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私のホームページ「K.OKADAワールド」

は、四国高松在住の私、作曲家、兼、ピアニストの岡田克彦の世界です。ここの併設ブログは、音楽、四国の温泉と、香川県のさぬきうどん、四国のグルメ、景勝地、温泉等、
それらに加えて、私の母・岡田直子が2006年9月19日に他界したことから痛感した、人間の無常観に基づく社会観察や人生観、ウェブの限界等を中心に書いてゆくことにしています。

尊敬する人

丸山製麺所の朝ごはん・・・・・めでたい朝はうどんですね(笑)。5

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昨夜、私の尊敬する衆議院議員で民主党の小川淳也君が、香川一区の小選挙区一位で当選し、香川第二区で頑張っていた、民主党の玉木雄一郎君も、小選挙区一位で初当選したので、とても気分のいい朝でした。



何せ、めでたい朝でしたので、近所の丸山製麺所へ朝6時半に朝ごはんを食べに行きました。小川淳也君も、うどん大好き人間なのですよ。



小川淳也君にお祝いのメールと携帯電話でのメッセージを入れていたところ、早速、今日のお昼頃に、私の携帯に電話がありました。



小川淳也君が、香川一区の小選挙区一位で当選したので、それで香川一区の民意は決まったのですけど、呆れたことに、自民党の平井卓也が、比例で当選してしまったので、マスコミの社長が政治家をやること自体がいけないことだと私は常々思っていたので、そのあたりについて、小川君とお話しました。



私は、小川淳也君の当選以上に、平井卓也の落選を願っていたので、ちょっと残念でしたけど、ま、今回の政権交代で、平井卓也の後援会はガタガタであろうと思いますので、いずれ、落選するだろうと感じています。



もともと、高松市は、社会党の成田さんの生誕地なので、保守的な土地柄ではないのですが、終戦後のドサクサ時に、地方新聞の四国新聞社と地方放送局の西日本放送局のオーナーとしての成り上がった、平井太郎氏(平井卓也のお祖父さん)が、参議院議員になって以来、平井一族が、自民党県連の会長などを兼ねて、選挙の際には、マスコミを操作して好き放題をやってきた影響があります。



困ったものですが、このあたりの、戦中派の皆様が全部お亡くなりになれば、高松は、とても、いい場所になるだろうと思っています。



ま、高松第一高校にしか進学出来なかった、頭脳明晰な(笑)、平井卓也のような阿呆はどーでもいいのです。「丸山製麺所」の朝のうどんは、やっぱり最高に美味しかったのでした。



掲載写真は、今朝いただいた、「丸山製麺所」の『冷たいかけうどん』(160円)に、アナゴ一本の天麩羅(100円)を載せたもの、です。




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民主党の小川淳也君やりましたね。私は最高にハッピーです。5

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私が尊敬する、香川県立高松高校の後輩、38歳の民主党の小川淳也君が、小選挙区において、圧倒的な強さで、ダントツ1位当選しました。



アーティストの私は、お金のような下界の産物の煩悩で選挙に臨むようなことは絶対にないので、お金のバラマキがどーのこーのなんて、どーでもいいのです。候補者の感受性の豊かさで、私は、全てを決定します。その点では、今回の選挙は、小川淳也君と民主党に決めていたので、さっさと、期日前投票で、私自身の一票は、投票しました。前回の、小泉が企んで圧勝した自民党が、どこまで惨敗するか、テレビで高みの見物をしたいと思っていましたので、そうしたのです。



前回の衆議院選挙で、小泉純一郎 が竹中平蔵とグルになって行ったこと、つまり、多民族国家のアメリカの物真似に基づいて、「東京は勝ち組、全ての地方都市は負け組」「正社員は勝ち組、派遣社員は負け組」「負け組は死ねばよい」という、実に、拝金主義に堕落した政策や、自分に反対する全ての議員に刺客候補を立てて、殺人や自殺を激増させるような、「郵政民営化」というオブラートに包んで、人の命を軽視した政策を行ったことは、絶対に許せなかったので、常々、このようなことをやってしまった自由民主党には、必ずバチがあたるだろうと思っていました。



が、まさしく、そのとおりになりましたので、因果応報であると、プッチーニのアリア「誰も寝てはならぬ」のような限りなく下界に近い駄作とは、全く異次元の神に近い領域にある、J.S.バッハの「フーガの技法」のような上界から、私は、軽蔑のまなざしで(笑)、見下ろしているところです。



私の人間観察は、全て、自分の感性で、相手の感受性の豊かさをチェックするという、動物的な勘で行っています。だって、ステージの上で自作自演をやって音楽という媒体を通して、聴衆の喜怒哀楽に訴えるということを、幼少のみぎりからやって来たのですから、言語情報に基づくだけの、マニフェストよりも、相手の感受性や切実さのような、私の感覚に訴えてくるものだけを、全ての判断基準にしていました。



ですから、かつて、私の住む高松市西宝町から出馬した人達に、感受性の豊かな人は皆無でしたので、私は、全く選挙になど行ったことがありませんでした。



が、小川淳也君は違っていました。私が逝去した私の母の追悼のために「記憶の底の栗林公園 OP.111」を作曲して、栗林公園で初演した時に、聴きにきてくださった、小川淳也君の感想が、非常に、霊感溢れるものだったので、私は、この人だ、と確信していました。



そう言えば、2000年9月13日に、石井岡山県知事の委嘱で岡山後楽園で、江守徹さんや平野啓子さんの朗読と共演した時には、自民党の平井卓也さんから、祝電などをいただきましたが、その文章は、全く、芸術性のないものでしたので、私は、平井卓也さんの選挙は、無視していました。



もちろん、香川県高松市のやり方で、表立って喧嘩なんかはしませんよ(笑)。時間の無駄ですからね。



しかし、小川淳也君のような偉人は、絶対に偉人なのです。生まれた時から決まっているのです。私は、自分の才能の音楽的直感でそれを判断して、応援するのです。



まあ、このあたりは、下界の凡人には理解できないでしょうから、説明しても始まりませんので、一切、説明なんかはしませんが、小川淳也君は、総理大臣になるべき人物です。



私は、彼のような素晴らしい後輩を持てたことを、誇りに思っています。



掲載写真は、私の尊敬する、小川淳也君、です。






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北島康介氏は素晴らしいですね。5

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2008年の夏、一番の感動を下さった、北島康介氏。



北京オリンピック100メートル平泳ぎ決勝で、世界記録を樹立しての金メダル獲得直後のインタビューで、しばらくタオルで涙を拭って泣き声での回答・・・・・



「すみません・・・・・。」そして横を向いて、
「もう何も言えねぇ。」との潔い一言。



そしてさらに、ぼそっと言った一言。



「応援してくださる方がたくさんいたので、本当に、記録も出せて、金メダルもとれてよかったです。」



このシーンに、彼のアテネから北京までの努力の道程の全てが込められていました。



そして、チャレンジの結果がどうなるかという不安、期待を裏切らないように努力した中で、ともすれば、気弱になった時の彼の気持ちも如実に感じられました。



テレビの前で私は深く深く感動し、涙がこみ上げました。



彼には、ドビュッシーの作曲した「小組曲」が似合います。



この作品は、1888年から1889年にかけてピアノ連弾曲として作曲され、1889年、ドビュッシー27歳の時に、ドビュッシー自身により初演されました。従って、ドビュッシーが作曲を開始した年齢は、現在の北島康介様と同じ26歳です。



北島康介様もクロード・ドビュッシーも天才です。



「天才とは努力する才」です。



創造作品を聴いたり、プレイ、パフォーマンスを見て下さる皆様への「心づくし」をいつも忘れずに努力する二人の天才に乾杯です!



