「琉大事件」を考える(仮称)

~琉大事件に関する情報を集めています~

1953年、米軍の支配下にあった沖縄で、
学生の「原爆展」開催を理由に 4人を退学処分にするなど 
若者たちの平和への叫びを封じようとしたのが「琉大事件」

朝鮮戦争下で原爆展 『琉大事件とは何だったのか』

記載されているサイト

「敗戦直後の沖縄の政党と独立論」より

上原清治で検索したら
下記のblogがヒットした

沖縄自治研究会
http://plaza.rakuten.co.jp/jichiken/

敗戦直後の沖縄の政党と独立論
http://plaza.rakuten.co.jp/jichiken/8013/

その中から、上原清治さんに関する部分だけ、書き出しておく。



新崎盛輝先生も、いわゆるその当時の沖縄人民党は、これは間違いなく独立を志向したいただろうということを、『戦後沖縄史』の中で「戦後、人民党のいう全沖縄民族の解放は明らかに独立的志向を示していると言えよう。特にうるま新報や、実質的な人民党の機関誌『人民文化』に掲載された瀬長亀次郎の論文では、1949年から1950年の段階においてなお一貫して全沖縄(琉球)民族の解放、それから沖縄民族(琉球)の主権の確立、解放軍としての米軍に協力した民主沖縄の建設、人民自治政府の樹立、沖縄の基本法をつくる憲法会議の招集が強調されている」と述べていますね。。

 解放軍としての米軍に協力しつつ樹立される人民自治政府と、そこから展望される全沖縄民族の解放のイメージが独立論であることはほぼ間違いないであろうというふうに、新崎先生は断定して、人民党は独立を志向した政党だというふうに捉えております。

 しかし、これに対して共産党の上原清治さんは、日本共産党第5回大会で採択した沖縄民族の独立、メッセージなどの影響が全くなかったとは言えないが、自主憲法の制定そのものが独立を意味するものではなかった。ポツダム宣言の完全実施が目標であった。日本共産党は60年の歴史の中で、第5回大会の方針を誤っていたとしている。独立の明確な形態をとっていたかというとそうではない。はっきり独立とするとの表現もない。それからすると、実は新崎さんが言っているのは違うんじゃないかということで反論している。


報告1『敗戦直後の沖縄の政党と独立論』     
日時 平成16年7月10日
沖縄国際大学法学部助教授 照屋 寛之 


○司会(江上能義)  それでは沖縄国際大学の照屋さん、50分ほどお話をお願いします。


○照屋寛之  ただいま御紹介にあずかりました沖縄国際大学の照屋でございます。今日は小結の照屋と横綱の上原先生ということで、私の話は少々聞き流してもいいんじゃないかなと思いますね。

 私の方はいろいろな本から読んだのを伝えるぐらいで、特別に中身のある話はできないんじゃないかなと思います。いかんせん、非常に短期間でまとめた内容ですから、そんなに目新しいのも出てこないんじゃないかなという感じがいたします。あらかじめご了承ください。

 私は、最初この課題を与えられたときに、独立論ということだけが頭の中に入っていたもんですから、新沖縄文学の53号だったか48号だったか忘れましたけれども、「独立論の系譜」というのがありまして、その中ですぐに私の目についたのが沖縄民主党と琉球国民党だったんですね。
 ところが、私は最初その二つを中心に興味深く読んでいたんです。ぐいぐいと引き付けられるものがありました。しかし、よくよく考えてみると、今日の私に与えられたテーマは、「敗戦直後の沖縄の政党と独立論」となっていることに気づきまして、また大急ぎ敗戦直後の幾つかの政党を調べてみたわけなんですね。

 ところが、やはり沖縄の独立論を語るときには、どうしても沖縄民主同盟の仲宗根源和、それから琉球国民党の大宜味朝徳が非常に大きなウエイトを占めているんじゃないかなと思うんですね。この2人を語らずしては沖縄の独立論は語れないと言っても過言ではないかと思います。
 ところが、私に与えられたテーマは敗戦直後のということで、沖縄民主同盟については、後ほど実際にその設立にかかわった上原さんの方から、非常に興味深いお話が拝聴できるかと思います。

 私が今回、敗戦直後の琉球独立論について少し本を読んでみて非常に感じたのは、やはり敗戦直後の沖縄というのは、そういう面で食うや食わずの非常に苦しい生活の中であったけれども、自治意識、自立意識というのは非常に高かったのかなと思いました。俗に言う、痩せたソクラテスがたくさんいたような感じがしますね。政党活動というのも、本当に手弁当でやっていたわけですね。沖縄のために立ち上がって活動するその姿には感動させられますね。大宜味朝徳も自分の私財をなげうって琉球独立に一生懸命やったということでは、読んでいて勇気が与えられるというか、何か教えられるような感じがいたしました。

 ただ、大宜味朝徳の場合は、後ほど出てくるときにいろいろとお話ししますが、なかなか大衆がついてこなかったということで、非常に情熱を傾けた割にはうまく実を結ばなかったところもあるような感じがいたしました。

 それで、つくづく思うんですけれども、沖縄は歴史的にも、地理的にも、独立論が台頭しやすい土壌があるのかな、という感じを今回この独立論関係の論文などを読みながら感じたんですが、まず1609年に薩摩の侵攻、それから1879年に日本による併合、1945年は米軍統治下、それから1970年の復帰というようなことで、沖縄がこのような歴史的な体験を不本意にもしなければならなかった。それ以外に、今度はもっと大きいのは差別の歴史的な体験というのが、非常にこの独立論の根底の中にあるのではないかと思います。もし差別ということがなかったならば、こんなに独立論というのは底流をなして脈々と今日まで受け継がれることはなかったのではないかなというふうな感じもするんですね。これまでの沖縄の政治、社会の節目節目に必ず独立を掲げた人たちが登場して来るのはこのような背景があるのではないかという感じがいたします。

 これからすると、琉球独立論は戦後、終戦直後はもちろんのこと、我々のまだ記憶に新しい復帰前後においても、独立論が唱えられたわけですね。ですから、絶えず県民のどこかで脈打っていたような感じがするわけですね。このようなことは他府県ではまったく考えられないことです。

 そして、復帰をして、これで独立論というのがなくなったかというと、必ずしもそうではない。もうあれこれ10年前ぐらいに出た大山朝常さんの独立の本の中でも、私は「ヤマトは帰るべき祖国ではなかったのかな」というふうな件があったのを覚えているわけですが、そういうことで沖縄というのは、そういう独立論というのが今日まで受け継がれているわけですね。

 そういうことで、我々がこれまでの独立論の系譜をたどってみるということは、沖縄の自治・自立を考える上でも大切なことだと思います。
 それではこれから、レジュメに沿って沖縄における敗戦直後の政党のところから入っていきたいと思います。敗戦直後に沖縄の政党は、まずこれは奄美、沖縄、宮古、八重山の各群島をそれぞれの活動領域としてこれは結成されていくわけですが、米軍初期の占領政策が各群島単位に軍政府をつくって統治するという方針であったことから、その与えられた政治空間を一つの活動領域として、各群島単位で沖縄は政党というのが誕生したと言われています。

 皆さんにお配りしました資料におつけしましたけれども、沖縄における政党の流れというのがあります。その中で、まず最初にできたのが1947年6月15日の沖縄民主同盟ですね。それから一番左側にある沖縄人民党、それからまた右上にあります沖縄社会党。それで沖縄社会党は琉球社会党と合流しまして社会党となっていくわけですね。

 それから、宮古群島、八重山群島においても、それぞれ政党というのが組織され、宮古民主党、それから宮古社会党と宮古青年党とか、あるいは八重山民主党、八重山人民党というふうな形で、それぞれの群島において政党というのが結成されていったと言われるわけですね。

 そしてまた、ただこれらの政党というのは、下部の党員組織を持たない少数特定の政治家集団に過ぎなかったし、一般大衆の中に根を下ろす大衆政党にはほど遠いものでした。このことは、後ほどお話しします大宜味朝徳の琉球国民党もまさしくそういうふうな政党であったわけです。

 なぜこのように政党というのがどんどん結成されていったのか、その背景あるいは契機になるものは何かということを考えてみますと、やはりこれは占領下の中でのことをどうしても指摘しなければならないだろうと思います。ただ、この占領下においても、本土と沖縄では相当違っていたわけです。本土においては、非常に民主的な形で占領政策が行われていた。徳田球一とか、あるいは志賀義雄ですか、その人たちも民主化政策の中で解放されていったというふうなことを述べているわけです。

 ところが、沖縄においては非常に事情が違っていた。米軍当局は、沖縄に対しては非民主的な扱いをしていたのではないかなということが言われるわけですね。特に占領開始から3年も過ぎた時点での米軍政府の沖縄占領政策が本土と全く違っていた。米軍はたとえ民主主義の理念を語ることはあっても、それを実行しようとはしなかった。むしろ逆に軍政下において、民主主義的な制約を受けざるを得ないことということを軍政府は、強調することを忘れなかったわけですね

 ご存知のように、琉球列島における統治の主体の中で軍政府が琉球列島を統治する限り恒久的民主政府も完全なるデモクラシーも確立することは出来なかったわけです。ただ、琉球列島を統治するに際して、軍政府は実行し得る限りにおいて民主主義の原則を用いてはいると言っているんですね。しかし、「ネコ・ネズミ論」で形容されているように、軍政府がネコで沖縄はネズミであり、ネコの許す範囲でしかネズミは遊べないというわけです。つまり米軍が許す範囲での民主主義であった。講和条約が成立するまでは民衆の声は認めないし、またあり得るべきもなかった。講和会議の済むまではアメリカ軍政府の権力は絶対的なものであった。

 このような政治的、社会的状況の中で、沖縄の政党は結成されたわけです。つまり、このようなアメリカ軍政府のやり方に対する不満や批判が起こったのは当然であり、その批判の中から、また本土で民主化の洗礼を受けて帰ってきた人たちの刺激もあって、民衆の声を政治に反映させるために、先ほど述べましたような1947年から沖縄民主同盟、あるいは社会党とかいろいろな政党が誕生していったわけなんですね。

 そしてまた、これの政党に共通する三つの要素というのがあったんですね。 
 第1番目の共通要素は、これらの政党がすべて民主化を最大のスローガンとしていたこと。
 2番目が、占領政策に対する協力の姿勢。これは、後ほど反米政党としての立場を固めていく人民党の場合もそういう面では占領政策には協力的な部分があるわけですね。そういうふうな、やはりこれは米軍統治下にあるということと非常に関係するわけで、その政党の共通点の中にその協力の姿勢があったということは、非常に注目すべきではないかなと思いますね。これは後ほど細かく見る政党の中に出てまいります。
 それから三つ目の共通点としては、独立論を唱えていたということが沖縄の政党の特徴であった。ですから、政党というよりも琉球独立論の方が非常に大きく出てくるような感じがするんですね。独立論は見えるけれども、極端に言ったら政党の姿が見えてこないというふうな感じがするわけですね。

 それでは具体的に敗戦直後の沖縄の政党を見てみたいんですが、まず人民党。1947年7月20日に結党されたが、琉球独立論を唱えていたかどうか非常に賛否が分かれているんですね。沖縄人民党の初期の性格が右や左の思想の集まりだったこと。我々は、普通、人民党と言いますと、どうしてもこれは極端な左だというイメージがあるわけですけれども、ところが当時における人民党は必ずしもそうではなかった。右も左も集まっていたということが言われるわけなんですね。そもそも沖縄人民党が産声を上げる背景となったのが「うるま新報」なんですけれども、当初は完全にこれは民政府の御用新聞と言われていたそうなんですね。ですから、それからしても、非常に右も左も集まった政党だったのかなという感じがいたします。そして、その政党の場合、第一に米軍の位置づけ、それから沖縄の独立を志向していたんではないかということが、これは非常に注目されたわけなんです。

 その沖縄人民党は沖縄の将来について、その結党の際の政策の冒頭、人民政府の樹立を掲げており、これは沖縄の独立を志向したものと考えることができる。これがやはり人民党のこの部分が独立論との関係で非常に指摘されるわけです。このことは。沖縄人民党の歴史の中での綱領などを見てみますと、やはりこの言葉がまず沖縄人民党綱領の中でも掲げられています。綱領は政治、経済、社会、それから文化という面で分かれておりますが、政治の面でもすぐ真っ先に出てくるのが「人民自治政府の樹立」ということをうたっているんですね。

 それから、スローガンを11あげておりますが、やはりその中に最初に出てくるのが沖縄人民政府の樹立です。それから沖縄人民党が、これは沖縄民政府への陳情書を出すわけですけれども、その陳情が13項目あるけれども、すぐ真っ先に上がってくるのが、沖縄人民自治政府の樹立です。そういうことで、随所にその沖縄人民党はその人民政府の樹立というのを掲げているわけですね。それからするとやはり沖縄人民党は、独立論を非常に主張していたと言われるのではないかなと思いますね。

 儀部景俊・安仁屋正昭・来間泰男共著『戦後沖縄に歴史』の中で「人民党の目的は綱領を見て注意を引くのは、日本復帰の要求がうたわれていないということです」と述べられているように、どこを見てもその言葉は出てこないわけですね。後ほど日本復帰を唱えるわけですけれども、その当時においては、どこを見ても日本復帰という言葉は出てこなかったわけです。その目的には、「沖縄人民の解放」と書かれています。これは、民主化を主張する文章の流れの中で述べたものであることだが、沖縄の独立の要求を積極的に示しているわけではありませんが、本土の民主勢力の中に沖縄少数民族論イコール独立論の影響があったことは伺えます。また、当時、日本復帰が禁句とされていた社会情勢にもよるものと言得るのではないかと思うわけです。その当時の社会情勢の中では、「復帰」はなかなか叫ばれないから、そうふうにしたのかなというふうなことも言われているわけなんですね。

 それからまた、新崎盛輝先生も、いわゆるその当時の沖縄人民党は、これは間違いなく独立を志向したいただろうということを、『戦後沖縄史』の中で「戦後、人民党のいう全沖縄民族の解放は明らかに独立的志向を示していると言えよう。特にうるま新報や、実質的な人民党の機関誌『人民文化』に掲載された瀬長亀次郎の論文では、1949年から1950年の段階においてなお一貫して全沖縄(琉球)民族の解放、それから沖縄民族(琉球)の主権の確立、解放軍としての米軍に協力した民主沖縄の建設、人民自治政府の樹立、沖縄の基本法をつくる憲法会議の招集が強調されている」と述べていますね。。

 解放軍としての米軍に協力しつつ樹立される人民自治政府と、そこから展望される全沖縄民族の解放のイメージが独立論であることはほぼ間違いないであろうというふうに、新崎先生は断定して、人民党は独立を志向した政党だというふうに捉えております。

 しかし、これに対して共産党の上原清治さんは、日本共産党第5回大会で採択した沖縄民族の独立、メッセージなどの影響が全くなかったとは言えないが、自主憲法の制定そのものが独立を意味するものではなかった。ポツダム宣言の完全実施が目標であった。日本共産党は60年の歴史の中で、第5回大会の方針を誤っていたとしている。独立の明確な形態をとっていたかというとそうではない。はっきり独立とするとの表現もない。それからすると、実は新崎さんが言っているのは違うんじゃないかということで反論している。

 それからまた比嘉幹郎先生は、「政党の結成と性格」という論文の中でこう述べております。「将来の沖縄の国際的地位については、この時期にはまだ明確に党の立場を表明していない。確かに沖縄人民党は、全沖縄民族の解放とか人民自治政府の樹立など独立志向を示唆するような語句を使ってはいるものの、独立主張の決め手になる用語は見あたらず、むしろ意図的に弾力的な解釈ができる語句を用いていたようである。同党の立場は必ずしも明確ではない」として、その独立論に対しては断言できないだろうというふうなことを述べているわけですね。

 ですから、その先ほど申しました人民政府の樹立、それから沖縄の基本法をつくる憲法制定会議の招集などをどのように解釈するかで、これは沖縄人民党が独立を志向していたかどうかの解釈にも大きく影響するし、これを積極的に解釈すれば、確かにこれは「人民政府の樹立」と言っているわけですから、政府を樹立するということは独立というふうに捉えるならば、これは独立志向であっただろうということになるわけです。

