
《市川神社》




《千石公園》
右京区の古墳に限らず、ミステリーな場所、
不思議な歴史の記憶の断片をおったコースを
ご紹介します。
一般募集は、かけないで
今回は、マップの完成にいつも協力していただいている少数のスタッフの皆さまと
ディープなコースを散策
天空コースや
古墳コースのまわりに、
なにがあるのか?
そんな
生活感ある、日常の断片を見てまわれたら、
面白いと思います。
正規の古墳ツアーではありません。
JR山陰本線円町駅より南へ約800m
佐井通(春日通)と太子通(旧二条通)が交差する“太子通佐井”交差点の南東側に
『壷井』という歴史の深い井戸が大切に
守られています。
奈良時代の高僧、行基がこの地に湧き出る水を見つけ、それを病人に飲ませたところ
病気が治たという、奇跡の霊水として信仰を集めたのが壷井のはじまりでした。
また。この井戸の中から壺に入ったお地蔵さんが出てきたことで、壷井地蔵尊として
祀られる様になったという名前の由来があります。
石塀で囲まれた階段を降りていくと
お地蔵様と、井戸がひっそりとそこにありました。井戸の水は今は有りませんが、どこか神秘的。
傍にある高札を読むと
驚くべき歴史が記されていました
原文
『ようこそ、名水壷井井戸、壷井地蔵へ、往昔、奈良時代の高僧行基僧正(今で言う、社会福祉を行われた方です。)が、当地にて、野原に湧き出る水を見つけられました。
我々の先祖(おやたちは)湧き出る水を井戸としました。旧二条通りは、太秦、お太子さん、丹波道への主要街道で、人、馬などの休憩の場となり、茶所、壷井堂を現在の太秦第八小学校のプールのある場所に建てました。先祖(おやたち)は堂守を置きました。
江戸時代の近畿の国、六十六ケ国をまわり、修行された修行者六十六部坪井清遊師が、当地の壷井堂の堂守となられました。
江戸時代、京の都には、市中引き回しがありました。斬首されるかたは、二つの道程があり、六角獄舎を出発し、一条戻り橋では、最後に小餅を、ここ壷井ノ井戸では経文をあげられました。
私達の知る、壷井堂庵主、故井上孝順尼は、近隣の皆様によると、九十齢をこえる高齢にもかかわらず。最後まで壷井ノ井戸で、ごはんを焚いておられたと聞いております。私達は六十六部坪井清遊師、壷井堂庵主、井上孝順尼、先祖(おやたちは)の意をくみ、今日に至っております。』
昔、平安京では、東西に牢獄が置かれており
西の獄舎は西囚獄(にしのひとや)と呼ばれ
今の円町に獄舎があったそうです。
罪人は、市中引き回しの上、一條戻り橋で小餅を頂き、そして、『壷井ノ井戸』で最期の水を与えられ、処刑場に向かった。
それが、明治維新まで続いていたといいますからその歴史に驚愕してしまいます。
その魂を弔うために
壷井ノ井戸を守る代々の僧がお経を唱えていました。
今でこそ、車が行き交う街の景観に
そんな深い歴史があった事に驚きました。
今でも、街の人の手で大切にされている
『壷井の井戸』と『壷井地蔵尊』
人々の想いが長い年月を経て
土地の浄化をしてきたのだと
思わずにはいられませんでした。