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「カリブ海にナマコを見る」は、エリック・サティーの傑作の一つです。「ぶよぶよした犬のための真の前奏曲」の方が好きな人達も多いと思いますが、ぼくはどちらかというと「カリブ海にナマコを見る」や「スポーツと気ばらし」の方が好きです。

サティーについては「グノシェンヌ」派と「ジムノペディー」派があるように思いますが、ぼくは断然「ジムノペディー」派なので、ご理解いただけることと思います。

フランシス・プーランクにおいても、クラリネットソナタ派とフルートソナタ派に別れますので、サティー以降のフランス六人組の作品においては、一つ一つの作品があまりにも明確な特徴を持っているため、どうしてもこういう風な好みによる別れ方をしてしまうのは仕方ありませんね。

ただし、あのたくさんのミヨーの弦楽四重奏曲の中でどれがいいか、という議論はあまりなされないようですが、いずれもどんぐりの背比べなので、フォーレなんかの室内楽のどれが好きかという議論ほどは意味がないようですね(笑)。

こういうところから、フォーレやドビュッシーの時期とサティー以降の時期においては、フランス近代音楽も大変な様相の変化を遂げていることがわかりますが、この変化の最大の原因は、二度の世界大戦による断層だとぼくは思っています。フランス近代音楽を語るにあたって、二度の世界大戦のことは絶対に避けられない大事件だと思っています。

結論から言うと、絶対に戦争をやってはいけないのです。

二度の世界大戦で、ぼくの大好きなフランス近代音楽の時代はズタズタにされてしまいました。

また、現在75歳過ぎの昭和ヒトケタの戦中派のぼくの両親を見ていると、価値観の形成される若い時代に敗戦になり180度価値観が逆転し、戦争で廃墟となって食べるものにも不自由な状況から立ち上がるにあたっては、お金以外に頼るものがなかったのですから、拝金主義に堕落し、クラシック音楽芸術でさえも金銭価値でしか測定出来ずに生きるしかなかったと思います。が、今でも、GHQやマッカーサやチョコレートが有難かったという記憶は消せないけれども、一方で、中国や朝鮮の人達を差別することも心の奥から消せない状況というのは、想像を絶する気の毒なことです。

いつだったか、大学の頃、高田馬場の近所にあったクラシック喫茶のノートに、戦中派の人がベートーヴェンの第九を聴くことを止められないと書いている文章に出会ったことがありました。彼によると、ベートーヴェンの第九を聴くとお腹が一杯になるけれども、ドビュッシーの牧神の午後ではお腹が満たされない、とのことでした。こういう文章に出会うと可哀想で、音楽の好み以前に、ぼくは絶対に反論出来ませんでしたが、これもまた、不幸な出来事です。

掲載写真は、2000年9月13日、岡山後楽園築庭300年祭コンサートで、平野啓子さんの朗読とBGMとして作った自作ピアノ曲のデュオのライブです。

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