 それから、沖縄の基本法をつくる憲法会議の招集もそうです。憲法をつくために会議を開くというふうな解釈をしますと、これもやはり独立志向であったというふうに理解することもできるのかなという感じはいたします。

 ただ、消極的に解釈すれば、比嘉先生が言っているように、明確にそういう言葉は使ってないから、これを断定することはできないんじゃないかなというふうな捉え方がこれまたできるわけですね。このように沖縄人民党が果たして独立を志向していたかどうか、立場によって見方が違っているというふうなことになるのではないかなと思うんですね。ところが、沖縄人民党も時代の流れの中では復帰を主張していくようになっていくわけなんですね。

 それから次に、沖縄独立論、琉球独立論との関係では社会党について話さなければなりません。琉球社会党と沖縄社会党が合流して社会党になるわけですが、これ1947年9月10日に、大宜味朝徳を中心に沖縄社会党が結成されます。この政党は、また兼島信栄を党首とする琉球社会党と同年10月20日に合流します。ですから、そういう面では非常にこの沖縄社会党、琉球社会党というのは短命の政党であった。特に琉球社会党というのは1週間ぐらいしか存在しておりません。

 その社会党について述べる前に、沖縄社会党、琉球社会党はどのような政党だったかを社会党を理解するために、ちょっと駆け足で少し紹介しておきたいと思います。その大宜味朝徳が沖縄社会党を結成し自らが党首におさまる。沖縄社会党は戦後初めてアメリカの信託統治を主張したのが特徴で、その考えは後に琉球国民党、後ほど琉球国民党を立ち上げますが、琉球国民党を立ち上げて独立を主張することに結びついていくわけですね。

 ところが、当時、既に住民の間では大宜味の訴える独立よりも、どっちかというと祖国復帰の願望が除々に強くなっていったんですね。ですから、大宜味が反日感情を示してアメリカの支持のもとでの新琉球の建設を目指すと主張しても、住民にはなかなか受け入れられなかったであろうと言われているわけですね。大宜味のねらいとするところは、沖縄を米国の信託統治のもとで独立させることであった。帰属問題には触れなかった当時の政党の中で、沖縄の将来像を公然と表明した唯一の政党であったということは、非常に注目に値するのではないでしょうか。

 ところが、政党の名を有していたものの、これは先ほどから申し上げておりますように、党首大宜味朝徳の個性と言いますか、パーソナリティーと言いますか、非常にワンマン的な政党ですね。この沖縄社会党はこれといった有力な党員がいたわけでもなく、したがって政治的、社会的影響力はほとんどなく、国民の支持を得ることなく40日間でこれは消えていくわけなんですね。

 それから次に結成されたのが琉球社会党なんですけれども、この政党は沖縄の戦後初期政党の中に政党の名をとどめているものの、先ほど申しましたように存在したのはたった1週間で、結局は党則とか綱領だとか党員など、具体的なことは何も明らかにされておりません。

 この政党は10月20日には、先ほど言いましたように、大宜味朝徳の沖縄社
会党と合流して社会党となっていくわけなんですね。両党とも信託統治を主張する点が政策面での一致点であったと言われております。

 そして、合流によって誕生した社会党ですけれども、その社会党が帰属問題をどう考えていたかを、これもまた比嘉幹郎先生の論文を引用したいと思います。「帰属問題に関して社会党は、『国家体制の整備』や『琉球憲法の制定』を基本政策として掲げ、また同党政務調査会の決議事項のなかには、米国信託統治の支持、防共強化対策、外資導入歓迎などが含まれていたと言われている。さらに、対日講話条約の素案が検討されていた頃出された大宜味の著書によれば、他の政党との政策面における根本的な相違点は、社会党が『琉球民族の幸福は米国帰属にありと確信しハワイ州の沖縄県実現を要望し政治経済文化各面の米国化』を主張していたことであるという。要するに、社会党は、民主的な琉球独立国の樹立を究極的な目標として結成された政党だったといえよう。同党は、沖縄の将来に関する政策を公然と表明した最初の政党であった。」と述べられております。

 ところが、この社会党もこれまた短命なんですね。たった3年で、1950年頃には完全にこれは大宜味党的な政党になってしまいます。先ほど述べましたように、大宜味朝徳は非常にワンマンだったそうですね。どうしてもその政党の中でワンマン的な政党運営をしていたんですね。この社会党は落ち目になっていくわけなんですが、その落ち目になっていた社会党は、1952年の参議院選挙にたった1人しか擁立しなかったものの落選し、1950年の4月7日はついに解散に追い込まれるわけですね。 しかし、大宜味朝徳の琉球独立論を絶えることはなかったんですね。1958年、今度は、大宜味朝徳は、琉球国民党を結成して、また独立を掲げた政党として活躍していきます。

 それから次に共和党と琉球独立論の関係を少し述べてみたいと思うんですが、この共和党は、琉球は巌として琉球のものなりとして琉球の独立を政策にうたうと同時に、親米的な性格を備えた政党であった。先ほど沖縄の政党はアメリカに協力的であるということで、非常に親米的なんですけれども、この共和党も漏れなく親米的であったわけですね。沖縄の政党の名称には共和党、民主党などいろいろありますが、恐らくこの共和党という名称も、結局はアメリカへの親米的な要素のあらわれかなという感じもいたしますね。要するに、アメリカの政党には共和党と民主党があるわけですから、そういう面で米軍統治下にあった沖縄の政党も、共和党とか民主党とつけたらアメリカの機嫌、アメリカが好意的に見るのかなと、あるいは、アメリカに協力的と見られるのかなと、考えていたのではないでしょうか。

 沖縄民主同盟が衰退していって、その中心的な人物であった仲宗根源和などが中心となって共和党が結成されるわけですが、そのへんの経緯を少し述べてみます。その沖縄群島知事選挙に松岡政保を擁立した沖縄民主同盟はすっかり意気消沈した。知事選挙より1週間後に行われた群島議会議員選挙でも、民主同盟は敗北した。知事群島議会選挙の敗北は、沖縄民主同盟の解党を意味していた。こうした状況で、群島議員に当選した保守派の4人が結束して新党結成に動き出した。その結果、1950年10月28日に誕生したのが共和党である。共和党の結成では、仲宗根源和、桑江朝幸ら民主党の主要メンバーは共和党に駆けつけた。仲宗根源和が加わったことで、共和党の性格は大きく変わっていきます。結党した議員4人は、当初、占領下だから米軍に盾突くより協力して物資をもらった方が沖縄の復興を早くすると考えていた。これは親米的なんですね。 だが仲宗根は、民主同盟時代から琉球独立論を主張していた。したがって党の考え方も次第に独立論へと傾いていった。ですから、その党の路線に仲宗根が非常に大きな影響を与えたと考えられます。

 新里銀三、この方も4人組の中の1人ですが、新里銀三は、「私らは、占領下で布告、布令が出ており、どうせ米軍のいいなりだったら、米軍から物をもらった方が得策だ」と主張した。しかし仲宗根源和は独立論をぶち上げ、結局、仲宗根に押し切られてしまった。復興するまで占領政策に従った方がいいと思ったので、仲宗根とは別行動にしようと考えた」と述べているわけですね。

 このように、共和党の路線には大きく二つあった。一つの政党の中ですけれども、仲宗根はどうしても独立論を主張した。ところが、結党の中心的な役割を果した新里銀三らは、米軍に従っていた方が得策だろうというふうな考えだったんですね。

 そして、このようにして共和党は路線問題、意思統一ができなかった。民主同盟から移ってきた仲宗根は、組織部長として独立を主張した。仲宗根は、「アメリカは自由主義が行き過ぎて戦争に勝って自信過剰になって気にくわん」と語り、独立を説いた。これに対して松岡政保は、「独立は夢物語だ。独立すると、大学も裁判所も自分でつくらなければならないのに金はない。そんなことができるはずがない」と、松岡は反対したそうなんですね。

 それで、私はゆっくり読む時間なかったんですけれども、『琉球経済』、これは1951年6月1日のものですけれども、その特集が琉球帰属論だったんですね。そして、時間がなくて細かくは読んでないんですが、その中で「琉球独立論」(仲宗根源和)、「なぜ?独立を主張するか」(桑江朝幸)、「独立国琉球の再現を期す」(兼島信助)、「帰属問題の一考察」(大庭政慶)、「日本帰属は何を意味するか」(池宮城秀意)、「日本復帰は悲劇の再現」(大宜味朝徳)等等、貴重な論考が収録されている。

 仲宗根源和の「琉球独立論」は、序論と本論からなっておりますが、その中で序論の部分に興味深いところがあったんですね。「琉球の帰属問題は、私ども琉球民族が運命の岐路に立って、いずれの途が繁栄と幸福と自由と平和に通じる明るい途であるかを選択する重大な問題であることは申すまでもありませんが、多くの人の中には、はじめから、日本復帰希望で満腹していて、独立論の趣旨を聞こうともしない人々があります。その態度ははなはだ危険であり、非理知的であります。ご本人のためにも、またその人自身の子孫のためにもよくない態度であります。私どもは、民族の運命を決するためにも、自分自身のためにも、そしてまた私どもの子供のためにも、この問題はあらゆる角度から十分に冷静に各種の議論を比較検討することが最も必要であります。

 これから私は、琉球は民主主義共和国として独立し、自由主義国家軍の一員として国連に参加すべきであるという琉球独立論を提出をしたいと考えます」と。

 それから、琉球独立論について次のように述べております。「『出来たらそれに越したことはないが経済的に駄目じゃないですか』と言う人が多い。私は、そんなときにこう答えています。『独立してこそ経済的にも豊かになれるのです。初めから経済的に駄目だとあきらめてしまって、我々は子孫代々他人の食卓からこぼれ落ちるパンくずを拾うというのですか。とんでもない話ではありませんか。自らの手で働いて求めたパンを自らの食卓に乗せて、朗らかに食事をする民族になろうではありませんか。然も我々は過去においてそれを為し得た民族でありませんか。この意気を失って日本に頼ろうとしたら日本の荷厄介になり、アメリカに頼ろうとしたらアメリカの荷物になるだけです。誰もよけいな荷物は担ぎたくないでしょう。』
日本復帰論者の中には、『独立するのも悪くはないが、経済的にはどうせ自立は出来ないから日本と一緒になってその不足を援助してもらうほうがよいと思うという』人がおりますが、かかる論者に対しては『日本の政治が沖縄を貧乏にした最大の原因であったことを知らずに、逆に沖縄は日本の政府から援助でも受けていたとでも勘違いしているのでしょう。それはとんでもない間違いです。このことは、過去の史実をよく検討して判断を誤ってはいけません。それと同時に、現在の日本は米国の援助を受けている国であって、沖縄を援助する実力がないことを知っておかなければなりません。』と私は注意を喚起しています」。

 それから本論の一部だけ引用しますと、「我々は今アメリカから食料の無償配給を受け、衣類も住宅も代金を支払わずに供与を受けています。アメリカの好意に対して感謝の念を持つことは必要でありますが、決して乞食根性を起こしてはいけません。この沖縄列島の主人公は私ども沖縄人であり、アメリカは私どもの土地にヤドカリをしているのですから、我々は当然受け取るべき家賃を受け取るのだと考えるべきであって、決して卑屈な気持ちを持ってはいけません。ただわれわれ沖縄人は、アメリカ人に対して、人間同志として好意と好意、即ち善意の交際をしていくべきであります」。こういうふうなことで書かれて、なかなか興味深い内容がたくさん書かれておりますけれども、時間がないのでこのぐらいにし、残りは割愛しますが、そういうふうなことで仲宗根が琉球独立論を説いております。

 それから次に、今日の敗戦直後ということではちょっと時期的にずれますが、やはりこれは独立論を語るときに琉球国民党の大宜味朝徳を語らないといけないかなと思いまして、予定の時間も迫っておりますので、大急ぎでそこをあと5分、10分ぐらい話したいと思います。

 この大宜味朝徳は、1947年には先ほど言いました社会党、そして58年には琉球国民党の結成の主導的な人物であるわけです。常に反復帰の旗を鮮明にして政治活動を行っていたわけです。そして本人も1952年、それから60年、それから65年には立法議員選挙に立候補します。それからまた61年には那覇市長選挙にも立候補します。しかもこの政治活動費は、ほとんど大宜味自身が直接負担していた。

 このように、私財を投げ打ってまで反復帰の運動を展開した理由は一体何だろうか。これは、いろいろと大宜味のついて書かれた本や論文などを読んでみました。特に西平さんの論文「大宜味長朝徳の思想―琉球独立論を中心にー」は大変参考になりました。

 その中でも非常に細かく述べられておりますけれども、大宜味が独立論を唱える契機となったのは、やはりこれは戦前の日本政府の沖縄に対する差別的な政策だろうと思います。それが日本政府、いわゆるヤマトへの反発というのがどうも独立論の根底にあるのではないか。一般論としてはそうなんですけれども、特に大宜味の場合はそれが強かったというようなことが感じられる部分がたくさんあります。これは西平論文の中でかなり詳細に論じられております。

 結党が1958年の11月なんですが、反共産主義で、そして琉球独立を旗印にした琉球国民党が誕生しますけれども、これは党首が今の大宜味朝徳、それから副党首が喜友名嗣正です。ただ、この琉球国民党がこれまでの政党と違っているのは、沖縄においてこの大宜味朝徳がいろいろな活動をしていますけれども、副党首は台湾にいる喜友名という方が副党首におさまっているわけですね。大宜味は、喜友名のところに手紙を書いて、政党をつくるから一緒にやってくれというふうなことで誘いをかけるわけなんですね。そしてまた喜友名嗣正は、台湾において独立運動をしていた。そういう面で非常にこれ意気投合したであろうと思われます。喜友名は台湾で琉球革命同士会、この会は20~30人の沖縄出身者で組織され、沖縄の独立を目指した会であったと言われるわけなんですが、そういう組織を持って活動していた。そして、反米、反共産、反ヤマトンチュ思想の大宜味と喜友名が意気投合して、沖縄の独立という点で一致して、琉球国民党が誕生していくわけなんですが、時間がありませんので、その立党宣言とか綱領とかはもう書いておきましたので、読んでもらえますか。割愛させてください。

 一つだけちょっと述べておきたいのは、その琉球国民党の場合は、これまた琉球自衛隊の創設を、これは高等弁務官ドナルド・P・ブースに要請するわけなんですね。琉球自衛隊設立に関する要望書というのを出します。その要望書には、「世界の何れの国家においても、軍隊もしくは自衛隊を保有し国家の安全を期している。我が琉球も独立国家として健全な国民を錬成することは重要な国策であり、独立国家として自衛隊は当然必要な機関である」と主張しているわけなんですね。

 このことからしても大宜味がいかに真剣に独立国家ということを考えていたのかが分かるような気がします。要するに、自衛隊も持たなければやはりこれは独立国家と言えないだろうというふうなことで、これは高等弁務官に直訴しているわけですね。

 それから、また皆さんの資料にもおつけしたんですけれども、琉球国民党の非常に有名なのが、1958年9月17日の「琉球新報」に「琉球国民党結成について全琉球人民に訴う」という広告を出しているんですね。ちょっとこれは皆さんのお手元にお配りしたのは非常にこれ読みづらいので、前半部分だけを考えてみたいと思うんですが。

 それと、大宜味朝徳は皆さんの資料におつけしました「私の意見」という形で、よく「琉球新報」に出しているんですね。私が拾ったのは幾つかありましたけれども、その中から幾つか上げておりますけれども、そこによく投稿していたようなんですね。

 それはどうして沖縄タイムスでなかったのかなということについては、比嘉康文さんがこの前出した本の中で、やはりこの琉球独立論を唱えていた大宜味朝徳は「琉球新報」の「琉球」を非常に気に入っていたのかなということで、「琉球新報」に投稿していたのかなということをこの中で書かれているんですが、その真意はわからないんですね。

 しかし、このぐらい独立にこだわるんだったら、沖縄タイムスの英語でタイトルつけたタイムスよりはこの琉球に憧れて投稿したのかなと思います。私もこの過去の新聞を調べて、どうしてこれはずっと「琉球新報」なのかなと、「沖縄タイムス」じゃないのかなとちょっと気にはなっていたんですね。そしたら、ちょうどタイムリーにこの比嘉さんの本が出てこれを読んでいたらその話が出ておりました。これは本人に聞かないと本当はわからないですね。

