「琉大事件」を考える(仮称)

~琉大事件に関する情報を集めています~

1953年、米軍の支配下にあった沖縄で、
学生の「原爆展」開催を理由に 4人を退学処分にするなど 
若者たちの平和への叫びを封じようとしたのが「琉大事件」

朝鮮戦争下で原爆展 『琉大事件とは何だったのか』

世界終末時計の針が30秒進み、世界の終わりまであと残り2分に

世界終末時計の針が30秒進み、世界の終わりまであと残り2分に
2018.01.26 20:00
https://www.gizmodo.jp/2018/01/doomsday-clock2018-2min.html

人類滅亡まで残り2分。

世界終末時計」ってご存知でしょうか。地球滅亡の時間を午前0時として、地球最後までの時間を示す時計なんですが、今朝30秒針が進められて、残り2分になってしまいました。かつてアメリカとソビエト両国が水素爆弾の実験をした1953年に針が進められて、今回と同じ残り2分まで迫ったことがありますが、それ以来の人類滅亡ギリギリタイムです。

世界終末時計は、アメリカの科学誌「The Bulletin of the Atomic Scientists 」が1947年に核戦争の脅威を警告するために作ったもの。針は情勢によって進んだり、戻ったりします。去年も残り3分だったのが針が進み、地球滅亡まで2.5分になったんです。これまでで世界滅亡まで1番時間があったのは1991年。冷戦の終わりで17分も針が戻されました。なのに、2018年は1953年にならんで世界滅亡まで最短時間記録です。かなりやばいですね。

The Bulletin of the Atomic Scientists誌のLawrence Krauss議長によると、何人かの専門家と話した結果、2018年は冷戦の時よりも危険な状態であるとのこと。「危険とその即時性を過小評価することは悲惨な核の状況を生むことになる。北朝鮮の核兵器計画は2017年に現れ、その周辺の国やアメリカへのリスクを高め続けている。」とKrauss議長はワシントンポスト紙に話しています。

今回針が30秒進んだ理由としては、トランプ大統領のツイート、ロシアに対するアメリカの核の姿勢、北朝鮮、イランなどの核兵器問題などが挙げられています。核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のBeatrice Fihn氏は「意図するのもしないものも、とにかくこれまではラッキーでやってこられました。ハワイでの弾道ミサイルが発射されたとする避難警報もありましたし、日本は早く行動しないとそのラッキーも尽きてしまうと考えていますしね。」と話しています。

また「ラッキーだったとか運任せなセキュリティは本当に馬鹿げていると思います。それがまさに現在の核の状況。122カ国が核兵器禁止条約に賛成していますが、他の国も核兵器禁止条約に参加して世界終末時計の存在自体を終わらせなくてはいけません。」とFihn氏。

核兵器は時計を進める主役となっていますが、実は核の問題ばっかりではないんです。Krauss議長は「時計はひとつの出来事によって動くわけではありません。核を取り巻く状況すべてが強い懸念となっているのです。」と説明。 2007年に核以外に針を動かす要因を機械化から気候変動までじっくり調査した所、気候変動のリスクは核兵器の問題に比べてやや危険の緊急性が低いように見るけれど、壊滅的な温度の上昇は長い目で見ると、いま行動を起こさなくてはいけないとわかったとKrauss氏は話しています。「各国々がパリ協定に書かれている条件を満たすには、温室効果ガスを劇的に減らしていかなければいけません。今の所、温室効果ガスを減らすことがうまくできていない状況なのです。」と。

前途したように、去年も時計の針が30秒進んで残り3分から2.5分になってしまったのですが、トランプ大統領が核廃絶、気候変動対策に対して消極的な発言をしたことが大きかったようです。時計の針が進むか戻るかは大国アメリカの挙動にかかっているところが大きいのがよくわかります。

トランプさん...あんまり針進めないでね。

Source: Washington Post


Matt Novak - Gizmodo US[原文
(岩田リョウコ)


「沖縄の核」真実伝えよ ゴルバチョフ氏、沖縄県民にメッセージ 反基地の闘い支持

「沖縄の核」真実伝えよ ゴルバチョフ氏、沖縄県民にメッセージ 反基地の闘い支持
2018年1月31日 07:15 琉球新報

「沖縄の核」真実伝えよ ゴルバチョフ氏、沖縄県民にメッセージ 反基地の闘い支持

2018年1月31日 07:15



東西冷戦終結の立役者で、ノーベル平和賞を受賞したミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領(86)は、核兵器の脅威が高まっている現状への懸念から、琉球新報を通して県民にメッセージを送った。「核兵器は現在もなお、沖縄に保管されているかもしれない」と危惧を示した上で「この問題は県民に真実を公開する必要がある」と指摘した。ゴルバチョフ氏は「沖縄での軍事基地拡大に対する県民の闘いを支持する」と強調し、「沖縄は軍事基地の島ではなく、沖縄の人々の島であり続けなければならない」と、自己決定権の行使を求めた。


 ゴルバチョフ氏はNHKが昨年放送した番組「NHKスペシャル 沖縄と核」で「冷戦時代、沖縄に多数配備されていた核兵器に関する情報を知った」とし、現在も沖縄に核が配備されている可能性を危惧した。

 ゴルバチョフ氏は85年の米ソ首脳会談で「核戦争は一切起こしてはならない」などとする共同宣言をレーガン米大統領と発表するなど核軍縮に積極的に取り組んできたことを強調した。その上で「沖縄での軍事基地拡大に対する県民の闘いを支持する」と、名護市辺野古の新基地建設反対運動にエールを送った。


沖縄を「世界に類を見ない豊かな自然と独特な文化がある」とし、沖縄の将来像について「世界の人々が行き交うターミナル」として「平和的な発展を目指すべきだ」と強調した。

 関係者によると、ゴルバチョフ氏は3度の沖縄訪問で「海岸の美しさに驚嘆した」と語り、「自己決定権」という言葉を使って「こんな恵まれた環境下にありながら、沖縄人がその特性に気付かず、自らが豊かな明日への十分な可能性を閉ざしているとしたら、極めて残念なことだ。次世代の子どもたちのためにも、平和で豊かな発展は、沖縄人の手の内にあることを、もう一度考えてほしい」と述べ、自己決定権の行使を求めたという。


■メッセージ要旨■


ゴルバチョフ氏が県民に送ったメッセージ文書


 冷戦時代、沖縄に多数配備されていた核兵器に関する情報が、NHKの番組などで明らかになったと知った。と同時に、現在もなお、沖縄に保管されているかもしれないという危惧で私は心を痛めている。この問題は、県民に真実を公開する必要がある。

 私は核兵器の削減や最終目標としての核兵器の完全撤廃、国際問題に軍事力を使用しないという点を主張してきた。この観点から、沖縄での軍事基地拡大に対する県民の闘いを支持してきたし、今後も支持する。

 沖縄は、世界に類を見ない豊かな自然と独特な文化がある。軍事基地の島ではなく、沖縄の人々の島であり続けなければならない

沖縄は世界の人々、文化、貿易が行き交うターミナルとしての環境が整っている。将来の世代のためにも、この豊かな環境を活用し、平和的な発展を目指されることを切に願う。


~琉球新報~



沖縄と核、アメリカ統治下の知られざる真実

那覇近郊で核ミサイルが誤発射されていた
NHKスペシャル『スクープドキュメント 沖縄と核』取材班
2017年09月09日
http://toyokeizai.net/articles/-/187336

アメリカ北部ウィスコンシン州にある人口8000人あまりの田舎町。トレーラーハウスと呼ばれる小さな家の中で、その男性は落ち着いた口調で私たちの質問に答え始めた。

「そう、事故を起こしたミサイルには、広島型原爆と同じ規模の威力を持つ、20キロトンの核弾頭が搭載されていました。もし核爆発を起こしていたら、那覇の街が吹き飛んでいたでしょう。本当に恐ろしいことです」

58年経って初めて、事故にかかわった当事者が語る

 
ロバート・レプキー氏

男性は、元アメリカ陸軍の兵士、ロバート・レプキー氏(81)。レプキー氏は、1950年代末、沖縄に配備されていた核ミサイル、ナイキ・ハーキュリーズの部隊に所属し、核弾頭を含むミサイル全体の整備を担当していたという。

その事故が起きたのは、1959年6月19日。場所は、人口が集中する那覇に隣接した基地(現在の那覇空港がある場所)。訓練の最中、1人の兵士が誤った装置をミサイルの電気回路に接続したため、ブースターが点火。ナイキミサイルは水平に発射され、そのまま海に落下。巻き込まれた兵士1人が即死した。

そして、このミサイルには、レプキー氏が自ら整備した核弾頭が搭載されていたというのである。アメリカ本土からやってきた事故調査団は、現場の兵士たちに、「事故についてはいっさい話すな」と命じたたため、レプキー氏はこれまで事故については誰にも語ることはなかったという。

沖縄の地元紙を見ると、事故が起きた直後、「ミサイル発射寸前に発火」という米軍当局の発表を報じる記事が出ているものの、事故を起こしたのが核兵器ナイキ・ハーキュリーズであることはおろか、実際に核弾頭が搭載されていたことはいっさい書かれていない。58年経って初めて、事故にかかわった当事者がテレビカメラの前で、その詳細を明かしたのである。



沖縄と核――。2年前の2015年、アメリカ国防総省は「本土復帰前の沖縄に核兵器を配備していた事実」を初めて公式に認めた。終戦から27年間アメリカの統治下に置かれていた沖縄に核兵器が配備されていたことは「公然の秘密」とされてきたものの、その内実はほとんど明らかになっていない。

 
1500点を超える資料

9月10日(日)午後9時から放送するNHKスペシャル『スクープドキュメント 沖縄と核』取材班は、日本とアメリカで1500点を超える資料を収集し、沖縄での核兵器の運用にかかわった元兵士たちへの取材を重ねた。

ひそかに沖縄に配備された核兵器

沖縄に最初に核兵器が配備されることになったと見られるのは1953年。この年、軍人出身のドワイト・アイゼンハワーが大統領に就任する。その年の7月、朝鮮戦争への対応を話し合うNSC(国家安全保障会議)で、アイゼンハワーが発した決定的な言葉が、最高機密指定の議事録に残されている。

「極東の空軍能力を増強せよ。緊急時の使用に備えて、核兵器を沖縄に配備する」

当時、アメリカは、ソビエト連邦を中心とする共産主義陣営との冷戦の真っただ中にあった。アイゼンハワーは、ソ連に比べ技術的に優位を保っていた核兵器を積極的に用いる方針を打ち出した。

しかし、当時はまだICBM(大陸間弾道ミサイル)やSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)など、長距離核攻撃を行う技術が開発されていなかったため、アメリカ軍は核兵器を前線基地に配備する必要があった。そこで選ばれたのが、アメリカの統治下にあり、かつ、朝鮮半島や台湾といった共産圏との対立を抱えた地域に近い沖縄だったのである。

ひそかに沖縄に配備された核兵器。その影響を直接受けることになった小さな島がある。沖縄北部、全国的な人気を誇る、あの「美ら海水族館」のすぐ対岸に浮かぶ伊江島である。

