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私のホームページ「K.OKADAワールド」

は、四国高松在住の私、作曲家、兼、ピアニストの岡田克彦の世界です。ここの併設ブログは、音楽、四国の温泉と、香川県のさぬきうどん、四国のグルメ、景勝地、温泉等、
それらに加えて、私の母・岡田直子が2006年9月19日に他界したことから痛感した、人間の無常観に基づく社会観察や人生観、ウェブの限界等を中心に書いてゆくことにしています。

人間の無常観

母の形見分けを終わって5

a858c90e.jpg東京出張から帰って、10月7日〜9日まで、母の形見分けがありました。

元、「丸天旅館」の若女将として働いていた母でしたので、桐のたんすと普通のたんす1本とたくさんの和服の箱にいっぱいの、合計150枚もの和服と、たんす2本にいっぱいの洋服、宝飾品等が遺されていました。

が、子供はぼくと弟の男2人兄弟でしたので、全くわけがわからなかったので、母の姉妹3人と女性の従兄弟3人に形見分けをすることになり、東京、高松、山口県の叔母や従兄弟がうちに集まり整理しました。

高価な着物がほとんどでしたので、うちの居間は、一枚一枚、着物が出てくるたびに驚愕の声が沸き起こる「なんでも鑑定団」状態になってしまいました。



特に驚かされたのは、白大島の着物が10枚も出てきたこと、ぼくも弟も見たことのなかった江戸小紋の着物や珍しい柄の浴衣などが全て、帯、帯止めなどと見事にコーディネイトされて保管されていたことでした。

祖母の死後体調を崩した10年前からは老齢のためほとんど着物を着ることも出来なかった母でしたが、「丸天旅館」で若女将として働いていた若い頃は毎日着物を着ていましたので、約150枚もの和服は、若女将としての労苦の証で、ぼくと弟はびっくりしながら、本当に大変な母の人生を振り返っていました。



母の姉妹3人と女性の従兄弟3人は、母の遺した和服、帯、帯止め等を、それぞれ10セットずつ、ミンクやカシミアのコートをそれぞれ持ち帰って愛用してくれることになりました。ぼくは、母の遺したブルーのお扇子がとてもよい色だったのでいただき、毎日出勤するスーツのポケットに入れることにしました。が、母の着物の数が大変に多かったので、当初の予想通りたくさん残りましたので、知人の和裁の先生にひきとっていただきました。その先生の仕分けで、小規模作業所での小物作りにも活用していただけることになりましたので、とてもよかったと思っています。

また、母のたんすの引き出しからは、ぼくが高校2年の時にアメリカのシアトルに短期留学した時の懐かしい写真、「丸天旅館」に宿泊したお相撲さんの柏戸に抱かれたぼくの写真、ぼくが3歳か4歳の頃、石井先生のピアノの発表会でピアノを弾いている写真や早稲田大学政経学部の卒業証書も出て来て、母が何歳になってもぼくのことを子供だと大切にしてくれていたことがわかり、改めて、大切な人を亡くしてしまったことを再確認しました。

掲載写真は、毎朝、挨拶している、母の遺影です。

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『インパラディスム』(天国にて)5

af681cca.jpgミシェル・コルボー指揮の、フォーレ作曲「レクイエム」は、ぼくの大好きな作品の大好きな演奏のCDです。

自宅の、母の49日までの、お骨を置いた、購入した仏壇もある母のいたお部屋には、スピーカを4つ設置し、毎日、この、フォーレ作曲「レクイエム」終曲の『インパラディスム』(天国にて)をエンドレスでBGMとして流すようにしました。

49日の法要での旦那寺さんの読経で、初めて、母は仏壇の方に魂が移るそうなので、それまで、せめて心穏やかに過ごして欲しい、というぼくの願いをこめてそうしました。

母の告別式のBGMでは、母の好きだったフォーレ作曲「レクイエム」の『アニュス・デイ』をエンドレスで流しましたが、今は、同じ曲の終曲『インパラディスム』(天国にて)がいいと思って流しています。

