時代が進んでも人間は変わらない。
人間が生物学的にヒトとなった時から、人間の考えなんて大して変わってはいない。
社会や環境の変化などで多少の価値観の変化はあるだろうし、知識の積み上げで思い込みや迷信で惑わされるようなことは減ってきたりするかも知れないが、同様の条件がそろえば、何千年前の人々も現代人もほとんど同じ反応をする。
最近の研究によれば、人間の知能も6000年前がピークだったと言う。生きていくのに大変で、頭を使わないと生存が危うかったからだ。
過去の人達よりも自分たちの今の時代のほうが進んでいるというのは驕りそのもので、昔にあった考え方などがつまらなくて最近の流行りの考え方のほうがより良かったり正しいというのは、せいぜい科学的知識の一部に当てはまる程度だ。
今においても昔においても、ほとんどの行うべきことは行うべきことで、行なってならないことは行なってならないことだ。
人の命を奪ってはならないし、無闇に人に暴力を振るってはならない。
過去の人類の歴史においては、”敵”の命を多く奪った者が英雄になったりしているが、それは勝者の歴史が”歴史”として残っているからであって、敗者にとっては侵略者であったり暴虐の人物でしかなかったりする。
そういう”歴史”そのものを否定はしないし、人類の歴史とはそういうものなのだろうが、それでもやはり、人の命を奪うべきでないことは今においてだけでなく、過去においても否定できないことだろう。
ヒトという種の生物学的な構造が変わらない限りは、普遍的にあるべき価値観なんてほとんど変わりはしない。
一時的に価値観の逆転のようなことが起こることはあっても、それはその人やその一時代の迷いのようなものであって、本来的にはそんなものに影響されないことが望ましい。
「近代的」であろうが「前近代的」であろうが、そんなものは本来のあり得べき価値判断とはほとんど何の関係もない。
きっと今も昔も、スポーツの指導などにおいて何度も平手打ちをするような行為は、技術の向上には大して役に立たず、ただの暴力と呼んで良いようなものだろう。
逆に言葉で言っても騒ぎ続けるような輩に、平手打ちを力を加減しながら一発かます程度であれば、それを許されざる体罰と言う者もいるだろうが、ほとんどの良識ある者にはそれが暴力などではない指導であることは分かるだろう。
指導する者は、それなりの覚悟を持って行わなければならない。
本当に有効な指導とはいかなる方法であるか。それを常に考えながら検証し、自らの行為を修正できるようでなければならない。
怒るのではなく叱ることができなければ、指導者(教育者)の立場を返上する程度の覚悟がなくてはならない。
あまりもの酷い行為に対して、叱るを忘れて怒ることもあるだろう。
しかしそれはあくまで日頃の叱るがあっての、その限度を超えた場合に限られなければ、ただの暴力行為と言われるだろう。
逆に言えば、叱るの範囲であれば、体罰は許容内にあると言えよう。
体罰が暴力だとしてあらゆる体罰を禁止するようなことは、言葉だけではどうしようもない輩がいる現実を見ない「遅れた」考えに見えてしまう。
死刑を許容できる良識を持っている日本人には、必要な体罰も許容できる良識があるように思える。
必要なことは必要なのだと、一定の体罰は許容できる社会でありたい。
しかし一方で、体罰の名を借りた暴力がまかり通っていることも否定できない。
必要なのはあらゆる体罰の否定ではなく、良識を持って必要な体罰を許容する仕組みを構築することだろう。
例えば、授業は公開にするような。
一般に広く授業を公開することには、セキュリティの点から問題もあるし教師や生徒の集中力も奪いかねない。
しかし今の技術を使えば、大きな問題もなく授業を公開できる。
インターネット中継で公開すれば、セキュリティや集中力の問題はなくすことができる。
プライバシーの問題は、画質を落とすとか教室の後ろから生徒の顔が映らないような配慮をすれば大した問題にならないし、アクセスを保護者や登録者に限定すればより良い。
授業が公開されていれば、暴力的な体罰は行えないだろうし、授業を妨害するような行為は公の良識の元に非難される。
授業妨害をするような輩に節度を持った体罰をしても、馬鹿親は怒るかも知れないが、社会は十分許容するだろう。
あるべきこととあらざるべきことを、正しく区別し行う社会でありたい。
体罰禁止がもたらすもの ますます学校は荒れる
【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思
学校での体罰問題は、いっさいの体罰厳禁という方向へ動いている。大阪の桜宮高校で生じた体罰による生徒の自殺をきっかけにしたものだ。
少し前までは、体罰は、程度はあれほとんど日常的であった。私の子供のころは、授業中にしゃべったといって頬をひっぱたかれ、騒いだといって廊下に立たされ、ということは日常であった。今なら教師はすべて懲戒ものである。