北島康介様、本当に本当に有難うございました!!



深く感動しました。そして感謝しています!!!





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『作曲活動についての、2008年年初にあたっての反省』5

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去年2007年は、新作「記憶の底の栗林公園 OP.111」を作曲、初演しましたので、母の没後、SNSの皆様の励ましによって、それなりに頑張りましたので、悔いはないです。



が、やはり、2008年の年初にあたり、気持ちを新たに、数年前からの母の介護のために中断していた自作自演活動の再開の前に、ぼくの作曲活動の原点に立ち返って、反省すべき点は反省しないといけないと思って、これを書くことにしました。



ですから、以下書くことは、半分は、ぼく自身に言い聞かせたい、という内容になっています。



1982年の25歳当時、本物の作曲家はすごいことを、ぼくは東京で目撃しました。



ぼくの作曲の恩師の座光寺公明さんの、「一緒に作曲しようぜ。」というのが、彼の作曲のレッスンへの誘い文言でした。



場所は、新宿東口の新宿中村屋の中地下の喫茶『マシェーズ』でした。



2回目に会った時、ぼくより一つ年下の彼は、ものすごく大きな、オーケストレーションのできるスコアを持って来ていました。



そして、デイトの待ち合わせ客とBGMでガヤガヤとうるさい時間帯の『マシェーズ』で、コーヒーを飲みながら5時間ばかりで、ぼくの目の前で2台のピアノのためのピアノ協奏曲を、オーケストラパートも全部書いてしまったのです。



ぼくは、向かいの席で、5時間かけて、でも、一生懸命、頭の中で絶対音を響かせて、フルートソナタの一番の一楽章の途中まで書きました。でも、精神力はそこで尽きました。



書けるところまで書いて、ぼくはスコアを彼に見せました。



「よくがんばりましたね。ピアノのないところで君が出来るかどうか実は不安だったんだけど、たぶんできると、これまで君の書いたスコアを見て、ぼくは出来ると賭けたんだよ。ここまで書けたらOK。思ったとおり、あなたの絶対音感は間違いないから、楽器に頼らないでいい作曲が出来ますよ。ところで、これ、ソナタですよね。うーーーん、ちょっとぼくの感想だけど、スクリャービンの3番のソナタ、また、機会があれば、アナリーゼしてみたらどうかな。それと、サンカンのフルートソナタは、参考になると思いますよ。」



実に的確なアドバイスでした。



そして、その翌週が、座光寺公明さんの、「2台のためのピアノ協奏曲」の初演でした。彼が指揮をしましたが、素晴らしい作品でした。



25歳当時のぼくは唖然とし、完全に彼に参りました。



もちろん、そんなに出来ない作曲家もいましたけど、出来る人は出来るのです。



そういう出会いがあったので、ぼくは東京にいてよかったと思ったものです。高松にはこういう作曲家は生息していないと思います。



それだけに、高松や岡山での自作自演活動にあたっては、常に、当時ぼくが受け取った衝撃を大切にしてゆきたいと思っています。



掲載写真は、29歳で急死した、ぼくのかけがえのない、作曲の恩師、座光寺公明さんの、元気だった頃の写真です。現在、ロンドンに住んで、彫刻家として活躍されている、座光寺公明さんの奥様の座光寺悦子様から送ってもらったものです。



まだ、結婚して半年だった頃、座光寺公明さんは、急性心不全で急死しました。



ぼくの執筆した音楽エッセイ中、一番悲しい内容の「マシェーズから、座光寺君に宛てて」(下記をクリックすればご覧いただけます。)を彼女は、彼女の友人がぼくのホームページで見たとのことで、知らされて、ロンドンで読まれました。



http://kokada.web.fc2.com/essay12.html



そして、ぼくにお手紙を下さいました。その中には、下記のように、書かれていました。



「岡田さんのエッセイを読んでゆくうちに、忘れないといけない、忘れようと努力した思い出がよみがえってきて、最後には、私の頬に涙が流れました。」



ぼくは、これを高松で読んで、泣いてしまいました。ご結婚されて半年目のご主人の急死だったのです。奥様の受け取った衝撃はいかばかりかと思いました。『忘れようと努力』するしかなかったと思いました。



そして、ぼくの母が亡くなって100ヶ日が過ぎた、2007年の年初、奥様の座光寺悦子様は日本に帰国した際、高松のぼくに面会するため、高松にいらして下さり、高松の全日空ホテルに宿泊してました。ぼくは面会に行き、高松の瀬戸内の小魚の美味しいお店にご案内し、座光寺公明さんの思い出話をし、以来、ロンドンから毎月のようにお便りや、彼の残した楽譜等をご送付いただいています。



彼女がぼくに言った言葉の中で、今でも、一番記憶に残っている言葉は、次の一言でした。



「追悼演奏会等もありました。でも、亡くなってしまったら、それまで懇意にしていた先生方の一部が、亡き主人の作品を演奏することを避けるようになりました。楽屋で私は、死んでしまった人の無力を痛感しました。」



彼には生きていてい欲しかった。ぼくなんか死んでもどうってことないのだ、って思いました。



でも、ぼくはまだ生きています。生きて作曲している以上、恩師の座光寺公明氏の弟子として恥じない作品を書いてゆきたいと思っています。それは、ぼくの義務なのです。




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『薄そうで厚いのは面の皮、厚そうで薄いのは人情』5

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仕事で出会い、音楽の友人になり、この前の栗林公園庭園コンサートにもお越しくださった四国電力の原子力部長は、会社の自分のテーブルの上に、



「薄そうで厚いのは面の皮、厚そうで薄いのは人情」



という格言を貼っていて、毎日、自分を見つめ直して生きているそうです。



四国電力の従業員数は現在5000人を超えていて、グループ会社も含めると2万人近い人達がいらっしゃいますので、かつてぼくが東京で勤務していた住友グループのNECと同じくらいの従業員数を抱える規模になっているようですので、いろんな人達がいらっしゃいます。14年前の四国高松へのUターン以来、いろんな局面で四国電力の皆様とは触れ合う機会が多いのですが、全般に、理系の技術者の純粋な方が多いので、理系の芸術である音楽をやっているぼくは、その大半の人達と仲良くなれます。



また、四国四県の人達を従業員に抱えていらっしゃいますので、本社のある高松にいながらにして、四国中のいろんな地域の人達に出会えますので、法人営業の仕事でお邪魔するお取引先としては、四国電力の本社は、毎回、新たな発見に出会える貴重なスポットになっています。



さて、ぼくの生まれ育った高松市は、情無いことですが、この格言が指摘注意しているような、『面の皮が厚く薄情な人達』の割合の高い地域です。香川県でも、坂出市から西の西讃地区ならばこんなことはありませんし、徳島県、高知県、愛媛県南予地方は非常に人情の厚い地区です。



四国と一口に言っても、江戸時代からの歴史的な違いによって、高松と高知は対照的な土地柄をなしています。



また、愛媛県の東予地区は、大体からして、住友グループの発祥地ですから、非常にお金に汚いペンペン草も生えないようなところですし、松山市を中心にした中予地区は、松平藩だったことから、高松市とかなり近いのですが、道後温泉>塩江冷泉、及び、正岡子規>菊池寛、という2つの相関関係から明らかなように、民度は松山市がはるかに上になっています。



