した新証拠を元に特別抗告を申し立てた。

<新証拠の指紋の謎>

犯人が残した脅迫状の封筒には、発見者である被害者の兄と届出を受けた警察官の指紋が検出された。ところが犯人だとされる石川さんの指紋は一つも検出されていない。この点に疑問を抱いたのが栃木県警の元鑑識課員斉藤保氏である。斉藤氏は二四年間指紋鑑定に取り組んできたベテラン鑑定士である。


T:石川さんの当時の自白によりますと、脅迫状をこの自宅で書き、それを封筒に入れて四つに折りたたみ、ズボンのポケットに入れて数日間持ち歩き、しかも殺害現場でそれに訂正を加え被害者宅に届けたということになっています。
 それらはすべて素手で行ったことになっており、この点は検察側も認めている。

斉藤氏:実際に折ってみますと折り目をつけるにはかなり力が必要ですから指紋が出てくる可能性は極めて高いです。石川さんの指紋が全く検出されないのはおかしいです

<検証実験>
斉藤氏:つまり自白どおりだとすれば脅迫状から石川さんの指紋が出なければおかしことになります。では真犯人はどのようにして指紋を残さず脅迫状を作成したのか

<新証拠・・・軍手の指紋>
 素手で脅迫状に触れたという石川さんの自供と全く矛盾する。他にも自白では説明できない新事実が次々と見つかった。ブツブツのあるドライバー用手袋痕、セロテープが長い間貼られていたと思われる痕、そして斉藤氏は石川さんの無実を示す決定的な証拠を発見した。


<新証拠・・・消された文字>

 脅迫状の宛名は変更されている。確定判決では『少時様』という宛名は犯行三日前に石川さんがボールペンで書き、事件当日、被害者から奪った万年筆で父親『中田江さく』宛てに訂正したとなっている。しかし斉藤氏は『少時』の背景に何かで文字を書いた痕が多数存在することを明らかにした。中でも重要なものは『時』の周辺にある九本の線。

斉藤氏:先が二本の線のように分かれて見えるところがあるのです。
 つまり万年筆で文字を書いた痕だったのだ。

斉藤氏:すなわち 『時』はインク消しで消した文字の上に書いた文字であるということです。この封筒の宛先を書いたという人は、身近に万年筆とインク消しを持って繰り返し使い『時』という文字を最後に書いていました。
 では、犯人は『時』という文字を書く前にどんな文字を書いてそれを消したのか。

筆跡鑑定士柳田律夫氏は脅迫状の写真をコンピューターで処理し、その筆圧痕から文字を判読した。

柳田氏:かき消し文字の上にまたかき消し文字が二回も三回も乗っています。『林』の第一画のアタリがある。これは間違いなく文字の書き始めです。

 この鑑定結果は、犯人は犯行前に万年筆とインク消しを所持していたことを示している。ところが裁判での事実認定ですら、石川さんが万年筆を手にするのは犯行後Yさんのものを奪ったあとだから、犯行前に石川さんが脅迫状を作れるはずがない

N:実は驚いたことに、この消された文字の存在について、四二年まえに埼玉県警が行った鑑識結果の中でも指摘されているんですね。当初から警察は判読できなかったものの、潜在文字が存在することを知っていたということなんでしょうか。

T:ということは、判読できなくとも万年筆で書かれた文字がインク消しで消されたことはわかるわけですから、もちろん万年筆を持っていなかった石川さんが犯人ではないわけですよね。証拠を黙殺したことになりますよね。
   

N:再審を行うかどうか、最高裁の審議の結果は今年の春に出る予定なんですが、石川さんにとってこれは事実上、冤罪を勝ち取るための最後のチャンスとなります。さてこの最高裁、これらの新証拠をどう見るのでしょうか

T:まあこれだけ新証拠がありますから最高裁は事実認定をきちっとして、事実調べをして差し戻すということをやらなければいけないと思うんですね。

もう一つだけ付け加えますと、石川さんが被差別部落出身であるということで、裁判そのものが差別反対闘争の色彩をもっていることは事実なんですね。それで私たちマスコミが及び腰になってあまり取り上げてこなかったと。そのために裁判にもちゃんとした光が当てられなかったと。

そういう側面は指摘しておかなければいけないと思います。


N:ハイ。マスコミにも責任がありますね。さてこちらをご覧下さい。司法研修所の調査なんですが、戦後の冤罪事件五〇件のうち、なんと42件で被告人がやてもいない犯行を自白させられていたことがわかっているのです

取調室という密室で繰り返される自白強要と違法捜査、こうした冤罪の構図は二一世紀の今日でもまったく変わっていないようです。


T:世界的な流れからいいますと、残念ながら日本の司法制度は人権後進国と言わざるをえないですよね。特に法務省の人権感覚が遅れている。この点を指摘してこれから改めてもらわないとということが望まれると思います










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May 25, 2019

1963(昭和39)年5月25日



1963(昭和39)年5月25日
狭山事件で、中田善枝さんの教科書・ノート等発見される。


亀井トム氏『狭山事件 無罪の新事実』より
一九六三・五・二五
 きりかえられたゴム紐発見の場所の近くの山林で善枝の教科書・ノート等発見される。


鎌田慧氏『狭山事件 四十一年目の真実』 より
 被害者の教科書、ノート類、発見される。







『石川一雄獄中日記』 より


 石川君は一九六三年五月二三日に逮捕された後、別件についてはその翌日から自白しています。他方、本件の善枝さん殺しについては、一ヵ月間否認を続け、六月二〇日すぎになって「自白」します。・・・ともかく最初の三日間三人共犯の内容の自白をしており、その後単独反抗の自白に変わります。・・・



供述調書(五月二三日付)


     石川一 指印
右の通り録取し読み聞かせたところ誤りのないことを申立て署名指印した
前同日
  狭山警察署助勤 埼玉警察本部刑事部捜査一課
    司法警察員 警部 山下了一 ㊞



供述調書(五月二四日付)


     石川一 指印
右の通り録取し読み聞かせたところ誤りのないことを申立て署名指印した
前同日
  狭山警察署助勤 埼玉警察本部刑事部捜査一課
    司法警察員 警部 山下了一 ㊞