 
伊江島。NHKスペシャル『スクープドキュメント 沖縄と核』は9月10日(日)夜9時から放送です

アイゼンハワーが大統領に就任した1953年、伊江島では、米軍による土地接収の通告がなされた。軍は、人々の家や畑を取り壊し、戦闘爆撃機が訓練を行う爆撃場を造った。

今回見つかった文書には、この爆撃場で「LABS(ラブス=低高度爆撃法)」の訓練を行うと記録されている。調べていくと、このラブスとは、当時開発されたばかりの核爆弾の投下方法であった。


地上150メートルという低空で戦闘機が侵入。そして、標的の直前で急上昇し、核爆弾をリリース。核爆弾が放物線を描くようにゆっくりと落下する間に、パイロットは、猛スピードでその場を離脱する。高性能化しつつあった敵のレーダーをかいくぐりつつ、パイロットが核爆発に巻き込まれないよう時間を稼ぐことを目的にした方法である。

住民の命を奪う悲劇

そして、伊江島の人々の土地を奪って行われていたこのラブスの訓練が、住民の命を奪う悲劇を引き起こしていたことも今回の取材で明らかになった。

 
石川清鑑さん(当時28歳)

1959年9月、落下してきた模擬核爆弾が爆発し、農家の石川清鑑さん(当時28歳)が死亡。米軍の内部文書には、パイロットに爆弾の投下地点を知らせる発煙筒の誤作動が原因だったと記されている。

石川清鑑さんの1人娘、與儀京子(よぎ・きょうこ)さん(58)は、事故が起きた当時、生後9カ月だった。今回初めて、父の死の背景を知ったと言う。こみ上げる思いを、涙をこらえながら語ってくれた。

「なんでこんなことで父は死ななければならなかったのか。軍に土地を取られていなければ、こんなことにはならなかったはず。(父に)いてほしかった……」

 
石川清鑑さんの1人娘である與儀京子さん。NHKスペシャル『スクープドキュメント 沖縄と核』は9月10日(日)夜9時から放送です

一方、事故が起きた当時、伊江島で核爆弾の投下訓練を繰り返していたという元戦闘機パイロットは、私たちにこう語った。

「住民が犠牲になったのは気の毒に思う。しかし、当時私たちは、自由主義世界を守るという重要な使命を与えられていたのだ」

極東の安全を守るという大義の下に沖縄に配備された核兵器。しかし、いつしかその運用をめぐっては、国家や軍の論理が最優先され、住民の命は軽視されていった。

核が沖縄にもたらしたものは、事故や住民の被害にとどまらない。取材からは、米軍や米軍基地が、核兵器の配備とともに沖縄中に拡大していった過程が浮かび上がってきた。沖縄は、核の拠点として重視され、基地が強化、拡張されてきたのだ。基地集中の知られざる源流の一つがそこにあった。

現在も、抑止力の名の下に、日本におけるアメリカ軍専用施設の7割が置かれている沖縄。今回の取材で明らかになった「沖縄と核」の知られざる歴史は、沖縄が今も背負い続ける「負担の構造」を浮き彫りにしているのである。


【沖縄県民大会】「事件を政治利用するな!」…事件への怒りは当然だが、「オール沖縄」に違和感も

http://www.sankei.com/west/news/160619/wst1606190044-n2.html


産経WEST

2016.6.20 05:00



沖縄県うるま市の女性会社員(20)が元米海兵隊員の男に暴行、殺害された事件を受け、那覇市で19日、事件への抗議や米海兵隊撤退を求める県民大会が開かれた。共産党や社民党、労働組合などでつくる「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」の主催で、会場は抗議の声であふれた。一方、参院選公示を3日後に控えての大会開催に、会場外では「事件を政治利用するな」との批判も根強い。自民党、公明党の議員や、県内11市のうち9市長は参加しておらず、どこまで“オール沖縄”の民意なのか、といった声も上がっている。

「一部議員の不参加、腹が立つ」

 暑い日差しの中、大会は那覇市の奥武山公園陸上競技場で午後2時から約1時間半にわたって行われた。翁長雄志(おなが・たけし)知事は「二度とこのような事件を繰り返さないと誓いながら、政治の仕組みを変えられなかったことは痛恨の極み」とあいさつ。

 主催者が「県民の人権と命を守るためには、米軍基地の大幅な整理・縮小、なかでも海兵隊の撤退は急務だ」と提案した決議が、参加者の拍手で採択された。

 大会に参加した那覇市内の無職男性(75)は「痛ましい事件が二度と起きないよう、全ての米軍基地撤去を求めるのは当然。政治方針の違いなどつまらない理由で一部の議員が大会に参加していないことに腹が立つ」と話した。 

 一方、会場の外では、大会を冷めた目で見る県民も少なくない。



「実のある抗議になるのか」

「超党派でない大会に何の意味があるのか」と語るのは、21年前の米兵少女暴行事件を受けた県民総決起大会で、当時県議会議長として実行委員長を務めた元衆院議員、嘉数知賢(かかず・ちけん)さん(75)。党派や思想を超えた当時に比べ、自公の議員や県内11市中9市長が参加しない今回は「違和感がぬぐえない。これでは本当に実のある抗議にはならない」と疑問を呈す。

 政府が米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設を目指す同県名護市辺野古の青年会長、徳田真一さん(31)は「もう米軍を辞めた男の犯行。当然、人として怒りは覚えるが、事件を米軍基地の必要性につなげる意味が分からない」と話した。

基地前で謝る米兵の姿

 辺野古では米軍基地前の歩道を基地反対派のテントが占拠。関係ない「原発反対」の旗を掲げたり、「お前らのためにやっている」と押しつけがましく言われることもある。「地域住民の多くが、反対派は自分たちの都合しか考えないイメージを持っている。今回も選挙前だから開いたのではと勘ぐってしまう」。

 同県北谷町で、逮捕された米軍属が所属していた米軍嘉手納基地の近くに住むアルバイトの女性(18)は、事件後、多くの米兵が基地前で謝っている姿を見た。

 「そんな姿には目もくれず、海兵隊撤退を求める大会は一方的。基地問題への意見は人それぞれあるのは当然で、あたかも全県民が撤去を望んでいるかのように言うのは間違い」と話した。


TOPICS:Special Feature: Okinawa holds mass protest rally against US base

Documents exposing regulation of Okinawa’s free speech under US administration found
http://english.ryukyushimpo.jp/2016/01/06/24262/
e791cd137ca010dbe95da4afc04c8b75






















December 31, 2015 Ryukyu Shimpo by Mamoru Yasuda

As of December 30, a large quantity of documentation from the Government of the Ryukyu Islands regarding the regulation of freedom of speech under U.S. administration was discovered. These were documents handled by the Ryukyu government between January 1953 and June 1956, including applications to publish writings, official documents within the Ryukyu government, English-written letters of inquiry to the U.S. Civil Administration of the Ryukyu Islands (USCAR), and notices of authorization or lack thereof. Instead of being held at the Okinawa Prefectural Archives, the documents were preserved in an Okinawan household.

Official documents relating to publications were filed in volumes sorted by year. The years 1953 and 1954 each amounted to three volumes, 1955 was contained in two, and January through June of 1956 made up three volumes. There were eleven volumes consisting of 3,900 pages in total. These were designated as documents for permanent preservation within the secretarial division of the Government of the Ryukyu Islands.

Among the applications to publish were those for a political bulletin titled Jinmin (The People) written by politician Kamejiro Senaga of the local political party Okinawa Jinminto, and Kyoiku Shimbun (The Education Newspaper) proposed by Chobyo Yara, who would become chief executive of the Government of the Ryukyu Islands in 1968. There were even applications for school-specific writings such as literature written by students of University of the Ryukyus, reports of study abroad experiences in the U.S., Ryukyuan poetry, and high school literary magazines and newspapers.

When considering these applications, the Government of the Ryukyu Islands would repeatedly request investigations and records thereof from the Ryukyu police (formed under the Ryukyu government) about any applicant’s ideological tendencies, political affiliations, living arrangements, and personal relationships.

Aside from applications to publish, there were many other types of documents found. Applications to continue publishing periodicals, reports of discontinuing publications, and notifications of name alterations of publishers were also included. In addition there were directives to investigate for publication purposes handled by officials of the Government of the Ryukyu Islands in regional branch offices, notices of new proclamations, and other official documents and letters exchanged between administrative organs.

The numbers of confirmed applications and directives were 96 in 1953, 61 in 1954, 103 in 1955, and 75 in 1956 for a total of 335 documents. This includes not only publications that were authorized, but also applications that were not authorized or rejected.

In October 1953 the USCAR reevaluated all periodicals that had already been authorized for publication, and required each newspaper company or publisher to submit data and materials related to management of the operation, in addition to an application for continued publication. For one, the Ryukyu Shimpo submitted a register of all employees’ names.
At the time, the Government of the Ryukyu Islands was recognized by USCAR. Even if the Ryukyu government considered a publication allowable, however, if the USCAR did not, conditions would be added before authorization would be granted.

The discovered documents are suspected to have been stored at Okinawa Prefectural Government Headquarters. However, following Okinawa’s reversion to Japan, during the reconstruction of the Headquarters in the 1980s, these documents were probably removed to avoid damage dealt by demolition of old structures and not returned.

Naoki Monna, emeritus professor at Rikkyo University, has detailed knowledge of the regulation of freedom of speech under U.S. administration. While he was a graduate student in February 1966, he examined a portion of these documents himself, which were in storage at the Government of the Ryukyu Islands. He noted his surprise at the recent discovery of the documents, and mentioned that they reveal the fact that the U.S. military administration denied freedom of expression and speech that are fundamental human rights for Okinawans.

