「琉大事件」を考える(仮称)

~琉大事件に関する情報を集めています~

1953年、米軍の支配下にあった沖縄で、
学生の「原爆展」開催を理由に 4人を退学処分にするなど 
若者たちの平和への叫びを封じようとしたのが「琉大事件」

朝鮮戦争下で原爆展 『琉大事件とは何だったのか』

June 2016

琉大事件とは何だったのか 目次


21470590 














BOOKS Mangroove「琉大事件とは何だったのか」


「琉大事件とは何だったのか」

琉球大学教授職員会・大学人九条の会沖縄 編


序文 琉大事件が問うもの


【目次】

◆第一次琉大事件事実経過

◆シンポジウム篇 ~2009年7月26日㈰ 開催~


◆資料篇

『アサヒグラフ』1952年8月6日号誌面


『沖縄タイムス』1953年5月記事

・5月2日㈯朝刊 三面 労働歌高らかに きのう 約1千人のメーデー

・5月3日㈰朝刊 三面  メーデー決議つきつけ

・5月5日㈫朝刊 一面 社説 琉大副学長の罷免問題

・5月7日㈭朝刊 一面 社説 大学法の立法をのぞむ

・5月8日㈮夕刊 二面 学生総会で自主的解決へ動く 琉大のひと騒ぎ 処分学生への批判も厳し

・5月9日㈯夕刊 二面  四名を退学処分 琉大 職員協議会で決定

・5月10日㈰朝刊 二面 問題はらむ琉大”学生総会開け”と署名運動 外部の圧力に強い批判 大学のあり方を検討 学長”生徒と話し合いたい”


・5月10日夕刊      琉大紛争に断 四名の学生を退学 沈痛な胡屋学長 ”社会に訴える” ”自主性を確立”

・5月11日朝刊 二面  大島でも騒ぐ 琉大事件に分校性が抗議 余波おさまらず 臨時学生総会開催の動き

・5月11日㈪夕刊     処分学生訴う 琉大”生徒総会開いてくれ”

・5月12日㈫朝刊 一面 社説 琉大紛争と学園の改革

・5月12日㈫夕刊 二面 ”声明書は一方的だ” 学生総会 当局に説明求む

・5月12日㈫夕刊 三面 再燃する琉大紛争 きのう学生総会で検証

・5月13日㈬夕刊 三面 琉大・学生の質問に回答

・5月14日㈭夕刊 三面 学校側の説明を再び聴取 学生側15日の総会で態度決め

・5月16日㈯夕刊 三面 学生にアンケート 琉大紛争 学生会・慎重を期す

・5月19日㈫朝刊 一面 社説 琉大問題と教育の自由

                              

                              

                   

『沖縄朝日新聞』1953年5月記事

・5月7日 琉球大学の実情を訴う①

・5月8日 琉球大学の実情を訴う②

・5月9日 琉球大学の実情を訴う

・5月10日 琉球大学の実情を訴う(完)




◆記録篇

当事者からの聞き取り


◆あとがきにかえてーーー琉大事件の普遍的意義



◆補録資料「ホーウッド書簡」解説

https://himawari0007.amebaownd.com/pages/500085/page_201606071157 


「琉大事件を考える(仮称)」
ホームページ
https://himawari0007.amebaownd.com/ 


沖縄 ブログランキングへ

基地の島コンパクト事典

image


「基地の島コンパクト事典 キーワード編」沖縄文化社




「琉大事件を考える(仮称)」
ホームページ
https://himawari0007.amebaownd.com/ 


沖縄 ブログランキングへ

『戦後沖縄史』 新崎盛暉 19760110 日本評論社

http://www.arsvi.com/b1900/7601am.htm
■内容
本書において試みようとしたのは、沖縄戦後史の中間総括である。ここでは、通史的記述をめざしてはいない。むしろ、よりよい戦後史が書かれるためのたたき台の提供、できるだけ多くの論争点の発掘に重点を置いている。それは、これまでの沖縄戦後史の分析・記述に際しては、前提となるべきこうした作業が、もっともおろそかにされてきたことの一つだと考えられるからである。
(「BOOK」データベースより)

■目次
序章 時期区分について

第一章 軍事占領初期の動向――45年4月~49年後半
第二章 統治方針の確立と日本復帰運動――49年後半~52年4月
第三章 暗黒時代の闘い――52年4月~56年6月
第四章 島ぐるみ闘争の展開とその内実――56年6月~58年後半
第五章 相対的安定期と思想的変容――58年後半~62年1月
第六章 自治権拡大問題と政治的再編――62年2月~64年後半
第七章 ベトナム戦争拡大のなかで――64年後半~67年2月
第八章 日米軍事同盟の再編と大衆闘争――67年2月~69年2月
第九章 支配体制移行期の思想――69年2月~72年5月

■引用

■序章 時期区分について
「2・4ゼネストへと登りつめて行くが、その挫折によって終止符を打たれる。復帰運動に集約された大衆運動は、ここに一つのサイクルを終えるのである。」(3)

「日本政府は、沖縄「返還」という「国民的願望」を先どりしつつ、日米軍事同盟再編強化のための交渉に向かって、一路驀進し、ようやく72年5月15日の沖縄返還へとたどりつくのである。この間、70年12月20日のいわゆるコザ暴動、71年5月19日の沖縄返還協定粉砕ゼネストなど、2・4ゼネストの挫折を形態的あるいは思想的に克服しようとする動きが、自然発生的にあるいは組織的にあらわれたが、ついに政治の流れを変えるにはいたらなかった」(3)
●復帰運動の終焉としての1969年2・4ゼネスト、とその乗り越え

「日米軍事同盟(日米安保体制)の再編強化に反対するはずの60年安保闘争は、沖縄への公然たる核持ち込みに対決することもなく、核持ち込みに反対する住民の意思表示(立法院決議)と連帯することもできなかったのである(このことの意味は、68年のB52常駐化が、本土においても一定の反響をまきおこしたことと対比してみればいっそう明らかになる)。
 60年安保闘争を総体としてみると、新安保条約の適用地域(共同防衛地域)に沖縄を含めることは、アメリカの戦争に巻き込まれる危険を増大することになる、という段階にとどまっていて、米軍事戦略体制のカナメとしての沖縄をどうするか、米軍事支配下で苦闘する沖縄人民とどう連帯するか、という段階までは、ほとんど考え及んでいないのである。」(6)
「「本土には安保闘争があって沖縄闘争がなく、沖縄には復帰運動があって安保闘争がないという状況が存在した」といわざるをえないのである。」(7)
●60年安保闘争における「沖縄」の不在


■第一章 軍事占領初期の動向――45年4月~49年後半

1946年1月29日 GHQ「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」: 北緯30度以南の南西諸島を日本から分離する方針(11)

1946年6月 マッカーサー「沖縄諸島は、われわれの天然の国境である」発言(15)
「このマッカーサー発言で重要な点は、およそ三つに整理できる。
 第一は沖縄人は日本人ではない、という沖縄(人)観である。」(15)
「第二点は、ヤルタ協定と沖縄の筧である。[…]沖縄をアメリカが保有するかたちの講和条約を想定している。」(15)
「第三の問題点[…]日本の軍備放棄とアメリカの沖縄支配(空軍基地化)を関連づけている。」(15)

1948年5月9日 米軍政府『琉球列島における統治の主体』

●冷戦体制の形成: 日本と沖縄の分離、異なる統治(対日占領政策と沖縄占領政策)、異なる位置づけ

・政党の動き(20-21)
1947年6月 沖縄民主同盟結成(仲宗根源和を中心に)
1947年7月 沖縄人民党結成(浦崎康華、瀬長亀次郎、兼次佐一を中心に)
1947年9月 沖縄社会党結成(大宜味朝徳を中心に)
1946年3月頃 奄美大島自治同盟結成
1947年1月 奄美共産党結成(中村安太郎、林義巳らを中心に)
1949年8月 共和党(奄美、反共政党/向井文忠を中心に)

・諸政党のスローガン(21-22): ①民主化(ポツダム宣言に求める)、②占領米軍に対する協力の姿勢(解放軍規定)、③独立論的志向(人民自治政府の樹立など)

▼新里恵二「現代沖縄の歴史」『歴史評論』1957年1月号.
▼国場幸太郎「沖縄の日本復帰運動と革新政党」『思想』1962年2月号.
▼松田清『奄美大島日本復帰運動史料』奄美史研究会、1968.
▼「沖縄現代史への証言1 宮良長義と八重山民主化闘争」『新沖縄文学』26号、1974年10月.

「この時期[1950年]は、すでに朝鮮戦争を間近にひかえて、日本共産党と連合国(米)軍との関係も険悪化してきていた時期ではあった。しかし、沖縄においては、占領米軍の反共攻撃は、まだ表面化しておらず、人民党と米軍の関係も悪化してはいなかった。」(26)
●朝鮮戦争の存在

「沖縄における独立論は、どちらかといえば沖縄を中心に奄美も含めた、いわば大琉球独立論であった。[…]奄美の独立論が志向していたのは奄美人民共和国であって、琉球人民共和国ではなかった。また、日本本土におけるそれぞれの出身者の組織も、沖縄(人)連盟と奄美連盟(連合)、沖縄青年同盟と奄美青年同盟というぐあいに、別個であった。のちの復帰運動(これも奄美がはるかに先行した)も別々にすすめられた。」(27)

「これ[民主化要求、解放軍規定、独立論志向の三位一体]は何も沖縄の革新政党にかぎられたことではなかった。日本共産党や日本社会党にも、おおかれ少なかれ、共通している現象であった。」(28)
→1946年2月 第5回党大会で採択 共産党の沖縄人連盟あて「沖縄民族の独立を祝う」メッセージ
●本土革新政党の民主化要求、解放軍規定、独立論志向の三位一体の共有

「日本固有の領土である沖縄をアメリカが支配しているのは、ポツダム宣言に違反する、という見解が一般化していくのは、1951年の講和会議前後、とくにソ連が、アメリカの沖縄支配をポツダム宣言違反として批判するようになって以降のことである。」(30)
▼ポツダム宣言
▼カイロ

「沖縄人民党は、51年1月28日の拡大中央委員会で日本と連合国との講和は、世界平和の観点からみて、全面講和でなければならない、そして琉球の帰属は、琉球人民の意志によるべきである、という基本的態度を決定した。ついで、同ん年2月13日の拡大中央委員会で、帰属問題に対する具体的態度として、日本復帰の方針を決定した。」(33)
「沖縄人民党の独立論にしてからが[…]49、50年段階の瀬長亀次郎の論文にみられるような、日本との連邦制も可能的形態として含みうる自治共和国のイメージまで多様である」(41)
・米軍犯罪の増加→解放軍規定の批判→復帰路線へ
・日本政府への戦争被害の賠償金支払い要求(人民党)
●人民党の復帰路線への転換
●冷戦体制の形成→軍事化。反軍事化としての復帰路線の前景化。

