「琉大事件」を考える(仮称)

~琉大事件に関する情報を集めています~

1953年、米軍の支配下にあった沖縄で、
学生の「原爆展」開催を理由に 4人を退学処分にするなど 
若者たちの平和への叫びを封じようとしたのが「琉大事件」

朝鮮戦争下で原爆展 『琉大事件とは何だったのか』

新聞記事

世界終末時計の針が30秒進み、世界の終わりまであと残り2分に

世界終末時計の針が30秒進み、世界の終わりまであと残り2分に
2018.01.26 20:00
https://www.gizmodo.jp/2018/01/doomsday-clock2018-2min.html

人類滅亡まで残り2分。

世界終末時計」ってご存知でしょうか。地球滅亡の時間を午前0時として、地球最後までの時間を示す時計なんですが、今朝30秒針が進められて、残り2分になってしまいました。かつてアメリカとソビエト両国が水素爆弾の実験をした1953年に針が進められて、今回と同じ残り2分まで迫ったことがありますが、それ以来の人類滅亡ギリギリタイムです。

世界終末時計は、アメリカの科学誌「The Bulletin of the Atomic Scientists 」が1947年に核戦争の脅威を警告するために作ったもの。針は情勢によって進んだり、戻ったりします。去年も残り3分だったのが針が進み、地球滅亡まで2.5分になったんです。これまでで世界滅亡まで1番時間があったのは1991年。冷戦の終わりで17分も針が戻されました。なのに、2018年は1953年にならんで世界滅亡まで最短時間記録です。かなりやばいですね。

The Bulletin of the Atomic Scientists誌のLawrence Krauss議長によると、何人かの専門家と話した結果、2018年は冷戦の時よりも危険な状態であるとのこと。「危険とその即時性を過小評価することは悲惨な核の状況を生むことになる。北朝鮮の核兵器計画は2017年に現れ、その周辺の国やアメリカへのリスクを高め続けている。」とKrauss議長はワシントンポスト紙に話しています。

今回針が30秒進んだ理由としては、トランプ大統領のツイート、ロシアに対するアメリカの核の姿勢、北朝鮮、イランなどの核兵器問題などが挙げられています。核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のBeatrice Fihn氏は「意図するのもしないものも、とにかくこれまではラッキーでやってこられました。ハワイでの弾道ミサイルが発射されたとする避難警報もありましたし、日本は早く行動しないとそのラッキーも尽きてしまうと考えていますしね。」と話しています。

また「ラッキーだったとか運任せなセキュリティは本当に馬鹿げていると思います。それがまさに現在の核の状況。122カ国が核兵器禁止条約に賛成していますが、他の国も核兵器禁止条約に参加して世界終末時計の存在自体を終わらせなくてはいけません。」とFihn氏。

核兵器は時計を進める主役となっていますが、実は核の問題ばっかりではないんです。Krauss議長は「時計はひとつの出来事によって動くわけではありません。核を取り巻く状況すべてが強い懸念となっているのです。」と説明。 2007年に核以外に針を動かす要因を機械化から気候変動までじっくり調査した所、気候変動のリスクは核兵器の問題に比べてやや危険の緊急性が低いように見るけれど、壊滅的な温度の上昇は長い目で見ると、いま行動を起こさなくてはいけないとわかったとKrauss氏は話しています。「各国々がパリ協定に書かれている条件を満たすには、温室効果ガスを劇的に減らしていかなければいけません。今の所、温室効果ガスを減らすことがうまくできていない状況なのです。」と。

前途したように、去年も時計の針が30秒進んで残り3分から2.5分になってしまったのですが、トランプ大統領が核廃絶、気候変動対策に対して消極的な発言をしたことが大きかったようです。時計の針が進むか戻るかは大国アメリカの挙動にかかっているところが大きいのがよくわかります。

トランプさん...あんまり針進めないでね。

Source: Washington Post


Matt Novak - Gizmodo US[原文
(岩田リョウコ)


「沖縄の核」真実伝えよ ゴルバチョフ氏、沖縄県民にメッセージ 反基地の闘い支持

「沖縄の核」真実伝えよ ゴルバチョフ氏、沖縄県民にメッセージ 反基地の闘い支持
2018年1月31日 07:15 琉球新報

「沖縄の核」真実伝えよ ゴルバチョフ氏、沖縄県民にメッセージ 反基地の闘い支持

2018年1月31日 07:15



東西冷戦終結の立役者で、ノーベル平和賞を受賞したミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領(86)は、核兵器の脅威が高まっている現状への懸念から、琉球新報を通して県民にメッセージを送った。「核兵器は現在もなお、沖縄に保管されているかもしれない」と危惧を示した上で「この問題は県民に真実を公開する必要がある」と指摘した。ゴルバチョフ氏は「沖縄での軍事基地拡大に対する県民の闘いを支持する」と強調し、「沖縄は軍事基地の島ではなく、沖縄の人々の島であり続けなければならない」と、自己決定権の行使を求めた。


 ゴルバチョフ氏はNHKが昨年放送した番組「NHKスペシャル 沖縄と核」で「冷戦時代、沖縄に多数配備されていた核兵器に関する情報を知った」とし、現在も沖縄に核が配備されている可能性を危惧した。

 ゴルバチョフ氏は85年の米ソ首脳会談で「核戦争は一切起こしてはならない」などとする共同宣言をレーガン米大統領と発表するなど核軍縮に積極的に取り組んできたことを強調した。その上で「沖縄での軍事基地拡大に対する県民の闘いを支持する」と、名護市辺野古の新基地建設反対運動にエールを送った。