(English translation by T&CT and Erin Jones)

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エール送って駆けて60年―早稲田の応援団長から大阪市議へ

エール送って駆けて60年―早稲田の応援団長から大阪市議へ
辰巳正夫
無題

幼少期から高校卒業まで―1936年から1954年
早稲田大学に入学―1954年から1958年3月
思い出すままに―早稲田の思い出
大学院政治学研究科に入学―1958年4月から12月
早稲田精神昂揚会を結成、初代の会長に―1959年1月から1961年3月
歴史的な安保闘争
健康を守る会への就職、入党―1961年2月から1964年12月
住民運動のただなかに―1965年1月から1975年4月
あたらしい革新コンビが誕生―1975年4月から2003年4月
わが町、西淀川
佃コーポの団地生活
定数「1」の選挙に挑戦を決意
妻 春江の獅子奮迅
私の家族

著者紹介

辰巳正夫[タツミマサオ]
昭和11年1月1日生まれ。大阪府出身。早稲田大学文学部哲学科卒業。同大学院政治学研究科修了。大阪市西淀川区選出市会議員を7期つとめる。1975年第1回当選、計画土木副委員長。1979年第2回当選、公害特別委員長。1983年第3回当選、交通水道委員長。1987年第4回当選、民生保健副委員長。1991年第5回当選、計画消防副委員長、文教経済副委員長。1995年第6回当選、計画消防副委員長、建設港湾副委員長。1999年第7回当選、建設港湾委員長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
エール送って駆けて60年―早稲田の応援団長から大阪市議へ (紀伊國屋書店)




昭和30年代、西淀川 生健で一緒だったとは…
知らなかった! 驚き



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綜合原爆展ーWikipedia

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BOOKS Mangroove「琉大事件とは何だったのか」


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8月6日、広島でのシンポジウム

この事も話題にあがった
綜合原爆展ーWikipedia


綜合原爆展(そうごうげんばくてん)は、1951年昭和26年)、京都大学同学会の主催で開かれた、原爆に関する日本最初の本格的・総合的展覧会である。「京大原爆展」とも称される。


目次

 [非表示

概要[編集]

1951年5月、京都大学で開かれた「わだつみの声にこたえる全学文化祭」では、医学部および理学部の両学生自治会の企画による「原爆展」が開催された。この時の展示をベースに、より総合的な視点から原爆をとらえる一般市民向けの展覧会を開こうという声が学生の中から起こり、同年7月14日、京都大学の全学学生自治会である同学会は、数百人の学生ボランティアの協力を得て京都駅前の丸物百貨店(京都近鉄百貨店の前身 / 現存せず)で「綜合原爆展」を10日間の会期で開催した[1]

展示内容は、医学部・理学部のみならず法学部工学部農学部文学部など他学部の学生の手を借りて、原爆の原理と生産、人体や作物への影響、投下をめぐる政治情勢、原爆をテーマとした文学作品など、総合的内容を持つものとなり、この種の展覧会としては日本最初の試みであった。また、丸木位里夫妻の共同作品「原爆の図」の全5部作(当時)が公開され、第5部「少年少女」はこの展覧会が初公開となった(増刷された原爆展の入場券には「原爆の図」第3部「水」の一部が印刷されている)。この原爆展は数万人の入場者を集めて大成功した。また、会期終了後には展覧会で使用されたパネルが貸し出され、各都市でミニ原爆展が開かれた。こちらにも多数の入場者があったといわれる[1]

各都市での開催が一段落したのち、同学会は同年11月の秋の大学文化祭に綜合原爆展を学内(吉田分校 / 現・京大総合人間学部キャンパス)で開催することを企画したが、同時期に予定されていた昭和天皇来学との関係から京大当局は大学文化祭自体の開催を許可せず、11月12日天皇事件の結果、同学会が解散処分を受けたため実現しなかった[1]

綜合原爆展に関しては世間の忘却が進んでいたが、2015年、原爆展関係者で医師の川合一良が「原爆展関係資料」約2700点を京大大学文書館に寄贈した。原爆展関係資料は、綜合原爆展やミニ原爆展に関する資料や、新聞記事や「原爆展掘り起こしの会」の活動に関する資料を含む。大学文書館は資料の整理と、一般公開の準備を進めている[2]

意義・影響[編集]

連合国軍による占領の下で開かれたこの展覧会は、広島長崎における原爆被害を隠蔽し続けた占領軍による妨害にもかかわらず、原爆被害の実情と意味を初めて多くの一般市民に伝える役割を果たした(占領期間終了を待って刊行され、話題となった『アサヒグラフ』の「原爆特集号」(1952年8月)より1年先行している)。また、川合一良によると、総合原爆展やミニ原爆展が平和運動の契機になることがあった。川合は、これらの原爆展がビキニ事件以後の全国的反核運動の基礎になったのではと想像している[1]

主催団体の同学会は世界平和協議会より「平和賞」を受賞し、その記念として刊行された小冊子『平和は求めて追うべし』には湯川秀樹末川博が寄稿した。

京大学内においてこの原爆展は、1959年以降毎年開催されることになった京都大学の学園祭「11月祭」の起源として位置づけられている。

脚注[編集]

関連文献[編集]

学生として当時の開催に関わった人物の回想。
  • 松尾尊兌 『国際国家への出発』 集英社〈日本の歴史〉、1993年2月、単行本、150-151頁。ISBN 978-4-081-95021-8。「コラム「特集 京大原爆展と天皇事件」」
  • 河西秀哉 『敗戦後における学生運動と京大天皇事件 -「自治」と「理性」というキーワードから- 』 京都大学大学文書館研究紀要 第5号、2007年所収([1] (PDF)
  • 川合一良,河合葉子,西山伸 『<聞き取り記録> 川合一良氏・葉子氏 同学会・原爆展・女子学生懇親会等について』京都大学大学文書館研究紀要 第5号、2007年所収([2] (PDF)

関連項目[編集]

<社説>USCAR文書 米統治の無謀明らかにした

ryukyu-logo
http://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-466903.html
<社説>
USCAR文書 米統治の無謀明らかにした
2017年3月25日 06:01
米統治時代の新事実が明らかになった。米軍の圧政による人権や自治の侵害と民衆の抵抗の歴史は沖縄の未来の指標となる。歴史発掘の作業を今後も進めたい。

 沖縄県公文書館が米国民政府(USCAR)文書の一部を公開した。この中に、「反米的」な政治家を排除するための司法介入を指示する文書があった。

 人民党の瀬長亀次郎氏が1965年11月の第7回立法院選挙での失格を不服として琉球政府の裁判所に提訴した場合、USCAR法務局は「即USCARの裁判所に移送するように」と指示していた。

 瀬長氏は62年の第6回立法院選でも「人民党事件」(54年)を理由に失格し、被選挙権を奪われていた。瀬長氏は第7回立法院選を「公民権奪還の闘い」と位置付けていた。米統治に抵抗する瀬長氏を排除するため、司法介入に踏み込む米軍の強権的な手法が今回の公開文書でも明確に示された。

 事実、第7回立法院選で布令違反を理由に失格となった社大党の友利隆彪氏が起こした裁判で、USCARは裁判の移送を命じた。米軍は沖縄の司法権、自治権を根底から侵害したのだ。

 司法の独立を無視し、都合の悪い人物が起こした裁判に介入する無謀な行為は当時の米本国でも許されなかったではないか。そうならば明らかに二重基準である。

 人権や生命の安全に関する二重基準は、危険を顧みずに住宅地周辺で訓練を強行する今日の米軍やそれを容認する日本政府の姿勢に引き継がれている。県民を愚弄(ぐろう)し、生命を脅かす二重基準の矛盾がUSCAR文書に記録されているのである。

 今回の公開文書は沖縄の抵抗が米統治を揺るがしていた事実も明らかにした。松岡政保主席が「キャラウェイ高等弁務官に対する県民の怒りを鎮めるため、琉球政府に徐々に行政を移管した方がいい」と後任のワトソン高等弁務官に進言していた。

 主席公選要求に象徴される自治権獲得のうねりは米施政の変更を迫っていた。その意義を沖縄戦後史の中に位置付けたい。

 今回のUSCAR公開は2008年度以来、8年ぶりだ。個人情報に関する部分が多いため公開に時間を要した。米統治の暗部に光を当てる重要な仕事である。予算措置、人材確保など資料収集と公開の態勢強化を図りたい。



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沖縄問題を考える 中野好夫

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■目次

Ⅰ 沖縄はなぜわたしたちの問題であらねばならないか(中野好夫)
Ⅱ 沖縄「問題」の二十余年(新崎盛暉)
Ⅲ 沖縄分断の法的構造(宮崎繁樹)
Ⅳ アメリカの極東戦略と沖縄(高橋実)
Ⅴ 日米安保条約と沖縄(星野安三郎)
Ⅵ 基地沖縄の統治構造(宮里政玄)
Ⅶ 基地沖縄の経済的破壊(木村き八郎)
Ⅷ 日米「共同管理」教育政策(森田俊男)
Ⅸ 日本歴史の中の沖縄(井上清)
Ⅹ 沖縄県民の意識の中の日本像(霜田正次)
XI 日本人の意識の中の沖縄(新里恵二)
XII 沖縄の文化の問題への一視点(石田郁夫)
XIII 沖縄返還を実現するために――返してもらうのではない 返させる 返さざるをえなくさせるのだ(中野好夫)

資料1 沖縄問題にかんする文献案内(新崎盛暉)
資料2 沖縄問題にかんする資料
資料3 沖縄問題年表
資料4 詳細沖縄戦略地図
編者あとがき

中野 好夫 編 19680710 『沖縄問題を考える』 太平出版社,334p


【中古】沖縄問題を考える (1968年) (太平選書)
【中古】沖縄問題を考える (1968年) (太平選書)


「琉大事件を考える(仮称)」
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「敗戦直後の沖縄の政党と独立論」より

上原清治で検索したら
下記のblogがヒットした

沖縄自治研究会
http://plaza.rakuten.co.jp/jichiken/

敗戦直後の沖縄の政党と独立論
http://plaza.rakuten.co.jp/jichiken/8013/

その中から、上原清治さんに関する部分だけ、書き出しておく。



新崎盛輝先生も、いわゆるその当時の沖縄人民党は、これは間違いなく独立を志向したいただろうということを、『戦後沖縄史』の中で「戦後、人民党のいう全沖縄民族の解放は明らかに独立的志向を示していると言えよう。特にうるま新報や、実質的な人民党の機関誌『人民文化』に掲載された瀬長亀次郎の論文では、1949年から1950年の段階においてなお一貫して全沖縄(琉球)民族の解放、それから沖縄民族(琉球)の主権の確立、解放軍としての米軍に協力した民主沖縄の建設、人民自治政府の樹立、沖縄の基本法をつくる憲法会議の招集が強調されている」と述べていますね。。

 解放軍としての米軍に協力しつつ樹立される人民自治政府と、そこから展望される全沖縄民族の解放のイメージが独立論であることはほぼ間違いないであろうというふうに、新崎先生は断定して、人民党は独立を志向した政党だというふうに捉えております。

 しかし、これに対して共産党の上原清治さんは、日本共産党第5回大会で採択した沖縄民族の独立、メッセージなどの影響が全くなかったとは言えないが、自主憲法の制定そのものが独立を意味するものではなかった。ポツダム宣言の完全実施が目標であった。日本共産党は60年の歴史の中で、第5回大会の方針を誤っていたとしている。独立の明確な形態をとっていたかというとそうではない。はっきり独立とするとの表現もない。それからすると、実は新崎さんが言っているのは違うんじゃないかということで反論している。


報告1『敗戦直後の沖縄の政党と独立論』     
日時 平成16年7月10日
沖縄国際大学法学部助教授 照屋 寛之 


○司会(江上能義)  それでは沖縄国際大学の照屋さん、50分ほどお話をお願いします。


○照屋寛之  ただいま御紹介にあずかりました沖縄国際大学の照屋でございます。今日は小結の照屋と横綱の上原先生ということで、私の話は少々聞き流してもいいんじゃないかなと思いますね。

 私の方はいろいろな本から読んだのを伝えるぐらいで、特別に中身のある話はできないんじゃないかなと思います。いかんせん、非常に短期間でまとめた内容ですから、そんなに目新しいのも出てこないんじゃないかなという感じがいたします。あらかじめご了承ください。

 私は、最初この課題を与えられたときに、独立論ということだけが頭の中に入っていたもんですから、新沖縄文学の53号だったか48号だったか忘れましたけれども、「独立論の系譜」というのがありまして、その中ですぐに私の目についたのが沖縄民主党と琉球国民党だったんですね。
 ところが、私は最初その二つを中心に興味深く読んでいたんです。ぐいぐいと引き付けられるものがありました。しかし、よくよく考えてみると、今日の私に与えられたテーマは、「敗戦直後の沖縄の政党と独立論」となっていることに気づきまして、また大急ぎ敗戦直後の幾つかの政党を調べてみたわけなんですね。

