文学逍遥 伊奈文庫(伊奈遊子ブログ)

伊奈遊子(ゆうし)による文学逍遥。 つれづれなるままに記す文学雑感&読書メモです。

カテゴリ: > く 黒田夏子

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昨日のつづき。

(草ごろし)から。

それでも,たえだえのかよいじを足うらに知っていた者がさしかかると,ふとあの通りがての草の道の空の色の亡霊,十一時の匂いの亡霊がかすめることがあった.いつか,灯したてられてにぎわいどよめく雑踏の底と変わっても,あの草の亡霊は天をさすか,よごれた水のおもてのよごれない夕あかねの亡霊はかがよいたゆたうか,ついに道でさえもなくなり,あたりぜんぶが巨きな建造物にふくまれてしまってもか,そのはるか地面を離れた階のろうかをたどる者にも,ふりあおぐ頭上にさしのびている草の葉を通してべつの草のべつのかたちの葉の亡霊が透けてさやぎ,かけぬけざまに跳躍して遠いほうの葉にさわってみようとする手をさざめきあやすか,それならばまた,そこでなくても,どこだろうとあの道でないことはなく,どこにいようとそこがさながらにあの道でないはずはないか.

 そうですね,日本文学の王道は亡霊がみなそこから夕霧や霞のなかからたちのぼる,ここがこの世であるのかあの世であるのかさだかでない世界だ.そこには悲しみだけが昇華してありただよひただよひつづけます.さざなみの志賀のからさきにはおほみやびとのふねを待つ亡霊がたたづんでいます。隅田川にはわが子に会いたいとねがう母の眼前に童子の亡霊がたたづんでいます.これが日本文学の底流であり,黒田夏子さんも四才のときにわかれた母と再開されるためにこの作品を静かに詠うようにゆっくりとたゆたいながら流れ吐き出されたものに違いありません.


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昨日の続き。

黒田夏子氏・(略歴)19、7年昭和12年生まれ。現在75歳。早稲田大学教育学部卒業。昨年9月、応募した「abさんご」で第24回早稲田文学新人賞受賞。「早稲田文学5号」に掲載された受賞作で、2013年平成25年1月芥川賞受賞。受賞作は2013年平成25年『文藝春秋』3月号に掲載される。(芥川賞選考委員は高樹のぶ子、小川洋子、宮本輝、山田詠美、川上弘美、奥泉光、堀江敏幸、村上龍、島田雅彦)

『文藝春秋』のインタヴュー記事のタイトルがいいですね。

『幼女からそのまま老人になりました』 

『四歳で亡くした母の記憶、同人誌に熱中した学生時代』受賞者は語る『ほんとに幼児のまんまここまで来ちゃった。私は大人にたぶん一度もならないで、幼児からそのまま老人になりました』

 いいですね。まさに聖少女ですね。そういえばむかし新潮社から純文学書き下ろしシリーズで出た倉橋由美子の『聖少女』がありました。どんな作品だったか忘れましたが(ひょっとしたらずっと書架に鎮座しているけれどまだ読んでいなかったかも)黒田夏子さんにはまだまだ書き続けてほしいですね。そしてあの『死霊』がずっと書き続けられたように、黒田文学の森がさらに繁茂されることを禱りたい。そうしてたとえばひむがしののにかぎろひのたつみえるころに、黒田さんのたましひが野にただよっていて永遠の文学少女たちが仰ぎ見、語り継がれる存在であってほしいですね。


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abさんごとはなんだろうと考えているじぶんにきづく.おもうはたからこれは作者のわなだときづく.りかいしてはならない.aでもなければbでもないさんごでもないこれはabさんごだとおもえばよい.aとbはしょうせつのはじめとおわりにとうじょうします.いんようします.

aというがっこうのどちらにいくのかと,会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが,きかれた小児はちょうどその町をはなれていくところだったから,aにもbにもついにむえんだった.

これは冒頭,つぎはかんどうてきな しょうせつの最後尾.

道が岐れるところにくると,小児が目をつぶってこまのようにまわる.ぐうぜん止まったほうへ行こうというつもりなのだが,どちらへだかあいまいな向きのことも多く,ふたりでわらいもつれながらやりなおされる.目をとじた者にさまざまな匂いがあふれよせた.aの道からもbの道からもあふれよせた.

だいにしょう?(しるべ)の文.

それらは夏の日なかの,見られるともないゆれるともない,さなかにこころもとなくふたしかなしるべだった.しるべの過剰な夏がしるべのかき消えた夏に移行して,死からまもなかったころよりももっとしたたかな死のけはいを,無いことのうちに顕たせたはずの夏は,そのことじたいをさえ見さだめきれなさの中へ翳りかすませる.

韻をふくんだ美しい古文だ.くりかえしよんでいるとその韻がからだじゅうにしみわたる.しかし(しるべ=現代文訳・解説)がほしい。そういえば現代詩の多くもそうだ.万葉集はまだわかりやすいがそれでも(しるべ)というくすりをほしがっている自分にきづく。

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黒田夏子「abさんご」

第148回平成24年度下半期芥川賞受賞作)

「文藝春秋」平成25年3月号掲載。

これはいったいどこのことばなのだろう?

にほんごのようでもありちがうようでもある.

そもそもこれは小説なのかたとえば二行目はこんなふうだ.

その,まよわれることのなかった道の枝を,半せいきしてゆめの中で示されなおした者は,見あげたことのなかったてんじょう,ふんだことのなかったゆかか,出あわなかった小児たちのかおのないかおを見さだめようとして,すこしあせり,それからとてもくつろいだ.

つづく文章はこんなふうだ.

そこからぜんぶをやりなおせるとかんじることのこのうえない軽さのうちへ,どちらでもないべつの町の初等教育からたどりはじめた長い日月のはてにたゆたい目ざめた者に,みゃくらくもなく野生の小禽たちのよびかわしがある.

 

さくひんの最後に各章がContentsとして

しょうかいされている.

 

受像者

しるべ 

窓の木 

最初の晩餐 

解釈 

予習 

やわらかい檻 

旅じたく 

満月たち 

暗い買いもの 

秋の靴 

草ごろし 

虹のゆくえ 

ねむらせうた 

こま

 

はじめはとまどいをおぼえるものの読みすすみ

また元へ戻り読みすすめると,しだいしだいに

これはたましひのことばだと了解されてくる.

たましひは浮遊しておりたとえば天井の片隅から

過去のじぶんや死んだふたりの親たちのすがたを見ている.

それはゆめだ.ゆめをみている人は(受像者)と

ひょうげんされるのだ.

はじめの(受像者)2ぺいじを読み、あとぱらぱらと

ぺいじを繰ってゆくだけでこれはすごいさくひんだと

直感する。たとえばカフカの『城』『審判』にも匹敵する

さくひんなのではなかろうか.

 

 

 

 

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