昨日のつづき。
(草ごろし)から。
それでも,たえだえのかよいじを足うらに知っていた者がさしかかると,ふとあの通りがての草の道の空の色の亡霊,十一時の匂いの亡霊がかすめることがあった.いつか,灯したてられてにぎわいどよめく雑踏の底と変わっても,あの草の亡霊は天をさすか,よごれた水のおもてのよごれない夕あかねの亡霊はかがよいたゆたうか,ついに道でさえもなくなり,あたりぜんぶが巨きな建造物にふくまれてしまってもか,そのはるか地面を離れた階のろうかをたどる者にも,ふりあおぐ頭上にさしのびている草の葉を通してべつの草のべつのかたちの葉の亡霊が透けてさやぎ,かけぬけざまに跳躍して遠いほうの葉にさわってみようとする手をさざめきあやすか,それならばまた,そこでなくても,どこだろうとあの道でないことはなく,どこにいようとそこがさながらにあの道でないはずはないか.
そうですね,日本文学の王道は亡霊がみなそこから夕霧や霞のなかからたちのぼる,ここがこの世であるのかあの世であるのかさだかでない世界だ.そこには悲しみだけが昇華してありただよひただよひつづけます.さざなみの志賀のからさきにはおほみやびとのふねを待つ亡霊がたたづんでいます。隅田川にはわが子に会いたいとねがう母の眼前に童子の亡霊がたたづんでいます.これが日本文学の底流であり,黒田夏子さんも四才のときにわかれた母と再開されるためにこの作品を静かに詠うようにゆっくりとたゆたいながら流れ吐き出されたものに違いありません.