▼沖縄タイムス編『沖縄の証言』

1951年10月 日本共産党第五回全国協議会「沖縄・奄美大島・小笠原諸島同胞に訴える」
「日本の国土であり、諸君が生まれ、育ち、生活している沖縄・奄美大島・小笠原諸島を祖国から切り離し、アメリカの統治に移している。[…]日本の国民は、歴史にかつてない重大な危機に直面している。この危機を克服する道は、アメリカ帝国主義者とその手先どもの日本に対する占領制度を取り除き、諸君を祖国から引き離した不正な講和条約を破棄する以外にない」(45)
●日本共産党の方針が独立論から復帰(返還)論に転換。アメリカ帝国しぃぎと日本の批判、講和条約の廃棄。

・仲吉良光の復帰論(58~): 日本との文化的一体感、皇室への敬愛


■第二章 統治方針の確立と日本復帰運動――49年後半~52年4月
・中国革命の成功(1949年10月1日中華人民共和国成立)が決定的となり、沖縄の恒久基地建設の本格化 + 日本の「軍需工場として再建」(62)→沖縄基地建設予算の計上(61)、ガリオア援助(64)
●〈冷戦体制→沖縄の軍事化〉という枠組み

・基地建設: 1949年11月末 鹿島建設、清水建設、間組、大成建設、竹中工務店、納富建業などの来沖→「沖縄ブーム」、「沖縄景気」

1950年6月 朝鮮戦争開始→「朝鮮特需」

1950年12月8日 総司令部渉外局 「琉球列島米国民政府に関する指令」(50・12指令)
「マッカーサー元帥は、[…]戦略的価値ある沖縄を含む琉球諸島に対する管理を強化する計画の下に、琉球諸島の民政長官に就任、北緯30度以南の琉球諸島の米国の民事行政に、責任と権限をもつ[…]。軍事上の安全保障を妨げない範囲で琉球諸島の一般住民の経済的、社会的福祉を増進する方針である。[…]住民は占領目的に反しない限り、言論、集会の自由その他民主主義国家の基本的自由を保障される。」(67-68)
→半永久的な軍事基地の確保を前提にした軍用地政策の開始

1945年11月 沖縄人連盟発足 → 1949年10月 沖縄連盟へ改称
「沖縄人連盟という名称が独立論的思想と結びついていたこと、この名称をきらう復帰思想の力が連盟内で大きくなってきたことを意味していた。」(75)
「50年も半ばになると[…]日本本土在住沖縄出身者の動向は、ほぼ復帰一本にまとめあげられていた。」(75)
●在本土沖縄出身者の復帰路線化。朝鮮戦争間近のタイミング。

・復帰促進期成会
「基調は、あくまで文化的復帰論であった。そればかりか、全面講和や基地反対といった政治的主張を積極的に排除しようとしていた。」(78)

「沖縄の経済的自立が困難であるという認識は、独立論者も、復帰論者も共通していた。しかし、この困難性を乗り越える道を、独立論者は、アメリカの援助に求め、復帰論者は日本復帰に求めた。このころには、すでに解放軍への幻想は完全に破れ去っていた。一時的、断片的には、一般民衆に、日本軍との異質性を感じさせることもあったアメリカ式ヒューマニズムは、横行するグロテスクな米軍犯罪の前にまったく色あせていた。民衆の基本的諸権利は剥奪されたままであり、高圧的な支配者の恣意的政策(たとえば、食料の大幅値上げ、食料配給停止事件)は民衆の反発と権利意識を強めていた。そして経済的にも、多くの民衆は窮乏状態にあった。否定的現実のなかにおかれていた民衆は、文化的復帰論を手掛かりにしながら、そこから脱却する道を、日本復帰の方向に求めつつあった。」(79)
●経済的危機=窮乏化からの乗り越えとしての①アメリカ援助、②復帰。

・差別論の後景化(80~): ①全面否定(仲吉良光)、②階級論=軍閥政府への矮小化(瀬長亀次郎)
「51年段階の復帰論者たちにとって、差別は、すでに清算ずみの過去の問題であり、もはやとるにたらない問題だったのである。」
●表面上の言説はともかくとして、人びとの何面はどうなのか。
▼瀬長・木下順二対談『朝日ジャーナル』1967年11月19日

・講和論議と沖縄
「本土における、講和論議は、全面講和、中立、軍事基地化反対、再軍備反対を中心に展開されていた。社共両党、平和問題懇談会等の主張は、すべてこの四点に含められた。領土問題、あるいは、沖縄人民との連帯の問題は、51年の前半まではほとんどとりあげられていなかった。それでも講和会議の直前になると、この問題がようやく重要視されるようになってきた。」(87)
「一方、仲吉良光たちは、日本本土と同様に沖縄にも米軍の駐留を認めることを前提にした日本復帰をとなえていた。」(87)

■第三章 暗黒時代の闘い――52年4月~56年6月
「1952年4月28日、対日平和条約の効力が発生すると、条約第三条によって規定された沖縄の地位を前提として、アンザス、米比、米韓、米台などの軍事条約網が張りめぐらされていく。」(90)
「沖縄は、個別的軍事同盟条約のカナメとしての役割を担わされたのであった」(92)

「ダレスやニクソンの沖縄無期限保有の言明を引きついで、アイゼンハワー米大統領は、54年年頭の一般教書において、「沖縄のわれわれの基地を無期限に保持するつもりである」と述べた。[…]対日平和条約第三条によって、沖縄支配を“合法化”したアメリカは、沖縄支配の目的を国策の上でも鮮明にした。」(96)
▼平和条約第三条

1951年 日本復帰促進期成会 → 1953年1月 沖縄諸島祖国復帰期成会として再建

1952年6月 日本道路会社(清水建設の下請け会社)ストライキ: 組織的労働争議のはじまり。人権的闘争的色彩の濃さ。

1953年5月 第二回メーデー 土地と利上げ絶対反対、土地収用法の即時撤廃、植民地化教育反対、琉大学長・副学長の即時罷免、軍事基地化反対、外国軍隊の即時撤退(121)

1955年1月13日~ 朝日報道(「米軍の『沖縄民政』を衝く」ほか)
反響の声「同じ血をひく日本民族が私達と手をにぎりあって闘ってくださることを信じたからです。[…]私達沖縄の人は、同じ血をひいた日本民族であるということ[…]私達ともっともっと話し合って沖縄住民の現状をくわしく知ってもらいたいこと。」(139-140)
「朝日報道は、暗黒時代の沖縄に厚くたれこめていた暗雲を切り裂いて、閉鎖された沖縄社会にさし込んだ一条の光であった。」(140)
「沖縄島民は、われわれの同胞である。」『朝日新聞』社説「沖縄民政について訴える」1955年1月14日
●朝日報道のインパクトの大きさ。同胞意識からの島ぐるみ闘争への共鳴。

▼沖縄県学生会編1954『祖国なき沖縄』


■第四章 島ぐるみ闘争の展開とその内実――56年6月~58年後半
1956年6月 プライス勧告骨子発表。市町村住民大会。第二回住民大会(6月25日、10万人@那覇、5万人@コザ)

「いまやまったく異なった状況が生み出されていたのである。島ぐるみ闘争は、プライス勧告が四原則を否定したことに対する反発であるという意味においては、たしかに土地闘争であったし、四原則はあくまで軍用地問題に関する要求であったけれども、それは、暗黒時代に抑圧されていた人民のさまざまな怒りを吸収することによって、島ぐるみ闘争たりえたのである。」(148)
「島ぐるみ闘争の爆発とともに、一挙に表面化した注目すべきスローガンは、国土防衛論、領土権防衛論である。」(148)
1956年6月14日 土地連合会総会の決議「領土権を死守する以外に道はない」(149)
1956年6月15日 沖縄教職員会緊急理事会「寸土たりとも我国土をうばわれぬよう断固とした政策を講じてほしい」(149)
四者協日本政府宛要請電「沖縄の軍用地問題は日本の領土主権を侵し全住民の死活に関する。土地を守り国土を守るために必死の決意をもって結束している日本住民の保護は、日本政府の責任たることを銘記し、強力なる対米折衝を切望す」(150)
「国土防衛論、領土権防衛論が、一挙に表面化してきたのは、この島ぐるみ闘争が、復帰思想によって支えられていたことを示していた。」(150)
●島ぐるみ闘争において、復帰運動を背景とした、国土防衛論のせり上がり。

「島ぐるみ闘争のナショナリズムは、日本本土においても、かなりの反響をよびおこした。とくに、新聞の投書などに示された一般民衆の民族的共感は、当時(旧安保体制下)の日本の状況と即応しながら、もっとも身近なところで沖縄を受けとめていた。」(153)
→▼『沖縄問題二十年』
「島ぐるみ闘争を、もっともナショナリスティックな側面からとらえたのは、共産党であった。[…]『アカハタ』号外(56年6月30日)のトップには、「国土死守、“静かなる闘争”、燃えたぎる日本民族の心」という見出しがかかげられていた。
 だが、一般民衆の民族的共感は、政治的に有効なかたちで、組織化されたわけではなかった。奇妙なことに沖縄問題は、超党派的に取り組まなければならないということが、あらゆる政党や団体に共通の前提となっていた。なぜならば、沖縄の闘争が、島ぐるみ闘争であり、超党派的なものだったからである。」(154-155)
●本土におけるナショナリスティック/民族的共感
「島ぐるみ闘争の爆発は、爆発と同時に沖縄をこえる広がりを示した。本土民衆の沖縄によせる共感は、沖縄返還(第三条破棄)要求の運動を組織化するところまでは発展させられなかったが、それでも、全国各地で沖縄問題を中心とする大衆集会が開かれ、無数の「沖縄を守る会」が誕生したことは、それまでの日本戦後史における沖縄問題の完全な欠落との対比において注目に値する。
 これは、当時の日本が、それこそ屈辱的な不平等条約である(旧)日米安保条約やそれに付属する行政協定のもとに置かれており、そうした状況に対する反発として内灘から砂川へと発展した反米基地闘争のナショナリズムが、島ぐるみ闘争のナショナリズムと接点をもっていたからであった。瀬長那覇市長に対する米軍の不当な弾圧に抗議して、総評や全労(同盟の前身)も、量的にはわずかであったが、那覇市へ救援物資を送った。[…]このような状況のなかで、日本社会党は、不平等条約改廃運動をおこすことをきめた。」(187)
●本土の反米基地闘争のナショナリズムの高揚と、島ぐるみ闘争のナショナリズムとのつながり。
●沖縄返還要求運動の組織化には至らず。
●「沖縄を守る会」の誕生
「いくつかの反米的基地闘争を経てジラードの裁判権問題にまで発展してきた本土民衆の反米感情は、持続的な沖縄闘争へと高められることなく、在日米軍の大幅削減(地上戦闘部隊の撤退)によって鎮静化させられていったし、沖縄論議の退潮とともに、「U2(米軍偵察機)などは、沖縄へでも持っていけばよい」という発言まで聞かれるようになるのである。」(191)
●〈基地の撤去→運動の鎮静化=沖縄への意識の後景化〉という機械論的記述でよいのか。水脈として流れ続けるものはないのか。

