「琉大事件」を考える(仮称)

~琉大事件に関する情報を集めています~

1953年、米軍の支配下にあった沖縄で、
学生の「原爆展」開催を理由に 4人を退学処分にするなど 
若者たちの平和への叫びを封じようとしたのが「琉大事件」

朝鮮戦争下で原爆展 『琉大事件とは何だったのか』

つぶやき

エール送って駆けて60年―早稲田の応援団長から大阪市議へ

エール送って駆けて60年―早稲田の応援団長から大阪市議へ
辰巳正夫
無題

幼少期から高校卒業まで―1936年から1954年
早稲田大学に入学―1954年から1958年3月
思い出すままに―早稲田の思い出
大学院政治学研究科に入学―1958年4月から12月
早稲田精神昂揚会を結成、初代の会長に―1959年1月から1961年3月
歴史的な安保闘争
健康を守る会への就職、入党―1961年2月から1964年12月
住民運動のただなかに―1965年1月から1975年4月
あたらしい革新コンビが誕生―1975年4月から2003年4月
わが町、西淀川
佃コーポの団地生活
定数「1」の選挙に挑戦を決意
妻 春江の獅子奮迅
私の家族

著者紹介

辰巳正夫[タツミマサオ]
昭和11年1月1日生まれ。大阪府出身。早稲田大学文学部哲学科卒業。同大学院政治学研究科修了。大阪市西淀川区選出市会議員を7期つとめる。1975年第1回当選、計画土木副委員長。1979年第2回当選、公害特別委員長。1983年第3回当選、交通水道委員長。1987年第4回当選、民生保健副委員長。1991年第5回当選、計画消防副委員長、文教経済副委員長。1995年第6回当選、計画消防副委員長、建設港湾副委員長。1999年第7回当選、建設港湾委員長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
エール送って駆けて60年―早稲田の応援団長から大阪市議へ (紀伊國屋書店)




昭和30年代、西淀川 生健で一緒だったとは…
知らなかった! 驚き



「琉大事件を考える(仮称)」
ホームページ
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【昭和20年代の沖縄】アメリカ支配下にあった沖縄の貴重映像

【昭和30年】極貧だった奄美大島がたった2年で驚くほど激変していた

【昭和28年】戦後8年経っても極貧だった奄美大島の知られざる姿

ホームページ開設

ブログ『琉大事件を考える(仮称)』の
ピックアップ&サイトマップ的な役割にしようと思い、
ホームページを開設しました♪

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沖縄 原爆 配備

琉球大学・ミシガン州立大学

米国世論、根強い投下正当化

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  1950年代 沖縄 日記資料

  那覇空港 岩ずり 奄美

    沖縄人民党の歴史

    日本政府南方連絡事務所

 
☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;


ゴールデンウイークが終わったら
私が持ってる新聞記事で、1950年代の
記事タイトルなどを入力していく予定です。


事実を積み重ねていくことで 、真実がみえてくる

~歴史~

φ(.. ) 


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資料の電子化

これらの資料の整理&電子化は
ゴールデンウィークが明けてからだなぁ^^;
紙の大きさも、A3だし^^;
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沖縄配備されていた原爆

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アクセス、キーワードランキング
第一位は、
『沖縄配備されていた原爆』


実際は、どうなのでしょうね
 

 

北緯三十度分断 奄美・軍政下を生きて

この記事の中で、この問文が心に刻まれる。


今、奄美で生き、奄美に関わる人々が未来へ向かうためには、
原点を知ることが何より大事と考えている。
「当時を知る人に話を聞き直すには、今が最後かもしれない」。
そんな思いが、これからの原動力になる。



http://mainichi.jp/articles/20160219/ddl/k46/040/226000c
北緯三十度分断
奄美・軍政下を生きて/3 石神京子さん 復帰願う女性たち

毎日新聞2
016年2月19日 地方版

 1946年2月から7年10カ月に及ぶ奄美群島の米軍政下時代、困難な生活を支えた女性たちも日本復帰を願って活動した。奄美大島で婦人会の一員として取り組んだ石神京子さん(77)は2005年、日本復帰50年(03年)と戦後60年を記念した冊子「奄美女性たちの戦後史」で、そんな当時の動きを声としてまとめた。そして軍政下に入って70年の今年、再び「女性の声を残そう」と誓う。

 自身も、戦中と軍政下、復帰後の奄美をその目で見てきた。

 出身は大和村。戦中の45年2月ごろ、日本軍の輸送船が米軍機に追われて近くの海に逃げてきた。約100人の乗組員のうち、7人が負傷して、村に運ばれてきた。うめき声を6歳だった石神さんも聞いた。地域の婦人会が世話したが、やがて亡くなった。18、19歳の若い兵隊たち。「『天皇陛下万歳』ではなくて『お母さん』といって亡くなった」と世話した女性たちは悲しんだ。

 終戦間際、兵舎となっていた学校の校舎はB29爆撃機に爆弾を投下され、無くなった。戦争が終わって学校が再開しても、学年が下の方になると、授業の場所は神社の階段や木陰。上の方の学年は、かやぶき屋根の掘っ立て小屋が校舎だった。