その端的な証拠として、最近起こったこととして挙げられるのは、松山市で一番格式の高い老舗旅館の宮内庁御用達の道後の「ふなや旅館」では絶対に起こりえないことなのですが、高松市で一番格式の高い老舗旅館の宮内庁御用達の「川六」は、な、な、なんと、かの有名な熊本県の「木村建設」に「ビジネスホテルエルステージ川六新館」の建設をお値段が安いというだけの理由で頼んでいたそうで、よりによってあんな土建屋に頼まなくてもいいのに、頼んでいることなのです。本当に高松市はろくな人材がいないことを象徴していますね。・・・・・等々、いろんなことを総合的に考えていると、何で高松市のような、四国で最もひどくレヴェルの低い人間が多く住んでいるところが四国の中心になっているのかといつも考えさせられるのです。



さて、この格言を毎日見て毎日謙虚に生きていらっしゃる、四国電力の原子力部長のような素晴らしい方は、やはり思ったとおり、高松出身ではなく、徳島のご出身でした。



で、ぼくも、「高松って、どうしようもなくひどいところでしょう。」



と彼に投げかけたところ、全く同感だとのご回答をいただきました。



そして、いろいろとお話しているうちに、海が北側にある街は、どうもこの格言が指摘注意しているような、『面の皮が厚く薄情な人達』の割合の多い街なんだろうな、という結論に到達出来ましたので、お互い本当に嬉しくなってしまって、以来、お食事等にご一緒しています。



また、嬉しいことに、彼は、コルトーの演奏したショパンの「雨だれの前奏曲」が大好きだそうで、



「今度は、岡田さんの『雨だれ』を聴きたい。」



と言われましたので、



「とんでもないです。コルトーほどミスタッチはしないけど、コルトーほどうまく弾けないですよ。」



と、笑いながらお答えしました。



ちなみに、高松市には「雨だれの前奏曲」は似合いません。人の話によると、雨漏れする建物が多いそうですので「雨漏れの前奏曲」か、あるいはちょっと雨が集中して降ったり台風が来ると大水になりますので「高潮の前奏曲」が似合っているのでしょうけど、誰もこんな曲作曲したりしないでしょうからね(笑)。それに、前奏曲というからには、続きがないといけないのですが、薄情な高松人は「金の切れ目が縁の切れ目」で、何も続かないので、前奏も何もあったものではないのですよ(爆)。「金の切れ目が縁の切れ目」な人に、J.S.バッハの「マタイ受難曲」が300年以上に渡って世界中の人達から切れていない理由なんてわかんないでしょうから、わからないまま、あの世に行った方が幸せだと思っています(笑)。 でも、ぼくは「雨だれの前奏曲」が好きなので、『逸(すぐる)珈琲店』では、よく弾いています。



掲載写真は、「栗林公園」に次ぐ、高松市内の観光名所の一つの、五色台、です。




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『マルグリット・ロン』5

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今回は、ぼくの一番尊敬するアーティスト、マルグリット・ロン女史のことを書きます。



マルグリット・ロンといえば、随分長生きをし、長くパリ音楽院の名誉教授として権力の座に君臨した人として有名ですから、ともすれば誤解を受けることも多いようですが、彼女の場合は、サン=サーンスのように政治力でもって権力を手にした人ではなく、実力と自然な自己表現でもってこうした地位についた人だろうと、ぼくは、ほぼ確信しています。その意味では、フォーレがパリ音楽院の学長になって以来の古きよき伝統の継承者として、最後の人でした。



フォーレがパリ音楽院の学長に就いた頃、この音大には、日本のどこかの音大にもよくあるような、サン=サーンス一派による金権腐敗がはびこっていたのですが、こうした腐敗しきった教授たちをフォーレは次々と追放し、学内の清粛に努める一方、それまで、サン=サーンスから「私の目の黒いうちは、このような無政府主義者をパリ音楽院になど立ち入らせない。」とまで言われていたドビュッシーを教授として迎えるなど、画期的な方針を打ち出し、パリ音楽院はフォーレの学長就任とともに生き生きとよみがえったようです。フォーレがあの仲の悪かったドビュッシー(最も、この原因はドビュッシーが自ら作ったものでした・・・・・つまり、ドビュッシーがあの所構わぬ毒舌でもってフォーレをけなしたのが事の始まりではあったのですが)を教授に招いたというその一件だけで、音楽を純粋に音楽だけで評価する、というフォーレの公平な立場をぼく達は理解できるのですが、この他にも、国民音楽協会へのドビュッシーのデビュー(つまり、「牧神の午後への前奏曲」の初演)にあたっても、サン=サーンスの反対をフォーレはフランクと協力して辛抱強く説得し、これを実現させているのです。おそらく、フランス近代音楽の全盛時代の基盤には、こうしたフォーレの始めたすばらしい伝統が脈々と流れていて、ラヴェル始めその後の有能な数々のアーティストの出現も全てこの伝統に支えられていたものと言えるでしょう。まさに、いい音楽のためにはいい環境が必要なのだ、ということを改めて痛感させられる史実ではあります。ともあれ、こうしてパリ音楽院の管楽器担当教授に就任したドビュッシーは、弦楽器を担当していたフォーレ等と同様、試験曲を書くことになるのですが、あの、クラリネットとピアノのために書かれたデュオの最高傑作とも言える「プレミエラプソディー」なども、「海」を書き始めたこの当時のドビュッシーによって、期末試験のために書かれたものであることは、皆様もよくご存知でしょう。ただの、試験だけのために、先生のフォーレやドビュッシーが、弦、管、ピアノの傑作を書いてくれるなんて、当時のパリ音楽院の生徒達は実にうらやましいですよね。今日の音大では考えられません。



ロンはこのうらやましい音大生の一人として、最初はサン=サーンスの、後にフォーレの教室に所属し、ラヴェルとは同級生であり、そのうえ、カフェーを通してドビュッシーやピカソとも親しいという、想像も出来ないような実に素晴らしい環境でピアニストとしての音楽活動をスタートしたのですが、レコードはあまり残しておらず、どちらかというと、ライブ志向のピアニストでした。が、その残された数少ないレコードの中でも、ジャック・ティボーのヴァイオリン、モーリス・ビューのヴィオラ、ピエール=フルニエのチェロと共に、第二次世界大戦前夜に収録されたフォーレのピアノ四重奏No.2、及び、フォーレのアンプロンプチューNo.5は、他の誰も追々出来ないような名演であり、彼女がコンサートホールで、どんな即興的な名演をくり広げていたか想像に難くない、生き生きとした演奏です。彼女にとっては、師のフォーレの作品をやることこそがライフワークだったようです。が、中でも特に、ピアノ四重奏No.2は、1965年の彼女の最後の演奏会でもパスキエ三重奏団とやった曲で、非常に気に入った曲だったようです。この最後の演奏会をマントンでやった時も、90歳近い彼女は、舞台を彼女の大好きだったバラの花でいっぱいに飾り、芳香いっぱいの夢のようなステージを演出したそうで、最後までエンターテイナーに徹した彼女の生き様が伝わってくる話です。