 その大宜味朝徳の中で特にこの広告「琉球国民党結成に就いて全琉住民に訴う」ですね。とにかくこれは読むのが嫌になるぐらいの長ったらしい。前半部分だけを紹介しますけれども、この広告は「B円の切り替えは愈愈実施された。之は日本復帰運動に終止符を打った無言の宣言である。琉球住民はこの際、今迄の琉球の政治、経済、教育等、日本依存的考え方を是正し、自ら立ち上がって琉球の国際的進出に開眼すべき時期に来たと思う」と述べ、これまでのようなヤマト依存的な姿勢から脱却し、自主独立の道を模索すべき時期に来ていることを琉球住民に訴えたわけですね。

 そして、これまでの琉球が日本時代にいかに貧困を強いられたか、そしてその要因が日本政府からの経済的な搾取。この経済的な搾取は、これ仲宗根源和の論文でも出てきます。それから差別、この差別、非常にキーワードですね。それから政治家の先見性の欠如によるものであるとして具体的事例を挙げながら、日本を徹底的に大宜味は批判するわけです。

 まず経済的な苦難について、「戦前の琉球は『ソテツ地獄』『孤島苦の琉球』と云われ、全く文化的に取り残された島であった。県の税外収入と云えば波止場の桟橋賃だけであり、経済界は銀行、保険会社は皆日本の支店で集めた金子は日本に持っていかれ、琉球に金子が入るのは砂糖時期ぐらいのものであった。大学一つもなく、国有鉄道一里もなく、国費で負担する国道は、那覇港から県庁迄の1線であった。重税で農家の困窮は極端であった。一例を明治中頃の沖縄県の予算を見ると歳入65万5千円に対してそのうち沖縄県庁の費用は45万5千円で二十満円は日本政府へ納入されていた」。どうして歳入は65万5千円が県庁の予算は45万かと。これ大宜味は、20万円は日本政府に納入されていたということを言っているわけですね。つまり、何も日本政府から援助を受けてないじゃないかと。逆にしぼり取られているんじゃないかということを強調するわけです。

 さらに、このような日本政府の経済的搾取以外に、大宜味が日本復帰に反対した理由は、沖縄住民に対する差別的待遇であった。その琉球国民党結成についてこの広告の中でこう言ってますね。「政治の後進性から来る琉球人への差別待遇、其重圧は大きかった。沖縄出身の官吏は判任官で釘付けされ、警察官も巡査部長以上はなかなかなれなかったというのが行政上の不文律であった。――之は40歳以上の人なら皆経験している筈だ。2,3の高官は出ても、これは異例だ。沖縄人は頭はよくても、腕があっても、結局は高官になれぬと云う実状であった」と述べ、沖縄住民に対する差別扱いに対して怒りをぶつけているわけです。

 このような差別的な扱いは、海外移民の場合にもあったと述べています。大宜味は、「海外に出稼ぎに出かけた沖縄移民は、この差別待遇問題で斗い続けて来たのが過去半世紀の移民悲史である」と述べています。

 特にこの移民の差別問題については、西平論文の中でかなり細かく論じられていますので、関心のある方はその論文を見てもらえたらと思います。

 さらに、琉球の混迷の原因は琉球住民に対する差別以外に、「最も重要な時期に為政者や指導等が先見の明を欠き、政治の方針をあやまり、県政運営上の大綱的、基本的問題の解決を怠ったために、ついに民心起こらず治識も挙げ得ずして、琉球を経済的に後退せしめ財政的危機に陥れたということである。政治家に先見の目がなく今日の琉球の大綱的基本的問題の解決を怠って琉球を混迷に陥入れていることは、今日とよく似ている。今日の琉球政治の現状を見るに、悉く日本復帰または日本復帰したらという前提のもとに政治や教育が行われている。ここに琉球政治の暗さがあり、低迷があり、不徹底が生じ混乱を重ねている実状である」と述べて、大宜味は日本復帰ではなく琉球独立こそが沖縄の進むべき道であるということを、この広告「琉球国民党結成に就いて全琉住民に訴う」の中で非常に細かく述べておりますが、後半部分はちょっと時間がありませんので、皆さんのほうで読んでもらいたいと思います。

 そして、また国民党政府の構想。ただ私ちょっとまだ理解できないんですけれども、これも新聞広告という形で出しているんですね。これ資料の一番最後につけてありますけれども、これも確か広告という形で。

 私は、最初これ新聞の記事として扱うだろうと思って、新聞を調べるとき
真ん中を見ていたんですね。そしたら、なかなかこれが出てこないですね。それで、もうあきらめて、これ私の勘違いだったのかなと思って、パッと目を下に移したら下の方に小さく載っているんですね。これも広告という形でした。

 要するに、大宜味は非常に情熱を傾けて独立論を唱えていたんですけれども、しかし、そのとき新聞では大宜味の政党活動を記事として、ニュースとしては取り上げてなかったということです。なぜ取り上げなかったのか、私は調べることは出来ませんでした。

 そして大宜味は、そういう「国民党内閣の構想」も新聞広告で出すわけなんですね。その中で、3行目あたりにこう書いているんですね。「其時の話題は琉球の独立問題であった。彼曰く、琉球の独立問題には吾々も非常に関心を持っている。ホントの話他の四つの反米政党は問題ではない。琉球の住民がホントーに琉球の独立を考えているなら吾々も考え直さねばならぬ。一体琉球が独立すると云うが人物がいるかネ」とこの人が尋ねたら、大宜味は琉球には人物はたくさんいる。そしていろいろな人たちの名前を挙げてるんですけれども、またある本の中では、これは大宜味が勝手に挙げたんじゃないかなとの指摘もあります。果たして、本人たちが大宜味の構想に賛同して名前を出したのかなというと必ずしもそうでもないようなことが、いろいろな方がまた述べているわけなんですね。そのへんが大宜味はちょっと信用がなかったのかなというふうな感じがするんですね。

 それで最後に、「国民党内閣の構想」の中で、財政問題をどうするかという質問に、大宜味は「それは日本政府から戦災賠償金を取ってやると云ったら、戦災賠償金は初耳だ。まだ払ってなかったのか。それはおかしいとほうほうのていで帰っていった」というふうなことを述べておりますが、このようにして琉球国民党は大宜味を中心として琉球独立論を唱えていくわけなんです。

 時間がなくてカットしますが、その今のページの上のほうにあります「琉球は日本時代より良くなった」と。つまり、米軍支配下にあった琉球というのは、かつての日本政府のもとにあったよりは経済的にはよくなっているじゃないかと。ならば、何も日本政府に帰る必要はないんだ。日本本土に帰る必要はないんだということを、広告をとおして訴えております。

 このように、琉球国民党は大宜味を中心としてその政党というのができておりますが、ただ、果たしてどのぐらいの党員がいたのか。そのへんがなかなか見えてこないというのが、私はこの琉球国民党のある面では弱いところというか、あるいは大宜味のワンマン的な政党だったのかなという感じがいたします。

 もう時間がないので、琉球国民党はこれで終わって大体の一連の流れですね。終戦直後の沖縄の政党がどう琉球独立論とかかわっていたかを時間の都合で大急ぎで話しましたけれども。考えてみれば、戦後初期の政党が沖縄独立をどのように主張していたのか。それを沖縄住民はどのぐらい支持をしていたのかなということを、初めに沖縄人民党、それから社会党、共和党、琉球国民党を中心に検討してみたわけなんですけれども、独立論というのはそんなに受け入れられなかった、というのが私の現時点での感想です。

 住民の気持ちは、これはその当時除々に祖国復帰、本土復帰へと流れていって、アンケート調査では1950何年には72%が祖国復帰を望んでいたということで、大宜味、仲宗根らが非常に情熱を傾けて説いた琉球独立論は、住民の中には浸透はしていかなかったというふうな感じがいたします。
 そういうふうにして、しかし、我々が研究として、これだけ琉球独立論の議論があったんだということは、私は非常に貴重なことかなという思いがいたします。

 大急ぎでしゃべってしまいましたけれども、最後に比嘉康文さんの『沖縄独立論の系譜』の中からまとめとして、この件だけを引用させてもらいます。「沖縄は常に日本の政治、経済の意向に左右されてきた。1609年の薩摩侵攻以来、復帰後の現在までその状況は変わらない。沖縄自身が自らの将来を決められないままの歴史が続いている。『鉄の暴風』と形容された沖縄戦が終わった後、わずかな時期ではあるが、自分たちの手で理想的な沖縄を建設しようと燃えていたことは、沖縄戦後史の中で特筆されてよいであろう」と。これを引用して終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。

○司会(江上能義)  照屋さんが紹介した比嘉康文さんの「沖縄独立の系譜」というこの本ですね。沖縄タイムスの記者をされた方ですけれども、どういうわけか琉球新報社から刊行されています。やっぱり「琉球」が独立に似合うんでしょうかね。でも、タイトルは「沖縄独立」なんですから、そのへんのところがおもしろいですね。
 この本は琉球新報社の潮平さんがきょうたくさん持ってきてくれたんですけれども、今年の6月18日に出たばかりですね。こういう本が今、出るということ自体が沖縄の現在の気分というものを表出しているような気がします。

 それはともかくとしまして、照屋さん、どうもお疲れ様でした。時間の制約があって、大急ぎでとりまとめていただきましてありがとうございました。大体、戦後間もない激動期において政党が澎湃として湧いたときの時代状況というのは、照屋さんの話の中からその輪郭が浮かび上がってきたのではないかなと思います。

 その照屋さんの話を受けまして、きょう東京からわざわざお越しいただいた上原さんにお話をいただきたいと思います。上原さんは、わざわざ二つの種類のレジュメを用意してきていただいて、上原信夫さん御本人の年譜と、きょうお話になる沖縄民主同盟の設立と独立論というレジュメを丁寧につくっていただいております。照屋さんに引き続いて上原さんに話していただいた上で、またご質問あるいはコメントなどをいただきたいと思います。
 最初に上原信夫さんの経歴ですけれども、ご本人がきょう持ってきていただいた経歴を見ていただければわかりますように、1924年12月に国頭村奥のご出身です。長い経歴をすべて紹介することができませんけれども、関東軍にも出兵されたり、本当に非常に複雑な経歴のお方です。戦争にも動員させられて、それで沖縄に戻ってこられて、きょうお話の中心になる激動期において沖縄民主同盟の設立にかかわることになります。
 きょうは、このへんを中心にお話ししていただくということになりますので、上原信夫さんのこれまでの生涯全体については、時間の関係で多分限定的にしか触れられないと思いますけれども、沖縄民主同盟に関わっていてそれがその後、ここに書かれておりますけれども、1950年、結局、沖縄を出るという形になって、本来はストックホルムの世界平和擁護大会などに、沖縄問題をアピールするために沖縄を出たわけですけれども、シンガポールから香港へ渡ってそれで結局1974年まで中国で滞在されました。24年間中国に滞在した後、帰国されまして、沖縄にも帰ってこられまして、現在は東京にお住まいで中国留学生や研究交流の援護活動を今なおなさっているということであります。
 ちょっと一口に私の舌足らずの紹介では上原信夫さんの経歴をお話することはできませんけれども、それよりも何よりも皆さんは上原信夫さんの当時のお話をお聞きしたいと思っておられると思いますので、マイクを渡します。上原さん、よろしくお願いします。

沖縄のアメリカ人―沖縄ジャーナリストの記録 (1971年) (サイマル・ドキュメント)

時代背景&社会背景を知る意味で、一読CnPxkV2WIAAkusI

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新城郁夫「沖縄・否定性を突きつめる」より

「沖縄・否定性を突きつめる」
政治的な主体を創るために立ち止まりながら激しく動く

新 城 郁 夫
しんじょう・いくお=1967年生まれ。
琉球大学法文学部准教授。
沖縄文学・日本近代文学専攻。
著 書に『沖縄文学という企て』『到来する沖縄』など。  

図書新聞090321号に「新城郁夫氏に聞く『沖縄・問いを立てる』全6巻完結によせて」が巻頭インタビューとして1~3面にわたって掲載された。  
「シリーズ『沖縄・問いを立てる』全6巻が完結した。沖縄が直面する現実に介入しつつ、沖縄研究の構想力を問い直し、応答する気鋭の研究者たちの論考が収録されている。シリーズ第3巻『攪乱する島――ジェンダー的視点』編者の新城郁夫氏に、本シリーズのテーマと沖縄研究の現在をめぐって話をうかがった。(2月9日、東京・池袋にて/聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)」というリードが付され、<シリーズ「沖縄・問いを立てる」全6巻/第1巻 屋嘉比収・近藤健一郎・新城郁夫・藤澤健一・鳥山淳編『沖縄に向き合う――まなざしと方法』/第2巻 近藤健一郎編『方言札――ことばと身体』/第3巻 新城郁夫編『攪乱する島――ジェンダー的視点』/第4巻 屋嘉比収編『友軍とガマ――沖縄戦の記憶』/第5巻 鳥山淳編『イモとハダシ――占領と現在』/第6巻 藤澤健一編『反復帰と反国家――「お国は?」』社会評論社2008>が紹介されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/shijoikuo090321.htm

これから来たるべきものとしての沖縄


 ――いまのお話は、危機感から生まれた沖縄研究の今後の展望ともつながります。

新城 そのことに関して、今是非お話ししておきたいのは、沖縄研究の今後を考える上で、琉球大学という機構が大きな問題として浮上してきているということです。
たとえば、琉大事件という出来事がありました。
1957年に起きた第二次琉大事件(文芸雑誌『琉球大学』の反米性そして同人たちの反米活動を理由に6人の学生が退学処分、1人が謹慎処分)に関しては、粘り強い批判もあり、一昨年つまり50年を経て琉球大学は謝罪しました。

でも、それ以前の1953年には第一次琉大事件がおきています。
学生たちが原爆展を行ない、灯火管制のなか灯りを点したことに対して大学が謹慎処分を言い渡し、そのことをメーデー集会で訴えた学生達を今度は退学処分にしているんです。
この処分に、米軍が関与していたことは明白ですが、そのことを措いても琉球大学がみずから手を下した重大な人権侵害事件です。
その第一次琉大事件について、現在に至るまで琉球大学は「外圧を示す資料がない」と謝罪を拒否していますが、それこそ転倒した話で、大学が自主的に処分したのならば、その方が大問題です。
つまり、沖縄研究の拠点である琉球大学において沖縄の歴史が否認され、米軍との共犯関係が継続されているのです。
 
 それから、いま非常に問題になっているのは、琉球大学の非常勤講師の切り捨てです。非常勤のユニオンがあって、学生達の署名を含め6000人近い反対署名を集めて大学に提出しましたが、大学は切り捨てを強行しようとしています。国の文部行政の出先機関として、琉球大学は率先して沖縄社会のネオリベ化を進めているとさえ言えます。
 

  琉球大学には、琉大事件で人を処分した歴史があります。
この過去の処分といまの処分問題が、まさに沖縄の学問に問いを突きつけています。
占領下で行なわれた処分を謝罪しきれない状況と、ネオリベ的な人間の処分が、いま琉球大学という場で折り重ねられている。
沖縄研究に関わる一人一人が、この問題を座視してはいけないと思います。
 
 沖縄研究が学問のもつ社会性を認識し、沖縄研究に政治的介入の自由があることを、もう一度確認していくべきです。
このシリーズ「沖縄・問いを立てる」に収められた多くの論が、卓越した批評性においてそのことを訴えています。
我々は、ゲリラ的にさまざまな問いを発して、メイキング・トラブルを積極的に実践していくことがとても大事です。

基地の島コンパクト事典

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「基地の島コンパクト事典 キーワード編」沖縄文化社




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『戦後沖縄史』 新崎盛暉 19760110 日本評論社

http://www.arsvi.com/b1900/7601am.htm
■内容
本書において試みようとしたのは、沖縄戦後史の中間総括である。ここでは、通史的記述をめざしてはいない。むしろ、よりよい戦後史が書かれるためのたたき台の提供、できるだけ多くの論争点の発掘に重点を置いている。それは、これまでの沖縄戦後史の分析・記述に際しては、前提となるべきこうした作業が、もっともおろそかにされてきたことの一つだと考えられるからである。
(「BOOK」データベースより)

