文学逍遥 伊奈文庫(伊奈遊子ブログ)

伊奈遊子(ゆうし)による文学逍遥。 つれづれなるままに記す文学雑感&読書メモです。

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昨日のつづき。

 『八月の詩人』の第3章「愛」は、抒情詩人であった峠三吉について書かれています。 三吉の少年期の初恋から、女性への思慕と詩作にあけくれた青春期、 そしてのちに妻となった和子との愛、その経緯について著者は丹念に三吉の思索と行動を追っています。 

 若き日の三吉の恋について著者はつぎのように記述する。『青春の火華としての恋、傷ついた恋、気まぐれのような恋、はげしく燃えあがる恋ーわが三吉も、その若き日をあげて恋をうたった。』 (著者はここで多くの彼の詩を紹介していますが、省略します)。 

  【三吉の妻となった和子について】                             

 和子は、最初の結婚に失敗し、次に米問屋の原田家に後妻としてはいった。『原田家には先妻の子ひとりと姑がいた』。和子はここで男の子をひとり授かるが、姑の「病的な嫉妬」にあい不妊手術を強要される。『そうして十年、原子爆弾が広島に投下された。』 主人は原爆症で亡くなった。姑からは和子の親権喪失の訴訟がおこされた。和子は当時をなまなましく手記にしたためています。そのあと三吉と出会い、結婚。

  『八月の詩人』の第4章は、 「変革の道程」と題されています。戦後にかかわった文化サークルのなかで、峠三吉は「平和のたたかいをおこす」詩を発表してゆくのですが、その過程について著者はこのように記述しています。

『 峠三吉は、すでにみてきたように、抒情詩人、クリスチャンとして、神の恩寵や、人間の深部にある暖かく気はずかしいようなやさしさなどによって、自己完成をめざす青年であった。しかし、原子爆弾による被爆を境として、自己変革のたたかいにむかってゆく。その自己変革のありかたは、実に劇的で、感動的なものであった。短い生涯を生き抜いた三吉の、一条の火箭のように燃えた変革のたたかいの、『原爆詩集』に結晶してゆくいのちのときであった』。

                   ☆

八月六日

あのときの閃光が忘れえようか  /  瞬時に街頭の三万は消え  /  圧しつぶされた暗闇の底で  /  五万の悲鳴は絶え

渦巻くきいろい煙がうすれると  /  ビルディングは裂け、橋は崩れ  /  満員電車はそのまま焦げ  /  涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島  /  やがてボロ切れのような皮膚を垂れた  /  両手を胸に  /  くずれた脳漿を踏み  /  焼け焦げた布を腰にまとって  /  泣きながら群れ歩いた裸体の行列  /  石地蔵のように散乱した練兵場の屍体  /  つながれた筏へ這いより折り重なった河岸の群も  /  灼けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり  /  夕空をつく火光の中に  /  下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも  /  焼けうつり

兵器廠の床の糞尿のうえに  /  のがれ横わった女学生らの  /  太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あおむけの、丸坊主の  /  誰がたれとも分からぬ一群の上に朝日がさせば  /  すでに動くものもなく  /  異臭のよどんだなかで  /  金ダライにとぶ蝿の羽音だけ

三十万の全市をしめた  /  あの静寂が忘れえようか  /  そのしずけさの中で  /  帰らなかった妻や子のしろい眼窩が  /  俺たちの心魂をたち割って  / 込めたねがいを  /  忘れえようか! 』 

                     ☆

 さいごに『原爆詩集』から「その日はいつか」という長篇詩の一部分を記しておきます。『この作品は二三〇行ちかくもある長い詩で、「原爆詩集』の作品の、あらゆる意味のひとつの到達点を示しているものである。』と著者は記している。

『裸になった赤むけの屍体ばかりだったのに  /  どうしたわけか君だけは衣服をつけ  /  靴も片方はいている、  /  少し片頬に髪もふさふさして  /  爛れたあとも血のいろも見えぬが  /  スカート風のもんぺのうしろだけが  /  すっぽり焼けぬけ  /  尻がまるく現れ  /  死のくるしみが押し出した少しの便が  /  ひからびてついていて  /  影一つないまひるの日ざしが照らし出している 』

  

昨日の続き。

  『八月の詩人』は峠三吉の心の遍歴と詩の道程を丹念にたどりながら、彼の生涯を浮き上がらせた労作です。第一章「細い葦」は彼の家系や少年時代から思春期の短歌や俳句に親しんだ頃にふれ、第二章「抒情詩人」では1936年【昭和11年】19歳から、1945年【昭和20年】28歳までの詩作時期について書いています。

  『八月の詩人』の著者である増岡敏和は、彼と親しく交わり、ともに詩をつくり、ともに平和活動にかかわった詩人ですが、峠三吉の人柄について次のように記しています。

『峠三吉といえば、「原爆詩人」として名高いが、知人友人のあいだでは、いつにかわらず抒情詩人で通っている。 / ものごしもやわらかく、やさ男でひょうひょうとしており、風に吹かれて去ってゆく風情がある。去られるとあとにはなにかやさしさと懐かしさがいつまでも残っているといった雰囲気をもっていた。それに繊細な抒情詩をたくさん書いていることなどによって、抒情詩人の評判があった。そして音楽や絵画を愛し、若くして亡くなった母を慕い、家族をいつくしみ、少年や少女をいとおしみ、花や樹木にこころを寄せ、女性へのあこがれをうたい、神のめぐみをうけたいと敬虔にひざまづくかれだったから、ひとはかれを生まれながらの抒情詩人とおもったし、そういうふうにいつもかれを評していた。』