 ところが、やはり沖縄の独立論を語るときには、どうしても沖縄民主同盟の仲宗根源和、それから琉球国民党の大宜味朝徳が非常に大きなウエイトを占めているんじゃないかなと思うんですね。この2人を語らずしては沖縄の独立論は語れないと言っても過言ではないかと思います。
 ところが、私に与えられたテーマは敗戦直後のということで、沖縄民主同盟については、後ほど実際にその設立にかかわった上原さんの方から、非常に興味深いお話が拝聴できるかと思います。

 私が今回、敗戦直後の琉球独立論について少し本を読んでみて非常に感じたのは、やはり敗戦直後の沖縄というのは、そういう面で食うや食わずの非常に苦しい生活の中であったけれども、自治意識、自立意識というのは非常に高かったのかなと思いました。俗に言う、痩せたソクラテスがたくさんいたような感じがしますね。政党活動というのも、本当に手弁当でやっていたわけですね。沖縄のために立ち上がって活動するその姿には感動させられますね。大宜味朝徳も自分の私財をなげうって琉球独立に一生懸命やったということでは、読んでいて勇気が与えられるというか、何か教えられるような感じがいたしました。

 ただ、大宜味朝徳の場合は、後ほど出てくるときにいろいろとお話ししますが、なかなか大衆がついてこなかったということで、非常に情熱を傾けた割にはうまく実を結ばなかったところもあるような感じがいたしました。

 それで、つくづく思うんですけれども、沖縄は歴史的にも、地理的にも、独立論が台頭しやすい土壌があるのかな、という感じを今回この独立論関係の論文などを読みながら感じたんですが、まず1609年に薩摩の侵攻、それから1879年に日本による併合、1945年は米軍統治下、それから1970年の復帰というようなことで、沖縄がこのような歴史的な体験を不本意にもしなければならなかった。それ以外に、今度はもっと大きいのは差別の歴史的な体験というのが、非常にこの独立論の根底の中にあるのではないかと思います。もし差別ということがなかったならば、こんなに独立論というのは底流をなして脈々と今日まで受け継がれることはなかったのではないかなというふうな感じもするんですね。これまでの沖縄の政治、社会の節目節目に必ず独立を掲げた人たちが登場して来るのはこのような背景があるのではないかという感じがいたします。

 これからすると、琉球独立論は戦後、終戦直後はもちろんのこと、我々のまだ記憶に新しい復帰前後においても、独立論が唱えられたわけですね。ですから、絶えず県民のどこかで脈打っていたような感じがするわけですね。このようなことは他府県ではまったく考えられないことです。

 そして、復帰をして、これで独立論というのがなくなったかというと、必ずしもそうではない。もうあれこれ10年前ぐらいに出た大山朝常さんの独立の本の中でも、私は「ヤマトは帰るべき祖国ではなかったのかな」というふうな件があったのを覚えているわけですが、そういうことで沖縄というのは、そういう独立論というのが今日まで受け継がれているわけですね。

 そういうことで、我々がこれまでの独立論の系譜をたどってみるということは、沖縄の自治・自立を考える上でも大切なことだと思います。
 それではこれから、レジュメに沿って沖縄における敗戦直後の政党のところから入っていきたいと思います。敗戦直後に沖縄の政党は、まずこれは奄美、沖縄、宮古、八重山の各群島をそれぞれの活動領域としてこれは結成されていくわけですが、米軍初期の占領政策が各群島単位に軍政府をつくって統治するという方針であったことから、その与えられた政治空間を一つの活動領域として、各群島単位で沖縄は政党というのが誕生したと言われています。

 皆さんにお配りしました資料におつけしましたけれども、沖縄における政党の流れというのがあります。その中で、まず最初にできたのが1947年6月15日の沖縄民主同盟ですね。それから一番左側にある沖縄人民党、それからまた右上にあります沖縄社会党。それで沖縄社会党は琉球社会党と合流しまして社会党となっていくわけですね。

 それから、宮古群島、八重山群島においても、それぞれ政党というのが組織され、宮古民主党、それから宮古社会党と宮古青年党とか、あるいは八重山民主党、八重山人民党というふうな形で、それぞれの群島において政党というのが結成されていったと言われるわけですね。

 そしてまた、ただこれらの政党というのは、下部の党員組織を持たない少数特定の政治家集団に過ぎなかったし、一般大衆の中に根を下ろす大衆政党にはほど遠いものでした。このことは、後ほどお話しします大宜味朝徳の琉球国民党もまさしくそういうふうな政党であったわけです。

 なぜこのように政党というのがどんどん結成されていったのか、その背景あるいは契機になるものは何かということを考えてみますと、やはりこれは占領下の中でのことをどうしても指摘しなければならないだろうと思います。ただ、この占領下においても、本土と沖縄では相当違っていたわけです。本土においては、非常に民主的な形で占領政策が行われていた。徳田球一とか、あるいは志賀義雄ですか、その人たちも民主化政策の中で解放されていったというふうなことを述べているわけです。

 ところが、沖縄においては非常に事情が違っていた。米軍当局は、沖縄に対しては非民主的な扱いをしていたのではないかなということが言われるわけですね。特に占領開始から3年も過ぎた時点での米軍政府の沖縄占領政策が本土と全く違っていた。米軍はたとえ民主主義の理念を語ることはあっても、それを実行しようとはしなかった。むしろ逆に軍政下において、民主主義的な制約を受けざるを得ないことということを軍政府は、強調することを忘れなかったわけですね

 ご存知のように、琉球列島における統治の主体の中で軍政府が琉球列島を統治する限り恒久的民主政府も完全なるデモクラシーも確立することは出来なかったわけです。ただ、琉球列島を統治するに際して、軍政府は実行し得る限りにおいて民主主義の原則を用いてはいると言っているんですね。しかし、「ネコ・ネズミ論」で形容されているように、軍政府がネコで沖縄はネズミであり、ネコの許す範囲でしかネズミは遊べないというわけです。つまり米軍が許す範囲での民主主義であった。講和条約が成立するまでは民衆の声は認めないし、またあり得るべきもなかった。講和会議の済むまではアメリカ軍政府の権力は絶対的なものであった。

 このような政治的、社会的状況の中で、沖縄の政党は結成されたわけです。つまり、このようなアメリカ軍政府のやり方に対する不満や批判が起こったのは当然であり、その批判の中から、また本土で民主化の洗礼を受けて帰ってきた人たちの刺激もあって、民衆の声を政治に反映させるために、先ほど述べましたような1947年から沖縄民主同盟、あるいは社会党とかいろいろな政党が誕生していったわけなんですね。

 そしてまた、これの政党に共通する三つの要素というのがあったんですね。 
 第1番目の共通要素は、これらの政党がすべて民主化を最大のスローガンとしていたこと。
 2番目が、占領政策に対する協力の姿勢。これは、後ほど反米政党としての立場を固めていく人民党の場合もそういう面では占領政策には協力的な部分があるわけですね。そういうふうな、やはりこれは米軍統治下にあるということと非常に関係するわけで、その政党の共通点の中にその協力の姿勢があったということは、非常に注目すべきではないかなと思いますね。これは後ほど細かく見る政党の中に出てまいります。
 それから三つ目の共通点としては、独立論を唱えていたということが沖縄の政党の特徴であった。ですから、政党というよりも琉球独立論の方が非常に大きく出てくるような感じがするんですね。独立論は見えるけれども、極端に言ったら政党の姿が見えてこないというふうな感じがするわけですね。

 それでは具体的に敗戦直後の沖縄の政党を見てみたいんですが、まず人民党。1947年7月20日に結党されたが、琉球独立論を唱えていたかどうか非常に賛否が分かれているんですね。沖縄人民党の初期の性格が右や左の思想の集まりだったこと。我々は、普通、人民党と言いますと、どうしてもこれは極端な左だというイメージがあるわけですけれども、ところが当時における人民党は必ずしもそうではなかった。右も左も集まっていたということが言われるわけなんですね。そもそも沖縄人民党が産声を上げる背景となったのが「うるま新報」なんですけれども、当初は完全にこれは民政府の御用新聞と言われていたそうなんですね。ですから、それからしても、非常に右も左も集まった政党だったのかなという感じがいたします。そして、その政党の場合、第一に米軍の位置づけ、それから沖縄の独立を志向していたんではないかということが、これは非常に注目されたわけなんです。

 その沖縄人民党は沖縄の将来について、その結党の際の政策の冒頭、人民政府の樹立を掲げており、これは沖縄の独立を志向したものと考えることができる。これがやはり人民党のこの部分が独立論との関係で非常に指摘されるわけです。このことは。沖縄人民党の歴史の中での綱領などを見てみますと、やはりこの言葉がまず沖縄人民党綱領の中でも掲げられています。綱領は政治、経済、社会、それから文化という面で分かれておりますが、政治の面でもすぐ真っ先に出てくるのが「人民自治政府の樹立」ということをうたっているんですね。

 それから、スローガンを11あげておりますが、やはりその中に最初に出てくるのが沖縄人民政府の樹立です。それから沖縄人民党が、これは沖縄民政府への陳情書を出すわけですけれども、その陳情が13項目あるけれども、すぐ真っ先に上がってくるのが、沖縄人民自治政府の樹立です。そういうことで、随所にその沖縄人民党はその人民政府の樹立というのを掲げているわけですね。それからするとやはり沖縄人民党は、独立論を非常に主張していたと言われるのではないかなと思いますね。

 儀部景俊・安仁屋正昭・来間泰男共著『戦後沖縄に歴史』の中で「人民党の目的は綱領を見て注意を引くのは、日本復帰の要求がうたわれていないということです」と述べられているように、どこを見てもその言葉は出てこないわけですね。後ほど日本復帰を唱えるわけですけれども、その当時においては、どこを見ても日本復帰という言葉は出てこなかったわけです。その目的には、「沖縄人民の解放」と書かれています。これは、民主化を主張する文章の流れの中で述べたものであることだが、沖縄の独立の要求を積極的に示しているわけではありませんが、本土の民主勢力の中に沖縄少数民族論イコール独立論の影響があったことは伺えます。また、当時、日本復帰が禁句とされていた社会情勢にもよるものと言得るのではないかと思うわけです。その当時の社会情勢の中では、「復帰」はなかなか叫ばれないから、そうふうにしたのかなというふうなことも言われているわけなんですね。

 それからまた、新崎盛輝先生も、いわゆるその当時の沖縄人民党は、これは間違いなく独立を志向したいただろうということを、『戦後沖縄史』の中で「戦後、人民党のいう全沖縄民族の解放は明らかに独立的志向を示していると言えよう。特にうるま新報や、実質的な人民党の機関誌『人民文化』に掲載された瀬長亀次郎の論文では、1949年から1950年の段階においてなお一貫して全沖縄(琉球)民族の解放、それから沖縄民族(琉球)の主権の確立、解放軍としての米軍に協力した民主沖縄の建設、人民自治政府の樹立、沖縄の基本法をつくる憲法会議の招集が強調されている」と述べていますね。。