■目次
序章 時期区分について

第一章 軍事占領初期の動向――45年4月~49年後半
第二章 統治方針の確立と日本復帰運動――49年後半~52年4月
第三章 暗黒時代の闘い――52年4月~56年6月
第四章 島ぐるみ闘争の展開とその内実――56年6月~58年後半
第五章 相対的安定期と思想的変容――58年後半~62年1月
第六章 自治権拡大問題と政治的再編――62年2月~64年後半
第七章 ベトナム戦争拡大のなかで――64年後半~67年2月
第八章 日米軍事同盟の再編と大衆闘争――67年2月~69年2月
第九章 支配体制移行期の思想――69年2月~72年5月

■引用

■序章 時期区分について
「2・4ゼネストへと登りつめて行くが、その挫折によって終止符を打たれる。復帰運動に集約された大衆運動は、ここに一つのサイクルを終えるのである。」(3)

「日本政府は、沖縄「返還」という「国民的願望」を先どりしつつ、日米軍事同盟再編強化のための交渉に向かって、一路驀進し、ようやく72年5月15日の沖縄返還へとたどりつくのである。この間、70年12月20日のいわゆるコザ暴動、71年5月19日の沖縄返還協定粉砕ゼネストなど、2・4ゼネストの挫折を形態的あるいは思想的に克服しようとする動きが、自然発生的にあるいは組織的にあらわれたが、ついに政治の流れを変えるにはいたらなかった」(3)
●復帰運動の終焉としての1969年2・4ゼネスト、とその乗り越え

「日米軍事同盟(日米安保体制)の再編強化に反対するはずの60年安保闘争は、沖縄への公然たる核持ち込みに対決することもなく、核持ち込みに反対する住民の意思表示(立法院決議)と連帯することもできなかったのである(このことの意味は、68年のB52常駐化が、本土においても一定の反響をまきおこしたことと対比してみればいっそう明らかになる)。
 60年安保闘争を総体としてみると、新安保条約の適用地域(共同防衛地域)に沖縄を含めることは、アメリカの戦争に巻き込まれる危険を増大することになる、という段階にとどまっていて、米軍事戦略体制のカナメとしての沖縄をどうするか、米軍事支配下で苦闘する沖縄人民とどう連帯するか、という段階までは、ほとんど考え及んでいないのである。」(6)
「「本土には安保闘争があって沖縄闘争がなく、沖縄には復帰運動があって安保闘争がないという状況が存在した」といわざるをえないのである。」(7)
●60年安保闘争における「沖縄」の不在


■第一章 軍事占領初期の動向――45年4月~49年後半

1946年1月29日 GHQ「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」: 北緯30度以南の南西諸島を日本から分離する方針(11)

1946年6月 マッカーサー「沖縄諸島は、われわれの天然の国境である」発言(15)
「このマッカーサー発言で重要な点は、およそ三つに整理できる。
 第一は沖縄人は日本人ではない、という沖縄(人)観である。」(15)
「第二点は、ヤルタ協定と沖縄の筧である。[…]沖縄をアメリカが保有するかたちの講和条約を想定している。」(15)
「第三の問題点[…]日本の軍備放棄とアメリカの沖縄支配(空軍基地化)を関連づけている。」(15)

1948年5月9日 米軍政府『琉球列島における統治の主体』

●冷戦体制の形成: 日本と沖縄の分離、異なる統治(対日占領政策と沖縄占領政策)、異なる位置づけ

・政党の動き(20-21)
1947年6月 沖縄民主同盟結成(仲宗根源和を中心に)
1947年7月 沖縄人民党結成(浦崎康華、瀬長亀次郎、兼次佐一を中心に)
1947年9月 沖縄社会党結成(大宜味朝徳を中心に)
1946年3月頃 奄美大島自治同盟結成
1947年1月 奄美共産党結成(中村安太郎、林義巳らを中心に)
1949年8月 共和党(奄美、反共政党/向井文忠を中心に)

・諸政党のスローガン(21-22): ①民主化(ポツダム宣言に求める)、②占領米軍に対する協力の姿勢(解放軍規定)、③独立論的志向(人民自治政府の樹立など)

▼新里恵二「現代沖縄の歴史」『歴史評論』1957年1月号.
▼国場幸太郎「沖縄の日本復帰運動と革新政党」『思想』1962年2月号.
▼松田清『奄美大島日本復帰運動史料』奄美史研究会、1968.
▼「沖縄現代史への証言1 宮良長義と八重山民主化闘争」『新沖縄文学』26号、1974年10月.

「この時期[1950年]は、すでに朝鮮戦争を間近にひかえて、日本共産党と連合国(米)軍との関係も険悪化してきていた時期ではあった。しかし、沖縄においては、占領米軍の反共攻撃は、まだ表面化しておらず、人民党と米軍の関係も悪化してはいなかった。」(26)
●朝鮮戦争の存在

「沖縄における独立論は、どちらかといえば沖縄を中心に奄美も含めた、いわば大琉球独立論であった。[…]奄美の独立論が志向していたのは奄美人民共和国であって、琉球人民共和国ではなかった。また、日本本土におけるそれぞれの出身者の組織も、沖縄(人)連盟と奄美連盟(連合)、沖縄青年同盟と奄美青年同盟というぐあいに、別個であった。のちの復帰運動(これも奄美がはるかに先行した)も別々にすすめられた。」(27)

「これ[民主化要求、解放軍規定、独立論志向の三位一体]は何も沖縄の革新政党にかぎられたことではなかった。日本共産党や日本社会党にも、おおかれ少なかれ、共通している現象であった。」(28)
→1946年2月 第5回党大会で採択 共産党の沖縄人連盟あて「沖縄民族の独立を祝う」メッセージ
●本土革新政党の民主化要求、解放軍規定、独立論志向の三位一体の共有

「日本固有の領土である沖縄をアメリカが支配しているのは、ポツダム宣言に違反する、という見解が一般化していくのは、1951年の講和会議前後、とくにソ連が、アメリカの沖縄支配をポツダム宣言違反として批判するようになって以降のことである。」(30)
▼ポツダム宣言
▼カイロ

「沖縄人民党は、51年1月28日の拡大中央委員会で日本と連合国との講和は、世界平和の観点からみて、全面講和でなければならない、そして琉球の帰属は、琉球人民の意志によるべきである、という基本的態度を決定した。ついで、同ん年2月13日の拡大中央委員会で、帰属問題に対する具体的態度として、日本復帰の方針を決定した。」(33)
「沖縄人民党の独立論にしてからが[…]49、50年段階の瀬長亀次郎の論文にみられるような、日本との連邦制も可能的形態として含みうる自治共和国のイメージまで多様である」(41)
・米軍犯罪の増加→解放軍規定の批判→復帰路線へ
・日本政府への戦争被害の賠償金支払い要求(人民党)
●人民党の復帰路線への転換
●冷戦体制の形成→軍事化。反軍事化としての復帰路線の前景化。

▼沖縄タイムス編『沖縄の証言』

1951年10月 日本共産党第五回全国協議会「沖縄・奄美大島・小笠原諸島同胞に訴える」
「日本の国土であり、諸君が生まれ、育ち、生活している沖縄・奄美大島・小笠原諸島を祖国から切り離し、アメリカの統治に移している。[…]日本の国民は、歴史にかつてない重大な危機に直面している。この危機を克服する道は、アメリカ帝国主義者とその手先どもの日本に対する占領制度を取り除き、諸君を祖国から引き離した不正な講和条約を破棄する以外にない」(45)
●日本共産党の方針が独立論から復帰(返還)論に転換。アメリカ帝国しぃぎと日本の批判、講和条約の廃棄。

・仲吉良光の復帰論(58~): 日本との文化的一体感、皇室への敬愛


■第二章 統治方針の確立と日本復帰運動――49年後半~52年4月
・中国革命の成功(1949年10月1日中華人民共和国成立)が決定的となり、沖縄の恒久基地建設の本格化 + 日本の「軍需工場として再建」(62)→沖縄基地建設予算の計上(61)、ガリオア援助(64)
●〈冷戦体制→沖縄の軍事化〉という枠組み

・基地建設: 1949年11月末 鹿島建設、清水建設、間組、大成建設、竹中工務店、納富建業などの来沖→「沖縄ブーム」、「沖縄景気」

1950年6月 朝鮮戦争開始→「朝鮮特需」

1950年12月8日 総司令部渉外局 「琉球列島米国民政府に関する指令」(50・12指令)
「マッカーサー元帥は、[…]戦略的価値ある沖縄を含む琉球諸島に対する管理を強化する計画の下に、琉球諸島の民政長官に就任、北緯30度以南の琉球諸島の米国の民事行政に、責任と権限をもつ[…]。軍事上の安全保障を妨げない範囲で琉球諸島の一般住民の経済的、社会的福祉を増進する方針である。[…]住民は占領目的に反しない限り、言論、集会の自由その他民主主義国家の基本的自由を保障される。」(67-68)
→半永久的な軍事基地の確保を前提にした軍用地政策の開始

1945年11月 沖縄人連盟発足 → 1949年10月 沖縄連盟へ改称
「沖縄人連盟という名称が独立論的思想と結びついていたこと、この名称をきらう復帰思想の力が連盟内で大きくなってきたことを意味していた。」(75)
「50年も半ばになると[…]日本本土在住沖縄出身者の動向は、ほぼ復帰一本にまとめあげられていた。」(75)
●在本土沖縄出身者の復帰路線化。朝鮮戦争間近のタイミング。

・復帰促進期成会
「基調は、あくまで文化的復帰論であった。そればかりか、全面講和や基地反対といった政治的主張を積極的に排除しようとしていた。」(78)

「沖縄の経済的自立が困難であるという認識は、独立論者も、復帰論者も共通していた。しかし、この困難性を乗り越える道を、独立論者は、アメリカの援助に求め、復帰論者は日本復帰に求めた。このころには、すでに解放軍への幻想は完全に破れ去っていた。一時的、断片的には、一般民衆に、日本軍との異質性を感じさせることもあったアメリカ式ヒューマニズムは、横行するグロテスクな米軍犯罪の前にまったく色あせていた。民衆の基本的諸権利は剥奪されたままであり、高圧的な支配者の恣意的政策(たとえば、食料の大幅値上げ、食料配給停止事件)は民衆の反発と権利意識を強めていた。そして経済的にも、多くの民衆は窮乏状態にあった。否定的現実のなかにおかれていた民衆は、文化的復帰論を手掛かりにしながら、そこから脱却する道を、日本復帰の方向に求めつつあった。」(79)
●経済的危機=窮乏化からの乗り越えとしての①アメリカ援助、②復帰。

・差別論の後景化(80~): ①全面否定(仲吉良光)、②階級論=軍閥政府への矮小化(瀬長亀次郎)
「51年段階の復帰論者たちにとって、差別は、すでに清算ずみの過去の問題であり、もはやとるにたらない問題だったのである。」
●表面上の言説はともかくとして、人びとの何面はどうなのか。
▼瀬長・木下順二対談『朝日ジャーナル』1967年11月19日

・講和論議と沖縄
「本土における、講和論議は、全面講和、中立、軍事基地化反対、再軍備反対を中心に展開されていた。社共両党、平和問題懇談会等の主張は、すべてこの四点に含められた。領土問題、あるいは、沖縄人民との連帯の問題は、51年の前半まではほとんどとりあげられていなかった。それでも講和会議の直前になると、この問題がようやく重要視されるようになってきた。」(87)
「一方、仲吉良光たちは、日本本土と同様に沖縄にも米軍の駐留を認めることを前提にした日本復帰をとなえていた。」(87)

■第三章 暗黒時代の闘い――52年4月~56年6月
「1952年4月28日、対日平和条約の効力が発生すると、条約第三条によって規定された沖縄の地位を前提として、アンザス、米比、米韓、米台などの軍事条約網が張りめぐらされていく。」(90)
「沖縄は、個別的軍事同盟条約のカナメとしての役割を担わされたのであった」(92)

「ダレスやニクソンの沖縄無期限保有の言明を引きついで、アイゼンハワー米大統領は、54年年頭の一般教書において、「沖縄のわれわれの基地を無期限に保持するつもりである」と述べた。[…]対日平和条約第三条によって、沖縄支配を“合法化”したアメリカは、沖縄支配の目的を国策の上でも鮮明にした。」(96)
▼平和条約第三条

1951年 日本復帰促進期成会 → 1953年1月 沖縄諸島祖国復帰期成会として再建

1952年6月 日本道路会社(清水建設の下請け会社)ストライキ: 組織的労働争議のはじまり。人権的闘争的色彩の濃さ。

1953年5月 第二回メーデー 土地と利上げ絶対反対、土地収用法の即時撤廃、植民地化教育反対、琉大学長・副学長の即時罷免、軍事基地化反対、外国軍隊の即時撤退(121)

1955年1月13日~ 朝日報道(「米軍の『沖縄民政』を衝く」ほか)
反響の声「同じ血をひく日本民族が私達と手をにぎりあって闘ってくださることを信じたからです。[…]私達沖縄の人は、同じ血をひいた日本民族であるということ[…]私達ともっともっと話し合って沖縄住民の現状をくわしく知ってもらいたいこと。」(139-140)
「朝日報道は、暗黒時代の沖縄に厚くたれこめていた暗雲を切り裂いて、閉鎖された沖縄社会にさし込んだ一条の光であった。」(140)
「沖縄島民は、われわれの同胞である。」『朝日新聞』社説「沖縄民政について訴える」1955年1月14日
●朝日報道のインパクトの大きさ。同胞意識からの島ぐるみ闘争への共鳴。

▼沖縄県学生会編1954『祖国なき沖縄』


■第四章 島ぐるみ闘争の展開とその内実――56年6月~58年後半
1956年6月 プライス勧告骨子発表。市町村住民大会。第二回住民大会(6月25日、10万人@那覇、5万人@コザ)

「いまやまったく異なった状況が生み出されていたのである。島ぐるみ闘争は、プライス勧告が四原則を否定したことに対する反発であるという意味においては、たしかに土地闘争であったし、四原則はあくまで軍用地問題に関する要求であったけれども、それは、暗黒時代に抑圧されていた人民のさまざまな怒りを吸収することによって、島ぐるみ闘争たりえたのである。」(148)
「島ぐるみ闘争の爆発とともに、一挙に表面化した注目すべきスローガンは、国土防衛論、領土権防衛論である。」(148)
1956年6月14日 土地連合会総会の決議「領土権を死守する以外に道はない」(149)
1956年6月15日 沖縄教職員会緊急理事会「寸土たりとも我国土をうばわれぬよう断固とした政策を講じてほしい」(149)
四者協日本政府宛要請電「沖縄の軍用地問題は日本の領土主権を侵し全住民の死活に関する。土地を守り国土を守るために必死の決意をもって結束している日本住民の保護は、日本政府の責任たることを銘記し、強力なる対米折衝を切望す」(150)
「国土防衛論、領土権防衛論が、一挙に表面化してきたのは、この島ぐるみ闘争が、復帰思想によって支えられていたことを示していた。」(150)
●島ぐるみ闘争において、復帰運動を背景とした、国土防衛論のせり上がり。