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May 23, 2019

1963(昭和38)年6月30日

1963(昭和38)年6月30日


6/21〜7/2
[[狭山事件]]で、警察は、[[川越]]警察署特設取調室での「自白」デッチ上げとタイアップしつつ、[[鞄]]・[[万年筆]]・[[腕時計]]の証拠品の捏造を行う。

参考:石川一雄獄中歌集(一九七九年/たいまつ社)狭山差別裁判関係略年譜





狭山事件(強盗ごうかん、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂等)
 機 ̄栽唾枠39.3.11 最刑集31-5-980(死刑)
 供‥豕高判49.10.31 高刑集27-5-474(破棄自判、無期懲役)
 掘狭山事件 最二決昭52・8・9刑集31-5-821(上告棄却)
A
自白の経過
一、被告人は、捜査段階で自白して以来、捜査段階、第一審の審理を通じて自白を維持し、検察官から死刑の論告求刑を受けた後の被告人の意見陳述の機会においても争わなかった事実等に照らせば、被告人の原審における右供述は真実性のないものであり、その他、所論のいう約束(「善枝ちゃん殺しを自白すれば十年で出してやる」)があったことを窺わせる証跡はみあたらない。

二、第一次逮捕・勾留中に「別件」のみならず、「本件」についても被告人を取調べているとしても、それは、専ら「本件」のためにする取調というべきではなく、「別件」について当然しなければならない取調をしたものにほかならない。それ故、第一次逮捕・勾留は、専ら、いまだ証拠の揃っていない「本件」について被告人を取調べる目的で、証拠の揃っている「別件」の逮捕・勾留に名を借り、その身柄の拘束を利用して、「本件」について逮捕・勾留して取調べるのと同様な効果を得ることをねらいとしたものである、とすることはできない。・・・

 しかも、第一次逮捕・勾留当時「本件」について逮捕・勾留するだけの証拠が揃っておらず、その後に発見、収集した証拠を併せて事実を解明することによって、初めて「本件」について逮捕・勾留の理由と必要性を明らかにして、第二次逮捕・勾留を請求することができるに至ったものと認められるのであるから、「別件」と「本件」とについて同時に逮捕・勾留して捜査することができるのに、専ら、逮捕・勾留の期間の制限を免れるため罪名を小出しにして逮捕・勾留を繰り返す意図のもとに、各別に請求したものとすることはできない。・・・

三、「別件」についての第一次逮捕・勾留とこれに続く窃盗、森林窃盗、傷害、暴行、横領被告事件の起訴勾留及び「本件」についての第二次逮捕・勾留は、いずれも適法であり、右一連の身柄の拘束中の被告人に対する「本件」及び「別件」の取調について違法の点はないとした原判決の判断は、正当として是認することができる。
○B
自白内容の変動・合理性
一、行動は活発で、関係地点も多岐にわたるほか、犯行に伴う精神的興奮、緊張状態が存在したと考えられるところから、自白の細部に食い違い(不明確な点、触れられていない点)があったとしても不自然ではない。

二、自白後は捜査段階、一審において終始犯行を認めている(控訴審で否認)。荒縄や木綿細引紐の使用方法についての捜査段階の供述には微細な点で多くの食い違いがあるが、被告人の知覚、表象、表現能力が低い上、取調官が正確に記述する能力に乏しく大雑把な録取方法を取る場合や、被告人が意識的、無意識的に虚実を取り混ぜて供述する傾向が顕著な場合には、往々あり得ることである。
C
体験供述
◎D
秘密の暴露
一、鞄が最初の捜索では発見されなかったこと、鞄の発見された場所一帯がいわゆる山狩による捜索の対象となっていたこと、鞄の発見以前にすでに善枝の所持品である自転車の荷掛用紐及び教科書類が右の雑木林で発見されていること、被告人の鞄を捨てたときの状況に関する供述が細部ではくいちがいがあること、鞄の下から発見された牛乳びん、ハンカチ及び白三角布について被告人が記憶がないと言っていること、などを考慮に入れて、記録を詳細に検討したが、本件鞄の発見過程につて捜査官になんらかの作為があったと疑わせる証跡は見いだせない。
それ故、本件鞄は、善枝の所持品であって、被告人が本件犯行現場から持ち去りその所産を秘密にしていたが、被告人の自供に基づいて発見されたものであるとの原判決の認定は、正当である。

二、捜査官がこの場所を見落すことはありうるような状況の隠匿場所であるともみられる。従って、二度の捜索によって発見されなかった事実があるからといって、本件万年筆に関し捜査官の作為が加っていたとするのは、相当でない。
 万年筆自体からその所持者を特定する特徴や付着指紋等を発見することはできなかった。

三、捜査官は、同年六月二九日に至って同日及び翌三〇日の二日間にわたり、その附近を捜索し、また、近所の聞き込みを行ったが、腕時計を発見するに至らなかったところ、右捜索のあったことを知った近所に住む小川松五郎が、同年七月二日に、右三差路附近の茶株の根元にあった腕時計を発見したと警察に届出たことから、本件腕時計(同押号の六一)を領置するに至ったものである。してみると、本件腕時計の発見について右のような経緯はあるにせよ、本件腕時計は、被告人の供述に基づいて、被告人が捨てたという場所の近くから発見された関係にあるものということができる。

四、第一審証人吉沢栄は、その時刻に自動三輪車で同街道を通った事実があると述べている。所論は、右事実は被告人の自供後に判明したものではない、というが、警察官石原安儀の原審証言によると、この事実は、被告人の自供の裏付捜査として同日同時刻ころ自動三輪車を運転して鎌倉街道を通った者の有無を捜査した結果判明したというのであり、これによれば、右事実は被告人の自供によって初めて判明するに至った事実であると認められるから、被告人の供述は他の証拠によって裏付けられた十分信用に値いするものであると評価した原判決の判断は、正当である
○E
客観的証拠との符号性
一、(イ)脅迫状及び封筒とその筆跡並びに被告人の筆跡、(ロ)犯行現場附近で採取された石膏足跡(石膏成型足跡)及び被告人方から押収された地下足袋、(ハ)被害者善枝の体内に残留していた精液の血液型及び被告人の血液型、(ニ)死体とともに発見された手拭及びタオル、(ホ)死体埋没現場近くで発見されたスコップ、(ヘ)中田栄作方に脅迫状が投入された直前ころ同家の所在を尋ねた人物に関する内田宰吉証言、(ト)身の代金を受け取りに現われた犯人の音声を聞いた中田登美恵及び増田秀雄の各証言