 解放軍としての米軍に協力しつつ樹立される人民自治政府と、そこから展望される全沖縄民族の解放のイメージが独立論であることはほぼ間違いないであろうというふうに、新崎先生は断定して、人民党は独立を志向した政党だというふうに捉えております。

 しかし、これに対して共産党の上原清治さんは、日本共産党第5回大会で採択した沖縄民族の独立、メッセージなどの影響が全くなかったとは言えないが、自主憲法の制定そのものが独立を意味するものではなかった。ポツダム宣言の完全実施が目標であった。日本共産党は60年の歴史の中で、第5回大会の方針を誤っていたとしている。独立の明確な形態をとっていたかというとそうではない。はっきり独立とするとの表現もない。それからすると、実は新崎さんが言っているのは違うんじゃないかということで反論している。

 それからまた比嘉幹郎先生は、「政党の結成と性格」という論文の中でこう述べております。「将来の沖縄の国際的地位については、この時期にはまだ明確に党の立場を表明していない。確かに沖縄人民党は、全沖縄民族の解放とか人民自治政府の樹立など独立志向を示唆するような語句を使ってはいるものの、独立主張の決め手になる用語は見あたらず、むしろ意図的に弾力的な解釈ができる語句を用いていたようである。同党の立場は必ずしも明確ではない」として、その独立論に対しては断言できないだろうというふうなことを述べているわけですね。

 ですから、その先ほど申しました人民政府の樹立、それから沖縄の基本法をつくる憲法制定会議の招集などをどのように解釈するかで、これは沖縄人民党が独立を志向していたかどうかの解釈にも大きく影響するし、これを積極的に解釈すれば、確かにこれは「人民政府の樹立」と言っているわけですから、政府を樹立するということは独立というふうに捉えるならば、これは独立志向であっただろうということになるわけです。

 それから、沖縄の基本法をつくる憲法会議の招集もそうです。憲法をつくために会議を開くというふうな解釈をしますと、これもやはり独立志向であったというふうに理解することもできるのかなという感じはいたします。

 ただ、消極的に解釈すれば、比嘉先生が言っているように、明確にそういう言葉は使ってないから、これを断定することはできないんじゃないかなというふうな捉え方がこれまたできるわけですね。このように沖縄人民党が果たして独立を志向していたかどうか、立場によって見方が違っているというふうなことになるのではないかなと思うんですね。ところが、沖縄人民党も時代の流れの中では復帰を主張していくようになっていくわけなんですね。

 それから次に、沖縄独立論、琉球独立論との関係では社会党について話さなければなりません。琉球社会党と沖縄社会党が合流して社会党になるわけですが、これ1947年9月10日に、大宜味朝徳を中心に沖縄社会党が結成されます。この政党は、また兼島信栄を党首とする琉球社会党と同年10月20日に合流します。ですから、そういう面では非常にこの沖縄社会党、琉球社会党というのは短命の政党であった。特に琉球社会党というのは1週間ぐらいしか存在しておりません。

 その社会党について述べる前に、沖縄社会党、琉球社会党はどのような政党だったかを社会党を理解するために、ちょっと駆け足で少し紹介しておきたいと思います。その大宜味朝徳が沖縄社会党を結成し自らが党首におさまる。沖縄社会党は戦後初めてアメリカの信託統治を主張したのが特徴で、その考えは後に琉球国民党、後ほど琉球国民党を立ち上げますが、琉球国民党を立ち上げて独立を主張することに結びついていくわけですね。

 ところが、当時、既に住民の間では大宜味の訴える独立よりも、どっちかというと祖国復帰の願望が除々に強くなっていったんですね。ですから、大宜味が反日感情を示してアメリカの支持のもとでの新琉球の建設を目指すと主張しても、住民にはなかなか受け入れられなかったであろうと言われているわけですね。大宜味のねらいとするところは、沖縄を米国の信託統治のもとで独立させることであった。帰属問題には触れなかった当時の政党の中で、沖縄の将来像を公然と表明した唯一の政党であったということは、非常に注目に値するのではないでしょうか。

 ところが、政党の名を有していたものの、これは先ほどから申し上げておりますように、党首大宜味朝徳の個性と言いますか、パーソナリティーと言いますか、非常にワンマン的な政党ですね。この沖縄社会党はこれといった有力な党員がいたわけでもなく、したがって政治的、社会的影響力はほとんどなく、国民の支持を得ることなく40日間でこれは消えていくわけなんですね。

 それから次に結成されたのが琉球社会党なんですけれども、この政党は沖縄の戦後初期政党の中に政党の名をとどめているものの、先ほど申しましたように存在したのはたった1週間で、結局は党則とか綱領だとか党員など、具体的なことは何も明らかにされておりません。

 この政党は10月20日には、先ほど言いましたように、大宜味朝徳の沖縄社
会党と合流して社会党となっていくわけなんですね。両党とも信託統治を主張する点が政策面での一致点であったと言われております。

 そして、合流によって誕生した社会党ですけれども、その社会党が帰属問題をどう考えていたかを、これもまた比嘉幹郎先生の論文を引用したいと思います。「帰属問題に関して社会党は、『国家体制の整備』や『琉球憲法の制定』を基本政策として掲げ、また同党政務調査会の決議事項のなかには、米国信託統治の支持、防共強化対策、外資導入歓迎などが含まれていたと言われている。さらに、対日講話条約の素案が検討されていた頃出された大宜味の著書によれば、他の政党との政策面における根本的な相違点は、社会党が『琉球民族の幸福は米国帰属にありと確信しハワイ州の沖縄県実現を要望し政治経済文化各面の米国化』を主張していたことであるという。要するに、社会党は、民主的な琉球独立国の樹立を究極的な目標として結成された政党だったといえよう。同党は、沖縄の将来に関する政策を公然と表明した最初の政党であった。」と述べられております。

 ところが、この社会党もこれまた短命なんですね。たった3年で、1950年頃には完全にこれは大宜味党的な政党になってしまいます。先ほど述べましたように、大宜味朝徳は非常にワンマンだったそうですね。どうしてもその政党の中でワンマン的な政党運営をしていたんですね。この社会党は落ち目になっていくわけなんですが、その落ち目になっていた社会党は、1952年の参議院選挙にたった1人しか擁立しなかったものの落選し、1950年の4月7日はついに解散に追い込まれるわけですね。 しかし、大宜味朝徳の琉球独立論を絶えることはなかったんですね。1958年、今度は、大宜味朝徳は、琉球国民党を結成して、また独立を掲げた政党として活躍していきます。

 それから次に共和党と琉球独立論の関係を少し述べてみたいと思うんですが、この共和党は、琉球は巌として琉球のものなりとして琉球の独立を政策にうたうと同時に、親米的な性格を備えた政党であった。先ほど沖縄の政党はアメリカに協力的であるということで、非常に親米的なんですけれども、この共和党も漏れなく親米的であったわけですね。沖縄の政党の名称には共和党、民主党などいろいろありますが、恐らくこの共和党という名称も、結局はアメリカへの親米的な要素のあらわれかなという感じもいたしますね。要するに、アメリカの政党には共和党と民主党があるわけですから、そういう面で米軍統治下にあった沖縄の政党も、共和党とか民主党とつけたらアメリカの機嫌、アメリカが好意的に見るのかなと、あるいは、アメリカに協力的と見られるのかなと、考えていたのではないでしょうか。

 沖縄民主同盟が衰退していって、その中心的な人物であった仲宗根源和などが中心となって共和党が結成されるわけですが、そのへんの経緯を少し述べてみます。その沖縄群島知事選挙に松岡政保を擁立した沖縄民主同盟はすっかり意気消沈した。知事選挙より1週間後に行われた群島議会議員選挙でも、民主同盟は敗北した。知事群島議会選挙の敗北は、沖縄民主同盟の解党を意味していた。こうした状況で、群島議員に当選した保守派の4人が結束して新党結成に動き出した。その結果、1950年10月28日に誕生したのが共和党である。共和党の結成では、仲宗根源和、桑江朝幸ら民主党の主要メンバーは共和党に駆けつけた。仲宗根源和が加わったことで、共和党の性格は大きく変わっていきます。結党した議員4人は、当初、占領下だから米軍に盾突くより協力して物資をもらった方が沖縄の復興を早くすると考えていた。これは親米的なんですね。 だが仲宗根は、民主同盟時代から琉球独立論を主張していた。したがって党の考え方も次第に独立論へと傾いていった。ですから、その党の路線に仲宗根が非常に大きな影響を与えたと考えられます。

 新里銀三、この方も4人組の中の1人ですが、新里銀三は、「私らは、占領下で布告、布令が出ており、どうせ米軍のいいなりだったら、米軍から物をもらった方が得策だ」と主張した。しかし仲宗根源和は独立論をぶち上げ、結局、仲宗根に押し切られてしまった。復興するまで占領政策に従った方がいいと思ったので、仲宗根とは別行動にしようと考えた」と述べているわけですね。

 このように、共和党の路線には大きく二つあった。一つの政党の中ですけれども、仲宗根はどうしても独立論を主張した。ところが、結党の中心的な役割を果した新里銀三らは、米軍に従っていた方が得策だろうというふうな考えだったんですね。

 そして、このようにして共和党は路線問題、意思統一ができなかった。民主同盟から移ってきた仲宗根は、組織部長として独立を主張した。仲宗根は、「アメリカは自由主義が行き過ぎて戦争に勝って自信過剰になって気にくわん」と語り、独立を説いた。これに対して松岡政保は、「独立は夢物語だ。独立すると、大学も裁判所も自分でつくらなければならないのに金はない。そんなことができるはずがない」と、松岡は反対したそうなんですね。

 それで、私はゆっくり読む時間なかったんですけれども、『琉球経済』、これは1951年6月1日のものですけれども、その特集が琉球帰属論だったんですね。そして、時間がなくて細かくは読んでないんですが、その中で「琉球独立論」(仲宗根源和)、「なぜ?独立を主張するか」(桑江朝幸)、「独立国琉球の再現を期す」(兼島信助)、「帰属問題の一考察」(大庭政慶)、「日本帰属は何を意味するか」(池宮城秀意)、「日本復帰は悲劇の再現」(大宜味朝徳)等等、貴重な論考が収録されている。

 仲宗根源和の「琉球独立論」は、序論と本論からなっておりますが、その中で序論の部分に興味深いところがあったんですね。「琉球の帰属問題は、私ども琉球民族が運命の岐路に立って、いずれの途が繁栄と幸福と自由と平和に通じる明るい途であるかを選択する重大な問題であることは申すまでもありませんが、多くの人の中には、はじめから、日本復帰希望で満腹していて、独立論の趣旨を聞こうともしない人々があります。その態度ははなはだ危険であり、非理知的であります。ご本人のためにも、またその人自身の子孫のためにもよくない態度であります。私どもは、民族の運命を決するためにも、自分自身のためにも、そしてまた私どもの子供のためにも、この問題はあらゆる角度から十分に冷静に各種の議論を比較検討することが最も必要であります。