1956年7月4日 沖縄問題解決国民総決起大会、東京日比谷野外音楽堂、80団体主催
「ある部分(共産党や全学連)は、この闘争を「国土死守、日本民族独立」のための闘争としてとらえようとしていた。ある部分(社会党など)は、基地問題一般に還元していた。ある部分(自民党など)は、この闘争を経済闘争に矮小化し、そのわくに閉じ込めるためのブレーキ役としてのみ行動した。したがって、7月4日の総決起大会の主催団体によって結成された沖縄問題解決国民運動連絡会議は、状況に臨機応変の対応をすることができず、いたずらに政府に時間をかせがせる結果となった。」(155)
●左右による島ぐるみ闘争への「応答」。保守は現状維持、革新は民族主義的闘争。

195*年7月7日 日米共同コミュニケ → 土地闘争の終止符(186)

1957年6月 岸・アイゼンハワー共同声明: 日本側の自衛隊増強、米陸上戦闘部隊の日本からの撤退をふくむ在日米地上軍の大幅削減、極東軍司令部の廃止→ハワイの太平洋地区司令部の指揮下へ
「在日米地上軍の撤退も、全面的な米本国への引き揚げを意味するのではなく、機動性をもった拠点配置を意味したのであるから、その一部は“太平洋の要石である”沖縄へ移動したのである(たとえば第三海兵師団の沖縄集中)。[…]沖縄への「本土撤兵のシワ寄せ」という印象を強めることになった。」(189)



「『醜い日本人』の告発は、ほとんど批判されない。たとえ表面的にではあっても“感動”と“ザンゲの念”をもって迎え入れられている」(346-347)
「五ヵ月たらずで、この本が八版を重ねたと書いている。つまりこの本は、沖縄について書かれた書物のうちで、唯一例外的なベストセラーであった。」(350)
「告発される「本土」も、告発する「沖縄」も、まったくのっぺらぼうで無内容な存在になってしまう。彼の告発する「本土」は権力機構でもなく、国家でもなく、階級社会でもない。そうかといって異文化圏でもなく、異民族集団でもない。[…]彼の思想と反復帰論との似て非なる点は、第一に反復帰論的思想が72年返還政策への全面対決を通して反権力志向をきわめて明瞭に示している点、第二に、「本土」および「沖縄」に実態を付与し、その意味するところを追求しようとしている点にあるといえよう。」(347)
「決してそれが「告発する相手を間違えている」からではない。ひとことでいえば、「これでは“告発”になりえていない」からである。[…]民主勢力であろうと、革新勢力であろうと、批判されるべきは批判すべきであり、告発されるべきは告発すべきなのである。告発されることによって阻害されるような連帯意識などはさっさと破壊した方がいいのだ。」(349)
「本土の評論家や進歩的文化人、あるいは革新団体の指導者たちの間では、どのようなものであれ、沖縄からの「差別の告発」は無批判に受容されるのが通例である。[…]一様に「ザンゲの念」を表明し、これに暖い「理解」と「同情」をよせるのである。そうすることによって彼らは、講和論義で沖縄を欠落させ、60年安保で沖縄を欠落させてきたばかりか、政府が沖縄返還論議をかきたてるまでほとんどこれに関心をもたなかった自分たちの責任を回避しようとする。したがって、もし批判されるべきものがあるとすれば、それは沖縄への主体的かかわりをもたないままで、一億総ザンゲ式に「差別の告発」を受け入れ、これに安易でその実不遜な「理解」や「同情」を示す意識構造そのものでなければならないはずである。」(351)
「従来、復帰論は、「差別」の問題を避けて通ってきた。[…]多くの人びとは、歴史的差別をふたたび思いおこし、差別的処遇に対するうっ屈した過剰を増大させつつあった。」(353)
●差別告発の言葉が、〈権力構造を問わない復帰要求〉となってしまっており、日米両政府の沖縄返還政策と神話的な国境の移動にしかならない、という批判。一方で反復帰論は、返還政策と対決し、「本土」や「沖縄」の実態を批判的に問うことを可能にしているという批判。差別を語る言葉が体制といかなる関係をもっているのか、という問いの重要性。→①にんげん論、②反復帰論
●一方で、図式化された差別論 資本家⇔沖縄、天皇制⇔沖縄。
●理解、同情、ザンゲという「応答」の意味を構造的に読み解く必要性
●復帰運動・思想によってうっ屈してきた被差別意識。復帰へとのめりこむのではない形での差別の問い方。

▼霜田正次「沖縄県民の意識の中の日本像」中野好夫編『沖縄問題を考える』1967
▼金城雅篤・西里喜行「「沖縄歴史」研究の現状と問題点」『歴史学研究』1970年2月
▼岡本恵徳「〈差別〉の問題を通して考える沖縄――副読本〈にんげん〉をめぐる問題」『教育評論』1971年6月

・解放読本『にんげん』(354~)
全国開放教育研究会『にんげん』で沖縄問題をとりあげようとする
 →『醜い日本人』の一部を中学生むきに書き直して収録する予定
 →沖縄県人会関係者と著者から断り
 →沖縄を訪問した中学生と教師との書簡という形式に決定
大阪府教育委員会が同和教育副読本として認定
大阪沖縄県人会の有力者が反対

・『醜い日本人』のベストセラー化と『にんげん』批判
「矛盾した行為」(岡本恵徳)
「二つの行為の間に矛盾はない」(355)
「なぜならば、『醜い日本人』がその熱烈な支持者に与えたものは一種のカタルシスにすぎなかったし、[…]「沖縄が、そして沖縄県民のみが、法制度的に本土他府県人とは差別されている事実を」問題にしていたからである。」(355)

▼大坂沖縄県人会連合会会長名のパンフレット『沖縄県人は訴える』
沖縄差別: 制度的差別
部落差別: 心情的差別

「問題は[…]沖縄差別を告発する多くの人びとの「差別」に対する姿勢なのである。」(356)

▼屋良朝苗 1970年10月22日付 大阪府教育委員会宛 「解放教育研究会編『にんげん』(中学生用)に掲載予定の『沖縄と差別』の項削除方について(要請)」(356)
・沖縄問題と部落解放問題は、種類や質がまったく別
・本土沖縄県人、大坂沖縄県人会、沖縄出身教職員からの反対意見

1971年1月23日 沖縄選出国会議員団(沖縄議員クラブ) 大阪府教育庁への使用禁止申し入れ(357)
・部落差別と異なる
・沖縄を部落や朝鮮人みたいなイメージを与える

大阪府教育委員会『にんげん』採用決定
→一部の沖縄出身者、大阪沖縄県人会の一部のメンバーによる働きかけ

・奄美出身者に対する差別(358~)
「無権利状態から一歩一歩民主的諸権利を獲得してきたとされる沖縄の大衆運動が、制度的差別下の最下層部分を無視してきたこと、沖縄差別を声高に告発する人びとが、二重差別下にある人たちの存在をおおいかくしてきたことが痛烈に指摘されるのである。」(363)

「少数者としての自己に徹し切って、差別を告発するという立場に立ちえたならば、自らの内にかかえる在沖奄美人の問題や部落問題、在日朝鮮人問題などとの関連性を追求する視角をもちえたであろう。しかし、自らに対する差別のみを多数差別者に訴え、その理解と同情を求めて問題を解決しようとするかぎり、部落問題や在日朝鮮人問題との関連性がかすんでくるばかりか、自らの内にかかえる在沖奄美出身者の問題などは意識的に隠蔽せざるをえなくなる。[…]「差別を告発し、その償いを求める復帰思想」は[…]決して解放ののろしとなりうるような質をもつものではなかった」(367-368)
●差別の構造理解の欠落?線引きがどのような構造のもとで、自ら以外の誰に対して行われているのか、という問いの欠落。
●『沖縄差別』グループの検討の必要性

・在沖奄美連合会による公民権獲得運動
・永住許可問題 cf. 入国管理・出入国管理法案問題との同時代性

▼泉有平「一万人は泣いている=奄美籍者の原稿処遇について」『月刊沖縄』1962年6月号

▼『新沖縄文学』「70年・沖縄の潮流」

・本土と沖縄とのズレ(370~)

「佐藤訪米が近づくにつれて、[…]軍事同盟の再編強化には反対だが、沖縄返還交渉には反対できない(それは沖縄に差別を押しつける本土エゴイズムにつながる)という国民的合意が確立していった。そしてこの国民的合意からはみ出した部分は、街頭闘争の強化によってその劣勢をおぎなおうとした。10・8羽田闘争のときにくらべれば、彼らの勢力は比較にならないほど増大していたけれども、権力の側の暴力的対応も、67年10月~11月とはくらべものにならないほど整備されていた。そして、国民的合意からはみ出した部分(ベ平連などの非暴力的部分も含めて)に対しては、権力の側のためらうことのない弾圧が加えられた。」(371)
「佐藤訪米阻止闘争は、とくに本土においては、突出した部分の街頭闘争として孤立化させられたがゆえにその正しさにもかかわらず敗北した。佐藤訪米阻止闘争の敗北は、2・4ゼネスト挫折の全日本的拡大であった。」(372)
●〈軍事同盟の再編強化〉と〈復帰〉を切り離す「国民的合意」が、日米両政府によってつくられていく。復帰思想・運動が骨抜きにされ、体制にとって無害なものとして吸収されていった歴史。国家の後景化。〈軍事同盟の再編強化〉と〈復帰〉とを切り離すために、差別者/差別意識が動員されているという皮肉な事態。
●〈軍事同盟の再編強化〉と〈復帰〉をつなげる運動/思想: 2・4ゼネストの乗り越えと街頭闘争。国家による暴力的な弾圧・鎮圧。国家の前景化=反復帰論的思想。
*作成:大野 光明
UP: 20120806




「琉大事件を考える(仮称)」
ホームページ
https://himawari0007.amebaownd.com/  

奄美群島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定 1953年



奄美群島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定及び関係文書をここに公布する。

御名御璽

昭和二十八年十二月二十五日

内閣総理大臣  吉田   茂

アメリカ合衆国は、同国国務長官が千九百五十三年八月八日に声明したとおり、奄美群島に関し、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第三条に基くすべての権利及び利益を日本国のために放棄することを希望するので、また、

 日本国は、奄美群島の領域及び住民に対する行政、立法及び司法上のすべての権力を行使するための完全な権能及び責任を引き受けることを望むので、

 よって、日本国政府及びアメリカ合衆国政府は、この協定を締結することに決定し、このためそれぞれの代表者を任命した。これらの代表者は、次のとおり協定した。

第一条

1 アメリカ合衆国は、奄美群島に関し、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第三条に基くすべての権利及び利益を、千九百五十三年十二月二十五日から日本国のために放棄する。日本国は、前記の日に、奄美群島の領域及び住民に対する行政、立法及び司法上のすべての権力を行使するための完全な権能及び責任を引き受ける。