ロンは、ピアニストとしてだけでなく、パリ音楽院の指導者として、文筆家として、フランス国民として、多くの功績を残しています。主なものだけでも下記3つがあります。



(A)ロン・ティボー国際音楽コンクールの創設



(B)ドイツでの、ベートーヴェンのピアノコンチェルト連続演奏会



(C)ドビュッシー、フォーレ、ラヴェルに関する執筆



まず、ロン・ティボー国際音楽コンクールは、その第1回目のピアノ部門の第1位を、ロンが自分の愛弟子のサンソン・フランソワに与えるために始めたものだったようです。ちょうど時代がアカデミズムに傾きつつあり、ピアニストが世に出るためにはコンクールの洗礼を受けなくてはならないような時代が始まろうとしていました。これに先立ち、自分の弟子で大変に才能がありながら、あまりに個性的でコンクール受けしないフランソワを世に出したいというロンの一念でこのコンクールは始められたようで、その証拠に、今だにこのコンクールのピアノ部門の一次予選では、ショパンの葬送ソナタの終楽章のスケールが必修になっている。これは、フランソワが最も得意としていた曲だからなのですが、この伝統が今だに、このコンクールに残っているのは、いい意味の伝統として、おもしろいことであります。そして、それゆえに、フランソワがこのコンクールの第1回目に第1位になったということは、他のどんなコンクールの第1回目の第1位よりも価値のあることなのです。



次に、ベートーヴェンのピアノコンチェルト連続演奏会は、第二次世界大戦が終わった直後、もう二度と戦争をしてはいけない、というロンの一念で、彼女がベルリンまで一人で何回か出かけて行って、ついに全部やってしまった、というほとんど信じ難い恐ろしい企画のことです。周囲は猛反対したそうですが、ロンは自発的に、平和を祈念する使命感に燃えてやったそうで(ぼくだって、ロンの演奏するベートーヴェンなんて聴きたいと思いませんけど)、その正義感とバイタリティーには頭が下がります。が、結果的には、ロンが個人的に費用を負担してやったこのベートーヴェンの連続演奏会は、ドイツ、フランス両国の文化面での大きな親善の役割を果たすことになったのです。



そして、演奏活動を終えた晩年、ロンは自分の親しかった三人のアーティスト(ドビュッシー、フォーレ、ラヴェル)について、実話を交えた三つの大きな執筆を行います。この三部作は、おそらく、彼女の残した最も偉大な功績でしょう。(うち、ドビュッシーとラヴェルは既に音楽の友社から和訳が出ています。)



裏話満載の面白い内容なので、是非、ご一読をお勧めしますが、ぼくが読んで、一番感動したのは、「ラヴェル・・・・・回想のピアノ」でした。ラヴェルが「両手のためのピアノ協奏曲」を献呈したのはクラスメイトのロンでしたし、彼女が初演しているのですが、ロンはその後にラヴェルの書いた「左手のためのピアノ協奏曲」も気に入っていたのですが、こんなことを書いているのです。




「ラヴェルは、この『左手のためのピアノ協奏曲』を委嘱したピアニストが楽譜の指示を無視して音を省いて弾いたので怒っていました。私は、この『左手のためのピアノ協奏曲』が大好きで、ピアニストとしてやってきた以上、是非とも弾きたい曲でした。が、手が小さいので弾けませんでした。でも、私の愛弟子のファブリエが、初めて楽譜通りに正しい形でボストンでクーセヴィッキーと初演してくれ・・・・・ただし、これは、ラヴェルの死には間に合いませんでしたが、・・・・・満足しています。」



音大に行っている若い方にお聞きしたいのですが、皆様の周囲のピアノ科の教授に「私は手が小さいのでこの曲、弾けませんでした。」などと書いて、その文献を世界中に向けて出版する勇気のある人、いるでしょうか? たぶん、日本には皆無でしょう。



ロンのように、自分の「メカニック」の限界まで全てを受容する勇気を持って、その中でベストを尽くすこと!これこそが、全ての演奏家に必要なことじゃないでしょうか!また、そうでないと、個性は順調に育たないと思うのです。が、昨今の音楽界においては、コンクール体制が確立されてしまった弊害なのでしょうか。自分の能力を最大限生かせる曲を選ぶよりも、ただ、難しい、と言われている曲を征服することにのみ、余念のない人が多い。だから、感心する演奏はたまにあっても、感動する演奏はなくなっていっているみたいです。



現在の演奏家達に、一番、欠落しているのは、勇気!



自分の有能さと無能さの両方を悟る勇気!



周囲の人達の有能さと無能さをも、自分に対するのと同じ敬意を持って見てあげる勇気! です。



これらの勇気の欠落している音楽家達の間においては、陰口以外の伝達方法がなくなってゆくのでしょうけど、この、ロンが描いているフランス近代音楽全盛時代のような、芸術の栄えた時期というものは、現在のような、上っ面だけの平和を保っているだけの世界とはおよそ180度逆の世界でした。ラヴェルなどはそれに輪をかけて、ある演奏家に対する酷評は直接本人に、絶賛は周囲の人達にささやいたという、大変な人格者だったようです。



1966年、マルグリット・ロンは91歳の生涯を閉じました。が、最後の最後まで、演奏や執筆に若々しいエネルギーを燃やし尽くした、アーティストの偉大な生き様を、ぼくは忘れずにいたいです!




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『クロード・ドビュッシー』・・・・・天才とは一生を通して一つのことに集中できるということ5

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クロード・ドビュッシー

ぼくの一番好きな作曲家です。作曲家として一番尊敬しています。フォーレよりもサティーよりもショパンよりも、ブラームスの晩年やスクリャービンよりも、やはりドビュッシーです。そして、偉大なバッハやモーツァルトよりも、やはり時代の近い身近なドビュッシーが好きです。例えば、フォーレなら、ぼくは中期から晩年が好きだ、というような好みがどの作曲家にもあるのですが、ドビュッシーの場合は、どの時期も(もちろんそれぞれ音楽的には異なっているけれども)最初から最後まで、すべての曲にドビュッシーらしさ、という、音楽とかいうジャンル以前の、物を創造する人間としての一本の筋が通っているため、「またやってるな!」というものが必ず感じられ、その強烈な彼自身のセオリーにいつも心を打たれるからです。初期の作品にも必ずどこか、後期のドビュッシーの影が見えかくれしていて、こういったすべての作品に感じられる共通性は、ちょうどモーツァルトの場合と同様、天才作曲家特有のものなんだ、と思います。

さて、文部省の音楽教育においては、音楽史上、ドビュッシーなどのフランス近代音楽全般を「印象派」という言葉で一くくりにしてとらえる、という非常な過ちを犯しているところを、まず、ご説明しておかなくてはなりません。もともと「印象派」というものは美術の世界の出来事です。作者が見たものをそれらしく表現するわけですから、風景や自然などが先にあって、それを模倣するというのが「印象派」です。しかし、ドビュッシーは「印象派」ではなく、その逆の、象徴主義者(サンボリスト)であったということをまず、最初にはっきりとらえておかなくては、様々な誤解のもとになります。つまり、風景や情景を音に投影したのではなく、音楽でもって何らかの風景のようなものを象徴しようとしたのです。だから、「印象派」とは全く逆で、音楽が先にある、というのが象徴主義であり、この点は、ドビュッシーに関しては終始一貫しています。フランス近代音楽の時代で言えば、「印象派」的な作品というのは、第一次世界大戦前のラヴェルの「夜のガスパール」「水の戯れ」等の一部の作品の特徴に過ぎません。