沖縄を「世界に類を見ない豊かな自然と独特な文化がある」とし、沖縄の将来像について「世界の人々が行き交うターミナル」として「平和的な発展を目指すべきだ」と強調した。

 関係者によると、ゴルバチョフ氏は3度の沖縄訪問で「海岸の美しさに驚嘆した」と語り、「自己決定権」という言葉を使って「こんな恵まれた環境下にありながら、沖縄人がその特性に気付かず、自らが豊かな明日への十分な可能性を閉ざしているとしたら、極めて残念なことだ。次世代の子どもたちのためにも、平和で豊かな発展は、沖縄人の手の内にあることを、もう一度考えてほしい」と述べ、自己決定権の行使を求めたという。


■メッセージ要旨■


ゴルバチョフ氏が県民に送ったメッセージ文書


 冷戦時代、沖縄に多数配備されていた核兵器に関する情報が、NHKの番組などで明らかになったと知った。と同時に、現在もなお、沖縄に保管されているかもしれないという危惧で私は心を痛めている。この問題は、県民に真実を公開する必要がある。

 私は核兵器の削減や最終目標としての核兵器の完全撤廃、国際問題に軍事力を使用しないという点を主張してきた。この観点から、沖縄での軍事基地拡大に対する県民の闘いを支持してきたし、今後も支持する。

 沖縄は、世界に類を見ない豊かな自然と独特な文化がある。軍事基地の島ではなく、沖縄の人々の島であり続けなければならない

沖縄は世界の人々、文化、貿易が行き交うターミナルとしての環境が整っている。将来の世代のためにも、この豊かな環境を活用し、平和的な発展を目指されることを切に願う。


~琉球新報~



【沖縄県民大会】「事件を政治利用するな!」…事件への怒りは当然だが、「オール沖縄」に違和感も

http://www.sankei.com/west/news/160619/wst1606190044-n2.html


産経WEST

2016.6.20 05:00



沖縄県うるま市の女性会社員(20)が元米海兵隊員の男に暴行、殺害された事件を受け、那覇市で19日、事件への抗議や米海兵隊撤退を求める県民大会が開かれた。共産党や社民党、労働組合などでつくる「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」の主催で、会場は抗議の声であふれた。一方、参院選公示を3日後に控えての大会開催に、会場外では「事件を政治利用するな」との批判も根強い。自民党、公明党の議員や、県内11市のうち9市長は参加しておらず、どこまで“オール沖縄”の民意なのか、といった声も上がっている。

「一部議員の不参加、腹が立つ」

 暑い日差しの中、大会は那覇市の奥武山公園陸上競技場で午後2時から約1時間半にわたって行われた。翁長雄志(おなが・たけし)知事は「二度とこのような事件を繰り返さないと誓いながら、政治の仕組みを変えられなかったことは痛恨の極み」とあいさつ。

 主催者が「県民の人権と命を守るためには、米軍基地の大幅な整理・縮小、なかでも海兵隊の撤退は急務だ」と提案した決議が、参加者の拍手で採択された。

 大会に参加した那覇市内の無職男性(75)は「痛ましい事件が二度と起きないよう、全ての米軍基地撤去を求めるのは当然。政治方針の違いなどつまらない理由で一部の議員が大会に参加していないことに腹が立つ」と話した。 

 一方、会場の外では、大会を冷めた目で見る県民も少なくない。



「実のある抗議になるのか」

「超党派でない大会に何の意味があるのか」と語るのは、21年前の米兵少女暴行事件を受けた県民総決起大会で、当時県議会議長として実行委員長を務めた元衆院議員、嘉数知賢(かかず・ちけん)さん(75)。党派や思想を超えた当時に比べ、自公の議員や県内11市中9市長が参加しない今回は「違和感がぬぐえない。これでは本当に実のある抗議にはならない」と疑問を呈す。

 政府が米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設を目指す同県名護市辺野古の青年会長、徳田真一さん(31)は「もう米軍を辞めた男の犯行。当然、人として怒りは覚えるが、事件を米軍基地の必要性につなげる意味が分からない」と話した。

基地前で謝る米兵の姿

 辺野古では米軍基地前の歩道を基地反対派のテントが占拠。関係ない「原発反対」の旗を掲げたり、「お前らのためにやっている」と押しつけがましく言われることもある。「地域住民の多くが、反対派は自分たちの都合しか考えないイメージを持っている。今回も選挙前だから開いたのではと勘ぐってしまう」。

 同県北谷町で、逮捕された米軍属が所属していた米軍嘉手納基地の近くに住むアルバイトの女性(18)は、事件後、多くの米兵が基地前で謝っている姿を見た。

 「そんな姿には目もくれず、海兵隊撤退を求める大会は一方的。基地問題への意見は人それぞれあるのは当然で、あたかも全県民が撤去を望んでいるかのように言うのは間違い」と話した。


TOPICS:Special Feature: Okinawa holds mass protest rally against US base

Documents exposing regulation of Okinawa’s free speech under US administration found
http://english.ryukyushimpo.jp/2016/01/06/24262/
e791cd137ca010dbe95da4afc04c8b75






















December 31, 2015 Ryukyu Shimpo by Mamoru Yasuda

As of December 30, a large quantity of documentation from the Government of the Ryukyu Islands regarding the regulation of freedom of speech under U.S. administration was discovered. These were documents handled by the Ryukyu government between January 1953 and June 1956, including applications to publish writings, official documents within the Ryukyu government, English-written letters of inquiry to the U.S. Civil Administration of the Ryukyu Islands (USCAR), and notices of authorization or lack thereof. Instead of being held at the Okinawa Prefectural Archives, the documents were preserved in an Okinawan household.