二、善枝の足にも木綿細引紐が巻かれたまま死体が発見されていることから、・・・首に巻かれた右木綿紳引紐を示されて、「覚えがありません。然しその麻縄は梯子の附近から盗って来た麻縄の様です。」と述べている以上に具体的に触れていない。・・・いずれにしても、被告人が右木綿細引紐の具体的な用法について供述していないからといって、被告人の自白全体の真実性に疑問を差しはさむことは、相当ではない。

三.被告人が万年筆を鞄から取り出したのは、本件兇行が行われた「四本杉」の所で思案していた間のことで・・・被告人の本件脅迫状及びその封筒の訂正に用いた筆記具並びに本件万年筆の奪取の時期及び場所に関する自供は、客観的証拠によって認められる事実とくいちがいがあることは明らかである。しかし、このくいちがいは、被告人が犯人であることについて合理的な疑をさしはさむほどのものではない。

四、脅迫状等訂正の筆記具並びに本件万年筆の奪取の時期及び場所について、本事件の犯行に関する物的証拠の示す事実と被告人の自白内容との間にはくいちがいがあり、また、被害者善枝の首に巻かれていた木綿細引紐の用途について被告人は供述しておらず、あるいは、右木綿紳引紐及び書抜の足首に巻かれていた木綿紳引紐の出所について明確な裏付けを欠く部分があるが、これらは、いずれも自白の真実性に合理的な疑を抱かせるほどのものではなく、また、殺害の方法及び時刻、ごうかんの態様、死体の損傷並びに死体の処置等についても、自白内容と物的証拠との間に重要な齟齬はない。
F
物的証拠の不存在
○G
被告人の言動
被告人は、捜査段階では、(イ)川越警察署分室の留置場の壁板に、「じようぶでいたら一週かに一どツせんこをあげさせてください。六・二十日石川一夫入間川」と詫び文句を爪書していること、(ロ)同留置場で紙を裂いて、「中田よしエさんゆるして下さい」と書いていること、(ハ)昭和三八年六月二七日付で善枝の父中田栄作あてに、「このかみをぜひよんでくださいませ中田江さくさん私くしわ中田よしエさんごろしの石川一夫です」との書き出しで、自己の家族をうらまないで下さいと訴えた手紙を書いていること、更に、第一審において死刑の判決を受けた後、付同三九年四月二〇日付で原審裁判長にあてた移監の上申書の書き出しに、「私は狭山の女子高校生殺しの大罪を犯し三月一一日浦和の裁判所で死刑を言い渡された石川一雄でございます。」と書いていることなど、深い反省と悔悟の情を表わしている事実がみられる。これらは、真実に裏付けられなければ表現できないものであって、被告人の自白の真実性を知る重要な手がかりとなる事実である。
H
弁解
 二、捜査官の偽計による虚偽の供述との二審弁解は、それ自体極めて不自然
 三、約束による自白との弁解は、二審で初めて述べられたもので真実性がない。
◎I 
情況証拠
一、中田栄作方の近所の内田幸吉は、脅迫状が中田家へ届けられたころ内田幸吉方を訪れて中田栄作方はどこかと尋ねた人物は被告人に相違ないと証言していること、同日三日午前零時過ぎころ佐野屋附近で犯人の音声を聞いた中田登美恵及び増田秀雄は、いずれも犯人の声が被告人の声とよく似ていると証言していること、以上の事実を被告人の自白を離れても認めることができるとし、これらの事実は、相互に関連しその信憑力を補強し合うことにより、脅迫状の筆跡が被告人の筆跡であることを主軸として、被告人が犯人であることを推認させるに十分であり、この推認を防げる状況は全く見いだすことができない。

二、中田栄作方に届けられた脅迫状の筆跡は、被告人のものであること、昭和三八年五目三日佐野屋附近の畑地で発見された足跡三個は、被告人方から押収された地下足袋によって印象されたものと認められること、被告人の血液型は、B型(分泌型)であって、被害者善枝の膣内に残留していた精液の血瀕型と一致すること、善技を目隠しするのに使われたタオル及び善枝の両手を後ろに縛り付けるのに使われた手拭は、被告人が入手可能の状況にあったこと、死体を埋めるために使われたスコップは、石田一義方豚舎から同月一日の夜間に盗まれたものであるが被告人がかつて同人方に雇われて働いていたことがあって、右豚舎にスコップがあることを知っており、容易にこれを盗むことができたであろうこと

(司法研修所編『自白の信用性』事例カードより)

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1963(昭和38)年6月29日


1963(昭和38)年6月29日



* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、[[拘留延長]]手続き(一〇日間)。
捜査本部、狭山市田中で[[腕時計]]捜査(〜三〇日)。




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伊藤寛‏さんのツイートより  2013(平成25)年6月13日
代用監獄。拘留延長に裁判官もどんどん許可を出す。・・PC遠隔操作事件となんと似ていることか。→「狭山事件記者会見」IWJ6 http://ustre.am/uy8q


ブログ「素直に見る世の中」http://blog.livedoor.jp/kuroiamakitune/archives/51713066.htmlより  2013(平成25)年02月26日
「罪を犯したことを疑う理由がある。証拠の隠滅や逃亡の恐れがあり、勾留する理由があると判断した」( ー`дー´)キリッ
拘留の理由は、私 裁判官の 岩田澄江が 拘留と決めたからだぁ!!
私が思ったからって・・・・、その最大の理由を開示しろよ。
\( ̄O ̄)/ ワケワカラン? オテアゲジャーー!!!
例えば、首輪を付けている防犯カメラ映像を私も見たい。と、検察に命令しろよ。
もう警察・検察と一体化した裁判所だね。
検察の下働きとなっているんだね。
意味ねぇー!!拘置理由開示。
ハッキリ言って、時間の無駄だね。
これじゃ どんどん拘留延長されて、冤罪を生んじゃうね。