もともと、フォーレ作曲「レクイエム」は、フォーレが両親を相次いで亡くしたことから、両親に天国で安らかに過ごして下さいという気持ちを込めて、通常の「レクエイム」には入っていないところの『インパラディスム』(天国にて)を終曲に加えたのだそうです。


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まさかこんな状況で『インパラディスム』(天国にて)流すなんて夢にも思っていませんでしたので、以前は、『インパラディスム』(天国にて)は、演奏所要時間4分ちょっとの付け足しみたいな曲だと思っていました。でも、こういう状況下で聴くと、『インパラディスム』(天国にて)は、本当に素晴らしい傑作です。

暖かいパイプオルガンの響きに支えられて、ハープがアルペッジョを刻む、ボーイソプラノ合唱のこの小品は、仏壇とお骨の前に座っている、ぼくを限りなく癒してくれます。

掲載写真は、ガブリエル・フォーレ、です。

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母の告別式を終わって5

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本日は、お忙しいところを、母、岡田直子の葬儀にご会葬下さいまして、誠にありがとうございます。

このように大勢の方々にお見送りいただき、さぞかし故人も喜んでおることと存じます。

母はこの8月17日午後1時に突然、脳幹部脳内出血で倒れました。

翌日は、しゃべることも瞼を開けることも出来なくなり、わずかに呼びかける声に応え、ぎゅっと手を握り返してくれましたが、さらに次の日からはそれもかなわなくなりました。

約1ヶ月の間、だんだん母が意識を剥奪されてゆく様を見ることは辛いことでした。

が、ずっと付き添っていた私に母が最後にしゃべった言葉になってしまった、脳幹部脳内出血で倒れた8月17日の夜、香川県立中央病院にて必要だと言われて、私が買っていったオムツへのお礼の言葉、「克彦、オムツ有難う。」という感謝の言葉を残して、最後には、痛みを感じることもなく、全ての煩悩から解き放たれ、静かに逝去いたしました。

たくさんの方々、遠方の方からもお見舞いをいただき、意識不明であったので、非常にご迷惑をかけてしまうのではないかと思っておりましたが、耳は最後まで聞こえていたようでございます。

右側の脳を活性化させ、アルファ波を増やす効果があるといわれている純正調、アダージオのバロック音楽を、毎日、朝から就寝時間までCDで聞かせました。

また、本日の葬儀のBGMは母が生前大好きだった、穏やかな音楽フォーレ作曲「レクイエム」の『アニュス・デイ』を流しました。

私も、母が最後に残した、「ありがとう」と、人に感謝する気持ちを大切に、ささやかでも穏やかな一生を送りたいと思っております。

本日は誠にありがとうございました。


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ぼくは、生まれてはじめての喪主としての会葬お礼の言葉を、9月20日午後1時、母の告別式の行なわれた高松市藤塚町の「公益社」東館4階の母の告別式の最後に述べ終わりました。

昨夜のお通夜の後考えた挨拶でした。

母とのいろんな思い出が一挙に溢れてきて、どうしても泣きそうになり、挨拶を読み終わることが出来ないかと思っていましたが、なんとか最後まで読み終えることが出来ました。


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BGMは、母の大好きだった、フォーレ作曲「レクイエム」の『アニュス・デイ』がエンドレスで流れていました。


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本当に、ささやかでも穏やかな一生を送りたいと思っております。

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解脱(げだつ)・・・・・煩悩からの解放5

2ffbbfce.jpgこの8月17日に突然起こった、母の突然の脳内出血、それも、脳幹部という大脳の中の、生命維持に関る一番大切な部位の出血という事態を受け、母の様態が一進一退する状況に巻き込まれ、介護、付き添い、洗濯等の用事といった日常的な活動だけでなく、母と親しかった人達への連絡や受け入れ、万一に備えての葬儀屋の葬式開催や母のための仏壇の見積書取得等々の諸雑事に、奔走しているところです。


このような、初めての辛い出来事と遭遇することは、非常にショッキングなことでしたが、全てをプラス指向で考える手法で、乗り切って来ましたし、これから起こるかもしれない出来事も、全てをプラス指向で考える手法で、朗らかに乗り切ってゆきたいと思っているところです。


