文学逍遥 伊奈文庫(伊奈遊子ブログ)

伊奈遊子(ゆうし)による文学逍遥。 つれづれなるままに記す文学雑感&読書メモです。

カテゴリ: > み 道浦母都子

Photo_3 NHK出版() 2001年平成13年発行  

 NHKテレビ1月~3月放送分人間講座テキストです。目次を列挙すれば

 第1回 『サラダ記念日』の登場~女歌の現在

 第2回 『みだれ髪』誕生~与謝野晶子(一)

 第3回 『明星』の女性歌人たち~山川登美子・茅野雅子

 第4回 大正期の女性歌人(一)~9條武子・柳原白蓮

 第5回 大正期の女性歌人(二)~原阿佐緒・三ケ島葭子

 第6回 歌と小説と~岡本かの子

 第7回 『乳房喪失』の意味~中城ふみ子

 第8回 昭和期の女性歌人(一)

 第9回 昭和期の女性歌人(二)

 第10回 昭和期の女性歌人(三)

 第11回 戦後生まれの女性歌人

 第12回 女歌の行方~与謝野晶子(二)

 著者が『女歌の百年』の冒頭に『サラダ記念日』の俵万智(たわらまち)をもってきているというのがいいですね。和歌というと、なんとなくじめっとした印象があるのですが、『サラダ記念日』はカラッと明るいのがいいですね。

 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校」

 そして一転、著者は明治の与謝野晶子へと移り、著作の最後も与謝野晶子で締めくくっています。

 やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君

 この官能的言葉についつい惹き付けられてしまうのですが、著者の訳文はつぎの通りです。(わたくしのこのやわらかな肌の下に熱く脈打っている情熱に触れることもしないで社会の道徳や倫理に忠実なあなたは、寂しくはありませんか)

  ・・・話は少し横道にそれますが、この「道を説く君」というのは、与謝野晶子には具体的な人物が浮かんでいたのでしょうか? この歌がおさめられた「みだれ髪」は明治34年(1901年)に発行されていますが、この年は夏目漱石と同年生まれの東京帝国大学の国文学者芳賀矢一がドイツから帰国し教授になっています。この先生、源氏物語は「乱倫の書物」であるといい、このような本が日本の古典であるということは実に嘆かわしいと論じているそうです。「道を説く君」が芳賀矢一ではないとしても、近代西洋の学問を学びながらも同じように儒教倫理に縛られた学者先生達は当時大変多かったのだろうと思います。堺の商家で育ち、与謝野鉄幹と恋におちた晶子はそれらのしがらみから自由であったことが、近代のこの記念碑ともいうべき「みだれ髪」を生んだのでしょう。著者の道浦母都子氏は次のように述べています。「女性の歌の近代の到来とも思える『みだれ髪』が1901年という二十世紀の初頭に刊行されたことは、何か運命的なものを感じさせる面があります。」

 さらに著者はこの歌集「みだれ髪」が女性の恋情を表現する象徴として、万葉以来つづく「黒髪」から「乳房」へと深化していると指摘されている。

 乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅(くれなゐ)ぞ濃き

 春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ

 

  大正期の女性歌人「原阿佐緒(はらあさお)」の歌。

 森深かく独り居りつつひそやかに我が両乳をもちて寂しむ

 黒髪もこの両乳もうつし身の人にはもはや触れざるならむ

 いまはしき恋のかたみと乳の上の刃の傷痕に心ふるいぬ

 

  著者(道浦母都子)の乳房の歌。

 人知りてなお深まりし寂しさにわが鋭角の乳房抱きぬ

 産むことを知らぬ乳房ぞ吐魯番(トルファン)の絹に包(くる)めばみずみずとせり

 

  著者が力をいれて論じているもう一人は「岡本かの子」です。

  うーん、彼女はまさしく恋をするために生まれてきたような歌人ですね。

 櫻ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり

 しんしんと櫻花(はな)ふかき奥にいっぽんの道とほりたりわれひとり行(ゆ)く

 年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり

  著者は岡本太郎の千里万博の太陽の塔の顔のモデルは母の岡本かの子ではないかと想像しています。あらためて写真をみれば間違いなく真実を言い当てているような気がしてきました。

2009年平成21年6月27日 記す。

 

 

Photo_2  (岩波書店・同時代ライブラリー) 1990年平成2年発行

 

 あとづけによれば、道浦母都子が歌集「無援の抒情」を雁書館より発刊したのは、1980年.つまり歌集で歌った70年前後の時代から10年を経過した後、作者は自己の存在を歌集という形で世に送り出しています。 本書はそのまた10年後、のちの歌集やエッセイも含めて、岩波書店から同じタイトルで発行されました。作者は70年の学園闘争の時代から10年ごとに新たな階段をのぼって歌人として成長してこられたように思われます。

迫りくる楯怯えつつ怯えつつ確かめている私の実在

 「今日生きねば明日生きられぬ」という言葉想いて激しきジグザグにいる

催涙ガス避けんと秘かに持ち来たるレモンが胸で不意に匂えり

ガス弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いゆく

釈放されて帰りしわれの頬を打つ父よあなたこそ起たねばならぬ

君が講堂にいなくてよかったひと言告げて電話は切れぬ

 「うたで語る自分史」と題した講演のなかで作者は「無援の抒情」という歌集のタイトルが、高橋和巳の「孤立無援の思想」からつけたと述べています。全共闘運動が吹き荒れた時代、その真っ只中にあった作者は一九六九.一.一八(東大安田講堂)の時を書いたエッセイのなかで、

「「世代の典型を生きるー」その自覚が私のどこかにある。」と書いています。「私は、真っ赤に燃えながら安田講堂屋上から落下していく旗の中に、その落日のような終焉を見たのだった。(略)一九六九.一.一八/私にとっての青春の終り。それは私自身の言葉への旅立ちの始まりだった。今、私は、その旅の中を生きている。」と記しています。

 道浦母都子の歌はまさしく時代が生み出した文学であったといえるのですが、その魅力の源泉は与謝野晶子にも通じる、女性の心と体から溢れだす匂いと触覚にあるように思われます。

2009年6月12日記す。

 

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