わたしの、あくまでの推測ですが
前のblogを書くにあたり
師匠にいくつかの事を叱られました。
一つ目
「"むかしのありき姿を想像しないと
あの町を描く意味がない"
昔の姿
ただ映画館とか芝居小屋があったとか
資料にあったことしか書いていないと
土地がみえてこない
リポートする意味がない」
二つ目
「あそこにお風呂屋さんが唯一残っている。
昭和、いや、大正時代のお風呂屋さんが
煉瓦の煙突と木材作りの建物で、いま唯一残っている
というのが
素晴らしく想像力を掻き立てるところ
直に近所のお年寄りの方にお話を伺わなくてはいけない
勿論銭湯のご主人やおかみさんにも」
それから師匠はこういっていました。
「京都には、いたるところに戦前や大正の名残りがむき出しに残っている。
簡単に明治までさかのぼることができる。
煉瓦の遺跡を年代順にまとめていきマップをつくりたい。
疎水公園にいくまでに煉瓦のトンネルがある。
疎水の橋もあちこち煉瓦作りが残っている。
保津川下りの航路にある橋も
トロッコ列車のくぐるトンネルも
煉瓦つくりである。
大阪の話になるが、
西成の飛田遊廓の裏口が、残っているが煉瓦作りである。
五番町の遊廓はあちこち煉瓦作りだったかもしれない。
吉橋道夫先生の、
なまくら、第七話“どろん”が明治の煉瓦工場で働く少年の物語である。
これを扱わさせていただくには
京都疎水や府内、また、関西全域の煉瓦作りの建造物を記録し映していきたい。
大学や教会、
清水焼の焼き物を焼く釜など
いたるところに煉瓦作りは残る。
京都はその煉瓦の遺跡の宝物」