 これから私は、琉球は民主主義共和国として独立し、自由主義国家軍の一員として国連に参加すべきであるという琉球独立論を提出をしたいと考えます」と。

 それから、琉球独立論について次のように述べております。「『出来たらそれに越したことはないが経済的に駄目じゃないですか』と言う人が多い。私は、そんなときにこう答えています。『独立してこそ経済的にも豊かになれるのです。初めから経済的に駄目だとあきらめてしまって、我々は子孫代々他人の食卓からこぼれ落ちるパンくずを拾うというのですか。とんでもない話ではありませんか。自らの手で働いて求めたパンを自らの食卓に乗せて、朗らかに食事をする民族になろうではありませんか。然も我々は過去においてそれを為し得た民族でありませんか。この意気を失って日本に頼ろうとしたら日本の荷厄介になり、アメリカに頼ろうとしたらアメリカの荷物になるだけです。誰もよけいな荷物は担ぎたくないでしょう。』
日本復帰論者の中には、『独立するのも悪くはないが、経済的にはどうせ自立は出来ないから日本と一緒になってその不足を援助してもらうほうがよいと思うという』人がおりますが、かかる論者に対しては『日本の政治が沖縄を貧乏にした最大の原因であったことを知らずに、逆に沖縄は日本の政府から援助でも受けていたとでも勘違いしているのでしょう。それはとんでもない間違いです。このことは、過去の史実をよく検討して判断を誤ってはいけません。それと同時に、現在の日本は米国の援助を受けている国であって、沖縄を援助する実力がないことを知っておかなければなりません。』と私は注意を喚起しています」。

 それから本論の一部だけ引用しますと、「我々は今アメリカから食料の無償配給を受け、衣類も住宅も代金を支払わずに供与を受けています。アメリカの好意に対して感謝の念を持つことは必要でありますが、決して乞食根性を起こしてはいけません。この沖縄列島の主人公は私ども沖縄人であり、アメリカは私どもの土地にヤドカリをしているのですから、我々は当然受け取るべき家賃を受け取るのだと考えるべきであって、決して卑屈な気持ちを持ってはいけません。ただわれわれ沖縄人は、アメリカ人に対して、人間同志として好意と好意、即ち善意の交際をしていくべきであります」。こういうふうなことで書かれて、なかなか興味深い内容がたくさん書かれておりますけれども、時間がないのでこのぐらいにし、残りは割愛しますが、そういうふうなことで仲宗根が琉球独立論を説いております。

 それから次に、今日の敗戦直後ということではちょっと時期的にずれますが、やはりこれは独立論を語るときに琉球国民党の大宜味朝徳を語らないといけないかなと思いまして、予定の時間も迫っておりますので、大急ぎでそこをあと5分、10分ぐらい話したいと思います。

 この大宜味朝徳は、1947年には先ほど言いました社会党、そして58年には琉球国民党の結成の主導的な人物であるわけです。常に反復帰の旗を鮮明にして政治活動を行っていたわけです。そして本人も1952年、それから60年、それから65年には立法議員選挙に立候補します。それからまた61年には那覇市長選挙にも立候補します。しかもこの政治活動費は、ほとんど大宜味自身が直接負担していた。

 このように、私財を投げ打ってまで反復帰の運動を展開した理由は一体何だろうか。これは、いろいろと大宜味のついて書かれた本や論文などを読んでみました。特に西平さんの論文「大宜味長朝徳の思想―琉球独立論を中心にー」は大変参考になりました。

 その中でも非常に細かく述べられておりますけれども、大宜味が独立論を唱える契機となったのは、やはりこれは戦前の日本政府の沖縄に対する差別的な政策だろうと思います。それが日本政府、いわゆるヤマトへの反発というのがどうも独立論の根底にあるのではないか。一般論としてはそうなんですけれども、特に大宜味の場合はそれが強かったというようなことが感じられる部分がたくさんあります。これは西平論文の中でかなり詳細に論じられております。

 結党が1958年の11月なんですが、反共産主義で、そして琉球独立を旗印にした琉球国民党が誕生しますけれども、これは党首が今の大宜味朝徳、それから副党首が喜友名嗣正です。ただ、この琉球国民党がこれまでの政党と違っているのは、沖縄においてこの大宜味朝徳がいろいろな活動をしていますけれども、副党首は台湾にいる喜友名という方が副党首におさまっているわけですね。大宜味は、喜友名のところに手紙を書いて、政党をつくるから一緒にやってくれというふうなことで誘いをかけるわけなんですね。そしてまた喜友名嗣正は、台湾において独立運動をしていた。そういう面で非常にこれ意気投合したであろうと思われます。喜友名は台湾で琉球革命同士会、この会は20~30人の沖縄出身者で組織され、沖縄の独立を目指した会であったと言われるわけなんですが、そういう組織を持って活動していた。そして、反米、反共産、反ヤマトンチュ思想の大宜味と喜友名が意気投合して、沖縄の独立という点で一致して、琉球国民党が誕生していくわけなんですが、時間がありませんので、その立党宣言とか綱領とかはもう書いておきましたので、読んでもらえますか。割愛させてください。

 一つだけちょっと述べておきたいのは、その琉球国民党の場合は、これまた琉球自衛隊の創設を、これは高等弁務官ドナルド・P・ブースに要請するわけなんですね。琉球自衛隊設立に関する要望書というのを出します。その要望書には、「世界の何れの国家においても、軍隊もしくは自衛隊を保有し国家の安全を期している。我が琉球も独立国家として健全な国民を錬成することは重要な国策であり、独立国家として自衛隊は当然必要な機関である」と主張しているわけなんですね。

 このことからしても大宜味がいかに真剣に独立国家ということを考えていたのかが分かるような気がします。要するに、自衛隊も持たなければやはりこれは独立国家と言えないだろうというふうなことで、これは高等弁務官に直訴しているわけですね。

 それから、また皆さんの資料にもおつけしたんですけれども、琉球国民党の非常に有名なのが、1958年9月17日の「琉球新報」に「琉球国民党結成について全琉球人民に訴う」という広告を出しているんですね。ちょっとこれは皆さんのお手元にお配りしたのは非常にこれ読みづらいので、前半部分だけを考えてみたいと思うんですが。

 それと、大宜味朝徳は皆さんの資料におつけしました「私の意見」という形で、よく「琉球新報」に出しているんですね。私が拾ったのは幾つかありましたけれども、その中から幾つか上げておりますけれども、そこによく投稿していたようなんですね。

 それはどうして沖縄タイムスでなかったのかなということについては、比嘉康文さんがこの前出した本の中で、やはりこの琉球独立論を唱えていた大宜味朝徳は「琉球新報」の「琉球」を非常に気に入っていたのかなということで、「琉球新報」に投稿していたのかなということをこの中で書かれているんですが、その真意はわからないんですね。

 しかし、このぐらい独立にこだわるんだったら、沖縄タイムスの英語でタイトルつけたタイムスよりはこの琉球に憧れて投稿したのかなと思います。私もこの過去の新聞を調べて、どうしてこれはずっと「琉球新報」なのかなと、「沖縄タイムス」じゃないのかなとちょっと気にはなっていたんですね。そしたら、ちょうどタイムリーにこの比嘉さんの本が出てこれを読んでいたらその話が出ておりました。これは本人に聞かないと本当はわからないですね。

 その大宜味朝徳の中で特にこの広告「琉球国民党結成に就いて全琉住民に訴う」ですね。とにかくこれは読むのが嫌になるぐらいの長ったらしい。前半部分だけを紹介しますけれども、この広告は「B円の切り替えは愈愈実施された。之は日本復帰運動に終止符を打った無言の宣言である。琉球住民はこの際、今迄の琉球の政治、経済、教育等、日本依存的考え方を是正し、自ら立ち上がって琉球の国際的進出に開眼すべき時期に来たと思う」と述べ、これまでのようなヤマト依存的な姿勢から脱却し、自主独立の道を模索すべき時期に来ていることを琉球住民に訴えたわけですね。

 そして、これまでの琉球が日本時代にいかに貧困を強いられたか、そしてその要因が日本政府からの経済的な搾取。この経済的な搾取は、これ仲宗根源和の論文でも出てきます。それから差別、この差別、非常にキーワードですね。それから政治家の先見性の欠如によるものであるとして具体的事例を挙げながら、日本を徹底的に大宜味は批判するわけです。

 まず経済的な苦難について、「戦前の琉球は『ソテツ地獄』『孤島苦の琉球』と云われ、全く文化的に取り残された島であった。県の税外収入と云えば波止場の桟橋賃だけであり、経済界は銀行、保険会社は皆日本の支店で集めた金子は日本に持っていかれ、琉球に金子が入るのは砂糖時期ぐらいのものであった。大学一つもなく、国有鉄道一里もなく、国費で負担する国道は、那覇港から県庁迄の1線であった。重税で農家の困窮は極端であった。一例を明治中頃の沖縄県の予算を見ると歳入65万5千円に対してそのうち沖縄県庁の費用は45万5千円で二十満円は日本政府へ納入されていた」。どうして歳入は65万5千円が県庁の予算は45万かと。これ大宜味は、20万円は日本政府に納入されていたということを言っているわけですね。つまり、何も日本政府から援助を受けてないじゃないかと。逆にしぼり取られているんじゃないかということを強調するわけです。

 さらに、このような日本政府の経済的搾取以外に、大宜味が日本復帰に反対した理由は、沖縄住民に対する差別的待遇であった。その琉球国民党結成についてこの広告の中でこう言ってますね。「政治の後進性から来る琉球人への差別待遇、其重圧は大きかった。沖縄出身の官吏は判任官で釘付けされ、警察官も巡査部長以上はなかなかなれなかったというのが行政上の不文律であった。――之は40歳以上の人なら皆経験している筈だ。2,3の高官は出ても、これは異例だ。沖縄人は頭はよくても、腕があっても、結局は高官になれぬと云う実状であった」と述べ、沖縄住民に対する差別扱いに対して怒りをぶつけているわけです。

 このような差別的な扱いは、海外移民の場合にもあったと述べています。大宜味は、「海外に出稼ぎに出かけた沖縄移民は、この差別待遇問題で斗い続けて来たのが過去半世紀の移民悲史である」と述べています。

 特にこの移民の差別問題については、西平論文の中でかなり細かく論じられていますので、関心のある方はその論文を見てもらえたらと思います。

 さらに、琉球の混迷の原因は琉球住民に対する差別以外に、「最も重要な時期に為政者や指導等が先見の明を欠き、政治の方針をあやまり、県政運営上の大綱的、基本的問題の解決を怠ったために、ついに民心起こらず治識も挙げ得ずして、琉球を経済的に後退せしめ財政的危機に陥れたということである。政治家に先見の目がなく今日の琉球の大綱的基本的問題の解決を怠って琉球を混迷に陥入れていることは、今日とよく似ている。今日の琉球政治の現状を見るに、悉く日本復帰または日本復帰したらという前提のもとに政治や教育が行われている。ここに琉球政治の暗さがあり、低迷があり、不徹底が生じ混乱を重ねている実状である」と述べて、大宜味は日本復帰ではなく琉球独立こそが沖縄の進むべき道であるということを、この広告「琉球国民党結成に就いて全琉住民に訴う」の中で非常に細かく述べておりますが、後半部分はちょっと時間がありませんので、皆さんのほうで読んでもらいたいと思います。