2 この協定の適用上、「奄美群島」とは、附属書に掲げる群島(領水を含む。)をいう。

第二条

1 アメリカ合衆国が奄美群島で現に利用している二の設備及び用地は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名され、その後改正された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に定める手続に従つて合衆国軍隊が使用するものとする。もつとも、避けがたい遅延のため千九百五十三年十二月二十五日前に、前記の手続きによることができない場合には、日本国は、アメリカ合衆国に対し、その手続が完了するまでの間、これらの特定の設備及び用地を引き続き使用することを許すものとする。

2 日本国政府は奄美大島の名瀬にある測候所の運営を引き継ぐものとし、且つ、行政協定第二十六条に定める合同委員会による協議を通じて合意されるところに従つて気象観測の結果をアメリカ合衆国政府に提供するものとする。避けがたい遅延のため千九百五十三年十二月二十五日に日本国政府がその運営を引き継ぐことができない場合には、現状どおりの運営が、日本国政府がこの責任を引受ける準備ができる時まで、継続されることが合意される。

第三条

1 日本国政府は、千九百五十三年十二月二十五日に、奄美群島における流通からすべての「B」号円を回収し、且つ、一「B」号円につき三日本円の割合で「B」号円と引き替えに日本円を交付することを開始しなければならない。この通貨の交換は、できる限りすみやかに完了しなければならない。回収した「B」号円は、沖縄の那覇にいる合衆国民政官に返還しなければならない。アメリカ合衆国政府は、「B」号円又は「B」号円と引き替えに交付される日本円について、日本国政府に対し何ら償還の義務を負うものではない。

2 予算及び財政に関する現行の措置で資金の収集及び債務の支払に関するものは、千九百五十三年十二月二十四日まで維持されるものとし、その後は、日本国政府が、奄美群島における完全な財政上の責任を有するものとする。

3 日本国政府は、奄美群島における郵便組織のすべての金融上の債務を負うものとする。奄美群島における郵便組織と南西諸島のその他の島における郵便組織との間の勘定は、日本国政府とアメリカ合衆国政府との間で、奄美群島における郵便組織のその他の資産並びに南西諸島のその他の島における日本国政府郵便組織の戦争前の資産及び債務を考慮に入れて、後日合意される通りに決済しなければならない。

4 琉球政府の財産(書類、記録及び証拠物件を含む。)千九百五十三年十二月二十五日に奄美群島に存在するものは、その日に無償で日本国政府に移転しなければならない。

5 日本国政府(地方公共団体を含む。)の財産で、千九百五十三年十二月二十五日に奄美群島に存在し、且つ、同日前にはアメリカ合衆国政府の管理下にあったものは、その日に無償で日本国政府に返還しなければならない。

6 千九百五十三年十二月二十五日に、奄美群島における各種の機関及び団体が奄美群島への貨物の積送の結果南西諸島のその他の島における政府機関その他の機関に対して負う当座勘定並びに奄美群島における個人及び団体が琉球復興金融金庫に対して負う長期債務が存在する。両国政府は、これらの勘定の残高並びに債権者をできる限りすみやかに確認しなければならない。アメリカ合衆国政府は、確認された勘定に関するすべての権利及び利益を無償で日本国政府に移転しなければならない。

7 千九百五十三年十二月二十五日に、奄美群島における個人(法人を含む。以下同じ。)が南西諸島のその他の島における個人に対し、又は南西諸島のその他の島における個人が奄美群島における個人に対し負う債務が存在する。両国政府は、これらの債務の決済を促進する手続を定めることに同意する。

第四条

1 日本国は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したために執られた行動から生じたアメリカ合衆国及びその国民並びに南西諸島の現地当局及びその前身たる機関に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し、且つ、アメリカ合衆国の軍隊又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権で、千九百五十三年十二月二十五日前に、奄美群島で生じ、又は奄美群島に影響を有するものを放棄する。但し、前記の放棄には、千九百四十五年九月二日以後制定されたアメリカ合衆国の法令又は南西諸島の現地法令で特に認められた日本人の請求権の放棄を含まない。

2 日本国は、占領期間中及び奄美群島の軍政府又は合衆国民政府の期間中に占領当局、軍政府又は合衆国民政府の指令に基いて若しくはその結果として行われ、又は当時の法令によつて許可されたすべての作為又は不作為の効力を承認し、合衆国国民又は南西諸島の居住者をこれらの作為又は不作為から生ずる民事又は刑事の責任に問ういかなる行動も執らないものとする。

第五条

1 日本国は、公の秩序又は善良の風俗に反しない限り、次の裁判が有効であることを承認し、且つ、それらの効力を完全に存続させるものとする。

(a)奄美群島におけるいずれかの裁判所が千九百五十三年十二月二十五日前にした民事の裁判で、同日前の法令によつて再審査の手段又は権利がなかつたもの及び

(b)沖縄における琉球上訴裁判所が千九百五十三年十二月二十五日前にした民事の最終的裁判で、奄美群島におけるいずれかの裁判所に係属した事件に関すもの

2 日本国は、訴訟当事者の実質的な権利及び地位をいかなる意味においても害することなく、千九百五十三年十二月二十五日に奄美群島におけるいずれかの裁判所に係属中の民事事件又はそれらの裁判所に係属した民事事件で千九百五十三年十二月二十五日に琉球上訴裁判所に係属中のものについて、裁判権を引き継ぎ、且つ、引き続き裁判及び執行をするものとする。

第六条

 日本国は、奄美群島にいる者で、千九百五十三年十二月二十五日前に南西諸島におけるいずれかの裁判所が科した刑に服役中のもの又は千九百五十三年十二月二十五日に前記の裁判所若しくは沖縄における琉球上訴裁判所に事件が係属中のものに対して、日本国の法令及び手続に従つて刑事裁判権を行使することができる。但し、これらの者が千九百五十三年十二月二十五日に抑留中である場合には、適当な措置が執られるまでの間引き続き日本国の当局の下に抑留されるものとする。日本国の当局は、前記の者に対して刑事裁判権を行使するに際し、南西諸島における裁判所又は沖縄における琉球上訴裁判が前記の者に対して刑事裁判権を行使する際に用いた証拠資料に対して相当な信頼を置くものとする。

第七条

 日本国が当事国である条約及びその他の国際協定(千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約、同日に署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約及びこれに基く改正された行政協定、同日に日本国総理大臣とアメリカ合衆国国務長官との間で交換された公文並びに千九百五十三年四月二日に東京で署名された日本国とのアメリカ合衆国との間の友好通商航海条約を含む。)は、この協定の効力発生の日から奄美群島について適用されるものとする。

第八条

 この協定の実施に関する事項は、両国政府又はその権限のある当局の間で協議によって合意するものとする。

第九条

 この協定は、千九百五十三年十二月二十五日に効力を生ずる。

以上の証拠として、下名は、各自の政府により正当な委任を受け、この協定に署名した。

 千九百五十三年十二月二十四日に東京で、ひとしく正文である日本語及び英語により本書二通を作成した。

 日本国のために

   岡崎勝男(署名)

 アメリカ合衆国のために

   ジョン・M・アリソン(署名)

奄美群島の歴史 現代 アメリカ統治下

奄美群島の歴史 現代 アメリカ統治下


1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に置かれた。

同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「Northern Ryukyu(北部琉球)」と書かれていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて調印しなかった。
これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを確認した後に降伏した。


1946年(昭和21年)2月2日、正式に日本からの行政分離が連合軍総司令部から発表され、米国民政府の命令により本土出身者が公職から追放、本土に強制送還となった。
空席となった役職には地元出身者が就任し、10月3日に臨時北部南西諸島政庁が成立した。
1950年(昭和25年)11月25日に奄美群島政府に改称。

しかし民選で選出された知事は日本復帰を公約に掲げた人物であったため(他の民政府も同様)、不快を感じた米国民政府は権限の縮小を決意し、1952年(昭和27年)4月1日には首班が米国民政府任命である琉球中央政府及び奄美地方庁を設立して民政府の権限を縮小、後に廃止した。

それらの米国民政府の政治的動きや、沖縄戦で疲弊した沖縄本島への資金集中、本土との分離により換金作物や物産の販売経路の途絶などにより経済が疲弊し飢餓の兆候さえ出てきていた奄美群島の住民は不満を増大させた。

分離直後から始まっていた奄美群島祖国復帰運動は激しさを増し、日本復帰を願う署名が1951年(昭和26年)2月19日より始まり、署名は最終的に14歳以上の住民の99.8%に達し、マハトマ・ガンディーの非暴力運動にならい集落単位または自治体単位でハンガーストライキを行い、小中学生が血判状を提出する事態も発生した。

復帰運動の指導者に奄美大島日本復帰協議会議長の泉芳朗や、ロシア文学者の昇曙夢などがいる。

日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を諦め、1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が[3]、残りの奄美群島も1953年(昭和28年)8月8日のダレス声明による権利放棄を受け、12月25日に返還された。

クリスマスであったことから、米国は「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。



米軍占領・軍政時代を「アメリカ世(あめりかゆ)」とも呼ぶ。





「琉大事件を考える(仮称)」
ホームページ
https://himawari0007.amebaownd.com/   


沖縄 ブログランキングへ 

奄美群島の歴史 近代

奄美群島の歴史 近代

明治維新後の1879年(明治12年)4月、太政官通達により奄美群島は大隅国に編入され大島郡が設置されたが、これに前後して行われた廃藩置県により薩摩藩が廃されて鹿児島県となり、奄美群島も含まれることとなった。

1908年(明治41年)4月1日、島嶼町村制制の施行に伴い、大島郡に16村が成立する。

第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。


同年9月には疎開船「武洲丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。

このほか、近海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。

1945年(昭和20年)3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就いていた。

特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められており、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。


しかし、奄美群島への連合国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。

奄美群島の歴史 近世



1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通じることを許可した。

1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗せた軍船が薩摩の山川港を出帆した。
4月12日(3月8日)に奄美大島へ上陸して制圧、4月26日(3月22日)に徳之島、4月28日(3月24日)に沖永良部島を次々と攻略し、4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし名目上は琉球の一部とされた[2])、1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置した。

中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。

この頃の奄美群島は、薩摩からは道之島と呼ばれた。

薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾取のようになり過酷になっていったといわれる。

薩摩はサトウキビを原料とした黒砂糖を幕府や商人に専売することで富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとたび作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。

しかし、このころに黒砂糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。

庶民の嗜好品として評判となり密造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなければならないほどだった。

主食は主にサツマイモだが、飢饉の時はソテツの実(なり)を毒抜きしたり、幹からでん粉(サゴの一種)をとって粥などに加工し、食用とした。


奄美群島の民謡である島唄は、徳之島以北は本土と同じ五音音階の陽音階(律音階。ヨナ抜き音階参照)で、日本民謡の南限という側面を持つ。

一方で沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限という側面も持っており、琉球民謡の一翼を担っている。