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母の方は、当初、出血箇所のすぐ下側にある肺の中枢部に影響が及ぶと明日をもしれない命であることを先生から言われましたが、出血箇所の上側の意識域に影響が及んだため、命にかかわることはなく、日一日と意識が失われていきました。脳内出血は通常、 24時間で出血自体は止まるのですが、母の場合は肝臓の具合が悪かったため、止血に時間がかかり、出血が48時間続きましたので、2日間で完全な意識不明状態に陥りました。


また、加療後2週間目からスタートした、食事を入れる管を鼻から咽喉を経由して胃に通したことに対して拒否反応が起こりました。具体的には、意識不明状態のため、胃に流し込んだ流動食を勝手に嘔吐してそれが気管を通って肺に入ったことから肺炎を併発したのです。また、同時に、脳幹部にある、腎臓中枢にも影響が及び、尿の量が少なくなってしまい、体内に毒素がたまったため、母の手足はむくんでしまいました。さらに、摂取した食事の栄養が消化器で吸収されて血液中に取り込まれる割合も激減してしまいました。


この時は、先生から「持っても、あと5日の命です。」と言われました。特に、肺の中にたまっている水がとれないことと、腎臓中枢への影響から、尿が出なくなってしまうことは、消化器で栄養が吸収されないこと以上に致命的なことだ、とのことでした。


が、咽喉に通した管からの栄養摂取を外し、抗生物質、利尿剤を投薬したところ、たった1日で、母は肺炎も腎臓の不具合も克服し、見事に回復し、先生も驚かれていました。


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ずっと、母に付き添っていて、最悪の状況を乗り切った後、母の寝顔は最高に静かで穏やかで崇高なものになりました。これまで、自宅にいた頃は、背骨の圧迫骨折から、寝ていても2時間おきに寝返りをうつたびに、「痛い」「痛い」と連発し、楽に寝たことがなく、常に眉間にしわが寄っていましたが、脳内出血によって、初めて、全ての痛みから解放されたために、とても静かで穏やかな寝顔でいてくれることが、付き添っている長男のぼくにとっては唯一の救いになっています。


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これまで、背骨の圧迫骨折に苦しみ、昼も夜も腰が痛いことを訴え続けていた母を思い出すにつけ、脳内出血のために意識不明になった後の、母の静かで穏やかな寝顔を付き添っていて見る度に、母は幸せなんじゃないかと感じるようになりました。


主治医の先生のお話では、とんでもない奇跡でも起こらない限り、母の意識回復は、ほぼ100%不可能な状況です。


しかし、とんでもない奇跡が訪れることを期待して、ぼくは付き添っています。


また、もし、とんでもない奇跡が訪れなくても、見栄、虚栄等に代表される、この世で生きている全ての人間に付きまとう全ての煩悩から解放され、解脱(げだつ)に向かっている母は日一日幸せになっていると思っているところです。


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ところで、母がいつ死ぬかわからない状況下において、初めて接することになった、母とこれまで親しくしていた、今後も健康に生き続ける親戚や知人の人達の、生きているが故の煩悩・・・・・つまり、まだこの世に生きている自分の金銭欲、見栄、外聞、面子を満たすための恩着せがましい態度、物腰や、それらを正当化する「社会性」という名の大義名分等々、母の生死と全く無縁の余計なお節介や勝手な言い分・・・・・と接することは、母の長男のぼくにとっては、心底、

不愉快、且、無礼千万なこと

であります。


ことに、そういう、周囲のまだ健康に生きている親戚縁者から言われる、

「克彦ちゃん。そうしてあげた方が、きっとお母さんも幸せなはずよ。」

なんて言い分ほどナンセンスなものはありませんね(笑)。そのような言い分は、

「克彦ちゃん。そうしてくれた方が、わたしは幸せで気分いいのよ。」

と同程度の、下らない、周囲のまだ健康に生きている親戚縁者の煩悩を満たす言い分でしかないのですから、このような煩悩に満ちた好き勝手な言い分にぼくが惑わされることは、未来永劫有り得ないことなのです。


このようなナーバスな状況下において、母のことをお母さんと呼ぶ権利があるのは、息子の、ぼくと弟のたった二人であることを、周囲のまだ健康に生きている親戚縁者は、肝に銘じてもらいたいことです(笑)。