このあたりの端的な例として、ドビュッシーの「映像第一集」の『水面に映る光と影』と、ラヴェルの『水の戯れ』を比較してみれば明らかです。ラヴェルの『水の戯れ』は装飾音で、水らしく装っていますので、目の前に水しぶきが感じられますが、メロディーそのものは、ちょっとおしゃれなテーマで水とは全く関係ありません。が、ドビュッシーの「映像第一集」の『水面に映る光と影』は、テーマの形そのものが、水面に広がる水の輪なのです。第一、『水面に映る光と影』あるいは『水の反映』という題名は、間違えた和訳でして、直訳すれば『水の中の影』です。つまり、水の状態、程度の意味の曲です。そして、ドビュッシーの「プレリュード集」の中の傑作の一つ『雪の上の足跡』などにいたっては、弾く人、聴く人全員に、雪の積もった雪原についている足跡だけではなく、和声進行で、かなり低い気温までが伝わります。

絵で気温が表現できるでしょうか? 音の持つ強さをドビュシーは存分に発揮して作曲をしています。音楽で気温が表現できるのは、音楽が時間芸術だからです。どんな一瞬の響きであってもそれが響き終わるまでに時間は経過しています。ですから、瞬間芸術で視覚的なものだけで成り立っている美術においてしか、「印象派」というものはあり得ないのです。 …例えば「ロマン派」のようなイデオロギーならば美術と音楽を横断出来ますが…。

「天才とは努力する才である。」という格言。まさにこれはドビュッシーのことを言っているものです。この格言は、凡人でも努力すれば天才になれる、という意味ではありません。天才は凡人と異なったところに努力を集中するから天才たりうるのだ、という意味です。彼の作品はどれもこれもへんなところに凝っている。ふつうの作曲家、例えば同時期のフォーレやラヴェルなら、さっと書きとばしてしまうような、ちょっとした和音の響きにこだわってみたり、あるいは、ふつうの作曲家なら下らないモチーフだ、ととりあげもせずに捨ててしまうような、ひねくれたモチーフを後生大事にとりあげている。こうしたひねくれたモチーフを、半分は彼の変わった人格や、ニヒリスティックなブラックユーモアのセンスでもってとりあげるのだろうけど、しかし、その取り上げ方は大まじめなのです。こういうのに出くわすたび、ぼくは開いた口が塞がらず、あっけにとられ、「いったい何なんだ、この男は。」と怒りたくなるけど、ついつい許してしまう。たぶんぼくが作曲でモチーフを選ぶ時にも同じような一種のおもしろがった誇大妄想にかられることがあるためなんでしょうけど。……そして全曲聴いてゆくと、そのひねくれたどーしようもない音列のモチーフが見事に展開され、ドラマチックに変化してゆく。そしてドビュッシー一流の構成の中においては、これ以外のモチーフだと曲が崩れてしまうほど、サマになっているのです。 ……まいってしまう。本当に天才だな、この思いつきは。どうしようもないとあきれはててしまうのです。

このひねくれたモチーフや、それから派生するテーマは、彼の初期から晩年まで一貫していて、たくさんありすぎて枚挙にいとまがありません。


ぼくの尊敬するクロード・ドビュッシーの生涯は次のグルダの言葉どおりでした。


『天才とは一生を通して一つのことに集中できるということ』

……フリードリヒ・グルダ……



そして、ぼくの大好きな「若き日のドビュッシー」の言ってた、生意気で素敵なメッセージから、


『ベートーヴェンハンマークラヴィアソナタ:ピアノのために最も悪い作品』

『昨日の不協和音は今日の協和音!』

『音楽はうその中でも最も美しいうそです。』

……クロード・ドビュッシー……





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昔の雑記帳から(3)5

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ストイックな植田さん


会社の2年先輩の松山出身の植田さんは、少し前まで松山支店にいたが、今、名古屋支店にいる。ぼくの2歳年上のラグビー部出身の指導者の先輩の同期入社だ。

「俺の同期入社に、お前と同じくらい変わった奴がいるんだ。会ってみろ。」と先輩から紹介され、昨日、高松で会って、一緒に飲んできた。

植田さんは、学生時代は演劇部にいたそうで、とても背の高いスッキリした人だった。

口癖は「男はもっとストイックでなきゃだめだ。」なんだけど、会話中にこれが何回も出てくるので可笑しくて参った。

だけど、ぼくが一番嬉しかったのは、彼が詩が大好きなことで、特に、響きの美しい詩や和歌についていっぱいしゃべってくれたことだった。

その中では、石川啄木の

『かの旅の 夜汽車の窓に おもひたる 我がゆくすゑの かなしかりしかな』

が特に美しいとぼくは感じたので、来年の2月に松山で再会するまでに曲をつけようと思っている。

ただ、作曲行為そのものはストイックなんだけど、出来た結果の音楽作品がストイックになるかどうかはわからない。けれども、この和歌は極めてストイックだからOKだと感じている。

(1980.12.8. 23歳)


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完全燃焼・・・・・デイブ・グルージンのアルバムを聴きながら


久しぶりにグルージンを聴いた。「プレイエラ」の最初の和音、「愛すれども心寂しく」のピアノアレンジ等の、ジャズピアニスト・グルージンならではの透明な響きを耳にすると、このアルバムを買った頃のこと、貸ピアノ屋さんを探し回っているうちにみつけた南阿佐ヶ谷のヤマハのピアノがとても安くて弾きやすかったので、青梅街道沿いの新高円寺から南阿佐ヶ谷のあたりをうろついていた大学生の頃を思い出してしまう。

あの頃、ぼくは少なくとも、ピアノを演奏することに関して完全燃焼していて熱かった。

いつもそうだが、熱かった日々のことを思い起こすたびに、まだ、完全に燃焼しきっていない、中途半端な自分をなんとかしなくては、と思う。

昨日、4歳年上の先輩の結婚式の後、先輩の同期入社の松山出身の東京の西村さんと二人で飲みに行った。二人きりで話したいことがあると言われたので、何だろうと思ってついていったが、彼は、完全燃焼できていない今の自分のことをぼくに話したかったのだった。先輩から、ぼくがただごとでないくらい音楽に燃えているとの噂を聞いたそうで、どうしても二人で話したかったとのことだった。

高校のボート部時代、インターハイ優勝をめざして、必死でがんばっていた当時が彼の熱い日であったとのこと。

久しぶりに、先輩の結婚式に出席するために郷里の松山に帰って来て、松山城のある城山に登り、海をながめて、当時のことを思い起こし、現在の自分が当時の自分の水準まで燃えていないことを思い、哭けてしまった、とのことだった。

彼は、おそらく、ぼく以上にナルシストだけど、ぼくと同じく、完全燃焼した経験を持っている。

熱心に自分のことをしゃべってくれ、ぼくにずっと完全燃焼しろと励ましてくれたので、ぼくは、正直に、音楽については、全然、昔に比べて完全燃焼なんかしていないことを話した。

そして、この先どうするのかについて、二人で時間も忘れて語っていた。

二人とも、チャレンジ精神は失っていないことを確認しあったけど、この先果たして完全燃焼できるかどうかについては、無理だろうという結論に達した。

なぜなら、社会においては精神的に自由でいれても、物質的には無理だからである。

社会においては、人間との付き合いや、要領よさを抜きで、狂気の一歩手前まで、熱中するようなことは出来ないからである。

最後には二人とも酔っ払って前後不覚になっていたけど、西村さんは、今、杉並区梅里に住んでいるとのことだったので、ぼくが学生時代完全燃焼していたのが近所の南阿佐ヶ谷だったと言ったところ、大喜びしてくれ、今度泊りがけで遊びに来い、と言われたので行くことにした。