「島ぐるみ闘争のナショナリズムは、日本本土においても、かなりの反響をよびおこした。とくに、新聞の投書などに示された一般民衆の民族的共感は、当時(旧安保体制下)の日本の状況と即応しながら、もっとも身近なところで沖縄を受けとめていた。」(153)
→▼『沖縄問題二十年』
「島ぐるみ闘争を、もっともナショナリスティックな側面からとらえたのは、共産党であった。[…]『アカハタ』号外(56年6月30日)のトップには、「国土死守、“静かなる闘争”、燃えたぎる日本民族の心」という見出しがかかげられていた。
 だが、一般民衆の民族的共感は、政治的に有効なかたちで、組織化されたわけではなかった。奇妙なことに沖縄問題は、超党派的に取り組まなければならないということが、あらゆる政党や団体に共通の前提となっていた。なぜならば、沖縄の闘争が、島ぐるみ闘争であり、超党派的なものだったからである。」(154-155)
●本土におけるナショナリスティック/民族的共感
「島ぐるみ闘争の爆発は、爆発と同時に沖縄をこえる広がりを示した。本土民衆の沖縄によせる共感は、沖縄返還(第三条破棄)要求の運動を組織化するところまでは発展させられなかったが、それでも、全国各地で沖縄問題を中心とする大衆集会が開かれ、無数の「沖縄を守る会」が誕生したことは、それまでの日本戦後史における沖縄問題の完全な欠落との対比において注目に値する。
 これは、当時の日本が、それこそ屈辱的な不平等条約である(旧)日米安保条約やそれに付属する行政協定のもとに置かれており、そうした状況に対する反発として内灘から砂川へと発展した反米基地闘争のナショナリズムが、島ぐるみ闘争のナショナリズムと接点をもっていたからであった。瀬長那覇市長に対する米軍の不当な弾圧に抗議して、総評や全労(同盟の前身)も、量的にはわずかであったが、那覇市へ救援物資を送った。[…]このような状況のなかで、日本社会党は、不平等条約改廃運動をおこすことをきめた。」(187)
●本土の反米基地闘争のナショナリズムの高揚と、島ぐるみ闘争のナショナリズムとのつながり。
●沖縄返還要求運動の組織化には至らず。
●「沖縄を守る会」の誕生
「いくつかの反米的基地闘争を経てジラードの裁判権問題にまで発展してきた本土民衆の反米感情は、持続的な沖縄闘争へと高められることなく、在日米軍の大幅削減(地上戦闘部隊の撤退)によって鎮静化させられていったし、沖縄論議の退潮とともに、「U2(米軍偵察機)などは、沖縄へでも持っていけばよい」という発言まで聞かれるようになるのである。」(191)
●〈基地の撤去→運動の鎮静化=沖縄への意識の後景化〉という機械論的記述でよいのか。水脈として流れ続けるものはないのか。

1956年7月4日 沖縄問題解決国民総決起大会、東京日比谷野外音楽堂、80団体主催
「ある部分(共産党や全学連)は、この闘争を「国土死守、日本民族独立」のための闘争としてとらえようとしていた。ある部分(社会党など)は、基地問題一般に還元していた。ある部分(自民党など)は、この闘争を経済闘争に矮小化し、そのわくに閉じ込めるためのブレーキ役としてのみ行動した。したがって、7月4日の総決起大会の主催団体によって結成された沖縄問題解決国民運動連絡会議は、状況に臨機応変の対応をすることができず、いたずらに政府に時間をかせがせる結果となった。」(155)
●左右による島ぐるみ闘争への「応答」。保守は現状維持、革新は民族主義的闘争。

195*年7月7日 日米共同コミュニケ → 土地闘争の終止符(186)

1957年6月 岸・アイゼンハワー共同声明: 日本側の自衛隊増強、米陸上戦闘部隊の日本からの撤退をふくむ在日米地上軍の大幅削減、極東軍司令部の廃止→ハワイの太平洋地区司令部の指揮下へ
「在日米地上軍の撤退も、全面的な米本国への引き揚げを意味するのではなく、機動性をもった拠点配置を意味したのであるから、その一部は“太平洋の要石である”沖縄へ移動したのである(たとえば第三海兵師団の沖縄集中)。[…]沖縄への「本土撤兵のシワ寄せ」という印象を強めることになった。」(189)



「『醜い日本人』の告発は、ほとんど批判されない。たとえ表面的にではあっても“感動”と“ザンゲの念”をもって迎え入れられている」(346-347)
「五ヵ月たらずで、この本が八版を重ねたと書いている。つまりこの本は、沖縄について書かれた書物のうちで、唯一例外的なベストセラーであった。」(350)
「告発される「本土」も、告発する「沖縄」も、まったくのっぺらぼうで無内容な存在になってしまう。彼の告発する「本土」は権力機構でもなく、国家でもなく、階級社会でもない。そうかといって異文化圏でもなく、異民族集団でもない。[…]彼の思想と反復帰論との似て非なる点は、第一に反復帰論的思想が72年返還政策への全面対決を通して反権力志向をきわめて明瞭に示している点、第二に、「本土」および「沖縄」に実態を付与し、その意味するところを追求しようとしている点にあるといえよう。」(347)
「決してそれが「告発する相手を間違えている」からではない。ひとことでいえば、「これでは“告発”になりえていない」からである。[…]民主勢力であろうと、革新勢力であろうと、批判されるべきは批判すべきであり、告発されるべきは告発すべきなのである。告発されることによって阻害されるような連帯意識などはさっさと破壊した方がいいのだ。」(349)
「本土の評論家や進歩的文化人、あるいは革新団体の指導者たちの間では、どのようなものであれ、沖縄からの「差別の告発」は無批判に受容されるのが通例である。[…]一様に「ザンゲの念」を表明し、これに暖い「理解」と「同情」をよせるのである。そうすることによって彼らは、講和論義で沖縄を欠落させ、60年安保で沖縄を欠落させてきたばかりか、政府が沖縄返還論議をかきたてるまでほとんどこれに関心をもたなかった自分たちの責任を回避しようとする。したがって、もし批判されるべきものがあるとすれば、それは沖縄への主体的かかわりをもたないままで、一億総ザンゲ式に「差別の告発」を受け入れ、これに安易でその実不遜な「理解」や「同情」を示す意識構造そのものでなければならないはずである。」(351)
「従来、復帰論は、「差別」の問題を避けて通ってきた。[…]多くの人びとは、歴史的差別をふたたび思いおこし、差別的処遇に対するうっ屈した過剰を増大させつつあった。」(353)
●差別告発の言葉が、〈権力構造を問わない復帰要求〉となってしまっており、日米両政府の沖縄返還政策と神話的な国境の移動にしかならない、という批判。一方で反復帰論は、返還政策と対決し、「本土」や「沖縄」の実態を批判的に問うことを可能にしているという批判。差別を語る言葉が体制といかなる関係をもっているのか、という問いの重要性。→①にんげん論、②反復帰論
●一方で、図式化された差別論 資本家⇔沖縄、天皇制⇔沖縄。
●理解、同情、ザンゲという「応答」の意味を構造的に読み解く必要性
●復帰運動・思想によってうっ屈してきた被差別意識。復帰へとのめりこむのではない形での差別の問い方。

▼霜田正次「沖縄県民の意識の中の日本像」中野好夫編『沖縄問題を考える』1967
▼金城雅篤・西里喜行「「沖縄歴史」研究の現状と問題点」『歴史学研究』1970年2月
▼岡本恵徳「〈差別〉の問題を通して考える沖縄――副読本〈にんげん〉をめぐる問題」『教育評論』1971年6月

・解放読本『にんげん』(354~)
全国開放教育研究会『にんげん』で沖縄問題をとりあげようとする
 →『醜い日本人』の一部を中学生むきに書き直して収録する予定
 →沖縄県人会関係者と著者から断り
 →沖縄を訪問した中学生と教師との書簡という形式に決定
大阪府教育委員会が同和教育副読本として認定
大阪沖縄県人会の有力者が反対

・『醜い日本人』のベストセラー化と『にんげん』批判
「矛盾した行為」(岡本恵徳)
「二つの行為の間に矛盾はない」(355)
「なぜならば、『醜い日本人』がその熱烈な支持者に与えたものは一種のカタルシスにすぎなかったし、[…]「沖縄が、そして沖縄県民のみが、法制度的に本土他府県人とは差別されている事実を」問題にしていたからである。」(355)

▼大坂沖縄県人会連合会会長名のパンフレット『沖縄県人は訴える』
沖縄差別: 制度的差別
部落差別: 心情的差別

「問題は[…]沖縄差別を告発する多くの人びとの「差別」に対する姿勢なのである。」(356)

▼屋良朝苗 1970年10月22日付 大阪府教育委員会宛 「解放教育研究会編『にんげん』(中学生用)に掲載予定の『沖縄と差別』の項削除方について(要請)」(356)
・沖縄問題と部落解放問題は、種類や質がまったく別
・本土沖縄県人、大坂沖縄県人会、沖縄出身教職員からの反対意見

1971年1月23日 沖縄選出国会議員団(沖縄議員クラブ) 大阪府教育庁への使用禁止申し入れ(357)
・部落差別と異なる
・沖縄を部落や朝鮮人みたいなイメージを与える

大阪府教育委員会『にんげん』採用決定
→一部の沖縄出身者、大阪沖縄県人会の一部のメンバーによる働きかけ

・奄美出身者に対する差別(358~)
「無権利状態から一歩一歩民主的諸権利を獲得してきたとされる沖縄の大衆運動が、制度的差別下の最下層部分を無視してきたこと、沖縄差別を声高に告発する人びとが、二重差別下にある人たちの存在をおおいかくしてきたことが痛烈に指摘されるのである。」(363)

「少数者としての自己に徹し切って、差別を告発するという立場に立ちえたならば、自らの内にかかえる在沖奄美人の問題や部落問題、在日朝鮮人問題などとの関連性を追求する視角をもちえたであろう。しかし、自らに対する差別のみを多数差別者に訴え、その理解と同情を求めて問題を解決しようとするかぎり、部落問題や在日朝鮮人問題との関連性がかすんでくるばかりか、自らの内にかかえる在沖奄美出身者の問題などは意識的に隠蔽せざるをえなくなる。[…]「差別を告発し、その償いを求める復帰思想」は[…]決して解放ののろしとなりうるような質をもつものではなかった」(367-368)
●差別の構造理解の欠落?線引きがどのような構造のもとで、自ら以外の誰に対して行われているのか、という問いの欠落。
●『沖縄差別』グループの検討の必要性

・在沖奄美連合会による公民権獲得運動
・永住許可問題 cf. 入国管理・出入国管理法案問題との同時代性

▼泉有平「一万人は泣いている=奄美籍者の原稿処遇について」『月刊沖縄』1962年6月号

▼『新沖縄文学』「70年・沖縄の潮流」

・本土と沖縄とのズレ(370~)

「佐藤訪米が近づくにつれて、[…]軍事同盟の再編強化には反対だが、沖縄返還交渉には反対できない(それは沖縄に差別を押しつける本土エゴイズムにつながる)という国民的合意が確立していった。そしてこの国民的合意からはみ出した部分は、街頭闘争の強化によってその劣勢をおぎなおうとした。10・8羽田闘争のときにくらべれば、彼らの勢力は比較にならないほど増大していたけれども、権力の側の暴力的対応も、67年10月~11月とはくらべものにならないほど整備されていた。そして、国民的合意からはみ出した部分(ベ平連などの非暴力的部分も含めて)に対しては、権力の側のためらうことのない弾圧が加えられた。」(371)
「佐藤訪米阻止闘争は、とくに本土においては、突出した部分の街頭闘争として孤立化させられたがゆえにその正しさにもかかわらず敗北した。佐藤訪米阻止闘争の敗北は、2・4ゼネスト挫折の全日本的拡大であった。」(372)
●〈軍事同盟の再編強化〉と〈復帰〉を切り離す「国民的合意」が、日米両政府によってつくられていく。復帰思想・運動が骨抜きにされ、体制にとって無害なものとして吸収されていった歴史。国家の後景化。〈軍事同盟の再編強化〉と〈復帰〉とを切り離すために、差別者/差別意識が動員されているという皮肉な事態。
●〈軍事同盟の再編強化〉と〈復帰〉をつなげる運動/思想: 2・4ゼネストの乗り越えと街頭闘争。国家による暴力的な弾圧・鎮圧。国家の前景化=反復帰論的思想。
*作成:大野 光明
UP: 20120806




「琉大事件を考える(仮称)」
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小熊研究会1最終レポート
「沖縄」


http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/kenkyu/03s3/report/sugiyama.html
 

 
はじめに

 本レポートにおいては琉球処分以後の日本政府の沖縄に対する政策を概観した後、沖縄の人たちの運動や思想をまとめていく。
結論から先に言えば沖縄で行われた運動や思想はいずれも沖縄にとって利益になると考えた上でなされている。
高良倉吉でさえもそうであり、彼はただ本土の保守勢力に利用されていたに過ぎないのである。
また彼らはアイデンティティを模索していたというよりは沖縄にとってのプラスを獲得するパフォーマンスを言説から本土が振り向きそうな言葉を拾ってきて行っていたのである。
それをひとつの支配的なディスコースで行うかそうでないかが復帰論や独立論、反復帰論といった異なる形をとらせたのである。
そしてまた支配的なディスコースにおける沖縄の利益追求が裏目にでて、沖縄の中の弱者にしわ寄せがきてしまうことがあったのである。

 

日本政府の姿勢

沖縄に対する日本政府の姿勢をまとめる。
一貫して言えることは沖縄を「軍事基地」として確保することを第1目的としていたことである。
というよりそれが全てであったといえる事である。
明治から終戦までは日本軍の基地として、戦後は日米安保体制化のアメリカ軍の基地として沖縄本島確保は日本にとって重要であった。

戦前は沖縄を日本へ包摂しできるだけ日本政府への忠誠心を高くすることを政策目標とした。
ただし朝鮮の場合と異なりあまり日本政府はお金を出そうとしなかった。
当初は統治コストや差別意識から琉球処分に反対する声があったが、国防に対する拠点という意味合いから処分推進論が優勢となり、1982年10月に琉球王国を琉球藩とし、1879年には沖縄県とした。
台湾出兵とその後の日清交渉で日本が打ち出した沖縄が日本であるとする根拠が為朝渡来伝説などの歴史と言語であった。
具体的には日本政府は教育面での「日本人」化を先行し、制度面は後回しにして旧慣温存政策をとった。
その教育においては徹底的な日本人化を行った。
まず沖縄人が歴史的・民族的に日本人であるという意識を植え付け、また沖縄の「進化」した形態が「内地」であり、そうである以上、「内地」に同化することが沖縄の「進化」であるとした。
こうして沖縄の言語や日常生活のあらゆる風習を蔑視し、また沖縄人に郷土的なものに対する蔑視を生ませ、彼らに劣等感を植え付けた。
このように政府は「遅れた」沖縄を「文明化」することを強調した。
しかし「文明化」を強調しすぎると沖縄住民の憧憬や忠誠心が欧米諸国に向いてしまうためあくまで「日本化」の強調を優先した。

1945年8月に太平洋戦争が終わると沖縄は日本人であり日本人ではない存在になった。
沖縄の人々には日本人としての人権が与えられないし、また政府は沖縄に対して余りお金を出そうとしなかった。
領土としては「日本」の一部であり、国籍においても「日本人」であるのだが、日本国憲法は施行されず、参政権もなく、戸籍の移動や渡航は制限され、三権を独占した軍人総督に統治された存在であった。

 アメリカは暫定措置として規定された施政権の独占を行った。併合してしまえば沖縄住民に「アメリカ人」としての人権を与えねばならないし、信託統治の提案は国連に縛られることとなるので行わなかった。
アメリカは琉球住民の日本への帰属意識を断ち切ることにしたが、「アメリカ人」に同化する政策は行わなかった。
こうして「アメリカ」であって「アメリカ」でない土地として沖縄を統治した。

 しかしその後アメリカは沖縄統治の負担に耐えられなくなった。
沖縄の統治費用を高めた要因の一つが沖縄側の反対運動の高まりであったので、その意味で復帰運動は意味のあったものだといえる。
1972年に沖縄は日本に返還されることになるのだがそれは日米の利害が一致したからであった。
当時日本では学生運動の盛り上がりの中でナショナリズムが高揚していたので政府は沖縄返還で片をつけようとしていた。
一方アメリカにとっても施政権返還によってコストの削減を図ることは合理的であった。
費用負担はできる限り日本に負担させるのがアメリカのねらいであり、78年からは日本政府は思いやり予算を実施するようになった。
要はアメリカが沖縄統治を放棄し、それを日本が穴埋めをしたのである。先ほど復帰運動は意味のあるものであるといった。
確かにこの運動がなかったら沖縄を日本に復帰させることができなかったかもしれない。
しかし結果は当初望んでいたものとは違うものとなった。
以後日本政府は沖縄に補助金を出すことで不満をなだめることにした。