16世紀に弦楽器の三線が琉球からもたらされると島唄にも取り入れられた。

また、本国から離れたこの地は薩摩藩の流刑地とされていたが、送り込まれた罪人の中には知識人もおり、博学の彼等の中には住民に受け入れられた人もあった。

幕末には西郷隆盛も流人生活を送り、島の女性愛加那と結婚して子供ももうけた。

お由羅騒動に連座して流刑に処せられた名越左源太は、在島時の見聞を元に奄美大島の地誌『南島雑話』を著している。


薩摩藩の統治時代を「大和世(やまとんゆ)」とも呼ぶ。



「琉大事件を考える(仮称)」
ホームページ
https://himawari0007.amebaownd.com/    


沖縄 ブログランキングへ 

奄美 琉球時代

奄美群島の歴史 琉球時代 ウィキペディア

 1266年(文永3年)、奄美群島から沖縄本島の英祖王に入貢した事が、『中山世鑑』などの琉球正史に記されているが、交易の存在を元に創作されたと考えられる。
当時の沖縄地域は群雄割拠の状態であり、英祖王の勢力は沖縄本島の一部を支配しているに過ぎず、それ以前から奄美群島に対して行われていた日本本土からの直接的な移住や出先機関の設置と同様な能力がある事も考えられないため、後に宗主国の明に倣った琉球版冊封体制の装飾であると考えられる。

琉球王国成立前後の状況は、沖縄本島からの距離もあって各島々で異なっている。
奄美群島南部の沖永良部島と与論島は、14世紀に沖縄本島北部に存在した北山王国の勢力圏に入った。
徳之島のカムィ焼生産販売勢力の衰退した時期と一致している。

15世紀に入り、沖縄本島の統一を進めていた第一尚氏は1416年(応永23年)に北山王国を滅ぼし、その領土であった与論島と沖永良部島に服従を要求する。
沖永良部島において、北山王の一族であった島之主一家とその重臣達は使者船を侵攻と誤認して自刃、1429年(応永23年)に両島は琉球王国の領土に組み込まれた。
次いで徳之島も服属し、島之主西世之主恩太良金が徳之島大親に任命された。
この後、琉球王国よって奄美群島の地元領主階級は「大親」と呼称される。

1447年(文安4年)に尚思達王が奄美大島を従わせた。

1450年(宝徳2年)から1462年(寛正3年)まで、喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃を仕掛けていた(『李朝実録』)。

1466年(文正元年)に尚徳王が自ら3000の兵を率いて喜界島を制圧、琉球王国はようやく奄美群島全域を支配下に置いた。
しかし当時の国情を無視した膨張政策によって琉球王国は人心を失い、尚徳が早世したのち首里では群臣のクーデターにより尚円王が擁立されると、事実上は王位を簒奪される形で第一尚氏から第二尚氏へと王統が交代する。

1537年(天文6年)、尚清王が奄美大島の領主の一人与湾大親に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、領主間の確執による讒言であると後に判明したため、その子孫を採り立てている。
この当時、奄美大島の領主層は貿易の自主性と領地支配の独自性を維持し、琉球王国の一元支配に反抗的であった。
湯湾大親は第一尚氏の一門とも言われ、他の領主にとっては煙たい存在であった。最も対立していた我耶大親は、日本本土からの移住者と考えられている。


1571年(元亀2年)、尚元王は領主層の一掃を目的として奄美大島に三回目の侵攻を行い、地元領主層を廃している。与湾大親の子孫は戦いに王家側として武勲を挙げ、首里に移ってからの後に馬氏を称し、琉球王国五大姓の一つと讃えられ繁栄した。
琉球王国の支配体制は、全域支配の成った1466年(文正元年)に泊地頭が置き、群島各地に年貢の納付を改めて命じた。
そのための蔵を天久寺(那覇市)に設け大島御蔵と呼んだ。また首里在勤として「奥渡より上の捌理」と言う役職も置かれた。

三回目の奄美大島侵攻の翌年、1572年(元亀3年)には蘇憲宜を大島奉行に任じ、動揺した奄美大島の統治に努めさせている。

16世紀後半、本格的な琉球王国の地方行政制度が敷かれ、間切の名称が文書に見え始める。
間切ごとに「首里大屋子」が置かれ、その下に集落名を冠した大屋子を、さらに与人・目差・掟・里主などを置いた。
祭政一致政策(琉球神道)の一環として「ノロ」も置かれた。役人やノロの所領はそれまでの世襲を廃止して、一定期間ごとに転出するよう制度が改められ、在地住民との関係の切り離しと中央政府が一元的に人事を掌握するキャリア制度化が行われている。

現在ノロ制度は、与湾大親の根拠地であった奄美大島西部に多く残っている。

琉球王国が奄美群島を制圧できた要因として、室町幕府の全国支配体制の弱体化が挙げれる。


日本本土は群雄割拠と戦乱の時代に向かっており、京や関東はおろか九州からも遠く離れた辺境の奄美群島への関心は徐々に失われていった。
その隙を狙い、琉球王国は勢力の拡大に成功したのである。


例外的に、琉球王国や奄美大島の「隣国」にあたる薩摩と大隅の守護を務める島津氏だけが、交易などを通じて奄美群島への関心を持ち続けた。

しかし時は戦国時代であり、島津氏も一族内や近隣領主との抗争に明け暮れ、兵を送るなど不可能だった。


16世紀半ば、それでも島津氏は交易の利益独占のため本土から琉球へ渡る船を統制しようとし、嘉吉付庸説や為朝始祖説を持出し琉球を従わせようとした。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉に降った島津氏は領地争いの終了で軍事的経済的余裕が生まれ、琉球に課された琉球軍役を肩代りすることも理由として、琉球王国に圧力を更に強めていった。




琉球王国の統治時代を「那覇世(なはんゆ)」とも呼ぶ。





「琉大事件を考える(仮称)」
ホームページ
https://himawari0007.amebaownd.com/  



沖縄 ブログランキングへ 

「青い海 : 沖縄の郷土月刊誌 第10巻第3号 通巻第91号」


 
「青い海 : 沖縄の郷土月刊誌 第10巻第3号 通巻第91号」  

伊佐浜のおばさん 
 喜舎場 順

image
 




「琉大事件を考える(仮称)」
ホームページ
https://himawari0007.amebaownd.com/   


沖縄 ブログランキングへ 

沖縄タイムス1953年

私が持っている資料のタイトル



『沖縄タイムス』

1953年5月5日朝刊 火曜日 一面
社説 琉大副学長の罷免問題


1953年5月7日朝刊 木曜日 一面
社説 大学法の立法をのぞむ


1953年5月12日朝刊 火曜日 一面
社説 琉大紛争と学園の改革


1953年5月19日朝刊 火曜日 一面
社説 琉大問題と教育の自由



21470590 











BOOKS Mangroove「琉大事件とは何だったのか」


*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜


「琉大事件を考える(仮称)」
ホームページ
https://himawari0007.amebaownd.com/ 
 

沖縄 ブログランキングへ 

沖縄朝日新聞1953年

私が持っている資料のタイトル

☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;


『沖縄朝日新聞』

琉球大学の実情を訴う① 1953年5月7日

琉球大学の実情を訴う② 1953年5月8日

琉球大学の実情を訴う③ 1953年5月9日

琉球大学の実情を訴う(完) 1953年5月10日


21470590 











BOOKS Mangroove「琉大事件とは何だったのか」


☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;


「琉大事件を考える(仮称)」
ホームページ
https://himawari0007.amebaownd.com/ 



沖縄 ブログランキングへ 

1953年の出来事

【1953年】

 1/8  那覇で第一回祖国復帰県民大会

 1/10 「沖縄諸島復帰期成会」発足

    教職員会、市町村長協議会、青年連合会、婦人連合会、教育後援連合会で構成。
    のち体育協会も加わる。

    会長屋良教職員会会長、副会長には長嶺秋夫小禄村長。

      「復帰運動を超党派的な民族運動として推進していくためには政党を加えない方がよい」と政党排除。



 1/20  アイゼンハワー大統領就任。国務長官にダレス指名。

 1/XX  清水建設本部採石場スト。

 1/XX  沖縄諸島祖国復帰期生会結成。会長屋良朝苗教職員会会長。

     講和条約経て復帰運動の大衆組織はしばらく存在しなかった。
             教職員・沖青連が運動再開の声上げる。

     当初政党参加を拒んだものの、奄美返還で情勢厳しさまし11月には島ぐるみに。

 3/30   第1回軍用地使用料が行政府に届く

           米国民政府、布令「1950年7月1日から1952年4月27日にいたるまで、
           米国政府によって使用された、
           琉球人私有地の賃貸契約の締結及び借地料の支払い履行権限」を出し、
           講和以前の軍用地料として約106万ドルを行政主席に送りつけ、地主に分配するよう命じた。

           これによって講和以前の強制収容による軍用地の違法使用は無かったことにした。

 4/03   米民政府布令第109号「土地収用令」公布・施行。

           新規収用の際の賃貸借契約の交渉が難航し軍用地の強制収用を決定。

           土地所有者は30日以内に土地を譲渡するかどうかを回答しなければならない。

           30日を過ぎると米軍は収用宣言を行うことができ、土地は米軍のものとなる、というもの。

 4/10   米民政府、布令109号に基づき真和志村、銘苅、安射、平野、岡野の4集落に収用通告。

           米民政府布令第110号「土地収用の補償金支払手続」を公布・施行。

 4/11   沖縄本島真和志村で武装兵出動、土地を強制収用。
          はじめての「銃剣とブルドーザー」。

 4/20   立法院、真和志村の強制収容について関係者から事情聴取。

 5/01   沖縄第2回メーデー。労働組合結成準備会主催。

           「外国軍隊は即時撤退せよ」

          「農民の生活おびやかす土地取り上げ絶対反対」

          「土地収用法を即時撤廃せよ」

          「植民地化教育反対、琉球大学学長・副学長の即時罷免」

(琉球大学の学生が、広島・長崎原爆展を開いたことや復帰求めるリーフレットを作成したこと、灯火管制中のランプ使用などを口実に、4人が謹慎処分を受けたことへの批判)



 5/05   立法院、4月3日公布の「土地収用法」の撤廃要請を決議し民政副長官に手渡す。

       「アメリカ民政府の不当なる土地買い上げの措置は、
        世界人権宣言及び国連憲章に明記された基本的人権を擁護すべしとの趣旨にもとるもので、
       1、布令91号、105号、109号110号を廃止すること 
       2、住民の意思に反する土地取り上げの強権発動をしないこと、
       3、速やかに適正妥当な賠償をすることを院の決議により要請する」