以上のような周囲で起こった様々な事象は、母が自分の生死の境目から、今後、ぼくが親しくしてゆくべき人達が誰なのかを教え諭してくれているように痛感しているところで、本当に有難いことだと思っています。


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仏教の教えの中心を成す、この世で生きることの無常感と、全ての煩悩から解放されて、解脱(げだつ)に向かっているぼくの母親のことを前向きに考えてあげたいと思っています。


なぜって、ぼくは、母の長男なのだから。こんなこと、ごくごくあたり前のことですよね。


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掲載写真は母の近影です。

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すでに無常の風きたりぬれば・・・・・5

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「脳内出血です。出血量は昨日1cc、24時間経過して大体落ち着いた現在、3cc程度と微量ですが、出血部位が一番まずいところで、『脳幹部』の出血です。延髄のすぐ上、大脳の指示が通過して脊髄にゆく、一番大切な、脳の奥です。出血が昨日よりも増えた2cc分は、意識域に若干広がっていますので、現在、意識が朦朧としています。既に、左半身は麻痺状態です。1ヶ月は、ICUにて24時間体制で加療しますが、落ち着いた段階でリハビリに入ります。最低でも3年は覚悟していただかないといけません。が、お母様がお年を召されていること、体力が弱いこと、出血部位が『脳幹部』の左右に及んでいること等を考えると、リハビリがどういう結果になるか余談を許しません。・・・・・もし、40歳代、50歳代でいらっしゃるならば、乗り切ることは可能と思われますが・・・・・。」

「だだし、リハビリに入る以前の問題がございます。『脳幹部』のお母様の出血箇所の、あと3センチ下の部位が呼吸中枢ですので、ここに出血があれば、直ちに危篤状態でした。ただ、血栓の周囲にも影響が及びますので、1ヶ月は、ICUにて24時間体制で加療しますが、呼吸中枢に影響が及んだ場合のことは、ご家族にはあらかじめご案内しておかなくてはなりませんので申し上げます。その場合は、意識域も被害を受けていますので意識不明状態になっていると思われますが、肺に管を通して酸素を送ることにより、意識不明のままでも延命は可能ですので、どうするかあらかじめご検討下さい。」

8月18日の午後2時、母が突然倒れて24時間経過し、その間の、CTとMRIの検査を3回終了した結果報告でした。

高松のぼくの友人の医者の紹介で母を見てくれた香川県立中央病院脳外科のA先生は極めて優しいけど、冷静な口調で、ぼくと、西宮から急遽帰省してきた弟を前におっしゃったのです。


そんなこと急に言われたって困るよ!
ご検討下さいなんて言われたって、出来るもんか!


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しばらく、A先生を睨んでいるぼくに、さらに、A先生はおっしゃいました。

「心臓が悪い、肺が悪い、などという内臓疾患でしたら、治療方法や対処の仕方はいろいろございます。が、脳の『脳幹部』の、心臓中枢、呼吸中枢に欠陥が発生した場合、手の打ちようは、残念ながらないのです。」


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昨日の昼食時まで、背骨の圧迫骨折とC型肝炎は患っていたものの、普通に生きて、普通に杖をつきながら痛がっても歩いていて、ぼくが毎朝作るみそ汁の味にいちいち文句ばかり言っていた母のことを思い出して、ぼくはショックで頭の中が混乱して取り乱してしまいました。

「A先生、意識域がダメになる、ということは、自分が誰かもわからず、自分が生きてるのか死んでるのかもわからない状態ですよね。延命と言われても、それって、生きてる人間なんですか。ぼくは、絶対に生きてるなんて考えられませんよ。A先生、人間が生きてる、ってどういう意味なんですか。」

ぼくは、思わず、搾り出すような声を出していました。


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「今、申し上げたのは、最悪の事態のことです。お気持ちは良くわかりました。私共で最善を尽くします。もし、そういう最悪の事態になったら、管を肺に通すかどうかは、また、その時にお母様の状況をご覧になって考えればよいことですから今すぐ結論を出すことはありません。ただし、お母様は、重症なのです。」