 そして、また国民党政府の構想。ただ私ちょっとまだ理解できないんですけれども、これも新聞広告という形で出しているんですね。これ資料の一番最後につけてありますけれども、これも確か広告という形で。

 私は、最初これ新聞の記事として扱うだろうと思って、新聞を調べるとき
真ん中を見ていたんですね。そしたら、なかなかこれが出てこないですね。それで、もうあきらめて、これ私の勘違いだったのかなと思って、パッと目を下に移したら下の方に小さく載っているんですね。これも広告という形でした。

 要するに、大宜味は非常に情熱を傾けて独立論を唱えていたんですけれども、しかし、そのとき新聞では大宜味の政党活動を記事として、ニュースとしては取り上げてなかったということです。なぜ取り上げなかったのか、私は調べることは出来ませんでした。

 そして大宜味は、そういう「国民党内閣の構想」も新聞広告で出すわけなんですね。その中で、3行目あたりにこう書いているんですね。「其時の話題は琉球の独立問題であった。彼曰く、琉球の独立問題には吾々も非常に関心を持っている。ホントの話他の四つの反米政党は問題ではない。琉球の住民がホントーに琉球の独立を考えているなら吾々も考え直さねばならぬ。一体琉球が独立すると云うが人物がいるかネ」とこの人が尋ねたら、大宜味は琉球には人物はたくさんいる。そしていろいろな人たちの名前を挙げてるんですけれども、またある本の中では、これは大宜味が勝手に挙げたんじゃないかなとの指摘もあります。果たして、本人たちが大宜味の構想に賛同して名前を出したのかなというと必ずしもそうでもないようなことが、いろいろな方がまた述べているわけなんですね。そのへんが大宜味はちょっと信用がなかったのかなというふうな感じがするんですね。

 それで最後に、「国民党内閣の構想」の中で、財政問題をどうするかという質問に、大宜味は「それは日本政府から戦災賠償金を取ってやると云ったら、戦災賠償金は初耳だ。まだ払ってなかったのか。それはおかしいとほうほうのていで帰っていった」というふうなことを述べておりますが、このようにして琉球国民党は大宜味を中心として琉球独立論を唱えていくわけなんです。

 時間がなくてカットしますが、その今のページの上のほうにあります「琉球は日本時代より良くなった」と。つまり、米軍支配下にあった琉球というのは、かつての日本政府のもとにあったよりは経済的にはよくなっているじゃないかと。ならば、何も日本政府に帰る必要はないんだ。日本本土に帰る必要はないんだということを、広告をとおして訴えております。

 このように、琉球国民党は大宜味を中心としてその政党というのができておりますが、ただ、果たしてどのぐらいの党員がいたのか。そのへんがなかなか見えてこないというのが、私はこの琉球国民党のある面では弱いところというか、あるいは大宜味のワンマン的な政党だったのかなという感じがいたします。

 もう時間がないので、琉球国民党はこれで終わって大体の一連の流れですね。終戦直後の沖縄の政党がどう琉球独立論とかかわっていたかを時間の都合で大急ぎで話しましたけれども。考えてみれば、戦後初期の政党が沖縄独立をどのように主張していたのか。それを沖縄住民はどのぐらい支持をしていたのかなということを、初めに沖縄人民党、それから社会党、共和党、琉球国民党を中心に検討してみたわけなんですけれども、独立論というのはそんなに受け入れられなかった、というのが私の現時点での感想です。

 住民の気持ちは、これはその当時除々に祖国復帰、本土復帰へと流れていって、アンケート調査では1950何年には72%が祖国復帰を望んでいたということで、大宜味、仲宗根らが非常に情熱を傾けて説いた琉球独立論は、住民の中には浸透はしていかなかったというふうな感じがいたします。
 そういうふうにして、しかし、我々が研究として、これだけ琉球独立論の議論があったんだということは、私は非常に貴重なことかなという思いがいたします。

 大急ぎでしゃべってしまいましたけれども、最後に比嘉康文さんの『沖縄独立論の系譜』の中からまとめとして、この件だけを引用させてもらいます。「沖縄は常に日本の政治、経済の意向に左右されてきた。1609年の薩摩侵攻以来、復帰後の現在までその状況は変わらない。沖縄自身が自らの将来を決められないままの歴史が続いている。『鉄の暴風』と形容された沖縄戦が終わった後、わずかな時期ではあるが、自分たちの手で理想的な沖縄を建設しようと燃えていたことは、沖縄戦後史の中で特筆されてよいであろう」と。これを引用して終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。

○司会(江上能義)  照屋さんが紹介した比嘉康文さんの「沖縄独立の系譜」というこの本ですね。沖縄タイムスの記者をされた方ですけれども、どういうわけか琉球新報社から刊行されています。やっぱり「琉球」が独立に似合うんでしょうかね。でも、タイトルは「沖縄独立」なんですから、そのへんのところがおもしろいですね。
 この本は琉球新報社の潮平さんがきょうたくさん持ってきてくれたんですけれども、今年の6月18日に出たばかりですね。こういう本が今、出るということ自体が沖縄の現在の気分というものを表出しているような気がします。

 それはともかくとしまして、照屋さん、どうもお疲れ様でした。時間の制約があって、大急ぎでとりまとめていただきましてありがとうございました。大体、戦後間もない激動期において政党が澎湃として湧いたときの時代状況というのは、照屋さんの話の中からその輪郭が浮かび上がってきたのではないかなと思います。

 その照屋さんの話を受けまして、きょう東京からわざわざお越しいただいた上原さんにお話をいただきたいと思います。上原さんは、わざわざ二つの種類のレジュメを用意してきていただいて、上原信夫さん御本人の年譜と、きょうお話になる沖縄民主同盟の設立と独立論というレジュメを丁寧につくっていただいております。照屋さんに引き続いて上原さんに話していただいた上で、またご質問あるいはコメントなどをいただきたいと思います。
 最初に上原信夫さんの経歴ですけれども、ご本人がきょう持ってきていただいた経歴を見ていただければわかりますように、1924年12月に国頭村奥のご出身です。長い経歴をすべて紹介することができませんけれども、関東軍にも出兵されたり、本当に非常に複雑な経歴のお方です。戦争にも動員させられて、それで沖縄に戻ってこられて、きょうお話の中心になる激動期において沖縄民主同盟の設立にかかわることになります。
 きょうは、このへんを中心にお話ししていただくということになりますので、上原信夫さんのこれまでの生涯全体については、時間の関係で多分限定的にしか触れられないと思いますけれども、沖縄民主同盟に関わっていてそれがその後、ここに書かれておりますけれども、1950年、結局、沖縄を出るという形になって、本来はストックホルムの世界平和擁護大会などに、沖縄問題をアピールするために沖縄を出たわけですけれども、シンガポールから香港へ渡ってそれで結局1974年まで中国で滞在されました。24年間中国に滞在した後、帰国されまして、沖縄にも帰ってこられまして、現在は東京にお住まいで中国留学生や研究交流の援護活動を今なおなさっているということであります。
 ちょっと一口に私の舌足らずの紹介では上原信夫さんの経歴をお話することはできませんけれども、それよりも何よりも皆さんは上原信夫さんの当時のお話をお聞きしたいと思っておられると思いますので、マイクを渡します。上原さん、よろしくお願いします。

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「大学に通えるなんて」 1期生の瑞慶覧さん、開学当時を振り返る

1950年代前半の出来事の記載はない。


 大学倶楽部・琉球大

「大学に通えるなんて」 1期生の瑞慶覧さん、開学当時を振り返る

2016年6月9日
学生時代のアルバムを見つめる瑞慶覧長方さん
開学当時の学生便覧の表紙
 6(1) 7

「本大学は日本のものでもなく、米国のものでもない」という一文で始まる便覧の序文
 沖縄戦で焼け落ちた首里城跡(那覇市)で琉球大の建設が始まったのは、1945年6月23日の沖縄戦終結から4年がたった49年6月8日だった。開学は翌年5月。戦前、沖縄には高等教育機関がなく、1期生562人の一人で、後に沖縄のサボテン研究の第一人者となった瑞慶覧長方(ずけらんちょうほう)さん(84)は「大学に通えるなんて思いもしなかった」と感慨に浸った。

 沖縄本島南部の大里村(現南城市)の農家に生まれた。父は生真面目で農業一筋だったが、読み書きができたため「社会主義の本を読んでいる」と警察にあらぬ誤解をかけられ、44年、海に身を投げて自殺した。

 翌年4月、米軍が本島に上陸し、母と姉弟と4人で壕(ごう)を転々とした。ある朝、地元の男性が米軍の指示で投降を呼びかけると、近くの岩陰から日本兵が躍り出て「スパイ野郎! 売国奴!」と日本刀で首を切った。米軍が一斉に火炎放射器を向ける中、何とか逃げ延びて捕虜になった。

 沖縄戦では住民の4人に1人が亡くなった。校舎も教科書も焼け、進路を失って自暴自棄になる生徒も多かった。「新沖縄の建設はまず人材の育成から始めなくてはならぬ」。琉球大によると、ハワイの沖縄系移民が47年に地元紙で大学設立案を発表し、沖縄でも教員や高校生らが当時沖縄を統治していた米軍政府に大学設立を求めた。「祖先が築いた政治文化の中心を大学のために使おう」と沖縄側の要望を受け、敷地が首里城跡に決まった。

 開学当初、教室には机も椅子もなく、学生らはコンクリートの床に新聞紙を敷いて授業を受けた。教科書の代わりは教授手製のプリント。瑞慶覧さんは学内の壊れた石垣修理や雑草取りで学費を免除され、百貨店の夜警や港の荷役などあらゆるアルバイトで生計を立てた。米軍払い下げのかまぼこ型兵舎を寄宿舎とし、野戦用の折り畳みベッドで眠った。

 当時の学生便覧は「本大学は日本のものでもなく、米国のものでもない。これはその創立者たちが勉学せんとする者の要望を満たし、かつ琉球諸島の人々の役に立つ学府に成長するようにと念じて創設されたものである」と記した。反米運動で学生が退学処分になるなど、米軍による厳しい統制下にあったが、それでも「学び、知る喜びには代え難かった」と瑞慶覧さんは振り返る。
5

 72年の本土復帰に伴い、琉球大は国立大学になった。西原町に移転した学内には今も、開学当時に時鐘として打ち鳴らしていた米軍の使用済みガスボンベがひっそりと飾られている。復帰後、地域政党・沖縄社会大衆党の県議になり、同党委員長も務めた瑞慶覧さんは現代の学生に言いたい。「平和な時代だからこそ真実を追い求める努力を忘れないでほしい」。あの苛烈な地上戦を生き残った一人として、強く願う。【川上珠実

『奄美の奇跡』 言葉の運動、復帰実現

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『奄美の奇跡』 言葉の運動、復帰実現
2015年9月20日 09:09
奄美群島といえば田中一村、島尾敏雄の2人の名が浮かんでくるだけであったものが、本書により中村安太郎、泉芳朗、昇曙夢、村山家国らの優れた人物の存在を知り、敗戦後、米軍政下に置かれた奄美が、いかに過酷な状況であったかも知った。

