1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通じることを許可した。

1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗せた軍船が薩摩の山川港を出帆した。
4月12日(3月8日)に奄美大島へ上陸して制圧、4月26日(3月22日)に徳之島、4月28日(3月24日)に沖永良部島を次々と攻略し、4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし名目上は琉球の一部とされた[2])、1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置した。

中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。

この頃の奄美群島は、薩摩からは道之島と呼ばれた。

薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾取のようになり過酷になっていったといわれる。

薩摩はサトウキビを原料とした黒砂糖を幕府や商人に専売することで富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとたび作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。

しかし、このころに黒砂糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。

庶民の嗜好品として評判となり密造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなければならないほどだった。

主食は主にサツマイモだが、飢饉の時はソテツの実(なり)を毒抜きしたり、幹からでん粉(サゴの一種)をとって粥などに加工し、食用とした。


奄美群島の民謡である島唄は、徳之島以北は本土と同じ五音音階の陽音階(律音階。ヨナ抜き音階参照)で、日本民謡の南限という側面を持つ。

一方で沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限という側面も持っており、琉球民謡の一翼を担っている。

16世紀に弦楽器の三線が琉球からもたらされると島唄にも取り入れられた。

また、本国から離れたこの地は薩摩藩の流刑地とされていたが、送り込まれた罪人の中には知識人もおり、博学の彼等の中には住民に受け入れられた人もあった。

幕末には西郷隆盛も流人生活を送り、島の女性愛加那と結婚して子供ももうけた。

お由羅騒動に連座して流刑に処せられた名越左源太は、在島時の見聞を元に奄美大島の地誌『南島雑話』を著している。


薩摩藩の統治時代を「大和世(やまとんゆ)」とも呼ぶ。



「琉大事件を考える(仮称)」
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