 5/13   謹慎処分を受けた琉球大学の学生のメーデーでの米軍・大学批判に、
           ミシガンミッション(陸軍省の要請で琉球大学に教授派遣)のラッセル・ホーウッドが
          「大学当局と米国民政府はもっと踏み込んだ措置を取るべきだ」と
          米国民政府や米軍諜報部隊(CIC)、琉球大学当局に報復を進言。

         この後4人琉球大学の学生は退学に。この一連の出来事が第一次琉大事件と言われる。
 

 5/27   建物の立退料を最低12000円、土地代は従来の2倍に引き上げると軍から通達。

 6/18   米軍C-124、東京小平市に墜落。129名全員死亡。

 7/15   米民政府、伊江島の真謝、西崎両区の明渡しを通告。

        半径300フィートの地上標的造成が目的で、両集落の農地含む24万7000㎡の接収。

        伊江村村長、接収中止の陳情に出かけた隙に米軍土地調査に入り、
        地元農民に「調査官両報告書」と偽って「立退合意書」に署名させた。

 7/24   立法院 労働三法再可決。米民政府黙認。

 7/27   板門店で北韓・中国と国連軍間で休戦協定締結

 7/30   衆議院予算委員会で吉田茂首相と芦田元首相、
          保安隊の自衛軍化をめぐり論争となり、
           吉田茂首相、”国力の充実まで自衛軍を持たず”と言明。 
          このあと保守政党間で自衛隊発足への合意形成急速に進む。

 8/08   講和発効後の軍用地使用料で沖縄土地委員会、
           立法院特別委員会、地方土地委員会連合会の合同協議。

          韓米条約仮調印。

 8/12  ソ連、初の水爆実験。

 8/18  米民政府、布令116号、「琉球人雇用者に対する労働基準および労働関係法」公布。

          基地関連事業所雇用労働者には労働三法適用されず。

 9/01   沖縄で労働三法公布。

10/01   沖縄で労働三法施行。

         米韓相互防衛条約調印

11/10 「沖縄諸島復帰期成会」再編され、
     琉球民主党、沖縄社会大衆党、琉球人民党、民主団体、経済団体、新聞社など、23団体に拡大。

11/20  ニクソン副大統領訪沖、「共産主義の脅威がある限り沖縄を保有」

12/05  沖縄本島小禄村で武装兵出動、土地を強制収用

       布告第26号「軍用地における不動産の使用に対する補償」を公布し、
       軍用地使用の契約成立を一方的に宣言。

       既に収用済みの土地に対する講和後の法的根拠。
       既に使用しているのだから契約は交わしていないが、
       暗黙の契約合意があるという「黙契」で米国が1950年7月1日にさかのぼって借地権を得たと宣言。
      借地料を一方的に支払って、
       文句があるなら金額についてのみ
      米軍人・軍属だけで構成される琉球列島米国土地収用委員会に提訴できる、とした。

12/25 奄美群島施政権返還






沖縄 ブログランキングへ   


「琉大事件を考える(仮称)」
ホームページ
https://himawari0007.amebaownd.com/ 

琉大事件で検索…

 琉大事件で検索すると
下記のレポートがヒットしました

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜


小熊研究会1最終レポート
「沖縄」


http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/kenkyu/03s3/report/sugiyama.html
 

 
はじめに

 本レポートにおいては琉球処分以後の日本政府の沖縄に対する政策を概観した後、沖縄の人たちの運動や思想をまとめていく。
結論から先に言えば沖縄で行われた運動や思想はいずれも沖縄にとって利益になると考えた上でなされている。
高良倉吉でさえもそうであり、彼はただ本土の保守勢力に利用されていたに過ぎないのである。
また彼らはアイデンティティを模索していたというよりは沖縄にとってのプラスを獲得するパフォーマンスを言説から本土が振り向きそうな言葉を拾ってきて行っていたのである。
それをひとつの支配的なディスコースで行うかそうでないかが復帰論や独立論、反復帰論といった異なる形をとらせたのである。
そしてまた支配的なディスコースにおける沖縄の利益追求が裏目にでて、沖縄の中の弱者にしわ寄せがきてしまうことがあったのである。

 

日本政府の姿勢

沖縄に対する日本政府の姿勢をまとめる。
一貫して言えることは沖縄を「軍事基地」として確保することを第1目的としていたことである。
というよりそれが全てであったといえる事である。
明治から終戦までは日本軍の基地として、戦後は日米安保体制化のアメリカ軍の基地として沖縄本島確保は日本にとって重要であった。

戦前は沖縄を日本へ包摂しできるだけ日本政府への忠誠心を高くすることを政策目標とした。
ただし朝鮮の場合と異なりあまり日本政府はお金を出そうとしなかった。
当初は統治コストや差別意識から琉球処分に反対する声があったが、国防に対する拠点という意味合いから処分推進論が優勢となり、1982年10月に琉球王国を琉球藩とし、1879年には沖縄県とした。
台湾出兵とその後の日清交渉で日本が打ち出した沖縄が日本であるとする根拠が為朝渡来伝説などの歴史と言語であった。
具体的には日本政府は教育面での「日本人」化を先行し、制度面は後回しにして旧慣温存政策をとった。
その教育においては徹底的な日本人化を行った。
まず沖縄人が歴史的・民族的に日本人であるという意識を植え付け、また沖縄の「進化」した形態が「内地」であり、そうである以上、「内地」に同化することが沖縄の「進化」であるとした。
こうして沖縄の言語や日常生活のあらゆる風習を蔑視し、また沖縄人に郷土的なものに対する蔑視を生ませ、彼らに劣等感を植え付けた。
このように政府は「遅れた」沖縄を「文明化」することを強調した。
しかし「文明化」を強調しすぎると沖縄住民の憧憬や忠誠心が欧米諸国に向いてしまうためあくまで「日本化」の強調を優先した。

1945年8月に太平洋戦争が終わると沖縄は日本人であり日本人ではない存在になった。
沖縄の人々には日本人としての人権が与えられないし、また政府は沖縄に対して余りお金を出そうとしなかった。
領土としては「日本」の一部であり、国籍においても「日本人」であるのだが、日本国憲法は施行されず、参政権もなく、戸籍の移動や渡航は制限され、三権を独占した軍人総督に統治された存在であった。

 アメリカは暫定措置として規定された施政権の独占を行った。併合してしまえば沖縄住民に「アメリカ人」としての人権を与えねばならないし、信託統治の提案は国連に縛られることとなるので行わなかった。
アメリカは琉球住民の日本への帰属意識を断ち切ることにしたが、「アメリカ人」に同化する政策は行わなかった。
こうして「アメリカ」であって「アメリカ」でない土地として沖縄を統治した。

 しかしその後アメリカは沖縄統治の負担に耐えられなくなった。
沖縄の統治費用を高めた要因の一つが沖縄側の反対運動の高まりであったので、その意味で復帰運動は意味のあったものだといえる。
1972年に沖縄は日本に返還されることになるのだがそれは日米の利害が一致したからであった。
当時日本では学生運動の盛り上がりの中でナショナリズムが高揚していたので政府は沖縄返還で片をつけようとしていた。
一方アメリカにとっても施政権返還によってコストの削減を図ることは合理的であった。
費用負担はできる限り日本に負担させるのがアメリカのねらいであり、78年からは日本政府は思いやり予算を実施するようになった。
要はアメリカが沖縄統治を放棄し、それを日本が穴埋めをしたのである。先ほど復帰運動は意味のあるものであるといった。
確かにこの運動がなかったら沖縄を日本に復帰させることができなかったかもしれない。
しかし結果は当初望んでいたものとは違うものとなった。
以後日本政府は沖縄に補助金を出すことで不満をなだめることにした。

 復帰後の沖縄経済はまさに薬漬け状態であり、ザル経済であった。
沖縄開発庁が設置された。
これは名目的には復帰前に比べ存在した格差是正と自立経済育成を目的としていたが、実際に行った政策を見ていくと本当に自立経済を育成する気があったのか疑わしいものである。
主に行ったことは土木工事、イベントの誘致であった。
公共事業はほとんど本土側が受注し、沖縄の土建屋はほとんどが中小企業で下請けしかできなかった。
公共工事ではとても自立できるとはいえなかった。沖縄海洋博覧会では本土の電通等の企業が企画を引き受けていた。
また沖縄ではほとんど製造業を誘致できていない。
というのもいい土地は軍用地にとられているし、電力代が高く、輸送費の問題があるからである。
こうした点を踏まえると日本政府には沖縄を自立させることは当然なく、当然長期的な構想は持ち合わせていないといわざるを得ない。
恐らく基地の問題がなければ沖縄にお金を出すことはないだろうし、沖縄開発庁にしても基地の問題は外務省に押し付け、公共事業の取次ぎしかしなかった。
沖縄にとってはある程度お金を出してくれる以上の存在ではなかったといえる。

以下で沖縄における運動をまとめていくことになるが、この場合に注意しなければならないことがある。
それは沖縄における保守と革新という言い方である。
これは半分正しく、半分間違いである。
確かに沖縄の保守や革新は本土の保守や革新と結びついて系列化したものであった。
ただし本土側の保守や革新の通りには動いてはくれなかった。
東京から見た沖縄で基地賛成派は沖縄の保守であり、反対が革新である。
しかし実際には基地をカードに利益を引き出すのが沖縄の保守であり、基地のないしまになってほしいとするのが沖縄における革新である。
結果としてはイデオロギーの対立となるが、その要素は弱い。
土建業界の本音は基地反対運動をやってもらい、本土から補助金が下りるのを期待しているという。
要は島の利益をどういう形で表出するかの違いである。
沖縄ナショナリストとして太田朝敷や伊波普猷あるいは高良倉吉などの人物が出てくるが、沖縄にとってどうすることが利益になるのかという考え方の違いで行動が異なるのである。
本土側が振り向きそうな言葉を言説の中から拾ってきてパフォーマンスを行っているに過ぎないのである。
例えば基地と共存を唱えることが必ずしも保守を意味するわけではない。
これも半分本当で半分うそなのである。
当面状況が悪くなったから共存を唱えているだけで、状況によっては平和運動を高良倉吉でさえやるかもしれないのである。

 

独立論と復帰論

 戦後、沖縄でまず起ったのが独立論である。
これは、沖縄人は日本民族とは異なる「少数民族」であるという民族観と琉球処分は日本の侵略であったという歴史観、アメリカは民主議の本場であるというアメリカへの信頼と日本への不信感が背景にあった。
本土在住の沖縄人メディアにおいては日本への批判と「沖縄民族意識」は濃厚なものがあったという。
沖縄本島においては沖縄民主同盟が「独立共和国の樹立」を掲げた。
本土では日本共産党が党大会で「沖縄民族独立を祝うメッセージ」を発表し、社会党代表は「将来は当然沖縄民族の自決の意義を考えねばならぬ」とコメントし、朝鮮人連盟は「沖縄人は沖縄の自由な国を作ることが沖縄人民の幸福」とコメントした。
独立論は上述の日本観とアメリカ観、それらと連動した「沖縄民族観」に立ってのものであったが、次第にアメリカ支配に対する幻滅が広がるにつれて、この帰属論に揺らぎが生じることになっていった。

