Scan0001(集英社・集英社文庫) 1991年平成3年発行

 

 山川方夫は1930年昭和5年2月25日に生まれ、1965年昭和40年2月19日交通事故にあい翌日帰らぬ人となった。35歳を目前の突然の死であった。まだ生きておられたとしたら今83歳になられているはずです。

 

 文庫本には、ー陽気な絶望者ーと題した山崎行太郎の「解説」が21頁にわたって書かれ、川本三郎の「解説」がー一瞬の日のかげりーと題して7頁にわたって書かれ、さらに山川方夫の年譜まで掲載されて懇切丁寧な編集となっています。文庫本編集者のなみなみならぬ思いが伝わってきます。

 年譜によれば山川方夫は1954年昭和29年24歳のとき、桂芳久、田久保英夫とともに、「三田文学」(第三次)を復刊。江藤淳、坂上弘を発掘、昭和30年にはそのほか曾野綾子、安岡章太郎、遠藤周作、奥野健男、谷川俊太郎、矢代静一、川上宗薫、佐藤愛子、村松剛、服部達などそうそうたる顔ぶれが誌面をかざったといわれます。山川方夫は作家としての顔とともに、伝統ある慶応「三田文学」名編集長としてその才能を発揮していたのでした。

 「夏の葬列」は32歳のときの作品です。夏の日差しのなか陰影の濃い風景と人物が一枚のスナップ写真に鮮やかに写されたような小品です。『海岸の小さな町の駅に下りて、彼はしばらくはものめずらしげにあたりを眺めていた。(中略)あれは戦争末期だった。彼はいわゆる疎開児童として、この町にまる三ヶ月ほど住んでいたのだった。(中略)真昼の重い光を浴び、青々とした葉を波うたせたひろい芋畑の向うに、一列になって、喪服を着た人びとの小さな葬列が動いている。』

 ここから物語は国民学校時代に回帰。彼をよくかばってくれた二年上級のヒロ子さんー彼女もまた疎開児童であるーと夏の葬列を目撃する。そのとき空襲に遭遇する。彼は身動きができず「頬っぺたを畑に押し付け、目をつぶって、けんめいに呼吸をころしていた」。助けにきた白い服をきたヒロ子さんを彼は突き飛ばす。白い服は”ぜっこうの攻撃目標”になるからだ。 『「たすけにきたのよ!」ヒロ子さんもどなった。「早く、道の防空壕に・・・」「いやだったら!ヒロ子さんとなんて、いっしょに行くのいやだよ!」夢中で彼は全身の力でヒロ子さんを突きとばした。「むこうへ行け!」』

 この「夏の葬列」を書いた頃山川は仕事をテレビドラマやラジオドラマなどにも広げていた時期でした。もし生きていたらというのは言っても仕方ないことですが、彼の文学はショート・ショートからさらに物語性豊かな長篇にも手を広げていたことでしょう。日本の文学界は惜しい作家を失ったことでした。

 文庫本『夏の葬列』には、「夏の葬列」のほか「待っている女」「お守り」「十三年」「朝のヨット」「他人の夏」「一人ぼっちのプレゼント」「煙突」「海岸公園」が収められています。

 山川方夫は「夏の葬列」を書いた2年後の34歳のとき、死の前年でしたが、1964年昭和39年に「愛のごとく」で芥川賞候補になっています。山川自身4回目となる「芥川賞候補」でした。

 

 本書の年譜によれば、候補に上げられた彼の作品を次の通りです。

28歳・1958年昭和33年 「演技の果て」が第39回芥川賞候補に。「その一年」が第40回芥川賞候補に。

32歳・1961年昭和36年 「海岸公園」が第45回芥川賞候補に。

34歳・1964年昭和39年 「クリスマスの贈り物」が第50回直木賞候補に。

34歳・1964年昭和39年 「愛のごとく」が第51回芥川賞候補に。