ブログEveryone says I love you ! http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/208c43c9174875e365f0a2c33a6398cfより  2012(平成24)年10月30日

今回の事件では、検察が、否認すると身柄拘束期間が長くかかると息子さんを脅しました。そういうことが明るみに出ないように可視化に抵抗しているのが警察と検察です。





『狭山事件 石川一雄四十一年目の真実』 鎌田慧/著より、引用


 二ヵ月たって路上にあらわれた腕時計
 
 事件発生のあと、県警と狭山署は、被害者が所持していた、「女持腕時計シチズンコニー六型」(側番号C六八〇三 二〇五〇六七八)と「牛革製ダレス」を「特別重要品触」として、写真入りポスターにして、各所に張り出した。




 ところが、小川松五郎が発見した腕時計は、おなじシチズンの女性用でも、両側の耳の部分がやや大きくひろがった「シチズンペット」型で、側番号は六六〇六 一〇八五四八一、型も番号もちがう、まったくの別物だった。これは中田弁護士の自宅に配達された匿名の手紙によって知らされた事実だった。・・・たった一行の「内部告発」である。




(補足)
 ◆勾留理由開示公判 刑事訴訟法では、勾留中の容疑者本人などから請求があった場合、公開法廷で勾留理由を示すよう規定している。あらためて勾留理由を開示させることで、勾留取り消しや勾留に対する準抗告の権利を行使する準備が可能となる。さらに裁判官に対し、勾留要件の再検討をうながし、勾留延長を慎重にさせる効果もある。

 ◆PC遠隔操作事件 他人のPCに外部から操作できるウイルスを感染させ、その人に成り済ましメールで犯罪予告した事件。3府県警が4人を誤認逮捕。「真犯人」を名乗る人物が江の島の猫の首輪にデータ入り記憶媒体を取り付けた。10日に片山容疑者を逮捕。

以上 http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-8146.htmlより

 ◆横浜市のホームページに小学校襲撃予告が書き込まれた事件で誤認逮捕され、家裁が保護観察処分を取り消した男子大学生(19)の父親がコメントを発表



 ◆弁護側が進行を急ぐのは、身柄拘束期間が長引いて、片山氏の精神状態が不安定になってきているためでもある。独り言をつぶやいたり、壁や床を叩いて留置管理官に注意され、それに反発するなど、拘禁性の精神疾患にかかっているおそれがある、という。2013年4月18日 http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20130418-00024461/より

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1963(昭和38)年6月28日

1963(昭和38)年6月28日


 * [[1963年]] - [[狭山事件]]で、 中田・石田弁護人面会。
 捜査(6/23〜30):この間行われた「殺害犯行現場」の[[血痕]]検査、[[実況見分調書]]未開示。

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http://geocities.yahoo.co.jp/gl/enzaisayama/view/20111224/1324702343より



  *2011(平成23)年12月14日

東京高裁(小川正持裁判長)であった第3次再審請求審の3者協議において、検察側は、石川さん宅を捜索した際の捜査資料や供述調書などの新証拠14点を開示したという。
 内容は明らかではないが、肝心の殺害自白現場の四本杉の血痕ルミノール反応は出さず、小刻みに、検察側有利と考える証拠のみを出してきているが、すでに石川さんの上申書のように、それらの中からも、次々と有利な証拠が発見されてきている。
  引き続き、殺害自白現場の四本杉の血痕ルミノール反応検査報告書などの開示を強く求めるとともに、関係する警察官や弁護側の筆跡鑑定人など、事実調べを強く求めたい。事実調べを行うことなく、書面審査だけでの判断は許されない。









 *1988(昭和63)年9月2日

 [[狭山事件]]で、[[東京高検]]が、[[芋穴]]の[[ルミノール反応]][[検査報告書]]を[[証拠開示]]する。
 [[自白]]で死体を[[逆さづり]]にして隠したという芋穴に[[血痕反応]]はなかったことが判明する。
 その他の証拠は開示を拒否する。
 (これ以後、二〇〇四年五月までで十五年以上、証拠開示は無い。)

 

[[ルミノール反応]] [[血痕]]と福井女子中学生殺害事件で前川彰司さんの再審請求棄却――立証責任回避の違法な決定







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1963(昭和38)年6月27日

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第一次目標5万個達成を
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1963(昭和38)年6月27日
* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、[[警察友の会]](阿部真之助会長)、捜査本部に感謝状。
 証拠:星野・阿部鑑定書(スコップ附着物)



http://www.senshu-u.ac.jp/‾off1013/bunken/pdf_kiyou/33_0057-0070.pdf より
 狭山事件に見る差別的捜査

・・・記録によると、 1963年5月 6日にH養豚場でスコップが盗まれたことが判明し、 5月11日にスコップが死体発見現場から125メー トル離れた場所 (畑)から発見されたので、 容疑者をH養豚場関係者にしぼり、 捜査を集中したという。
しかし、 スコップが発見されたからといって、 それが死体を埋めるのに使われたものであることも、 H養豚場のものであることも、 それらを裏付ける証拠はまったく ない。
警察が発見されたスコップをHに確認したのは5月21日であり、 スコップ付着物の鑑定結果が半り明したのは6月26日であった。
警察が裏づけのないまま、 被差別部落に関係する H養豚場 (経営者も従業員も部落出身者) に捜査を集中したことは明らかである。
これらの予断と偏見とにもとづいた捜査に引き続き、 別件逮捕やきびしい接見制限、 過酷な自白追及がおこなわれたのであるが、 これらは察の常套手段であるので、 それらについてはここには記さない
(かといって、 それらの根底に部落差別の意識があることはあらためて言う までもない)。・・・





 六月二七日、善枝さんの腕時計は何処へ捨てたと聞くので、質屋へ入れたと言っても信用されず田中へ捨てたと話したら地図を書けと言うので書きましたら、あろうことか翌日の夕方だと思いますが知らない刑事さんが、
 「課長(長谷部)さん 時計が見つかりました」
 と持って来たので、長谷部さんから借りて腕にはめて見たら私の腕にピッタリ合ったので



 「善枝さんも案外太かったのだな」
 とこの様に言いましたら、遠藤さんが「石川君が殺したのではないのか、殺した人がそのような事を言えば、わらわれるど」
 と言ったので皆で大笑いしました。
 以上が川越での出来事でしたが、言葉づかいが多少違います。・・・