Official documents relating to publications were filed in volumes sorted by year. The years 1953 and 1954 each amounted to three volumes, 1955 was contained in two, and January through June of 1956 made up three volumes. There were eleven volumes consisting of 3,900 pages in total. These were designated as documents for permanent preservation within the secretarial division of the Government of the Ryukyu Islands.

Among the applications to publish were those for a political bulletin titled Jinmin (The People) written by politician Kamejiro Senaga of the local political party Okinawa Jinminto, and Kyoiku Shimbun (The Education Newspaper) proposed by Chobyo Yara, who would become chief executive of the Government of the Ryukyu Islands in 1968. There were even applications for school-specific writings such as literature written by students of University of the Ryukyus, reports of study abroad experiences in the U.S., Ryukyuan poetry, and high school literary magazines and newspapers.

When considering these applications, the Government of the Ryukyu Islands would repeatedly request investigations and records thereof from the Ryukyu police (formed under the Ryukyu government) about any applicant’s ideological tendencies, political affiliations, living arrangements, and personal relationships.

Aside from applications to publish, there were many other types of documents found. Applications to continue publishing periodicals, reports of discontinuing publications, and notifications of name alterations of publishers were also included. In addition there were directives to investigate for publication purposes handled by officials of the Government of the Ryukyu Islands in regional branch offices, notices of new proclamations, and other official documents and letters exchanged between administrative organs.

The numbers of confirmed applications and directives were 96 in 1953, 61 in 1954, 103 in 1955, and 75 in 1956 for a total of 335 documents. This includes not only publications that were authorized, but also applications that were not authorized or rejected.

In October 1953 the USCAR reevaluated all periodicals that had already been authorized for publication, and required each newspaper company or publisher to submit data and materials related to management of the operation, in addition to an application for continued publication. For one, the Ryukyu Shimpo submitted a register of all employees’ names.
At the time, the Government of the Ryukyu Islands was recognized by USCAR. Even if the Ryukyu government considered a publication allowable, however, if the USCAR did not, conditions would be added before authorization would be granted.

The discovered documents are suspected to have been stored at Okinawa Prefectural Government Headquarters. However, following Okinawa’s reversion to Japan, during the reconstruction of the Headquarters in the 1980s, these documents were probably removed to avoid damage dealt by demolition of old structures and not returned.

Naoki Monna, emeritus professor at Rikkyo University, has detailed knowledge of the regulation of freedom of speech under U.S. administration. While he was a graduate student in February 1966, he examined a portion of these documents himself, which were in storage at the Government of the Ryukyu Islands. He noted his surprise at the recent discovery of the documents, and mentioned that they reveal the fact that the U.S. military administration denied freedom of expression and speech that are fundamental human rights for Okinawans.

(English translation by T&CT and Erin Jones)

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<社説>USCAR文書 米統治の無謀明らかにした

ryukyu-logo
http://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-466903.html
<社説>
USCAR文書 米統治の無謀明らかにした
2017年3月25日 06:01
米統治時代の新事実が明らかになった。米軍の圧政による人権や自治の侵害と民衆の抵抗の歴史は沖縄の未来の指標となる。歴史発掘の作業を今後も進めたい。

 沖縄県公文書館が米国民政府(USCAR)文書の一部を公開した。この中に、「反米的」な政治家を排除するための司法介入を指示する文書があった。

 人民党の瀬長亀次郎氏が1965年11月の第7回立法院選挙での失格を不服として琉球政府の裁判所に提訴した場合、USCAR法務局は「即USCARの裁判所に移送するように」と指示していた。

 瀬長氏は62年の第6回立法院選でも「人民党事件」(54年)を理由に失格し、被選挙権を奪われていた。瀬長氏は第7回立法院選を「公民権奪還の闘い」と位置付けていた。米統治に抵抗する瀬長氏を排除するため、司法介入に踏み込む米軍の強権的な手法が今回の公開文書でも明確に示された。

 事実、第7回立法院選で布令違反を理由に失格となった社大党の友利隆彪氏が起こした裁判で、USCARは裁判の移送を命じた。米軍は沖縄の司法権、自治権を根底から侵害したのだ。

 司法の独立を無視し、都合の悪い人物が起こした裁判に介入する無謀な行為は当時の米本国でも許されなかったではないか。そうならば明らかに二重基準である。

 人権や生命の安全に関する二重基準は、危険を顧みずに住宅地周辺で訓練を強行する今日の米軍やそれを容認する日本政府の姿勢に引き継がれている。県民を愚弄(ぐろう)し、生命を脅かす二重基準の矛盾がUSCAR文書に記録されているのである。

 今回の公開文書は沖縄の抵抗が米統治を揺るがしていた事実も明らかにした。松岡政保主席が「キャラウェイ高等弁務官に対する県民の怒りを鎮めるため、琉球政府に徐々に行政を移管した方がいい」と後任のワトソン高等弁務官に進言していた。

 主席公選要求に象徴される自治権獲得のうねりは米施政の変更を迫っていた。その意義を沖縄戦後史の中に位置付けたい。

 今回のUSCAR公開は2008年度以来、8年ぶりだ。個人情報に関する部分が多いため公開に時間を要した。米統治の暗部に光を当てる重要な仕事である。予算措置、人材確保など資料収集と公開の態勢強化を図りたい。



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「大学に通えるなんて」 1期生の瑞慶覧さん、開学当時を振り返る