A先生はそう言って、ぼくの目をじっとなぐさめるように言われました。


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ぼくは、思わず、涙が溢れてきたので、泣くまいと努力しながら、でも、すごく気になっていたことを質問しました。

「ぼく、母が、嘔吐した時、胃の調子が悪いんだろう、程度に思ったんです。まさか脳内出血だなんて想像もしなかったから、1時間だけどうしても外せない大切な仕事があったので出かけて帰宅して、どうもおかしい、と直感して、すぐに救急車を呼んで病院に連れて来たんです。でも、この1時間の遅れで母の運命が決まったのだとしたら、全てぼくの責任です。ぼくがいけなかった。仕事なんか放っておけばよかったんだ。」

「そんなにご自身を責める必要は全くありませんよ。脳内出血は、通常、出血後6時間以内に加療に入れば、十分な早期対応です。あなたがすぐに救急車を呼んで連れてこられたあなたの判断は、極めて適切でした。出血が昨日の午後1時。こちらで加療にとりかかったのが午後4時で、3時間しか経過していませんので、全く問題ありませんよ。そんなにご自分を責めないで下さい。」

ああ、この先生は優しいいい先生だ。もう全てお任せしようと思いました。

「A先生、よくわかりました。お任せします。母をどうぞよろしくお願いいたします。」

と答えました。


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A先生は最後におっしゃいました。

「お母様と親しい方、ご親戚の方など、会っておいた方がよいと思われる方には、ご連絡をされて、ご面会いただいたほうがよいと思いますので、ご連絡して下さい。」

「わかりました。母の兄弟、親戚は、高松、東京、大阪、山口におりますので、すぐに連絡いたします。3日程度の間に面会に来るよう案内いたします。」

「3日程度などと悠長なことをおっしゃってはいけません。呼吸中枢の問題ですから、明日じゅうに、全員にご面会いただくよう、ご案内して下さい。」

実質的な、最後通告のようなものでした。

すぐに弟と手分けして、全親戚にご案内しました。

が、仮に親戚が会いに来ても、母は無反応なのだから迷惑だろうな、と思ったけど、たとえ意識がなくても生きているうちに知らせて欲しかった、という、会いに来る親戚側の生き残る人達の都合だと割り切って、全てもれなくご案内しました。


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その前日、8月17日の昼食に、海鮮丼を食べたい、との年老いた母の依頼で、ぼくは「ゆめタウン高松」の中の広島から出店しているお魚屋さんの美味しい海鮮丼を買って来て、母と一緒に食べました。その日の海鮮丼には、母の大好きな鯛の刺身がいっぱい載っていたので大喜びでした。

「美味しいね。本当に美味しいね。」

午後からホームヘルパーさんが来てくれたので、一緒に食べて、喜んでくれた母を後に、午後からの仕事に出ようとしたところ、昼食直後の母を悲劇が襲いました。

「克彦、洗面器を取ってきてほしい。ものすごく体がしんどい。」

と、ロレツが回らない口調で言って、ベッドに横になったのでしたが、いきなり食べたばかリのものを激しく嘔吐し始めました。後でわかりましたが、これが、脳内出血の瞬間だった、だから、ロレツが回らない口調だったのです。

が、ホームヘルパーさんが来てくれたので、ぼくは、午後から仕事での大切な取引先との面会アポイントが入っていたので、出かけました。が、ものすごく気になっていたので、1時間の面会が終わってすぐに自宅に電話を入れたところ、ぼくが出かけた後も嘔吐が6回ほどあって、衰弱しきっているので、病院にいったほうがよい状況だとのホームヘルパーさんからの話だったので、すぐに帰宅しました。

