2005年05月30日

ニート(NEET、若年無業者)やひきこもりについてみたび論じてみる。

ニートは労働問題というより経済の問題で社会問題だ、というより人類の歴史の問題だ。という姿勢で私は論じてきたつもりです。他者には分かりにくい書き方だったかもしれないが。分かりすく可視的に論じると、その辺りをどこでも歩いていると、町並みは60年代で時間が止まっているところもあるし、70年代で時間が止まっている場所もあるし、80年代で時間が止まっている場所もあるし、90年代で時間が止まっているような宮台真司さん(やその取り巻きさんたち)のようなお方もいるし、時間が錯綜した空間で私たちは他者に惑わされず考えなければならない。

でも私のように立ち止まる「ひきこもり」もどうかしているのはどうかしているが、やはり人間であるかぎり、生い立ち、教育、思い出からは一生自由であることはできない。記憶の牢獄が人間の思考を捕捉し、より世代を経て純粋にかつ大音量で主張される。全ての人が二番煎じだ。全ての人間の思考は誰かの二番煎じでしかない。だが良い二番煎じと悪い二番煎じがある。他者に良い作用をもたらす二番煎じと悪い作用をもたらす二番煎じだ。その内容はいまは措いといて、話を戻し、二番煎じの話に戻すと、「人」は他者から知恵を継承しその継承した教育的資産をよりツボを押さえた要領の良い解釈をする。例えば、人間をアニメ化したり、人間を萌え化させるような、似顔絵に描いたような特徴をとらえ、特徴を誇張したあざとさを無意識のうちに構造化し構築されてしまう。

一個人の人間の思考とはそんなもんだ。底が浅いし、例えば、私がどうしろこうしろ他者に指図を受けるような謂れは全くない。自虐的自嘲的に主張すれば私なんて何も行動せず、行き倒れてしまってもしょうがないが私のせいではないし、私の認識の甘さではあるが、認識の甘さの歴史を別の視点から全くの目からウロコ的な解釈を施す思考を心掛ける努力をする余地は残されているし、それが希望かもしれない。私個人の歴史も資産だし、人類の歴史も資産だ。

歴史の遺構がそこかしこに残っているし、社会福祉的人間というより、廃墟の思考となっているバカな社会主義的人間ばかりの世の中だが、社会主義的人間が淡々と資本主義社会に組み込まれてもいるし、ニートやひきこもりはその狭間の世界に迷い込んでしまった人たちだ。歴史の遺構からは完全に自由にはなれないし、日本に豊かな歴史が存在しているとは私は思えない。本当に親が資産家もしくは準資産家であったとしても、高度経済成長期やバブル期のうまみの恩恵に与った唯のラッキーさんでしかない。

本当に親が豊かだったら、教育もしっかりしたものが子の世代にスキルとして身についているはずだし、その教育や知識教養が自然とお金を生み出す構造の社会でかつてあったし、今後もあり続けるであろう。本当に親が豊かだったら、コネでもなんでもあり、簡単に就職もできるであろうし。ニートやひきこもりはそれすらない。時代の変化についていけない、60・70・80・90年代のどこか一点で脳みそが停止した流行遅れの思考回路の教育しか受けていない仕事の出来ない両親から才能や機会をスポイルされた、今後もされ続けるであろう社会的弱者で超低所得者層で都市最下層である。

現在の社会では「仕事が出来る人間」は社内のポジションに存在することができるかどうかで、ただの人間の社会的居場所でしかない。会社(組織)全体の仕事量の分担の一部分を管理するというより、そこに会社(組織)としても人材を配置すればいいだけで、人間の存在感が就労である。

追記しておくと、ニートとひきこもりの違いは、ただ外向的な性格か、内向的な性格かの違い。

つい昨日まで、大航海時代&植民地主義時代で戦後で東西冷戦で西アジアで北朝鮮だったのに、つい数秒前まで大航海時代&植民地主義時代だったのに、いきなり資本主義の夕焼けの時刻に差し掛かる考え方は、一時的な景気のリセッションの樹液に群がり、かこつけた落としどころを見誤った金持ちケンカせず的かつ抑圧者としての芸に長けた内弁慶コメンテーターでビジネスチャンス脳だ。
hikki_woods at 12:54│この記事のURL