 荻原様 私に代って地裁内田武文を綿密に御調べの上裁判をして私同様死刑にして下さい。・・・



  又私は川越署で口ではあらわせられない程のひどいめにあいました。荻原様はご存知と思いますが、国民の皆様にこの文面を見せてください。そして武文を絞首台に上げて下さい。又長谷部の両人も死刑にして貰います。この二人は私が出てやりますから・・・

 勝手な事ばかりで申し訳けございません。では右の事を是非御願い致します。


石川一雄獄中日記 より

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1963(昭和38)年6月26日

1963(昭和38)年6月26日


* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、石川家[[家宅捜索]](第三回)で[[万年筆]]を“発見”。[[石川一雄]]、この日までに“[[自白]]”を単独犯行にかえる。
 証拠:万年筆、 [[「なかよし」]] 、ボールペン



 六月二六日長谷部さんに
 「お寺の所で殺してから四本杉まで運んだのでは大分かかったろう 車で運んだのかい」
 と言うので
 「入曾、入間川から何も聞いていないから分からない」
 と答えたら
 「何時までもそんな事を言っておると、一〇年で出してやらないよ、吾が裁判官に死刑にしてくれと頼めばすぐに死刑にされるのだよ、嘘だと思うのなら遠藤さん達に聞いてみな、遠藤さん、石川君死刑にされても良いのか 嫌だろう」



 と言われたのですが、私は入曾、入間川の人も知らないし教える事も出来ないので
 「一人で殺した」
 と言ったのです。そしたら長谷部さんが
 「吾も石川君が一人でやったと思って居たよ、で善枝さんの死体にナワなどが付いてたがそのナワを何処のを盗んで来たのか覚えてるかい、吾は死体が見つかってすぐに自殺した源さんの近くのだと判ったよ、吾の鼻は犬より良いからな どうだい当ったろう」



 「俺ら殺したときおっかなくて忘れちゃったんです」
 「なに忘れた 自分で殺したくせに忘れるわけがないだろう、よく考えてみろ」
 とどなられたので泣いてしまいました。そしたら泣いて居たのでは解らないではないかと叱られてた所へ運よくさんが夕飯を運んで来たので、寄ったのだが家に何か伝言でも有るかと入って来たので助かりました。



供述調書(六月二六日付)


     石川一夫 指印
右の通り録取し読み聞かせたところ誤りのないことを申立て署名指印した
前同日
  狭山警察署助勤 埼玉警察本部防犯課
    司法警察員 警部 青木 一夫 ㊞
  立会人 狭山警察署助勤 警察本部捜査第一課 司法警察員警部補 遠藤 三 ㊞



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1963(昭和38)年6月25日

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2013(平成25)年6月25日 東京高裁前第三回アピールが行われる



つぶやきから実現へ  様のリツイートより 2013(平成25)年6月24日
人権侵害の危険性❌狭山事件の冤罪性。犯人脅迫状の文字と、石川元被告が警察で書かされた上申書の筆跡の違いで説明。「石川元被告が逮捕当日に書いた上申書は、事件発生から47年経過し開示。このような重要な証拠を、47年間隠蔽」検察の証拠隠蔽体質。



1963(昭和38)年6月25日

* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、捜査本部二〇人に減員。
中捜査本部長、[[石川一雄さん]]の“自白”を公表。
部落解放同盟機関紙[[「解放新聞」]]、「人権侵害に抗議を、[[狭山事件]]に差別捜査の警察、部落民を犯罪人扱い」の記事。


 六月二四日月曜日、長谷部さんが
 「鞄の事を教えてくれよ」
 と言うので、狭山署に居る時、嘘発見器に掛かった際先生に本が出た所の地図を見せられたので、その山を書いてさんに渡したのです。そしてさんが探しに行ったら、長谷部さんが
 「今君に渡した地図の所で間違いないのかい、吾は本が出た所の様な川に有る様な気がするが恐らく見つからないと君がおこってるど、



もし無いと戻って来たらこの川の所を書いてみないか」
 と言うので書きました。そして暫く経ったら本当に見つからないとブツクサ言いながらさんが戻ってきましたので、二枚目の地図を渡したら午後六時頃だと思いますが、今度見つかったと何かで連絡がありました。で長谷部さんが
 「吾の勘は皆当たるのだから嘘をついても駄目だ」
 と言うので、私はあやまったのです。



 六月二五日火曜日、朝頃だと思いますが、長谷部さんが次の様に言いました。
 「石川君の家から万年筆が見つかったそうではないか、なぜ今まで教えなかったのだ」
 「本当に知らなかったのです」
 「---嘘をつけ、知らない物が見つかる訳がないだろう。・・・善枝さんを殺してから風呂場の方の入口から入ったと言ったがその時鴨居の上に置いたのではないか、何でもその当りから見つかったと言ってたよ・・・」






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1963(昭和38)年6月24日

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Tokuda Jiro‏ さんのツイートより 2010(平成22)年10年9月21日
証拠捏造の話題がツイッターで盛り上がっていますが、こんなもの昔から普通に行なわれていてその典型的なのが植草の痴漢事件と狭山事件の万年筆、共に捜査当局が証拠を捏造しています。単に警察か又は検察と区別するのではなく共に一般的に証拠を捏造して裁判するから99.9%の有罪が有る


Ohsawa_h‏さんのツイートより 2010(平成22)年9月22日
狭山事件では数度に亘る家宅捜索でも出てこなかった証拠の万年筆がそれほど見つけ難い場所ではない鴨居の上から出てきたというのがありますね。 RT @iwakamiyasumi 物証をいじられたら、可視化だけでは対応できない、という点の御指摘には、全面的に同意します。

2010(平成22)年10月4日
狭山事件の被疑者宅から、数度の家宅捜索の後に、被害者が使っていたとされる万年筆が発見された。しかし、その万年筆には被害者が普段使っていたものとは異なる色のインクが入っていたこれなども証拠捏造が疑われる一例だろう。似たような例は他にも沢山あるに違いない