 復帰後の沖縄経済はまさに薬漬け状態であり、ザル経済であった。
沖縄開発庁が設置された。
これは名目的には復帰前に比べ存在した格差是正と自立経済育成を目的としていたが、実際に行った政策を見ていくと本当に自立経済を育成する気があったのか疑わしいものである。
主に行ったことは土木工事、イベントの誘致であった。
公共事業はほとんど本土側が受注し、沖縄の土建屋はほとんどが中小企業で下請けしかできなかった。
公共工事ではとても自立できるとはいえなかった。沖縄海洋博覧会では本土の電通等の企業が企画を引き受けていた。
また沖縄ではほとんど製造業を誘致できていない。
というのもいい土地は軍用地にとられているし、電力代が高く、輸送費の問題があるからである。
こうした点を踏まえると日本政府には沖縄を自立させることは当然なく、当然長期的な構想は持ち合わせていないといわざるを得ない。
恐らく基地の問題がなければ沖縄にお金を出すことはないだろうし、沖縄開発庁にしても基地の問題は外務省に押し付け、公共事業の取次ぎしかしなかった。
沖縄にとってはある程度お金を出してくれる以上の存在ではなかったといえる。

以下で沖縄における運動をまとめていくことになるが、この場合に注意しなければならないことがある。
それは沖縄における保守と革新という言い方である。
これは半分正しく、半分間違いである。
確かに沖縄の保守や革新は本土の保守や革新と結びついて系列化したものであった。
ただし本土側の保守や革新の通りには動いてはくれなかった。
東京から見た沖縄で基地賛成派は沖縄の保守であり、反対が革新である。
しかし実際には基地をカードに利益を引き出すのが沖縄の保守であり、基地のないしまになってほしいとするのが沖縄における革新である。
結果としてはイデオロギーの対立となるが、その要素は弱い。
土建業界の本音は基地反対運動をやってもらい、本土から補助金が下りるのを期待しているという。
要は島の利益をどういう形で表出するかの違いである。
沖縄ナショナリストとして太田朝敷や伊波普猷あるいは高良倉吉などの人物が出てくるが、沖縄にとってどうすることが利益になるのかという考え方の違いで行動が異なるのである。
本土側が振り向きそうな言葉を言説の中から拾ってきてパフォーマンスを行っているに過ぎないのである。
例えば基地と共存を唱えることが必ずしも保守を意味するわけではない。
これも半分本当で半分うそなのである。
当面状況が悪くなったから共存を唱えているだけで、状況によっては平和運動を高良倉吉でさえやるかもしれないのである。

 

独立論と復帰論

 戦後、沖縄でまず起ったのが独立論である。
これは、沖縄人は日本民族とは異なる「少数民族」であるという民族観と琉球処分は日本の侵略であったという歴史観、アメリカは民主議の本場であるというアメリカへの信頼と日本への不信感が背景にあった。
本土在住の沖縄人メディアにおいては日本への批判と「沖縄民族意識」は濃厚なものがあったという。
沖縄本島においては沖縄民主同盟が「独立共和国の樹立」を掲げた。
本土では日本共産党が党大会で「沖縄民族独立を祝うメッセージ」を発表し、社会党代表は「将来は当然沖縄民族の自決の意義を考えねばならぬ」とコメントし、朝鮮人連盟は「沖縄人は沖縄の自由な国を作ることが沖縄人民の幸福」とコメントした。
独立論は上述の日本観とアメリカ観、それらと連動した「沖縄民族観」に立ってのものであったが、次第にアメリカ支配に対する幻滅が広がるにつれて、この帰属論に揺らぎが生じることになっていった。

 続いて復帰論の説明に移りたいと思う。初期の復帰運動は保守運動としての復帰運動であった。
強固に日本との文化的一体感を強調する人々が非政治的立場から「民族的な本能」といった言葉をつかいながら日本復帰の主張した。
しかし余り盛り上がりを見せなかった。
なぜなら、沖縄の日本返還要求は、当時の本土では帝国主義的侵略と同等のものとみなされおり、また沖縄の日本復帰を支持する国際的な動きが余りなく、さらに沖縄では本土の情報が入らず、沖縄のほうがむしろ本土よりもより良い生活を送れているという情報しか得られなかったこと、40年代の沖縄のマスメディアの間では帰属問題の関心が薄かったこと[i] 、戦争による徹底的な破壊のため、衣食住などの最低限の生活すら保障されず、生きるために精一杯であったことが理由としてあげられる。

しかし、講和会議が行われるという情報が入ることによって50年代になって帰属論議が再び盛り上がりを見せるようになった。

復帰賛成派は日本との同一性を主張した。
日本と沖縄は不可分であるとして日本との同一性を主張し、また戦前の大日本帝国と民主国家日本の違いを強調し、日本に対する信頼を表明した。
この頃になるとアメリカが沖縄に強固な基地を置こうとしていることが明確になる一方で、平和憲法、民主憲法を持つ日本が独立していこうとしている現実を前に平和憲法下への復帰をという言葉が生まれてきた。またこの立場の人たちは復帰反対論と違い琉球王国に対して低い評価をしていた。
沖縄を一体のものとみなす沖縄ナショナリズムを掲げる復帰反対論に対し、沖縄内部の階級分裂を指摘することで対抗していたといえる。

復帰反対派は日本への不信とアメリカへの信頼を表明した。
日本はアメリカより貧しく、民主化の度合いも低く、経済的にも政治的にも復帰によって沖縄は得るものがない。
むしろ復帰すればアメリカから得られる恩恵が日本に奪われ、徴兵や納税の義務だけを負うことになる。
日本よりアメリカが優位にある限り、政治的にも経済的にも日本よりも自由を与え得るであろうと考えられていた。
この立場は冷戦関係化での日米関係は不変であるという観測、すなわち冷戦体制下でのアメリカに対する従属関係を前提としていた。

世論の反応は日本観とアメリカ観との組み合わせによって復帰支持と復帰反対が分かれていたが復帰反対派少数にとどまっていた。
(1951年の3月から4月にかけての青年連合会による世論調査によると、復帰86パーセント、信託統治7パーセント、独立2パーセント、その他4パーセント)

 初期に弱かった復帰論がなぜ強まったかというと、この頃の復帰論者は敗戦直後に独立論者だったものが復帰論に転換したものが多かった。
表面的には沖縄人は本来日本人であるので当然日本に復帰すべきという論調が多かったが、本質的な動機としては「日本人」であるから復帰するというよりも、「日本人」になるために支払った「過去一世紀の努力」を無駄にしたくないという感情が強くなったと考えられる。
戦前に制度としては一応の平等は達成されていたし、経済的な面から見ても、復帰すれば日本政府から援助が受けられると期待されていたし、文化的な面でも過去一世紀に払った努力は無視できないものがあった。

 いずれにしろ復帰への賛否は、日本に同化するかアメリカに同化するかの無意識の選択を前提としていた。
支配者側から「異民族視」されることへの恐怖と、そこからの脱出方法は同化であるという意識がこの復帰論には刻まれていた。
この観点から考えると同化努力の蓄積という点では日本への復帰のほうが有利と考えられていたのである。

 講和条約後から1950年代半ばの復帰運動は人権改善要求により日本の法規による保護を求めた。
具体的な要求としては労務賃金の引き上げ、団体交渉権の承認があった。
またこの頃より本土との経済格差が拡大した。
こうして復帰によって日本人になれば豊かで平和な生活が待っているという期待が年とともにどんどん強まっていった。

続いて親米反共を掲げた復帰運動が起った。
この時期の復帰運動の全てが反米反戦をうたっていたのではなく、親米反共を掲げるものも多かった。
共産主義という共通の敵を排除の対象とすることで日米の一体性を協調し、日米が一体であるとすることによって、日本への復帰が反米ではないことを示そうとしていた。
革新陣営が独立を唱えていた状況の延長上復帰論が保守の側から唱えられていたが、復帰運動をしただけで「共産主義者」とみなされ検挙されないために復帰運動が親米反共を表面上唱えていたといえる面もある。
50年代の復帰運動においては目的が沖縄の民生向上であり、復帰が実現すればとりあえず前進だから反戦などの特定の思想を掲げていないものが多かった。
しかし、アメリカは沖縄の既得権を手放したくないためこの復帰運動にも反発。
また日本政府は沖縄のためにアメリカを刺激するリスクを払う気がなく、政府の沖縄への取り組みは熱のないものであった。
こうしてアメリカ経由の親米反共の運動が明らかになった。

 さらに沖縄にとってアメリカ観が悪化する事件が起った。
以下に代表的な二つの事件を述べる。  

琉大事件

 米軍の意向を受けた琉大当局による学生処分事件。
学外で原爆展を催した、灯火管制中(防空演習)に寮でランプをつけた、無届で出版物を出した等の理由に基づく第一次琉大事件(1953年)と反米的言動を理由にする第二次琉大事件(1956年)がある

 

島ぐるみ闘争

 1956年6月、戦後初めて爆発的な勢いで燃え広がった全沖縄的規模での大衆運動。
直接的な契機は米議会に提出された調査報告書(プライス勧告)が従来の軍用政策を是認し、沖縄の長期保有を勧告したことにあった。

沖縄にとっては民生の向上が第一であり、自分達の運動が右か左かなどは二の次であった。
しかし本土の政治勢力にとって沖縄の運動が右左どちらなのかが意味を持っているので、沖縄も本土の支持を得なければならない関係上、止むを得ずその分類に当てはめる形で主張せねばならなかった。
保守は沖縄の期待に答えられないものであったし、親米反共を掲げた運動はアメリカに拒否された。
こうしたなか沖縄の期待に答え得るとされたのが革新勢力であった。
また本土においても沖縄復帰は保守ではなく革新の主張となった。

 こうして起ったのが革新ナショナリズムである。50年代から60年代にかけての沖縄の復帰運動は、沖縄を日本の一部とし、米軍によって分断された「日本人」が民族の統一によって一体となることであるとする見解が革新勢力の主張として定着していった。
そこでは本土との対立や琉球処分の侵略性を指摘することは、沖縄を「異民族視」する差別であり、アメリカ帝国に内通する「琉球独立論」であるとされた。

 続いて沖縄教職員会の国民教育運動(教職員組合が行う復帰運動)の説明に入りたい。
これは米軍の教育に対する冷淡な待遇(教員の給与や設備)に対し、状況改善のためには本土の援助に頼るしかないという発想からの復帰運動である。
つまり単純な日本への思慕による復帰運動ではなく、教育環境、共通語、「日本人意識」を「本土並み」にすることを目指す運動であった。
この運動の要因は本でへの格差意識、米軍の圧力、戦前教育の残滓、規律引き締めの意識が渾然となっていたといえる。
また日本へ対し幻想を抱き、かなり本土は美化された存在になっていた。
共通語奨励運動「方言札」の復活によって沖縄語の使用を禁止したり、児童生徒を通して各過程における「日の丸」「君が代」奨励運動を行った。
文化やアイデンティティの面で「日本人」になることを先行させることで、「日本人」としての権利を獲得することを目指していたと言える。
教員は本土との格差意識により「日本人」との同化志向を目指していたし、児童は「日本人」であろうと努力した。
オリエンタリズムの視線や差別が児童たちをいっそう「日本人」へのめりこませていった。

 

  本土の人の沖縄に対する無知

「沖縄はどこにあるのでしょうね。フィリピンの近くですか」

「沖縄の人種は本当に日本人ですか。少し違うのじゃありませんか」

「言葉はどんな言葉ですか。だいぶ中国語に似ているのじゃありませんか」

「教科書は英語ですか」

    (『婦人公論』1958年3月号)

 

「日本人」を目指した動機は児童たちが置かれた被差別状況からの脱却願望からであったといえる。
そこでは日本人=人間の尊厳、未来への希望であった。
また復帰が現実的な選択肢であるという認識がある一方「祖国」とは何かという心情の二重性があった。
こうした中「教公二法」問題が起り、自体は変化していくことになる。
これは政治活動の弾圧を意図したものであり、よって復帰運動が弾圧される怖れのあるものであった。
結局廃案になるが教職員会はこの闘争過程で沖縄保守と政党との決定的な亀裂が生じ、革新系野党人民党との共闘体制を強めることになった。

続いて日教組が沖縄国民教育運動批判を行った。
「日の丸」問題は単に戦術的に理解してやるべきだということではかたづかないもっと本質的な思想の統一性の必要があるとし教員や児童の価値観の転換を促した。

さらにベトナム戦争によって経済的利害より「平和な祖国」への期待が強まっていった。
ここにおいて「日の丸」復帰から反戦復帰へという流れが出来上がった。
「日本」や「日本人」としての象徴として「日の丸」や「君が代」に変わり「平和憲法」を掲げるが、この方針転換に対すて現場では戸惑いが生じていた。

 地区報告

 「祖国復帰のシンボルとして推奨してきた日の丸掲揚をいきなり180度転換した場合に児童の混乱が予想される」

 「日の丸=祖国日本と考えている75.6%の児童を同説得するのか」

 

本土復帰後に沖縄教職員委員会は日教組の傘下に入り、文部省の日の丸掲揚方針への反対姿勢を示す

ようになった。1980年代には「日の丸」「君が代」への抵抗が強い地域として注目されるようになっていった。

 

反復帰論

 沖縄が日本に復帰したわけではあるがそれは必ずしも沖縄の人たちの望みどおりにはならなかった。

新崎盛暉は「60年代末期になって、日米両政府が沖縄返還政策を打ち出してくる段階になってくると、僕は、いまや復帰を実現させなければならないと考えているのは、人民の側ではなく権力の側である、彼らの必要性によって、彼らの望むような形で、これまでの民衆の運動を逆手にとって復帰を実現しようとしている。したがって、これに対しては全面的な否定という話になっていく」[ii]と語っている。
当時は日米両政府の復帰プラン、革新側の反戦復帰と民族統一路線、保守系からの民族独立論が複雑に交差して存在していた。
こうした中登場したのが反復帰論である。

 従来の復帰運動を問い直す思想である。
この思想は「日本人」への包摂と排除を行いつづけた国民国家のありようそのものを問い直すものである。
また復帰を政治経済上の問題とするよりもアイデンティティ上の問題とした。
代表的論者の新川明氏は「反復帰論とは、現在この地球上を埋め尽くしている国家群のそれぞれが、国家という幻想空間の中で死守している統合の秩序に対する限りない申し立てであり、これを突き崩すための思想の営み、精神の働きである。」[iii]「分権にしろ独立にしろ、非常に狭い意味での沖縄ナショナリズムみたいな閉鎖的な生存空間、社会空間をイメージするなら、これは意味ないと思います。
これはまるで今の日本の血統主義をミニサイズにしただけの話で、そこからイメージされる国というのはミニジャパンになるだけの話です。」[iv]と述べている。

 「日本」を「国民国家」として独立させるために「日本民族」の統一を掲げ、「沖縄」を「日本人」統合させようとすること(従来の復帰論)を拒否し、また沖縄内部に存在する地域格差への自覚から沖縄ナショナリズムには複雑な姿勢を示す。
というのも単一の沖縄民族の境界をどこに引くのかという問題に直面してしまうからである。
沖縄が独立してもそれが既存のナショナリズムと国家の原理によるものであれば、排除と同化の関係を縮小再生産するに過ぎないからである。
この思想は沖縄の異族性をもって国民国家そのものの論理に対抗したといえる。
「異族」とは国家の同一性かを拒否する個人の指向を意味するものである。
すなわち、沖縄人が学術的な意味で日本民族の一員であるか否かという議論とはここにおいては無縁となる。

 反復帰論を沖縄のアイデンティティとの関係で考えてみたい。
これは政治的な現象として捉えるよりもアイデンティティ上の問題として捉えている。
日本国家を相対化するために沖縄国家を作るのであれば、結局あるナショナリズムを否定するために別のナショナリズムをもってくることに他ならず、沖縄にもとからあった文化や言語を基準に沖縄アイデンティティを創ろうとすると沖縄の範囲をどこにするのかという問題にぶつかってしまう。
そこで沖縄の「もと」の文化や言語がどうなろうと沖縄のアイデンティティは崩れることないようにする必要がる。
その意味で国家への同化を拒否する志向である異族生をもって沖縄アイデンティティを考える反復帰論は、人種とか血統で沖縄であるかという議論とは無縁になり、極端に言えば沖縄の外部にいる人にも、開放性のあるアイデンティティを創ることができる。
反復帰論は同化か自立化の二者択一の議論を強いる言説を拒否するものであるといえる。
つまり日本に同化かそれを拒否して沖縄だけで閉じるのかどちらかを選ぶという議論から抜け出すことができるのである。

