東京出張から帰って、10月7日〜9日まで、母の形見分けがありました。元、「丸天旅館」の若女将として働いていた母でしたので、桐のたんすと普通のたんす1本とたくさんの和服の箱にいっぱいの、合計150枚もの和服と、たんす2本にいっぱいの洋服、宝飾品等が遺されていました。
が、子供はぼくと弟の男2人兄弟でしたので、全くわけがわからなかったので、母の姉妹3人と女性の従兄弟3人に形見分けをすることになり、東京、高松、山口県の叔母や従兄弟がうちに集まり整理しました。
高価な着物がほとんどでしたので、うちの居間は、一枚一枚、着物が出てくるたびに驚愕の声が沸き起こる「なんでも鑑定団」状態になってしまいました。
特に驚かされたのは、白大島の着物が10枚も出てきたこと、ぼくも弟も見たことのなかった江戸小紋の着物や珍しい柄の浴衣などが全て、帯、帯止めなどと見事にコーディネイトされて保管されていたことでした。
祖母の死後体調を崩した10年前からは老齢のためほとんど着物を着ることも出来なかった母でしたが、「丸天旅館」で若女将として働いていた若い頃は毎日着物を着ていましたので、約150枚もの和服は、若女将としての労苦の証で、ぼくと弟はびっくりしながら、本当に大変な母の人生を振り返っていました。
母の姉妹3人と女性の従兄弟3人は、母の遺した和服、帯、帯止め等を、それぞれ10セットずつ、ミンクやカシミアのコートをそれぞれ持ち帰って愛用してくれることになりました。ぼくは、母の遺したブルーのお扇子がとてもよい色だったのでいただき、毎日出勤するスーツのポケットに入れることにしました。が、母の着物の数が大変に多かったので、当初の予想通りたくさん残りましたので、知人の和裁の先生にひきとっていただきました。その先生の仕分けで、小規模作業所での小物作りにも活用していただけることになりましたので、とてもよかったと思っています。
また、母のたんすの引き出しからは、ぼくが高校2年の時にアメリカのシアトルに短期留学した時の懐かしい写真、「丸天旅館」に宿泊したお相撲さんの柏戸に抱かれたぼくの写真、ぼくが3歳か4歳の頃、石井先生のピアノの発表会でピアノを弾いている写真や早稲田大学政経学部の卒業証書も出て来て、母が何歳になってもぼくのことを子供だと大切にしてくれていたことがわかり、改めて、大切な人を亡くしてしまったことを再確認しました。
掲載写真は、毎朝、挨拶している、母の遺影です。



この8月17日に突然起こった、母の突然の脳内出血、それも、脳幹部という大脳の中の、生命維持に関る一番大切な部位の出血という事態を受け、母の様態が一進一退する状況に巻き込まれ、介護、付き添い、洗濯等の用事といった日常的な活動だけでなく、母と親しかった人達への連絡や受け入れ、万一に備えての葬儀屋の葬式開催や母のための仏壇の見積書取得等々の諸雑事に、奔走しているところです。