そして、かかりつけの、高松高校出身のぼくの同窓生のやっている病院に連れて行こうとしたのでしたが、左足が全く動かないので立ち上がれないのでした。

「これは変だ。ただ、気持ちが悪くなったとか、胸焼けじゃない。」

と直感したぼくは、すぐに同窓生の医者に電話を入れて受け入れをたのんで、救急車を呼んで連れて行きました。

CTで見てもらって、脳に異常がある状況だったので、すぐに、香川県立中央病院脳外科を紹介していただき、また、救急車に乗って行きました。


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思えば、2006年8月9日、夏期休暇に弟が西宮から帰省して来ていた時、ずっと母が行きたがっていた、眺めの素晴らしい、サンポート高松ランドマークタワー29階の、料理の鉄人の陳さんのやっている中華料理店に、弟と二人で協力して母を連れて行き、母、弟とぼくの3人で一緒に食事に行ったのが、家族三人で正常におしゃべりして正常にお食事出来た、母にとって、最後のよい思い出になったように思いました。

そういえば、あの時も、母は、脳内出血の直前の8月17日の昼食に、海鮮丼を食べた時と同じように、

「美味しいね。本当に美味しいね。」

と言いながら、美しい瀬戸内海を眺めながら、麻婆豆腐を食べていました。


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ぼくの母は、ぼく同様、自己顕示欲、嫉妬、見栄、虚栄心、コンプレックスに溢れた人生を歩んでいました。

ぼくが13年前にUターンした後も、自制心が失われてゆく、老化というプロセスにおいて、全ての物事に対して、細かく追及し、枝葉末節にこだわる性格をしていました。人間的には大いに問題のある人でした。

だけど、明日にでも、呼吸が止まってしまうのかもしれないと思うと、そのような過去の些細なあやまちは消えてしまうものです。

背骨の圧迫骨折以来、「痛い」を日常的に連発し、その都度、ぼくは、

「お母さん、大丈夫?」と声をかけることが苦痛でしたから、

「ちょっとは、我慢してよ。」と言ったり、ぼくの作るカボチャの味噌汁が辛い時に、

「克彦は、いつが来ても、カボチャの味噌汁をちゃんと作れない情無い子だ。」と言われると頭に来て、

「それなら、自分で作ってよ。」なんて言ったりしました。


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だけど、親子って不思議なものですね。

8月17日の夜10時頃までに、母が入院している香川県立中央病院ICU救命救急センターに、すぐに必要だと言われて、オムツ、ネノミ、浴衣等を急いで買って持って行った時、母がしどろもどろの口調で一生懸命に言ってくれた、

「克彦、すまんのう。有難う。」

という一言と、一生懸命作ってくれた笑顔で、疲れや、これまでの母の身勝手な思い出はふき飛んでしまいました。

また、8月18日の朝、西宮から急遽帰ってきた弟と面会に行った時、もう瞼を開けることが出来なくなっていたし、言葉も確実に発することが出来なくなっていた母にぼくが、

「英司(弟の名前)が、西宮から来てくれたよ。」

と耳元で叫んだ時、必死でうなづいてくれて、くちびるがわずかに

「英司、元気にしよんな。」

という形で動いたのを見た弟が、母の足を一生懸命にさすりながら、

「お母さん、元気出しまいよ。もうちょっと早く帰ってこれたら、瞼が開いたのに、ごめんね。」

と大声で言った言葉にわずかにうなづいた動きが、本当に、本当に、ぼくら兄弟にとっては、どうしようもなく貴重になりました。


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8月18日の、A先生からの最後通告と親戚全部への連絡が終わった後、弟と夕食を食べた後、もう一度、母を見に行きました。

もう寝ていたけど、脳の一部に障害の出た母は、背骨の圧迫骨折の痛みを感じることから完全に解放されたので、とても穏やかな気持ちのよい寝顔でした。

帰る途中、弟とぼくの車の中で話しました。

「おふくろは、あれで幸せだと思うよ。ずっと介護していたけど、あんな穏やかな寝顔、ぼくは初めて見たよ。もう何も出来なくなるのかもしれないけど、その前に、全ての痛みから解放されたのはよかったな、って考えることにしようよ。実際、幸せそうな寝顔だったもの。」


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掲載写真は、1986年1月15日、東京全日空ホテルでの家族3人での母の誕生パーティーです。

20年前の1986年当時、母は56歳、弟は27歳、ぼくは29歳でしたが、現在、母は76歳、弟は47歳、ぼくは49歳です。


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人間の一生なんてはかないものです。次の蓮如上人の言うとおりなのです。

「すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。」(蓮如『白骨のお文』より)


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