1950年代前半の出来事の記載はない。


 大学倶楽部・琉球大

「大学に通えるなんて」 1期生の瑞慶覧さん、開学当時を振り返る

2016年6月9日
学生時代のアルバムを見つめる瑞慶覧長方さん
開学当時の学生便覧の表紙
 6(1) 7

「本大学は日本のものでもなく、米国のものでもない」という一文で始まる便覧の序文
 沖縄戦で焼け落ちた首里城跡(那覇市)で琉球大の建設が始まったのは、1945年6月23日の沖縄戦終結から4年がたった49年6月8日だった。開学は翌年5月。戦前、沖縄には高等教育機関がなく、1期生562人の一人で、後に沖縄のサボテン研究の第一人者となった瑞慶覧長方(ずけらんちょうほう)さん(84)は「大学に通えるなんて思いもしなかった」と感慨に浸った。

 沖縄本島南部の大里村(現南城市)の農家に生まれた。父は生真面目で農業一筋だったが、読み書きができたため「社会主義の本を読んでいる」と警察にあらぬ誤解をかけられ、44年、海に身を投げて自殺した。

 翌年4月、米軍が本島に上陸し、母と姉弟と4人で壕(ごう)を転々とした。ある朝、地元の男性が米軍の指示で投降を呼びかけると、近くの岩陰から日本兵が躍り出て「スパイ野郎! 売国奴!」と日本刀で首を切った。米軍が一斉に火炎放射器を向ける中、何とか逃げ延びて捕虜になった。

 沖縄戦では住民の4人に1人が亡くなった。校舎も教科書も焼け、進路を失って自暴自棄になる生徒も多かった。「新沖縄の建設はまず人材の育成から始めなくてはならぬ」。琉球大によると、ハワイの沖縄系移民が47年に地元紙で大学設立案を発表し、沖縄でも教員や高校生らが当時沖縄を統治していた米軍政府に大学設立を求めた。「祖先が築いた政治文化の中心を大学のために使おう」と沖縄側の要望を受け、敷地が首里城跡に決まった。

 開学当初、教室には机も椅子もなく、学生らはコンクリートの床に新聞紙を敷いて授業を受けた。教科書の代わりは教授手製のプリント。瑞慶覧さんは学内の壊れた石垣修理や雑草取りで学費を免除され、百貨店の夜警や港の荷役などあらゆるアルバイトで生計を立てた。米軍払い下げのかまぼこ型兵舎を寄宿舎とし、野戦用の折り畳みベッドで眠った。

 当時の学生便覧は「本大学は日本のものでもなく、米国のものでもない。これはその創立者たちが勉学せんとする者の要望を満たし、かつ琉球諸島の人々の役に立つ学府に成長するようにと念じて創設されたものである」と記した。反米運動で学生が退学処分になるなど、米軍による厳しい統制下にあったが、それでも「学び、知る喜びには代え難かった」と瑞慶覧さんは振り返る。
5

 72年の本土復帰に伴い、琉球大は国立大学になった。西原町に移転した学内には今も、開学当時に時鐘として打ち鳴らしていた米軍の使用済みガスボンベがひっそりと飾られている。復帰後、地域政党・沖縄社会大衆党の県議になり、同党委員長も務めた瑞慶覧さんは現代の学生に言いたい。「平和な時代だからこそ真実を追い求める努力を忘れないでほしい」。あの苛烈な地上戦を生き残った一人として、強く願う。【川上珠実

『奄美の奇跡』 言葉の運動、復帰実現

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『奄美の奇跡』 言葉の運動、復帰実現
2015年9月20日 09:09
奄美群島といえば田中一村、島尾敏雄の2人の名が浮かんでくるだけであったものが、本書により中村安太郎、泉芳朗、昇曙夢、村山家国らの優れた人物の存在を知り、敗戦後、米軍政下に置かれた奄美が、いかに過酷な状況であったかも知った。

 島外に出た者の送金で成り立っていた奄美の経済は、焼け跡の中、海外からの5万人の引き揚げ者を抱え、ソテツを食べ、マッチが貴重品、チョークも教科書も鉛筆もなく、小学生もアメ売りで金稼ぎするありさま。
 しかも軍政は厳しく、1947年に就任したラブリー軍政官は集会・言論・出版・信教・平和的結社・労働組合の自由などの一切に停止指令を出す。
 だが、それにもめげず、人々は、特に若い人々は、生き生きと「中村学校」で学び、「世の中は変えられる、知性的たれ」のメッセージに応え、復帰運動へと立ち上がっていき、あまたの困難を乗り越えて、53年12月、復帰を実現させる(それは沖縄と奄美が切り離された日でもあったが)。その復帰運動は、非暴力で子どもたちまでが参加した島ぐるみの署名運動・断食闘争であり、かつ、著者も述べているように「奄美の奇跡は社会運動であるとともに、言葉の運動であった」ユニークさ。
 だいたい奄美大島日本復帰協議会議長に推された泉芳朗からして教師であり詩人であった。断食闘争最終日の「挨拶」には、あいさつでなく自作の詩を朗読している。
 「よしや骨肉ここに枯れ果つるとも/八月の太陽は/燦として今天井にある/されば膝を曲げ頭を垂れて/奮然五体の祈りをこめよう/祖国帰心/五臓六腑の矢を放とう」(「断食祈願」部分)
 集いも秘密裡に開くしかないなか、若者たちにとって「詩は自己を表現するための大切な武器」であったのだ。
 安倍政権下、奄美でも自衛隊のミサイル計画が反対運動を押しのけて進み、日本国全体が戦争前夜の様相を呈している今「世の中は変えられる…」のメッセージがとりわけ胸に響く。(石川逸子・詩人)
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 ながた・こうぞう 1954年、大阪生まれ。東北大学卒。77年、NHK入社。ドキュメンタリー、教養番組に携わり、ディレクターとしてNHK特集や「NHKスペシャル」などを制作してきた。現在、武蔵大学教授