おかしかったんだけど、最初彼は「俺は結婚せんぞ。結婚して家庭なんか持ったら何も出来ん。」と叫んでいたんだけど、その内、「お前も絶対に結婚したらいかんぞ。」と言い出したので、「はいわかりました。結婚はしません。」と言うと、同志が出来たと喜んでいたこと。

ほんとうに昨日は素晴らしい人と出会えた。

(1981.2.16. 24歳)


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『韃靼人(だったんじん)の踊りと合唱』を聴きながら


久しぶりに、松山に転勤になった時、「ピアノと遊ぶ会」の市川さんからもらったボロディンのオペラ「イーゴリ公」のカセットテープを聴いた。

この中の『韃靼人(だったんじん)の踊りと合唱』のソプラノのようにまだ春浅い頃、この松山に来たのだった。

住友信託銀行松泉寮・・・・・松山の道後正円寺の田んぼのまん中にあるとんがった白亜の建物、2階の部屋の窓からは東野の山々が見えた。部屋が広かったので、ぼくは東京にいた頃買って持っていたアップライトピアノをグランドピアノに買い換えて、部屋に入れたんだけど、こんなことした人は、会社始まって以来初めてだったそうで、大騒ぎになってしまった。

初めて、財務相談課に配属になってお金を集めに外勤に出たころ、薄いグレーのスーツを着て、教職員の退職予定者をかけ回っていた。その先々で緑や土があたたかくぼくを迎えてくれた。

そして、また、同じ春がやって来ようとしている。あれから、もう一年たったんだなぁ。

やっと松山に土着できたようだ。

ここの空や土や緑が、そして住んでいる人達が、ぼくは大好きだ。

それに、東京にいた頃のように演奏会の企画なんかしなくてよかったから、独身寮に入れたグランドピアノのお陰で、落ち着いて、ショパンのバルカローレ、ブラームスの晩年の小品、フォーレのノクチュルヌ、バッハの諸作品を手がけることが出来た。

また、「青い国から」「即興曲」「幻想曲」等のピアノソロ曲だけじゃなく、二台のピアノ、ピアノとヴァイオリンのデュオ曲等も松山に来たからこそできた作品だ。

(1981.3.13. 24歳)


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点滴の詩(うた)


急性盲腸炎を我慢して仕事をしていたため手遅れで腹膜炎を併発し、道後の桑折(こおり)外科で手術し、約1ヶ月もの入院になった。

抜糸までは苦しかったけど、そのあとは、抗生物質の点滴の毎日だったが、よくなって退院出来てよかった。

でも、入院の後半は正直、退屈の極みだったので、先輩に頼んで、ぼくの独身寮の部屋から、五線紙を持って来てもらって作曲をしていた。

東京の「ピアノと遊ぶ会」の仲間もいろいろ心配してくれていたようなので、この入院中に作曲したピアノ組曲をまとめて、組曲「病床にて」OP.55として、来月出席する「ピアノと遊ぶ会」例会で初演しようと思っている。

そして、この組曲の中心が、第二曲目の『点滴の詩(うた)』であることは間違いない。毎日3本ものいろんな色の抗生物質の入った点滴をされたんだから、一番重要な出来事を曲にしたんだもの。

(1981.2.28. 25歳)


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題名について


いつだったろう。小川未明の「河の上の太陽」を読んだのは。

失明した少年の話であった。

その少年の失明した目の底に残っていた残像は、河の上の太陽であった。

すべて読み終えて、もう一度題名を見た時、その題名がとても悲しかった。

題名とは、このように、さりげない一言でつけられるべきものなのである。

(1981.3.2. 25歳)


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掲載写真は、松山城です。


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昔の雑記帳から(2)5

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沈丁花(ちんちょうげ)


また、街を歩くと、沈丁花が匂ってくる季節がやってきた。

この匂いは毎年の節の切れ目にやってくる。

今まで、この匂いとともに、数え切れない出会いとわかれをくりかえしてきた。

昨日、大学へいったら、新入生がたくさんきていた。

今までなら、新入生のころの自分を思いだして、ただくすぐったかっただけだが、

今は、自分が卒業してゆくのだと思うと、そして、この新入生たちと知り合うことはないのだと思うと、

なんとなく寂しい。

(1979.3.10. 22歳)


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中井信也さん


趣味でピアノを弾いているこんな強烈な男に出会ったのははじめてだ。

彼は、「ピアノと遊ぶ会」にいつもバイクに乗ってくるので、いつも、ヘルメットを小脇に抱えていて、

その、ヘルメットをピアノの横において、シューベルト、フォーレ、ドビュッシー、スクリャービン、ショパン等を弾くのだ。

格好いいな、とぼくは直ちに気に入ってしまった。

ただし、バッハだけは、老後の楽しみに取っているそうで、絶対に弾かない、と言っているけど、もしかしたら弾けないのかもしれない(笑)。

彼のモットーは、24時間躁状態で、勤務している会社(メーカーの営業マン)でも同じ状態なんだそうだ。

去年の夏の例会のニ次会で、ぼくらがワインを飲んでいると、

「ワインだなんて、全くぅー、何考えてんだ。箱入り坊ちゃんばっかだな。夏は、生だぜ。」

と言って、枝豆で生ビールをガブガブ飲んで、

「今日、岡田君の弾いたドビュッシーの『パスピエ』、あれはテンポが速すぎる。どうしてあんなに速く弾いたのか、訳を教えてよ。」

とからんでくるんだけど、言っていることが正しいので、ぼくは反論できなかった。でも、とてもやさしい6歳年上の男で、

「どんなに仕事が忙しくても、岡田君は作曲とピアノやめたらいかんぞ。」といつも励ましてくれる。

ぼくは6年後の自分がどうなっているか見当もつかなかったが、彼と話しているうちに、ぼくも何年後になろうとピアノにさわっているにちがいない自信が沸いてきた。

「ピアノと遊ぶ会」会員の音楽大学ピアノ科学生達は、男も女も皆、中井さんのことを「野蛮だ。」と言っているらしいが、リーダーシップのある人だからぼくは幹事になってもらった。

だって、中井さんは、中学からずっとバスケットボール部で活躍してきた男だから、ピアノしかやっていない人よりも野蛮かもしれないけど、視野が広く社会常識があると思う。

逆に、社会常識の欠落した、利己主義者の多い音楽大学ピアノ科学生達には、会の運営は絶対に出来ない。

(1980.1.20. 23歳)


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松山への転勤にあたり


住友信託銀行に入社して、最初の配属の東京都内店か大阪府内店勤務の1年がたち、出身地の近隣支店への転勤時期が来たので、ぼくは最初の配属店の吉祥寺支店から松山支店に転勤になってしまった。

そのこともあったけど、「ピアノと遊ぶ会」の発祥地が偶然にも吉祥寺だったので、会員の皆が今夜、吉祥寺のハムエッグクラブで、ぼくの送別会をやってくれた。

東京に出てきて5年。ピアノを通してこんなに素晴らしい友人がいっぱいできたなんて、ぼくはなんとしあわせなんだろうと思った。

幹事の中井さんは、ぼくに会社を変わってでも東京に残るように、と言いたかったらしいけど、言えなかったそうで、酔いつぶれたニ次会で、「悲しいよ。悲しいよ。」とぼくに抱きついてきた。