 続いて復帰論の説明に移りたいと思う。初期の復帰運動は保守運動としての復帰運動であった。
強固に日本との文化的一体感を強調する人々が非政治的立場から「民族的な本能」といった言葉をつかいながら日本復帰の主張した。
しかし余り盛り上がりを見せなかった。
なぜなら、沖縄の日本返還要求は、当時の本土では帝国主義的侵略と同等のものとみなされおり、また沖縄の日本復帰を支持する国際的な動きが余りなく、さらに沖縄では本土の情報が入らず、沖縄のほうがむしろ本土よりもより良い生活を送れているという情報しか得られなかったこと、40年代の沖縄のマスメディアの間では帰属問題の関心が薄かったこと[i] 、戦争による徹底的な破壊のため、衣食住などの最低限の生活すら保障されず、生きるために精一杯であったことが理由としてあげられる。

しかし、講和会議が行われるという情報が入ることによって50年代になって帰属論議が再び盛り上がりを見せるようになった。

復帰賛成派は日本との同一性を主張した。
日本と沖縄は不可分であるとして日本との同一性を主張し、また戦前の大日本帝国と民主国家日本の違いを強調し、日本に対する信頼を表明した。
この頃になるとアメリカが沖縄に強固な基地を置こうとしていることが明確になる一方で、平和憲法、民主憲法を持つ日本が独立していこうとしている現実を前に平和憲法下への復帰をという言葉が生まれてきた。またこの立場の人たちは復帰反対論と違い琉球王国に対して低い評価をしていた。
沖縄を一体のものとみなす沖縄ナショナリズムを掲げる復帰反対論に対し、沖縄内部の階級分裂を指摘することで対抗していたといえる。

復帰反対派は日本への不信とアメリカへの信頼を表明した。
日本はアメリカより貧しく、民主化の度合いも低く、経済的にも政治的にも復帰によって沖縄は得るものがない。
むしろ復帰すればアメリカから得られる恩恵が日本に奪われ、徴兵や納税の義務だけを負うことになる。
日本よりアメリカが優位にある限り、政治的にも経済的にも日本よりも自由を与え得るであろうと考えられていた。
この立場は冷戦関係化での日米関係は不変であるという観測、すなわち冷戦体制下でのアメリカに対する従属関係を前提としていた。

世論の反応は日本観とアメリカ観との組み合わせによって復帰支持と復帰反対が分かれていたが復帰反対派少数にとどまっていた。
(1951年の3月から4月にかけての青年連合会による世論調査によると、復帰86パーセント、信託統治7パーセント、独立2パーセント、その他4パーセント)

 初期に弱かった復帰論がなぜ強まったかというと、この頃の復帰論者は敗戦直後に独立論者だったものが復帰論に転換したものが多かった。
表面的には沖縄人は本来日本人であるので当然日本に復帰すべきという論調が多かったが、本質的な動機としては「日本人」であるから復帰するというよりも、「日本人」になるために支払った「過去一世紀の努力」を無駄にしたくないという感情が強くなったと考えられる。
戦前に制度としては一応の平等は達成されていたし、経済的な面から見ても、復帰すれば日本政府から援助が受けられると期待されていたし、文化的な面でも過去一世紀に払った努力は無視できないものがあった。

 いずれにしろ復帰への賛否は、日本に同化するかアメリカに同化するかの無意識の選択を前提としていた。
支配者側から「異民族視」されることへの恐怖と、そこからの脱出方法は同化であるという意識がこの復帰論には刻まれていた。
この観点から考えると同化努力の蓄積という点では日本への復帰のほうが有利と考えられていたのである。

 講和条約後から1950年代半ばの復帰運動は人権改善要求により日本の法規による保護を求めた。
具体的な要求としては労務賃金の引き上げ、団体交渉権の承認があった。
またこの頃より本土との経済格差が拡大した。
こうして復帰によって日本人になれば豊かで平和な生活が待っているという期待が年とともにどんどん強まっていった。

続いて親米反共を掲げた復帰運動が起った。
この時期の復帰運動の全てが反米反戦をうたっていたのではなく、親米反共を掲げるものも多かった。
共産主義という共通の敵を排除の対象とすることで日米の一体性を協調し、日米が一体であるとすることによって、日本への復帰が反米ではないことを示そうとしていた。
革新陣営が独立を唱えていた状況の延長上復帰論が保守の側から唱えられていたが、復帰運動をしただけで「共産主義者」とみなされ検挙されないために復帰運動が親米反共を表面上唱えていたといえる面もある。
50年代の復帰運動においては目的が沖縄の民生向上であり、復帰が実現すればとりあえず前進だから反戦などの特定の思想を掲げていないものが多かった。
しかし、アメリカは沖縄の既得権を手放したくないためこの復帰運動にも反発。
また日本政府は沖縄のためにアメリカを刺激するリスクを払う気がなく、政府の沖縄への取り組みは熱のないものであった。
こうしてアメリカ経由の親米反共の運動が明らかになった。

 さらに沖縄にとってアメリカ観が悪化する事件が起った。
以下に代表的な二つの事件を述べる。  

琉大事件

 米軍の意向を受けた琉大当局による学生処分事件。
学外で原爆展を催した、灯火管制中(防空演習)に寮でランプをつけた、無届で出版物を出した等の理由に基づく第一次琉大事件(1953年)と反米的言動を理由にする第二次琉大事件(1956年)がある

 

島ぐるみ闘争

 1956年6月、戦後初めて爆発的な勢いで燃え広がった全沖縄的規模での大衆運動。
直接的な契機は米議会に提出された調査報告書(プライス勧告)が従来の軍用政策を是認し、沖縄の長期保有を勧告したことにあった。

沖縄にとっては民生の向上が第一であり、自分達の運動が右か左かなどは二の次であった。
しかし本土の政治勢力にとって沖縄の運動が右左どちらなのかが意味を持っているので、沖縄も本土の支持を得なければならない関係上、止むを得ずその分類に当てはめる形で主張せねばならなかった。
保守は沖縄の期待に答えられないものであったし、親米反共を掲げた運動はアメリカに拒否された。
こうしたなか沖縄の期待に答え得るとされたのが革新勢力であった。
また本土においても沖縄復帰は保守ではなく革新の主張となった。

 こうして起ったのが革新ナショナリズムである。50年代から60年代にかけての沖縄の復帰運動は、沖縄を日本の一部とし、米軍によって分断された「日本人」が民族の統一によって一体となることであるとする見解が革新勢力の主張として定着していった。
そこでは本土との対立や琉球処分の侵略性を指摘することは、沖縄を「異民族視」する差別であり、アメリカ帝国に内通する「琉球独立論」であるとされた。

 続いて沖縄教職員会の国民教育運動(教職員組合が行う復帰運動)の説明に入りたい。
これは米軍の教育に対する冷淡な待遇(教員の給与や設備)に対し、状況改善のためには本土の援助に頼るしかないという発想からの復帰運動である。
つまり単純な日本への思慕による復帰運動ではなく、教育環境、共通語、「日本人意識」を「本土並み」にすることを目指す運動であった。
この運動の要因は本でへの格差意識、米軍の圧力、戦前教育の残滓、規律引き締めの意識が渾然となっていたといえる。
また日本へ対し幻想を抱き、かなり本土は美化された存在になっていた。
共通語奨励運動「方言札」の復活によって沖縄語の使用を禁止したり、児童生徒を通して各過程における「日の丸」「君が代」奨励運動を行った。
文化やアイデンティティの面で「日本人」になることを先行させることで、「日本人」としての権利を獲得することを目指していたと言える。
教員は本土との格差意識により「日本人」との同化志向を目指していたし、児童は「日本人」であろうと努力した。
オリエンタリズムの視線や差別が児童たちをいっそう「日本人」へのめりこませていった。

 

  本土の人の沖縄に対する無知

「沖縄はどこにあるのでしょうね。フィリピンの近くですか」

「沖縄の人種は本当に日本人ですか。少し違うのじゃありませんか」

「言葉はどんな言葉ですか。だいぶ中国語に似ているのじゃありませんか」

「教科書は英語ですか」

    (『婦人公論』1958年3月号)

 

「日本人」を目指した動機は児童たちが置かれた被差別状況からの脱却願望からであったといえる。
そこでは日本人=人間の尊厳、未来への希望であった。
また復帰が現実的な選択肢であるという認識がある一方「祖国」とは何かという心情の二重性があった。
こうした中「教公二法」問題が起り、自体は変化していくことになる。
これは政治活動の弾圧を意図したものであり、よって復帰運動が弾圧される怖れのあるものであった。
結局廃案になるが教職員会はこの闘争過程で沖縄保守と政党との決定的な亀裂が生じ、革新系野党人民党との共闘体制を強めることになった。

続いて日教組が沖縄国民教育運動批判を行った。
「日の丸」問題は単に戦術的に理解してやるべきだということではかたづかないもっと本質的な思想の統一性の必要があるとし教員や児童の価値観の転換を促した。

さらにベトナム戦争によって経済的利害より「平和な祖国」への期待が強まっていった。
ここにおいて「日の丸」復帰から反戦復帰へという流れが出来上がった。
「日本」や「日本人」としての象徴として「日の丸」や「君が代」に変わり「平和憲法」を掲げるが、この方針転換に対すて現場では戸惑いが生じていた。

 地区報告

 「祖国復帰のシンボルとして推奨してきた日の丸掲揚をいきなり180度転換した場合に児童の混乱が予想される」

 「日の丸=祖国日本と考えている75.6%の児童を同説得するのか」

 

本土復帰後に沖縄教職員委員会は日教組の傘下に入り、文部省の日の丸掲揚方針への反対姿勢を示す

ようになった。1980年代には「日の丸」「君が代」への抵抗が強い地域として注目されるようになっていった。

 

反復帰論

 沖縄が日本に復帰したわけではあるがそれは必ずしも沖縄の人たちの望みどおりにはならなかった。

新崎盛暉は「60年代末期になって、日米両政府が沖縄返還政策を打ち出してくる段階になってくると、僕は、いまや復帰を実現させなければならないと考えているのは、人民の側ではなく権力の側である、彼らの必要性によって、彼らの望むような形で、これまでの民衆の運動を逆手にとって復帰を実現しようとしている。したがって、これに対しては全面的な否定という話になっていく」[ii]と語っている。
当時は日米両政府の復帰プラン、革新側の反戦復帰と民族統一路線、保守系からの民族独立論が複雑に交差して存在していた。
こうした中登場したのが反復帰論である。