沖縄タイムス1953年

私が持っている資料のタイトル



『沖縄タイムス』

1953年5月5日朝刊 火曜日 一面
社説 琉大副学長の罷免問題


1953年5月7日朝刊 木曜日 一面
社説 大学法の立法をのぞむ


1953年5月12日朝刊 火曜日 一面
社説 琉大紛争と学園の改革


1953年5月19日朝刊 火曜日 一面
社説 琉大問題と教育の自由



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BOOKS Mangroove「琉大事件とは何だったのか」


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沖縄朝日新聞1953年

私が持っている資料のタイトル

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『沖縄朝日新聞』

琉球大学の実情を訴う① 1953年5月7日

琉球大学の実情を訴う② 1953年5月8日

琉球大学の実情を訴う③ 1953年5月9日

琉球大学の実情を訴う(完) 1953年5月10日


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BOOKS Mangroove「琉大事件とは何だったのか」


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沖縄の核Ⅰ-原子力時代の死角 - 特別連載 - 47NEWS

沖縄の核Ⅰ-原子力時代の死角 - 特別連載 - 47NEWS
http://www.47news.jp/hondana/nuclear/article/article010.html
collage010


本土復帰から40年を迎えた沖縄には1950年代から返還直前まで、米軍の核兵器が大量配備された。
冷戦が先鋭化する中、「核の傘」を求める日本政府は本土での核貯蔵を拒む一方、沖縄への核持ち込みを黙認。
歴代保守政権が本土の"核基地化"を回避しながら、沖縄への核配備を許容する二重基準を用いた結果だった。
日本に「潜在主権」を認めながら、米国の施政権下にあった沖縄。
こんな戦後体制の死角を突く格好で既成事実化した沖縄への核持ち込み。
地元関係者は今の米軍基地問題にも通じる「差別」を感じ取っている。

▼確信犯
 61年6月21日、雨のワシントン。ポトマック川に浮かぶ米大統領専用ヨットの上で、池田勇人首相がケネディ大統領にこう言明したことが、米公文書に記されている。
 「米国が安全保障上、沖縄で何を必要としているか、自分は十分に理解している。
日本に核兵器を持ち込むことには相当の反対がある。
だから、沖縄を核兵器のための基地と位置付ける米国の立場を堅持する必要性も、十分に理解している」
52年のサンフランシスコ講和条約発効に伴い日本が独立する中、沖縄については、米国が立法・行政・司法の全権を握り、自国の法令を適用する施政権を獲得。
日 60年の日米安保条約改定で、日本への「核持ち込み」は日米間の事前協議対象となったが、米施政権下の沖縄は対象外。
米軍文書によると、朝鮮戦争休戦から約1年半後の54年末から55年にかけ、沖縄への核配備が始まり、本土復帰直前まで沖縄はアジア最大の「核弾薬庫」の役割を果たした。
 被爆地を抱える広島の選出議員だった池田だが、ケネディへの発言に見られるよう、沖縄への核持ち込みについては"確信犯"だった。
 日米の公文書によると、池田はヨット会談の翌々日、ケネディに対し、米国が核実験再開に追い込まれた場合、米側の立場を「了解する」と明言。
実際に61年11月、ソ連に追随する形でケネディが核実験再開を決めた時、池田は「日本の首相という立場上、米国の核実験に公に賛同することはできないが、自分の本心としては、大統領はなすべきことをなさねばならないと信じている」と言い切っている。

▼言わぬが得策
 「核の傘」への信奉心が、経済重視で安保問題では際立った姿勢を示さなかった池田をして、核実験をめぐる対米支持と、沖縄への核配備黙認に向かわせたとみられる。
 60年代初頭、沖縄が騒然となった核巡航ミサイル「メースB」の配備をめぐっても、本土政権の対応はお粗末だった。
 61年11月4日、神奈川県箱根町。
日本の外交文書によると、池田政権の外相、小坂善太郎がラスク米国務長官にこう語った。
   「沖縄にメースなどを持ち込む際、事前に発表されるため、論議が起きている。事前に発表しないことはできないか」
 「何らかの発表を行うことは必要と思われるし、隠しおおせることはできない」とラスク。
 
 それでも小坂は「事後に判明する場合には、今更騒いでも仕方がないということで論議は割合に起きない。
事前に発表されると、なぜ止めないのかといって日本政府が責められる結果となる」と反論。潜在主権のある沖縄への核配備をめぐり、責任回避を図りたい意図がありありだった。
 沖縄のメースに関しては、なるべく何も言わないのが得策―。
マクナマラ国防長官は、こんな方針を軍部に伝達。沖縄の核を「腫れ物」とみなす日本政府の意向を忖度した結果とみられる。

▼重なる問題
 「ひきょうだ。潜在主権がある以上、日本政府は当時も沖縄の国民を守る義務があった。『メースBはやめてくれ』と言えばいい。これでは今のMV22オスプレイの問題と同じじゃないか」
 米軍普天間飛行場のある沖縄県宜野湾市で市議を8期務めた知念忠二(77)は、半世紀前の本土政府の対応に強く憤る。
米軍は今秋までに垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを同飛行場に配備する予定だ。米軍は90年代から沖縄への同機配備を内定し、日本側にも打診していたが、日本政府はそうした内実を沖縄に長年伝えていなかった。
 米軍嘉手納基地を抱える嘉手納町の町議で基地対策特別委員長の田仲康栄(67)も、当時の本土政府の対応は「今に通じる」と語気を強めた。
 「これは特別の差別だな」。
沖縄選出の元衆院議員、上原康助(79)はこう語った。
返還で本当に核が撤去されたのか、疑念は今も晴れない。
 田仲も「核の問題でも温存された差別意識があった」と口にした。
沖縄県民の苦悩や不安をよそに、「沖縄の核」に見て見ぬふりを決め込んだ返還前の本土政府。
田仲らには現在の基地問題が重なって見える。
(共同通信編集委員、太田昌克、一部敬称略、2012年06月10日、肩書きは当時)