でも、本当に、ぼくは泣き出したくなるのをこらえていた。

「ピアノと遊ぶ会」にいるような友人・・・・・こんな人たちと同じくらい、音楽について語ることのできる人が松山には絶対にいないだろう・・・・・というのは、まったく自明のことだったから。

ともかく、明日の朝、ぼくは空の上だ。

松山まで1時間半の楽しい飛行である。

(1980.4.5. 23歳)


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夜中の桂浜


昨日、従業員旅行で高知に行った。

夜の宴会でものすごく飲まされてヘベレケになったぼくを心配した、2歳年上の指導者の大好きな先輩が、真夜中に桂浜の海辺に散歩に連れて行ってくれた。

「おい、お前なぁ、支店長に奨められたって、あんなに日本酒一気飲みしたらいかんぞ。あんなことしたら、俺、絶対に吐いてるぜ。」

「あははは・・・。先輩って、胃が弱いんですね。ぼく、消化器が丈夫なんで、吐いたことないんですよ。」

「それなら、余計気をつけなきゃいかんぞ。」

「あははは・・・。だから、ぼくの場合は全部吸収しちゃうんですよ。」

「さっきから笑いっぱなしじゃないか。どうしたんだ。」

「あははは・・・。先輩、ぼく、笑い上戸なんです。あのー、転ぶといけないからつかまってもいいですか。」

「おぅ、つかまれよ。大丈夫か。」

「先輩はずっとラグビーやってたから、腹筋がすごいな。つかまってもびくともしないや。」

「お前、変なことすんなよ。」

「変なこと、って何ですか。」

「・・・・・。」

こうして酔っ払った男二人で転がるように海に向かっていた。すると、真っ暗な中、いきなり、太平洋の海の音が聞こえてきた瞬間、ぼくは感動してしまった。

「海だ。太平洋だ。」

「そうだ。海だよ。」

「潮の香りがするよ。でも真っ暗で波打ち際がわかんないや。」

「大丈夫さ。俺知ってるからついて来いよ。砂浜で寝転がって酔いを覚ますんだ。」

こうして、先輩が桂浜の綺麗な砂浜の上に仰向けに横になったので、ぼくもすぐその横に転がるように横たわった。

「先輩、手握ってもいいですか。」

「えーーーっ。」

「先輩、手握ってもいいですか。」

「わかったよ。好きにしろ。」

ぼくは先輩の手を強く握って仰向けに寝転がって、漆黒の天を見ながら、波打ち際に打ち寄せる太平洋の音を聞いた。

うつぶせになって海を見ると灯台のかすかな明かりで太平洋の太い波をながめることができた。

「お前って意外と寂しがり屋なんだな。」

「うん。」

ぼくが強く握った手を、先輩は強く握り返してくれた。

そのまま1時間くらい、黙って、先輩と横になっていた。

この夜空と波のしぶきと音、砂の冷たさに包まれて、頭は空っぽだった。言葉もなかった。ただ感動だけがあった。

ただ雄大な自然に包まれて、ぼくたちは何と小さな存在だったろう。

(1980.5.25. 23歳)


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「松山・『ムンダナの演奏家たち』」


出会いとは不思議なものだ。・・・・・この文句、以前にも書いた気がするけど、同じことをまた感じてしまった。

松山市道後上一万の、ピアノのあるクラシック喫茶『ムンダナ』のマスターは、アマチュアピアニストを捜していたそうだ。

そして、ぼくは、アマチュアで演奏の出来る場を捜していた。

この二つの線が、ぼくの松山への転勤と言う偶然のできごとで交わったのである。

サロンコンサート名は、『ムンダナの演奏家たち』に決まったそうで、1ヶ月に1回続けてゆく。さしあたっては次のような予定になっていて3回目まではOKだが、4回目以降は変更の可能性があるとのこと。

第1回目は、ぼくの、ドビュッシーとショパンのピアノ演奏

第2回目は、大阪から転勤で来た、アマチュアクラシックギター奏者の松本さんの、J.S.バッハの「リュート組曲」

第3回目は、北条市のアマチュアバロックアンサンブル(何と、チェンバロを持ち込むのだそうだ)の、クヴァンツとルイエと、何とぼくの作曲作品をやりたいそうで、委嘱が来ているので、今書いている。

第4回目は、愛媛大学オーケストラ弦楽器有志による弦楽四重奏曲・・・・・曲目未定

第5回目は、重信町のアマチュアフルート奏者とぼくのジョイントリサイタル・・・・・ただし、フルート奏者がモーツァルトのマンハイム時代のヴァイオリンソナタが死ぬほど好きなのでそれをやりたいとのことなので、大丈夫なのかと心配している。

東京に比べると、もう、ものすごく幼稚なプログラムなんだけど、東京の「ピアノと遊ぶ会」のようには女性がいないので、運営はやりやすそうだ。

(1980.7.15. 23歳)


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東京に行った夏休み


この夏休み、東京へ行ってきた。

東京は、もう、なつかしい街並になってしまった。

よくいった名曲喫茶や貸ピアノ屋をめぐり、

よく歩いた高円寺や阿佐ヶ谷を歩いた。

かなりの店がお盆休みだった。

でも、その前を通るだけで胸がいっぱいになった。

秋葉原の電気屋街の裏、

あのオーディオを売っていた路地は

マイコンピューターの売場になってしまっていた。

時代はどんどん流れている。

松山に帰り、一人ピアノに向かう。

今、来月の「ピアノと遊ぶ会」で中井さんと小高さんが演奏してくれる『二台のピアノのための組曲』を書いているところだ。

(1980.8.24. 23歳)


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ご趣味


ピアノを弾いていると、よく、「いいご趣味ですね。」と声をかけられる。

ご趣味・・・・・ああ、なんていやな表現だろう。まるで人がうさばらしにピアノを弾いているかのごとく聞こえる。

ご趣味程度の心構えでは、人を感動させ、また自分も納得できるような演奏ができるはずもない。

趣味は全く独立した趣味の世界の出来事である。

従って、仕事でのストレス解消、うさばらし、あるいは世間体を考えて、教養としてやる程度にとどまるようなものは趣味ではなく、ご趣味にすぎない。

最近、とみに、ご趣味で音学をやっているにすぎないのに、自分では、趣味で音楽をやっている、と錯覚している人たちが増えてきたようである。


劣悪なマスコミのデッチあげた教養主義にもとづく、スノビズムに踊らされたるガレキどもよ去れ!!

ドビュッシーは汝らのために前奏曲集を書いたのではない!!