 従来の復帰運動を問い直す思想である。
この思想は「日本人」への包摂と排除を行いつづけた国民国家のありようそのものを問い直すものである。
また復帰を政治経済上の問題とするよりもアイデンティティ上の問題とした。
代表的論者の新川明氏は「反復帰論とは、現在この地球上を埋め尽くしている国家群のそれぞれが、国家という幻想空間の中で死守している統合の秩序に対する限りない申し立てであり、これを突き崩すための思想の営み、精神の働きである。」[iii]「分権にしろ独立にしろ、非常に狭い意味での沖縄ナショナリズムみたいな閉鎖的な生存空間、社会空間をイメージするなら、これは意味ないと思います。
これはまるで今の日本の血統主義をミニサイズにしただけの話で、そこからイメージされる国というのはミニジャパンになるだけの話です。」[iv]と述べている。

 「日本」を「国民国家」として独立させるために「日本民族」の統一を掲げ、「沖縄」を「日本人」統合させようとすること(従来の復帰論)を拒否し、また沖縄内部に存在する地域格差への自覚から沖縄ナショナリズムには複雑な姿勢を示す。
というのも単一の沖縄民族の境界をどこに引くのかという問題に直面してしまうからである。
沖縄が独立してもそれが既存のナショナリズムと国家の原理によるものであれば、排除と同化の関係を縮小再生産するに過ぎないからである。
この思想は沖縄の異族性をもって国民国家そのものの論理に対抗したといえる。
「異族」とは国家の同一性かを拒否する個人の指向を意味するものである。
すなわち、沖縄人が学術的な意味で日本民族の一員であるか否かという議論とはここにおいては無縁となる。

 反復帰論を沖縄のアイデンティティとの関係で考えてみたい。
これは政治的な現象として捉えるよりもアイデンティティ上の問題として捉えている。
日本国家を相対化するために沖縄国家を作るのであれば、結局あるナショナリズムを否定するために別のナショナリズムをもってくることに他ならず、沖縄にもとからあった文化や言語を基準に沖縄アイデンティティを創ろうとすると沖縄の範囲をどこにするのかという問題にぶつかってしまう。
そこで沖縄の「もと」の文化や言語がどうなろうと沖縄のアイデンティティは崩れることないようにする必要がる。
その意味で国家への同化を拒否する志向である異族生をもって沖縄アイデンティティを考える反復帰論は、人種とか血統で沖縄であるかという議論とは無縁になり、極端に言えば沖縄の外部にいる人にも、開放性のあるアイデンティティを創ることができる。
反復帰論は同化か自立化の二者択一の議論を強いる言説を拒否するものであるといえる。
つまり日本に同化かそれを拒否して沖縄だけで閉じるのかどちらかを選ぶという議論から抜け出すことができるのである。

 

まとめ

 琉球処分後沖縄は日本に「統合」されることになるが、「統合」とは国民的同一性の形成を要求する。
沖縄では上記の同化政策が行われ、また沖縄人の側も進んで国家に同一化することで社会的な差別や経済的貧困からの脱却を求めて日本国民化の志向を目指した。
これをささえたのが太田や伊波ら言説であった。
太田は「沖縄今日の急務は何であるかと云へば、一から十まで他府県に似せることであります。
極端にいへば、クシャミすることまで他府県の通りにすると云う事であります」[v]と述べ、沖縄が発展していくためには、結局日本に同化していくしかなく、そのために沖縄は自助努力をする必要があり、それが沖縄の生き延びる道であると主張した。
伊波は日本と沖縄の対立、沖縄内部の対立をいかに調和に導くかという観点から「日琉同祖論」を唱えた。また戦後アメリカ占領時代に米軍統治の過酷さや「平和憲法」を持つ国日本への憧憬から日本復帰運動(統合)が沸き起こった。
支配者側の都合によって「日本人」であって「日本人」でない存在とされた沖縄の人々は「日本人」との関係の中でアイデンティティを模索するのであるが、これらはいずれも沖縄の人たちが自分達のためになると思って選択したパフォーマンスであったといえる。
しかしこうした統合を選ぶことは「日本」側が設定した選択肢、すなわち日本あるいはアメリカ=強い側のディスコースの中で選択肢の選択であったといえる。
結果「日本」側の枠組みに振り回され、また裏切られることになった。
この言説内での沖縄の利益追求の負の面を負担させられたのが国民教育運動における児童であった。
反復帰論とは今までの沖縄の独立論や復帰論―同化か分離を強いた支配的なディスコースを拒否する思想であった点がその最も大きな特徴であったといえる。
近年、稲峰県政のブレーンとされる知識人らによって沖縄の自己批判がなされている。
「沖縄イニシアティブ」である。
「被害者意識」という情念からの脱却と、「基地との戦略的共存」を唱え、日本の中の沖縄の位置を認めた上で、基地との共存を認めること、日本政府との共存の中で自己決定権・自立を獲得していくことを主張した。
この主張は本土の保守系メディアからは絶賛されていた。
もちろん彼らも沖縄にとってそれがプラスになると考えての上でこのパフォーマンスを取っているのであるが、これも日本という強者の支配的ディスコースの枠内においての主張である。
得てしてこの枠内で主張していくことは沖縄の過去の歴史を見ても、プラスになるとは考えにくい。
復帰論、独立論は沖縄にとってのプラスを獲得するパフォーマンスであり、それは支配的なディスコースで行うか、あるいは日本、アメリカ、保守、革新などの別の支配的なディスコースで行うかの違いであったといえる。

反復帰論はこの支配的なディスコースを拒否する思想であり、従来の思想とは大きく性格を異にしている。
この点に従来型の思想が抱えた問題、すなわち日本側の仕組みに振り回され、裏切られる(特に沖縄社会においての弱者-本論の例で言えば児童がそれにあたるが-において顕著)という危険から逃れられるという意味で反復帰論という考え方は非常に興味深いものである。

 

著者紹介

新川明

1931年沖縄生まれ。

1955年、琉球大学文理学部国文科を中退、沖縄タイムス社に入社。同社八重山支局長、『新沖縄文学』編集長、『沖縄百科事典』編集長、編集局長、社長、会長を勤め、1995年退任。

沖縄出身の父親と本土出身の母親の間に生まれる。幼少期をかつて沖縄の偏狭として琉球王国から搾取された八重山で過ごす。

 

小熊英二

1962年東京生まれ。

1987年東京大学農学部卒業。出版社勤務を経て、98年東京大学教養学部総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了。

 

<参考文献>

新川明(2000)『沖縄・統合と反逆』筑摩書房

新川明・新崎盛暉「沖縄にとって<復帰>とはなんだったか」『世界』1985年6月号

新川明・池澤夏樹「沖縄独立の夢を語ろう」『世界』1996年8月号 岩波書店

新川明「語やびら、沖縄世」『世界』1997年9月号 岩波書店

新崎b(1996)『沖縄現代史』岩波新書

小熊英二(1998)『日本人の境界』新曜社

小熊英二 (2000)「沖縄アイデンティティの行方」『ウチナーンチュは何処へ』実践社

高良倉吉・浜下武志・我部正明「<沖縄ルネサンス>その可能性」『世界』1997年9月号

比嘉春潮・霜多正次・新里恵二(1960)『沖縄』岩波新書


[i] 日本本土との郵便取り扱い業務が始まったのは1947年6月、ただし船の往来はほとんどなく、実際には翌48年3月の航空便の取り扱い開始で初めて通信機能が復活した

[ii] 「沖縄にとって<復帰>とはなんだったのか」『世界』1985年6月号

[iii] 『沖縄統合と反逆』

[iv] 「沖縄にとって<復帰>とはなんだったのか」『世界』1985年6月号

[v] 1900年の講演

沖縄辺野古移設の埋め立て用土砂の調達候補地とされる鹿児島県奄美大島で「岩ズリ」搬出がはじまる 

 2016/01/30 地域
沖縄辺野古移設の埋め立て用土砂の調達候補地とされる鹿児島県奄美大島で「岩ズリ」搬出がはじまる 
普天間飛行場の辺野古への移設にともなう海洋の埋め立て工事に向けて、土砂の調達先として候補にあがっている鹿児島県の奄美大島で「岩ズリ」と呼ばれる土砂や岩を搬出する作業が始まった。辺野古に向かうのかどうかは確認されいないが新基地建設に反対する人たちが警戒を強めている。
沖縄県が設置した「普天間飛行場代替施設建設事業に係る公有水 面埋立承認手続に関する第三者委員会」が昨年7月に明らかにした検証報告書によると、埋め立てに使用する土砂の調達先として沖縄県外の徳之島や奄美大島、瀬戸内各地区などを挙げ、埋め立て土量2100万㎥のうち、概ね1700万㎥をそれらの地域から購入するとされていることをあらためて明らかにしている。
資料 http://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/henoko/documents/houkokusho.pdf
イ 埋立土砂の使用計画に伴う懸念

本件事業においては,埋立土量 2100 万m³のうち,概ね 1700 万m³を購入土砂でまかなうとされ(環境保全図書・2-29 頁),本件願書添付図書-10「埋立に用 いる土砂等の採取場所及び採取量を記載した図書」によれば,その大部分は, 沖縄県外の,徳之島,奄美大島,佐多岬,天草,五島,門司及び瀬戸内各地区 で採取した土砂を購入するとされる。(上記リンク報告書より引用) 

そうした中、2016年1月下旬に奄美大島大和村の岩肌から次々と岩ずりが搬出されていく様子が確認された。この岩ずりが辺野古まで運ばれていくのかはまだ確認できていないが、この作業によって周辺の河川が濁っている様子など環境への変化も見受けられる。
岩ズリの搬出先などを含め今後検証していきたい。
プロデュース :光彦牧口

【昭和20年代の沖縄】アメリカ支配下にあった沖縄の貴重映像

【昭和30年】極貧だった奄美大島がたった2年で驚くほど激変していた

【昭和28年】戦後8年経っても極貧だった奄美大島の知られざる姿

ホームページ開設

ブログ『琉大事件を考える(仮称)』の
ピックアップ&サイトマップ的な役割にしようと思い、
ホームページを開設しました♪

https://himawari0007.amebaownd.com/

IMG_20151115_143555



 
BOOKS Mangroove
「琉大事件とは何だったのか」






終わっていない過去


沖縄は

1950年に起こった朝鮮戦争で、

最前線基地になった。


トルーマン米国大統領が

朝鮮戦争の始まった直後、

記者会見で

「原爆使用もありうる」と

発言し、

広大な米軍基地を

抱える沖縄の人達は、

核戦争に巻き込まれる

危険性を身近に…


朝鮮戦争、今も休戦中





1953年(昭和28年)、

当時米軍の支配下にあった沖縄で

学生の「原爆展」開催を理由に

4人を退学処分にするなど 

若者たちの平和への叫びを

封じようとしたのが琉大事件



朝鮮戦争下で原爆展

『琉大事件とは何だったのか』

21470590 

















HP「琉大事件を考える(仮称)」
https://himawari0007.amebaownd.com/ 
 




人気ブログランキングへ


人気ブログランキングへ









ひまわりの散歩道~沖縄&奄美
https://ameblo.jp/himawarimusume007
 

メッセージ

名前
メール
本文