沖縄の本土復帰
 第2次大戦後、1952年発効のサンフランシスコ講和条約で、日本の主権は回復したが、沖縄は米国の統治下に。米軍が土地を接収し基地建設を進めたため、住民らは「島ぐるみ闘争」と呼ばれる運動で抵抗した。佐藤栄作首相とニクソン米大統領は69年11月、「核抜き本土並み」の72年返還を決定、ひそかに核の有事再持ち込みを認める「沖縄核密約」を結んだ。72年5月15日、沖縄は日本に復帰した。
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 沖縄は1972年5月に本土復帰するまで、米軍の核兵器が大量に配備され、アジア最大の「核弾薬庫」だった。
 米軍解禁文書や米専門家の分析によると、アジア・太平洋地域には、ベトナム戦争のピーク時に当たる67年、約3250発の核が配備。うち沖縄には約1300発が持ち込まれ、900発台の韓国や500発台のグアムをしのいでい
た。 核爆弾や核砲弾、核ロケットなど18種類もの核兵器が沖縄に配備されたが、中でも象徴的なのが61年に搬入された核巡航ミサイル「メースB」。射程2千キロ超のメースBは中国を標的に収めており、沖縄県恩納村に残る八つの発射台跡は東シナ海の向こうにある大陸をにらんでいた。
 沖縄に核が大量搬入されたのは、ケネディ
政権が、核開発を進める中国を深刻な潜在敵国とみなしていたからだ。
 これに対し、対中貿易も推進した池田勇人政権は中国を「直接的脅威ではなく間接的脅威」(吉次公介・沖縄国際大教授)とみなしており、対中脅威認識をめぐり日米間に微妙なずれがあった

問われる当事者の姿勢/第1次琉大事件米圧力 職員会、徹底調査求める/「大学当局が見解示せ」

2008年09月17日【朝刊】 社会 

問われる当事者の姿勢/第1次琉大事件米圧力

職員会、徹底調査求める/「大学当局が見解示せ」

 一九五三年の第一次琉大事件で学生処分の背後に米側の圧力を示す米文書が見つかったことを受けて十六日、琉球大学教授は「当事者として取り組む」と決意を新たにし、識者らはこの問題への対応が「琉大、そして沖縄社会のあり方が問われている」と指摘した。
 

 琉球大学教授職員会の辻雄二教授は「(大学側は)資料が出てきたら考えるという受け身な態度ではなく、当事者として全力で取り組むべき」と語る。
 

 今月末までに、学長あてに第一次琉大事件の調査研究の徹底を求める予定だ。
 

 二〇〇七年七月に専門委員会を立ち上げた同会は、退学処分となった県内在住の当事者への聞き取り調査を始めている。「資料が出てきたことで処分を取り消し、大学が謝罪すればいいということではない。琉大が歩んでいく先に何が必要なのか学ばなければならない」と事実を検証・記録する必要性を訴える。
 

 屋嘉比収沖縄大学准教授(沖縄近現代思想史)は、同事件について「ひとつは琉大の問題であるが、沖縄社会がどう考えるかが問われている。米軍占領下で、琉大学生は先鋭的な動きを支えていた。この問題をどう考えるかは、米軍占領下をどう考えるかという大きな問題提起だ」と指摘する。
 

 沖縄戦後史が専門の大学非常勤講師、鳥山淳さんは「一九五〇年代の占領当初の資料が潤沢にない中、米国民政府や米軍諜報部隊が圧力をかけていたことを示す文書が見つかったことは驚きだ」と評価。
 

 さらに「大学当局が第一、第二琉大事件に対してどのように向き合うのかがいま問われている。大学側に残る資料を整理し、きちんと見解を示すべきだ」と語った。


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リンク切れ
http://www.okinawatimes.co.jp/news/2008-09-17-M_1-028-1_002.html 




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透ける占領者の意図/「琉大を支配の道具に」/識者、歴史問い直す必要

2008年09月16日【朝刊】 社会 

透ける占領者の意図/「琉大を支配の道具に」/識者、歴史問い直す必要

 第一次事件の時に琉球大学に在学し、第二次事件では沖縄タイムス記者として取材したジャーナリストの新川明さんは「米国民政府やミシガンミッションも絡んでいたことは想像できたが、アメリカの圧力があったことがこの資料で裏付けられた」と話す。
 

 第一次事件の元学生らの処分について「琉大当局の処分理由は(学生が守るべき規則である)『学生準則』違反だったが、その適用はあいまいだった。問題なのは、違反だったとしても、それが除籍という最も重い処分に値したのかどうか」と指摘。「米軍の圧力という第二次事件の場合と本質は全く同じ。大学当局は第二次事件の名誉を回復する時に、第一次事件の当事者も回復すべきだった」とする。
 

 それは当事者のためだけにとどまらず「沖縄を含め、日本全体が、たとえば戦後史をとっても、過去の自らの犯した歴史的な出来事に対し、批判的に振り返って、正しく受け止めようとする姿勢が弱い。琉大事件を考えることは、大学という場所がありきたりの言い方ではあるが、真理を探究する場所であり、歴史をとらえ直す場であるという意味からも必要なことだ」と意義づけた。
 