今後は、体罰は、暴行、傷害に類した疑似犯罪とみなされることになる。さらに、過去へとさかのぼって体罰を加えた教師を告発するという事態まで生じており、体罰を加えた教師は半ば犯罪者扱いである。
教育上の体罰と教師による個人的な暴力とは紙一重であって、体罰の是非は個別のケースで論じなければならない。また、部活の体罰と校則違反や校内暴力での 体罰も一緒にするわけにはいかない。しかも、ただの暴行としかいいようのないケースも多々あることは推測に難くない。徹底して話し合うというのが本来の教 育であることも疑いない。
私は、桜宮の事例にせよ、細かい事情を知らないので、個別のケースについて論じるものではない。しかしそれで も、過去の事例にまでさかのぼって体罰教師を無条件に告発するという風潮には、いささかうすら寒いものを感じる。ここに横たわる「考え方」が私には何かい やなものを含んでいるように思われるのだ。
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記事本文の続き 学校における一切の体罰厳禁とは、一種の「学級平和主義」のようなもので、確かに「学級民主主義」とともに「戦後」の教育理念そのものであろう。かつて体罰を容認すると述べていた橋下徹大阪市長が、はしなくも、その考えを「前近代的だった」と反省していたが、体罰(暴力)は「前近代的」で、話し合い(民主主義)と非暴力(平和主義)が「近代的」というのが、戦後日本の公式的立場であった。
そこで、仮に「前近代」と「近代」の区別を、社会学の通例にしたがって次のように考えよう。「前近代社会」の基軸は人と人との上下を含んだ人格的な関係に あり、「近代社会」の基軸は平等な契約関係にある。すると、教師と生徒が上下関係を伴いつつ人格的に触れあい、ぶつかりあい、交差するなどという教育は 「前近代的」ということになる。近代社会の教育は、教師と生徒(保護者)の契約関係にあり、この中には、生徒の権利保護のために教師の体罰禁止も含まれよ う。ここでは、教師と生徒の関係は、人格的な信頼関係に基づくのではなく、立場の相違からくる権力関係と双方の権利・義務の関係となる。
私には、このようなものは教育だとは思われない。そもそもここに「前近代」と「近代」を持ち出すことも場違いであるが、仮にこの言葉を使えば、教育とはど こまでいっても「前近代的」であるほかなかろう。教師と生徒の間の双方の立場を踏まえた上での人格的な信頼関係こそが教育の基盤であるほかあるまい。
したがって、信頼関係のすでに崩壊したところで体罰を行うことは許されない。あるいは、体罰によって信頼関係が崩壊するならば、これもまた許されない。
◇
許されないのは契約上の権利や義務の問題ではなく、信頼を旨とする教育が成立しなくなるからだ。体罰を行うには、教師の側にもそれなりの覚悟が必要であって、それがなければ行うべきでない。
にもかかわらず、今日、この「信頼関係」を築くことそのものが相当に困難になっている。しかも、それは教師と生徒の関係だけではなく、友人同士、さらに家族も同じである。
かつては、教師に激しくしかられたり、あるいはいじめにあったりすれば、友人や先輩が相談にのり、家族や親類が支え、年長者が助力になったりしたものであ る。確かに、家族はあまりに密度が高すぎるのでかえって相談しがたいものはあろう。親には話しにくいものである。しかしそれでも、親や兄弟のまなざしを感 じることができれば、何とか自らを立て直したものであった。今日、そういう「信頼」できる関係の場が失われてしまっているようにみえる。だから問題は、学 校も家庭も地域もむしろ「近代化」してしまって、「前近代的」な人間同士の触れ合う場がなくなってしまった点にある。
今日、体罰教師の告発も、いじめの告発も、学校や教育委員会を通り越して、直接に地方自治体やマスコミにいってしまう。そこで首長がでてきて直接に学校や教育委員会を批判して事態を動かそうとする。例外的にはこのようなことが必要な事態もあろうとは思う。しかし、この風潮が一般化するのは問題であろう。
「市民」からの苦情や告発が直接に首長に届く。「市民」の代表であり、行政の長である首長が、学校や教育委員会を批判する、という構図ができてしまうと、 もっとも混乱するのは学校の現場である。すでにほとんど理不尽な不満を学校にぶつけてくる「クレーマー」は続出している。そこへ、学校や教師が悪者とみな されることになる。こうなると、教育の根本である、「信頼」はますます失われるだろう。子供たちが学校に不信感を抱くことを奨励するようなものであろう。 ますます学校は荒れるだろう。
しかしそれに対抗するすべを教師はいっさいもたない。このような事態は十分に予想されるのではなかろうか。過度な体罰を糾弾することも必要であろうが、また、この過度なまでの体罰厳禁という風潮をどこかで食い止めなければならないであろう。(さえき けいし)