上野タケシ さんのツイートより 2013(平成25)年 5月23日
冤罪事件は後から証拠出てくる? 「白鳥事件は2年後になって、銃弾が」「袴田事件は血染めの着衣が1年2か月後に」「狭山事件は、万年筆が3回目の捜索で勝手口の鴨居から」発見
→【PC遠隔操作事件】第1回公判前整理手続きで、弁護人の怒り炸裂http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20130522-00025135/ … …



1963(昭和38)年6月24日



供述調書(六月二四日付)


     石川一夫 指印
右の通り録取し読み聞かせたところ誤りのないことを申立て署名指印した
前同日
  狭山警察署助勤 埼玉警察本部防犯課
    司法警察員 警部 青木 一夫 ㊞
  立会人 狭山警察署助勤 警察本部捜査第一課 司法警察員警部補 遠藤 三 ㊞



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1963(昭和38)年6月24日

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1963(昭和38)年6月24日
二度目のいい加減な地図で溝の中からかばんを発見。父栄作の述べる「一見
皮製にみえる」合成皮革のかばんが牛皮のかばんに化けている。

この日、、石川宅を訪ね、家人のすきをみて台所の鴨居に新品のピンク色のニセ万年筆を仕掛ける(後に新品とわかり、中のインクもライトブルーでなくブルーブラックとわかり、父栄作の供述、品触れにみられる「オレンジ」色でもなく、三重にニセものと判明)。
参考文献:
 亀井トム氏 「狭山事件 無罪の新事実」“更新・狭山事件誌”






鉄馬 さんの ツイートとtogetter「冤罪訴え47年。狭山事件」【テレビ朝日 ドキュメンタリー宣言】http://togetter.com/li/21917 より  2010年5月18日

"この万年筆について、事件から28年たった1992年。一回目の家宅捜索に立会った元警察官が、重大な証言をした。"

元警察官:後になって、鴨居のところから万年筆が発見されたと言われ、まったくびっくりしました。発見された所は、私が間違いなく探して、何も無かった所です

"万年筆の謎はまだある。石川さん宅の鴨居から見つかった万年筆には「黒いインク」が入っていた。ところが、被害者の善枝さんは、事件当日のペン習字の授業まで、一貫して「青いインク」を使っていた事が明らかになった。"


"そこで弁護側は、裁判所の言うとおり、万年筆にインクを補充した場合どうなるのか、筆記実験を行った。使用したのは、石川さん宅から押収された万年筆とまったく同型の物。(万年筆の映像)"

"つまり、裁判所の言う様に、万年筆にインクが補充されたとしても、文字に、擦れや途切れが生じるはずがないのだ。"

"さらに弁護団は万年筆の専門家、川窪克美氏にも鑑定を依頼。脅迫状の訂正文字が、石川さん宅で押収された万年筆で掛かれた物ではない、とした。"







供述調書(六月二四日付)


     石川一夫 指印
右の通り録取し読み聞かせたところ誤りのないことを申立て署名指印した
前同日
  狭山警察署助勤 埼玉警察本部防犯課
    司法警察員 警部 青木 一夫 ㊞
  立会人 狭山警察署助勤 警察本部捜査第一課 司法警察員警部補 遠藤 三 ㊞



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1963(昭和38)年6月23日★

100万人署名を継続し一人でも多くの方に狭山事件を
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薔薇庭人 さんのツイートより 2013(平成25)年4月28日
東京新聞 狭山事件石川さん:警察官から「お前じゃないなら犯人はお兄さんだ。お前が被ればお兄さんは逮捕しない。10年で出してやる」と言われ自白した。兄にアリバイがあったことは知らなかったのです。警察官から弁護士は嘘つきだと聞かされ、接見に来ても追い返しました。無知が自分を追いつめた



本田凡 さんのツイートより 2013(平成25)年6月5日
狭山事件で無実の殺人罪を被せられて逮捕された石川さんは、取調べでさんざん脅されたが否認。最後に野球を通じて知り合っていた巡査が出てきて一緒に泣くなどやさしい態度で接し、遂に嘘の自白へ導かれたという。渋谷でサッカー好きだとアナウンスをした警察をみて、そのことを思い出し、嫌だった。



殿岡 駿星‏ さんのツイートより 2012(平成24)年10月19日
♣PCの遠隔操作で犯罪予告、神奈川県警は少年(19)に自白させていた。無実なのに、自白させる警察の取り調べをしっかり検証するべきだ。わたしのテーマである、狭山事件でも石川さんは逮捕から1か月後に自白した。そして50年、冤罪に苦しんでいる
http://bit.ly/RFQmMP





1963(昭和38)年6月23日

* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、捜査本部、取調室前の警戒を厳しくする。
[[石川一雄さん]]、この日までに三人犯行の“[[自白]] ”をする。
 証拠:「[[単独犯]][[自白]]開始」


『自白崩壊 狭山裁判二〇年』(狭山事件弁護団編)より


* 石川は知人関巡査部長の泣きおとしと狭山署以来のテロルと脅しに負け、三人説を自供。
 関は石川にかばんを捨てた場所をゴム紐の発見された近くに書かせる。
 ハンストをないものにするため自白の日を三日だけくりあげ二〇日にする。
 『狭山事件 無罪の新事実』(亀井トム)より


* 厳しい取調べ(甘言と拷問)により、ついに犯行を自白
 (別件逮捕より一ヵ月ほど、石川さんはほとんど外部との接触のない状態におかれていた)。
 『狭山事件と再審』(輪島岩吉編)より



 荻原佑介氏宛書簡(一九六五年十一月二二日)より


 六月二三日(一九六三年)、調べ室に遠藤、青木、斉藤さん達が居る所で長谷部さんが、
 「石川君 何時まで強情張って居るのだい、殺したと言わないか、そうすれば一〇年で出してやるよ、石川君が言わなくても九件も悪い事をしてあるのだしどっちみち一〇年は出られないのだよ・・・
 とこの様に言われました。・・・知らない刑事さんが
 「課長(長谷部)さん 狭山の関部長が此方に来るそうです」・・・