 沖縄戦後史研究者の新崎盛暉沖縄大学名誉教授は、
「この文書は、占領者の意図をもってつくられた大学のもとで、ミシガンミッションや米国民政府などの状況と、学生の状況、占領とは何かを映し出している。当時、琉大では限られた人間で会議をしていてもすぐ後にも皆知っている状態だった。その時代の琉大で後ろに(米軍関係者が)暗躍している状況が分かる」と文書を分析する。
 

 島ぐるみ闘争の中で社会的支援があった第二次琉大事件に比べ第一次琉大事件は「いわゆる沖縄の暗黒時代といわれる一つ前の時代で、時代とのかかわりが見えない状態で起こった」と強調。「米側は琉大を軍事植民地を支える中堅官僚づくりのため、本質的な支配のための道具としてつくった。しかし、知識や教育を与えると目的とは違う人間が出てくるその中で反乱者が出てくる。(植民地、占領下では)思考を持っている人間はそこでしか学ぶ場がなく、自分の手でその場を変えていこうとする」と、当時の学生たちの動きを説明する。
 

 「学生処分については琉大側が主体的に処分した。しかし、学生処分をするために(学生準則まで)つくらされたのは意識していない。だからこそ(第一次事件も)処分を撤回しないといけない」とした。

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リンク切れですが
http://www.okinawatimes.co.jp/news/2008-09-16-M_1-022-1_003.html   




 
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第一次琉大事件 米が圧力/県公文書館に派遣教授の手紙

2008年09月16日【朝刊】 政治 

第一次琉大事件 米が圧力/県公文書館に派遣教授の手紙

「軍諜報部隊が関与」/大学側、調査へ

 一九五三年に平和運動にかかわり謹慎処分を受けた学生四人が問題を学外集会で公表し退学となった「第一次琉大事件」に関し、処分の背景に当時沖縄を統治していた米国民政府(USCAR=ユースカー)や米軍諜報部隊(CIC)による圧力があったことを示す文書が見つかった。
県公文書館が所蔵する「ミシガン州立大学支援事業関係資料」の中に含まれていた。
ミシガン側代表が米国民政府に情報提供をしていたこと、「CICはかかわっていたが黒子に徹していた」などの記述があった。
識者は「アメリカの圧力があったことが裏付けられた」「占領者の意図でつくられた大学で、米関係者が背後で暗躍する状況が分かる」と指摘する。(謝花直美)
 

 文書は、ミシガン州立大派遣教授団(ミシガン・ミッション)のラッセル・ホーウッド団長が、五三年五月十三日付で同大のミルダー学部長へ送った手紙。ミシガン州立大は、米陸軍省との契約で、五一年から琉大支援のために教授陣を派遣していた。
 

 手紙は、五二年六月から琉球大学内に「危険分子的」な活動が見られたことを端緒に、五三年の「第一次琉大事件」に対する大学側の対応が、「東洋人の意思決定の難しさ」「(米国民政府が)強力な意見を述べたが、助言は役立てられなかった」「断固たる対応をとらなかった」として批判。このような琉大側の態度が「大学と大学に関わっている米国人をひどく傷付けた」と記している。
 

 その過程で、第一次琉大事件の学生が学外のメーデーで問題を訴えた時に「大学当局と米国民政府はこの四人の学生について、もっと踏み込んだ措置を取るべきだと感じました」と記述。米国民政府も問題の動向に関心をよせ重い処分を求めていたことが分かる。
 

 当時は沖縄の企業で労働争議が多発、米軍側は徹底的な反共政策をとり、メーデーを強く警戒していた。実際に琉大は教職員全員を集めた会議の後に四人の退学を発表している。

 「私(ホーウッド)は黒子に徹し、アドバイザー的な役割を果たした。そして(米国民政府民間情報教育部)ディフェンダファー氏に絶えず情報を知らせていました」と、派遣団と米国民政府が緊密に連携していたことも分かる。
 

 また「CICは、この問題にかかわっていましたが、これまで黒子に徹していました。(琉大副学長の)安里(源秀)氏、ディフェンダファー氏とCIC代表が今夜、会議を持つ予定です。ディフェンダファー氏は(今回の問題で)これからしなければならないことについて述べるつもりだと言っていました」と記述。CIC、米国民政府という米側が、琉大の対応が不十分であるという見方をしていたことが分かる。
 

 第二次琉大事件の処分を撤回した調査委員会の委員長を務めた新里里春琉球大学副学長は「あの時の理解では(大学側の第一次事件の処分は)合法であるという見解だった。そのため二次事件だけを調査対象にした。(今回のように)後から出てきた資料があるとすればあらためて事実関係を調べる必要がある」と話した。

 

[ことば]

 第一次琉大事件 1953年、原爆展、沖縄の「日本復帰」を訴える小冊子を作った学生ら4人を、琉球大学は謹慎処分にした。学生らが大学の対応について労働者の祭典「メーデー」で批判したため、大学当局は4人を退学処分に。56年に「反米的」なデモや文学活動をしたとして学生を退学・謹慎にした第二次琉大事件は、米側の圧力があったとして琉大が2007年になって処分を撤回している。


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リンク切れですが、新聞は保管してある
http://www.okinawatimes.co.jp/news/2008-09-16-M_1-001-1_001.html 



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【外交文書公開】琉大事件 苦渋の処分 安里学長、大学存続で判断

 【外交文書公開】琉大事件 苦渋の処分 安里学長、大学存続で判断 

2011年2月19日 10:01

http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-173678.html
 18日公開の外交文書で、1956年8月17日に、反米的言動を理由に琉球大学の学生が退学処分になった「第2次琉大事件」に関し、当時学長の安里源秀氏が「大学の自由と自主はあくまで獲得しかつ堅持したいと考える」と語るなど、大学の自治を追求しながらも米側の強圧的な態度に屈した心情を明かしていた。
安里氏の事件に対する心情が明らかになるのはこれが初めて。
処分から1週間以内という早い段階で、日本政府に学生の救済を求めていたことも分かった。