 

まとめ

 琉球処分後沖縄は日本に「統合」されることになるが、「統合」とは国民的同一性の形成を要求する。
沖縄では上記の同化政策が行われ、また沖縄人の側も進んで国家に同一化することで社会的な差別や経済的貧困からの脱却を求めて日本国民化の志向を目指した。
これをささえたのが太田や伊波ら言説であった。
太田は「沖縄今日の急務は何であるかと云へば、一から十まで他府県に似せることであります。
極端にいへば、クシャミすることまで他府県の通りにすると云う事であります」[v]と述べ、沖縄が発展していくためには、結局日本に同化していくしかなく、そのために沖縄は自助努力をする必要があり、それが沖縄の生き延びる道であると主張した。
伊波は日本と沖縄の対立、沖縄内部の対立をいかに調和に導くかという観点から「日琉同祖論」を唱えた。また戦後アメリカ占領時代に米軍統治の過酷さや「平和憲法」を持つ国日本への憧憬から日本復帰運動(統合)が沸き起こった。
支配者側の都合によって「日本人」であって「日本人」でない存在とされた沖縄の人々は「日本人」との関係の中でアイデンティティを模索するのであるが、これらはいずれも沖縄の人たちが自分達のためになると思って選択したパフォーマンスであったといえる。
しかしこうした統合を選ぶことは「日本」側が設定した選択肢、すなわち日本あるいはアメリカ=強い側のディスコースの中で選択肢の選択であったといえる。
結果「日本」側の枠組みに振り回され、また裏切られることになった。
この言説内での沖縄の利益追求の負の面を負担させられたのが国民教育運動における児童であった。
反復帰論とは今までの沖縄の独立論や復帰論―同化か分離を強いた支配的なディスコースを拒否する思想であった点がその最も大きな特徴であったといえる。
近年、稲峰県政のブレーンとされる知識人らによって沖縄の自己批判がなされている。
「沖縄イニシアティブ」である。
「被害者意識」という情念からの脱却と、「基地との戦略的共存」を唱え、日本の中の沖縄の位置を認めた上で、基地との共存を認めること、日本政府との共存の中で自己決定権・自立を獲得していくことを主張した。
この主張は本土の保守系メディアからは絶賛されていた。
もちろん彼らも沖縄にとってそれがプラスになると考えての上でこのパフォーマンスを取っているのであるが、これも日本という強者の支配的ディスコースの枠内においての主張である。
得てしてこの枠内で主張していくことは沖縄の過去の歴史を見ても、プラスになるとは考えにくい。
復帰論、独立論は沖縄にとってのプラスを獲得するパフォーマンスであり、それは支配的なディスコースで行うか、あるいは日本、アメリカ、保守、革新などの別の支配的なディスコースで行うかの違いであったといえる。

反復帰論はこの支配的なディスコースを拒否する思想であり、従来の思想とは大きく性格を異にしている。
この点に従来型の思想が抱えた問題、すなわち日本側の仕組みに振り回され、裏切られる(特に沖縄社会においての弱者-本論の例で言えば児童がそれにあたるが-において顕著)という危険から逃れられるという意味で反復帰論という考え方は非常に興味深いものである。

 

著者紹介

新川明

1931年沖縄生まれ。

1955年、琉球大学文理学部国文科を中退、沖縄タイムス社に入社。同社八重山支局長、『新沖縄文学』編集長、『沖縄百科事典』編集長、編集局長、社長、会長を勤め、1995年退任。

沖縄出身の父親と本土出身の母親の間に生まれる。幼少期をかつて沖縄の偏狭として琉球王国から搾取された八重山で過ごす。

 

小熊英二

1962年東京生まれ。

1987年東京大学農学部卒業。出版社勤務を経て、98年東京大学教養学部総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了。

 

<参考文献>

新川明(2000)『沖縄・統合と反逆』筑摩書房

新川明・新崎盛暉「沖縄にとって<復帰>とはなんだったか」『世界』1985年6月号

新川明・池澤夏樹「沖縄独立の夢を語ろう」『世界』1996年8月号 岩波書店

新川明「語やびら、沖縄世」『世界』1997年9月号 岩波書店

新崎b(1996)『沖縄現代史』岩波新書

小熊英二(1998)『日本人の境界』新曜社

小熊英二 (2000)「沖縄アイデンティティの行方」『ウチナーンチュは何処へ』実践社

高良倉吉・浜下武志・我部正明「<沖縄ルネサンス>その可能性」『世界』1997年9月号

比嘉春潮・霜多正次・新里恵二(1960)『沖縄』岩波新書


[i] 日本本土との郵便取り扱い業務が始まったのは1947年6月、ただし船の往来はほとんどなく、実際には翌48年3月の航空便の取り扱い開始で初めて通信機能が復活した

[ii] 「沖縄にとって<復帰>とはなんだったのか」『世界』1985年6月号

[iii] 『沖縄統合と反逆』

[iv] 「沖縄にとって<復帰>とはなんだったのか」『世界』1985年6月号

[v] 1900年の講演

沖縄辺野古移設の埋め立て用土砂の調達候補地とされる鹿児島県奄美大島で「岩ズリ」搬出がはじまる 

 2016/01/30 地域
沖縄辺野古移設の埋め立て用土砂の調達候補地とされる鹿児島県奄美大島で「岩ズリ」搬出がはじまる 
普天間飛行場の辺野古への移設にともなう海洋の埋め立て工事に向けて、土砂の調達先として候補にあがっている鹿児島県の奄美大島で「岩ズリ」と呼ばれる土砂や岩を搬出する作業が始まった。辺野古に向かうのかどうかは確認されいないが新基地建設に反対する人たちが警戒を強めている。
沖縄県が設置した「普天間飛行場代替施設建設事業に係る公有水 面埋立承認手続に関する第三者委員会」が昨年7月に明らかにした検証報告書によると、埋め立てに使用する土砂の調達先として沖縄県外の徳之島や奄美大島、瀬戸内各地区などを挙げ、埋め立て土量2100万㎥のうち、概ね1700万㎥をそれらの地域から購入するとされていることをあらためて明らかにしている。
資料 http://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/henoko/documents/houkokusho.pdf
イ 埋立土砂の使用計画に伴う懸念

本件事業においては,埋立土量 2100 万m³のうち,概ね 1700 万m³を購入土砂でまかなうとされ(環境保全図書・2-29 頁),本件願書添付図書-10「埋立に用 いる土砂等の採取場所及び採取量を記載した図書」によれば,その大部分は, 沖縄県外の,徳之島,奄美大島,佐多岬,天草,五島,門司及び瀬戸内各地区 で採取した土砂を購入するとされる。(上記リンク報告書より引用) 

そうした中、2016年1月下旬に奄美大島大和村の岩肌から次々と岩ずりが搬出されていく様子が確認された。この岩ずりが辺野古まで運ばれていくのかはまだ確認できていないが、この作業によって周辺の河川が濁っている様子など環境への変化も見受けられる。
岩ズリの搬出先などを含め今後検証していきたい。
プロデュース :光彦牧口

「大学とジャーナリズムを問う 「琉大事件」を中心に」

自由!開放!大学2008
http://okinawaforum.org/disagreeblog/2008/10/1126.html
「大学とジャーナリズムを問う 「琉大事件」を中心に」
2008年11月26日(水)
琉球大学2限(10:20-11:50)
法文学部102教室

担当:新城郁夫「日本文学概論」
ゲスト:謝花直美・阿部小涼

えーとですね。今や大学とメディアは、崩壊寸前だと、もっぱらの評判です。あるいはもう崩壊したとも・・・。とすれば、その崩壊現象を、大学とジャーナリズムの二つを繋ぐ点で語り合うという企画があっても良いのではないでしょうか。そんななか、「沖縄タイムス」で、50年前に琉球大学が、米軍からの圧力に屈して学生達を「人柱」として差し出し「処分」したという「琉大事件」を、丹念に検証する優れた記事が連載され、たいへん注目されています。その仕掛け人・書き手は、「集団自決」報道などで素晴らしい記事を重ねて送り出している謝花直美さんです。その謝花さんをゲストに迎えて、今、大学とジャーナリズムが、自らと社会にむけて問うべきは何かを共に模索…

http://okinawaforum.org/disagreeblog/2008/10/1126.html

1953年 沖縄

やんばる・ヤマトだより 1953
http://www.geocities.jp/yanbaru_yamato/20_diary/1953.html 
01/08 那覇で第一回祖国復帰県民大会

01/10 「沖縄諸島復帰期成会」発足
教職員会、市町村長協議会、青年連合会、婦人連合会、教育後援連合会で構成。のち体育協会も加わる。
会長屋良教職員会会長、副会長には長嶺秋夫小禄村長。
「復帰運動を超党派的な民族運動として推進していくためには政党を加えない方がよい」と政党排除。

01/20 アイゼンハワー大統領就任。国務長官にダレス指名。

01/XX 清水建設本部採石場スト。

01/XX 沖縄諸島祖国復帰期生会結成。会長屋良朝苗教職員会会長。
講和条約経て復帰運動の大衆組織はしばらく存在しなかった。教職員・沖青連が運動再開の声上げる。当初政党参加を拒んだものの、奄美返還で情勢厳しさまし11月には島ぐるみに。


03/30 第1回軍用地使用料が行政府に届く

米国民政府、布令「1950年7月1日から1952年4月27日にいたるまで、米国政府によって使用された、琉球人私有地の賃貸契約の締結及び借地料の支払い履行権限」を出し、講和以前の軍用地料として約106万ドルを行政主席に送りつけ、地主に分配するよう命じた。

これによって講和以前の強制収容による軍用地の違法使用は無かったことにした。


04/03 米民政府布令第109号「土地収用令」公布・施行。
新規収用の際の賃貸借契約の交渉が難航し軍用地の強制収用を決定。
土地所有者は30日以内に土地を譲渡するかどうかを回答しなければならない。30日を過ぎると米軍は収用宣言を行うことができ、土地は米軍のものとなる、というもの。


04/10 米民政府、布令109号に基づき真和志村、銘苅、安射、平野、岡野の4集落に収用通告。
米民政府布令第110号「土地収用の補償金支払手続」を公布・施行。


04/11 沖縄本島真和志村で武装兵出動、土地を強制収用。はじめての「銃剣とブルドーザー」。


04/20 立法院、真和志村の強制収容について関係者から事情聴取。


05/01 沖縄第2回メーデー。労働組合結成準備会主催。
「外国軍隊は即時撤退せよ」
「農民の生活おびやかす土地取り上げ絶対反対」
「土地収用法を即時撤廃せよ」
「植民地化教育反対、琉球大学学長・副学長の即時罷免」(琉球大学の学生が、広島・長崎原爆展を開いたことや復帰求めるリーフレットを作成したこと、灯火管制中のランプ使用などを口実に、4人が謹慎処分を受けたことへの批判)


05/05 立法院、4月3日公布の「土地収用法」の撤廃要請を決議し民政副長官に手渡す。
「アメリカ民政府の不当なる土地買い上げの措置は、世界人権宣言及び国連憲章に明記された基本的人権を擁護すべしとの趣旨にもとるもので、1、布令91号、105号、109号110号を廃止すること 2、住民の意思に反する土地取り上げの強権発動をしないこと、3、速やかに適正妥当な賠償をすることを院の決議により要請する」


05/13 謹慎処分を受けた琉球大学の学生のメーデーでの米軍・大学批判に、ミシガンミッション(陸軍省の要請で琉球大学に教授派遣)のラッセル・ホーウッドが「大学当局と米国民政府はもっと踏み込んだ措置を取るべきだ」と米国民政府や米軍諜報部隊(CIC)、琉球大学当局に報復を進言。この後4人琉球大学の学生は退学に。この一連の出来事が第一次琉大事件と言われる。



05/27 建物の立退料を最低12000円、土地代は従来の2倍に引き上げると軍から通達。


06/18 米軍C-124、東京小平市に墜落。129名全員死亡。


07/15 米民政府、伊江島の真謝、西崎両区の明渡しを通告。
半径300フィートの地上標的造成が目的で、両集落の農地含む24万7000㎡の接収。
伊江村村長、接収中止の陳情に出かけた隙に米軍土地調査に入り、地元農民に「調査官両報告書」と偽って「立退合意書」に署名させた。


07/24 立法院 労働三法再可決。米民政府黙認。


07/27 板門店で北韓・中国と国連軍間で休戦協定締結


07/30 衆議院予算委員会で吉田茂首相と芦田元首相、保安隊の自衛軍化をめぐり論争となり、吉田茂首相、”国力の充実まで自衛軍を持たず”と言明。 このあと保守政党間で自衛隊発足への合意形成急速に進む。


08/08 講和発効後の軍用地使用料で沖縄土地委員会、立法院特別委員会、地方土地委員会連合会の合同協議。
韓米条約仮調印。


08/12 ソ連、初の水爆実験。

08/18 米民政府、布令116号、「琉球人雇用者に対する労働基準および労働関係法」公布。
基地関連事業所雇用労働者には労働三法適用されず。


09/01 沖縄で労働三法公布。


10/01 沖縄で労働三法施行。
米韓相互防衛条約調印


11/10 「沖縄諸島復帰期成会」再編され、琉球民主党、沖縄社会大衆党、琉球人民党、民主団体、経済団体、新聞社など、23団体に拡大。


11/20 ニクソン副大統領訪沖、「共産主義の脅威がある限り沖縄を保有」

12/05 沖縄本島小禄村で武装兵出動、土地を強制収用
布告第26号「軍用地における不動産の使用に対する補償」を公布し、軍用地使用の契約成立を一方的に宣言。

既に収用済みの土地に対する講和後の法的根拠。既に使用しているのだから契約は交わしていないが、暗黙の契約合意があるという「黙契」で米国が1950年7月1日にさかのぼって借地権を得たと宣言。借地料を一方的に支払って、文句があるなら金額についてのみ米軍人・軍属だけで構成される琉球列島米国土地収用委員会に提訴できる、とした。

第一次琉大事件は何年に起こったのか

第一次琉大事件は何年に起こったのか
こちらのサイトでは、1954年とされている。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000069566 

 [転記用URL] http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000069566 提供館 (Library) 琉球大学附属図書館 (3110030)
管理番号 (Control number) 琉大-2008-53 事例作成日 (Creation date) 2008.6.13
登録日時 (Registration date) 2010年07月27日 16時26分
更新日時 (Last update) 2010年07月27日 16時30分
質問 (Question) 第一次琉大事件は何年に起こったのか調べてほしい。 回答 (Answer) 1954年 回答プロセス (Answering process) ①沖縄タイムス社「沖縄大百科事典」(1983)によると1953年4月に大学側が学生に謹慎処分を命じたとある。また同年5月1日のメーデーで学生側がその処分を不当なものとして、琉大学長、副学長の免職を含む決議書を採択させたとある。 ②1953年4月の琉球新報、沖縄タイムスにはそれに当たる記事はないが、5月2日のメーデーに関する記事で、確かに学生側の要求にあたる決議書が見られる。 ③沖縄タイムス『琉球風土記』(1990)に「学生処分」の章があり、事件の展開が詳しく記述されていた。 ④以上のことを伝えた。 ⑤琉球大学『十周年記念誌』には「学生自治会」の章に記述あり(これは回答後の調査である) 事前調査事項 (Preliminary research) NDC 歴史 (2) 参考資料 (Reference materials) キーワード (Keywords) 琉大事件 学生処分 照会先 (Institution or person inquired for advice) 寄与者 (Contributor) 備考 (Notes) 調査種別 (Type of search) 内容種別 (Type of subject) 郷土 質問者区分 (Category of questioner) 社会人 登録番号 (Registration number) 1000069566 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) 解決



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大谷大学史資料室 公開講演会を開催 2008年

2008年度大学NEWS | 大谷大学 
大谷大学史資料室 公開講演会を開催 3月6日

 真宗総合研究所大谷大学史資料室では、阿部小涼氏(琉球大学法文学部准教授)を迎え、「廃墟の中の大学:沖縄戦後・反抗・アクティヴィズム」という講題で公開講演会を行いました。
 
 戦後、アメリカ軍により設置された琉球大学において起こった第一次・第二次「琉大事件」とその顛末を起点とし、大学生たちの反基地運動への関わりから現在進行中の「琉大問題」への取り組みなどを紹介しつつ、世界各地で起こる新しいアクティヴィズムに関連した講演をしていただきました。
 
 大学内外から多くの来聴者に来ていただき、閉会後も盛んに講師を交えて意見交換が行われました。
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喩の触手―戦後・沖縄詩人群像

第二次琉大事件の事が書かれているが、第一次にしても第二次にしても大学側がどう思ってるのか、そのあたりをまず知りたいという思いが私にもある。

☆中里友豪2-2
喩の触手―戦後・沖縄詩人群像
 「琉大事件」は大学側が、自分たちでどう整理するかが問われていると思う

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第1次琉大事件と“原爆の図”

丸木美術館学芸員日誌 第1次琉大事件と“原爆の図” 
   
このブログにて、偶然?みつけた原爆展を報じた新聞記事
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 1953年3月17日付『沖縄タイムス』

“原爆図”で訴う 琉大生全島廻り平和運動

“再び原爆の悲劇を繰返すな”写真の“この子の「目」を見よ”“戦争はいやだ”

 
十六日、那覇市内の辻々で琉大生活擁護委員会の学生約十名が、
プラカードをかざし、道ゆく人に呼びかけていた。

十二日から春休みになつた琉大生らがアルバイトの暇をみて
平和愛好者五十名で申合せ、一日十名ずつ、
アサヒグラフから切抜いた“原爆の図”三十点をはり出して、
かわるがわる説明に立ち
「皆で協力すれば必ず平和になれる、この図を沖縄全島の人びとに見せたいのです。私たちの運動にお力ぞえを…」
と訴え運動費を募っていた。…




 
 


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1956年「琉大事件」

1956年、これは第二次琉大事件

☆ 琉大(琉球大学)は、米軍支配下の1950年5月22日に開学され、1972年5月15日の施政権返還に伴い国立に移管された大学である。その琉大には「沖縄戦後史の暗黒時代といわれた1950年代」に起きた「琉大事件」がある…
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/246231/207416/18811784

2007年5月29日 (火)

1956年「琉大事件」

■名誉回復?