 島外に出た者の送金で成り立っていた奄美の経済は、焼け跡の中、海外からの5万人の引き揚げ者を抱え、ソテツを食べ、マッチが貴重品、チョークも教科書も鉛筆もなく、小学生もアメ売りで金稼ぎするありさま。
 しかも軍政は厳しく、1947年に就任したラブリー軍政官は集会・言論・出版・信教・平和的結社・労働組合の自由などの一切に停止指令を出す。
 だが、それにもめげず、人々は、特に若い人々は、生き生きと「中村学校」で学び、「世の中は変えられる、知性的たれ」のメッセージに応え、復帰運動へと立ち上がっていき、あまたの困難を乗り越えて、53年12月、復帰を実現させる(それは沖縄と奄美が切り離された日でもあったが)。その復帰運動は、非暴力で子どもたちまでが参加した島ぐるみの署名運動・断食闘争であり、かつ、著者も述べているように「奄美の奇跡は社会運動であるとともに、言葉の運動であった」ユニークさ。
 だいたい奄美大島日本復帰協議会議長に推された泉芳朗からして教師であり詩人であった。断食闘争最終日の「挨拶」には、あいさつでなく自作の詩を朗読している。
 「よしや骨肉ここに枯れ果つるとも/八月の太陽は/燦として今天井にある/されば膝を曲げ頭を垂れて/奮然五体の祈りをこめよう/祖国帰心/五臓六腑の矢を放とう」(「断食祈願」部分)
 集いも秘密裡に開くしかないなか、若者たちにとって「詩は自己を表現するための大切な武器」であったのだ。
 安倍政権下、奄美でも自衛隊のミサイル計画が反対運動を押しのけて進み、日本国全体が戦争前夜の様相を呈している今「世の中は変えられる…」のメッセージがとりわけ胸に響く。(石川逸子・詩人)
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 ながた・こうぞう 1954年、大阪生まれ。東北大学卒。77年、NHK入社。ドキュメンタリー、教養番組に携わり、ディレクターとしてNHK特集や「NHKスペシャル」などを制作してきた。現在、武蔵大学教授

辺野古埋め立て承認、もっと早く取り消していたら・・・

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 http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/19708

辺野古埋め立て承認、もっと早く取り消していたら・・・
2015年10月12日 12:45 注目 平安名純代・米国特約記者 
普天間移設問題・辺野古新基地 普天間移設問題 政治

 翁長雄志知事が沖縄防衛局に名護市辺野古の新基地建設に伴う埋め立て承認を取り消す文書を13日付で送付するそうだ。防衛局が受理した時点で効力が発生し、辺野古沿岸での海上作業ができなくなるという。知事就任から約10カ月。もっと早く取り消していたら何がどう変わっていただろう。

 翁長知事は6月の訪米、8月の日本政府との集中協議に続き、9月は国連人権理事会で「沖縄の人々の自己決定権がないがしろにされている辺野古の状況を、世界中から関心を持って見て」と強調し、「あらゆる手段を使って新基地建設を止める覚悟だ」と訴えた。
 沖縄の歴代知事で初めて国連の場で「沖縄の人々は自己決定権や人権がないがしろにされている」と訴えたのは確かに大きな意義がある。しかし日米両政府は計画を堅持し、本体工事着工へ向けた準備を「粛々」と進めるなど、歯止めとなる方策を持たぬまま時が流れていった。

 もし、知事が3月末までに取り消しまたは撤回をした上で訪米し、米有力議員らと面談し、「前知事による埋め立て承認を取り消した。政府との法廷闘争という大きな壁に直面するが、あらゆる手段を使って新基地建設を止める覚悟だ」と訴えていたとする。

 たとえ日米両政府の計画でも、法廷での闘争が予想される事態となれば、米議会は「今後の展開を注視する必要がある」といった注釈を国防権限法案の中に盛り込み、「移設問題はわれわれの手を離れた」といった認識も変えていたかもしれない。

 国連もそうだ。翁長氏が国際舞台の場で法的瑕疵(かし)がある埋め立て承認を取り消したと自ら明言した上で、沖縄という小さな地方自治体が二つの大国に立ち向かわざるをえない状況を訴えていたとする。知事の訴えとともに、法廷で係争中の計画を強行する日米両政府の不当性が世界へ発信され、両政府に対する国際世論による圧力の壁も築けていたかもしれない。

 辺野古移設計画を撤回するスタートラインはいったいどこにあるのだろう。

 「新知事が本当に辺野古移設断念を望むなら、まず埋め立て承認を白紙化することだ。そうして初めてスタートラインに立てる」

 昨年末にそう語ってくれた米元高官に「ようやくスタートラインかもしれない」と報告すると「水を差すようで悪いが」と前置きした上でこう答えた。「安保関連法が成立した今は政治的環境がまったく違う。ラインがまだあるのかどうかさえ見えにくい状況かもしれない」

(平安名純代・米国特約記者)

「軍事植民地」沖縄―日本本土との“温度差”の正体

 “基地の島”として軍事利用されつづける沖縄は「軍事植民地」にほかならない。
戦後60余年、沖縄住民を切り捨て、復帰後もその願い・要求をそらし、すりかえ、今なおアメとムチの使い分けで植民地状態を保持しつづけようとする―この国の政治に対する沖縄からの異議申し立て。


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沖縄問題20年(1965年) (岩波新書)

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中野 好夫 新崎盛暉
岩波書店
1965


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沖縄のアメリカ人―沖縄ジャーナリストの記録 (1971年) (サイマル・ドキュメント)

時代背景&社会背景を知る意味で、一読CnPxkV2WIAAkusI

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琉大風土記―開学40年の足跡

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あくまでも、私が知る限りでだけど、

事実と異なる事が記載されている。
腑に落ちない箇所もある。
私は私で事実を書き留めていくのみ、その積み重ね。

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沖繩奄美返還運動史 上/高安 重正

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この本、不屈館で閲覧可能です。

コピーもさせて貰えます(一部5円だったような)。


那覇市歴史博物館でも、

予め申請をしておくとコピーさせて貰えます。

コピー代は、一部5円だったか10円だったか

ちょっと、忘れました^^


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新城郁夫「沖縄・否定性を突きつめる」より

「沖縄・否定性を突きつめる」
政治的な主体を創るために立ち止まりながら激しく動く

新 城 郁 夫
しんじょう・いくお=1967年生まれ。
琉球大学法文学部准教授。
沖縄文学・日本近代文学専攻。
著 書に『沖縄文学という企て』『到来する沖縄』など。  

図書新聞090321号に「新城郁夫氏に聞く『沖縄・問いを立てる』全6巻完結によせて」が巻頭インタビューとして1~3面にわたって掲載された。  
「シリーズ『沖縄・問いを立てる』全6巻が完結した。沖縄が直面する現実に介入しつつ、沖縄研究の構想力を問い直し、応答する気鋭の研究者たちの論考が収録されている。シリーズ第3巻『攪乱する島――ジェンダー的視点』編者の新城郁夫氏に、本シリーズのテーマと沖縄研究の現在をめぐって話をうかがった。(2月9日、東京・池袋にて/聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)」というリードが付され、<シリーズ「沖縄・問いを立てる」全6巻/第1巻 屋嘉比収・近藤健一郎・新城郁夫・藤澤健一・鳥山淳編『沖縄に向き合う――まなざしと方法』/第2巻 近藤健一郎編『方言札――ことばと身体』/第3巻 新城郁夫編『攪乱する島――ジェンダー的視点』/第4巻 屋嘉比収編『友軍とガマ――沖縄戦の記憶』/第5巻 鳥山淳編『イモとハダシ――占領と現在』/第6巻 藤澤健一編『反復帰と反国家――「お国は?」』社会評論社2008>が紹介されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/shijoikuo090321.htm

これから来たるべきものとしての沖縄


 ――いまのお話は、危機感から生まれた沖縄研究の今後の展望ともつながります。

新城 そのことに関して、今是非お話ししておきたいのは、沖縄研究の今後を考える上で、琉球大学という機構が大きな問題として浮上してきているということです。
たとえば、琉大事件という出来事がありました。
1957年に起きた第二次琉大事件(文芸雑誌『琉球大学』の反米性そして同人たちの反米活動を理由に6人の学生が退学処分、1人が謹慎処分)に関しては、粘り強い批判もあり、一昨年つまり50年を経て琉球大学は謝罪しました。

でも、それ以前の1953年には第一次琉大事件がおきています。
学生たちが原爆展を行ない、灯火管制のなか灯りを点したことに対して大学が謹慎処分を言い渡し、そのことをメーデー集会で訴えた学生達を今度は退学処分にしているんです。
この処分に、米軍が関与していたことは明白ですが、そのことを措いても琉球大学がみずから手を下した重大な人権侵害事件です。
その第一次琉大事件について、現在に至るまで琉球大学は「外圧を示す資料がない」と謝罪を拒否していますが、それこそ転倒した話で、大学が自主的に処分したのならば、その方が大問題です。
つまり、沖縄研究の拠点である琉球大学において沖縄の歴史が否認され、米軍との共犯関係が継続されているのです。
 
 それから、いま非常に問題になっているのは、琉球大学の非常勤講師の切り捨てです。非常勤のユニオンがあって、学生達の署名を含め6000人近い反対署名を集めて大学に提出しましたが、大学は切り捨てを強行しようとしています。国の文部行政の出先機関として、琉球大学は率先して沖縄社会のネオリベ化を進めているとさえ言えます。
 

  琉球大学には、琉大事件で人を処分した歴史があります。
この過去の処分といまの処分問題が、まさに沖縄の学問に問いを突きつけています。
占領下で行なわれた処分を謝罪しきれない状況と、ネオリベ的な人間の処分が、いま琉球大学という場で折り重ねられている。
沖縄研究に関わる一人一人が、この問題を座視してはいけないと思います。
 
 沖縄研究が学問のもつ社会性を認識し、沖縄研究に政治的介入の自由があることを、もう一度確認していくべきです。
このシリーズ「沖縄・問いを立てる」に収められた多くの論が、卓越した批評性においてそのことを訴えています。
我々は、ゲリラ的にさまざまな問いを発して、メイキング・トラブルを積極的に実践していくことがとても大事です。
BOOKS Mangroove
「琉大事件とは何だったのか」






終わっていない過去


沖縄は

1950年に起こった朝鮮戦争で、

最前線基地になった。


トルーマン米国大統領が

朝鮮戦争の始まった直後、

記者会見で

「原爆使用もありうる」と

発言し、

広大な米軍基地を

抱える沖縄の人達は、

核戦争に巻き込まれる

危険性を身近に…


朝鮮戦争、今も休戦中





1953年(昭和28年)、

当時米軍の支配下にあった沖縄で

学生の「原爆展」開催を理由に

4人を退学処分にするなど 

若者たちの平和への叫びを

封じようとしたのが琉大事件



朝鮮戦争下で原爆展

『琉大事件とは何だったのか』

21470590 

















HP「琉大事件を考える(仮称)」
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ひまわりの散歩道~沖縄&奄美
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