(1980.10.18. 23歳)


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昔の雑記帳から(1)5

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毎日、少しずつ、去年亡くなった母の遺品と、家のタンスの整理をしています。

その中で、ぼくが大学時代から社会人になって5年目くらいまでの間、毎日綴っていた雑記帳が出てきました。

確か、最初は日記として毎日書き始めたんだけど、社会全体に対して感じたこと、音楽のこと、男のこと等、長いのや短いのがグチャグチャで、また、書けない日もあったので、雑記帳になってしまったように記憶しています。

このブログでご紹介していきたいと思います。


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春の静かなあたたかい夜

ルービンシュタインの演奏したレコードで、ショパンのOP.37-2のノクターンをきいていた。

中間部のバルカローレのすきまから美しい旋律が流れてきて

夢が一つあらわれては消えていく

たばこのけむりにゆれながら

いつのまにか流れた涙

(1978.3.29. 21歳)


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バス



ぼくは昔からバスに怯えていました。

なぜならみんなバスに乗せられてつれてゆかれるからです。

電車はいいのです。

電車は駅に着かないと止まらないことが最初からわかっているからいいのです。

でも、バスはいつでも止まりさえすれば降りれるのに、停留所が来ないと止まらないので降りれないのです。

こんな不合理な乗り物はありません。

それにバスの後姿の丸い窓はおしまいの感じがして怖いです。

バスが高速道路を時速80キロで走ってもよいことを知ったとき、ぼくはのろまだな、と可笑しくなりました。

でも、のろまでも、必ず行き先にたどり着くことがわかったので、怖くなりました。

前に一度下降りたことがありました。

でも、気が付くとまた、次のバスに乗せられて行き先に向かっていました。

バスに乗っている人にはいろんな人がいます。

バスの中を楽しくしようとしている人もいれば、黙っている人もいます。

周りの人と楽しくお話しながら、窓の外を見ているのはぼくだけみたいです。



今乗っているバスも、次に来るバスも、行き先は全て死の国です。


(1975.10.7. 18歳)


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ぼくのタドズオ


トーマス・マンの「ベニスに死す」を読んでしまった。深い感動、それも単なる感動という概念を超えたものを覚えた。

この究極状態におけるヒューマニズム、この審美的な筋の運び、素晴らしい。

何でだろうか。これを読んでいると、この前出会った早稲田大学文学部大学院に行っている彼のことを思い出してしまった。

彼は、トーマス・マンの論文を書いたと言っていたけど、彼が、トーマス・マンを扱うにふさわしい容姿だったことの方がぼくにとっては重要だ。

ぼくにとってのタドズオが彼なのかもしれない。

こんな倒さくしちゃいけないよ、と思いながら、

次のプラトンの引用がぼくの中を熱くしてしまったようだ。

「軽くパーマのかかった髪が額に少しほつれかかっていた。そしてその下に穏やかで純粋な、機知に富んだ目が光っていた。すべて完成された芸術作品、そう真に美しいと感じられた。」

彼に手紙を出そう。

(1979.8.17. 22歳)






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ロンドンからの手紙・・・・・親友の死から20年経って5

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掲載写真は、ぼくの作曲の師、故.座光寺公明君です。

作曲家の座光寺公明君は、1987年の1月、新婚半年足らずで急性心不全で亡くなりました。

その後の彼の追悼演奏会で、お母様や奥様ともお会いしましたが、ぼくの音楽ホームページ掲載のエッセイ『マシェーズから座光寺君に宛てて』(下記URL)にも書いているように、ぼくは、ぼくよりも一歳年下の29歳の彼の急死を2年間信じられませんでしたので、はるかはるか昔の出来事のように記憶の底に沈んでいました。

http://kokada.web.fc2.com/essay12.html


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さて、去年の2006年11月5日、故.座光寺公明君のロンドン在住の奥様からメールをいただきました。

奥様の知人からのメールに添付されていたぼくのエッセイ『マシェーズから座光寺君に宛てて』を読まれたことから、お便りをいただいた次第でした。この中で、

「岡田さんの書かれた『マシェーズから座光寺君に宛てて』を読んでいくうちに、忘れていた記憶、忘れようと努力した記憶が、昨日の事のように鮮明に甦ってきて文末にいたる頃には、頬に涙が伝わりました。」

という文章の中の『忘れようと努力した記憶』を読んだ時、本当に、ぼくは泣けてしまいました。


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座光寺公明君の奥様は、当時から、美術を専攻されていました。が、彼の死後、15年前にロンドンに渡り、美術を勉強してロンドンでご活躍されているそうです。


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思い起こすと、座光寺公明君の死は、あまりにも突然、信じられない状況下でやってきましたので、ぼくのその後の生き方にも多分に影響したと思っています。

故郷の母が衰弱した時に、転職をしても高松に帰ろう、と決意したことは、座光寺公明君の急死に際して、30歳だったぼく自身の骨の隋まで、生きている人間の儚さがしみ渡ったからだろうと思っています。


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そして、年が明けた2007年1月5日、故.座光寺公明君のロンドン在住の奥様から、彼の没後20年の追悼ホームページ「Hiroaki Zakoji in memory」が出来たとの、メールをいただきました。

下記URLですが、この中の Activities の Posthumous に、ぼくが執筆したエッセイ『マシェーズから座光寺君に宛てて』を奥様が英訳してくれた

「Addressed to Hiroaki Zakoji from “Ma chaise”」

が掲載になっています。

http://www.ezakoji.com/

http://www.ezakoji.com/pics/MaChaise1189.pdf


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これを、もしかしたら、世界中のいろんな人達が読むのかもしれません。

このエッセイ『マシェーズから座光寺君に宛てて』の中にも書いているように、

『ぼくがこの曲で伝えたかったことは以上だ。それ以上言っても、何も伝わらない奴には何も伝わらないだろうから仕方ないよ。』

という基本的態度を明確にして生きていた作曲家の座光寺君という男の生き方が大好きだったので、ぼくは彼の弟子になったのでした。


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『人間万事塞翁が馬』5

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あれは忘れもしない、ぼくが26歳の時のことでした。

当時、ぼくは住友信託銀行に入社して、吉祥寺支店→松山支店を経て、新宿支店に勤務していました。

週末は、ピアノ曲の作曲と、次回の「ピアノと遊ぶ会」での練習に余念のなかった時期でした。

そして、「ピアノと遊ぶ会」で、大好きだったドビュッシーの「ベルガマスク組曲」全曲を演奏したのでしたが、まあ、ぼくは、この中の「パスピエ」が大好きだったので、あとの3曲は適当に練習して出演したところ、会員のK氏から、ずいぶんな酷評をされてしまいました。

「岡田君、二度と、このメヌエットは演奏しないで下さい。」とまで言われたので、深く傷ついてしまいました。

この時、飲みに誘ってくれた、アマチュアピアニストの5歳先輩の、中井信也さんが、暖かく励ましてくれました。

「K君の言うことなんか気にするなよ。君のパスピエは素晴らしかったからな。それに、君の作曲した、『家路』みたいな曲は、あいつには絶対理解できないんだから、放っておけよ。『人間万事塞翁が馬』」

と言って、この格言の意味を教えてくれ、フォーレの「ノクチュルヌ13番」のスコアを貸してくれて、「これをやってみろ。」と、励まされました。


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幸福な出会いでした。 フォーレの「ノクチュルヌ13番」がきっかけになって、ぼくは、室内楽の演奏にのめりこむことになったのでした。

5歳年上の中井先輩は今も東京で頑張っています。リストの「鬼火」を、愛する奥様の誕生日のお祝いのために演奏しようと練習しているのだそうです。

演奏の出来不出来よりも、人間性の方が、音楽には、ずっと重要なことなのですね。

『人間万事塞翁が馬』

「たかが音楽、されど音楽」なんだから、ピアノソロの演奏にあたっては、そんなにナーバスにならず、平常心で行こうぜ!


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掲載写真は、東京のヴァイオリンの竹内さんと、ぼくの作曲した自作のデュオの室内楽作品を演奏している時の写真です。ぼくの作曲したデュオの室内楽作品を、ぼくのピアノと合わせることを楽しみにしてくれてます。主婦の彼女も、素敵な親しい友人です。

だから、ぼくも素敵な男でいたいと思っているのです。




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