 「そうか、それでは石川君 君に言ってくれ、男同士の約束だ
 と私の手を握りました。
 そして暫くしたらさんが、
 「石川君 元気かい、今署長さんに『この前一八日の裁判が終ったら三人での事を教えると約束して有るのだから聞いて来い』と言われて来たのだが吾に話してくれ」
 といきなり私の手を握って泣きつきましたが、私は三人でのこと(三人共犯)を話しませんでした。そしたらさんが



  「石川君 教えないなら帰るど」
 と立ち上がったら 長谷部さんが、
 「石川君 殺したと言って呉れ 吾は必ず一〇年で出してやるからな君 今話すそうだから待ってくれ、我々が居ては言いづらいだろうから外に出ましょうか 遠藤さん」
 と言って皆出てしまいました。そしたらまた泣きながら、石川君 殺したと言ってくれと手を握ったので、私もつられて泣いてしまい「入曾、入間川、と私と三人で殺した」と言ったのです。



『自白の信用性―被告人と犯行との結び付きが争われた事例を中心として―』(司法研修所編/平成3年7月刊行)


狭山事件(強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂等)
 機 ̄栽唾枠39.3.11 最刑集31-5-980(死刑)
 供‥豕高判49.10.31 高刑集27-5-474(破棄自判、無期懲役)
 掘狭山事件 最二決昭52・8・9刑集31-5-821(上告棄却)


 最高裁上告棄却決定 昭和四九年(あ)第二四七〇号より抜粋


被告人は、捜査段階では、(イ)川越警察署分室の留置場の壁板に、「じようぶでいたら一週かに一どツせんこをあげさせてください。六・二十日石川一夫入間川」と詫び文句を爪書していること、(ロ)同留置場でを裂いて、「中田よしエさんゆるして下さい」と書いていること、(ハ)昭和三八年六月二七日付で善枝の父中田栄作あてに、「このかみをぜひよんでくださいませ中田江さくさん私くしわ中田よしエさんごろしの石川一夫です」との書き出しで、自己の家族をうらまないで下さいと訴えた手紙を書いていること、更に、第一審において死刑の判決を受けた後、付同三九年四月二〇日付で原審裁判長にあてた移監の上申書の書き出しに、「私は狭山の女子高校生殺しの大罪を犯し三月一一日浦和の裁判所で死刑を言い渡された石川一雄でございます。」と書いていることなど、深い反省と悔悟の情を表わしている事実がみられる。これらは、真実に裏付けられなければ表現できないものであって、被告人の自白の真実性を知る重要な手がかりとなる事実である。





石川一雄獄中日記 より


中田善枝ちゃん宛詫び状
石川君の証言---第二審二七回公判より


中田弁護人 壁に何かで書いて、それから切紙したことは憶えていますか。
石川さん   はい、憶えています。
中田弁護人 どうして、そういうことを書いたのか、その事情をちょっと説明してほしいんですが。
石川さん   最初、三人から、一人と言ったのかな、とにかく殺したと言ってから、「それじゃ善枝ちゃんに詫び状のしるしがあるか」と言われたんです
中田弁護人 だれからそういうことを言われたのですか。
石川さん   長谷部さんから言われました。それから、「ある」とうっかり言ってしまいました。



裁判長    長谷部にどう聞かれたのか。
石川さん   「善枝ちゃんに詫び状が書いてあるか」と、で、「ある」と言ったんです。「どこだ」と言ったので、「狭山警察の留置場の便所の上へ書いてきた」と嘘をついてしまいました。そしたら、関さんがそばにいたので多分見に行ったんでしょう、それで夕方になって、私が帰された川越の留置場に入れられてしまったから、嘘をついてしまったから、あわてて、今度は、川越の自分のいたところへ書いたんです。



中田弁護人 長谷部さんから、善枝ちゃんに詫びる、いわばしるしのようなものを何か書いたかと聞かれたわけだね。
石川さん   はい。
中田弁護人 それまで、そんなもの書いてなかったんでしょう。
石川さん   はい、そうです。
中田弁護人 どうして書いたと言ったんですか。



石川さん   書いてあるかと言われて、うっかり書いてあると言ったらどこだと言われたから、狭山警察と言ったんです。そしたら関さんが見に行ったらしいです。で、なかったのを聞かれるといけないから、夕方になって帰されたから、川越の留置場の中へ書いたです。
中田弁護人 川越へ書いたのは、狭山へ書いたとうそを言って、本当に書いてなければ叱られるから書いたということになるんですか。



石川さん   そうです。で、紙を切ったのは、長谷部さんが、紙で書いたというか、切ったというかあれは長谷部さんに教わったんです
中田弁護人 教わったというのは
石川さん 中田という切り方です。紙を二枚合わせて、一所を切ると、中田と切れるんです。それは長谷部さんが教えたんです。それは、浦和の区長さんにも、こういうふうに切り方を教わったと書いたのを預けてあります。



中田弁護人 その切り紙というのかな いくつかに折って一所を切ると、中田というふうになる、その切り方を教わったんだね。
石川さん   はい、そうです。




中田栄作氏宛手紙
石川君の証言---第二審一五回公判より



石川さん   河本検事がその何日か前に来て俺に言うには、河本検事が俺の家に行ったら俺のおとっつあんが家の者が換って 中田の家へ謝罪に行くから 俺から前もって中田の家へ手紙を出しておけと言ったということでした。それで俺はそのことを原検事に言ったら同検事が幾日か待ってくれと言うので幾日か経ってから書いたわけです。



(注、石川君の父親が中田家へ謝りに行くと言った事実はない)


higurashi at 23:04|PermalinkComments(0)

1963(昭和38)年6月22日

100万人署名を継続し一人でも多くの方に狭山事件を
「狭山事件再審オンライン署名」へ

1963(昭和38)年6月22日
* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、捜査本部、橋本紀徳弁護人の面会を認めず、二六日、二八日に限定。
[[石川一雄さん]]、川越署[[嘱託医]] 加登豊の診療を受ける。













2013(平成25)年6月21日
くまがやれいば〜‏さんのツイートより

50年の長きに渡り冤罪と闘い続ける「石川一雄」さん。若い頃に「石川青年取り戻そうと」と歌った石川青年は70歳を超えた。第3次再審請求の闘いは、今進みつつあるファシズムとの闘いでもあるような気がする。狭山差別事件・・50年の闘いに今年こそ勝利の終止符を。


higurashi at 23:00|PermalinkComments(0)