 文書によると安里氏の発言は56年8月23日付。
同日付で聞き取りをした高島省三・那覇日本政府南方連絡事務所長が石井通則・総理府南方連絡事務局長に報告。
同年9月12日付で中川融(とおる)・外務省アジア局長に転送されていた。
 
 安里氏は、琉大財団が援助を打ち切ると宣言したことの影響はほとんどないとしながらも「(米民政府が)大学の存廃にまで問題の考え方を飛躍せしめた」とし、退学処分は教育上の判断でなく、琉大存続のためやむを得なかったとしている。
 日本政府に対し「個人としては本土方向に何とか救いの途(みち)を求めたい」と話し、処分学生の救済に本土大学への編入学を早い段階で求めていることも分かった。
その上で「何とかして教育だけは政治的に左右されないような線にもっていけないものか」と大学自治へ協力を訴えた。
 事件に詳しい琉球大の山里勝己教授は「安里氏は生前、事件に関する個人の思いを一切語っていなかった」と文書の意義を強調。
その上で「琉大は2度、学生を謹慎処分にすると決めたが、それを覆し退学処分にしたのはバージャー民政官の意思だった。安里氏はそれを公にすると大学に迷惑が掛かるためできない。孤立無援の琉大がどこに助けを求めたか。大学人の理想が権力で踏みにじられた無念さが伝わる」と指摘した。
 琉大は事件から51年後の2007年、米側の圧力で行った学生処分は誤りだったとして7人の処分を取り消した。

<用語>第2次琉大事件
 1956年7月28日に開かれた米軍の軍用地料一括払い(プライス勧告)に反対する四原則貫徹県民大会のデモで「ヤンキーゴーホーム」などと反米的言葉を叫んだとして同年8月17日、責任者の学生ら6人が退学処分、1人が謹慎処分を受けた。
53年の第1次琉大事件では、学生が大学への届け出無しに原爆展を開催したことなどをきっかけに、4人の学生が退学処分になっている。

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   安里源秀氏



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「第2次琉大事件 歴史の影に目を向けたい」

「第2次琉大事件 歴史の影に目を向けたい」image

2007年08月18日 10:02

 1956年に反米的言動などを理由に琉球大学の学生7人が退学、謹慎処分を受けた「第2次琉大事件」で琉大当局は17日、岩政輝男学長らが記者会見し、処分の取り消しを公式に発表した。
 大学の自治を揺るがした不当な弾圧から半世紀。
忌まわしい事件に新たな光を当て、歴史の影の部分と向き合い、大学の歴史に正しく位置付ける作業が始まったことを歓迎したい。
 今年6月の発足以来、事件を再検討してきた調査委員会は、処分学生の行動について「当時の法令および大学の学則やその他の規定に照らしてもこれに違反するとは認められない」と結論付けた。権力を握る米国民政府が介入し、強硬な処分を求められた末の不当処分であったことを認めた。
 当事者らは70歳を超え、一人は亡くなった。
とりわけ退学処分の不名誉な烙印(らくいん)を押された6人にとって、事件の暗い記憶はその後の人生のさまざまな断面でつきまとったに違いない。
 再検討方針が明らかになった直後、ある一人が語った「琉大には青春のすべてがあった」との言葉が重く響く。
名誉回復の扉がようやく開かれたとはいえ、費やされた歳月はあまりにも長すぎた。
 ただ琉大当局にとっては、名誉回復措置の検討に際し、現段階では今回の対応以外の策は考えにくかったのだろう。
同窓会など関係者の声に耳を傾け、問題を放置せずに真摯(しんし)に向き合った姿勢は評価に値するのではないか。
遅きに失した印象は残るけれども「大学人の良心」といったものを感じさせる。
 米軍用地料の一括払いに反対し、島ぐるみ闘争が燃えさかる渦中で起きた琉大事件には、いまだ解明されていない部分が多い。米国に生殺与奪権を握られた中での大学の自治や運営、思想・表現の自由、民主主義の在り方、アメリカの二重基準など学問対象としても多くの要素を含んでいる。

 第1次琉大事件を含め、語り尽くされていない歴史の全容解明に向けた取り組みに期待したい。

http://ryukyushimpo.jp/editorial/prentry-26413.html







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「沖縄の心」は戦争する国を拒否

2002年6月27日㈭ (新聞社 不明)

沖縄戦は何を語りかけるか⑤
朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争…

朝鮮戦争末期の1953年の春。
那覇市内の首里城近くの琉球大学学生寮…

*文字おこし&記事スキャン、後ほど致します。

image
 
BOOKS Mangroove
「琉大事件とは何だったのか」






終わっていない過去


沖縄は

1950年に起こった朝鮮戦争で、

最前線基地になった。


トルーマン米国大統領が

朝鮮戦争の始まった直後、

記者会見で

「原爆使用もありうる」と

発言し、

広大な米軍基地を

抱える沖縄の人達は、

核戦争に巻き込まれる

危険性を身近に…


朝鮮戦争、今も休戦中





1953年(昭和28年)、

当時米軍の支配下にあった沖縄で

学生の「原爆展」開催を理由に

4人を退学処分にするなど 

若者たちの平和への叫びを

封じようとしたのが琉大事件



朝鮮戦争下で原爆展

『琉大事件とは何だったのか』

21470590 

















HP「琉大事件を考える(仮称)」
https://himawari0007.amebaownd.com/ 
 




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ひまわりの散歩道~沖縄&奄美
https://ameblo.jp/himawarimusume007
 

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