  峠三吉は、1942年昭和17年25歳のとき、キリスト教の洗礼を受けています。クリスチャンであった姉の影響も大きかったでしょうが、彼自身のまじめで、心やさしい性格の反映であるように思われます。

  1944年昭和19年27歳。戦況がいちだんと激しくなっていった時代に書いていた詩はこんなふうでした。

花蔭

花かげの  花かげの  /  いうに優しき 風のふところ  /  暖かな 純(きよ)らかな 眼には尋め得ぬ まどろみ  /  眼(まなこ)ねぶりて 睡り耽りて  /  あおあおと又あわあわとゆうぐれの匂いに沐浴(ゆあみ)する  /  花の思いを翳(かざ)され享けて 包まれた  /  気配の跼(かが)まり・・・・  /  微(かす)かなこころ・・・・      

 宵闇の息吹ごもりに  /  陽のうすれ 地を掠め そこはかとその裡(うち)にさし入れば  /  奇しくも映らい泛(うか)び出ずるも  / ”こころ”にあらぬ 花茎の影  /  影ゆれて ありとも知れぬ  /  ものうげの 睫毛のさきに  /  呼びかわす  山の端(は)と  /  山の彼方と 』

Scan0002_2・(←中表紙)

 昨日の続き。

 『峠家は、由緒ある家柄であった』・・・『八月の詩人』の書き出しである。著書によれば、先祖は広島県加茂逆竹原近在の庄屋であったという。祖父の伊兵衛のとき広島に出てきた。伊兵衛には、延吉、嘉一という二人の息子がいた。『延吉は、九州の大辻岩屋炭鉱(貝島系)を経営し、瓜生外吉海軍大将の娘しのぶを妻とした。』

 三吉の父の 『嘉一は、山口県徳佐に蠟石山をもち、広島市大野浦で耐火煉瓦工場を経営するかたわら広島市忠海にあった日本ホロタイル(住友系)の専務取締役をつとめていた。』

  嘉吉には五人の子どもがいた。嘉子、一夫、千栄子、匡、三吉である。三吉の父親の、『嘉一は、おだやかな人柄で、子どもたちにはやさしい父親であった』。 

 しかしまた嘉一は『賀川豊彦の『死線をこえて』『太陽を射るもの』などを読んで、賀川より深刻な影響をうけていた。』という一面ものぞかせる父でもあった。『路傍伝道に専心した賀川の贖罪愛の実践と献身の生活を、三吉の父母も一夫も多大な感動をもってうけとめ、一家で話しあうことがあった』という。

  『三吉の母はステといった。佐賀藩の祐筆中島家の三女であった。佐賀の名門である。ステの姉は、明治維新政府の参謀、のちに佐賀に兵を挙げた江藤新平の長男新作に嫁ぐ。  (中略)   ステは青踏社運動の平塚雷鳥を尊敬する明治の「新しい」女であった。  (中略)   また、文学が好きで、ハイネを愛誦し、和歌をよくした。  (中略)  三吉の少年時代からの文学好きは、なによりもこの母に負うところのものであったが、とくに三吉だけにその影響が大きかったということはなかった。早くからトルストイを読み、小説の習作などを試みる文学好きな兄弟であった。』

  

 三吉の兄妹のうち、彼がもっとも長く一緒に暮らし影響を受けたのは、プロテスタントのクリスチャンであった長姉の嘉子である。重度脳性小児麻痺の息子を育て上げ、ピアノ教師として暮らした。

 『長兄の一夫は、三高在学中、社会科学研究会に入って社会主義運動に参加していたが、四.一六事件(一九二九年、共産党員一斉検挙)で放校になる。 (中略) 放校後すぐ旧全評系大阪金属労働者組合の書紀になり、やがて(同)支部長として活躍したが、まもなく治安維持法違反で前後一五回逮捕されている。』

『次兄の匡は、やはり昭和のはじめ全協にはいり、(中略)共産党に入党した。(中略)捕えられて肺結核にかかり、出獄して二年ののちの一九三六年に死んだ。22歳であった。』

『次姉の千栄子は結婚して今井姓となる。(中略)反戦運動に加わった。共産青年同盟員であった。』 

 兄妹のうち長女の嘉子はクリスチャンとなり、他の4人は三吉も含めてそろって青春期の身を社会主義運動に投じていった。このような傾向の源泉はどこからやってきたのかと考える。やはり正義感の強い父と、文学を愛する多感な母の影響によるものだろうか。

 

 

 

Scan0001_2(東邦出版社)  1970年昭和45年発行

 詩人「峠三吉」の詩と彼の生涯を追った。B5版375頁の大作です。

 『原爆詩集』の著者として名高い「峠三吉」は、1917年大正6年に生まれ、1953年昭和28年死去、36年の短い生涯を終えています。

 広島で被爆したのは、28歳の夏である。戦後は一貫して詩の執筆活動と、平和運動に取り組む。昭和22年30歳で結婚。昭和24年32歳、新日本文学界に参加、また日本共産党に入党。昭和27年35歳『原爆詩集』を青木書店より青木文庫として出版。

 彼は戦前より肺結核と診断され胸の病をかかえていたが、戦後の30代もしばしば喀血をくりかえし、『原爆詩集』を出版した翌年の昭和28年、入院先でその短い生涯を終えています。

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