 大和村の助役だった父は、終戦後すぐに辞職した。自給自足しないと生きていけないからだった。米軍政下に入った46年は毎日の食事が芋やソテツがゆ。栄養状態は極めて厳しく、周辺では伝染病も流行し、ひと晩のうちに一家全滅も珍しくなかった。

 石神さんは、山で食べられる植物を探す方法や、毒があるソテツを水に長時間さらして食べられるようにする処理の仕方を今も覚えている。現在は国の特別天然記念物のアマミノクロウサギを、毛を燃やすために五右衛門風呂の火に放り込んだ父の姿も鮮明だ。

    ◇

 日本に復帰しないといけない。それが、人々の共通した願いだった。孤児(奄美)による「お母さん(日本)、助けて」。そんな叫びが復帰運動。「母」である婦人会の女性たちも立ち上がった。当時の役員たちが53年6月にはルーズベルト元米大統領夫人と福岡県で面会、日本復帰を懇願し、暖かい対応を受けたことが今に伝わっている。

    ◇

 石神さんは、そんな自分たちの母親世代の活動が風化してしまうことを懸念する。今、奄美で生き、奄美に関わる人々が未来へ向かうためには、原点を知ることが何より大事と考えている。「当時を知る人に話を聞き直すには、今が最後かもしれない」。そんな思いが、これからの原動力になる。
【津島史人】




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関西奄美会

関西奄美会、もすぐ百周年!
それぐらいになるか…
私の祖母は明治28年生まれやし(・・)
戦前に一度、大阪へ移民してるし…
その頃ぐらいからやもんね


関西奄美会ホームページ
http://kansaiamamikai-h26-h27.com/index.html 

logo_kansaiamamikai1
関西奄美会 facebook 
https://www.facebook.com/%E9%96%A2%E8%A5%BF%E5%A5%84%E7%BE%8E%E4%BC%9A-505934632758392/?pnref=story 


私のルーツ 戦前 戦中 戦後
http://blog.livedoor.jp/himawarimusume7/archives/1881274.html 




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首里城

【沖縄県】
私、沖縄では
殆ど 観光はできてないけど
首里城へは行ったんだ!
私のオジが琉球大学に在籍してた時、琉球大学は、ここにあったから!

次、沖縄へ行った時はご当地ソフトクリームを絶対に食べるぞ

関西安陵会

【奄美大島】
私の母の兄は、大島高校の卒業生。
同窓会 役員名簿に、名前も載ってる♪
役員してたことに驚いたけどね(*^-^*)

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私にとっての奄美…

私の母は昭和12年生まれ。
奄美の南部、カケロマの秋徳小中学校の卒業生。
 
私が先日、奄美へ行った時
奄美市から瀬戸内町までの道もトンネルが沢山できていて、
車での移動もスムーズになっていた^^
ただ、本当にトンネルだけを見てきた感じになってしまった^^;
奄美大島は、殆どが山といっても過言ではない。


次、奄美へ帰ってきた時は
国道58号線をひたすら走るのではなく、
山を案内してくれるという…
カケロマにも渡り、カケロマも案内するからと、
私より3つ上のハトコが言ってくれた。
このハトコのお兄ちゃんは、小学生までは大阪に住んでいた

*画像は、奄美瀬戸内町
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『憲法のない島』

私が行った時、『憲法のない島』という催し(パネル展)が開催されていた。
1953年の出来事のところに、憲法21条の項目が貼られていたのが、私の心の中に深く刻みこまれた。


日本国憲法第21条 - Wikipedia - 
https://ja.wikipedia.org/…/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%8…


 「沖縄県平和記念資料館」
http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp
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戦前、戦中、戦後…

私の祖父母は明治生まれ。
戦前、大阪へ移民。
祖父は実は沖縄出身と言う人もいる。
その祖父は戦中に他界したから詳しい事がわからない。
祖父が戦死した事で、祖母たちは奄美へ帰る。

終戦を奄美でむかえる。

私の母は5人きょうだい。
そのうち2人は幼児期に病死。

母の兄は大島高校卒業後、沖縄へ渡り 琉球大学に入学。

奄美、本土復帰後 祖母たちは再び大阪へ。
母の姉は、大阪で自殺…

という事もあってか、 私の母と、母の兄は凄く仲が良い兄妹(きょうだい)だった。
そして…

私の母は、沖縄で兄に何があったのかも知らないまま…


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奄美大島、瀬戸内町より。
晴れていれば、加計呂麻島など綺麗にみえる

 

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BOOKS Mangroove
「琉大事件とは何だったのか」






終わっていない過去


沖縄は

1950年に起こった朝鮮戦争で、

最前線基地になった。


トルーマン米国大統領が

朝鮮戦争の始まった直後、

記者会見で

「原爆使用もありうる」と

発言し、

広大な米軍基地を

抱える沖縄の人達は、

核戦争に巻き込まれる

危険性を身近に…


朝鮮戦争、今も休戦中





1953年(昭和28年)、

当時米軍の支配下にあった沖縄で

学生の「原爆展」開催を理由に

4人を退学処分にするなど 

若者たちの平和への叫びを

封じようとしたのが琉大事件



朝鮮戦争下で原爆展

『琉大事件とは何だったのか』

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HP「琉大事件を考える(仮称)」
https://himawari0007.amebaownd.com/ 
 




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ひまわりの散歩道~沖縄&奄美
https://ameblo.jp/himawarimusume007
 

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