1963(昭和38)年6月21日

1963(昭和38)年6月21日


* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、捜査本部、カバン“発見”(発見者、関[[巡査部長]]、立会人宮岡貞男)。
 証拠:鞄(二回目の[[自白]]図面による)


Akira Kurihara‏ さんのツイートより 2013(平成25)年5月1日

狭山事件・確実なこと。自転車返却。脅迫状(脅迫文)、封筒、身分証明書の存在。被害者の遺体と副葬埋設物。芋穴のビニール風呂敷と棍棒。5月2日深夜(5月3日未明)犯人らしい男が佐○屋近くに現れ会話をしたこと。証拠品の多くは偽装の疑い捨てきれず(鞄、時計、万年筆、教科書等々)

みなみあめん坊‏ さんのツイートより 2012(平成24)年10月5日
3日に行われた狭山事件第三次再審請求審の第11回三者協議は、事件直後の捜査報告書1通とスコップ関係の3点の合計4点の証拠開示。一方で、検察官は、目撃証言や3物証(万年筆、鞄、腕 時計)の弁護団が求めた証拠開 示は必要性はないと表 明。裁判所は柔和に対応するよう検察官に促した



2013(平成25)年6月21日
100万人署名を継続し一人でも多くの方に狭山事件を
「狭山事件再審オンライン署名」へ

明けて本日午後18:30から、墨田区社会福祉会館で開催です。
最寄り駅は東武亀戸線の小村井駅と京成押上線八広駅。ぜひお集まりください!
「狭山事件50年! 見えない手錠をはずすぞ! 墨田集会(東京・墨田)」 http://www.labornetjp.org/EventItem/1371740091318staff01 … @lnjnowさんから
(ぷにすけ【0勝4敗】さんのツイートより転載させていただきました)







『狭山事件 石川一雄四十一年目の真実』 鎌田慧/著より、引用


 発見されたにも不自然さが
 ダレスとは米国のCIA長官だったアレン・ダレスのことで、いつも彼が小脇に抱えていたことから、この名がついた。・・・被害者のダレスについて、・・・



被害者の父親である中田栄作が、刑事にたいして、「は薄茶色の一見皮製に見えるチャック付きと申しましたが、これは学生用のものでなく、家にあった旅行鞄」と証言していることである。・・・ところが発見されたは皮製だった。



『狭山事件 無罪の新事実』亀井トム・栗崎ゆたか/共著より、引用


 “役に立たない情報”を満載した「特別重要品触」が五万枚も、配付されているのである。たとえばカバン。・・・「特別重要品触」によれば、「ダレス、牛皮製、暗い黄茶色」である。




父親は皮製に見えるがそうではないと言い、さらに薄い茶色と言っている。それなのに品触れにはまったく逆のことが書かれてある。・・・
 このミスは、実は仕組まれたミスであるように思えて仕方がないのである




 なぜならば、品触れのミスはこれだけにとどまらない。・・・品触れに載せられている狭山署の電話番号は二本、「狭山二〇九七」と「武蔵四〇四〇」である。しかし、狭山局の電話番号は正しくは「二〇七九」、そして武蔵局のほうは、「六-四〇四〇」が正確な表現である。・・・



 カバンにはじまって時計、電話番号、それに新聞その他で奉じられた万年筆。どれをとってもみんな間違っている。




 もし、これが正真正銘のミスで、何の作為もなかったとすれば、それだけで警察は、石川一雄が真犯人だと主張するのをやめるべきだ。こんな捜査で犯人にされてしまったのでは、たまったものではない




 だが、警察は、捜査がミスだらけであったことを認めながら、一方では石川一雄が真犯人だと主張する。だから私たちとしては、品触れについても、実は役に立たなくてもよい事情があったのではないかと考えざるをえないのである。








higurashi at 22:58|PermalinkComments(0)

1963(昭和38)年6月20日

100万人署名を継続し一人でも多くの方に狭山事件を
「狭山事件再審オンライン署名」へ

ポスターの画像はコチラhttp://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw//chiiki/sumida/sumida_Sayama1306.htmlから頂きました

「狭山事件50年! 見えない手錠をはずすぞ! 墨田集会」のお知らせ
6月21日(金)18:30〜 墨田区社会福祉会館3F(墨田区東墨田2-7-1)
ゲスト:石川一雄さん・早智子さん 講演:金 聖雄(キムソンウン)さん
主催:部落解放同盟墨田支部 解放共闘

狭山事件発生・石川一雄さん不当逮捕から50年・・・
半世紀にわたる闘いを、今年こそ勝利へ!!
石川一雄さん・早智子さんの闘いと素顔をカメラで追ったドキュメンタリー映画「見えない手錠をはずすまで」(近日完成)監督の金聖雄さんを、墨田にお招きします! ふるってご参加下さい。

ぷにすけ【0勝4敗】さんのツイッターより転載させていただきました



1963(昭和38)年6月20日

 この頃から、石川一雄さんが(関巡査部長らの誘導により三人共犯の)「自白」を始めている。

* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、[[石川一雄さん]]、拘留質問(平山三喜夫[[判事]])に殺人を否認。
 証拠:「三人共犯自白開始」


供述調書(六月二〇日付)

     石川一夫 指印
右の通り録取し読み聞かせたところ誤りのないことを申立て署名指印した
前同日
  狭山警察署 司法警察員巡査部長 関 源三 ㊞
  立会人 狭山警察署助勤 熊谷警察署勤務 司法警察員巡査部長 清水 輝雄 ㊞


higurashi at 22:50|PermalinkComments(3)

1963(昭和38)年6月19日

100万人署名を継続し一人でも多くの方に狭山事件を
「狭山事件再審オンライン署名」へ

ポスターの画像はコチラhttp://www.shinjikai.com/sayama.htmlから頂きました


1963(昭和38)年6月19日

* [[1963年]] - [[狭山事件]]で、[[石川一雄さん]]、[[ハンスト]]にはいる。


亀井トム氏 「狭山事件 無罪の新事実」より
一九六三・六・一九〜二三
 石川、刑事に挑発されてハンスト開始。  


higurashi at 22:48|PermalinkComments(0)