 琉大(琉球大学)は、米軍支配下の1950年5月22日に開学され、1972年5月15日の施政権返還に伴い国立に移管された大学である。その琉大には「沖縄戦後史の暗黒時代といわれた1950年代」に起きた「琉大事件」がある。この頃は米国が沖縄に恒久的な基地建設を築く政策転換をして、土地の強制接収を強圧的に押し進めた時期。それに対して沖縄では「島ぐるみ闘争」と称される大規模な反対運動が巻き起こっている。

 1956年7月、軍用地の無期限接収と地料一括払いの方針を示すプライス勧告に反対するデモに参加した琉大生のうち、反米的な言動があったとして大学側は、翌月の8月17日に、学生6人を退学、1人を謹慎処分にした。

 この「琉大事件」をめぐり、5月22日の開学57年の記念式典あいさつの中で森田孟進学長が「退学者の名誉回復」や「特別終了証書授与」などのため調査研究が必要だと明言したことが地元紙で報道された。

 <琉大事件 名誉回復へ/島ぐるみ闘争に参加 退学処分/森田学長見解 元学生に終了証書>(2007/5/22「沖縄タイムス」夕刊)。大意は、(1)処分学生の希望を聞いた上で「特別終了証書授与」か「再入学」を公式に認める考え(2)処分は琉球大学の存廃を問う当時の米国民政府によるものであり、学長、理事会、教授も苦渋の選択を迫られた。事件を琉大の歴史に正しく位置付けるための調査研究が必要―である。

 一方、「琉球新報」はさらに詳細な報道でフォローしている。<第2次琉大事件 特別終了証書を検討/森田学長 退学者名誉回復へ/学内に調査委設置も>(2007/05/22、夕刊)に続き、翌日23日の朝刊社会面トップで<第2次琉大事件 歴史の影「解明を」/当事者らの思い複雑/1次言及なく疑問の声><半世紀以上経過し…/好意の半面謝罪要求も>とレポートし、さらに25日文化面では<識者評論「琉大事件が問うもの」比屋根照夫>を掲載している。

■公表の意図は?

 もっとも今回の発言は、あくまで学長の「個人的見解」とのことわりがついている。最終的には同大の最高意思決定機関である教育研究評議会に委ねられることになるようだ。学長就任翌年の開学50周年(2000年)の際、同事件がマスコミに取り上げられたことや琉大同窓会が2005年4月に、「(処分を受けた当事者の)名誉回復のため、処分の取り消しを検討してもらいたい」と文書で要請したことを受け、言及に至ったと、森田学長はその理由を説明している。

 森田学長の就任は1999年(開学49年)で、この2007年5月で8年間の在任を終えることになる。「琉大事件」への関わりの発端はいろいろあったことが推測されるが、任期中には手を染めることができず、退任が決まった最後に「公表」する意図はなにか? その真意を私としてうまく読み取ることができなかった。

 最近、「東奔西走・編集局長インタビュー 琉球大学学長 森田孟進さん」(2007/4/22 沖縄タイムス)でも、開学記念日には言及すると明かしたうえで、「 (『第二次琉大事件』)当時の安里源秀学長を再評価する動きに対して反発もある。安里さんは亡くなるまで弁明しなかった。学生を処分しなかったら、琉大は閉鎖とか、もっと大騒ぎになっていただろう」と触れていたのを目にしていたので、「公表」に対して唐突な印象はなかった。

 森田学長は、開学記念日に「当時の安里源秀学長ら理事会が決めたことを、今の段階で私がうかつに謝ることはできない。今後、検証が進む中で大学が取るべき態度も決まってくる」と述べているが、どうにも歯切れの悪さを感じてしようがなかった。「個人的見解」と断わるのならもっと踏み込んだ思いを披瀝してもよかったのではないだろうか。

 歴代の学長が踏み込めなかった事案に手を付けた、ことをまず評価すべきなのか。それとも、新学長への優先的課題引き継ぎとしての「しばり」の意が込められているのか、その成果については、「長い目」で見続けることしかないのだろう。

■退学処分へ

 当時の「退学処分」にいたる道筋は苦渋が読み取れる。以下、時系列に挙げてみる。

・7月28日 四原則貫徹県民大会

・8月 7日、米三軍、本島中部一帯への無期限オフリミッツ発表

・8月 8日、中部地区琉大、帰省学生土地問題解決促進大会(デモ中止)

・8月 9日、琉大基金財団、琉大に財政援助打ち切りを通告

・8月10日、琉大、「謹慎処分」決定を報告
 「琉大財団」と「琉大理事会」の9時間にも及ぶ会議が続くが、琉大理事会側は、退学処分を拒否し、妥協案として謹慎処分にいたりつく。しかし、その報告をバージャー民政官は一蹴し、「断固たる処分」を要求。琉大が将来の沖縄に悪影響を及ぼす人々の温床となるならば「琉大を廃止する」と通告してきた。
 琉大は、8月12日、14日の緊急評議会会議でも「学生から犠牲者を出したくないという方針」を崩していない。そこに、翌15日、16日に台風「バブズ」襲来。

・8月17日 6人の「退学処分」と1人の謹慎を決定
 台風一過の17日、午前10時から理事会、学長、副学長、評議員で会議し、6人の退学処分と1人の謹慎を決定。午後、民政官に報告。除籍処分は古我地勇、喜舎場朝順、嶺井政和、豊川善一、与那覇佳弘、神田良政、謹慎処分に具志和子。理事長の前上門は「万一、廃校となれば、多くの子弟の大学進学への道がふさがれる結果になり、この点深く憂慮する。また、安里学長は「大学を存続し将来の発展を図るために」学生を処分したと述べている。

 その後、撤回闘争が取り組まれるものの、学生運動の幹部が集中的にやられたこと、さらに夏休み期間であったこと、学内では許可なき集会が一切禁じられたことなどもあって次第に撤回闘争は下火になっていった。

 琉大当局は、処分後に処分学生の救済に自ら奔走する。仲宗根政善(副学長)や中山盛茂(教務部長)らは、沖縄出身の当時早稲田大学学長だった大浜信泉の尽力などを求め、学生の受け入れに駈けずりまわることになる。その結果、日大=古我地勇、嶺井政和、喜舎場朝順、同志社=神田良政、立命館=与那覇佳弘、琉大=豊川善一(復学)が決まる。

■公開されるべきこと

 さて、「退学者の名誉回復」については、ジャーナリストの新川明が言うように「名誉回復的なことよりも先に、琉大として彼らに対して謝罪があってしかるべきだ」し、「『特別終了証書』の授与などでは琉大の歴史の汚点はぬぎい去れない。逆に、彼らにとっては処分が勲章のようなものだ」という考えに尽きるだろう。

 米軍支配下の理不尽としか言いようがない出来事に巻き込まれ、「処分」を刻印された同時代の7人。愛憎と諦念と自負を繰り返しながら70代にいたる人生の軌跡。狭い沖縄で、時には直接、その肉声に接したこともあった。誰も彼らの人生を体験することはできないが、いまだに続いているであろう愛憎をもし聴けるのなら静かに聴きとどけたい思いは強まる一方だ。

 「琉大事件」にあらましについて、現段階で比較的入手しやすい、まとまったものといえば、以下のものが挙げられる。
 (1)『琉大風土記 開学40年の足跡』(沖縄タイムス社 1990年6月20日)
 (2)私記「琉大が燃えた日」(http://w1.nirai.ne.jp/nyanko/father.html)=処分された一人(嶺井政和)が綴った記録。
 (3)「ミード報告」を読む 第2次琉大事件から60年(2006/9/27~2006/10/25 琉球新報5回連載)。

 琉大の苦渋に満ちた「汚点」は公開されなければ、教訓は導きだせないだろう。そういう意味で、穏便策を捨て「処分」に転換した8月17日の会議(理事会、学長、副学長、評議員)の議事録は、ぜひとも公開する必要があると思っている。「8月17日午前」の会議でどんなやりとりがあり、「苦渋の決断」に至ったのか。これまで関係者の声は明らかにされていない。

 「ミード報告書」には「(学生処分を決定した)報告書は受理されました。実際、理事会と学長には、報告書を提出するか、あるいはさもなければ辞任するということ以外に、選択肢はなかったのです」という記述が見られた。はたして、言うように「それ以外の選択肢」はなかったのだろうか。当初、職を辞しても、退学処分は阻止したい思いを語っていた安里学長の心中は…。そうした内部のやり取りがが見えないまま、半世紀が過ぎたことになる。=文中敬称略(2007/05/29)

2007年5月29日 (火)

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沖縄支部・琉大分会 被爆・敗戦70年の夏に考える企画

沖縄支部・琉大分会 被爆・敗戦70年の夏に考える企画


堺 英二郎さん(前琉球大学理学部・物理学) 琉球大学における平和教育の軌跡と意義 『核の科学』30年の実践を振り返って 講演者から: 『核の科学』は核問題を中心とする総合的な平和教育であり,その内容は,核反応,放射線,原子力発電など自然科学的基礎から,核兵器,基地 や世界戦略体勢など軍事論,平和と憲法など社会科学的論考,ヒロシマ・ナガサキ,オキナワなどの歴史,さらには,平和運動論まで広範にわたっています.真に平和な沖縄,日本,世界を実現したいと願う多くの担当教員の熱意に支えられて,1984年度に開設して以来現在まで継続しており,今年度までの受講者数は2800名以上になります.講演では,30年間にわたる『核の科学』の実践の歴史と成果について報告する予定です.(さかい えいじろう) * どなたでもご参加になれます。入場・資料は無料です。お誘い合わせの上お越し下さい。 * 終了後、学内にて懇親会を行います(一般2千円程度・学生無料)。ご参加ください。 開催趣旨  沖縄は、核兵器の歴史と深い関係を持っています。沖縄戦によって建設された米軍基地は本土空襲の拠点となり、長崎に原爆を投下したB29爆撃機は、出撃したテニアン島に戻れず、沖縄に帰投しています。戦後、"The Keystone oh the Pacific"として基地の整備拡張がなされた沖縄は、核兵器と毒ガス兵器の大量配備をもって、冷戦態勢の最前線基地として「完成」を見ます。  沖縄の復帰運動は、「核抜き・本土並み」をめざし、安保条約ではなく平和憲法をもつ日本だからこそ進められました。しかし、今、新基地建設で焦点となっている辺野古の弾薬庫には復帰後も核弾頭が置かれていたとされます。ホワイトビーチは今なお日本で三ヵ所だけの、米軍の原子力推進艦の基地です。同基地が支援する攻撃型原潜部隊は、核巡航ミサイル攻撃の任務を担ってきました。  米軍占領下の沖縄では、原爆被爆者やビキニなどの核実験被爆者援護が十分に行えませんでした。また、琉大では、本土で初めて発刊された原爆被害の写真集を入手した学生が、これを知らせようと学外で原爆展を開いたことなどを理由に、学生の退学処分を行った(「第一次琉大事件」)痛苦の歴史を持っています。  こうした沖縄に設置された総合大学たる琉大で、平和教育を、核についての教育を行おうと、JSAのメンバーをはじめ有志教員が集まって勉強会を重ね、教材を自ら整えて共通教育科目「核の科学」は始まりました。いま、その実践は30年を超え、プレテスト・ポストテストの学生の解答資料の蓄積は膨大なものとなっています。この貴重な成果や経験について、その中心メンバーであった堺英二郎さんにお話し頂きます。  堺さんは、今春、琉大を定年退職され、現在福岡県在住。今回「核の科学」担当の非常勤講師として帰沖しました。退職当時から、「最終講義の代わりに話したい」と希望されていた講演です。皆さまご来聴下さい。 日本科学者会議(JSA)沖縄支部 okinawaあっとjsa.gr.jp 事務局:〒903-0213 琉大農学部森林保護研究室気付Tel./Fax.098-895-8794
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活動日誌blog 琉球大学教授職員会Web

第1次琉大事件から60年 | 活動日誌@琉球大学教授職員会

1953年3月、「冷戦」が熱戦だった沖縄で、
朝鮮戦争の影響に名を借りた「灯火管制」を強いた米軍に対して、
琉球大学の学生寮でランプの灯りをともして
抵抗の意思を表明した学生たちがいました。
占領軍である米軍が布令によって設置した大学、
戦火で焼け野原となった首里城趾に建設された大学でのこと…


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沖縄と京都―先駆的だった原爆展をつなぎ合わせて考える

「沖縄と京都―先駆的だった原爆展をつなぎ合わせて考える」
http://homepage2.nifty.com/hikaku-kyoto/press_check_9.html


沖縄と京都―先駆的だった原爆展をつなぎ合わせて考える 
PDFファイル
 非核の政府を求める京都の会HP用
コラム「核・憲法・メディア」 沖縄と京都―先駆的だった原爆展をつなぎ合わせて考える
<はじめに> 2010年春、琉球大学教授職員会・大学人九条の会沖縄編「琉大事件とは何だったのか」が刊行され た…

21470590


BOOKS Mangroove
「琉大事件とは何だったのか」






終わっていない過去


沖縄は

1950年に起こった朝鮮戦争で、

最前線基地になった。


トルーマン米国大統領が

朝鮮戦争の始まった直後、

記者会見で

「原爆使用もありうる」と

発言し、

広大な米軍基地を

抱える沖縄の人達は、

核戦争に巻き込まれる

危険性を身近に…


朝鮮戦争、今も休戦中





1953年(昭和28年)、

当時米軍の支配下にあった沖縄で

学生の「原爆展」開催を理由に

4人を退学処分にするなど 

若者たちの平和への叫びを

封じようとしたのが琉大事件



朝鮮戦争下で原爆展

『琉大事件とは何だったのか』

21470590 

















HP「琉大事件を考える(仮称)」
https://himawari0007.amebaownd.com/ 
 




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https://ameblo.jp/himawarimusume007
 

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